リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき   作:観測者と語り部

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●番外 おじちゃんとアリシア

 士郎はなのはの事に関して悩みが多い。

 

 数日前に怪我を負った身元不明の少年を匿う事になったのだが、続けて見知らぬ少女を保護したとなれば、娘のなのはが何らかの事件に巻き込まれているのは確実だった。問い質そうとしても、なのはは頑なに口を閉ざして何も語ろうとしない。怒声を浴びせても、ぐっと堪えて耐え忍ぶ。父親に対する恐れを抱きながら。

 

 士郎は娘にどれほど恐れられているのか分かっている。普段から関わってこようとせず、あからさまに避けられているのが事実を示していた。

 それでもショックは少ないものだ。何故ならば、士郎は己が娘に対してどれほど過酷な扱いを強いて来たか、理解しているから。

 

 妻である桃子が殺された時の絶望に比べれば、娘に嫌悪される位、どうということはない。彼の心はその日から死んでいる。

 苛烈なまでの修練をなのはに施し、彼女の肉体を屈強な身体に鍛え上げ、殺しの術である不破の体術を叩き込んできたのも、全ては娘のなのはが自分の身を護れるようにする為。

 

桃子が死んだ要因のひとつに、護身の心得がひとつもなかった事があげられる。愛する妻を護れなかったのは、自分の不徳のなさが原因だと理解しているが、裏世界の事情に巻き込まれるなら、心得のひとつでも教えておくべきだったと後悔し続けている。

 

 だから、士郎は心を鬼にして、なのはに不破流を叩き込んだ。結果として娘に誘拐の手が伸びた時、それが功を成して彼女の命を救う結果になった。しかし、代償として娘は他人に対して警戒心を抱き、容易に心を開かなくなってしまった。

 

 この時のごたごたと考え方の違いから恭也と一悶着があり、復讐の因果を止める為に足の腱を断ち斬られたが恨むつもりはない。肉体の枷を外す神速の代償により、士郎は己の身体に限界が来ていたのを理解していたし、誘拐の件以来なのはを護る事に専念しようと思っていたからだ。

 

 桃子を殺した非合法テロ組織。通称"龍(ろん)"への復讐は美由希が継いでいる。美由希は士郎の妹であり、本当の母である美沙斗の伝手を頼りながら、世界中を旅して回っている。今更、士郎一人が歩みを止めたところで、復讐の連鎖は止まらない。

 

 組織と一族の怨讐は深いものだ。どちらが先に手を出したのかは定かではない。

 要人の警護役などを務める表の御神家。要人の暗殺から不穏組織の殲滅までを担当する裏の不破家。古くから裏に関わる一族は移り変わる平和な時代が油断を招き、組織が起こした爆破事件で一族郎党は皆殺しにされた。それも、御神家と不破家が一族の結婚式という祝いの席に集まった所を狙われた。

 

 御神宗家の最後にして最強の正統後継者。御神静馬もこの世を去り、彼の妻であった不破美紗斗が復讐の旅に出たのが、本格的な復讐劇の始まりだったかもしれない。士郎に美由希を預けてから彼女とは殆ど顔を合わせなくなった。

 

 その復讐劇が周りに回ってきたのか、鬼神の如き美沙斗による組織へのダメージがあまりにも大きすぎたのか知らないが。彼らは肉親である士郎と、その関係者を人質として狙ってきた。それが愛する桃子に害を及ぼし、結果として士郎の目の前で桃子は斬殺された。

 

 今でも思い出せる苦々しい光景。時折悪夢として蘇る、愛する妻が殺される瞬間。

 士郎に残された道は憎悪の対象である組織を根絶やしにする事。そして、残された忘れ形見である、なのはを護る事だけだった。

 

 美由希もそれに賛同し、彼女は組織を壊滅させる道を選んだ。血の繋がった親子ではないが、美由希は桃子の事を本当の母親のように敬愛していたのだから。その深い愛情が、同じくらいに激しい憎悪に代わるのも無理はない。

 

 恭也は反対派に回った。月村家の当主であり、忍という生涯の伴侶を得た彼は、復讐するよりも身近にある大切な人を護る側に付いた。そして父の士郎と意見の違いから口論になることも多い。

 

 それは決まって、なのはの扱いに関してである。恭也は身を護る術を与えるよりも、母親を喪った損失を埋める程の愛情が必要だと士郎に訴えかけていた。

 

 どちらも正しくて、どちらも間違っているのかもしれない。それでも士郎に分かる事が一つだけある。このままでは永遠に末の娘と仲違いしたままだということ。そして、娘が関わっている事件とやらを解明しないと、不安で仕方がないというものだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 ユーノという異国の少年を保護して、数日後の事。

 娘のなのはが、またもや得体の知れない子供を連れてきた。

 ユーノと同じくらいの年の少女は、日本では見かけない金糸の髪が特徴的で、見るからにボロボロだった。

 具体的には痩せていて栄養失調が目立つ。そして、レオタードのような舞台劇の衣装と錯覚するような格好をしていた。悪く言うならばコスプレか。

 

 彼女の扱いについて、士郎となのはは覆いに揉めた。

 

 いわく、身元の知れない人間は、何処で裏に関わっているか知れない。最悪、何処かの組織の暗殺者かもしれない。今すぐ警察などの公共機関に引き渡すべきだという士郎の意見。

 

 いわく、怪我をしている子供を見捨てるほど不破家は腐っていない。元が他者を護るための御神であるならば、保護するのは当然。自分が責任を持って面倒を見る。それにユーノも彼女も、悪い人間ではないというなのはの意見。

 

 下手すれば格闘術を用いた喧嘩になりそうな口論を、夕飯を作りに来ていた恭也が諌めた。彼はなのはの側に回ったため、二人の子供は不破家で面倒を見ることになる。

 恭也いわく、常に家にいる父さんが見張っていれば万が一など起きない。保護しても大丈夫だろうという甘い考え。

 

 そして、この時のなのはの気迫は凄まじく、士郎に対して恐れを抱いているのに、一歩も引くことはなかった。

 

 士郎としては溜息を吐くしかない。いったい娘は誰に似て頑固な性格になってしまったのだろうか。このまま口論していても仕方がないと、結局は士郎が折れた。怪しい動きをするならば、即座に家から叩きだすという条件付きで。

