リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき   作:観測者と語り部

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〇プロローグ2 友達と家族

「いや……いやぁ……」

 

 なのはは豪雨の鳴り響く部屋の中で身動きが取れずにいた。身体が異様に震えて、いうことを利かない。

 目の前に薄汚い笑みを浮かべて、なのはを捕まえようと手を伸ばす男がいた。嫌悪感を抱くような情欲にまみれた瞳。薄汚い歯をむき出しにして笑う醜悪な顔。

 逃げられない、逃げられないならどうすればいい? 助けが来ないならどうすればいい? 決まっている。殺すしかない。

 その考えに至った時、なのはの頭で何かがはじけた。

 

「あ、あああぁぁぁああ!!」

 

 次に意識を取り戻すと、なのはは怯えたような悲鳴を漏らす。

 気が付けば男は腹に鉄パイプを突き刺したまま立っていた。千切れた耳から血を流し、黒い色に塗りつぶされた眼窩から血を垂れ流し、身体中の至る所から、男の血液が全て噴き出したんじゃないかって思うくらいに赤い液体がこぼれて。

 

「うげ……がぁ、ぐぎがぁ……」

 

 男が訳の分からない言葉を吐きながら、今度は血にまみれた手を苦しそうに伸ばす。どろどろとした血を手のひらから、指先から飛び散らせる。

 

(な、なに、なんなの……?)

 

 顔に掛かったそれを拭おうと、手を擦りつけるようにして拭いたなのはは違和感を感じた。拭いた手からぬちゃりとした熱い水の感触がしたのだ。

 

「ひぃ!!」

 

 思わず手を顔から離して覗き込んだなのはは、よろけて尻餅をつくしかなかった。

 なのはの手から赤い、赤い液体が零れ落ちていた。不思議と痛みは感じない。それでも血が手から滴り落ちる感触は気持ち悪い。咄嗟に来ていた服で何度も、何度も、手を拭いても、溢れ出る血は止まることを知らない。それで、なのはは気が付いてしまった。

 これは、自分の血ではない。目の前の男の返り血。よく見れば、なのはの胸も、お腹も、血にまみれていて。そこから滴り落ちた血液はふとももから足先まで、なのはを赤く染め挙げた。

 血はだんだんと溜まって行って、床に大きな血だまりが出来上がる。それはとどまる事を知らずに部屋中を埋め尽くし、一面が赤く染まった。心なしか窓から見える降りしきる雨も赤い気がする。

 気が付けばなのはは血の海にいた。あっという間に赤黒い海の中に沈んだ少女。苦しくて気持ち悪くて息を止めるけれど、堪えきれずに開いた口から血液が流れ込む。不思議と味はしなかった。だが、溺れる。このままじゃ溺死してしまう。

 何とか息を吸おうと水面を目指そうとして、足を掴まれた感触。なのはを逃がさないと、引きずり込もうと引っ張られる。下を向くとなのはが殺した男が醜悪な笑みを浮かべて、こう呟いていた。

 

――オマエモミチヅレダ。

 

「っ――――――!!」

 

 寝室に声にならない悲鳴が響き渡る。

 なのはは上半身を勢いよく起き上がらせると、恐怖で高ぶる鼓動を抑えるように、寝巻の上から胸に手を当てる。背中はびっしょりと汗で濡れていて気持ち悪い。震える体と荒い呼吸は、いくら深呼吸しても収まる気配を知らなかった。

 また、この夢だ。雨季が近づくと決まってなのはは悪夢にうなされるようになる。あの日から、がむしゃらに勉強に打ち込んで、嫌だった不破の鍛錬を自ら率先して行うことで心身を鍛えてきた。その甲斐あって悪夢を見なくなったのに。雨の降りやすい時期だけはどうにもならない。必ず悪夢を見る。

 怖い。こんな日は外に出歩きたくない。また、浚われるんじゃないかと思うと憂鬱になる。

 

(大丈夫。大丈夫だから怯えるな、なのは。私は大丈夫だ)

