【ネタ・習作】夢の欠片   作:へきれきか

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第07話 力と志、その乖離

「――というように、これら直線表や折線を用いれば、分かりにくい漢数字の羅列を視覚的に認識することができ、その増減の理解、比較などを楽にするというわけだ。前の授業に出てきた表の発展型みたいなもんだと思ってくれていい」

 教師らしい振る舞いもなかなか堂に入ったもの。最初のときのような照れは今はもうなく、今日もいつものように教鞭を執る。といっても、場所は普段授業が行われている教室ではなく田家の屋敷の庭。天高い秋空の下での青空教室だ。この日は零細の商家や一般家庭の子息の授業が行われている。

 彼が座る庭石の向こう側には、劇場のように弧月形で椅子が並ぶ。いつも考え事する特等席から木の枝で指したそれらは、地面に書かれた様々なグラフである。

(眼鏡があるのに望遠鏡はなく、高次元の算術が存在するのにグラフが一般化してないってのは……やっぱり文明の発展のしかたが歪んでるよなぁ。

 まぁ、紙が普及してるとはいえ使い捨てるには高価だし、一般庶民には流行らなかっただけかもしれないけど)

 その予想は当たららずも遠からずであった。プレゼンにしろ何にしろ、上下関係が重要なこの世界では受け取る側が寛容でなければ新しい方法は使用されないのである。実際、直線表や折線の使用は、都でも一部の官職に採用されるにとどまっている。もちろん、陳留の曹操などの革新派はこの限りではないが。

「例では人口の推移についてやってみたけど、他のものでも使える。そうだな……月毎の犯罪の件数であるとか、毎年の収穫量を表すとか。折線はこの例のように横軸に時間を取って、時間の経過にしたがって変化する数値の様子を表すのに用いることが多いかな」

「あの……」

 話しのキリがいいとみた生徒が手を挙げる。

「なんだい?」

「はい。あの……確かに先生の仰るとおり、これらの方法は画期的で、使えば分かりやすくなるとは思います。しかし、無いと分からないというわけではないですし、実際に作るとなると紙や竹簡の消費や作成の苦労も――」

 田算塾頭は生徒の言わんとする事を理解し、やんわりとそれを制止。用意していた説明に入っていった。

「その意見はもっともだけど……違うんだ。こいつらは人に見せるためのものなんだよ」

「人に見せる、ですか?」

「うん。例えば」

 庭石から降りて、木の枝で地面に書きこんでいく。それを椅子から立ち上がって覗きこむのは生徒達。青空教室ならではの光景である。

「うーん。相変わらず字書くの上手くないね、先生」

「ほっとけ。筆で書いてない分いつもよりはマシだろ?」

(全くもって余計なお世話であるが……)

 見てみると、確かに贔屓目で見ても綺麗な字とは言えない。算術についてはともかく、字の美しさで勝負するなら田伯鉄はこの子どもにも負けるに違いない。

 

『兄さん……いつから字を習い始めたんですか?』

 

 ここの言葉を勉強し始めたとき、妹に練習で書いた文章を見られて笑われたのが思い出される。

(習字をしてたわけでもないし、筆なんか滅多に持たないんだからしょうがないだろう。馬術だけじゃなくてお習字も見てもらうべきかね)

「おい失礼だぞ。確かに先生のお書きになる字は個性的ではあるが……」

 可憐な同居人を思い浮かべていると、別の生徒がフォローを入れる。丁寧な言い方をしているが、その顔はにやけていた。

「……上手く言い繕ってくれてるつもりかもしれないけど、全然出来てないからな?」

 不満気な顔で一瞥するが、その表情が作りものだと分かっている彼らは茶化すのをやめない。

「まぁまぁ、先生には他に素晴らしい才能がお有りなんですから」

「そうですよ、素晴らしい算術が……って、ああ、そうか! 先生、算術の方に才能全部持ってかれちゃったんじゃないですか?」

「はははっ、違いない」

「……お前ら師匠に対して言いたい放題だな」

 いつもの様に、辺りを笑い声が包む。

 そういう大和自身、生徒達との掛け合いを楽しんでいるんだから言ってくところもない。

 賈文和には「とても師弟関係とは思えない」と呆れられてしまったが、彼としては下手に尊敬されすぎて距離を置かれるよりはこの方がやりやすいのである。それは単に精神衛生上の問題が理由というわけではない。

 そも、田伯鉄の算術は完成途上――もとい勉強途中。畏まって言うことを聞いてくれるより、遠慮無く疑問を投げかけてくれたり、間違っている点を指摘してくれる気やすい関係の方がありがたいのだ(だからといって差し入れにエロ本を持って来たりされるのは困るが)。

 大体「田伯鉄の算術」といっても、独自性はほとんどない。基本はこの世界の算術である。元の世界の要素をプラスしたところも少しはあるので、多少のオリジナリティーは出ているのかもしれないが、それにしたって大和一人の力で作ってきたわけではない。すべては妹・田豊やここにいる生徒達の協力があってこそ。

 特に数学を用いた様々な手法をこの世界の実情にすり合わせる作業は、彼らなしには仕上がらなかっただろう。

 

 元の世界の数学と、この世界の算術の違い。

 彼もその点には十分注意しつつ元の世界の要素を足したつもりだったが、所詮は机上の空論。どんなに仮定を重ねても、この世界で生まれ育ち、働いたりしている人々の実体験に基づく判断には敵わない。

