リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき   作:観測者と語り部

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●雨の日のトラウマ

 空は快晴。上空から見下ろせる海は、穏やかな波を揺らし続けている。

 なのは、アリシア、ユーノの三人は一定の高度で待機しながら、緊張した様子で封印の準備を始めていた。

 既に防護服に身を包んだ状態で完全武装を終えている。魔法の術式に魔力を通せば、すぐにでも魔法を発動できるような体勢。

 全ては、これから行う封印作業に全力を尽くすため。油断なく、かつ迅速に。そうしなければ此方の身が危険に晒される。

 

「二人とも、用意はいい?」

「私はいつでも」

「わたしとバルディッシュも絶好調だよ!」

『Yes sir. All systems are go.』

 

 ユーノは傍らに浮かぶ二人の少女の言葉に頷くと、素早く印を結んで呪文を唱えた。印を結ぶのはデバイスとの相性が悪い彼によって編み出された独自の魔法行使法。胸の内に眠るリンカーコアから魔力を引き出して、展開した術式に通し、魔法を具現化させる。

 すると結界魔導師と謳われたユーノを中心として急速な勢いで魔力の檻が広がっていく。快晴だった空模様の空間は、異質な雰囲気に呑まれ、たちまち現実世界を位相空間へと誘った。周辺一帯に設定された人物と物質以外は外界に隔離される。

 これで大規模な異変を起こしても周囲には悟られない。桜色の光が飛び交おうが、雷光の輝きが瞬こうが、街の人々は気付きもしないだろう。たとえ穏やかな海が荒れ狂う大嵐に見舞われたとしても。何故ならばそれは別世界の出来事として処理されるのだから。

 結界が無事に展開できたことを確認したユーノは二人の魔法少女の後方に下がった。これからの彼はサポート専門。あくまでも二人を補助することが目的になる。デバイスを持たない彼では上手く封印魔法を行使できない故に。

 

 あらかじめ相談して決めていた作戦の第一段階。周辺一帯を結界で封鎖する作業は完了した。次は遥か海の底に眠るジュエルシードを強制起動させること。それが作戦の第二段階。

 

「それじゃあ、次はわたしの出番だね。いくよ、バルディッシュ!」

『Yes sir!』

 

 入れ替わるように前に躍り出たのは、金糸の輝く髪を、二房に纏めた女の子。その腰まで届くような長髪を風になびかせながら、黒色の戦斧をバトンのように回して、少女は身構えた。かなり無駄が多いが、彼女なりの気合の入れ方なのかもしれない。

 アリシアは瞼を閉じて押し黙ると集中し始める。彼女の足元に金色のミッドチルダ式魔法陣が広がり、魔法が発動し始める。それに呼応するかのように身体からは、小さな金色の雷光が迸って鳴り止まない。周囲を威嚇するようにバチバチと放電現象が起き始める。

 溢れんばかりの魔力から漏れ出た余剰な力。それを周辺に吐きだしている。雷に強力な耐性を持つ専用の防護服が遮ってはいるも、扱い方を間違えれば、少女に秘められた魔力は自身を滅ぼしかねない。それほどの力を彼女は持つ。

 

「アルカス・クルタス・エイギアス。轟きたる雷神の化身。どうか、わたしの声を聞き届けて欲しい」

 

 アリシアはバルディッシュを掲げるようにして、静かで力強い詠唱を続ける。その彼女の言葉に応えるかのように、空は瞬く間に集い始めた暗雲で覆われていく。雲一つない快晴だった青空は、見る見るうちに様変わりして、夜のような暗さに変貌していった。

 分厚い黒雲からは無数の雷光が輝きを放ち、遅れてやってくる雷鳴の轟きが聞く者を威圧する。アリシアの魔法によって意図的に起こされた自然現象。今まさに、雷が唸り声をあげて放たれんとしていた。

 

「大海たる水の底に眠る宝石。かの宝石を呼び覚ます力を今ここに」

『Thunder Rage. Setup.』

「その力を解き放て! サンダー・レイジ!!」

 

 そして、アリシアはバルディッシュを両手で持ち上げると、叫びと共に黒き戦斧を叩き降ろした。デバイスの石突が足場となっている円形の魔法陣に突き立ち。コーンという硬質な音を響かせる。