 

 懸念があるとすれば、娘の隠し事が一切把握できないと言う事か。バニングス家と月村家を通じた情報網でも、第一線から退いて衰えた肉体を酷使し、娘を尾行しても、その全貌を捉えきれないのだ。不思議なことに必ず撒かれてしまう。まるで、魔法にでも掛けられたかのように。

 

 娘を護る為に常に気を研ぎ澄ましている士郎としては、警戒することが多すぎて、心労で倒れてしまいそうだった。復讐の因果が回り廻ってきているので、自業自得と言えばそれまでなのだが。どうにもやるせない。

 

 そんな矢先のことだ。鬱陶しくも、健気に士郎と触れあおうとした少女が現れたのは。

 それは、言わずと知れた保護した少女。アリシア・テスタロッサその人だった。

 

 彼女と士郎の本格的な接触、第一印象を決定付けたとも言える出会いは太陽が真上に昇った昼間の頃。

 腱を断ち斬られた片足を引きづるようにして歩いていた士郎は、用意した緑茶を運びながら、とある部屋に向かっていると、人の気配がする事に気が付いた。

 

 恭也でもなのはの気配でもない。そもそも恭也は普段、月村家の令嬢の傍に居る。なのはにしても恐れを抱いている父親には必要なとき以外近寄ろうとしない。

 

 つまり、見知らぬ誰か。士郎の予測では最近保護した子供の内の二人。

 

 思わず舌打ちと溜息。あの部屋は士郎にとって神聖な場所なのだ。荒されたら即座に叩きだしてやろうと、心の底で決心した彼は部屋に早足で近づいた。

 

「誰だッ!」

「ほえ? おじちゃん、だぁれ~~?」

 

 そこに居たのは一人の小娘だった。なのはの数少ない古着を着ていた彼女は、襖を勢いよく開けて怒声を放った士郎に、動じてすらいなかった。ただ、座布団の上で女の子座りをしながら、金糸の長い髪を揺らし、小首を傾げて士郎を見上げている。

 

 彼女の隣には綺麗に手入れされた仏壇。此処は桃子の遺影が飾られた部屋なのだ。

 

「小娘、そこを退け」

「小娘じゃないよ。アリシアだよぅ! おじちゃんは誰なのさ? 知らない人~~?」

 

 士郎が凄みを効かせた形相で睨みながら、もう一度静かに脅しても、アリシアと名乗る少女は遺影の前の座布団から離れようとしない。部屋を出て行く気配すらない。

 

 そもそも本当に士郎が誰なのか知らない様子だった。なら、教えてやることにする。そして、この部屋が何なのかも。

 

「俺は不破士郎。貴様を拾ったなのはの父親だ。此処は亡くなった人を祀る神聖な場所。他人がとやかく入っていい場所ではない。分かったら出てけ」

「誰か死んじゃったの? この写真のひと?」

「ッ……」

 

 思わずギリリッと歯ぎしりしてしまう程に士郎は苛立つ。他愛ない子供の無邪気な質問だが、桃子の事に関して不躾に触れられれば腹も立つ。この小娘の頭に痛烈な拳骨でもくれてやろうか。それとも無知を弁えさせるために青臭い尻を百叩きにして、庭の木に吊し上げてやろうか。士郎は本気で実行に移そうかと苛立ちと共に思案する。

 

「どうしたの、おじちゃん。おでこに青筋が経ってるよ」

 

 士郎は何も言わない。誰のせいだと思っているとも口に出さない。

 ただ、襖を開けたままアリシアに近寄って、畳の床に強烈な踏込をする。ダンッと地を揺るがすような重低音が響き、アリシアがびくりと肩を震わせた。ここに来てようやく自分が踏み込んではいけない領域に、足を踏み入れたのだと理解したらしい。

 

 士郎はしゃがみこむと、アリシアの顎を掴んで、彼女の耳元に口を寄せた。そしてそっと呟く。

 

「早く此処から出て行け……それとも、ここで貴様の首をねじ切ってやろうか……?」

「――こくこくこくっ!!」

 

 底冷えするような声で囁かれて、顎を掴まれていても、必死に頭を縦に振る少女。

 手を離してやると仰け反って尻餅を突き、怯えたように後ずさりした。そして慌てたように部屋から出て行と、遠ざかる足音と主に姿を消した。

 

 これで、もう二度と、この部屋を訪れることはないだろう。

 

 ようやく落ち着いた時間を手にした士郎は、遺影が床に落ちていることに気が付く。あの少女が桃子の写真でも眺めていたのだろう。それをそっと元の位置に戻すと、蝋燭に火をつけ、香炉に三本の線香を捧げた。自分と、美由希と、あの少女の分だ。

 

 士郎は両手を合わせて静かに祈る。時間にして数分くらいだろうが、士郎にはもっと長く感じられた。日々の後悔。子供たちの事。これからの事。己の抱く悩み。そういったモノを桃子に伝えている。返事は帰ってこないが、何もしないよりはマシだ。

 

 それからは、外の廊下に続く横開きの扉を開け、縁側に座りながら庭の景色を眺めて、熱い緑茶を淡々と飲む。これが士郎の欠かせない日課だった。

 

 なのはに早朝と夕方の鍛錬を施す以外は基本的に暇だ。娘が学校に行っている間も、わざわざ様子を監視しに行くほど彼も酔狂ではない。海鳴市に築いた情報網と人脈。それらに怪しい人物が引っ掛からない限りは動く事もない。要注意人物は出来る限りマークされている。何かあれば士郎の伝手から連絡が入るだろう。

 

 この静かな時間で、彼は自問自答するのが常だった。自分は正しいのだろうか、と。

 

(桃子が今の俺を見れば、何というのだろうな。俺の愚かさを叱るだろうか? それとも……)

 

 士郎は、その日も静かに佇む。彼の悩みは今日も解決することはなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

 この状況を何と評すればいいのか、士郎には分からなかった。一言云うのであれば予想外。これに尽きるかもしれない。

 

(あの小娘は何をしているのか理解できん)

 

 今日も今日とて、日課である仏壇の部屋に通い詰めていた士郎は、襖の陰から覗いているアリシアに呆れるしかなかった。

 

