リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき 作:観測者と語り部
ユーノが目を覚ました時、彼の視界に映し出された景色は、ここ数週間で見慣れた部屋のモノだった。
日本独特の和を基準とした部屋の内装。木造の天井に、畳張りの床。部屋と廊下を分け隔てる襖の扉。庭へと続く窓の景色を遮るのは綺麗な和紙を張りつけた障子。
ここはどうやら自分が寝泊りするために貸し与えられた不破家の一室らしい。
(確か僕は、ジュエルシードを封印するために出掛けて、それで……)
ユーノは頭がぼーっとしていて自分が何をしていたのか、いまいち思い出せなかった。だから記憶の前後をゆっくりと整理していく事で、意識を失う前に自分が何をしていたのか思い出そうとする。
思い出される光景はアリシアがジュエルシードを封印するために儀式魔法で発動前のジュエルシードを呼び起こした場面。そして、自分が拘束魔法で暴走する思念体の躯体を縛り上げて、とどめになのはが封印魔法を砲撃に乗せて放とうと……
「そうだ! なのははっ……痛ぅ!?」
なのはが急に青褪め、何かに怯えたように錯乱して、ジュエルシードの思念体の纏う水流に呑み込まれたシーンまで鮮明に思い出したユーノは、彼女が無事なのか確認しようと慌てて身体を起こした所で蹲った。
身体の節々がズキズキと激しい痛みを訴えている。曖昧だった意識が完全覚醒したことで、鈍かった痛覚も正常な反応を取り戻したようだ。熱を伴うそれらは、身体のどこかを動かすだけでも激痛を催す。ユーノは自分が相当なダメージを負ったのだと理解して、顔をしかめながら布団の上に再び寝込んだ。
(やっぱり、結構な無茶だったんだろうな)
最後になのはを庇いながら、全力でアリシアの一撃を受けとめたのが、満足に動けなくなった原因だろうとユーノは推測する。
なのはを中心にして何重もの防御陣を展開。それこそ結界、防壁、障壁と各種の防御魔法を多重に展開して、万が一でも彼女に危害が加わらないように、自身を試みない無茶な魔法運用をしたのだ。当然、魔法の反動による負荷も相応なもので。さらに、アリシアの封印魔法を乗せた一撃も、軽減したとはいえまともに受けてしまった。
今のユーノの身体は多大な魔力ダメージと、電気変換された魔力による痺れ、火傷のような疑似的な痛み、そして魔力酷使による極度の過労が同時に襲っている状態。ある意味で彼は重傷だった。しばらくは簡単な魔法を使うことも出来ないし、身体を動かすこともままならないだろう。
こうなること気になる事が一つある。ユーノはアリシアの雷撃を諸に受けたわけだが、当然無事でいられる筈もなかった。恐らく満足に動ける状態ではなかっただろうし、実際に何かを喰らった感覚を受けた瞬間、ユーノは意識を手放してしまった。
その後、気絶し傷ついたユーノ達を誰が運んだのだろう?
少なくともアリシアではないことは確かだった。ユーノは彼女が全力行使をした場合どうなってしまうのか、ある程度の予想は付いていたから。最初の遭遇戦の時に吐血して倒れた彼女を治癒したのはユーノだ。だから診察した時にアリシアの状態をある程度理解した。
きっと彼女もユーノと同じように。いや、それ以上の激痛に苛まれて血反吐を吐きながら倒れたのだろう。恐らく満足に動けるような状態じゃなかった筈。
気絶して動けない少年と無茶をして動けない少女。海に揺蕩う二人の子供と、溺れて死にかけた女の子が一人。いったい誰が自分たちを岸まで運び上げて、不破の家まで送り届けたのか謎だ。通りかかった親切な人が助けてくれたのだろうか。
(まさか、なのはが運んでくれた?)