 瞬間、今か今かと待ち焦がれていたかのように、無数の雷光が収束地点に目掛けて集っていく。数個の巨大な塊となった雷光は、そのまま眩い光を放ち、次の瞬間には轟音と共に海へと導かれて落ちていった。

 一発、二発、三発、四発、立て続けに発生する落雷。そのたびに海は大きな水しぶきを上げ、雷鳴に負けじと海鳴も轟き声をあげた。

 

 サンダーレイジに変換された魔力が海を伝い、その奥底へと駆け廻ってゆく。彼の宝石を呼び起こさんと海をアリシアの魔力波長で満たしていく。やがて海の底にたどり着いた魔力が、眠り続けていた六つのジュエルシードを呼び起こした。強制的に覚まされ、目覚めたジュエルシードは互いに共鳴し合いながら、急速な勢いで海面に向かって巻き上がると、蒼白い不気味な光を放って空に浮かび上がる。

 追いかけるようにして集っていくのはジュエルシードに操られた海水だ。小さかったそれらは、しだいに膨大な量にまで膨れ上がって、ついには六つの巨大な海水の竜巻となって形成されていく。まるで覆い隠したジュエルシードを守らんとするかのように。

 そして、爆流のごとく渦巻く海水の中にあって、ジュエルシードの輝きは衰えることを知らない。巻きあげた海流の水面(みなも)に光を煌めかせながら、意志を持ったかのように時折輝くのが、何とも不気味で威圧感がある。思わず発する魔力に気圧されてしまう。

 そのまま巻き上げられた海水が、天まで伸びあがっていくと、止まる事を知らない水は分厚い雲に溶け込んで広がっていくかのようだ。

 少しずつだが、水滴が降り始めていた。雨だ。このままでは嵐になる。叩きつけるような豪雨は視界を遮り、吹き荒れる風は飛行を困難にするだろう。そうなれば落ち着いてジュエルシードの封印を行えなってしまう。一瞬の隙が命取りになりかねない。だから、早急に決着を付ける必要があった。

 

「負けるもんか! チェーンバインド!」

 

 ユーノが前面に展開した魔法陣から魔力で編み込まれた鎖を無数に放出。荒れ狂う六つの海流を抑え込まんと幾重にも絡みついていく。

 小さな鎖でも無数に束ねれば強靭な拘束具に変わる。後はこのまま少しでも長く暴走体の動きを抑え込めばいい。発動直後のジュエルシードは、自身の手足となる躯体を生成する過程だから動きも鈍っている。完全に覚醒して暴れまわる前に叩く。

 

 作戦の第二段階。ジュエルシードを覚醒させ、発動直後の暴走体をユーノが抑え込む作戦は成功した。

 次は暴走体の封印。動きを抑え込んだ暴走体に対して最大出力の封印魔法を叩き込むこと。それが作戦の最終段階。

 

 アリシアとユーノの後方に控えたなのはは、砲撃形態を取ったレイジングハートを構えて、ずっと魔力の収束を続けていた。チャージの時間が長ければ長い程、砲撃魔法の威力も比例して上昇する。六つものジュエルシードを封印するには、それくらいの威力がなければ、封印できるかどうか不安だった。

 ユーノは暴走体の動きを抑えるのに忙しい。アリシアは儀式魔法の行使によって消耗と反動ですぐには動けない。だから、最後の作戦はなのはの役目。収束させた魔力を最大出力で暴走体にぶっ放すだけ。

 

『今です。撃ってくださいマスター』

「っ……分かって、います。レイジングハー、ト……」

『マスター? どうかなされたのですか? 呼吸が乱れています』

「でぃ、ディバイン……ディバイン……」

 

 だというのに、なのはは一向にレイジングハートのトリガーを引こうとしない。

 動きが止まっているに等しい暴走体に対して、狙いを定めてトリガーを引く簡単な動作。たったそれだけの動きを彼女は出来ないでいた。

 魔杖を構える腕どころか、全身が震えだして止まらない。震えるせいで歯はカチカチと鳴り止まず、血の気が引いて青ざめているのが目に見えて分かる。

 

 雨が降っている。小雨なんかじゃない本降りの雨。それは段々と激しくなって土砂降りの雨に変わっていく。防護服に覆われていない顔や素肌を濡らす。打ち付ける水滴はとても冷たい。ザァザァと鳴り響く雨音はすごく煩かった。

