リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき 作:観測者と語り部
僕にとって二人の女の子は特別な存在だった。
一人は巻き込んでしまった責任から、何としても護らなきゃって思った。
一人はその弱り果てていた姿と境遇に同情して、何とか力に為りたいって思った。
でも、いつからだろう。そんな義務感に突き動かされるんじゃなくて、自分から彼女達を助けたいって思ったのは。
なのはとアリシアを助けてあげたいって心から純粋に、まるでマグマのように湧き上がってくる衝動に突き動かされるようになったのは。
それはきっと、彼女達と一緒に生活していたからかもしれない。
決して長くはなかったけれど、一緒にご飯を食べて、お喋りをして、共に信頼し合ってジュエルシードの怪物と戦った。
その時間はとても濃密で、僕の過ごしてきた人生の中で一番輝いていたのかもしれない。
或いは、僕が彼女達の笑顔に惹かれていたのか。
そう、僕は惹かれていたんだ。
ふとしたことで心の底から笑うアリシア。それを優しく見守って微笑むなのは。そんな二人の姿がとても心地よかったのだ。
あの夕日に照らされた海鳴臨海公園の海の景色。そこで過ごした光景が脳裏に焼き付いて離れない。きっかけはたぶんそれ。二人は僕にとって特別な女の子に変わった瞬間。本当の家族がいない僕にとってアリシアは妹みたいな存在で、なのはは僕にとって――
だから、二人が悲しんでいるこの状況が嫌になる。誰かを助けたい想いで頑張り、誰もが望むような幸せの掴み取ろうとした少女達に、理不尽を押し付けた世界に納得なんて出来る訳がない。
だから、僕は決意したんだ。
もう一度二人の笑顔を取り戻せるのなら何でもするって。
もう一度、あの子達に笑って過ごして貰いたいから。アリシアが、なのはが、好きだから。
僕は――あの日、彼女と約束をした。
とても、大事な約束を。
◇ ◇ ◇
ショックで心労を起こして倒れ、すずかに心配を掛けてしまったあの日。なのはは、それまでの日常生活と魔法の探索を無理して両立していた疲れが出たのか、疲労で熱を出して寝込んでしまったのだ。
アリシアが大変なときに限っての急な事態に、アリサとすずかは慌てに慌てた。そりゃもう家の力を使ってでも最高の治療を施してと病院に働きかけてしまいそうになるくらい。それだけ二人も追いつめられていたのだろう。ものすごく心配を掛けて申し訳ないとなのはは思う。
それを制したのは兄の恭也だ。自分だって忙しいだろうに親友の二人を大人の包容力で宥めて、それから大学の休みを取って来て、付きっ切りで看病してくれた。それは、なのはが初めて人を殺めた日以来の事だったので、久しぶりにゆっくりと兄と会話して、なのはも少しだけ落ち着くことが出来た。自分の後悔と悩みを少しばかり打ち明けたのだ。魔法の事をぼかしていたから、支離滅裂な内容だったかもしれないが、それでも恭也はちゃんと最後まで聞いてくれた。
傷ついて倒れていたユーノさんを見捨てられなかったこと。母を助けようと一人で頑張っていたアリシアの力に為ろうとして失敗したこと。とにかくいろんな事を話すと、恭也は何時もの様に優しく、いつでも頼って欲しいと、俺はいつでもなのはの味方だからと微笑んで、頭を撫でてくれた。それが嬉しくて、ちょっとだけ頬を染めてしまうなのはだった。
平たく言えば、その瞬間だけ彼女は年相応の子供に戻ったのだ。
休む当てもなく孤独な戦いを続けてきたユーノの保護。ジュエルシードという世界を脅かす災厄も封印。魔法という技術の秘匿。アリシアの家族の事情。仲がぎこちない自分の家族の事情。それらの責任と重圧から少しばかり解放されたのである。
おかげで、なのはは、ようやくゆっくりと療養できていた。
「なのは? 起きてる? ちょっとお邪魔してもいいかな?」
「その声は……ユーノさん? どうぞ入ってきてください」
そんな矢先に、自分の部屋を訪れたのは意外な人物で、なのははベットの上で驚きを隠せなかった。ユーノとは久しぶりに会う。アリシアの看病に付きっ切りで、此方に顔を出せるほど余裕はないみたいだと、アリサとすずかの二人に聞き及んでいたから、彼の登場に予想外すぎて目を少しだけ見開いてしまった。
なのはがゆっくりと上半身をおこすと、布団に隠れていたパジャマ姿が顕わになる。桃色の可愛らしい寝間着だ。