いやいや、あり得ないとユーノはその考えを一蹴する。あの怯えようは、どう考えても普通ではなかった。怯えると言う事は、何か彼女にとっての恐ろしい出来事が、記憶に深く刻まれているということ。それを思い出してしまったら、身体が無意識に震えてしまうのは想像に難くない。思考だって真っ白に染まっただろうに。
それは彼女が悪いわけではなく、身体の反射的な反応による現象。そんな状態で思い通りに身体を動かすなど満足に出来ない状態だったはずだ。だから、なのはがユーノとアリシアを抱えて浜まで泳ぐか、空を飛んで運べるなど普通に考えてあり得ない。
「……失礼します」
そこまで思考を巡らせたユーノは、廊下に繋がる襖が静かに開かれた音に反応して、そちらを向いた。
そこには正座しながら襖を開けたなのはがいた。瞳は充血していて赤くなっていて、散々泣き腫らしたであろうことを、ユーノは嫌でも察するしかない。だというのに、彼女の隣に置かれているのは、湯気の立つ桶と身体を拭く為のタオル。相変わらず責任感が強くて、自分で面倒を見ないと気が済まないらしかった。なのはだって少なくない魔力ダメージを負っている筈だから、休まなければいけないのに。心だってきっと癒えていない、むしろ今でもトラウマに蝕まれているかもしれないに。
彼女は、其処に居た。
「あっ……」
なのはが、目を覚ましたユーノを見て呆けたように固まる。再び紫水の瞳が揺れ出して泣きそうになる。でも、なのはは泣き叫びそうだった自分に気が付いて、慌てて両手で口元を抑えた。まるで自分には涙を流す資格がないというかのように。
「なのは、無事で良かった」
だからユーノの方から声を掛ける。普段通りの口調で告げるのは彼女を少しでも安心させるため。自分自身が元気な姿を見せることで、なのはに少しでも心配させないようにするため。
「ッ――よかった……! 貴方達を岸まで泳いで引っ張って、アリサに頼んで家まで送ってもらったのですが。目覚めなかったらどうしようかと……わたしのせいで、死んじゃったら、どうしようかと、思いました……」
それで我慢の限界を超えてしまったのか、なのはは自分が用意した身体を拭く為の御湯の存在も忘れてユーノにしがみ付いた。
どうやら気絶した二人を運んでくれたのは、なのはらしい。疑問が一つ解けたわけだが、ユーノにはもはやどうでも良い事だった。今は目の前で泣きそうになって、顔を歪ませている女の子をどうにかする方が先だ。
しがみ付いて懺悔の言葉を口にする少女は、自分の所為で危険な目に合わせてごめんなさい、迷惑かけてごめんなさい、なのはは悪い子だから赦さなくてもいいと叫ぶ。決して"許してください"なんて一言も口にしようとしない。そこまでする程に彼女は自分を追い詰めている証拠だった。
「泣かないで、なのは。僕は気にしてないからさ」
「だって、だって、なのはのせいで……」
あやす様になのはの頭を撫でて慰めるユーノに、なのはは顔を上げて上目づかいで見上げてくる。たくさん泣き腫らして、再び泣くまいと堪えていたであろう涙を、呆気なく流し始めた。とても弱い女の子がそこにいた。心なしか普段の冷静で落ち着いた口調も成りを潜め、すごく幼くなっているように見える。
そう、なのはは本当の姿に戻ってしまっていた。いつも纏っている筈の強い自分が崩壊して、隠されていた弱い自分が表に出て来てしまったのだ。
フラッシュバックしたトラウマ。自分の所為で大怪我して目覚めない親友。自責の念と圧し掛かる不安。友を失ってしまうかもしれない恐れ。それらを前にして偽りの殻を纏っていられる程、彼女は強くなかった。
「ごめん、な、さい。ユーノ、くん……」
「ほら、気にしない良いって言ったよ?」
