リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき   作:観測者と語り部

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 ここから、リリカル『なのは』編
 残酷な描写があります。苦手な方はご注意を


第三部 リリカル『なのは』
〇プロローグ1 悲しい雨


 不破美由希は、梅雨の到来によって激しい豪雨が訪れるようになった季節を、これほど恨んだことはなかった。おかげで追跡おいて役立てる嗅覚が、まったく機能しない。雨によって染みついた微かな臭いが、全て流されてしまっている。

 こうなっては、犯人の心理、現場周辺の隠れるのに適した場所、土地勘に優れた美由希の洞察力によって、犯人の居場所を特定するしかなく。普段の限界の、さらに限界を超えて軋む身体を、酷使し続けていた。探索する場所が外れていると知るや、猛スピードで別の場所へ向かう。それを繰り返す。

 豪雨の真っただ中を突き進むたびに、水たまりを踏み散らす。服は水を吸い過ぎて、地面へと流れ落ちるしかない。重くなった装飾など脱ぎ捨てたいところだが、面倒なこととなるのでやめた。

 

「はぁ……はぁ……ぐぅぅっ……」

 

 神速の連続使用による代償なのか、呼吸は荒く、既に身体が悲鳴を上げる頃だ。これ以上無理をすれば、二、三日は指先を動かすことすら、ままならなくなるだろう。だが、それがどうしたのだと美由希は吐き捨てる。

 自分の身体がどうなろうと、知ったことではないのだ。自分よりも大切な、妹の命が掛かっていた。

 そう、彼女が己を省みずに海鳴の街中を探索するのは、それが理由だった。大切な大切な妹のなのはが、誘拐されてしまったのだ。前々から恐れていた事態が、起こるべくして起きてしまった。学校の帰り道、人気の少ない時間帯を見計らって、浚われたと思われる。

 すぐに気が付けたのは、浚われたなのは自身のおかげだった。彼女に護身術として不破流を叩き込み、反射神経や身体能力を向上させてきたおかげなのか。妹に前もって渡していた防犯ブザーを偽装した発信器。それを押してくれたのがきっかけ。

 それでも相手は誘拐において、腕が立つ人間だ。こうして全力で探しているのにも関わらず、一向に足取りがつかめない。ブザーを鳴らされた時点で、相手も発信器だと気が付いたんだろう。現場に発信器を放り捨てられていた。だから相手の場所も、動きもさっぱりだ。

 探索には不破家の総力どころか、月村家、バニングス家の協力も得ていた。父の士郎が昔の伝手を使って、協力を仰いだらしい。しかも、月村家が裏で警察を動かしてくれて、街は騒然となっている。街の出口に検問が敷かれ封鎖された。

 だというのに、これほどの人員を動かしているのに、一向に手掛かりはない。

 

 ポケットの中で携帯の着信が鳴る。電話ではなくメールだ。話している時間すら惜しいから、あらかじめ、決められた暗号によって、探した場所とこれから探す場所を伝えるメール。件名に、たった一文字の英記号が送られてくる。

 美由希はそれを素早く一瞥すると、高速でキーを叩いて返信。ポケットに乱暴に突っ込む。

 内容は恭也から。なのはは未だに見つかっていないらしい。これから山の中を探索するそうだ。美由希も住宅街を一通り探し終えたので場所を変更する。

 次に向かうのは郊外にある廃ビルだ。頭のなかにある海鳴の地図と照らし合わせて犯人が逃げ込みそうな場所のひとつと予測しているところ。一度は探索したと報告は受けたが、どうにも怪しいと勘は伝えている。犯人は隠れ家一か所に止まらず、こちらの様子を見て絶えず移動している可能性もある。だから、もう一度、確かめようと判断した。

 時間はないのだ。この誘拐が不破一家の復讐劇に対する報復。見せしめの意味も兼ねたなのはの抹殺であるならば、時間を掛けるほど生存は絶望視される。

 母の桃子が見せしめに父の目の前で殺されてから始めた復讐劇。母を殺した敵対組織と、その施設を潰して回ってきた不破家を向こうも忌々しく思っていることだろう。だから、妹のなのはを殺す。復讐の連鎖は止まることを知らない。

 

「ぜぇ……ぜぇ……なのは……無事でいて」

 