そう言えば、アリシアの体調も徐々に良くなっているという話をアリサから教えられた気がする。近いうちに、海鳴のとある名家に引き取られるとも。またすぐに会えるようになるとも聞いている。なんだか、顔の表情がニヤニヤしていたのがとても気になるけれど、アリシアが元気になってくれるのならばそれでいいと、アリサの悪戯っ子みたいな微笑みは気にしていなかった。余裕がなかったともいう。
しかし、冷静に考えればユーノがつきっきりで看病する必要がない程、アリシアの体調が回復したことを示しているのだろう。そこまで考えてほっとするなのはだった。
「久しぶりですね、ユーノさん」
「うん、なのはも思ったより元気そうだね。アリサ達から様子を聞いてたから、心配してたんだ。ごめんね、看に来てあげられなくて」
「いえ、アリシアの事ですごく苦労したと聞いていますから。むしろ、貴方とアリシアの事が心配でたまりませんでした」
「そっか。恭也さんから林檎を頂いたんだけど食べる?」
「では、せっかくなので頂きます」
互いに身を案じながら、なのはの寝ているベットの隣に腰かけたユーノは、手にした林檎を果物ナイフで丁寧に剥いていく。魔法を使って林檎を空中に固定し、均等に八等分割すると、ナイフで切れ込みを入れて俗に言うウサギさんの形を完成させる彼の手捌きは、すごく手馴れていて数分も掛かっていない。
それを用意していた皿の上に並べ終えると、フォークと一緒になのはの膝の上に置いてあげた。さすがにアリサとすずかの入れ知恵であ~んを実行するほど、彼の勇気は大きくなかったようだ。
出来上がった林檎を前に、なのはは小さく「……頂きます」するとそれを少しずつ口にする。既に春の終わりの季節。旬ではないとはいえ、林檎の程よい酸味と甘みが口の中に広がると、なのはは顔をほころばせる。
その様子を眺めながら、ユーノが何か言いたげな表情で口を開きかけたが、黙り込んでしまった。何か言いづらいことでもあるんだろうか? なのはは少しだけ首を傾げる。
「どうかしましたか、ユーノさん?」
「あ、いや、何でもないよ」
何でもない訳がないだろうというツッコミはしない。短い付き合いだが、今の彼が悩んでいることくらい、なのはにも分かる。でも、無理に聞く必要もないだろうと思い、あえて何も聞かない。アリシアに関する大事な事なら、きちんと説明してくれるだろう。なのはも無関係ではないのだから。
きっと、彼は別の事で悩んでいる。
そうしてなのがが林檎を黙々と咀嚼する音が響き、ユーノがなのはに横顔を見せたまま、どこか上の空で黙り込んでいるという状況が続いた頃。なのはが最後の一欠けらを食べ終えてしまった。
「ごちそうさまでした」
なのはがフォークを皿の上に丁寧に置き、ティッシュで口元を拭うのと。ユーノが空になった皿を勉強机の上に片付けるのは、ほぼ同時。
再びベットの隣に腰かけたユーノは、意を決した表情でなのはを見つめると、自らの決断を口にした。
「なのは、聞いて欲しいことがあるんだ」
「いいですよ、ユーノさん」
「僕はあれからいろいろと考えた。これからどうするべきなんだろうって。特にアリシアの事は僕に多大な責任がある」
「それは違います! アリシアの事は私にだってっ……」
「それでも、安易にジュエルシードを使わせたのは僕の責任だ!」
「っ……」
ユーノにしては珍しく、強い口調で言いきってきた。そんな彼の迫力に、なのはは気後れする。何と言うか今のユーノは苦悩に満ちているようだ。まるで、桃子の遺影の前で黄昏ていた士郎のように。
「っ……怒鳴ったりしてごめん。でも、アリシアが現状を一番理解しているのは、亡くなったプレシアさんを除けば僕だけなんだ。そして、知れば知るほど辛いんだよ……焦ってしまうんだ」
「どういうこと、ですか……?」
「アリシアが良く吐血して苦しむから、僕は気になって時の庭園のデータベースを調べたんだ。ちょうど、ジュエルシードを使う準備をしている時くらいかな」
あの時か。なのはは思い出す。あの場でジュエルシードの使用方法を理解しているのはユーノだけだった。それは儀式の準備ができるのはユーノしかいないという事になる。魔法の事に疎いなのはは、手伝おうとしても邪魔になるだけで、アリシアも儀式魔法に関してはあまり得意とは言えなかった。だから、二人で緊張しすぎないようにお喋りに興じていた頃だ。