 いざ教えてみたら「画期的だけど実用的でない」「理論的には正しいが運用となると別」などというものがほとんどであった。

 最近の中で認められたのは"アラビア数字置換え"と"ひっ算"のみ。

 それですら「新しく覚えるのは面倒だし、公文書に使えない」「紙がもったいないので概念のみ修得して暗算に使用。しかし、算盤を習熟すれば頭のなかで珠が動くようになるので最終的には不要」というダメ出しの上で、という有様だ。実のところ算術よりも他の知識の方でありがたがられることが多い。

 おかげで生徒達からは、専門家にありがちな『才能はあるが、どこか現実と乖離した考えをもつ変人。算盤も遅いし』という有難くない人物評を頂いている。彼らは自分達の教師が「実は別の世界から来た人間」であるなどという事情を知るはずもないのだからこれは仕方ない面もあるが。

 

「よし、これで終わりっと。みんな見えるかな?」

「はい」

「問題ありません」

 書き上げた文字列に目を落とすと、そこには見慣れた自分の文字。

(しかし、そんなに下手かな? ……やはり一度相談してみよう)

「いいかい? これらはある都市における一年間の月毎の犯罪及び事故の件数、その種類の内訳についての情報だとする。こんなふうに数字だけだと、理解できるといっても傾向を読み取るのも面倒だろう?」

「……うーむ、たしかに」

「ええ。実際はこうやって数字を出すだけでも一苦労です。いちいち資料から引っ張ってこないといけませんから」

 役人を親に持つ生徒が答える。

「そこでさっきのやつの登場だ。まず、月毎の犯罪及び事故件数を直線表にしてみよう」

 木の枝で直線表――棒グラフを書いていき、

「ん……件数の方はコレでいいかな。続いて内訳。こっちは折線で別に作ってみる」

 直線表の横に、今度は折れ線グラフを作っていく。

「っと、こんなもんかな。……さて、この都市の施政者は夏場に犯罪抑制のために法令を整えるなど、治安向上のための努力を行なっていたとする。実際は法令を整えたり、取締を強化したせいで検挙数が増えて見た目の犯罪件数は倍増……なんてこともあり得るけど……。

 まぁ、今回は仮定の話だから難しく考えなくていいよ。実務経験がないから実情と違う点があっても目をつぶってくれるとありがたい。それらを踏まえた上で、この街の現状からの更なる治安向上、発展の為に進言するといえばそれは何だと思う?」

 一斉に挙手する生徒達。

 大和はその中の一人をあてて、答えさせた。

「直線表からも読み取れるように夏以降は犯罪は概ね減少傾向にありますから、法令等の対策は効果があったと見ていいでしょう。しかし、馬車の事故に関しては減っていません。数も多いように感じます。規制か道の整備か、何かしら対策を講じるべきです」

「馬車……なるほど、たしかにアレは危ないからな」

「先生は身をもって経験されてますもんね」

 再び笑い声が秋空に響く。

「笑い事じゃなくて本当に痛いからな。ウソだと思ったら轢かれてみるといい」

 思い出すだけで左腕に痛みが走る、気がする。記憶がないので本人には今ひとつ現実味がないのだが。

「さて、他にあるかい?」

「はい。私が注目したのは冬場です。やはり他の月よりも火事やぼや騒ぎが多いです。これにも対策が必要だと思います。

 それと減少傾向にあった犯罪が、前月比で若干ですが増えているのも気になる点です。特に物盗りの増加が目につきます。この街がどこにあるのかはわからないので断言できませんが、生活に困った人間が冬の寒さにたまりかねて犯罪を犯しているのではないでしょうか? 一時的な雇用を作るのが難しいのであれば、警邏の強化、住民への注意喚起等、出来る範囲で対応するのがよいかと」

「うん。二人ともありがとう。仮定の街の話とはいえ、どちらも理にかなった進言だと思う。書面で進言するときもこの直線表と折線に、さっきの言葉を付け足せばそれで十分だろう。

 では二人の進言を聞いた上で、なぜ俺が“人に見せるためのもの”と言ったのか、直線表と折線の利点は何なのか、考えてみてくれないか?」

「あ、そうかっ」

 大和が声のした方を見ると、生徒の一人が慌てた様子で口を押さえるのが見えた。

 どうやら先生に花を持たせてくれるらしい。

(ったく、字が下手くそだとかは容赦なく言ってくるくせに)

 その気遣いに心の中で苦笑して、

「答えを言うぞ? まず一つ目。直線表と折線を作成する過程で情報に対する自分の理解が深まる点だ。これは最初の方で説明したし、練習で作ったときにも感じただろう?」

 生徒達が首肯するのを見て、

「続いて二つ目。数字の羅列よりも遙かにわかりやすい点」

 直線表と折線を木の枝で指しながら続ける。

「なにしろ各数値、その増減、傾向……全てが直感的に、見てわかるように表されているからね。意味さえ分かっていれば初見の資料であってもすぐにそれらを理解出来る。

 ここ、洛陽では大司農のお役人さまとかが好んで使ってる手法だ。つまり――」

 

 ふと、生徒達の様子の変化に気づく。

 先ほどのふざけた態度は何処へやら。

 輝く瞳からは貪欲に知識を吸収しようという熱意が伝わってくる。

(どうやら今回のは久々の『当たり』っぽいな)

 大和は自然と頬が緩むのを感じた。

 やはり苦労して教えたことが認められるというのは気持ちがいい。

 