 

 けれど、いつまでも閉じこもっている訳にはいかないと、なのはは自分に言い聞かせる。弱いままの自分では一生悪夢にうなされる。なら、乗り越えるためにも強くならねばならない。恐怖に打ち勝って克服せねばならない。

 

「はぁぁぁぁ……」

 

 一際、大きなため息を吐いたあと、なのははベットから抜け出してパジャマを乱暴に脱ぎ捨てた。本当なら朝起きて、無愛想な父親と一緒に不破の鍛錬を行うのだが、こんな日は中止だ。気が滅入って真剣に打ち込めない。それでは意味がない。

 きっと起こしに来たであろう父も、それを察しているのか起こさなかったんだろう。どうせなら悪夢が終わるよりも早く起こしてほしかった。あるいは起こせなかったのか。無理にでも目を覚まさせようとすると酷く暴れると、なのはは兄の恭也から聞き及んでいる。

 

 なのははクローゼットから聖祥の制服に着替えると、クローゼットの裏に備えられた鏡を見た。目元に濃い隈ができた酷い顔だった。気分転換に新しく買ってもらったリボンを使って、おさげにしようかと思ったがやめた。どうせ、今の自分がしても似合わないだろうから。

 朝から最悪な一日だ。こんな日は学校に行きたくない。

 

 当然ながら、誘拐されたなのはは、しばらく学校に通える状態ではなかった。

 兄がつきっきりで看病してリハビリを手伝ってくれたおかげで、外に出歩けるようになり、学校にも通えるようになったが、死人のように暗い女の子に誰も近寄らなかった。だから、仲のいい友達なんて一人もいない。

 勉強のしすぎで学校の授業は学んだことばかりの内容でつまらない。あのことを忘れる為に予習復習を繰り返してきたせいか、忘れることもなかった。テストは睡眠不足で居眠りしない限り満点だ。

 体育も不破の修行の所為なのか、誰よりも運動が飛び抜けてしまって全力を出せない。ドッチボールは加減しなければ相手の男の子は泣き出してしまうし、駆けっこだって、ゴールしたことに気が付かずに100メートル分、余計に走っていた。相手の子はずっと後ろ。抜き放した事さえ気が付かなかった。

 勉強もつまらない。運動もつまらない。クラスの子との会話も何を話していいのか分からず、喋る気力を失くす。

 

 だというのに、学校に通い続けるのは、それしかやることがないからだ。家に居ても暇なだけ。仲の悪い父親と二人っきりなど御免だった。

 

 士郎は負傷したのか、家にいることが多くなった。身体に走る裂傷が傷の深さを物語る。まあ、それでも、なのはなど足元にも及ばないくらい強いのだが。

 姉の美由希は何処かへ出かけることが多くなり、いつにも増して、なのはをあからさまに避けるようになった。会うたびに顔を歪ませるのでよっぽど嫌われているんだろうと、なのはは思う。

 二人とも帰って来るたびに、血なまぐさい臭いが濃くなっている。だから、二人が何をしているのか、なのはは薄々勘付いているが指摘するつもりもない。これ以上、仲がこじれるのは面倒だから。

 二人が自分を嫌う理由も、なのはは何となく察している。失った母の面影を見て傷つくからだ。だから、あからさまに、なのはも二人を避けるようになった。

 

「はぁ……」

 

 ため息を吐いたなのはは、とぼとぼと部屋を出た。いろいろと憂鬱に考えすぎた。早く、兄が作った朝食を食べて学校に行くことにする。

 

◇ ◇ ◇

 

「学校の用意した通学用のバスだからと言って気を抜くな。帰宅するときも警戒しろ」

 

「はい」

 

「学校の中でも油断するな。なるべく人と行動するよう心掛けろ」

 

「はい」

 