 ジュエルシードの魔力に影響されたのか、風も吹き始め。穏やかだった波は段々と荒れ狂っていく。大型の船舶すらひっくり返して転覆させてしまいそうな勢いの荒波。

 

 あの日も、こんな風に雨が降っていた。小雨だった天気は台風のように荒れ狂って、助けを呼んでも声がかき消されるような雨の日。

 

「このままじゃ抑えきれないっ」

 

 ユーノが焦ったように叫ぶ。その声を聞いて呆けていたなのはは我に返るが、やはり引き金を引くことは叶わなかった。撃たなきゃいけないことは分かっている。頭では理解している。けれど、それとは関係なく身体に力が入らない。本人の意思に逆らって思うように動いてくれない。

 心が悲鳴を上げている。やけに早くなる自分の鼓動。怖いくらいに寒いのに、脈拍だけは激しくて熱い。体中が泣き叫んでいるかのように苦しくて、なのは自身も泣きだしてしまいそうだった。恐ろしい怪物がやってくる。あの日のように自分を闇の中に誘おうとしている。そう思うと動くに動けない。

 怖くて怖くてたまらなかった。逃げ出したい。早く此処から逃げ出したい。彼女の本心が心からそう訴えている。

 

「なのは!?」

『マスター!?』

 

 ユーノとレイジングハートの呼びかけは届かない。不審に思ったアリシアが嵐に四苦八苦しながら、なのはの所まで飛んでくるが、それにも気付けない。

 

 不破なのはは強い女の子。だけど、とても弱い女の子。

 心に刻み込まれたトラウマは豪雨の日をきっかけに、フラッシュバックする。すると、彼女は一歩も動けなくなってしまう。

 アリサとすずかは事情は知らずとも、雨を怖がるなのはの体質を目にしているから、付き合い始めて一年間ですごく配慮してくれていた。

 しかし、頼れる二人の親友は此処にはおらず。恐怖に震える少女の体質を知らなかった二人と二つのデバイスでは、どうすることも出来ないのが現状で。

 

「私……わたしは……」

「なのは、しっかり。わたしが傍にいるから」

「いや、嫌々……いやあああっ!! 来ないでぇ!!」

「きゃあ!」

 

 なのはを安心させようと駆け寄ってきたアリシアを突き飛ばしてしまうのも、仕方のない事かもしれなかった。

 彼女は一種の恐慌状態に陥っていて、瞳に映る景色は別の場所を映しだしていて、身体が今よりも幼くなったと錯覚する女の子は為す術もなく震えるだけ。厭らしい眼つきの何かが手を伸ばしてくる光景がなんども繰り返されては、どんどん衰弱していく。瞳が恐怖と絶望で揺れ動いて、光を失ってしまうくらいに。彼女は会い詰められていく。

 レイジングハートの先端に集束されていた膨大な魔力なんて跡形もなく霧散してしまった。もはや彼女に封印魔法を行使する力なんて残されていなかった。

 そこには、トラウマに怯えて、身を護るように自身を抱きしめる女の子がいるだけだった。

 

「やだ……やだよぅ……助けて、おにい……助け、……ね、ちゃ……けて、おとう……いや、ひとりは……いやだ」

『マスター、落ち着いて』

「なのは! なのはが苦しんでるのなら、わたしが助ける! きみを独りぼっちになんてさせなっ、ぐぅ!!」

『マスター!? やめてください! マスター!』

 

 主を支えんとするデバイスの声も、彼女に呼びかける親友の声も届かない。

 それどころか、肩を掴んで必死に語りかけるアリシアの首を、本気で絞め始めた。レイジングハートが咄嗟に待機状態に戻らなければ、デバイスを鈍器として確実に殴りかかっていただろう。 

 瞳は虚ろで錯乱しているなのはの力は恐ろしい位に強い。アリシアがいくらもがいても万力のように、確実に締め殺しに掛かってくる。両腕を伸ばしきって、指で握りしめるのではなく。二の腕を曲げて牛乳パックでも潰すみたいに、アリシアの首の横から腕の力を加えて、圧殺してくる。

 なのはは混乱した末に、ある種の強迫観念に囚われてしまったのだ。誰も助けに来ないというのならば、あの時のように殺してしまえばいいと。

 

「そうだ……殺さないと……ころ、されるなら……ころ、さないと……」

「かはっ、な、のは……だい、じょ……」

 