 そ~っと士郎の様子を伺うようにして部屋を覗き込んでいる少女。時折、チラリと士郎が視線を向ければ、怯えた小動物のようにサッと顔を隠すのだ。そして気が付かない振りをして、遺影に顔を向ければ、また士郎の様子を伺い始める。

 

 正直に言おう。まず、気配からして察知するのは容易である。相手の気配を読むことに長けた士郎からすれば、怯えた少女の気配など嫌でも感じ取れてしまう。恐らく普通の人間でも視線位は感じるだろう。

 しかも、二つに別けた長い金糸の髪が、空いた襖から見えてしまっているのに、彼女はに気が付かないらしい。これほど滑稽なことはない。

 

 まあ、このまま放って置いても良いのだが、祈りを捧げる前に覗かれていると気が散る。前のように追い出してもいいのだが、懲りずに部屋を訪れている所を見ると、再び戻ってくる予感さえする。

 

 士郎は、どう接して良いのか分からない。彼は子供が苦手だ。

 気が強いバニングス家の令嬢でも、士郎と対面して怯えていたし。おとなしい印象の月村家の次女には顔を見られただけで泣かれた。そんなに自分の顔は恐ろしいのかと士郎は少し憂鬱になる。確かに鏡をみると、昔と比べてやつれているかもしれないが。

 

 まあ、それに比べれば人の顔を見ても平然としているアリシアという小娘はマシな方なんだろう。ただ、行動と考えがイマイチ読めないのが難点だ。何がしたいのかさっぱり分からない。

 

「いい加減に入ってきたらどうだ」

「バレてるっ!?」

 

 低めの声で静かに呟くと、アリシアはギョッとしたように目を見開いた。そして、怯えたように小刻みに震えだす。気のせいか紅い瞳も揺れていた。

 

「最初から気が付いていた。入って来たらどうだ? そこに居られると気が散る」

「怒らない……?」

「怒らん。懲りずにやってくる貴様を叱っても、意味がないと判断した」

「キサマじゃないもん……アリシアだもん……」

「嗚呼、分かった。分かったからとっとと入って来い、アリシア」

 

 士郎の許可を受けて、アリシアは身体をびくびくと震わせながらも、そ~っと部屋に入室する。

 その顔はずっと士郎に釘付けで、怒られないか顔色を窺っている様子だった。

 

 前の時は部屋に無断で入っていたアリシアに苛立ち、つい出て行けと脅した士郎だったが、別に子供が嫌いという訳ではない。単にどう接して良いのか分からないだけだ。だから、嫌悪ではなく苦手と表現される。

 

 今日は機嫌もいいので、多少の事なら付き合ってやるつもりだった。不躾な質問にも目を瞑ろう。あれこれ苛立っていては心身が持たない。

 

「で? 何の用だ。小娘?」

「う~~っ!」

「名前で呼ばれないことが不満か? だが、貧相な貴様など小娘で充分だ。認められて欲しかったら一人前に成長することだな」

「一人前って何なのさ?」

「ふん、それは小娘が己自身で見つけ出すことだ。俺は他人をとやかく言う程、答えを持ち合わせておらん」

「そうなんだ。難しいね……」

 

 それっきりアリシアは考え込んで黙り込んでしまった。士郎の隣で女の子座りをしながら、彼女はぼんやりしている。口からほえ~~と声まで漏れていた。

 このままでは会話が続かない。そう判断した士郎は溜息を付きながらも、もう一度問いかける。此処へ何をしに来たのかと。

 

「もう一度聞くが、何用があって部屋を訪れた?」

「んぅ? あっ、そうだ! わたし、おじちゃんに用があって来たんだった」

「ほう?」

 

 それは多少なりとも興味を持たれる事象だった。士郎とアリシアの接点は、不破家の末っ子である娘の“なのは”だけだ。そこからどうして士郎に関心が向くのか気になる所。或いは士郎に対して、聞きたい事でもあるのかもしれない。

 

「このひと、だぁれ?」

 

 アリシアが士郎の顔色を窺いながら、静かに指差すのは仏壇に飾られた遺影。写真を撮ったあくる日から、変わらぬ微笑みを見る人に向け続ける、愛する妻の遺影だった。

 

 もしかすると前に部屋を訪れていたのは、この写真の女性が気になってしまったのかも知れない。アリシアを献身的に世話したのは娘のなのはだ。彼女と良く似た女性の写真であれば尚更だ。

 

 士郎は、少しだけ寂しそうに笑う。それは桃子に関わるものに触れられて、在りし日の想い出を振り返っているからだろうか。

 

「気になるか?」

「うんっ!」

「その人は、俺が生涯で愛した、たった一人の女性。なのはの母親だ」

 

 なのはの母親という言葉に、アリシアは息を呑んだ様子だった。

 その表情は驚き、次いで寂しそうな物に少しずつ変化していく。

 

「なのはの、お母さん?」

「そうだ」

「……もう、会えないの?」

「…………そうだ」

 

 アリシアは士郎の言葉を聞きながら、寂しげな表情で、じっと写真を見つめ続ける。それは、とても真剣な様子で、邪魔をしてはいけないと判断させるには充分すぎた。

 

 やがて彼女は、静かに目を閉じると、しばらくの間それを続けた。恐らくだが祈ってくれているんだろう。そのことに士郎は少しだけ感謝する。名前を聞いただけの、実際に会ったこともない女性の為に祈ってくれる。そんな少女を無下にする程、士郎も無粋ではない。

 

「ねぇ、おじちゃん」

「なんだ?」

「この人は優しい人だった?」

「……そうだな、血に濡れた業を背負う俺に対して怯えず、心の底から愛してくれる優しい女性(ひと)だった」

 

 士郎の答えに対して、アリシアは嬉しそうな顔を隠さない。士郎はそこから、この娘が母という存在に特別な想い入れがあるのだと推測する。

 だから、会えないという士郎の返答に悲しい顔をしたのかも知れない。

 

「そっか、わたしのお母さんもすごく優しいんだよ? 仕事でなかなか帰って来れないけど、ピクニックに連れて行ってくれた時は、すごく優しい笑顔をするの。ずぅぅぅっと、わたしの記憶に残っている。母さんとの大事な思い出なんだ」

「そうか」

「うん、わたしは母さんが大好き」

 