『あんたにとっても、ボクらにとっても利がある。悪い話じゃないでしょ?』

 

『私には変えることが出来ませんでした』

 

『先生の算術と新技術を使って天下を変えてみせますよ』

 

「…………」

「先生?」

「あ、あぁ、すまない。ぼーっとしてた。続けよう」

(考え事は後だ。今はこっちに集中しなくちゃ)

 賈文和の話。老使用人、そして目の前の生徒達の夢。そして一向に進まない帰還方法の調査。

 頭の中でグルグルと渦を巻くそれらを無理やり燃やすかのように、授業はその熱を増していく。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 田伯鉄が庭で授業をしているそのとき、客人・董仲穎は屋敷の一室で執筆活動に勤しんでいた。

「……ふぅ。これでここまでは終わったかな……」

 筆を置き、自分の書いたものと元になった本を見比べる。

「うん、間違いは……ない、よね」

(次でこの章は終わり。できたら伯鉄さんに見せに行かないと)

 大袈裟に喜ぶ男。

 容易に想像できるその様子に月は笑ってしまう。

 もともと世話になる以上、何かしらの手伝いをするつもりでいたのだ。太守を“働かせる”ことには、当の田兄妹の二人だけでなく、一緒に厄介になっている護衛の人間も反対したのだが、彼女は頑として引かなかった。

 無理を頼んでしまっている以上、そこは譲れない。

 西平太守という身分を隠すのだから、何かしらここの仕事をしていた方が怪しまれないという一見正論じみた理由で押し通してしまった(もっとも、働きたいというのも無理を頼んでしまってる気がしなくもないけれど……)。

 

『では……そうですね。実は九章算術を元に、授業で使う教科書を出版しようと思ってるんです。今、手元にあるのは専門向けで難しすぎるので……。

 ところが執筆にかける時間がなかなか作れなくて進んでないんです。その作成に力をお貸しいただけますか?』

 

 それでも仕事をさせるのを渋る田伯鉄に何度も頼み込んだところ、ようやく与えてもらえたのがこの教科書執筆の助手。ものを書いたりするのは普段の生活でも多くこなしているので快く引き受けた。

 本を作るという作業は今まで経験したことが無かったが、その本を沢山の人が読むのだと考えると自然と気合が入ってくるというもの。それに教えてもらった算術の復習にもなる。

「うん、もう少しがんばろう」

 再び机に目を落とし、本の余白や挟まれた紙に無造作に書き込まれている注釈を読み取っていく。これを順序立てて、仮原稿として分かりやすい表現に直していくのだ。が、しかし、順調に進んできた作業は最後のところで止まってしまった。

 

(これは何て読むんだろう)

 

『恥ずかしいんですが字が下手くそでして……ちょっと見にくいかもしれませんが……』

『いえ、大丈夫ですよ。任せて下さい』

 その道の専門家と呼ばれる人は他のことがおろそかになることが多いと聞いたことがある。

(ひょっとすると伯鉄さんもそういう人なのかも)

 確かに書いてある字はかなり個性的なもので、文法的な間違いも何箇所か存在した。けれど、それでも彼が書いたもので“読めない”というものは無い。

「でも、これは……」

 目を落とす先は田伯鉄から借りた九章算術。

 漢字とよくわからない文字らしきものでできた謎の文章と、記号の羅列がそこにあった。

 

(どういう意味なんだろう……暗号? でも知識を独り占めする人じゃ……ちょっと聞いてみないと分からないかな)

 

 九章算術を手に椅子から立ち上がり窓の外を見やると、そこから見えるのは算術の教室。昼前の授業が終わるまでは、まだ少し時間がある。

 何気なしに手にしたそれをパラパラとめくると、毎日の使用でかなり傷んでいるその本には書き込みがないところはほとんどなく、適切ではないとして訂正の紙が挟まれている箇所も多い。

 すごく熱心な人というのが月の田伯鉄に対する評価であった。

 一緒に住むようになってからは毎日のように田伯鉄の様子を見ているが、授業以外はいつも庭石か自分の部屋で算術書を広げている。

『授業では偉そうに教えてますけど、結構ダメ出しされることも多いんですよ』

 恥ずかしげに笑いながら算術教師は言う。

 間違いなくこの国でかなり高い算術の実力を持っているのに、欠片も誇りに思っていないようで、その成果も喜んで人に教授している。親友のこともあるのでどんな人なのか気になってよく見るようにはしているが、かなり変わった人間なのではないだろうか。

 

 田伯鉄

 

 侍御史田元皓の兄にして、『百式先生』とも呼ばれる算術家。

 そして月にとっては『親友が気にしている男の人』でもある。

 出会いは偶然であった。

 最初は侍御史田元皓のもとに兄と偽って転がり込んだのかもしれない不審者として。

 今思い返すとそれはとんだ見当違いだったと月は思う。

 どこか抜けている兄としっかりものの妹。田家の屋敷でお世話になってあらためて知ることになったが、二人はどう見ても本当の兄妹である。過日の別れ際に感じたものは間違いではなかった。

(伯鉄さんはもちろん、元皓さんにも失礼なことしちゃったな……)

 その件については二度目に会ったあの日に謝罪したのだが、ともに笑って済まされてしまっている。

(一方的に疑っちゃったのに……優しいというかお人好しというか)

 

『月は人のこと言えないわよ……』

 

(そ、そんなことない……と思うけど……)