 それでも、アリシアは大好きな親友のことを想っていた。

 たとえ殺されそうになっても、満足に息ができなくて苦しくても、なのはの事を一番に考えて、安心させようと笑おうとするのをやめない。

 だって、一人で不安だったアリシアに手を差し伸べてくれたのは、他ならぬなのはだ。弱っている自分を看病してくれて、不安なときに抱き締めてくれた。一緒にお風呂に入ってくれて世話をしてくれた。優しい友達を二人も紹介してくれた。

 共に支え合い、助け合った戦友。勘違いとはいえ全力でぶつかり合った相手。魔法の模擬戦で共に切磋琢磨し合う好敵手。

 そして、プレシアを助けようと危険なジュエルシード集めまで手伝ってくれる優しい友達。

 

 なのはは、かけがいのない多くのモノをアリシアに与えてくれた女の子だ。

 そんな、彼女が何かに怯えて、本気で絶望している。少し前のアリシアと同じ表情をして、苦しんでいる。助けて欲しいと泣き叫んでいる。ひとりで不安になってしまって震えている。

 だから、今度は、アリシアがなのはを助ける番!!

 

『I'm sorry sir. Photon Lancer』

『待って、バル、ディッシュ』

『But,』

『ここは、わたしに、まかせて』

『……Yes sir』

 

 主人の危機を察したバルディッシュが、フォトンランサーでなのはを昏倒させようとしたのを、念話で押しとどめる。傷つければ、彼女はますます錯乱するだろう。それでは意味がないのだ。

 

「な、の、は」

「っ……!?」

 

 声を、絞り出す。

 こうも首を絞められては、息を吸う事も、声を出すために、声帯を震わせることもままならない。けれど、アリシアの渾身の呼びかけは、一瞬だけ気を引くことには成功したが、正気に戻すことは叶わなかった。

 

(な、ら……)

 

 声がダメなら、言葉で伝わらないなら、行動で伝えるだけだ。

 アリシアは少しでも息を吸おうと、首を絞めてくるなのはの腕を掴んで、その力を少しでも緩めようと抵抗していたが、それをあっさりとやめた。

 当然だが、さっきよりも締め付ける力が強くなった。意識が朦朧として、気を抜けば一瞬で気絶してしまいそうだ。それはアリシアの死を意味する。アリシアはそんなことは望まない。みんなで笑いあうのだ。元気になったプレシアとアルフを改めて紹介して、知り合った皆を交えて楽しいピクニックでも行きたい。そんな未来を掴み取るためにも。

 そして、こんな下らないことで、大好きななのはに罪を背負わせたくもない。なのはがアリシアに笑っていて欲しいように、アリシアもなのはに笑顔でいて欲しいから!

 

(な、の、は……なの、は……なのは!)

 

 これは賭けだ。なのはに絞殺されるのが先か。或いは彼女が正気に戻るのが先か。

 アリシアは自由になった両腕を使って、なのはを抱きしめる。かつて、自分にそうしてくれた時のように。彼女が不安で泣いてしまわないように。

 安心させる鼓動の音が伝わって欲しい。寂しさを溶かす温もりが伝わって欲しい。大好きな友達に想いが届いてほしい。

 とにかく、ありったけの想いを込めて抱擁する。

 

「かはっ……ぜぇはぁ、ぜぇはぁ……なのは?」

「わたし……わたし……なにを……?」

 

 そんな、彼女の想いが届いたのか、なのはの腕に込められた力が徐々に緩んできて、アリシアは息を吸うのが楽になる。

 かつて兄によって、抱きしめられていたように。アリシアに抱かれたことがなのはをトラウマから解放してくれた。伝わって来る親友の温もりが、雨で冷え込んだなのはの身体を温めてくれる感触が、彼女を呼び戻した。奇しくも、アリシアの行動は最善だったのだ。

 

 なのはは、瞳を揺らしながら、混乱したように視線をせわしなく動かす。

 記憶は曖昧でもはっきりと覚えている。手に残った最悪の感触は、親友の首を絞めていたという罪の証。

 最悪だった。死んで終いたい位に自分が赦せない。たかがトラウマで錯乱したあげく、よりにもよって親友をこの手で……

 

「だいじょうぶ?」

「わたし、なんてことを……」

「ううん、なのはのせいじゃないよ。なのはは悪くない。自分を責めないで、苦しまないで」

「でも、わたしは……」

 