 同年代のクラスメイトがみたら泣くんじゃないか。そう思わせるほどの形相で淡々と注意して来る父の士郎に、何処か上の空で、なのはは返事する。

 別に彼は怒っている訳ではない。昔からそうなのだ。深い皺の刻まれた顔立ち。コールタールのようにどす黒いと思わせるほどの暗い瞳。表情も一切変えようとしないので、付き合いの短い人は士郎が何を考えているのか読めないだろう。

 

「聞いているのか?」

 

「……はい」

 

 娘が真面目に聞いていないことを察した士郎は、軽く顎を掴んで顔をあげさせる。本当に聞いているのかと、問いかけるように。

 しばらくして、こうしても意味はないと判断したのか、呆れたのか分からない。士郎は手を離すと咎めるように軽くなのはの頭を叩いた。今日はそれだけだ。怒るときは静かでいて烈火のごとく怒り狂う父も、悪夢を見た娘を追いつめるような真似はしないらしい。そのまま家の中に去って行った。

 

(他に言うことがあるでしょうに……)

 

 例えば、いってらっしゃいとか。気を付けないさいとか。

 どうして私の親は、そんな当たり前のことが言えないんだろうと、なのはは俯いた。そして、仕方がないことだろうと諦める。普通の家庭がしてくれることを父や姉に求めたのが間違いなのだ。

 最初は真に受けていた父の言葉も、なのはは無視する。あれでは四六時中、気を抜くなと言っているようなものだ。そんなことがしたら息が詰まってしょうがない。

 迎えに来たバスに乗り込むと、なのはは適当な席に腰かける。朝からどっと疲れた。

 

◇ ◇ ◇

 

「かえして、かえしてよ!!」

 

「なによ! ちょっと見せてほしいからとっただけじゃない!!」

 

(はぁ、どうしてこうなったんでしょう?)

 

 なのはは心の中で呟くと頭を押さえてため息を吐いた。どうにも今日は憂鬱げに息を吐くことが多い気がする。

 

 小学二年生になっても、授業が退屈であることに変わりはない。よその学校と比べればいささか内容の難しい授業だが、大学生である恭也と忍から勉学を学んだ身としては簡単すぎてどうにも暇になる。

 

 そんな中で新たに見つけた趣味は二つ。

 ひとつは人間観察。真面目に授業を受けるふりをしながら、ノートに黒板に書かれたことを書き記す。そして先生の隙を伺ってはクラスのみんなが何をしているのか盗み見る。これがなかなか楽しい。まるでゲームみたいだ。

 退屈そうに欠伸をしている金髪の少女もいれば、大人しい雰囲気で生真面目に勉強している女の子もいる。なかには勉強が詰まらなくて居眠りする男の子もいる。先生の前で堂々と。自分にはあんな真似できないと驚いたものだ。もちろん、その子は後でこってりと叱られていたが。可哀想なので今度は起こしてあげようと思う。

 

 二つ目は読書だ。暇つぶしに学校を散策していたのだが、そこらへんの本屋よりも立派な図書館を見つけた。そう、図書室ではなく図書館。見渡す限りの、あらゆる蔵書が眠った部屋。退屈しのぎにと司書の人におすすめを聞いて一冊だけ拝借した。

 せっかくなので、食事がてら借りた本を読もうと、いつものように屋上の給水塔の影で過ごしていたなのはだったが、慌ただしい足音と気配を感じて思わず隠れる。

 

 現れたのは二人の女の子。見覚えのある子たちだった。

 今年からクラスメイトになったアリサ・バニングスと月村すずかだ。アリサは、いつも退屈そうにしていて、高飛車な態度で他を寄せ付けない。すずかは頭は良いものの、どこかおどおどしていて、満足に言葉を話せない子だった。どちらも、その性格ゆえか友達らしき子供はいない。なのはも人のこと言えないが。

 なのはは影から二人の様子を伺っていたが、やがて顔をしかめるようになる。月村すずかが泣き出したからだ。

 聞いている内容では、どうやらアリサがすずかの大切なヘアバンドを無理やり取ってしまったらしい。それはどうでも良かった。いじめに対して変な正義感を抱いて介入するのを、なのはは良しとしない。自分は殺人者。過剰な力は余計に人を傷つけてしまう。だから、アリサのことは放って置くつもりだった。