 ともかく、彼女が田家に世話になってから今日で五日目になるが、屋敷の主・田元皓と少し変わった兄・田伯鉄もとい河北大和の気配りのおかげもあり、屋敷での生活はかなり快適なものとなっていた。

 西平に帰還していることになっているため、さすがに屋敷の外へ出て行くことはできない。けれど、『太白』の偽名と『以前、放浪中にお世話になった家の娘』という嘘を用意したおかげもあり、敷地内は自由に歩き回れるようになったのだ。

 部屋に軟禁状態だった最初の頃に比べると、出来ることも格段に多い。仕事を手伝いたいと申し出るのも、彼女の真面目な性格からすれば仕方のないことであった。

 西平の宮城と比べれば色々と不便はあるが、ずっと太守の娘、そして太守として過ごしてきた月にとって、身分を隠しての生活は毎日が新鮮な驚きに満ちていて楽しい。田家での生活は太守としてのそれとは違った意味で充実している。

 けれど。

 窓の向こう。少し上へと目線を移せば、親友が奮闘しているであろう洛陽の宮城。

 月は彼女の事を思うと罪悪感や後ろめたさが湧いてくるのを感じた。「自分のために必死に頑張ってくれているのに……」というのが半分。もう半分は――、

(一緒にいれるんだもん。本当は替わってあげたい)

 詠はそのふざけた誤解について「興味があるのは算術とその発想力」と否定している。しかし、肝心な部分(利用価値)を語らずにいたことから、より一層誤解が進むという悪循環に陥っていた。心配、反対されないようにという思いが、効果は同じでも全く別の方向で働いている。彼女にとっては頭が痛くなる事態であった。

(照れなくてもいいのに。でも……)

 確かに親友の言うように、田伯鉄の発想には惹かれるものがある。月もそこは認めていた。

 変人『百式先生』の考え方及び行動は、二人にとって異質なものだった。商人への算術教授はその代表例である。

「支配される側の人間である民衆に知恵をつけさせるのは下策」

 これは賈文和の持論というより、施政者にとって当たり前とされてきた常識であった。統治がしにくくなるし、教育に使った資金が回収される保障もない。

 しかし、田伯鉄はその常識に穴を開けた。

 彼は商人たちに授業を行い、授業料をとっている。つまり知識で商売をしているのだ。もちろん日頃から算術に親しんでいる彼らを生徒にするなど、他と一線を画した知識を持つ人間だからこそ可能な荒業ではあるが。

 そして何より注目すべきはその効果(望んでそうしたのかは一考の余地があると賈文和は考えている)であった。それは洛陽案内において既に十二分に見せつけられている。

 二人は田兄妹に連れられて都の各所をまわったが、一番人と活気に満ちていたのは結局のところ田家の屋敷からほど近い商業区域。即ち、私塾の生徒達の縄張りであった。店の看板、商品、接客、お客の情報の管理。教えているのが実は算術だけではないことも、授業を見学して知っている。

 制度や枠組みを整えるのではなく、市井そのものに直接働きかけ、活性化する。

 その手法は新しい可能性が感じられた。

 

『伯鉄の知識とやり方を応用すれば、西平もきっと豊かになるわ』

 

 月はその考えには同意しながらも、しかし、親友が彼にこだわる理由はどうもそれだけではなさそうだというところまで察していた。それはある意味では正しいのだが、しかし、決定的に間違ってもいた。

(あんなふうに冗談を言い合ったり、素のままで話せてる男の人は今までいなかったし……。そうだ。今度、伯鉄さんに詠ちゃんの魅力を教えてあげよう。

 趣味とか……女の人の好みを聞くのもいいかも……)

 本人が聞いていたら頭を抱えそうな内容である。

 と、窓から聞こえてくる笑い声に、月は考え事を中断させられた。

(授業……終わったのかな?)

 

……

………

 

 教室となっている離れは与えられた部屋からも近く、迷うことはない。本邸と渡り廊下で繋がった小さめの建物。ここで高度な算術が教えられているなど誰が考えるだろう。

 しかし、そこには予想に反して彼の姿はなく、使用人の人たちが掃除をしているところであった。

「外で……ですか」

 算術の授業を? と、不思議に思うも一瞬。すぐにその理由に思い当たる。

(あっ、もしかして九章算術を私が借りちゃってるから)

「はい。今日は思索石の方で授業されてるはずですよ」

「しさくいし?」

「あっ、申し訳ございません。庭石のことでございます。門人の方々がそう呼ぶものでつい……」

「いいえ、気にしないでください。こちらこそお仕事を止めてしまって……。では、お庭へ伺いますね」

 一礼し立ち去ろうとする彼女に、後ろからかけられるのは別の声。

「お待ち下さい太白様。授業はもうすぐ終わりますが、質問などでまだまだ時間がかかるかと思います。書斎へご案内いたしますのでそちらでお待ち下さい。主には伝えておきますので」

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「お爺さんは元皓さんたちに仕えるようになって長いんですか?」

 月は横を歩く老人に問いかける。

 屋敷で最年長だろう彼は使用人のまとめ役であり、田兄妹からの信も厚い。

『ここで何かお困りのことがありましたら彼にお言いつけください』とのこと。

初日に紹介されたから顔は知っているものの、こうして言葉を交わすのは初めてだった。

「いえ。元皓様が洛陽においでになってからですので、最古参ではありますがそれほど長くはございません。ただ、若い頃に田家の当主様とは懇意にさせていただいておりました。そのことがご縁でお仕えしております」