たぶん、庭園の動力炉をジュエルシードの封印式に組み込む際に、ついでにデータベースを閲覧していたのだろう。なのはとアリシアの姿が見えないところで。それは彼がアリシアの出自に関して少なからず嫌な予感を覚えていた事を示していた。
「アリシアのおかしな点はいくつもあった。特に病気のプレシアさんとアリシアの言動の不一致。二人の言葉を照らし合わせると共通する記憶に不整合な点が見つかるんだ。しかも、アリシアの記憶は部分的な所も多かった」
そこまで喋って、一端ユーノは言葉を区切る。そして少しだけ呼吸を整えると意を決したように、ある真実を口にした。
「結論から言うとアリシアは、"クローン"だった。本物のアリシアは既に……」
「――亡くなってるんですね」
「驚かないんだね」
「ええ、実はあまりにも衝撃的すぎて黙っていたんですけど。わたし、崩壊する時の庭園で見てしまったんです」
「何を?」
「アリシアに良く似た女の子の、無数の遺体ですよ……」
「っ! そっか、プレシアは機械工学技術の権威だったから、遺伝子工学の分野にあまり精通していなかった。たぶん、失敗と挫折を繰り返して――」
何やら一人で納得していくユーノ。ただ、なのはの辛そうな顔を見ては、良く頑張ったね。一人で我慢して辛かっただろう、と頭を撫でて慰めてくれたりもした。なのはとしては、かなり恥ずかしかったのは内緒である。
そして彼は知り得る限りの真実を、なのはに話してくれた。魔導炉実験の事故で愛する娘を喪っていた事。アリシアは"本物"のアリシアを蘇らそうとして生み出された事。それに使用された技術がプロジェクトFという管理世界では違法に問われる技術だという事。
アリシアに施された処置は完璧と言っていいもので、健康状態は問題なし。人造生命の低下するであろう病気の抵抗力も克服し、テロメアなどの人間の寿命も常人と変わらないらしい。そう、ここまでは完璧だったのだ。
アリシアの調整は不完全だったのだ。いや、完璧だったのだが何らかの要因で乱れてしまっていた。それは複数のリンカーコアを取り込んだせいだと結論付けるのは容易。あのままだと、アリシアは長く生きられない。遠からず寿命を迎えてしまう。
「だから、僕はアリシアの治療方法を見つけ出すことにした。どんな手段を使ってでも」
「それって、もしかして……」
「うん、そろそろお別れになると思う。僕は元の次元世界に帰らなくちゃいけない。封印したジュエルシードもそのままにしておけないからね」
お別れ。せっかく出会えたのに、何処かに居なくなってしまうこと。なのはの頭の中で言葉の意味が何度も反芻される。思わず嫌ですっ、と叫んでしまいそうになるのを何とか押し留める。ユーノは既に決意を固めている。その瞳に宿るのは絶対に諦めないという意志だ。
たぶん、アリシアの看病をしているうちに、彼女の苦しむ姿に耐えられなかったんだろう。なのはがプレシアの死と、アリシアの病に苦悩して苦しんで居たように。心優しい少年も、それ以上に苦しんだに違いない。そして何もできない無力な自分自身にも。
「ごめんね、なのは。まだお礼も何もできていないのに。急に決めつけちゃってさ」
「いえ、ユーノさんが決めた事ですから、わたしが口を挟めることではありません。それにアリシアの為なんでしょう?」
「うん、僕はアリシアとなのはの笑顔が好きなんだ。二人には笑って居て欲しいんだ。だから―――」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
ユーノの唇を慌てて人差し指で塞ぐ。
なんだ、その告白じみた言葉は、と。なのはの頭は混乱でいっぱいになった。ちょっと時と場合を弁えようかとか、そんな恥ずかしい台詞をいきなり口にしないで欲しいとか。とにかくユーノさんには黙っていてほしかった。
ただでさえ精神的に参っているというのに、お兄ちゃんに続いて、ユーノさんにまで優しくされたら、そりゃもう恥ずかしさで顔を真っ赤にする自信がある。というかもうすでに顔が赤い。見られると恥ずかしいので布団で顔の半分を覆い隠して対処。
普段の鋼の心を纏っていればいざ知らず、いまは精神的に無防備(ここ重要)なんだから優しくされると、その、困る。たぶんアリサだろうが、すずかだろうが、アリシアだろうが同じことをされれば容易く陥落する。甘えたくなってしまう。それなのに頭を撫でられるどころか、口説き文句じみた優しい言葉を掛けられたら、耐えられない!