「でも、なのはのせいで。なのはが足手まといだから……」
「そんなことない。なのはのおかげで僕は命を救われたんだよ。アリシアだって、君が看病して助けたじゃないか。僕だけだったら彼女は心を開かなかった。むしろ、対峙した時に碌な抵抗も出来ず、やられていたかもしれない」
「それに、それに……どうして、"好き"だなんて言うんですか……なのはにそんな資格なんてないのに……」
ちょっと錯乱しているのか会話が通じているのか怪しい所。しかし、そんな事よりも、なのはの告げたことにユーノは苦笑するしかない。あの時は決死の覚悟だったので、間際と勘違いして無意識に口にしていたのだろう。朦朧としていたなのはの意識を呼び覚まそうと、心の底に浮かべた勇気づける言葉と共に自分の気持ちまで叫んでしまったのだ。
でも、ユーノの叫んだ言葉は偽りのない本心から来るもので、他意と云うものは存在しない。しいていうならば、好きという感情が"友達" としてなのか"異性"としてなのか判らないだけ。
もっとも、どちらの好きだとしても、なのはの心がかき乱されている事実に変わりはない。彼女、生まれ生きてきた人生の中で、本気で家族に愛された記憶がないのだから。
なのははユーノに好きと言われた事を真に受けてしまっていた。普段ならアリサやすずかが、友達としての好意を示しても軽く受け流していた。
だが、錯乱して混乱の極みに達し、不安、絶望、後悔に押しつぶされそうな状況で、無意識に誰かの助けを求めていた少女は、駆け付けた少年と少女の存在に多大な希望を見出してしまったのだ。ピンチの時に助けに来てくれる救世主として。
アリシアの好きという言葉が、なのはに正気を取り戻させ二人の絆を強固にしたのなら。あの状況によるユーノの好きという言葉は、求めていた家族の温もりと錯覚させるに等しい言葉だ。
もはや、なのはの中で二人の存在は縋ってしまう対象だった。再び何かあれば依存してしまうかもしれないくらいのレベルに達している。
「…………」」
それから互いに黙り込んでしまった二人は、言葉を発することもなかった。
ただ、なのはが落ち着くまでユーノは彼女を抱きしめてあやし続けた。幼い子供にするかのように背中を叩いて、安心させるように頭を撫でてやる。
かつて看病されている時に泣いてしまったアリシアにしていたように、今度はなのはが同じようにあやされていた。
きちんと手入れされたなのはの暗めな栗色の髪が、ユーノの細い指をすり抜けていく。アリサによって不用意に男子に髪を触らせるなと注意され。それを訳も分からず徹底遵守してきたなのはにとってありえない光景。アリサ、すずかが見ていたら絶句することだろう。
やがてユーノはなのはが落ち着いた所を見計らって、次の疑問を口にする。
なのははもう大丈夫。少なくとも一人にしなければ、彼女が怯える心配はない。
だから、今度は寝具の中で苦しみ喘いでいるであろう女の子を気にする番。
「アリシアはどうしてるの?」
その言葉に、なのはの身体がびくりと震えた。
ユーノはアリシアが重傷を負って意識不明なのかと疑う事はしない。むしろ全力を出した後遺症で、ユーノと同じように療養していると確信している。不破の屋敷の中からアリシアの魔力波長を感じ取れているからこその確信。
だというのに、なのはの怯えよう。恐らくだが、なのはが一方的に嫌われたと思い込んで、一度も会っていないんじゃないだろうか?
もしかするとユーノと話しているのも、なのはが看病に訪れた時間とユーノが目覚めた時間が偶然一致しただけで、本当はユーノにも合わせる顔すらなかったのだとすれば?
そして、話しかけるのも顔を合わせるのも控えようとしていたのなら、彼女はこうして衝動に駆られるまま話してこなかった?
