リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき   作:観測者と語り部

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第二部 運命の分岐点
〇対象a アクムノキオク 完全版


 暗い、暗い、闇の中を私はひとりぼっちで過ごしていました。

 もう、時間の感覚がありません。何十年と経ったような気がするし、数時間かもしれません。

 確かなのは、真っ暗な闇の世界では時間なんて、あってないみたいなもの。

 お腹もすかないし、喉も乾かないし、眠くならない。ただ、ボーっと考え続けることしかできないんです。そもそも、私の身体がありません。意識だけがあって、ここにいるということだけ、はっきりしてる感じなんです。

 だから、私は記憶を振り返って、思い出に浸ることだけしかできませんでした。

 

 私が浮かべる光景は決まって、楽しいはずだったクリスマス・イブです。12月24日の情景を何度も思い返すんです。

 始まりは、明るくて、気配りができて、勝ち気な女の子。初めてできた異国の友達。金髪の髪と日本人にはない綺麗な白い肌が特徴的な女の子が、飲み物を買いに行ってしまうところから。

 私は何度も行かせないように手を伸ばすんですが、どうにもなりません。記憶を見ているからなのかな……

 

 それまでは楽しかったんです。図書館で困っていた所を助けてもらってから、読書好きの女の子と友達になって。付き添いに来ていた他の女の子二人とも仲良くなれました。三人とも不思議な雰囲気を纏ってたのが印象に残ってます。

 それから、さっき言った金髪の子も紹介してもらって、お泊り会までしてくれて、何度も遊びに来てくれました。

 ちょうどその頃、わたしに出来た家族は、内緒で出かけていて。だから、寂しかったわたしにとっては、嬉しいことでした。あの頃がほんまに楽しかった。

 やがて、訪れるクリスマスの数日前に、持病が悪化して入院しましたが、初めてできた四人の友達は私に内緒でクリスマスの計画をしてくれたんです。悪夢の始まりだとも知らずに。

 本当は嬉しいことなんですが、今となっては、悲しいことです……来てほしくなかった…………

 

 病室から金髪の女の子が出て行って、数分が過ぎましたが帰って来ません。心配になった紫髪の女の子が見に行きます。

 その時、空気がざわついたのをわたしは感じました。なにか、こう、空間が揺らめくような、水に呑み込まれるような感覚です。

 家族である守護騎士のみんなと、暗めの栗色のセミロングにした女の子。腰まである長い金髪をツインテールにした女の子が、険しい顔つきをました。

 慌てて出て行く皆をよそに、わたしは不安がおさまりません。嫌な予感がしました。すがるように手を伸ばしても無駄です。けど、伸ばさずにはいられない。

 残ったのは普段はわたしの為に、蒼色の大きい狼に変身した守護獣。安心させるように、私の身体に寄り添ってくれます。しかし、私の"みんなはどこにいったん?"という問いかけには答えてくれませんでした。彼はここが、一番安全だと言います。

 部屋の床を翡翠色の魔法陣が覆い、守護獣が私を護る結界だと説明してくれました。

 

 それから、数分と経たずに、部屋に妹のような守護騎士と出て行った紫髪の女の子が帰ってきます。

 小さな女の子に似合わない鉄槌を、利き手で引きずるようにして、部屋に入ってきた守護騎士。引きつれた女の子を優しげにベットに座らせると、私の側にいてやってくれと頼みました。

 何が起こってるの? そう問いかける私を安心させるように、心配すんなと言って。妹はニカッと笑顔を浮かべ、付き添っていた守護獣を連れて出て行きます。隠すようにしていた片腕は、信じられないことに薄い氷が覆っていました。

 有無を言わさない守護騎士の態度。見せつけられた異変。馬鹿な私でも、何か起こっていると確信しますが、足の不自由な体では何もできません。くやしい。

 紫髪の女の子が、震える身体で私に抱きつきました。わたしは彼女の頭を胸に抱いて、髪を優しくなでます。

 金髪の女の子はどうしたの? その問いに彼女は震えたまま、嗚咽を漏らしたまま、首を静かに振りました。わたしは……彼女を問い詰める真似はできません。だって、この子は悲しみに苦しんでいたから、気が付けばわたしも泣いていました。

 

 どれくらい待ったでしょうか。ふと、わたしを護るという、不思議な魔法陣が縮まり、消えてしまいます。すぐに部屋を猛烈な寒気が襲ってきて、わたしは一緒にいた女の子を布団で覆いました。