 豪雨の降りしきる街中を美由希は駆け抜ける。ただ、やみくもに。ひたすらに走り抜ける。この雨の中では視認すら難しいほどの速度で大地を駆ける。

 なのはは美由希にとって顔を合わせたくない子だ。義理の母ではあったけど桃子は美由希にたくさんの愛情を注いでくれた。美由希もそんな母親にたくさん甘えた。だからだろうか、なのはの顔を見るたびに桃子のことも思い出して辛くなる。あの子は母親の面影があり過ぎるから。

 あまり顔を顔をあわせないのも、たくさん話をしないのも、美由希が泣きそうになるからだ。だから愛しい妹にきつく接してきた。厳しい態度を見せることでなのはの心を、いかなる状況でも動じないように鍛えると言い訳しながら。

 

 なのはには悪いことをしたと思う。おかげで妹の感情は色あせた。それでも、美由希は態度を改めることを良しとしない。復讐が終わるまで弱みを見せてはいけないのだ。己の感情を殺すことで美由希は殺人機械となることを決めた。そうしなければ戦えなかった。

 兄の恭也はその事で何度も美由希を叱ってきた。優しい兄は復讐よりも、今ある日常を大切にして、桃子の分までなのはを愛そうと論して来る。

 恐らくそれは正しいことだ。美由希も自分が間違っていることはとうに気が付いている。

 なのはのことは本当に愛している。可愛い、可愛い妹だ。生まれてきた時からずっと見守ってきた。受け継いだ御神の技を使うなら、この子を守るためにしようと決めた。それくらい愛している。

 だけど、敬愛する父も、美由希自身も、己を納得させることが、できなかったのだ。愛した妻を、母を奪われた憎しみ。それが、消えることはなく。元凶を滅ぼすまで止まることはない。

 

 その報いが、なのはの命を奪われるという、悲劇なのだろう。でも、そんなことは神が赦しても、美由希が赦さない。そのような運命は覆してやる。

 もし、なのはの命が奪われたならば、美由希は修羅となる。己を永遠に戒めつづけ、相手を見境なく殺す。今度は生易しいものではない。女子供容赦なく、幼子であろうが、赤子であろうが殺す。

 母を失った日から歪み続ける美由希は、間違った道を進み続ける。己の復讐劇が、愛するなのはを危険に晒していると気付けずに。

 

◇ ◇ ◇

 

 不破なのはは口、両手、両足をガムテープで縛られた状態で軟禁されていた。廃れた部屋の一室。コンクリート片や建築用の鉄パイプが散乱する部屋に転がされている。

 晴れて私立聖祥の小学生の一年生として入学することができた彼女は、家に帰れば辛い修行が待っていると憂鬱な気分で下校していた。日々のストレスで疲れていたのか、慣れない環境で極度の緊張状態。うまく他の子供と接することができず。友達作りに失敗した矢先の出来事。

 激しい雨が降りしきる前の、降り始めのころ。雨の中で俯きながら歩いていた彼女の背後から忍び寄る影にハッとして、反射的に防犯ブザーを鳴らしたものの、あっというまにハンカチを嗅がされて意識を失った。気が付けば見知らぬ部屋という訳である。

 

(どこなの、ここ!? なのはどうなっちゃうの……!?)

 

 瞳を必死に動かして状況を把握しようと周囲を観察する。不慮の事態にあった時は、まず落ち着いて状況を観察しろと厳しく父に叩き込まれた影響であった。

 部屋にはなのは以外にも見知らぬ男がいた。全身黒づくめの格好をした男。この男がなのはを浚ったのだろうか。男の普通ではない気配になのはは怯えた、父や姉と同じにおいがする。こびりついた血なまぐさい臭い。普通の人間なら感じ取れないが、不破流の古武術を学んでいるなのはは、常人と比べて五感が鋭く研ぎ澄まされている。誘拐されるという異常事態が少女の危機能力を高めていた。いわゆる火事場の馬鹿力というやつかもしれない。

 

 男は何やらマットを敷いて、その先に三脚で立てた高級そうなビデオカメラを準備していた。あたりを試しに撮影しているのか、しきりに何やら調節している。その傍には鋏やナイフ、大きすぎる注射器。何かの薬品。ロープ。ろうそく。しまいには玩具にしては物騒な馬の乗り物と、何に使うのかよく分からない器具ばかりで、なのはの不安を煽るには充分すぎた。

 

「んー! ん~~!?」

 