 だが、すずかの泣き叫ぶ声はダメだ。甲高い声は寝不足気味のなのはの頭にガンガン響くのだ。おかげで頭痛は収まることを知らず、鬱陶しいことこの上ない。

 

「それは、たいせつなものなの!! だから、かえしてよぅ……!!」

 

 返して返してと叫ぶわりには、決して無理に取り返そうとしないすずか。そんなに大切な物なら、どうして力づくで奪わないのかと、なのはは不思議に思う。すずかは、ああ見えて運動能力はトップクラスだ。流石になのはには叶わないだろうが、他の子よりも運動が得意なアリサ程度など造作もない。

 彼女は他人を傷つけるのが嫌いなほどに優しすぎるのだろうか。でも、ヘアバンドを諦めるそぶりは見せない。意外と頑固なのか、もしかすると、あのヘアバンドは、なのはの母がくれたリボンのように大切な物なのかもしれない。

 

(くだらない……)

 

 そう思いつつも、なのはは介入することにした。ほんとに五月蠅くて敵わないのだ。決してすずかに情が湧いたわけではない。ないったらない。

 給水塔の上から軽々と飛び降りると、なのはは足音をできる限り殺して着地する。意図したわけではないが、無意識に気配を消そうとするのは、暗殺者としての不破家の常か。そして、騒々しく口喧嘩する二人の少女の背後から忍び寄って、そっとヘアバンドを取り上げた。

 

◇ ◇ ◇

 

「ちょ、だれよ。アタシからヘアバンドを……えっ!?」

 

「あ、それ……わたし、の……うっ」

 

 アリサはいきなり背後からヘアバンドを取られたことに驚いた様子で振り向き、すずかは誰かに取られたヘアバンドは自分の物だと主張しようとするも、幽鬼のように立ち尽くす少女の顔を見てぎょっとしたように固まる。

 気配もなく現れたことにも驚いたが、何よりもヘアバンドを取り上げた少女はあまりにも酷い顔をしていたから。目元には濃い隈ができていて、充血した瞳は生気がないかのように輝きを失っている。きちんと手入れすれば綺麗な髪も肌も荒れていて、今にも倒れそうな程に疲れ切っているのが、二人とも一目で分かってしまった。

 どうしてこんなになるまで休まないんだろうかと疑問に思う。疲れたのなら素直に眠ってしまえばいいのに、そんな当たり前のことをしないのが不思議だった。

 

「ほら、これは貴女の物なのでしょう? 大切な物なら、何が何でも自分で取り返そうとする気概を持ちなさい。泣き叫んで助けを呼んでも、誰も助けてくれない時がある。弱腰になって哀願するのも、やめた方が良いです。相手に付け入る隙を与えるだけだ。月村すずか。貴女には常人よりも力があるのでしょう? 嫌なことは嫌だともっとはっきりと言いなさい」

 

「う、うん……」

 

「アリサ・バニングス。この子の気を引きたいならもっと穏便な手段があるでしょう? それこそ一緒に弁当を食べようと誘ったりすることも出来たはず」

 

「っ……別にそういうつもりじゃ」

 

 少女はすずかに押し付けるようにしてヘアバンドを渡すと、押しの弱い虐められっ子に忠告を残す。

 もちろん、アリサだけ何も言われないということもなく。彼女はアリサに会ったことも話したこともないのに、勝ち気で素直じゃない女の子の本質を言い当てた。それは殺し合いで役立つと鍛えられた少女の鋭い洞察力だからこそ為せること。

 すずかは驚いたかのように目をぱちくりさせてアリサを見る。てっきり、大人しくて、いつもおどおどしている自分のことが気に入らないから、食って掛かっていたんだと思っていたのだ。まさか、そんな理由があったとは思いもよらなかった。