 雨が降っている。周囲の音をかき消してしまうくらいの豪雨。間近にいる、なのはとアリシアの声だけしか聞こえない位の雨音。

 だからだろうか。二人は気が付けなかった。なのは自身はフラッシュバックによって混乱していたし、アリシアは、なのはのことを正気に戻すことに必死で、余裕がなかったのもある。

 

 まず聞こえてきたのは、何かが砕け散るような甲高い音。そう、まるで鎖でも砕け散ってバラバラにはじけたかのような。

 

『二人とも逃げて!』

『Sir!』

『マスター、アリシア、逃げてください。ジュエルシードの暴走体が――』

 

 次にユーノの念話による渾身の叫びが二人の頭の中に響いたのと、二つのデバイスが警告を発するのは同時だった。

 びくりと身体を震わせたアリシアが、慌てて背後を振り返れば、向かってくるのは海水を纏ったジュエルシードの暴走体。本体はチェーンバインドによって辛うじて抑えられているが、縛り上げられた海水の一部が拘束から逃れていた。

 

 アリシアは咄嗟になのはの手を引いて逃げようとした。けれども、魔法の準備が整っていなかったから、一瞬とはいえ発動に時間が掛かる。高速移動のブリッツアクションが発動するためのタイムラグ。

 そして、その一瞬の隙は致命的だった。間違いなく濁流に呑み込まれてしまうだろう。だから、アリシアは、なのはだけでも逃がそうとして……

 

「えっ……」

 

 最初に感じたのは、背中に感じる熱くて鈍い痛みと、突き飛ばされた感覚。意識していない妙な浮遊感。

 首を後ろに動かして視線を向ければ、脱力した様子の、なのはの姿。間に合わないと思ってアリシアを突き飛ばそうとしたのは彼女も同じ。最初からアリシアの後ろを向いていたから早く気が付くことが出来たなのはのとった行動は、親友に全力で体当たりすること。

 アリシアの視界で流れる映像が、妙にスローモーションで流れる。ゆっくりと見せつけるように。なのはが激流に呑み込まれようとしているなか。彼女の声だけははっきりと聞こえた。

 

「ごめんなさい」

 

 それは、アリシアの首を絞めて殺そうとした事なのか。いきなり突き飛ばした事に対する謝罪なのか。アリシアには分からない。

 

「―――!!」

 

 大好きな親友の名前を叫んだのに声が出ない。ううん、聞こえていないのだ。それでも、なのはの声だけははっきりと聞こえた。口元の動きで良く分かる。脳が勝手のなのはの言葉を、なのはの声で再生している。

 

「なのはああああぁぁぁーーー!!」

 

 そして、悲鳴みたいに叫んでいる自分の声が聞こえてきたのと、なのはが水の激流に呑み込まれるのはほぼ同時だった。

 

◇ ◇ ◇

 

『……――! ……して下さい! マスター!!』

「ごぼっ……!!」

 

 水の激流に叩きつけられ、失神しかけたなのはの意識を繋ぎとめたのはレイジングハートだった。彼女の必死の呼びかけと、原始的な生存本能が、後悔と絶望で諦めかけた少女を無理やりにでも引き戻す。

 口から漏れ出た空気の音が聞こえて、手で口元を無理やり抑え込んだ。息の出来ない水の中で、少しでも生きようと酸素を肺の中に溜め込んでおこうとする。咄嗟に行った生きようとする生存行動。

 でも、なのはの心は諦観が占めていた。自分に対する嫌悪、罪悪感、後悔、嘆きといった負の感情が、彼女を死んで終いたいと思わせるくらいに苛んでいた。

 

(わたしは……)

 

 脳に送られる酸素が少なくなって曖昧なっていく意識。

 なのははもういいだろうと思った。母親はいないのは我慢できた。誘拐されてトラウマを刻み込まれても、アリサやすずかのような友達が支えてくれたから生きて来られた。

 でも、父や姉から厳しくされて愛されないのは苦しい。なのはだって我慢した。これは仕方のないことだと我慢して不破の鍛錬に挑み、逃げることを選択しなかった。何故ならば、いつかは褒めてくれるんじゃないかと期待していた自分がいたからだ。

 

 痛いことばっかりの鍛錬は苦手で、大っ嫌いだ。人殺しの技術など逃避してしまいたいくらい苦手だ。

 それでも、心のどこかで良く頑張ったって、褒められることを期待していた。そうして褒めてくれるなら、たとえ人殺しの護身術でも学んだ甲斐はあったって嬉しく思えたかもしれない。