 でも、とそこで少女は言葉を区切った。続いて語り紡がれる言葉は、お父さんの顔を知らないというもの。

 顔も、姿も、声さえも知らない。写真でも見たことがない。実の父親がどんな性格をしていて、どんな仕事をしていたのかも分からない。何処に住んで居るのかも分からず、今を生きているのかも知らないと少女は語った。

 

 それを聞いても士郎は顔色ひとつ変えない。だから、どうした? とでも言いたげですらある。しかし、この娘が何を言いたいのかも察してはいる。要するにアリシアと名乗る少女は。

 

「だから、おじちゃんが初めて見た、お父さんって存在なんだ」

 

 士郎という男に対して父性を求めていたのだから。

 

「――幻滅したか?」

 

 士郎は己が、世間一般でいう所の父親とかけ離れていることは自覚している。

 普通なら愛する我が子に頼れる背中をみせたり、休日にはどこか遠い所に連れて行ってあげるのがお約束だ。

 

 仕事や出張から帰ってきた時には、ただいまと笑顔で出迎えつつ、土産を期待して顔を輝かせる子供達。それに対して、ほらっと持ち帰った土産物を渡してやり、喜ぶ子供たちを抱き上げてやる。

 

 学校の行事なら運動会の参加が良い例だろう。親御さんを中心した二人三脚や綱引きで、負けるな、頑張って、といった声援を受け、他のお父さん方と誇らしい父親像を掛けて戦う。子供にとってはヒーローみたいな存在。

 

 それが、一般的な父親像だろう。

 

 だが、アリシアが初めて目にした父親という存在は、己が娘に厳しく、余所の人間に排他的で、優しくて頼れるヒーローの面影など何処にもない。ましてや娘を思いやるが故に厳しく接する頑固親父ですらないのだ。

 

 ただ単に自分勝手な都合を娘に押し付け、放任主義といっていい程に学校の行事には参加しない駄目な父親。そのくせ都合の悪い部分には身勝手にも口を出す。これでは父親という存在に憧れるアリシアが幻滅するのも無理はないだろう。

 

 まあ、士郎としては、世間の目など気にもしない。アリシアがショックを受けたとしても、勝手に期待を押し付けられただけだと割り切ってしまう。そんなことを気にしている余裕など彼にはないのだから。

 

 しかし、アリシアの反応は士郎の予想とは正反対のものだった。彼女はにこやかで、無邪気な笑顔を浮かべたのだから。

 

「ううん、そんなことないよ?」

 

 それはお世辞でも、嘘でもなく、本心から告げた言葉なんだろう。心に偽りや後ろめたさを抱えた者特有の、感情の揺れの様なモノがまったく見られない。

 かといって相手を騙すために偽りの笑顔を浮かべて、悪意を隠している風でも、自身の心を殺している訳でもない。

 本当に純粋で、素直すぎる少女の想いだった。

 

「ふん、どうだかな。貴様が思っているよりも、俺は悪逆非道の極悪人かもしれんぞ?」

「それは、違うと思うけどなぁ」

 

 士郎が己を皮肉下に自虐しても、少女の想いは変わらない。それどころかハッキリと否定までしてきた。

 

 アリシアは士郎の心を見透かそうとしている。それが癪に障ったのか士郎は苛立たしげに顔を背けた。苦虫でも食わされている気分だ。それでも、この娘を追い返そうとしないのは大人げないとでも思っているからか。

 

 ただ、黙って士郎はアリシアの考えに耳を傾けた。

 

「おじちゃんは、なのはに危険が及ぶと思ったから、わたし達に口煩くするんだよね? なのはから聞いたよ。わたし達を家に泊める為に家族と一悶着あったけど、気にしないでくださいって。それって、なのはを大切に想ってる証拠だよね」

「……俺が娘に厳しく接していることくらい知っているだろう。貴様の勘違いだ」

「うん、そうかもね。なのはから、おじちゃんに近づかないように言われて、どんなおっかない人なのかなって、ビクビクしてたもん。実際、初めて会ったときは怖かったし」

 

 でも、とアリシアは一旦言葉を区切った。そして、その紅い眼差しで、士郎を純粋なまでに見つめてくる。

 

「おじちゃんは優しい人だよ。だって、おじちゃんの大切な部屋に、招き入れてくれたもん。わたしの事も怒らずに許してくれたでしょ? ほら、優しい」

「………」

 

 士郎は深い深い溜息を吐く。それは怒る気力も失せて、呆れてしまったからなんて、口が裂けても言えない。

 

 それに、小娘の中では士郎が以前の事を許していると決定されているらしい。別の意味で勘違いしている少女に、さらなる呆れが追加されたが故の溜息。この小娘は話をポジティブに捉えるのがすごく上手いらしい。

 

 そして、愛する妻の面影を感じさせるほどの強引さと直向きさ。どうも、士郎はこの少女が大層苦手らしかった。何と言うか自分のペースを悉くかき乱されるし、真面目に相手をすればするほど疲れる。何より、桃子のことを思い出して辛くなる。

 

 娘のなのはが姿という形で桃子の面影を残すなら、アリシアという少女は性格の方で妻の面影を見せてくれるらしい。本当に困ったものだ。

 

 早く話を切り上げよう。そう思い、士郎は話題を強引に終わらせようとした。

 

「……もう、良いだろう? 小娘の話に付き合っている程、俺も暇ではない。この後は、大事な時間だ」

「ほえ? 何かするの?」

「茶飲みだ。哀愁漂う惨めな男は、過去に想いを馳せるらしい。誰の相手もせずにな」

 

 遠回しに、これ以上付き合ってられないから、とっとと部屋から出て行けという宣告。だけど、士郎は判断を誤った。

 

 この娘に皮肉や遠回しな発言は通用しないのだ。断るならはっきりと突き付けるべきなのである。先程も結論付けたように、話をポジティブに捉えるのが上手いのだから。

 

「じゃあ、わたしも一緒にお茶を飲んでも良い?」

 

 やはり、この強引さは桃子を思い出すと、士郎は寂しげに"笑う"

 

 フィアッセ・クリステラという恭也と同年代の世紀と謳われる女性歌手であり、幼馴染でもある娘。その子の父親であるイギリスの上院議員アルバート・クリステラ。

 彼とは親友同士であり、御神の技を使ってボディーガードを務めていた時は、共に世界中を飛び回ったものだ。

 