甘えてはいけない。自分は強くならねばならない。父の施した苛烈な鍛錬が、なのはにそうさせる。というか感情的には不器用になっているから、素直じゃないとも言うけれど。とにもかくにも甘えてはいけない。ある種の一線を越えてはならない。強く在れ、不破なのは。
そう、なのはは自分に言い聞かせる。決してごにょごにょだったわけではない。
「あの、なのは、さん?」
「その、あれです。お別れの挨拶は、ユーノさんが出発する時にでもしましょう。そうです。だってプレゼントとかちゃんと用意してませんし、その、ですから」
「えっと?」
「とにかく一人にしてください!」
「うわっ! うん、分かった! 分かったから、枕とか投げないでっ!!」
何やってるの自分と、なのはは疑問に思う。普段ならユーノさんに向かって枕を投げるなどという事もしないのに。
少しばかりというか、かなり様子がおかしくなっているなのはの意を汲んで、ユーノは慌てて部屋から退出していく。去り際に「また、会おう。おやすみなのは」というのも忘れない。
「うううぅぅ~~~!!」
おかしい。なんだ、この感覚は。なのはは疑問に思う。心臓がどきどきして、身体が熱くなって堪らない。有酸素運動のように荒く呼吸を吐いて、身体が苦しくなるのとは訳が違う。それは九年という人生経験の中で初めて味わう感覚だった。
思えば、アリシアとユーノの二人で臨界公園に出掛けて、雨の日のトラウマを思い出して二人に迷惑を掛けたあたりから。彼が身を挺して助けてくれた辺りから"意識"していたような気がする。だいたい、なのはは男性恐怖症とは言わないまでも、異性に対しては常に距離を置いていた。それは過去の事件のトラウマが彼女をそうさせるのだが、不思議とユーノにはそれがないのだ。今まで家族と親しい人以外では、クラスの男の子ですら警戒して鋭い視線を向けていたのに。
自分はどうしちゃったんだろう。なのはは戸惑いを隠せない。
「そうだ。アリサちゃんなら何か……プレゼントの事でも相談したいし」
なのはは放り投げた枕を回収すると、充電していた携帯電話を取り出した。あの頼りがいのある親友なら何か知っているのかもしれない。
「もしもし、アリサちゃん?」
「なのは、どうしたのって。アンタ、いつになくしおらしいわね。何かあった?」
「あのね……」
なのはの相談を受けて、アリサがいつになくニヤニヤしたのは言うまでもない。それは恋だという事はあえて教えなかった。何も知らずに行動させた方が、おもしろいからというのもあるし、本格的に意識させたらお別れの時にさせる、ある行動を戸惑うのは間違いないから。
アリサからすずかにその話を通したら、悪趣味だよアリサちゃんと窘められたが、向こうも乗り気だ。なのはに大胆な行動をさせて、それを隠れながら間近で観察するまたとないチャンス。
親友二人の少女も、かなり早いが恋に興味津々のお年頃だった。
◇ ◇ ◇
そうして、ユーノのお別れの日がやって来た。転移魔法を使うから、まだ人が起きて間もない早朝の時間に、人目の少ない桜台登山道(なのはが魔法の練習をする場所)で行う事になった。
ユーノはやっぱり礼儀正しい子供で、律儀にも旅立つ前日には世話になった人たちに挨拶して回っていた。なのはも付き添っていたから良く知っている。
恭也は短い間だったが、なのはの傍に居てくれてありがとうと。おかげであの子は珍しく笑っていてくれたと微笑みながら、少しばかり名残惜しそうだった。それでも、彼だって不破家の人間だからユーノの事情は何も聞かず元気でな、とユーノを笑顔で見送ってくれた。