 

 それも、もう終わりだ。なのはは人を手に掛けようとした。よりにもよって大切な親友の命を奪おうとした。

 許すとか、許されないとか、錯乱していたから仕方ないとか、そんなものは言い訳にすらならない。自分自身が赦さない。

 親にも愛されず、トラウマに怯えて意味のない日々を過ごす日々。なのはは生き甲斐すら感じることが出来ない。そんな無意味な日々に加えて、誰かを殺めようとした真実は彼女から生きる気力を奪うには充分すぎた。

 

(……死にたいよ)

 

 そうして、辛うじて繋ぎ止めていた意識を手放そうとした時。

 誰かに防護服の裾を掴まれた感触がして、彼女は驚いてに目を見開いた。

 

(ユーノ……さん?)

 

 見知った少年の顔がそこにはあった。絶対に諦めないという強い意志を翡翠の瞳に宿して、なのはの身体を引き寄せた少年は、離さないとでも言わんばかりに互いの身体をバインドで結びつける。

 

 どうしてユーノが此処に居るのか? どうして自分を助けようとしているのか? 誰がジュエルシードを抑え込んでいるのか? 

 ありとあらゆる疑問が尽きないなのはの前で、ユーノは顔を寄せてきた。

 そして何をするのかと、ユーノの行動を見ていたなのはをよそに。

 

「んっ……」

「むぐっ!?」

 

 彼はなのはの唇を、己の唇に吸い寄せるように合わせていた。

 驚愕に目を見開くなのはをよそに、口移しで送り込まれるのはユーノの肺に溜め込まれた酸素。少しでも、なのはを生き長らえさせようとする、自身を省みない無謀な行動。

 驚きすぎてやめて欲しいとか、拒絶するかのように突き飛ばすとか、そんな反射的な行動が取れるはずもなかった。ただ、追いかけてきたユーノに抱き寄せられるままに、なのはは大人しく、少年の身体に身を寄せていた。

 

 長くは続かないこの状況。激しい水の流れに任せるまま、彼はどうしようというのだろう。

 ぼんやりとする意識の中で、なのははそんな事を考えて、ユーノの胸元に顔を埋めた。足手まといで、迷惑ばかりかけている。それが申し訳なくてユーノと顔を合わせるのも辛かったのだ。

 

『なのは、聞こえているかい?』

 

 落ち込んで、自分を責めて、生きる気力も失くしていく少女。その負のスパイラルに陥った彼女に語りかける優しい声。

 ユーノの言葉は何時だって優しい。心配こそすれ叱りつけるような事は一切しない。それが、なのはには心苦しい。

 どうして罵ってくれないのだろう。アリシアを殺そうとしたことを責めてくれないのだろう。この封印作戦だって、なのはが失敗しなければ確実に上手く行っていた。

 アリシアも……どうして、自分なんかを許してくれるのだろうか。むしろ嫌っても、拒絶してくれてもいいのだ。彼女にはその資格がある。

 

 どうして、という疑問の声。なのはの心の中はそればかり。自分を助けようとする理由が分からなくて、疑問ばかりが浮かんでは消えていく。

 

『もうすぐ、アリシアが僕たちを助ける為に"本当の全力"を使ってくれる。たぶん、巻き添えは避けられないし、死ぬほど痛いだろうね。でも、耐えて欲しい。』

 

 いっそのこと、そのままジュエルシード諸共殺してくれればいい。そうなのはは考えている。

 昔っから自分の事が大っ嫌いだからだ。他人に迷惑かけてばかりか、友達を手に掛けるような自分など死ねばいい。

 だというのに。

 

『……大丈夫、僕が、全力で、君を護るから。なのはのこと――だから』

 

 彼は土壇場でそんなことを口にするのだ。彼も意識が朦朧としてきたのだろう。言葉がたどたどして肝心な部分がうまく聞き取れなかったけど、その意志はちゃんと伝わっている。

 ずきりと胸が痛んだ。普段なら他愛もない冗談として受け流したのに、この状況でそんなこと言われたら、縋ってしまう。

 それは甘い毒だ。なのはを骨の髄までか、魂すらも蝕むような猛毒。なのはに希望を抱かせ、さらなる絶望を与える言葉。

 やめて欲しいと思った。聞きたくないと耳を塞ぎたい衝動に駆られた。

 