 そんな護衛の最中、とあるホテルに滞在する事になった。そして、そのホテルには桃子が居たのだ。彼女の作るシュークリームは絶品で、一口目で気に入ったのを今でも覚えている。あの味も忘れられないものだった。

 

 そして、アルバート議員を狙った、ホテル全体を巻き込んだテロ事件。士郎が全力を尽くし、身を挺して奔走することで事件は鎮圧されたが、自身は重傷を負ってしまった。

 

 その時に桃子は律儀にも見舞いに来てくれたのだ。貴方のおかげで命を救われたのだと。もう見舞わなくても良いよ。と丁重にお断りしても、彼女は毎日強引に押しかけてきた。命を喪い掛けた士郎を本気で心配してくれたのだ。一度、こうと決めたらなかなか譲らない女性であった。

 

 この娘もその類の人間らしい。

 

「あのね、おじちゃんとわたしが仲良くしてれば、なのはも一緒に付き合ってくれて。おじちゃんとも仲良くできるんじゃないかなって、思うんだけど。

 やっぱり、家族を喪ってもいないのに、仲違いしたままなのは寂しいよ。わたしは、おじちゃんとなのはが、仲良くしてくれると嬉しいな」

 

 少女の提案に、士郎は「家族の事に余所の人間が口を出すなっ」と怒鳴るのは簡単だった。気に喰わなければ難癖つけて、怒鳴り散らして追い返せばいい。言って聞かないなら常人なら怯えて失禁する程の殺気で脅してしまえば良い。

 

 それをしないのは、アリシアの純粋な心に触れて、奥深くに閉ざされていた士郎の心が解されていたのかもしれなかった。或いは少女に、桃子の面影を重ねたせいで、少しだけ気を許していたのだろうか。

 

「…………小娘の、アリシアの好きにしろ」

 

 ともかく士郎は少女の提案に、そっけなく返事をする。

 そのそっぽを向くような態度が、素直じゃないなのはと重なって。士郎となのはは、やっぱり親子だなぁ、と微笑ましく思うアリシアだった。

 

 それからというもの、アリシアは何度か士郎とお茶を共にした。桃子の遺影に向けて合掌を済ませ、座布団の上に座りながら、渋い茶と前餅を口にする。

 

 もっとも、その前餅はアリシアが慣れない茶に苦戦することを予想して、予め士郎が用意しておいた一品だった。中々の高級品で程よい甘みが癖になる大福。

 

 案の定アリシアは、苦い茶の所為で、大福を何度も摘んだ。人形のように整った精細な顔の表情が、お茶の苦味で涙目になる姿は滑稽だったと士郎は心の内で表する。

 

 それは彼なりのちょっとした悪戯心だったのかもしれない。或いは己の心をかき乱す小娘への意趣返しか。

 

 茶請けに用意された湯飲みは"三人分"。前餅の大福は気を利かせて一人前と半人分。士郎はお茶だけでも飲めるので、アリシアが全部食べきれる量であり、なのはにお裾分けできる程よい量だった。

 

 お茶の時間は急須に注いだ熱い液体が無くなるまで。その間になのはが来ればよし、来なければそのまま解散というのが暗黙のルール。これは士郎が茶を飲み終わると自分の茶飲み道具を片付けて帰って来ないからだった。それに対してアリシアは何も言わない。

 

 そして、茶会というのもアリシアが一方的に士郎に話しまくるのが主な光景だった。士郎は自分から語ろうとしないので必然的とも言えるが、単に子供に何を話して良いのか分からず、黙して語らないだけである。

 

 アリシアが話すのは自分の事、母親と過ごした思い出、姉妹ようなアルフとの生活の事、大好きなお姉さんのようなリニスとの授業風景。魔法の事はぼかしているが、それ以外はありのままの出来事を熱心に語った。

 

 とりわけ、なのはの話が多い。なのはと過ごしている時間の事を語るときは活き活きとして笑顔が輝いていた程だ。それくらいアリシアは、なのはの事が大好きだという証だった。

 

 士郎も顔には出さないが、なのはの話を聞く時は少しだけ雰囲気が柔らかくなる。何だかんだ言って、この男も愛する妻との間に授かった娘の事を気にしているのだろう。だから、アリシアもなのはの事を沢山に語った。士郎の知らない娘の姿を。

 

「なのは、来ないね~~」

「……そうだな」

「やっぱり、そう簡単には上手く行かないのかぁ~……」

「嗚呼……そうだな……」

 

 もっとも肝心のなのはおびき寄せ作戦は上手くいっていない。アリシアは間が悪いのかなぁと悩んでいる様子だったが、そうではない事を士郎は知っている。

 

 元々、作戦の成功率など在って無いようなモノなのだ。なのはが士郎の事を恐れて普段から近寄って来ない以上、彼女が部屋を訪れる確率は限りなく低い。それに平日は学校に通っていて、帰って来るのは夕方ごろ。狙うなら休日の土日が妥当だろう。

 

 それに娘が部屋を訪れるのも少し困る。何せどう話していいのかさえ、士郎には分からないのだから。

 

「うぅぅ、おじちゃん、ごめんね。わたしの考えが浅はかだったばっかりに……おじちゃんの大切な時間を邪魔するだけだったよね……」

 

 そんな士郎の胸中を知らないアリシアは、しょぼくれて眉を下げながら士郎に謝ったのだが、対する返答は信じられないものだった。

 

「……そんな事はない」

「ほぇ!? あっ――えへへ~~」

 

 なんと、あの士郎がアリシアの頭を優しく"撫でた"のだ。鍛え上げられた逞しい腕。鍛錬の積み重ねで硬くなった手のひら。そんな岩肌のような不器用な手が、恐る恐るといった様子でアリシアの金糸の髪をくしゃくしゃにしている。

 

 アリシアも驚き、恐る恐る頭を両手で抑えながらも、満更ではなさそうに撫でられていた。まるで、本当の親子のような姿がそこにはあった。

 

「お前の話は……聞いていて飽きない」

「ホントっ!?」

「ああ。それに小娘のおかげで、俺の知らない……なのはの姿を知ることが出来た――感謝している」

「おじちゃん?」

 

 いつもとは様子の違う士郎の姿に、アリシアは戸惑い始めた。いきなり頭を撫でられた驚愕もあるが、その時は喜びが勝った。だが、落ち着いてみれば明らかに士郎の様子は何処か違った。何か決意して、覚悟を決めた様な表情だった。