対照的に士郎はユーノに顔を見せようともせず、背中を向けたまま淡々と一言「そうか」と、それだけを告げてそれっきりだった。あまりにも失礼すぎる態度に、珍しく文句を言いそうになるなのはだったが、ユーノが迷惑を掛けたのは僕の方だからと抑えるので、何も言わなかった。
月村家の面々は笑顔でユーノを迎えて、分かれる前に盛大に持て囃してくれた。(もっとも、すずかの姉の忍がユーノをからかいまくっていたが)
バニングス家はご当主様は忙しい立場なので、とアリサ付きの執事である鮫島さんが手作りのクッキーを持たせてくれた。それから貴方様の探し物が見つかって良かったですね、と自分の事のように喜んでくれた。ただ、お嬢様の御友人が遠い地に帰られるのは少しばかり寂しいですな、と残念そうでもあったが。
何だかんだで、ユーノはとても恵まれていたんだと実感したらしい。こんなにも優しい人たちが、自分の巻き起こしたトラブルを解決するために色々と便宜を図ってくれたのだ。だというのに魔法を秘密にしなければならない観点から、大したお礼が出来ないのは心残りになりそうだと呟いていた。
「もう、行ってしまうんですよね」
「そうだね、これから当分は会えないと思う。アリシアの事は時間との勝負だから、なるべく早く治療法を見つけたいんだ」
「そう、ですよね。あの――」
「なんだい、なのは?」
いまこの場にはユーノとなのはの二人しかいない。周囲には誰もおらず、同じく見送りに来るアリサ達は準備に時間が掛かるので、後から追いついてくる予定らしい。だから二人っきり。そう、たった二人っきりなのだ。
実行するなら今しかないと、なのはは思った。アリサに教わった何よりも喜ぶ別れのプレゼント。それはあまりにも恥ずかしすぎて、人前で行うのは絶対に無理な類のモノだからだ。だというのに、いざ行動に移そうとすると躊躇ってしまう。
「っ! うぅ、うううぅぅぅ~~~――」
「なのは、どうかしたの?」
なのはが挙動不審になるのを、さすがに訝しげに思ったのか、ユーノが心配そうに声を掛けた。だって、顔を逸らしてはチラチラと此方の様子を伺うという行動を繰り返しているのだから。心なしか顔も赤いようだし、熱でもあるんだろうかと気になったのだ。
そうして少しずつ近づいてくるユーノに、逃げ場はないんだと悟ったなのはは、不退転の決意でアリサから教わったプレゼントを実行に移すことにした。俗に言う為るようになれというヤツである。
「ユーノさん!」
「は、はいっ!」
思わず大きな声で彼の名を呼んでしまった。しかも、声が上ずっているし、ユーノが驚いて直立不動の体勢になってしまったではないか。
何やってるんだ自分は、落ち着け、落ち着け不破なのはと言い聞かせながら、なのはは胸に手を当てて告げる。勇気を出して実行に移すための最初の一言を。
「その、ちょっとだけ目を瞑ってもらっても、良いでしょうか?」
「えっと?」
「すぐに、済みますから――」
「う、うん」
羞恥で顔を真っ赤に染めながら、恥ずかしそうに言葉を紡ぐなのはに戸惑いながらも、ユーノは言われるままに目を瞑る。
暗闇に閉ざされる視界。聞こえて来る自分自身の鼓動の音は早鐘を打っている。耳に伝わるのは草を踏みしめて彼女が少しずつ近づいてくる音。そして。
「……んっ」
「むぐっ!?」
唇に触れる暖かでいて、しっとりとした感触。ユーノが慌てて瞼を開けば目と鼻の先に、頬を赤く染めた可愛いなのはの顔がある。あまりにも恥ずかしすぎたのか、瞼をぎゅっと閉じて、身体を震わせている女の子。きっとなけなしの勇気を振り絞ったんだと思う。彼女はこの行為に及ぶと想像するだけでも恥ずかしかったに違いない。