……充分にあり得る事だった。
「もしかして、目を覚ましたのに、一度も顔を合わせてないの?」
なのはを抱き締めて、あやす様に背中を叩いていたユーノの腕に、彼女が身震いしたのが伝わった。
どうやら図星だったようだ。嗚咽を漏らしながら、なのはは不安を口にする。
「だって……あんなことしたら。絶対に、なのはのこと、嫌いになった筈だから。もし、真正面からきらいって言われたら。なのは、どうすればいいの?」
普段から弱みを見せない彼女が、内心をユーノにまでぶちまけるというのは、彼女が弱り果てている証拠だろう。付き合いの浅いユーノにでも分かるのだから、相当に参っているのかもしれない。
こんな、なのはは見たくなかった。
むしろ彼女には笑顔が似合うのだ。普段は余所余所しいのに、ふとしたことがきっかけで浮かべる嬉しそうな微笑み。ユーノが彼女に惹かれてしまったわけ。此間(こないだ)のように、もう一度笑って欲しい。それが少年の切実な望みだったりする。
なのはが戸惑っているなら勇気づけよう。それがユーノに出来る精一杯のこと。きっとアリシアもなのはに会いたがっている。
皆でプレシア・テスタロッサを助けて笑い合おうと、ジュエルシードを必死になって集めてきた。なのに、その過程で友情に罅が入って仲違いするのは本末転倒だ。
「大丈夫。なのはだって悪気があって、迷惑かけるつもりじゃなかったんだから。それにアリシアも絶対に会いたがってる」
「……ホントに? なのはのこと嫌いになったりしない? アリシア、許してくれるの?」
「うん、だから自信を持って会いに行こう?」
うん、と小さく頷いたなのはは、抱きついていた少年からゆっくりと離れると弱々しく立ち上がった。
ユーノもアリシアとの仲直りを見届けようと、全身の痛みを堪えながら立ち上がる。
ちょっと、少し、いや、もの凄く痛くて身悶えしながら叫び出しそうになるのを彼は耐えた。女の子の前で男の子が泣いてはいけないという、ささやかなプライドがユーノを奮い立たせる。
回復魔法を使って痛みを誤魔化すことが出来ないので相当に辛い。せいぜい魔力吸収を促進して、自己治癒力を高めるくらいしか出来ない。
なのははついて来ようとするユーノに何も言わなかった。普段の彼女なら慌てて、安静にしなくちゃダメですと押さえつけに掛かっただろう。
恐らく不安すぎて誰かに付いて来て欲しいのだ。その事を示すかのように黙って立ち上がったユーノの身体を支えてくれた。
(痛いッ! ものすごく痛い! でも、支えて貰っている手前、痛いなんて正直に言えない!)
なのはに触られている部分が強烈に痛かったのは内緒だ……
◇ ◇ ◇
屋敷の廊下をなのはに支えられながら歩いていたユーノは、アリシアの寝室に向かう途中で意外な人物に出くわした。
濃紺に染められた日本文化独特の着流しに身を付け、服の上からでも身体が鍛えられていると一目で判る容姿。立ち振る舞いは静かでいて、動きに一片の隙も感じられない身こなし。目元には深い皺が刻まれ、感情を映していないかのような瞳は見つめるだけで震えあがってしまいそう。
ただならぬ雰囲気を漂わせる人物は、なのはの父親である不破士郎その人。
彼はその恐ろしげな視線をなのはとユーノに向けると、見定めるかのように瞳を細めた。
(怖っ、こうして会うのは二度目だけど、やっぱりなのはのお父さんって本当に怖いっ)
正直、見られているだけでも身が竦み上がりそうだった。
いつもは彼に遭遇してしまわないように、なのはがこの時間帯に廊下を出歩いてはいけない。彼のいる部屋を訪れてはいけないと注意してくれていた。
だから、いままで面として出会う事はなかったのだが。今再び、なのはが魔導師として覚醒した日のように、不意打ち気味で対峙する羽目になってしまった。
「お父さん……」
なのはがようやく気が付いたとでも云うように小さく呟いた。
ゆっくりと錆びついた機械のように顔を上げた彼女は、光を失ったかのような虚ろな瞳で父親の顔を見詰める。
いつもの彼女らしくない弱り果てた姿。普段であれば"父上"と敬称しながら冷たい態度を取って、厳しい父の言葉をあしらう姿は何処にもない。
「…………」
士郎は娘に対して何も言わなかった。いや、何かを呟こうとして口を開こうとするのだが、言葉が喉に詰まったかのように言い出せないようだった。
もしかすると彼もまた戸惑っているのかもしれなかった。それがなのはの変わり果てた姿によるものか、二人の子供が怪我をして尋常ではない様子だったからなのか分からないが。
士郎は静かに手をあげようとしてやめた。なのはが彼の動きを見て怯えたように身を竦めたからだ。
代わりにユーノに向けて視線を完全に固定した士郎は、低い声音と共に警告するような言葉を口にした。
「小僧、あまり無理をするな。身体が悲鳴をあげているぞ……」
「あ、はい。その、すみません」
何だか怒られたわけでもないのに、恐縮するかのように身を竦ませるユーノ。
士郎の為すこと全てが恐ろしく感じるのは、彼の人としての観念がそうさせるのだろうか?