 やがて、現れたのは二人の女性。見慣れない制服に、猫の耳と尻尾を持っていました。いきなり、そう、気が付けば目の前にいた女性たちに唖然とするわたしと紫髪の少女。

 髪の長い女性が、わたしに向けて手をかざしたと思うと、わたしの身体と意識は光に包まれて、気が付けば病院の屋上でした。

 

◇ ◇ ◇

 

 ……わたしは目の前の光景に空いた口が塞がりません。

 夜空を揺らめく壁が覆っていました。ううん、病院の周囲というべきかな。とにかく揺らめく透明の壁が覆っていて、周囲を槍のような杖を持った、空飛ぶ人々が囲んでいます。みんな、仮面で顔を隠していて、表情が判らない。不気味でした。

 でも、そんなことより、私の視線を奪って止まないのは目の前に立つ女性。守護騎士のリーダーで、いつも凛々しくて、カッコいい女性(ひと)

 強くて頼りになる守護騎士は、剣(つるぎ)を支えにして、膝をついていました。苦しげな表情を押し隠して、眼前の初老の男性を見据えていて。

 でも、傷だらけで、切り傷とか、打ち身とか、何より身体中を薄い氷の膜が覆い始めていて、わたしは訳も分からず彼女の名前を叫びます。

 驚いたように振り向く彼女は、申し訳なさそうな顔をして、わたしに謝ります。状況を打破できず、我ら守護騎士一同、主に会わせる面目がないと。大切な御友人の、ご助力を頂いたのに無残な結果で、不甲斐ない己を赦してほしいと。そう、言います。

 わたしは、そんなことよりも、彼女を助けようと、不自由な身体を引きずり、這い進んでいきますが、あまりにも遅い。

 そして、手を伸ばす私の前で、守護騎士のリーダーは光となって消えていきました。信じたく、ありませんでした……

 絶望して絶叫するわたしに、初老の男が言います。恨んでくれていい。憎んでくれて構わない、と。

 わたしは男の言葉通りに憎しみを抱き、憎悪に顔を歪めました。目の前の男が元凶なのは間違いありません。この時は、大切な家族を奪い、友達を悲しませ、、病院を異変に叩き落とした男が許せなかった。

 

 そんな、わたしを引きとめた手がありました。冷たいけれど、小さく優しい手。

 わたしが、顔をあげれば栗色の髪の少女が立っていました。写真で見せてもらった聖祥付属大の小学校の白い制服。私服から、それによく似た白い制服に、いつの間にか着替えていた少女は、静かに言います。

 怒りや憎しみに、身をゆだねてはならないと。貴女は戦ってはいけないと。

 よく見れば少女はボロボロです。傷だらけで満身創痍。さきに消えた女性と大差ないくらいです。

 隣にいた紫髪の少女が、"アリシアちゃんはどこにいるの"と栗髪の少女に聞きますが、少女は静かに首を振るだけ。

 それで理解したのか、紫髪の少女はうっすらと涙を流して、糸が切れた人形のように床にへたり込みました。

 栗色の髪の少女は、何も言わず、ただ不思議な呪文を唱えると私達の周りを、結界? とにかくバリアのようなもので覆います。

 そこから出てはいけないと彼女は言いました。でれば、いずれ屋上にも迫るであろう冷気で、たちまち凍り付いて死んでしまう。少女は淡々と説明します。

 恐らくたくさんの人が死んだんでしょう。けど、何も感じていないかのような、少女の言葉に憤った馬鹿なわたしは、睨むように彼女を見上げて、後悔しました。

 無表情だけど、彼女は静かに涙を流して、泣いていました。そうでしょう。わたしの友達になってくれた少女たちは、彼女の親友。わたしなんかよりも、ずっと長い日々を過ごした友達。それを失って泣かずにはいられない。

 

 きっと、アリシアと呼ばれた子の死を知っているのは、彼女自身が看取ったから……

 栗色の少女は涙を流したまま言います。目の前にいる男を殺して、状況を覆し、一矢報いると。

 やめてよ……もう、にげようよ……。泣きながら呟いた紫髪の少女に、彼女はやさしく微笑んで、私達に手をかざして。

 最後に見た光景は、桃色の閃光。そうして私は意識を失いました。たぶん、紫髪の少女も。

 あの子の悲しげな微笑みは、今も記憶に焼付いています。

 