ユーノは驚いて突き飛ばすとか、目の前の少女が愛おしすぎて抱き寄せるとか、そんな行動は一切取れなかった。取る余裕なんてなかった。思考は停止して何も考えられず、頭の中は真っ白に染まって燃え尽きている。完全なる硬直。もはや、彼にはどうすれば良いのか分からない。
自分は何をされた? キスを。誰に? 守りたいと思ってた大事な女の子に。 それは誰? 不破、なのは。僕にとって特別な女の子。妹みたいなアリシアとは違う、もっと根本的な意味で大事な、そうこれは。僕はこの子の事が……
そうして時間はどれくらい過ぎたんだろうか。一秒かも知れない。十秒かも知れない。あるいはもっと長いのかもしれないし、短いのかもしれない。少なくともユーノにはずっとずっと長い時間が過ぎたように思えた。刹那の出来事なのに、永遠とも思える永い体感時間が過ぎていく。
「ぷはぁ……」
彼女が瞳を閉じたまま唇を離した。そっと身体を一歩ずつ後退させ、ユーノから離れる。瞼を震わせながらゆっくりと目を開き、紫水晶の瞳がユーノを捉えて離さない。けれど、すぐさま視線を逸らして顔を斜め下に俯かせた。身体をもじもじさせて、左腕は恥ずかしさのあまり自分を抱き締めている様子は、よりいっそう――可愛らしい。
「驚かせてしまって、ごめんなさい。でも、アリサが、こうしたほうが男の子は喜ぶって言うので」
ぼそぼそと呟かれる彼女の言い訳じみた言葉はユーノの耳に入って来ない。彼の意識は遠い地へと旅立っていた。具体的に言うならば夢見心地で、昇天してしまっているのだ。
それでもなのはは語らずにはいられなかった。何か喋っていないと彼女も風呂上りのようにのぼせて、倒れてしまいそうだから。
「――その、勇気をだして、頑張ってみました」
そこからは二人して放心したまま長い沈黙が訪れるはずだったんだろう。声を上ずらせながらも、いつも通りの意識に戻ろうと試行錯誤して、この事は二人だけの秘密にしましょう、そうしましょうと良い雰囲気に為ったりするはずだったんだろう。
「おおおおぉぉぉ! ちゅうだ! ちゅうした!」
場違いな興奮した声が響き渡らなければ。
ギギギと、なのはは錆びついたボルトを動かすように首を回す。視線は驚愕と共に声のする方向へ。
そこには草むらの中から隠れていたであろうアリシア・テスタロッサが立ち上がり、興奮した様子で二人を指差していた。
その隣には「ちょっ、バカ! アンタ何やってんのよ」とアリシアを再び草むらに隠そうとするアリサ。「もう遅いよアリサちゃん」と言いながら、半分くらい申し訳なさそうでいて、ごめんねとでも言うような顔を向けた月村すずかがいる。
「……見られちゃった、の……?」
今度は、なのはの思考が停止する番だった。
見られた。誰に? アリサちゃん達に。今のキスシーンを? そう。
「きゅ~~~~」
「あああああ! なのは! なのは!」
「しっかりして、なのちゃん!」
そうして全ての事象を理解すると。
かああああっという擬音語が似合いそうなほど、その瞳をグルグルとギャグ漫画のように回しながら、なのはは顔を赤くして草原の上にぱたんと倒れてしまったのだった。
不破なのは。一世一代の恥ずかしい秘密を見られるの巻。
「男の子って、女の子にちゅうされると嬉しいの? じゃあ、ボクからの別れのプレゼントはちゅうだねっ!」
「ちょっ、アリシア待っ、うっ、むぐぅ!!」
「アンタはいい加減にしろおおおお!!」
そして、ユーノはアリシアに飛びつかれた挙句、その勢いを支えきれずに後ろに倒れ込んでしまう。しかも、抱き付かれて、吸われてるんじゃないかってくらいのキスをされながら、だ。ちゅうううっという擬音語が似合いそうなくらいの熱烈なディープキス。