なのはが出来るだけ士郎を避けるように配慮した意味が分かった気がする。この人の雰囲気に毎回付き合っていたら身が持たない。思わず腰を抜かしてしまいそうだ。
やがて、興味を失くしたのか恐ろしげな雰囲気を纏ったまま士郎は二人の横を通り過ぎた。恐る恐る振り返って様子を見ても、ユーノの視線を無視したかのように歩みを止めない。
彼は廊下の曲がり角まで進むと、その突き当りを右に曲がって奥まで同じ歩幅で歩いていく。確か、なのはに案内された時に聞いた話では、彼の向かう先が屋敷の居間だったはずだ。
「はぁ……」
士郎が姿を消した事で、ユーノも溜息と共に強張っていた肩の力を抜く。ちょっと見つめられて、一言二言会話を交えただけなのにどっと疲れた。まるで魔法を使い続けてばてた様な気分。
なのはは何も言わずに、再びゆっくりと歩き始めた。心なしか怖い父親がいなくなって、彼女もほっとしているのは気のせいだろうか。
ユーノを気遣うようにゆっくりと、リハビリに付き合う看護師のように廊下を歩いてくれる。部屋を出てから何も喋ろうとしない彼女だが、気遣いをする余裕はあるみたいだった。これならアリシアと会っても大丈夫なんじゃないだろうかとユーノは思う。
そして少しずつ廊下を進んできた二人は、ようやくアリシアが安静にしている部屋の前にたどり着いた。
なのはは手を震わせながら部屋の襖をノックしようとするも、やっぱり決心が付かないのか、手を出したり引っ込めたりを繰り返す。
そんな彼女の手を上から優しく握ったユーノは、彼女の震えが治まるまでそうしていた。あくまで自分の意志でアリシアに会おうとするのが大事であって、無理やり扉を開けさせて、事を進めるのは良くないことだから。
「大丈夫だよ、なのは。深呼吸して落ち着いてからノックすればいい。慌てる必要はないんだ。ゆっくり行こう」
「うん……ユーノくん」
「ん~~、そこに誰かいるの? もしかしてユーノ? それともなのはっ!? この声はユーノだと思うんだけど、なのはの声も聞こえたような……? う~ん? だ~~れ~~?」
が、そんな友人の決意しようとする流れをぶち壊すのがアリシアクオリティ。
一生懸命勇気を出して、自ら部屋に入ろうとしていたなのはの行動を妨げ、自分の流れに無理やり乗せた彼女は、なのはの逃げ道を塞いでしまった。
ユーノはなのはの事を見つめる。もはや逃げられない状況に、彼女は顔を赤く染めてプルプル震えていた。たぶんどうすればいいのか分からず緊張しているんだろう。
だからユーノは心の中でため息を吐くしかなかった。せめて襖の奥から聞こえてきた会話で状況を察してほしいものだが、自由奔放なアリシアにそれを求めるのも酷か。
「ア、アリシアっ……失礼しますっ!」
「うん、いらっしゃいなのは~~。会いたかったんだ。ずっと待ってたんだよ?」
緊張でガチガチに震えたなのはの声にアリシアの声が応えた。
なのはの後ろから続くようにしてユーノも部屋に入ると、そこには布団に入ったまま上半身を起こして此方を見つめる少女の姿があった。
「ユーノもいらっしゃい。目が覚めて良かったよ。結構、心配してたんだからね?」
「うん、ごめんアリシア。心配かけた」
なのはのパジャマを着こんで、いつも通りのにこやかな笑顔を浮かべたアリシア。一見すると後遺症もなく過労で寝込んでいるだけ。至って健康体なのだと安心できたかもしれない。ユーノはあえて気にしない振りをして、いつも通りの対応を取ることにした。
何故ならば普段の彼女と一点だけ違う部分があったから。彼女の首元をよく見れば絶句してしまいそうな程の傷跡が残っていた。首の周囲を添うようにして刻み込まれた赤黒い痣。一見すれば天使の羽を模した刺青のように見えるソレは、間違いなく小さな人の手の形をしていた。不破なのはの、どうしようもない罪の証。一生残るであろう傷。首を強く締めた時に残ってしまう痣の痕だった。