 老使用人はかつてを思い出したかのように微笑みながら答える。

「では、伯鉄さんとも……」

「はい。私がお世話になったのは随分と昔のことですから……伯鉄様とお会いしたのも元皓様と共に長安からお戻りになったときが初めてでございます。

 ただ、御父君より才学非凡のご子息のお話はかねがね耳にしておりました。……こちらでございます」

 目の前には華美な装飾もない、特徴といえばただ大きいだけの扉。

 裏庭の近くという場所を考えても、書斎というより倉庫のそれを思わせる。

「では、どうぞ中へ」

 そう言って老人は戸に手をかけた。使用人にしてはいささか品のある所作。果たして開かれた扉の先には、

「……わぁ」

 想像以上の光景が広がっていた。

 まず、右側に列を作って並んでいる本棚が、その存在を主張する。宮城の書庫や、洛陽案内で回った本屋には及ばないが、個人所蔵と考えると十分すぎる量がある。

(読書が好きって言ってたから元皓さんが集めたのかな)

 会食での会話を思い出しつつ視線を巡らせると、反対側には陽の光を浴びる机が一つ。それ自体は簡素なものなのだが、上には竹簡や本が山積みに、その周りには木で出来た妙な細工や傘らしきもの等、何に使うかよく分からないものが無造作に転がっているのが目を引く。窓際には棚があり、こちらの上にも何やら置いてあるのが見えた。

「椅子は机の横にもう一脚ございます。蔵書は主に元皓様のものですが、許可はいただいておりますのでどうぞご自由にお読みになって下さい」

「あ、はいっ。ありがとうございます」

「では、私はこれで……。何かありましたら、いつでもお言いつけ下さい」

 恭しく礼をすると、部屋を辞してしまう。

(どうしよう……)

 書斎に案内されたはいいものの、一人残された月は妙に落ち着かない気持ちになっていた。主不在の他人の部屋に入るという経験など滅多にないし、しかもその主――この部屋を普段使っているのが異性というのだからなおさらである。

(ほ、本でも読もう)

 “彼”の領域とは反対にある本棚へと足を運ぶのは自然の流れであった。

 天井まで届こうかという本棚。

 そこへ収められた夥しい数の竹簡や書籍は、清廉の士田元皓の人柄を表しているかのようであった。詩経・礼記・楽経・春秋・論語など、とにかく教養書が多い。他には戦国策や六韜、孫子などの所謂兵法書の写本もあるが、部分的にしか無いところを見るとあまり興味はないか、ひょっとすると彼の持ち物なのかもしれない。

 それらはきちんと分類されており、本棚の端には目録代わりの木札がかけてある。ごっそり抜けている部分には裏庭で虫干しされていたものが入るのだろう。きちんと手入れされているので、どれも保存状態がいい。

 けれど……よく言えば趣味が合うということだけれど、残念なことにそれらはどれも一度読んだことがあるものばかりだった。

 チラと反対側にある例の机の方を見る。あそこにも、本はある。

(あるんだけど……)

 手当たり次第に物色するつもりはもちろんないが、なんだか悪いことをするようで気が引けてしまうのだ。しかし、田伯鉄がどんなものを読んでいるのかには興味があるのも事実。少しの逡巡の後、西平太守は意を決した。

(……本を見るだけだから大丈夫だよね)

 心の中でそう誰かに言い訳をして、机へと近づいていく。

 それは持ち主の背丈に合わせてあるらしく、自分が西平で使っているものよりも大きめだった。椅子の目の前に置かれた平べったい箱には砂が入れられ、九章算術にも書き込みのあった謎の記号や図形が描かれている。やはり算術の研究に使うもので間違いないらしい。

 側には高く積み上げられた書物に、広げたままにされている竹簡。とても整頓されているとはいえないその様子は、普段の兄妹のやりとりを想像させる。

(きっと、いつもの調子で怒られてるんだろうな)

 持ってきたものは椅子の上に置き、何度か見かけたことがあるその光景を浮かべつつ竹簡に目を落とす。

「えっ?」

 少し読んですぐに意表を突かれた。

 

“夫に裏切られた妻が、夫を祟り殺す”

 

 予想していた算術書でなければ、教養書でも兵法書でもない。そのおどろおどろしい内容は怪談と呼ばれるものであった。

(もしかしてこれ全部が……?)

 山積みになった書物を一つ一つ見ていくが、同じように怪談であったり、世の中の変わった出来事のまとめであったり、どれもこれもそういう類のものばかり。論理を重視する算術の世界とは正反対の分野である。意外な趣味に月は驚きを感じた。

(……こういうお話が好きなのかな? でも……うーん)

 趣味が分かったのはいいが、問題はその趣味が親友と合わなそうだということ。

 彼女はこの手の話を信じない。

「せっかく伯鉄さんの趣味が分かったのに……」

 しかし、そこは大切な親友のため。簡単にあきらめないのが董仲穎という人物であった。

 山を構成していた書物を流し読みしながら、照れ屋な親友との仲を取り持とうと尚も色々考える。

(……詠ちゃんの“あの日”のことならどうだろう……。こういう不思議な話が好きなら………あれ?)

 手にしたそれが書物の山の最後の一冊だと気づく。

(算術書はないのかな?)