 

 不器用な男はアリシアに向き直ると、胡坐を掻いた姿勢で静かに頭を下げる。

 

「娘を……なのはをよろしく頼む」

 

 それは、恋人公認ならぬ友達公認。普通の家庭に置き換えるとおかしな光景だが、士郎がアリシアを認めた瞬間でもあった。事実上の友達でいてやってくれ宣言である。

 

「――もちろんだよ! おじちゃん!」

 

 ただ、そんな態度や決意は。無粋かもしれないが、自分じゃなくて、娘のなのはに向けてやって欲しいと思うアリシアだった。

 

 呆れという隙間から染みこんできた、暖かな少女の心。

 それは、湯水のような暖かな滴が、氷を溶かしていくように。少しずつではあるが、冷たく凍り付いた復讐者の心を癒していく。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 なのはがトラウマで寝込んでいる時。ユーノに弱さを見せて縋っている娘の慟哭を廊下で盗み聞きしていた士郎。

 

 しかし、ゆっくりと首を振って部屋から去っていく。向かう所はアリシアを寝かせている部屋。

 

「調子はどうだ」

「あっ、おじちゃん。え~~と、うん、わたしは全然平気だよ」

 

 これはアリシアの強がりだろうと士郎は判断した。目の前の少女は身体をちょっと動しただけで、すごく痛がるように顔をしかめるのだ。それでも強がって涙目になりながら笑顔を浮かべる彼女は困った子供である。痛いのなら痛いと正直に言ってくれれば、士郎としても何かしてあげやすいのだが。

 

 ふと、士郎はアリシアの首元に目を向けた。首の前から後ろに掛けて赤い痣が走っていたからだ。アリシアの肌は西洋人と比べても、とても真っ白で雪のような肌をしている。だから、その痣は目立って仕方がない。むしろ気付けない振りをする方が無理だ。

 

 仏頂面で無愛想な士郎の表情が険しくなったことに気が付いて、慌てた様子で首元を隠したアリシア。笑顔でえへへ~~なんて笑って誤魔化そうとしても、もう遅かった。

 

「その痣、首を絞められた跡だな? 誰にやられた?」

「これはその……えっと、何でもない!」

 

 絞めた後だと断言するのは死体を何度も見てきた経験故だ。指の数よりも多くの人間を殺めた士郎にとって、傷跡を見ればどのように殺したのか一発で判る。ましてや絞殺された遺体などは分かり易い。

 

 士郎の問い掛けに対してアリシアの答えは誤魔化しだった。下手な嘘を吐かれるよりはマシだが、何でも無いというのは無理があり過ぎるだろう。

 

 犯人は恐らく子供。それも、彼女と同じ年ぐらいだろうと士郎は予想した。痣の形や大きさからして縄ではなく手で直接絞めた痕だ。

 

 ずぶ濡れになって帰ってきた娘。気絶した二人の子供。普段と様子は違い怯えたように震えるなのはの様子から、何があったのか大体見当が付く。

 

「……なのはがやったのか?」

「ばれてるっ!? でもでも、なのはのこと怒らないであげて。なのはは悪くないんだ」

 

 この子は隠し事が苦手だな、と士郎は苦笑するしかない。

 

 それに不器用に娘のなのはを庇おうとするアリシアの存在は酷く滑稽だ。でも、とても良い友達なんだろう。殺されそうな目に遭ったのにも関わらず、こうしてなのはを庇おうとしてくれる友人。娘は本当に得難いものを得ることが出来たようだ。

 

 あたふたしながら、身振り手振り交えて、必死になのはが悪くないことを弁明し続ける少女の頭に、士郎は手を乗せた。

 

「……ずっとなのはの事は見てきたつもりだ。あの子の抱えたトラウマも事情も知っている。だから、不慮の事故があったことくらい……分かる」

「うん……」

「……むしろ、そこまでされて娘のことを嫌いにならないのが不思議なくらいだ」

 

 士郎が疑問を投げかけると、アリシアは考え込むような仕草をした。

 そしてきっぱりと自分の考えを口にする。自分がどれくらいなのはに対して心を許しているのか、士郎に伝えられるように。虚無に満ちた男の眼差しを真正面から見据えるようにして。それだけでも彼女の芯の強さは相当なモノだろう。何かが彼女を支えているのだ。

 

「だって、なのはは初めて出来た友達で、わたしのこと気に掛けてくれたもん。初めて会ったときに喧嘩して、持病で苦しんだわたしを助けてくれる優しい女の子だよ? 好きになる理由はあっても嫌いになる理由はないと思うな。

 それに、なのははわたしと同じ苦しみを抱えてる気がするから。わたしも、いけないこと、たくさんしてきたから」

「そう、か」

 

 いけないこと、とは自分の犯した罪の過ちのことだろう。でも深く追求するような無粋な真似はしない。

 

 それはきっと、この少女が抱え込んで、背負っていくべきもの。他人がとやかく出る幕ではないのだ。その問題を解決できるのは自分自身だけだろう。

 

 たとえ大人として助言すべきだとしても、士郎にその資格なんてなかった。彼は表の住人から見れば大罪人であり、復讐とはいえ、数多の人を殺した殺人鬼と呼んでもいい裏の顔を持つ。そんな自分の助言など無意味でしかない。誰かを導く資格など自分には持ちえない。

 

 ……せめてもの士郎にできること。それは誰かを想ってやることぐらい。祈りをささげるくらいだ。

 

 願わくば訳ありの子供たちに幸多からんことを。

 

「えへへ~~」

 

 アリシアが嬉しそうに笑う。士郎のごつごつした大きな手が、無意識に彼女の頭を撫でていたからだ。父無しの彼女にとって士郎の存在は初めて感じる父性。とても嬉しくなってニコニコしてしまうのも無理はない。

 

 でも、だからこそ彼女は士郎に酷な問い掛けをする。嬉しそうに目を瞑って笑う表情から、困ったように微笑む表情に変えながら。彼女は士郎にとって最大の悩み事を口にした。

 

「ねぇ、おじちゃん。どうしてなのはの所にいかないの?」

「う、むっ……」

 