 少女の言い当てたことが図星だったのか、顔を羞恥に染めて瞳を逸らすアリサ。だが、恥ずかしさから湧き上がる感情はしだいに怒りの炎へと変換されていく。出会ったばかりの女の子に己の心を暴露されたのも気に入らない。けど、少女の淡々とした態度はもっと気に入らない。妙に癪に障る。

 アリサは攻撃的な雰囲気を滲み出して少女を睨み付ける。対する少女は動じることもなく涼しい顔で怒気を受け流していた。というより眼中にないといった表情だ。呆れているんだろうか? それにアリサはますます怒り。すずかは怯えたように身を竦ませるしかなかった。

 

「ッ! てっ、どうして見ず知らずのアンタに、そんなこと言われなきゃなんないのよ!? アンタにアタシの何が分かるっていうわけ!?」

 

「別に。ただ、ここのところ月村すずかに対して目立つ、貴女の行動を観察して、そこから推測したまでです。それと、騒ぐなら別の場所でやってください」

 

「なっ!?」

 

 いっそ冷徹とも言える表情でアリサを睨む少女。

 暗に、いつもならお前のことなどどうでもいい、ここで喧嘩されると鬱陶しいと、少女は真顔で言ってのけた。そのストレートな態度にアリサは絶句する。クラスメイトの子は誰もがアリサの勝ち気な雰囲気に呑まれて、委縮してしまう。だから、こうも真正面から感情をぶつけられたのは新鮮だった。それが嫌悪であっても。

 少女の覇気に当てられたのか、ぺたんと尻餅をつくアリサ。それを見届けると、もはや興味がないといった風に立ち去ろうとした少女だったのだが。

 

「ぁ……」

 

「あぶない!!」

 

 まるで、糸の切れた操り人形のように、意識を失って倒れそうになる。

 異常に気が付いたすずかが、目にも止まらぬ速さで少女を支えなければ、頭から固い屋上の床に叩きつけられていただろう。

 

「なにしてるのアリサちゃん! 早く先生を呼んできて!!」

 

「わ、わかったわ」

 

 急な事態に唖然としていたアリサだったが、すずかの叱責するような態度に押されて、慌てて保険の先生を呼びに行くのだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 どうしてこうなったのかと、なのはは人生で何度目か分からない。数えるのも億劫に成るほどの、溜息を洩らした。

 学校の屋上で広げられた弁当の数々、なのはと、すずかと、アリサの分。左を見やればアリサが、身振り手振りを交えながら、新人として雇われた執事の失敗談をおもしろおかしく話していた。右を見やればアリサの話を聞き、瞳を閉じて口元を手に当て、上品に笑うすずか。

 

 こうなった原因はもちろん、自分自身にあるんだろう。すずかに今後も虐められないよう助言を、アリサには友達ができない理由を指摘して。最後に屋上に近寄らないようにと、同年代の子供が恐れるほどの凄みを効かせる。そして、二人とは関わらないようにするつもりだった。なのはと関わると、危険な目に遭うかもしれないからだ。

 計算外だったのは、凄みを効かせた瞬間、限界が訪れてしまったこと。睡眠不足で唐突に意識を失わないよう、気を強く持っていたのに。余計なことをしたせいで疲労困憊になったのだろう。唐突に意識を失った覚えがある。

 

 そして、目覚めた時には学校が終わっていて、目の前にアリサとすずかがいた。なんでも付きっ切りで看病してくれたらしい。

 容体を見てくれた保険の先生は何も言わなかった。不眠症に陥ったなのはの事情を、ある程度には聞き及んでいるのだろう。しかし、このようなことが続くのであれば、入院も視野に入れると小声で呟いていた。なのはが気が付くのは当然として、すずかが息を呑んでいたから、彼女も聞いてしまったのかもしれない。

 まあ、ここまでは、なのはにとってどうでも良い話だ。

 問題なのは、アリサが素直になれない態度で、なのはのことを心配しつつも、あろうことか友達になりたいと告げたこと。

 なのはの仲介? もあって、すずかと仲良くなり、友達になれた彼女は、なのはとも仲良くなりたい様子だった。すずかも期待するような瞳で、訴えかけていたから、彼女もなのはと友達になりたいだろうと察した。