 本棚の目録にはなかったので、こちらに置いてあるものとばかり思っていたのだけれど、今のところ一冊も見ていない。これだけの本があるにも関わらずだ。

(算術の先生なのに? 九章算術を主に使ってるって聞いてるけど、さすがに一冊じゃ……。けど、伯鉄さんが他の算術書を読んでるところは見たことがないし……)

 机の上をもう一度見渡す。

 すると、最初に広げられていた竹簡の下に一冊の本があるのが見えた。

「こんなとこに……」

 裏返しになったその本を開く。

 それは今まで見たことのない内容だった。

「……これって」

 

『男は下卑た笑みを浮かべ、そのたわわに実った二つの――』

 

「……っ!!」

 すぐにそれを閉じ、両手で机へ押し付けるようにして隠す。

 月は身体中の血が顔に上がってくるのを感じた。心臓の音がやけにうるさい。まるで外へ聞こえてしまっているかのような錯覚に陥る。

 

(お、落ち着こう)

 

「すぅ~……ふぅ……」

 そのままの姿勢で一度大きく深呼吸。

「…………」

 部屋に自分しかいないことを確認して、指の間から恐る恐る題名を見る。

 

 歓乳好奮編~おっぱい好きたちの歓びの歌~

 

「へ、へぅ……」

 男女が絡みあうというあまりにも刺激的な内容に、読むのも恥ずかしい表題。これが春本というものなのだろうか?

(は、伯鉄さんはこの本を読んで……?)

 考えると頭がくらくらしてくる。

(お、男の人だから……こういう本を持っててもしょうがないよね……うん、しょうがないよ。だだって、ぜんぜん普通のことだもん……!)

 実際のところ、それが普通かどうなのかは全く分からない。けれどこれ以上深く考えてしまったら、今後彼の顔をまともに見れそうにないのである。とにかく無理矢理に自分を納得させ、そっと元あった場所へ本を戻す。

(……見なかったことにしちゃおう)

 お互いのためにもその方がいい。

 西平太守はその聡明さをもって強引に結論づけた。

(そ、そうだ。注釈書の序文をどうするのかも聞かなきゃ。やっぱりそこは伯鉄さん自身に書いてもらって……)

「…………」

 けれども、やはり気になるものは気になる。

 

(伯鉄さんは……その……む、胸の大きな女の人が好きなのかな……? 詠ちゃんは……。でも……)

 

 秋も深まる昼下がり。西平太守の思考は迷走していく。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「ん。やっぱりここが落ち着くな」

 庭石に座り夜空を見上げると、そこには満天の星々。中秋の名月は曇りで見ることは出来なかったが、地上が明るすぎる世界から来た大和からすれば、この世界は毎日が天体ショーである。就寝前にここで星を眺めるのは最早欠かすことの出来ない日課だ。

(星座を知っていればもっと面白いんだろうけど……)

 輝きの並びを見るに、星の配置は確かに夏とは違うような気がする。が、役に立たないと決めつけて覚えなかったのは自分自身なのだからしょうがない。

「…………」

(どうにも気分が上がらないな)

 大和は深くため息をついた。

 授業などでは気を張っているため意識することはないが、こうして一人になると……。どうやら相当参っているらしい。

 

『多分あんたも国に仕官することになるわよ?』

 

「仕官……か」

 無人の庭で一人つぶやく。

 一度は国に仕官しようとした身である。かつての彼なら、もっと前向きに検討しただろう。けれど今そうしたいのかと聞かれれば……。原因はなんとなくではあるが、分かっている。

 この世界は確かにおかしい。

 三国志の登場人物が女の子でその髪の色が緑だったり、オーバーテクノロジーが散乱していたりする。言ってしまえば、まるで作り物のようである。

(けど、その中で足が地についていないのは俺だけだ)

 妹は正義とより善い国のために、賈文和は親友のために、生徒達はその野望のために。商魂たくましい洛陽の商人達もそうだろう。

 

 誰も彼もが燃えている。

 

 それに対して河北大和には、何もない。

 算術家・百式、伯鉄先生などと呼ばれてはいるが、実際はなけなしの知識を加工し、切り売りしているにすぎない。以前、賈文和が彼に言ったことは当たっていた。

 今なら、嫌いだったはずの勉強に熱心に打ち込んでいる理由も理解できる気がした。

 何もないからなのだ、本当に。

 自分が何者でどういう人間なのか。

 約二十年生きてきた中でそんなことはほとんど意識もしていなかった。だが、いざ河北大和というラベルを取られてみると、それが不安で仕方がない。だからこそ、人に認められようと――田伯鉄としての“自分”を確立しようと足掻いて――。

(おいおい)

 もし、そうだとすれば最初から勝負になっていない。それ以前の問題である。

 ため息混じりの乾いた笑いが力なく洩れた。

(現実感がない、物語の人物なのは自分の方じゃないか)

 目線を落としつつ、自嘲気味に口を歪める。

 帰る方法が全く分からない以上は、ここで生きていかなければならない。それは大和も理解している。元の世界に未練はあるが、“そういう覚悟”も少しずつしてきたつもりであった。

 けれど、もやが晴れない。

 田伯鉄には立派な思想も目的も存在しないからだろうか?