 唸りこんで士郎は黙るしかなかった。無意識に撫でていた手を止めて、正座している膝の上に戻す。そして気が付けば本能的に少女に対し、凄みを効かせた顔つきで睨み付けていた。まるでそれ以上踏み込むなと言わんばかりに。

 

 しかし、アリシアは怯まない。愛らしい女の子の笑みを浮かべながら、上目遣いで士郎に問い掛ける。

 

 だって、おじちゃんはなのはのお父さん何だよね? なのに、どうしてわたしの所に来たの? と。

 

 士郎は居心地が悪そうにして、大きく深いため息を吐いた。問われた以上は答えねばなるまい。

 

 沈黙もまた一つの答えなんだろうが、少女はそんな答えを望まない。何故ならば彼女が求めているのは士郎の本心だからだ。誤魔化しても深く追求してくるか、純粋な眼差しで士郎をじっと見つめるだろう。彼が本心を口にするまで。

 

 やがて、仏頂面で、強面で、不器用な父親が呟くように答えを口にする。それは生きることに疲れ切ったような老人のような呟きだった。

 

「……俺には、その資格なんてないからだ」

 

 娘と同い年くらいの子供に何を言っているのだろうと、士郎は自らを嘲笑した。大の大人が守るべきはずの子供に悩みを打ち明けるなど、みっともないにも程がある。

 

 でも、そんなこと関係ないと言わんばかりに、アリシアは士郎の話を聞いていた。体調が悪く、少し苦しそうな表情はしていたが、浮かべる微笑みは士郎を安心させようとするかのようだ。彼女は自分が苦しい時でも、他人の身を案じていた。

 

 士郎が娘と同じ年ごろの女の子に心を開き始めたように。アリシアもまた士郎に対して心を開いている。大好きな親友のお父さんで、アリシアが初めて出会った父親と言う存在。そして、なのはと良く似た不器用な性格の人。どこか放って置けなかったのだ。

 

 何より、半月ほど共に茶飲みを交わした絆が二人の心の距離を縮めていた。。

 

「しかくって、なのはに会うには相応しくないってことだよね?」

「……ああ」

「でも、そんなの関係ないと思うけどなぁ。だって、おじちゃんは、なのはのお父さんだよ? 親に会いたくない子供なんて普通はいないもん。きっと、おじちゃんのこと待ってるよ?」

 

 頑固な父親を諭す娘のような口調で、アリシアは士郎に自分の考えを告げた。

 

 実際、彼女は親に対してそう思っているし、両親に対する愛情は溢れんばかりに満ちている。

 

 母であるプレシアの事がとっても大好きなアリシア。そんな彼女は自分の父親の事は見たことも、聞いたこともない。それでも父と言う存在がいたのならば、母と変わらず愛していただろう。実際に会ってみたいという想いもある。

 

 そして、親が心配してくれたり、自分のことを構ってくれたりするのは、すごく嬉しいのだ。彼女は記憶にあるプレシアの笑顔を思い出しては、それを心に染み渡らせるように実感する。

 

 そんな彼女にとって、士郎という男性は初めて見る"父親"という存在だった。

 しかし、士郎は憧れていた、想像していた、優しくて頼りがいのある父親とは違う。むしろ、彼は正反対の人物だった。強面で、厳しくて、怒ると怖いような。アリシアがもっとも苦手とする性格の人。

 

 でも、話してみると意外と優しい一面もある。何だかんだ言って、アリシアのことを構ってくれるし、無視したことは一度もない。しつこく喋りかけてくるアリシアの話をちゃんと聞いてくれる。鍛え抜かれて、ごつごつした手で、頭を撫でてくれた時は、すごく嬉しかった。自分のではないが、"父親に"頭を撫でられたのは初めての経験だったから。

 

 だから、ある時、恩返しをしようと思って勝手に協力し始めた。その名もなのはと仲直りしよう大作戦。

 

 自分が気さくに話し掛け続けていれば、なのはも興味を持って会話に混ざってくるかもしれない。そんな期待と共に居候している間は士郎と一緒にいることも多かった。

 

 彼もさりげなく思うところがあったのか、"三人分"の緑茶を用意していることもあった。結果は失敗だったが。

 

 アリシアは、それくらい士郎のことが気に入っていて懐いている。だから、大好きな、なのはとも仲良くしてほしいと思うのは当然の事だった。

 

 不破士郎と言う父親は素直になれない不器用な人間だ。娘のことを愛している。心配していると打ち明ければいいのに、それが出来ないでいる。

 

 色んなことを考えて、自分一人で抱え込んで解決しようとする所も、感情を表に出さず仏頂面なところも、本当になのはとそっくりだ。

 

 現にこうして娘の元に行かず、逃げるようにアリシアの所に来ているのだから。

 

 どんなにすれ違っていても、二人は似た者同士の親子なんだなぁ。とアリシアは嬉しく思う。そして、大好きな二人だからこそ仲良くなって欲しいと思う。

 

 まずは弱気になっている父親の背中を押してあげたい。

 

「ねぇ、おじちゃん。わたしは大丈夫だから、なのはの所に行ってあげて?」

「……だが、俺は――」

「声を掛けられないなら、頭を撫でてあげるだけでもいいから」

 

 痛む身体を動かして、アリシアは小さな手で士郎の大きな手を包み込んだ。

 士郎が恐れ、苦悩する気持ちもわかるのだ。アリシアだって、娘を認識できなくなったプレシアを見舞う時は、少しばかりの勇気がいる。大切な人に距離を置かれてしまうのは、心がとても辛いだろう。苦しいだろう。

 

 それでも、どちらかが歩み寄ろうとしない限り、何も進みはしない。もっと仲良くなる事も、関係を取り戻すことも出来はしないのだ。

 

 アリシアは笑った。自分の笑顔で少しでも士郎を励ませるように。

 

「だから、頑張って、おじちゃん」

 

◇ ◇ ◇

 

 士郎はアリシアに言われるまま、彼女の寝室からそっと抜け出た。娘の所から逃げるようにアリシアの所を訪れたのに、逆に娘と顔を合わす羽目になってしまった。

 

 そんな彼の顔は苦悩で酷く歪んでいる。どんな表情を浮かべて、どんな言葉を娘に掛けて、どんな態度で接してやればいいのか、まったく判らないからだ。

 