 どれくらい意識を失っていたのか、わたしには分からない。

 ぼやける思考。かすむ視界の中、聞こえてくるのは苦しげな喘ぎ声。

 目を覚まし、意識をはっきりさせようとする私の気配に、気が付いたのだと思います。お願いだから見ないで欲しいと言われました。

 声は、紫髪の女の子のものです。わたしは自分の身体が寒さで震えているのに気が付くと、理解してしまいました。恐らく栗色の髪の少女は……

 守護騎士のリーダーが睨んでいた、初老の男性の声が聞こえました。

 どうして、そんなに頑張るのか、無意味な行為だと気が付いているだろうと。身体をこおら……私が聞こえたのはそこまでです。

 何故ならば、びっくりするくらいの怒声で、男の声を紫髪の髪の少女が遮ったから。煩いと、この子に手を出したら赦さない。殺してやると叫んでました。

 でも、何か氷が這うような音と、苦しげな、でも、必死に声を押し殺す少女の声が聞こえたきり、静かになりました。

 たぶん、この時に紫髪の女の子も亡くなってしまったんだと思います。彼女の言葉から、気絶していたわたしを庇ってくれたんでしょう。

 何もかも失って、わたしは泣いていました。状況に耐えられず、悪い夢であってほしいと心の底から願い。寒気と嗚咽は止まりませんでした。

 誰かのしっかりとした足音が響き、私の耳元まで近づいたかと思うと、初老の男性の声が間近で聞こえます。彼は言います。もう、目を開けても大丈夫だ。望み通り、私が殺した少女の遺体を見えないようにしたと。

 堂々と言い放つ、彼の言葉に、怒りすらわかず、絶望と諦観に満ちたわたしは静かに瞼を開きました。

 

 わたしは、"なんで、何でこんなことするん……?"そう問いかけました。男は何かを堪えるかのような表情をして、たぶん、辛くて、顔が歪むのを我慢してたんだと思います。とにかく、何かを堪えて言いました。

 こうしなければ、たくさんの世界が滅び。今日は地球が滅んでいただろう。と

 君に家族と温もりを与えた闇の書は、世界を滅ぼしてきた魔導書。狂ったように不幸と破壊を振りまいてきた、と説明されました。

 いつもなら納得がいかずに、反論していたでしょうが、そんな気力もないわたしには、どうでもいいことだったんです。

 でも、彼の正体を言われた時、わたしは……

 

――私の名前はギル・グレアム。そう、君を助け、手紙のやり取りをしたグレアム叔父さんだ。恨んでくれて構わない、憎んでくれていい。だが、せめて、静かで安らかに。できれば楽しい夢を見て眠ってほしい。ほんとうに……

 

 わたしが、彼を慕っていた叔父だと知った時。憎しみを抱けず、どうしようもない嘆きと虚しさで心が覆われて。

 闇の書を抱えたまま氷漬けにされて、薄らいでいく意識の中で、不気味な異空間に落とされてる光景を他人事のように眺めるなか。

 書が光り輝いたとおもうと、わたしの意識は闇の中にいて。

 もう、永遠とも感じる時間の中で、わたしは変わらないまま、同じ時間を過ごし。

 誰も憎めず、誰かを悼むように泣くこともできず。

 ただ、夢を、見続けていたんです。

 

◇ ◇ ◇

 

 高町なのはは、ハッとして目を覚ました。

 すごく悲しい夢を見ていたような気がする。ぼやけて、曖昧とした記憶では、詳しい情景も思い出せない。けど、何か身近で大切な存在を失ったような感覚。既視感?

 眠気を覚ますように目を擦ると、涙を流していることに気が付いた。枕が濡れいていて、まさか、自分は夢を見ている間、泣いていたのだろうか。

 

「うぅ……ぐす。あぁぁ……悲しい。ものすごく悲しい夢」

 

『morning.マスター。あまり良い目覚めではないようですね。どうかしましたか?』

 

「ううん、ちょっと、夢をみて泣いてたみたい。ありがとう、レイジングハート。心配しないでいいよ、大丈夫だから」

 

 机の上に置かれた宝石。自分のデバイスであるレイジングハートに、大丈夫だと笑顔をみせながら、なのはは起き上がる。

 壁に掛けられた時計を見れば早朝の四時半だ。いつもよりも、だいぶ早い目覚め。けれど、もう一度眠る気分ではない。このまま、早朝の魔法練習に向かうのもやぶさかではなかった。

 ふと、隣で抱きついて眠っていたであろう女の子を見やる。昨日、母と父が家に連れてきて保護した女の子。なんでも行く宛てがなくて、迷子だったらしく。しばらく、家で預かることにしそうだ。名前は高月ゆかり。白銀の髪と弱視ゆえの瞳の輝きが薄い子で、態度がおどおどしてるのが、第一印象だった。それと、なのはに懐いてくるのに、一線を引いているのも。