 物好きな子たちというのが、なのはの正直な感想。端から見れば根暗で、おもしろい話のひとつも言えず、意図的とはいえ空気といっても過言ではない自分と友達になりたい? 何の冗談だとなのはは薄く笑う。けれど、彼女たちの決意は本気だ。本気でなのはと友達になりたがっていた。

 だから、皮肉って言ってやったのだ。

 

――孤立組だからといって親近感でも覚えましたか? 傷の舐め合いがしたいなら余所でやりなさい。

 

 それは、あからさまな拒絶だった。こうすればアリサは怒り狂って、じゃあ知らないわよ。と離れていくだろうし、押しの弱いすずかも身を引くと思っていた。

 だけど、勝ち気な女の子は腰に手を当てて、にんまりと笑って見せた。なのはの態度に起こることもなく、気にした様子もない。ただ、堂々と、こう宣言したのだ。

 

――傷の舐め合い上等! アタシをバニングス家の娘だと知って、堂々と話しかけたのは、アンタが初めてよ。アタシに対して気に入らないことをハッキリと言ってくれるの、すごく嬉しかったんだから。それに。

 

――それに?

 

――アタシ、なのはのこと好きだから。

 

――……えっ?

 

――だから、アンタと友達になりたい。

 

 絶句するしかなかった。いや、アリサが友達として自分を好いているんだと、なのはは頭では理解している。けど、理性が追い付かないのだ。

 好き……? 誰を……? 不破なのはを? どうして? そんな疑問がなのはの頭の中を支配する。

 なのはは、自分がどうしようもなく、歪んでしまっていることを自覚している。友達などできるわけないと諦めていたし、誘拐される前ならともかく、今は他人と関係を持ちたくなかった。あの日から自分に巻き込まれると危険なので、できる限り、人を遠ざけていた。嫌われ者を演じることで、あえて他人に火の粉が降りかからないようにした。それは、なのはの優しさなんだろう。

 だけど、優しいからこそ、なのは自身が酷く傷ついた。本心は違うのに嫌われることをするたびに、なのはは落ち込んだ。だから、より一層の感情を殺すことで、無機質になることを選ぶ。そうすれば傷つかない。痛みは少ない。

 そんな凍り付いていた彼女の心に、ぶつけられたまっすぐな好意。あまりにも不意打ちすぎる想いに、なのはの思考は混乱する。閉じ込めていた心に隙が生まれる。

 そして、それを見逃すほど、月村すずかという少女は甘くはない。大人しい印象に反して、したたかな女の子は、本能的にアリサの援護をするべく言葉を紡ぐ。嘘偽りない正直な自分の想いを、なのはに伝える為に。

 

――わたしね。誰かに嫌われるのが怖くて踏み出せなかったの。けど、なのはちゃんが背中を押してくれたから、一歩を踏み出せた。アリサちゃんとこうして友達になれたんだよ? すごく嬉しかった。だから、今度は二歩目。わたしは、なのはちゃんと友達になりたい。ダメかな?

 

 上目遣いで、真っ直ぐに、なのはの瞳を見つめてくるすずかに、心を閉ざした少女はたじろいだ。えっと……。その……。と妙に恥ずかしそうな態度。他人に嫌われることは慣れていても、好意をぶつけられることは慣れていないのだ。家族とはまた違った情愛は、なのはの心を溶かすには充分すぎる。

 決定的な隙。アリサとすずかは顔を見合わせて頷いた。この子、押しにすごく弱いと。

 それからは、あっという間だった。あれこれ理由を付けて断ろうとしたのに、強引にも、互いを知る為に、屋上で弁当食べて話し合いましょう。そうしましょうと話を決められ。翌日、昼休みに逃げようとして、強引に連れ去られて、事の次第に至るという訳である。

 

「はぁ……むぐぅ!?」

 