 恐怖に駆られた少女は堪えきれずに助けを呼ぼうと叫ぶ。けれど、口を塞がれていて声が言葉になる事はない。

 そんな、なのはの様子に気が付いたのか、男がゆっくりと振り向いて……笑った。異性でなくとも嫌悪感を抱きそうな厭らしい笑み。瞳にはありありと加虐心が浮かんでいて、まるで獲物をどうやって甚振ろうかと考えているかのよう。

 なのははぞっとした。恐怖による怯えで身体は震えだし、瞳が見開かれる。顔を逸らしたいのに男から目が離せない。

 

「よう、嬢ちゃん。目覚めたかい? ひっひっひっ、安心しな。とっておきの(自主規制)ムービーだ。すぐには殺さねぇよ。そうだな~~まずは股座を開いてそれから……」

 

 男の言葉は途中から頭に入らなくなった。恐怖でアドレナリンが分泌され瞳孔は拡大し、血圧が上昇することで著しく体温が上がる。なのはの中で何かが書き換わろうとしていた。

 

(しにたくない……しにたくないっ……)

 

 幼い少女の思考はただひたすらに、死にたくないと願い。生存本能が極限まで高まっていく。

 

「さて、お楽しみの時間だ。ははっ! すげぇあったかい身体、興奮してんのか? それともビビってる? いいぜぇ、泣き叫び恐怖で顔を歪ませろ! そのほうが最高に絵になんだよ。失禁するとなおいいなぁ。きひひ!」

 

「んー! んーー!!」

 

 男は無造作になのはの身体を持ち上げるとマットの上に放り込んだ。襲い来る脅威から遠ざかろうともがくなのはだが、手足を縛られた状態では為す術もない。

 それを知ってか知らずか、男はなのはの口元を塞ぐガムテープを剥がす。途端に部屋に響き渡る幼子の悲鳴。

 

「やだぁ!! はなして!、なのはをおうちに帰してぇっ!!」

 

「いいぞぉ、もっとだ。もっと叫べ! 嬢ちゃん虐めがいがあんなぁ。ははは!」

 

「いや……助けておにぃちゃん! おねぇちゃん! おとーさん」

 

「助けを呼んだって誰も来ねえ。嬢ちゃんは俺と二人っきりだ。いっぱい気持ち良くなって、それからいっぱい痛くして、最後に絶叫をあげてくれよ? ひゃはははは!!」

 

「あっ……あっ……」

 

 男の誰も来ないという言葉になのはは絶望する。足を縛っていたガムテープを剥がされ、両手で股座を開かせようとする男に抵抗していた少女は諦めたように大人しくなる。

 ドクンッとなのはの心臓が高鳴った気がした。鼓動は次第に大きくなっていく。頭がすーっとしていく。思考が感覚がクリアになる不思議な感じ。時間が遅くなったかのような錯覚をなのはは覚えた。

 死にたくないという切望。殺されるという絶望。何されるのか分からない恐怖。虐げられることへの逃避。それらは極限まで追いつめられた少女の覚醒を促すには充分で。

 衣服を乱暴に破られ、素肌が顕わになったなのはに、男の醜い顔が近付いてきた瞬間。なのはは最大限の危機感を抱いた。

 その瞬間、少女の頭のなかで何かがはじけた。

 

 腹筋の要領で身体をくの字に曲げる。その速度が尋常ではなく、男にはなのはの顔が急に近づいたかのように感じられただろう。だが、迫ってきたのは縛られた両手の指。

 

「ぐぎゃああああ…………!!?」

 

「…………」

 

 なのはの小さな手、細い指がオトコの左目に差し込まれたかと思うと、躊躇いもなくえぐりぬいた。おびただしい量の返り血が溢れて飛び散る。なのはの顔を、素肌を晒した上半身を鮮血が染めていく。

 たまらず、なのはから手を放して絶叫を挙げる男。背中を仰け反らせて両手を抉られた眼窩に押し当てる。

 なのははぶにゅりとする眼球を握りつぶした。別に意図したわけではなく手首に力を入れる際に、両手を握りしめただけのこと。両手を縛るガムテープを、顎を使って食いちぎる勢いで引き延ばすと、縄ぬけのようにするりと両手を引き抜いた。

 その速度が尋常ではない。あきらかになのはは身体の限界を超えている。

 蹲って痛みに震える男を背筋が凍りつくかのような視線で一瞥すると、素早くしなやかに飛び掛かって。男の片耳を全力で食いちぎる。何処を攻撃すれば致命傷を与えられるのか、小さく幼い自分と男の体格差を把握して判断した結果だった。