 なのはは、ぎょっとした。ゆかりも泣いていた。それも、激しく嗚咽を漏らして、怯えるように震えてだ。

 悪夢でも見ているのか、口から寝言が漏れる。"いかないで、ひとりにしないで、ごめんなさい、ごめんなさい"。ゆかりは何度も、何度もごめんなさいと呟き、何かを掴み取ろうと手を伸ばす。

 その手を、なのははそっと握りながら、添い寝するように、ゆかりの身体を優しく抱きしめてあげた。

 もはや、早朝の魔法の練習なんてどうでもいい。ゆかりをどうにかする方が先だ。

 

「えぐっ……ぐすっ……あ、うあぁぁ、あああ!! いかないで……」

 

「大丈夫だよ」

 

「しぐ……な…………ごめん、なさい……みんな、どこぉ……?」

 

「ここにいるよ」

 

「『なのは』……『なのはぁ』…………」

 

「うん、わたしはここにいるよ」

 

 知り合って間もないのに、自分の名前を呼ぶ少女。けれど、なのはには、泣き続ける少女が呼んでいるのは、自分ではないような気がした。なんというか、なのはに向けられた感情と、『なのは』に向けられた感情の度合いは違う気がする。信頼感とでもいうのだろうけど。とにかく、なのはの鋭い勘は、そう感じていた。そして。それでいいのだと思う。

 たとえ、ゆかりが呼んでいる子が別の子だとしても、誰もいないよりはいい……ひとりぼっちは、寂しいから。だから、いまは隣にいてあげるだけでいい。なのはにも孤独の寂しさは嫌という程に共感できるから。

 ゆかりは、無意識に隣に人がいると、気が付いたのか分からないが、なのはの身体に抱きついてきた。顔をなのはの胸に埋めて、背中に回された震えの止まらない両手でしがみ付く。まるで、怯えた子犬のようで、それを可愛らしいと同時に、酷く悲しい姿に見えた。

 なのはは思う。いつか手に入れた魔法の力で、泣いている全ての人の涙を止められたらいいなと。この子のように、一人でも多く、悲しんでいる子を救ってあげたいと。けど、いまは。

 

「だから、泣かないで良いんだよ。安心して眠っていいんだよ。ゆかりちゃんは独りじゃないから」

 

 隣で眠る女の子の涙を止めてあげたいと、不屈の心を持つ少女は決意していた。

 

◇ ◇ ◇

 

 そうして、どれくらい夢を見続けていたのかは、分かりません。

 

「はやて、主はやて」

 

 ふと、わたしの耳に、いえ、身体がないので、この場合は意識とでもいうべきでしょうか。

 とても優しげで、暖かな声が聞こえてきて、わたしは夢から覚めたんです。"はやて"という言葉も懐かしい響きでした。昔、誰かに愛おしげに呼ばれていた名前だったような。

 

「ようやく、見つけることができました。ああ、主はやて。お会いできてよかった」

 

 わたしをはやてと呼ぶ存在は、人の姿をしていました。とても綺麗で、美しい女性。背中にある二対の四枚の黒い翼は、まるで天使のよう。おとぎ話の絵本からでてきた登場人物? それとも、死んでしまったわたしを迎えに来た神様の使いなんでしょうか?

 天使さんは、意識だけになったわたしの存在を抱いてくれたような気がしました。こう、両の腕でお姫様抱っこされているような感覚です。湖の守護騎士や烈火守護騎士にも、こうしてもらった記憶があって、とても懐かしい気分になりました。

 

「お身体がなくて、ご不便でしょうが、しばしお待ちを。別たれた意識と身体をもとに戻すには時間が掛かりますゆえ」

 

 天使さんに抱かれて、きゃっきゃっと喜んでいるわたしに、微笑みをむけた彼女。

 理解しているのか、いないのか怪しい私に、丁寧に説明しながら、天使さんは闇の世界の空を飛ぶように漂いました。

 もう、ずっと人と会って、会話もしていないわたしは、人が恋しくなっていたんでしょう。煩わしく話しかけるわたしに、天使さんも満更ではなさそうな様子で、返事をしてくれました。

 

――なぁなぁ、天使さんって、名前はなんていうの?