 本日、何度目になるのか分からない、なのはの溜息。そのむざむざと開けられた口に、アリサから卵焼きを突っ込まれた。非難するかのように、ジト目でアリサを睨み付けるが、当の本人は呆れた顔をしている。

 

「何、辛気臭い顔してんのよ。食事の時くらい、嫌なことは忘れたら? 味気なくなるわよ?」

 

「むぐむぐ、ごっくん。ぷはぁ! だからといって、強引に人の口におかずを突っ込む人がいますか!」

 

 食べながら喋るのは行儀が悪いので、律儀に卵焼きを呑み込んで、抗議するなのは。対するアリサは涼しい顔をしている。

 

「じゃあ、強引じゃなければいいのかな? はい、あ~ん」

 

 そして、人の揚げ足を取って、さも当然のように別の卵焼きを差しだしてくる、月村すずか。

 

「そういう問題では……」

 

「食べないの?」

 

「うっ……」

 

「食べて、くれないの?」

 

 またもや、上目遣いでなのはを見つめる御淑やかな少女。瞳にうっすらと涙を浮かべている。

 なのははそれを嘘泣きだと判断した。絶対に演技が入っている。騙されないぞと警戒する。けれど、うっすらと瞳から滴をこぼし始めたすずかに、慌てた。もしかして本気で泣いているのではないか?

 仕方なく、渋々と言った様子で、差し出された卵焼きを咀嚼すると、途端に花の咲いたような笑顔を浮かべるすずか。涙をごしごしと拭って、えへへと笑っている。本気で泣いていたらしい。無意識に感情に訴えかけているのだとしたら、なのはは、この少女が苦手だ。どうにもやりずらい。

 まったく、本当にどうしてこうなったんだろう。友達なんて必要ないと思っていた。授業をつまらないし、学校に通うのは退屈だ。

 

「どう、おいしい?」

 

「そうね、ついでにアタシの卵焼きの感想も聞かせなさい」

 

「強引に食べさせられた上に、味わう気分でもなかったというのに、それを聞きますか? でも、まあ……」

 

(あっ、なのはちゃんが……)

 

(笑ったの、かしら?)

 

 自分でも気が付かないうちに、なのははうっすらと笑みを浮かべる。

 こういうのも悪くないと思い始めている自分がいた。他の子と同じように友達を作って、他愛ない話をして、一緒に食事を共にする。もはや、諦めかけていたこと。それが、叶って嬉しかったのかもしれない。

 歪んで、自ら凍り付かせた感情を、なのはは少しだけ溶かす。心を失くしていた女の子は、その欠片をほんのちょっと取り戻したのだった。

 

――味は悪くないですよ。アリサ、すずか。

 

◇ ◇ ◇

 

「それで、恭也兄さんは何の用があって私を呼びとめたの? こうしている時間ですら惜しいんだけど?」

 

 訓練用の胴着姿に無理やり着替えさせられた美由希は、不服そうに顔を歪めて目の前に立つ恭也を睨み付けた。チャームポイントだった三つ編みは解かれ、愛嬌のある眼鏡も普段からしなくなった美由希は、実の母である美沙斗にそっくりだ。鋭い眼つきは威圧感を伴って見る者を圧倒する。

 大事な話がある。そう恭也に呼び止められて、渋々したがって道場まで訪れた美由希だが、本意ではないのだ。かつて、義理の兄に恋をしていたからこそ、一時的に付き合っているだけに過ぎない。本当なら暗殺用の仕込みや情報を仕入れて、再び海外に高飛びするつもりだった。復讐の為に。

 兄が何の目的で声を掛けたのか定かではないが、少なくとも戦うことだけは分かる。わざわざ、訓練用の模擬刀を用意するくらいだから。

 

 恭也は、そんな美由希の態度を仁王立ちで迎え入れると、二番目の妹を見据えるように瞳を向ける。視線には、どんなに変わり果てても美由希を受け入れる。そういった意志が含まれていた。

 まるで、自分のことを咎めているような感じがして、美由希は気まずそうに瞳を逸らす。

 やがて、恭也は静かに口を開いた。

 