それはなのはの心を責め続けるだろう。本人が意図せず傷つけたとはいえ、あまりにも残酷すぎる結末。アリシアの将来において好奇の視線に晒す傷跡を残してしまったのだから。誰もが目を逸らしてくれるわけではない。誰かが必ず興味本位で聞いてくるだろう。その傷は何だと。その度になのはは自責の念に駆られてしまう事は容易に想像が付く。
「ッ……!」
だって当の本人が目の前で下唇を血が滲みそうなくらい噛み締めているのだから。苦渋と悲しみに満ちた表情はなのはが自分を責めている証拠。
ユーノは何も言う事が出来ない。彼女を赦せるとしたら殺されかけたアリシアだけ。アリシアだけが罪深き少女の苦しみを和らげることが出来る。せいぜいユーノに出来ることは何も言わずに見守るだけだ。それが堪らなく悔しい。せめてなのはが潰れてしまわないよう支えようと、震えるなのはの手を少しでも安心できるように握りしめた。
「どうしたのなのは? 顔色が悪いよ? もしかして、何処か調子でも悪いの!?」
いつもの様子と違うなのはに、心の底から心配する声を上げたアリシア。
それに対してなのはは恐る恐るといった様子でアリシアの傷跡を指さした。
自ら手を下した親友の傷跡を直視するのは辛いだろうに。それでも、なのはは視線を逸らす様な真似をしない。
「アリシア、それ……」
「ああ、これ? 痛くも痒くもないし全然平気だよ?」
何でもない事のように、そっと自らの首に走る赤黒い痣を撫でる少女。その微笑んだ表情と安らかな瞳はとても優しい。アリシアは本当に傷つけられた事に対して怒ってもいないし、悲しんでもいないようだった。ひたすらに優しい眼差しを向けるだけ。それがなのはにとって逆に辛い。いっそのことを怒鳴って、糾弾して、ありとあらゆる罵声を浴びせ掛けてくれた方が気が楽になるのに。
なのははそれ以上アリシアと視線を合わせることが出来なくなって俯いてしまう。どうしようもない位の罪悪感が心を締め付けて苦しい。勇気を出して"ごめんなさい"って一言謝らなくちゃいけないのに、どうしても声に出すことが出来なかった。ユーノに謝るときは絞り出せたのに。
「ねぇ、なのは」
アリシアに呼びかけられて、びくっと猫のように肩を震わせたなのは。恐る恐る顔を上げると、やっぱり向けられた視線は優しいままだった。
なのはは情けない事だが逃げ出してしまいたかった。この視線に耐えられそうにない。責められている訳ではないのに、すごく息苦しく感じてしまう。
「そんな所にいないでこっちに来て? ホントはわたしの方から駆け寄りたいけど、いま思うように身体が動かせないから」
「あっ、ごめんなさい……」
「いいから、いいから」
なのははアリシアの望むままに従う。罪人が我儘を言っていい立場ではないのだ。罪の自覚があるならば傷つけた者の言葉に従う義務がある。そうすることで償えるのならば、なのははいくらだってそれに従う。同じように首を絞めさせろと言われれば大人しくされるがままにするし、命を断てと言われたならば刃を心臓に突き立てるだろう。それだけの覚悟がなのはには在った。彼女は自暴自棄になっていた。
アリシアの傍までふらふらと歩み寄りながら、彼女と同じ目線に膝から崩れ落ちたなのはは、心の底から怯えている。まるで親に叱られる子供のように。そんな彼女にアリシアはそっと手を伸ばして、やっぱり頬を打たれるのか、同じように首を絞められるのかと、ぎゅっと目を瞑ったなのはに行われたのは。
「えっ……?」
弱々しく抱き寄せるような暖かい抱擁だった。
呆気に取られてアリシアの肩ごしに瞬きを繰り返す。
自分を抱きしめる女の子の表情が伺うことが出来ない。彼女はどんな表情をしているんだろうか?