 

「ああ、あああああぁぁぁ! み、耳が、目が、イタイィぃぃ……」

 

 怯む男になのはは攻撃の手を緩めない。普段の意識がシャットアウトされ、本能と咄嗟の判断力、戦闘に特化した高速処理される思考で戦っている。

 食いちぎった耳をペッと吐き捨てると、落ちていたナイフを拾って男の肋骨の隙間に突き刺す。刺さった凶器は筋肉に挟まれてとてもじゃないが引き抜けない。反撃を受けないよう刺したまま離れる。

 

「あぐぅ……かひゅ、かひゅ、はぁふぅは……」

 

 大胸筋、腹筋、わき腹では筋肉に阻まれると判断して、次は鋏を男の喉に突き立てる。手近なコンクリート片を頭に投げつけて脳震盪を起こさせる。ふら付く男の後頭部に不破流・徹を叩き込む。素早くしなやかに行われる連撃。男が痙攣して血反吐と泡を吹きながら倒れた。

 肺と喉の呼吸器系を損傷させられたのだ。あふれ出す血が肺の中に溜まり、喉から通る筈の空気は漏れだす。想像できないほどの苦しみと激痛が襲っている筈だ。いや、もしかすると脳の機能はすでに麻痺して感じる意識さえないかもしれない。

 

 なのはの攻撃はなおも続いた。自分でも扱えそうな先の尖った鉄パイプを探し出して、倒れる男の背中から素早く突き立てる。追い打ちで鉄パイプを捻った。内臓はグチャグチャになり、肉の潰れる音や骨の砕ける音が響いた。鮮血がいくつも噴出しては床に血だまりが出来上がる。マットは男の鮮血で染まる。

 男はもはや悲鳴すら上げない。ただ、びくんっびくんと身体を痙攣させているだけだ。

 

「…………」

 

 それでも、なのはの一方的な攻撃は続いた。何本もの鉄パイプを手にしては男を滅多刺しにしていく。

 なのははシリアルキラーと化していた。不破の鍛錬によって外れかけていた肉体のリミッターが皮肉にも誘拐犯の手によって外されたのだ。まさか、男自身も小学生になったばかりの女の子に殺されるなど夢にも思わなかっただろう。

 やがて、煩いくらいの豪雨の音が部屋に響き渡る中で、なのはは力を失ったかのように膝から崩れ落ちた。

 

◇ ◇ ◇

 

 美由希は声がかき消されそうな程の豪雨の中で、確かに誰かの悲鳴を聞いた気がした。甲高い悲鳴ではなく、野太い絶叫のような叫び。組織の抵抗する人間を始末した時にあげる叫びに似ている。平たく言えば死に際に上げる断末魔だ。

 思わず立ち止まって意識を聴覚の方に集中させ、周囲から聞こえる雨音の中にあっても、小さな音を聞き分けられるように研ぎ澄ます。肌で感じる体感すら利用して音の種類を判別する。

 聞こえる。確かに聞こえてくる。一際、大きな絶叫と、小さすぎて聞こえにくいが地面を叩く音。

 

「あのビルか!!」

 

 美由希にとって音の種別はどうでも良いことだ。響き渡る音の発生源から場所と方向を割り出すことができればそれでいい。音を感知して数秒も立たずに目的地に向けて駆け出す。

 廃ビルのひとつに向かい、ガラス張りの扉を開けるのも面倒なので、ガラスを蹴り砕いて室内に突入する。そのまま非常階段へと向かい、上階に続く階段をひとっ跳びで乗り越えていく。

 そして、目的の部屋の前にたどり着いた瞬間。美由希は躊躇いもせずに扉を蹴り破った。脆くなっていた扉は開くどころか、固定された部分が外れて勢いよく床に叩きつけられる。

 

 暗器のひとつ。飛針をいつでも抜き放てるようにして、部屋に飛び込んだ美由希は目を疑った。疑うしかなかった。

 まず目に映ったのは血塗られた床だ。視線を辿っていくと形容しがたい肉の塊があった。ケーキの蝋燭を突き立てるみたいに何本もの鉄パイプが突き刺さっていて、身元は誰なのか判別できそうにない。

 

「なのは……」

 