 何時もの様に、仏頂面な態度で「……なのは、怪我はないか」と声を掛けるべきか。それとも気さくな態度で「無事だったかい、なのは? 父さんは心配したんだぞ~~」とでも言うべきか。いや、いきなりそんな態度で接しても困惑されるだけだ。

 

 娘との間に広がる距離を縮めようとしても、親の過ちとして重ねてきた業が、絶壁のような障害として立ち塞がったかのような錯覚を感じる。今まで距離を置いてきた分だけ、普通に接することを難しくさせていた。

 

 士郎の歪んで居た顔が、溜息と共に無表情に変わる。近所の幼稚園児に見られると一発で泣かれる強面の顔だ。大人でさえ身を引くのだから、それは恐ろしい顔をしているのだろう。自分では分からないが。

 

 娘に掛ける言葉が浮かんでこない。ならば、態度で示すべきと愚考する。

 アリシアのような人懐っこい笑顔を見せれば、怯えさせることもなく安心してくれるだろうかと思い、士郎は歩きながら微笑みを形作ろうとした。

 

 ものすごく引きつった笑顔だった。本人に自覚などありもしないだろうが、娘のなのはが形作る笑みとそっくりである。十人が見れば九人が後ずさってしまうだろう。まるで、険しい顔をした猛獣が牙を剥き出しにして、相手を威嚇するかのよう。

 

 見る人によっては、例えば亡き妻とアリシアが見れば。変な顔だとお腹を抱えて笑い転げるだろう。士郎は至って真面目なのだが、何処かずれているのは否めない。

 

 困った。どんなに考えても、行動を模索してみても、いい案が浮かばない。そうこうして居る内に、士郎はユーノが寝ているであろう部屋の近くまで来てしまった。

 

 二階に繋がる階段を登れば、なのはの部屋へ一直線である。正直、このまま何もなかった事にして、遺影にある部屋で茶でも飲もうかと頭を悩ませたその時。

 

 運の悪いことにユーノの肩を支えて歩く、なのはと遭遇してしまった。ユーノという少年も予想外だったのか、困惑した様子で士郎を見つめている。

 

 そして、なのはは……

 

「お父さん……」

 

 酷く憔悴しきった様子で、士郎の事を弱々しく見上げた。いつもなら顔を険しくして、警戒心を露わに此方を観察して来るというのに。この時は今にも消えてしまいそうな程、儚い存在だった。

 

 無理もない。トラウマで錯乱して、あの人懐っこい友人を殺しかけたのだ。悪夢に苛まれながら、アリシアを手に掛けようとした。それは娘にどれだけの心の傷を負わせたのか、士郎には想像もつかなかった。

 

 何て声を掛けてあげればいいんだろうと混乱する。だから、冷静になって簡単だと己を鼓舞した。

 

 無理はするな、ゆっくり休め、とか単純な一言だけで済む。それだけで、なのはの心を少しでも励ますことが出来る。復讐に身を焦がす愚かな父親だが、娘を心配する気持ちは余所の親と変わらない。だって、彼は娘を心配して、勇気を振り絞って見舞おうとしているのだから。

 

「……」

 

 でも、士郎は励ましの言葉を紡ぐことが出来なかった。喉から出かかっているのに、それを発音することが出来ない。

 

 なのはに対する仕打ちと、それによる罪悪感が彼を戸惑わせる。お前にそんな資格があるのかと、心の内で士郎を責めたてるのだ。今更になって父親面するのは虫が良すぎないかと。

 

 でも、このままではいけないというのも、彼には分かっていた。これほどまでに、なのはが衰弱しているのは、彼女が誘拐されて、其処から救い出されたあの日以来。あの時は恭也が傍に居て励ましたからこそ立ち直れた。今度は自分が支えてあげねば。

 

 言葉が出ないなら、頭を撫でてやるだけでいい。簡単だ。あの娘にしてやったように、優しく栗色の髪をぐしゃぐしゃにしてやればいい。不器用でも、愚かで惨めでも構わない。

 

 だから、士郎は戸惑うように腕を伸ばして。

 

――悲しそうに、その手を引っ込めるしかなかった。

 

「ッ……」

 

 なのはが怯えたように目を閉じて、その身を竦ませたからだ。

 思わず叱られると思ったのだろう。士郎の反対を押しきり、身元の不明な子供を二人も引き取って、勝手に保護したこと。親に内緒で何かに関わっている後ろめたさ。ずぶ濡れになって帰ってきて、おまけに保護した子供が怪我をしている。叱られる理由は充分にある。

 

 いつも鍛錬で武術を叩き込まれた仕打ち。長年続けて娘に刻まれた士郎の厳しすぎる姿。腕をなのはの頭に伸ばした時、叩かれると思ったに違いない。もはや、なのはにとって士郎とは畏怖すべき存在でしかないのだろう。

 

「小僧、あまり無理をするな。身体が悲鳴をあげているぞ……」

「あ、はい。その、すみません」

 

 伝えたかった言葉や態度が娘に届くことはない。代わりに場違いな忠告がユーノに向けられるだけだった。そして、逃げるように、なのはの隣をすれ違う。

 

 やはり、娘は士郎が傍に来るだけで、身を竦ませてしまった。それだけの事をしてきたとはいえ、もうどうしようもない程に士郎となのはの距離は遠すぎた。簡単に触れ合う事など出来はしない。

 

(……赦せ、小娘。俺は……約束を違える)

 

 結局、その日。士郎がなのはを見舞う事はなかった。

 娘が自室で寝ている時に、頭くらいは撫でてやってもいいのかもしれない。けれど、面と向かって接してやらねば、この関係が改善することはないだろう。

 

 娘に嫌われても、平気でいられるなんて嘘だったのだ。自業自得とはいえ、士郎の心は少なからず憂いに満ちていたのだから。

 

 桃子の遺影の前で、彼は悲しげに顔を歪ませるのだった。

 




 アリシアの言っていた。大好きなおじちゃんの正体。そして、ユーノと憔悴したなのはが、廊下で士郎とすれ違った理由はこれでした。

 次はもう一つ、伏線になる話を挟んで、過去編の本編に進みます。思考錯誤した結果、なのはの視点メインで進むでしょう。はやては何処まで行ってもヒロインポジションなんだもの。

 前半がアリシアを主とするのなら、後半は……なのはと家族の……

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