『しんぱい、しないで』

 

 そして、ユーノの優しい言葉で少しでも"生きたい"なんて考えてしまった自分が浅ましい思った。

 

◇ ◇ ◇

 

 自身のキャパシティを超える魔力を引き出しながら、ユーノが苦戦していた暴走体の動きを呆気なくバインドで封じる。

 それを成した少女は激痛に胸を押さえながら、顔をしかめるしかなかった。考えるのは空中をうねる海水の激流に呑まれた少女の事。そして躊躇いもなく助ける為に飛び込んで行った少年の事。

 

"護るって約束したから"

 

 たったそれだけの理由で少年は、アリシアに後を託して、激流の中に躊躇わずに飛び込んで行った。ほんの少し前の事だ。

 もっとも恐れていた事態にアリシアは動揺して、なのはを助けに行こうとした。それを遮ったのはバルディッシュとユーノ。

 

『Please remember yourself, Sir!

 You'll make the same mistake if things continue in this way.』

 

 主人を一番に思いやる戦斧は、珍しく感情を露わにして冷静になれと、このままでは二の舞になると怒鳴りつけた。今まで見たこともない相棒の剣幕にアリシアが踏鞴(たたら)を踏むのも無理はない。それが彼女を落ち着かせた。

 そして、ユーノは念話で状況を手早く、分かりやすいように説明してなのはの後を躊躇なく追いかけた。それが出来るのは、きっと心の底からアリシアを信頼している証で、なのはの事を心の底から心配しているからこそだろう。

 

 全力全開を行使させてしまう事に対して謝っていた少年の身と、如何にかしてあげたい位に怯えていた少女の身を案じながら、アリシアは魔法を使う。

 ユーノはアリシアの秘密を少なからず知っていた。倒れたアリシアを治療したのが、ユーノだという話だから、恐らくその時にでも知ってしまったんだろう。リンカーコアを調べればすぐに分かることだから。

 彼は謝っていたが、アリシアとしては是非もないことだ。むしろ喜んで使うだろう。それで親友が助かるのならば戸惑う必要もない。たとえ自分自身が命の危機に瀕してしまうとしても。彼女は躊躇わない。

 

「いくよ、バルディッシュ」

『Yes sir!』

 

 アリシアは先程と違って、硬質な声で気合を込め、相棒もそれに応える。普段の明るさは鳴りを潜め、瞳は真剣なまでに強烈な意志を宿している。ユーノと同じ、何かを絶対に為そうとする決意を秘めた瞳。

 今の彼女の頭の中は、母親の事ではなく、二人の親友の事。これだけで、いかに少女の決意が本気なのか窺い知れるだろう。もっとも大事な母親の事を二の次にしてまで、その身を捧げようとしているのだから。

 

(お願い。どうか力を貸して――わたしの大事な人を助ける為の力を貸してほしいんだ。

 この身がどうなろうと構わないから。だから、お願い―――!!)

 

 願う彼女が引き出すのは普段の十数倍にも至る魔力の塊。

 前の時、なのは達と戦ったときは無理やり引き出そうとして失敗した。激しい胸の激痛、リンカーコアの暴走。魔力の暴走によって身体の内から傷つき、即座に治癒を繰り返す、終わらない苦痛が繰り返される行為に気絶した。

 アリシアの全力全開とは、文字通り封じているリンカーコアのバイパスを全開にすることだ。その数は実に十一個。■■達の協力が得られなければ、魔力が好き勝手に暴れまわる。自滅する。無理やりには引きだせない。だから、お願いするしかない。それでも、■■達の協力を受けても意識を強く繋ぎ止めなければ瞬く間に気絶するだろう。効果は絶大な分、反動も凄まじい諸刃の剣。

 果たして応えたのは、半数以上の六人分のリンカーコア。一つの魔力で一つのジュエルシードを封印すれば充分足りる。その分の負担はアリシアに掛かるわけだが、問題ない。その程度の苦痛を受け入れるなど慣れている。

 

「アルカス・クルタス・エイギアス。バルエル・ザルエル・ブラウゼル!」

 