 

「――恥ずかしながら、私には名前がないのです。以前は夜天の書の管制人格と呼ばれていました」

 

――う~ん、名前がないのは不便やなぁ。あっ! わたしが名前を付けてあげる。う~ん、あれぇ? なんも考え付かへん。おかしいなぁ。

 

「主ご自身の存在が揺らいでしまうほどに、精神(こころ)を保てず、自我が薄れてしまった影響です。知識や記憶も大部分が消えてしまったのでしょう」

 

――そうなん? 天使さんが言うなら、そうなのかもしれへんなぁ。そういえば、わたしのこと、はやてって呼んだけど?

 

「主の大切な、お名前ですよ」

 

――はやて。は・や・て。うん、なんだか私は、そう呼ばれ取った気がする。でも、ひらがな三つではやてって変かな?

 

「いいえ、とても素敵な名前ですよ。貴女の優しい御両親が付けて下さった良い名前です」

 

――ありがとう。天使さんって優しいなぁ。わたし、ほんまに嬉しい! 天使さんのこと大好きや!!

 

「私も、はやてのことが大好きですよ。我ら夜天の書を家族として接してくれた貴女を愛しております。その御恩を、少しでもお返ししたい」

 

 わたしと天使さんが、他愛のない会話を続けているうちに、テレビでしか見たことがないような大草原にいました。

 天使さんは、ここが夢の世界だと言います。今は闇の書と呼ばれている魔導書の内側にある世界。そのひとつだそうです。

 わたしが、天使さんに何するん? と聞いてみると、なんでもわたしの歩行練習するそうです。そういえば、いつも見ている夢の中では、わたしは車椅子に乗っていて、歩いた事も走ったこともありません。

 お傍にいますゆえ、共に歩んでみましょう。そう言って、天使さんが私を芝生のような草地の上に横たえました。

 そこで、わたしは、いつの間にか自分の身体を得ていることに気が付きました。いつもの白いセーターとズボンを穿いていて、お気に入りの交差する髪留めを付けています。そして、驚きで固まるとともに、嬉しくなって。

 

 わたしは、初めて立ち上がりました。

 

「天使さん。わたし身体が、わぁ!!」

 

 でも、急に立ち上がった私は足に上手く力が入らなくて、しだいにガクガクと震え始めた足では身体を支えきれずに、前に倒れ込みそうになります。

 慌てたように天使さんが、駆け付けて抱き寄せたおかげで、なんとか転ばずに済みました。天使さんの優しさと、わたしの愚かさに涙が出そうでした。それでも、次第にわたしの心に芽生えたのは喜びです。生まれて初めて立つことができた経験は、心が感動で打ち震えるほどです。

 

「主はやて! 大丈夫ですか!? お身体に怪我はありませんか!?」

 

「ううん、へーきや。えへへ。天使さん。私立てたよ? 初めて自分の足で立つことができたよ?」

 

「――はい! 御身を蝕んでいた闇の書の呪いはありません。いずれ自分の足で歩き、この草原を駆けまわれるようになりますよ」

 

「ほんまに!? わたし、自由に動けるようになるん!?」

 

「ええ。ですから、しっかりと、徐々に身体を慣らしていきましょう」

 

「うん! わたし、がんばるよ!」

 

 天使さんの大きな胸に顔を埋めて、温もりと安心できる鼓動の音を聞きながら、わたしは、満面の笑みを浮かべていました。

 自分の身体が自由に動く、声を発して喋ることができる。人肌の温もり、世界の空気を肌で感じることができる。どれもあたりまえで、けれど素晴らしいこと。歩ける足を失っていた私にとって、それを取り戻した感動は、きっと、同じ経験者にしか分からない。

 どこまでも優しい天使さんに頭を撫でられながら、わたしは愚かにも笑っていました。都合のいい幻想を見て、現実を直視しないことが、どんな結果をもたらすのか知らないまま。

 わたしは、ただ、嫌なことに蓋をして楽しい夢を見続けていました。それが、大切な四人の友人を裏切り、あまつさえ最悪の結果を招いてしまったというのに。

 愚かにも……笑っていたんです。

 

◇ ◇ ◇

 

 天使さんの両手を必死ににぎって、わたしは震える足腰をゆっくりと動かしていく。

 一歩、一歩、と前進するたびにわたしの心は嬉しさで満ち溢れ、感動に震えるのがわかる。

 そよぐ風の心地よさと、草木の揺れる音、森の中にいるような香りが、わたしを安心させてくれるのもあるだろう。

 けれど、目の前で微笑む天使さんの存在が何よりも大きい。彼女が支えてくれるなら、わたしは何だってできそうな気がする。

 