 もちろん、「自分の教えた算術や知識が世の中を良くしてくれれば……」という思いはあるが、彼女らのそれとは根本的に違う気がする。

「……もう、ぐちゃぐちゃだ」

 思考がまとまらない感覚が、ただただ不快だった。

 そんな中でも言えることが一つ。それは「どう転ぶにしろ、この先こんな中途半端な気持ちでいるのは不味い」ということである。

 異物である彼が行動を起こすことは、この世界に対する介入に他ならない。

 すでに引き返せないところまで来てしまっている。

 

『男性文官に対する偏見を無くすこと。伯鉄様の算術があれば、それが可能なのですよ』

 

 あのとき聞いた老使用人の声を、大和は思い出した。

 

 一部の女性が優れた能力・資質を持つ特殊な女尊男卑社会。

 妹や生徒達から詳しく話を聞くまで、彼はこれがどういうことなのかを本当の意味で理解できていなかった。

 それは田伯鉄が市井に暮らしていたから。

 街では女尊男卑など影も形も見当たらない。

「なあ、かあちゃん」

「なんだい? とうちゃん」

 これが通用する普通の関係がまかり通っている。

 しかし、学を必要とする世界においてはそうはいかない。“一部の”という点が、様々な歪みをもたらしてしまっている。

 

 優れた能力・資質を付与されるのは、歴史的に見て活躍した人物の名を持つ女性である。

 

 これは大和が実際に出会った人々や、聞いた話を総合して導き出した一つの答えであった。田元皓、賈文和、董仲穎。いずれもずば抜けた知力やカリスマを誇っている。武の方面なら、先の討伐軍で活躍した華将軍や、張将軍、呂将軍だろう。西平太守・董仲穎から聞かされた話によると、三人とも凄まじい武勇の持ち主らしい。

 後の時代(正確にはこことは繋がってないが)から来た大和からすれば、彼女たちの活躍はある意味当然ともいえる。全員三国志の英雄の名を持つ女の子だからである。

 けれど、この世界を現在進行形で生きている人達には、それは分からない。

 なら「自分の娘も……」と期待してしまうのは仕方がないことだろう。純粋な力である「武」と違って、文官としての才能はその有無が分かりにくいこともある。女子と男子。どちらの教育に力を入れるかは明白であった。

 

 もちろんそれだけではない。

 文官における差別偏見には、男が武官で活躍することに対する反動という面もある。

 優れた能力を持つのは一部のみであるから、腕力、体力の関係上、軍を構成するのは男が主体になるのは致し方ない。が、『天賦の才が発現するのが女性のみである以上、女性は男性よりも優れている』とする――保守派と呼ばれる人々にとって、それは受け入れがたい現実であった。

 トップに座るのが華将軍のように女性であることが多いことも相まって、『男は知で女に劣り、武官としても女に使われる存在』というような差別意識が一部で醸成されているらしい。

 

 偏見は時とともに徐々に強まっていく。

 教育の段階で差別されているので、優秀な人材はなかなか出てこない。優秀な人材がいないということは、やはり男は……。まさに負のスパイラル。

 一番の問題は、この状況に何の疑問も抱いていない、問題意識があっても動かない人間が大半だということである。長い時間をかけて出来てきたものだけに、根が深い。

 大和が興味深いと思ったのは、地方においてはこれらの考え方が廃れつつあるという点であった。それもそのはず。この世界の漢王朝の支配力は極めて弱い。馬術訓練時に賈文和が彼に語った通り、王朝の実質支配地域は司隷のみ。帝国とは名ばかりの連合国家状態なのだ。乱世に片足を突っ込んだこの国で重要になってくるのは生産力と軍事力。女尊男卑社会など現実的でないのは明らかだろう。

 しかし、事実が常に真実となるとは限らない。この場合もそうであった。地方と違って差別意識が根強い都においては、男はどんなに頑張っても中下級の役人止まり。最初から高い地位に就いた家に生まれ、かつ姉妹がいないという幸運でもない限り、上へはいけない。

 それでも上を目指すのであれば、例外である皇族に生まれるか大将軍のように外戚としてのし上がるか、もしくは……。

 

 宦官になって出世していくしかない。

 

 男が実力で出世するためには、まず、男であることを捨てなければならない。なんという悲劇だろうか。

 田算塾の生徒達は、秘匿状態にある高度な算術を男が修得することで、この状況を変えると息を巻いている。優れた算術の技能を世に見せつけ、男が生まれながらにして劣っているのではなく、教育状況に問題があると証明するのだと。

 

『ボク達はついた側との関係強化ができる。まぁ、他の効果も期待してるけど……。もちろん、あんたも私塾も絶対に悪いようにはしないわ』

 

 そこで協力しようというのが、賈文和の提案であった。彼女達は大将軍と十常侍の板挟み。非常に不安定な立場にいる。どちらにつくか決めた後での手土産が「男の算術家」というわけである。

(幸運にもこの都の二大勢力の長はどちらも「男」。彼女の言うように勝算は十分にある……のかな)

 行動することを選びながらもぐだぐだと思い悩む自分に、大和は苛立ちに似たものを感じる。あれ以来――特に算術や私塾の話になると、どことなくぎくしゃくしてしまっている妹との関係にも関わっているのだから、これは当然であった。

 あのときの妹の様子の変化。

 女尊男卑という都の現状、男の算術家、高等算術という特殊技能。

(もしかしてあの子はこうなることを――)

 背後で音がする。

 噂をすれば妹だろうか?