 選択する魔法は■■そろって同じ魔法。考えることだって同じなのは■■だから。

 この場に吹き荒れる嵐、空を覆う黒天の暗雲を利用すれば、恐らく最大限の威力を叩きだせる。それはいとも容易くジュエルシードを静めるだろう。

 だってアリシアの母さんが得意とした魔法だから。次元を超える程の精度は出せないが、魔法の威力を超えることなら造作もない。むしろ七人分も魔力を使うのなら、出来て当たり前の事。

 

「サンダーレイジO.D.J!!」

 

 叫びと共に片手で振り上げたデバイスを振り降ろす。

 "アリシア"の記憶に眠る、憧れの母親を完全に模倣する動きで魔法を行使する。かつて“アリシア”を守るために力を振るったカッコいい母親の姿を真似て。偉大なる大魔導師プレシア・テスタロッサの最強魔法を解き放つ。

 

 その瞬間、轟雷の叫びが音をかき消した。瞼を閉じているのに、視界は閃光で埋め尽くされたかのように眩しい。

 

 それは、まさしく天を切り裂く神の雷だ。

 人を呆気なく呑み込むどころか、街ひとつを壊滅させるんじゃないかと言うくらい巨大な海の竜巻は、さらに巨大な雷光によってかき消され、大海を叩き割って有り余る一撃を叩き出した。

 水の滴を霧散させながら、自らの存在を示すかのように青く光り輝く六つのジュエルシード。その輝きは暴走した時のように激しくはなく、むしろ穏やかで大人しい。封印は成功した。

 空を覆う暗雲は散り散りになるまで吹き飛ばされ、叩き付けるような豪雨はかき消された。残ったのは清々しいまでの快晴と太陽の暖かな光。

 結界と言う位相空間での感覚とはいえ、日の光はアリシアを安らげるには充分で。

 

「うぷ、うげぇ!!」

 

 そして彼女の異常を映しだすくらいに残酷だった。

 アリシアは咄嗟に抑えた口元から血を吐きだす。喉から溢れる血を抑えきれずに、手から零れ落ちていく。血の滴は手首から腕へと流れ伝い、真っ白な肌も、黒いバリアジャケットも赤く染めて輝く。キラキラと陽光に反射して輝く命の源は、そのまま海に降り注いで、溶けては消えていくだけ。

 赤い色彩が特徴的な瞳は白い強膜の部分が充血して真っ赤に染まる。そこから少しずつ出血するとアリシアの瞳から血涙が流れた。常人なら失明しているところだが、彼女の回復力がそれを許さない。無意識に発動する回復魔法が出血を抑えていく。

 血液は沸騰しそうなくらいに熱くて、血管が破れて爆発するんじゃないかってくらいに収縮している。暴走している魔力の流れが肉体にも干渉して彼女を傷つける。そして彼女を救わんと治癒も同時に行われている。怪我と回復の同時進行による激痛は頭がどうにかなってしまいそうだった。

 そうして貧血でフラフラになって飛行制御もままならなくなった彼女は、まっさかさまに海を目指して墜ちていく。このまま落下すれば海面に叩きつけられるのは必定で、下手すれば死んで終うかもしれない。それを事前に防止するのがデバイスの役目。

 

『Sir……』

 

 バルディッシュは主人が叩きつけられる寸前で、フローターフィールドを展開。

 三段重ねで使用されたそれは、アリシアをふわりと受け止めて、落下する勢いをゆっくりと相殺した。そのまま少女は海に着水して、たゆたうように波に身体を揺らす。

 バルディッシュとて無事では済まないだろうに、彼も主人に似て無茶をするデバイスらしい。その躯体は数人分の魔力を受けとめられる程、頑強には作られていない。膨大な魔力で魔法を行使した代償に、なのはと戦った時と同じで、黒き戦斧は無残にもひび割れて、いくつもの欠片を散らせていた。

 そのコアは動作不良を起こしているかのように点滅して、明滅する光も弱々しい。彼もまた、主と同じで見るも無残な姿を晒していた。

 

「かふっ……ふ、う……」

 

 吐きだされる血もようやく収まったのか、アリシアは少しだけ苦悶に歪んだ表情を和らげた。

 防護服を構成するリボンがほどけて、腰まで届く金糸の髪が、水の流れに良いようにされているが、気にする余裕もない。

 

(二人とも、無事だよね……)

 

 唯、ひたすらに二人の親友の身を案じながら、アリシアは眠るように目を閉じた。次に目を覚ました時は皆で笑い合おうと誓いながら。

 


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