いつも、なのはの手を引いてひっぱり回していた少女の力はとても弱々しかった。あんなに力強く手を握って、離さないと言わんばかりに抱きついてくるアリシアの姿はどこにもない。だというのに彼女の抱擁は逃れられる気がしない。
いつかなのはがアリシアにそうしたように、今度はアリシアがなのはを抱きしめてあやしていた。優しく頭を撫でるアリシアの手は暖かくて、綺麗な細い指が何度も髪を梳く。
ユーノもそうだったが、どうしてこの二人はなのはを抱きしめてくれるんだろうか。なのはには到底分からない。だって自分は許されないことをした。友達を危険に晒して、あげく殺そうとした大罪人。だというのに何故。
「ごめんね、なのは」
「どうして、謝るの? 悪いのは、いけないのは、なのはだよ……」
「ううん、わたしの我儘でなのはを危険に晒したから。わたしの所為でなのはを不必要に傷つけちゃったから」
「でも……なのは、アリシアの事……ころして、しまい、そうに……」
アリシアの首を絞めていた光景と、その時の感触を思い出したのか、なのはは歯をガチガチと震わせて嗚咽まで漏らし始める。きっと彼女の中では激しい雨の日の光景まで思い起こされているのだろう。
今回の出来事で、日常的に意識しないよう努めていたトラウマが再発したのだ。こうなってしまうのも無理はなかった。
だからアリシアはよりいっそう抱擁を強めた。なのはに自分の温もりが伝わるように。肌を重ねあわせるくらいに密着して、支えようとする己の存在をなのはに決して忘れさせないように。
怖いんだろう。また正気を失ってアリシアやユーノを傷つけないかと不安なんだろう。だから、アリシアはなのはの事を支えてあげたいと思う。
「なのはのこと大好きだから。これぐらいで嫌いになったりしないよ?
わたしは母さんとアルフとバルディッシュ。それだけじゃない、ユーノ、アリサ、すずか、おじちゃん。みんな、みんな大好きな人たちで一緒に笑い合いたい。幸せを分かち合いたい。
だから、なのはにも笑って欲しいんだ。悲しんで欲しくないんだ。なのははわたしに出来た初めての"友達"だから」
「ありしあ……」
「大丈夫。同じようになっても、わたしがなのはの目を呼び覚ましてあげる。ピンチになったらユーノと一緒に助けに行く。そうでしょ? ユーノ」
「もちろんだよ。僕はなのはのこと護るって誓ったからね」
「ゆーの、くん……」
それでようやく我慢の限界を超えたのか、なのはは再び声を押し殺して泣いた。アリシアの肩に顔を埋めて小さな嗚咽を漏らしながら涙を流した。
口にする言葉はやっぱり“ごめんなさい”という六文字の言葉。それに対してアリシアは“じゃあ仲直りしよう”と笑顔で笑うのだった