「あ……やっぱりこちらだったんですね」

「太白さん?」

 意外な声に振り向くと、月明かりに佇んでいたのは客人にして馬術の師、董仲穎であった。

 官服ではなく質素な平服(都で買ったものだろう)を着ているが、やはり可愛い娘は何を着ても似合うということだろう。

「こんばんは、伯鉄さん。……少しご一緒してもいいですか?」

 少し首を傾けて聞いてくる。

「ええ、もちろん」

 魔法でも使ってるんじゃないか? などと馬鹿げたことを考える。実際、彼女の頼みごとを「ダメです」と突っぱねられる人間に、彼は今のところ心当たりがない。

「ちょっと待って下さい。石は……冷えるのでダメですね」

「上も羽織ってますから大丈夫です。西平はもっと冷えるんですよ」

 どうしようかと迷っていると、そう言って大和に微笑む。そこに昼間のぎこちなさは感じられない。

(結局あれは何だったんだろうか)

 そんな大和の思いを知ってか知らずか、西平太守は隣に腰掛けながら、

「いつもここに座って星を見てるんですか?」

「ええ。日課みたいなものです」

「伯鉄さんは星が好き……と」

「はい?」

「いえっ、なんでも。あっ、それで私の名前も太白なんですね」

「え、ええ、そうです」

 さすがに「西平太守の“太”と、貴女の孫娘の董白の“白”から作りました」と言うほど馬鹿ではない。

(流れからいくと、太白ってのは星の名前かなんかだろうか? そうだ。星座を覚えてなくても、この世界で星について学ぶって方法があったじゃないか。今度、菊音に聞いてみよう。話のキッカケにもなるし)

 空に目を戻しながらそんな事を考えていると、横からクスリと笑い声。

「あの、私何かやらかしましたか?」

「いえ、ちょっと思い出しちゃって……思索石って、よばれてるんですよね」

「その呼び方……誰かから聞きましたか……」

 石をさすりながら少女が言うのに、わざと大袈裟に肩を落とすと、

「はい。“二つの意味”もお爺さんから聞かせてもらいました」

 向けられるのは悪戯っぽい表情。

(まいったなぁ。どうにもこういう顔が苦手だ)

 大和は思った。

 敬意をはらおうと思っているのに、見かけ相応の女の子にしか見えなくなるのだ。

「“考えてる”と“ぼーっとしてる”ですよね。門弟が言い出したんですけど、なかなか皮肉がきいてますよ。妹にそのことでしょっちゅう怒られてる以上、反論できないですけど……。ったく、あいつら師匠を何だと思っているのか」

「でも、皆さん心の中では尊敬してると思いますよ」

「それを内に隠さず、普段から表現してもらいたいものですね」

 心にもないことを言っておどける。実際にそんなことになったなら、暮らしづらくて仕方がないに違いない。

 

 ひとしきり笑った後、訪れた沈黙。虫の音もどこか寂しい。

 それに耐えかねたように、大和は口を開いた。

「太白さんには、その……なんというか」

「ふふっ。はい、何ですか?」

「やりたいことというか……夢がありますか?」

 その質問に明確な意図は無かった。

 なんとなく、そう聞いてみたくなったのだ。

「夢、ですか」

 

(何を聞いてるんだか……)

 

 不思議そうな顔をするのに、心のなかでため息が漏れる。結局のところ自分の問題であるというのに、人に聞いたところでどうなるというのだろう。

「はい。……なんというか、いきなりすみません」

「あ……いえ、構いませんよ」

 笑みとともに返すは可憐な西平太守。

 彼女は少し考えた後、石から立ち上がり、

 

「西平の人達……ううん。この国の人達みんなが幸せに暮らせるようにしたいです」

 

 星々を背に微笑みながら、はっきりとそう宣言した。

 

「――っ」

 大和は思わず息を呑んだ。

 優しい彼女のことである。「ひょっとするとそういう“夢”を掲げているのかもしれない」とは思っていた。しかしそれは、全くの思い違い。

 後ろ手に組み、はにかみながら見つめてくる少女。

 柔らかな表情はいつもと変わらない。しかし、その菫色の瞳には強い意志の光が、在る。

 

(この娘も本気なんだ……)

 

 大和はその瞳に吸い込まれるような錯覚に陥った。

 彼女の夢は、おそらく1800年経った後も実現されることはないだろう。そのことを彼は知っている。

 

『みんなが幸せに』

 

 馬鹿げているとすら思える。

 誰もがそんなことは出来ないと言うであろう、それは途方もない夢。

 それでも彼女は躊躇いなく、どこまでも本気で口にする。

 その姿は夜空の輝きよりも眩しくて、

 

「……太白さんの夢……叶うといいですね」

 

 そう返すのが精一杯だった。

 

 彼女は夢を語ったのが照れくさかったのか、

「伯鉄さんはあるんですか?」

「え?」

「夢ですよ」

 それを誤魔化すかのように聞いてくる。

「……夢」

 

(そんなもの、自分にあっただろうか?)

 

 

 

『大和。大きくなったら何になりたい?』

『うん、あのね。ぼくは――』

 

 

 

(……我ながら未練がましい。それはもう、終わったことだろ? それに太守様のと比べたら……個人的に過ぎる)

 

「伯鉄さん?」

「夢、ですか」

 

 立ち上がって大きく伸びをするも、恥ずかしさは消えてくれそうになかった。

 なんとなく大学に進学し、なんとなく誘われたサークルに入り……。

 はたして元の世界でもこの問いに答えることが出来ただろうか。

 

 やり場のない思いを誤魔化すように空を見上げると、そこにはやわらかく光る月が。

 その姿は元の世界のものと何ら変わらず、それが無性に恨めしい。

 

 

 ついに少女の問いに答えることは出来なかった。


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