「いっち、に、いっち、に……ふぅ。車椅子を動かすのも一苦労やったけど、歩くのもけっこう大変や」

 

「主は歩くことに慣れていませんから仕方ないですよ。少し休憩にいたしましょう」

 

「ううん、もうちょっとだけ、がんばれる」

 

「ですが……」

 

「もうちょいで、あの木陰にたどり着けるし、そこまで歩きたい。そしたら休憩や」

 

「なら、私が支えますから、無理はしないでください。主はやて」

 

「うん、ありがとな。天使さん」

 

 わたしは天使さんに支えられながらも、なんとか大きな大樹の木陰にたどり着くことができた。

 大樹を背もたれにして腰かけて。痺れる足を天使さんにマッサージしてもらいながら、樹の枝葉の影響でカーテンのように揺らめく日差しに目を細めた。冬の寒さを忘れさせてしまいそうな、暖かな光。心地いい。

 気のせいだろうか? 日の光に紛れて、四つの光の玉が空に浮かんでいたような?

 ううん、気のせいじゃない。どこか、ゲームで見たことあるような、赤と、桃色と、翠と、蒼。四つの光の玉が輝く粒子をまき散らしながら、わたしに向かって飛んできた。特に赤い色の光は物凄い勢いで突っ込んでくる。

 

「天使さん、なんかくる……」

 

「ああ、彼らは主の大切な――」

 

「ひゃあ、ちょ、ちょう待って」

 

 天使さんが安心させるように微笑んで、光の玉を説明してくれるけど、わたしはそれどころではなかった。赤い光の玉が頬をくすぐる様に懐いてくるのだから。

 不思議な感触がした。なんというかふわふわしていて、ぷにぷにする? それに生暖かい、人肌の温もりを感じる。

 桃色の光の玉が赤い光の玉を追い払うかのようにぶつかり、翠の球と蒼色の球は諌めるように何度か輝いてます。三つもの光の玉に虐められて? 多勢に無勢。しょんぼりとしてしまった赤い光の玉を、わたしはやさしく両手で抱きかかえました。

 なんというか、この子たちはわたしにとって大切な存在だった気がするのです。そう、短い間だったけど家族みたいにずっと一緒にいたような。共に笑い、泣き、時には喧嘩して、時には支え合った。おぼろげながらも、そんな記憶があります。

 赤い光は照れたように強く輝きますが、しだいに居心地がいいのか胸の中で落ち着きました。胸の中で輝く光を中心にわたしの身体もポカポカと温まるので、失礼だけどカイロみたいだなと思ってしまいました。

 他の子たちもなんだか羨ましそうに見ていた気がするので、同じように一緒に抱きかかえてあげると、されるがままに大人しくしています。でも、なんだか満足そうなのは気のせいではないのかな?

 

「ふふ、やはり主はやてはやさしい人だ。貴女が最後の夜天の主で本当に良かった」

 

「そ、そんなことないよぉ。天使さんのほうがとっても優しいし、それにこの子たちだって……え~と」

 

「思い出せませんか? 彼らの名前を。よければ私が……」

 

「ううん! 待って天使さん。わたしが自分で思い出す。きっと、この子たちもそれを望んでると思うから」

 

 天使さんの言葉を遮ってわたしはそう言い切ります。だけど、ほんとは自信がありません。わたしが誰だったのか、どのように過ごしてきたのか、天使さんが言っていたように酷くあやふやなんです。

 腕の中の四つの光が自ら飛び出すと、うんうんと悩む私を励ますかのように何度も発光します。それが嬉しくてわたしは大丈夫だよって、安心させるように言うのですが、光は。特に翠の光と桃色の光が不安そうに明滅してます。もう、心配性なんだから……

 あっ、思い出してきました。そう、さっきからわたしの周囲を飛び回ってはしゃいでいる赤い光。彼女は確か。

 

「あなたは、ヴィータやね。そう、わたしの妹だったきがする……違う?」

 

――コクコク!!

 

「そうです主はやて! 貴女の大切な御家族です。妹です!!」

 

 当たりだったのか、すごく嬉しそうに上下に行ったり来たりする赤い光。まるで、なんども頷いているみたいで微笑ましいです。天使さんも言い当てたことが嬉しかったのか、感動したように両手を合わせて頷いています。というか、うっすらと目じりに涙を浮かべて泣いていました。

 すると、まるで私は? と言わんばかりにおずおずと翠の光がわたしの真ん前に近寄りました。この子の優しくて淡い光も記憶にうっすらと残っています。そう、わたしが怪我をしたときとか、不治の病? で苦しんでいた時に助けてくれた光。ああ! 思い出しました!!