 その傍に、虚ろな瞳の少女が佇んでいる。衣服は無残にも引き裂かれ、綺麗な肌に鮮血を纏った女の子。見間違いようがなかった。美由希の大切な妹のなのはだ。彼女のお気に入りだった髪型、二本のおさげは解かれていて。母から貰った物だと大事にしていたリボンが無くなってしまっていた。

 美由希は唇を痛いほどに噛み締めた。胸中には無事で良かったと思う安堵。そして、間に合わなかったという後悔が渦巻く。

 生きていたくれたことが、忘れていたはずの涙を流してしまう程嬉しい。けれど、流す涙には悲しみも大いに含まれる。

 妹の顔を見ただけで分かってしまった。人形のような生気を失ってしまったかのような表情。何も映しだそうとしない虚ろな瞳。もう、もう二度と妹は明るい笑顔を見せることはないだろうと悟ってしまった。少女に及んだであろう凶事が未遂に終わったのだとしても。

 この惨状を引き起こしたのが誰なのか言うまでもない。そうなるように仕組んでいたのは父であり、美由希でもある。そして、どんな理由があったにせよ人を殺した苦しみは一生、彼女を傷つけるだろう。かつて美由希がそうであったように。だから、なのはの笑顔を見ることはできない。

 

 美由希はなのはに駆け寄ると滴の滴る装飾を脱ぎ捨てて、強く抱きしめた。もはや、抵抗する気力がないのか、それとも敵意がないと分かっているのか、されるがままに姉の抱擁を受け入れる少女。

 

「ごめん……ごめんね、なのは……」

 

 謝ったってきっと妹は許してくれないだろう。たとえ許されたのだとしても、美由希は己を赦すことができそうにない。なのははどれほど怖かっただろうか、助けを求めても誰も来なかった状況にどれほど絶望したんだろうか。それを考えると助けられなかった自分など許せるものか。

 同時に美由希は決心する。もう二度と妹にこんな想いはさせないと。相手が報復になのはを襲ったというなら、付け入る隙が此方にあったということ。ならば今度は逃げ回ることしかできないように徹底的に容赦なく叩き潰してやると。鼠一匹とて生かしては返さない。

 どの道、なのはに厳しく接して辛く当たってきた美由希に、いまさら優しい顔して会う資格などない。ならば、自分なりのやり方でなのはを護ってみせると美由希は誓う。

 そんな、慟哭と憤怒に震えて涙を流す姉を、なのはは無意識にそっと抱き返した。

 

◇ ◇ ◇

 

 悲劇の日から一週間が経過した。

 あの後、連絡を受け付けて駆け付けた不破一同はなのはの保護を最優先とした。後始末は月村家とバニングス家が引き受けてくれたので問題ない。死体の処理は月村、警察組織の抑えと説明はバニングスがしてくれる。

 報復はすぐに始まった。士郎と美由希が率先して海鳴に潜む組織の間者を始末するところから始まり、苛烈な拷問によって情報を引き出す。さらなる襲撃と繰り返されるようになる。この日から美由希は家に帰ることが少なくなった。

 そんな中にあって恭也はなのはの側を離れなかった。あんなのことがあったのだ。誰かが常に傍にいて護衛するのは当然だが、恭也は何よりも優先して妹の傍に居てやることこそが大事なんだと気が付いたから。

 なのはの部屋に居座りながら、ベットに眠る少女の看病をずっと続ける。

 

「うっく……おえぇぇ……はぁはぁ……うぅ……」

 

「なのは、大丈夫か?」

 

「ふるふる」

 

 なのははあの日から悪夢にうなされ、嘔吐するようになった。今も洗面器に用意された桶に胃液を吐きだしてしまっている。だから、用意する食事は粥などの流動食でなるべく起きているうちに食べさせた。足りない栄養は点滴で補う。そうしないと、彼女は餓死してしまうんじゃないかと恐れてしまうくらい危ない状況だ。

 妹の背中を労わる様に優しくさすりながら、恭也は自然と優しい声でなのはを案じる。

 なのはは弱々しく首を振ることしかできなかった。そりゃそうだろう。あそこまで追いつめられれば誰だって大丈夫だと言えない。むしろ、素直に弱音を見せてくれる方が安心できる。抱え込むよりはずっといいと恭也は思う。

 

 普段の明るさはなりを潜めて怯えるなのはを、恭也は抱きしめる。ずっとそばにいる。離れたりしないから安心してほしいと少しでも伝わるように。

 実際、恭也は片時もなのはの側を離れるような真似はしなかった。食事も、寝る時も、風呂も、排泄の時でさえ彼女のそばにいた。食事の準備は忍の計らいで派遣されたノエルがしてくれるので問題ない。