「父さんがなぜ、復讐をやめて家に留まっているのか。知っているか?」

 

「負傷して戦えるような身体じゃないから、かな。あとは……知らないわね」

 

 娘のなのはの事が心配だから。とは口が裂けても言えない美由希だった。一言でも呟いてしまば、本心を見透かされそうな気がして。なのはのことが、大好きなんだと、ばれてしまう気がして。そうなってしまったら戦えなくなるような気がした。いつも通りの復讐鬼でいられなくなる。弱く、なってしまう。

 もはや、復讐は歯止めが効かない。ならば相手を殺し続けることで、なのはに迫る危険をできる限り遠ざける。それが美由希の覚悟。自分の都合の為に、いいように妹を理由にしている。美由希の歪んでしまった覚悟だった。

 美由希の答えに、恭也は静かに首を振る。そして、驚くべき真実を告げた。

 

「負傷ごときで復讐をやめるほど、父さんの抱いた憎しみは軽いものじゃない。止めなければ死ぬまで戦っていたはずだ」

 

「どういう、こと……?」

 

「俺が父さんを戦えなくした。負けたら復讐を止めて、なのはの傍にいるようにと。そういう条件で叩き潰した。だけど、勝ったとき。悪いと思ったが、剣士の命である利き手の筋を断ち斬ったよ。そうでもしなければ、きっとあの人は止まらないだろうから」

 

「なっ……!」

 

 美由希は兄の言葉に絶句する。だが、流石というべきか。すぐさま冷静さを取り戻して身構えた。同じように恭也も二刀を構える。殺すための不破ではなく、護るための御神の構え。彼の決意を体現する力。

 恭也の態度からして、何が目的なのか美由希は察した。止めるつもりなのだ。美由希を傷つけても、剣士として二度と立ち直れないようにしてでも。

 

「本気なの?」

 

「俺が冗談を言えるような男だと思うか? 全ては、なのはの為だ。あの子が真に望むものを叶えてやる為に。言っても聞かない家族は無理やりにでも……」

 

「っ……違うわよ……」

 

 彼のなのはの為という理由に、顔を苦悩で歪ませながらも、美由希は否定する。本気という意味はそこではないと。訝しむ恭也に美由希は告げた。己の真意を。

 

「本気で私に勝てると思っているのか? そう聞いたのよ」

 

 それは純然たる事実。恭也と美由希にある力の差。

 御神の剣士としての才能は美由希の方が遥かに上だった。恭也は努力する秀才だが、美由希は本当の天才だったのだ。物覚えは悪くとも一度覚えたことは決して忘れない。確かに恭也も強い。神速を重ね掛けできるほどの才能もある。だけど、美由希は復讐という戦いを繰り広げ、数多の戦場を駆け巡ることで、その才能を開花させていた。師である士郎と恭也を超えるかのように。

 何よりも普段から護る為に、大切な人の傍に居て平和の中で過ごした恭也と、殺すために地獄ともいえる裏世界で、戦いを繰り広げた美由希。どちらが強いのは、恭也も分かりきっていたことだ。それでも……

 

「俺には負けられない理由がある」

 

 それでも退くつもりなど毛頭なかった。全ては、妹のなのはの為。桃子が何を望んでいるのか考えた結果。

 戦う目的を見つけ、覚悟を決めた男に引き下がる理由などありはしない。

 家族を、もう一度優しかった高町の絆を、取り戻すために。

 

「それに、勝てるんじゃない。勝つのさ」

 

「そう、なら全力で叩き潰してやるっ! 私を阻むものは誰であろうと許しはしないんだからッ!!」

 

 不敵に嗤う恭也に美由希は咆えた。

 

 二人の剣士が暴風の如く駆け、互いに刃を交えた。護るための御神と殺すための不破。

 道を違えた兄妹、相反する性質を持つ、二つの流派がぶつかり合った。

 たった一人の少女の為に。

 なのはは、そのことを知らない。

 

 


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