 

「あなたはシャマルやろ!! この優しくて心地よい光はちゃんと覚えてたみたいや!!」

 

 大当たりだったのか、翠の光は感動したかのように震えています。赤い光も自分の事のように嬉しいのか、回転しながら上下に行ったり来たりで、さっきよりも興奮した面持ちではしゃいでます。天使さんも今度は隠そうともせずに泣いていました。腕でごしごしと涙をぬぐっています。だめだよ、そんな乱暴に目をこすっちゃ。

 けど、桃色の光と蒼色の光は微動だにしていませんでした。何と言うか主人の許しがあるまで控えている忠犬みたいに大人しくしています。わたしがおいでと手を招いてみても来てくれません。

 焦れたんでしょうか? 赤い光が二つの光をわたしのほうに押しやろうとします。まるで、次はお前たちの番だから早くしろと急かしているようです。それでも二つの光は動こうとしませんでした。

 やがて、見かねたのか天使さんが二つの光に近寄ると耳打ちするように何かを告げました。小さな声だったのでわたしには聞こえませんでしたが、二つの光を揺り動かすには充分だったようで、しぶしぶと桃色の光がわたしの前に出てきました。何を言ったんでしょう?

 桃色の光はおずおずと畏まるように大人しいです。ちょっと、わたしは寂しく思います。もう少し気楽に接してくれてもいいのに。

 でも、この頑なまでに生真面目な態度はわたしの記憶の琴線に触れるものがありました。凛々しくて強くて、頼りになる女性。みんなのリーダー。

 そう、彼女は……

 

「シグナムなんか? 相変わらず堅苦しいなぁ。もっと楽にしてええっていつも言ってるのに」

 

 正解だったのか、感動に打ち震えたかのように桃色の光はふるふると揺れていました。こういうところはさっきの翠の光とそっくりです。

 わたしもだんだんと思い出してきました。彼女たちのこと。四つの光のこと。ヴィータは末っ子さんで好奇心旺盛。いろんなことに一喜一憂してはしゃいだ妹。シャマルはおっとりお姉さんで優しくて甘えたくなる。でも、料理がてんでダメで砂糖と塩を間違えるようなうっかりさん。シグナムは女性なのにカッコ良くて、まるでお父さんみたいな人。

 それに、立派なおっぱいをお持ちでした。わたしが「天使さんも大きいけど、シグナムのおっぱいもすごいやね」っていうと、今度は恥ずかしさに悶えるように桃色の光は打ち震えます。天使さんは主はやてだったら、いくらでも触ってよいですよと答えました。なんだか、両者の格の違いを見た気がします。

 

 さあ、最後です。ここまで正解したのだから、蒼い光のこともズバッと言い当てたい。盛り上がってきたのか天使さんはどこからともなく取り出した応援旗振っていて、紅い光と翠の光、無理やり付き合わされた桃色の光が紙ふぶきを舞わせています。

 緊張したかのように蒼色の光がわたしの前にでてきました。わ、わたしだってものすごく緊張してるのに。ここまで言い当てて、最後に外れましたでは、何と言うか恥ずかしさを通り越して泣いてしまいそう。

 わたしは、おでこを手で押さえて考えに考えます。蒼い光。蒼い光。確か女性ばかりの守護騎士たちのなかで一人だけ厳つい男性がいたはずです。褐色で筋骨隆々。シグナム以上に寡黙で多くを語らない男の人です。でも、その人の記憶があまりない。

 あるのは、何と言うか蒼くて立派な狼です。確か犬が欲しかったわたしが無理言って……いぬ? おおかみ? ハッ!? 思い出しましたピンときました!!

 彼の名前は……

 

「名犬ザッフィーや!!」

 

――がーーーん!!

 

 わたしが叫んだ瞬間、ザッフィーと呼んだ蒼い光はショックを受けたかのように力を失って地面に墜落します。あれ? もしかして、わたし間違えた?