 こんなときでさえ、復讐に走る士郎と美由希に言ってやりたいことは山のようにある。でも、なのはの方が大事だから恭也は全てを後回しにした。自分のことでさえも。

 

 その甲斐あってかなのはは少しずつ回復の兆候を見せ始めた。流し込むように食べさせていた粥も自分で食べようとしてくれる。手が異様なまでに震えるのでそっと添えてやらねばならないが、食べようとするのは生きようとしているのと同じこと。

 脳が疲労困憊になるまで眠れなかったのも、恭也が添い寝すれば安心して眠るようになった。

 それでも、まだまだ油断できない。真夜中に叫び声を挙げてはパニックになって暴れる。ここのところ恭也の身体は、なのはに抉られたひっかき傷でいっぱいだ。

 何よりも厄介なのは雨の日だ。なのはは雨がトラウマになってしまった。雨音を聞くだけで震えあがり、緊張しきった身体は体力を無駄に消耗させる。

 そんなときは恭也が無駄に大きな声を挙げて歌うことで、雨音を気にしないようにした。フィアッセという知り合いの女性を真似てみたが、無駄に下手くそで居合わせていた忍に腹を抱えて笑われた。なのはも少しだけ笑ってくれた。

 恭也は少しだけむっとしたが、自分が道化になる事でなのはが元気になるならそれで良かった。

 

 さて、今日はどうしようかと考える恭也。一週間となるとやることも無くなってくるころだ。恭也はまだまだ人生経験が足りないので、おもしろい話などひとつも浮かばない。ならば、忍が選んでくれた絵本でも読み聞かせようと考えて、袖を引っ張られる。相手は言うまでもない。

 

「なのは、どうかしたのか? 何か食べたいものでも……」

 

「あの、ね。おにぃちゃん……」

 

「なんだい。遠慮せず言ってごらん」

 

 か細い声で呟く妹を励ましながら、恭也はできるだけ聞き取ろうとなのはの口元に耳をよせる。五感を研ぎ澄ましている恭也なら、そんな事をしなくてもいいのだが。ちゃんと話を聞いているという姿勢を見せることは大事だった。

 なのはは迷ったように言葉を詰まらせたが、やがて意を決したように呟く。

 

「どうして、おとーさんも、おねぇちゃんも、なのはの傍に居てくれないの?」

 

「それは……」

 

 恭也は押し黙るしかなかった。言えない。言えるはずもない。二人が何をしているかなんてとてもじゃないが……

 

「寂しい、会いたいよ」

 

「ごめんな、なのは。父さんと美由希には後でちゃんと言って聞かせる。だから、その、ごめんな」

 

「こくん」

 

 恭也の言うことを聞いて素直に謝るなのは。

 謝ることしかできない恭也は己を不甲斐なく思う。本当に妹が望んでいることをしてやれなくて情けなく思う。

 この少女は、ただひたすらに家族の温もりを求めている。恭也だけじゃ足りない。もっと大きな温もりを。

 一緒にご飯食べて、一緒にお風呂に入って、一緒に寝てあげる。幼い時に誰もが経験するであろう家族の、親兄妹の愛情。そんな当たり前のことすら与えてあげられない自分たちを恭也は大層嘆いた。護るべきはずの少女を傷つけているのは他ならない自分たちだ。

 だというのに、それに気が付いているのに何もしてやれない自分自身が情けなくて、恭也はただ、ただ、目の前の愛しい妹を抱きしめることしかできない。強く強く抱きしめることしか。

 

「いたいよ……おにぃちゃん」

 

「ああ、ごめ、ん、な」

 

「どうして泣いてるの……なのはがいけないことしたの……?」

 

「いや、ただ、俺たちのせいなんだ。なのはは悪くない」

 

「……?」

 

 表情が乏しくなった首を傾げる少女の頭を優しくなでる。

 今からでも間に合うだろうか。母の桃子は決してこんなことなど望んじゃいない。きっと一家が幸せになる事を望んでいる筈だ。

 まだ、手を伸ばせば家族の絆を取り戻せるだろうか? いや、やるしかない。なのはにこれ以上、寂しい思いをさせない為にも、自分が何とかしなければと恭也は決心するのだった。

 


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