 慌てて周囲を見回すと赤い光と翠の光が爆笑するかのように小刻みに震えていました。桃色の光も笑いを堪えようとして堪えきれていません。プルプルと震えています。天使さんもお腹を抱えて倒れ伏していました。それはもう声にならない声で笑ってます。笑いすぎて死にそうなくらいです。

 あとで聞くところによると名犬ザッフィーではなく。盾の守護獣ザフィーラ。立派な狼なんだそうです。うぅ……ごめんねザフィーラ。わたしのせいで笑いものに……

 

◇ ◇ ◇

 

 久しぶりに懐かしい夢を見たと、ディアーチェは感慨深くなった。

 震える手で頬を拭うと、やはりと言うべきか泣いていたらしい。夢を見るとディアーチェはいつも涙を流している。自分には、そのような資格はないというのに、泣き喚いて誰かにすがるらしい。何度か一夜を過ごしてくれたシュテルが言っていた。

 しかし、妙ではあった。いつもならディアーチェ最大の罪にして罰である悪夢を。現実を直視せず、守護騎士の蒐集に気が付かなかったせいで、多くの人間を巻き込んだ悪夢を見るはずだった。忌まわしい闇に、同じ夢を繰り返し幻視させられるはずなのに。

 今日は、その先の懐かしい思い出を見ることができた。

 夜天の管制人格。ディアーチェが、まだ、『はやて』だった頃、共に過ごした最後の家族。

 天使さんと呼んで慕っていた彼女に、名前を与えることができず、ディアーチェの為に犠牲になった彼女の存在は、己の後悔のひとつだ。

 

 ふと、頬を柔らかな布で拭われた感じがして、ディアーチェは目を開けた。誰かいるのだろうか? 泣いている自分を見られたのだとしたら恥ずかしいが、ディアーチェなんかの為に世話をしてもらうのは、申し訳ない気がするほうが大きい。

 目の前でディアーチェの顔を覗き込んでいるのは、大切な親友にして、家族のひとりだった。思わず名を呼ぶ。

 

「シュテルか……すまぬな、世話を掛ける」

 

「シュテル……? 違うよ、ゆかりちゃん。わたしは、なのは。高町なのは」

 

 あれ? おかしい。確か新たなる存在となった自分たちに相応しい名前を付けて、生前の名前は封印したはずだが? もしかして、まだ、夢を見ているのだろうか? 優しくて、楽しかった。明るい世界の夢。なら、もう少しだけ寝ようとディアーチェは瞼を閉じるが。

 

「ゆかりちゃん寝過ぎ! もう、朝なんだから起きなきゃダメだよ!?」

 

 ゆかりちゃん? ゆかりって誰? そもそも、声の主はシュテルに似ているようで、響きが違う。明るくて元気いっぱいな声、静かで落ち着いたシュテルとは正反対だ。

 そこまで考えて思い出す。自身の置かれた状況と待遇。昨日は押しに負けて、部屋の主と共に寝たという事実を。今のディアーチェは"高月ゆかり"。訳あって高町家に、しばらく居候することになった女の子。目の前の少女は高町なのは。

 並行世界におけるシュテル・ザ・デストラクター。不破『なのは』の同一人物。幸運にも母親が生存していて、姓名が高町のままでいられた、なのは。

 変なところでボロを出したディアーチェは慌てたように起き上がるが、それが拙かった。覗き込むように、ディアーチェの寝顔を見ていたなのはと、おでこをぶつけてしまう。二人とも痛そうに、涙目になりながら頭を抱えた。

 

「うおぁ!? あだ……ッ!?」

 

「あいた~~……うぅ、いきなり起き上がらないでほしいの」

 

「す、すま……ううん、ごめんね。なのちゃん。」

 

 慣れない"ゆかり"としての人物を演じながら、少しだけディアーチェは落ち込んだ。自分とマテリアルの少女たちの繋がりがひとつ足りない。あの日から欠けたままのようだ。シュテルは、まだ、帰って来てはいないらしい。

 

「どうかしたの? ゆかりちゃん。 あ、そっか。悪い夢見てたんだもんね。気分はどう?」

 

「だいじょうぶだよ。心配してくれてありがと。それと、おはよう、なのちゃん」

 

「あ、えへへ。うん! おはよう、ゆかりちゃん!」

 

 でも、悪くはない気分だ。久しぶりに暖かなベットで眠って、誰かと挨拶を交わす朝は、存外に心地よい。

 目の前で名前を呼ばれて嬉しそうな、高町なのはの笑顔をにこやかに見つめながら、ディアーチェは穏やかな気持ちに包まれるのだった。いつか、こうして皆と幸せいっぱいの朝を迎えられたらいいなと、望んでしまうくらいに。

 無意識に浮かべたディアーチェの微笑みは。

 

「ほえぇ~~」

 

「ん? なのちゃん、どうかしたの?」

 

「う、ううん。なんでもないの」

 

 同性のなのはが見惚れてしまうくらいに綺麗で、朝日の木漏れ日を背にする姿が。まるで、天使のように見えた。

 


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