これには場を混乱させるきっかけを作ったアリサといえども赦せなかったらしく、なのはの介抱をすずかに任せて、引き剥がしに掛かって行った。
「そっか……これは夢だ。夢に違い、な、い」
「あれ、ユーノ? どうかしたの?」
「アンタの所為よ。あ、ん、た、の!」
「ほえ、どうして?」
「いいから、ユーノの上から、離れな、さいっ」
ついでに、脳の許容限界を超えたユーノも状況を理解できずに気絶。自業自得とはいえ、アリサは事態を収拾するのに一苦労する事になった。
完。
◇ ◇ ◇
「んぅ……」
「あっ、目を覚ました」
涼しげな風のせせらぎを肌で感じたなのはは、ゆっくりと目を覚ます。目の前には嬉しそうに笑う見慣れた親友の顔。長い金色の髪を二つに結い別けて揺らしている女の子。アリシア・テスタロッサの元気そうな姿。
彼女は草原の上でなのはの頭を膝枕しながら、片手を扇いで風を送っていた。
「おはよう、なのは。心配かけてごめんね? 」
「アリシア――良かった。元気そうで」
「ボクはいつだって、元気百倍だよ。なのはこそ大丈夫? アリサお姉ちゃん達から、熱を出して寝込んでるって聞いたから心配してたんだ」
「わたしだって、アリシアの事が心配で」
「心配してくれてたの?」
「うん……」
そっか、嬉しい。とアリシアはと笑った。それにつられて、なのはも優しげに笑う。心配していたのはどちらも同じこと。そして互いを想い遣っていたことが分かって一層、二人の距離が縮んだ気がした。貴女が元気だと私も嬉しい。貴女が笑うと私も微笑ましい。そんな言葉では言い表せないような関係。
「アリシアっ――」
「なのはっ――」
そうして互いに名前を呼び合って、お互いの存在を確かめるように抱き合う。もう離さないと言わんばかりにぎゅっと身体を引き寄せる。
側に居てくれるだけで満たされるような感覚がなのはを支配した。それはアリシアも同じ。互いに伝わる温もりがとても暖かくて、いつまでもこうして居たいと思わせるくらいに心地良い。触れ合う頬と頬の感触。聞こえる息遣いすらも。
「とまあ、いい感じになってるところ悪いんだけど。お二人さん、そろそろ離れない?」
「アリサひゃん!?」
そして急に親友から声を掛けられて、ハッとた様子で慌ててアリシアから飛びのくなのは。彼女の中でアリサ達に大事な秘密を見られた瞬間が蘇ったのか、再び頬が羞恥に染まる。思わず言葉を噛んでしまうくらいには動揺しているらしい。
「え~~? 良い所なのにひどいよ。アリサお姉ちゃん」
「アンタはTPOを弁えなさいっ! ユーノがいつまでたっても出発できないでしょうがっ」
「いひゃい! いひゃい! 頬をひゅねらにゃいでっ!」
ついでに不満そうに頬をふくらますアリシアに盛大なツッコミ。この自由すぎる少女の手綱を握っている彼女は中々苦労しているようだった。
もっとも、事態を混乱させるきっかけを作ったのは自分なので、そこは深く猛省しているアリサである。後でお詫びの品を見繕わなければなるまい。
「お姉ちゃん?」
ふと、なのははアリシアの言葉の中に聞きなれない単語が混じっていることに気が付く。確か、記憶の中ではアリシアはアリサの事を名前だけで呼んでいたはずだ。彼女を対等な親友として呼び慕っていた。"お姉ちゃん"とは慕っていなかった気がする。
そこでアリサも気が付いたようだった。確か、なのはにはアリシアの事情は説明していなかった。昨日の今日でユーノの旅立ち、なのはの相談と慌ただしく、アリシアの事もアリサの知らない所で急に決まったことなので、説明する暇がなかったのだ。
アリサは、軽く引っ張られた頬を抑えながら悶えているアリシアの背中をそっと押す。
「ほら、なのはに改めて自己紹介。頑張って練習した通りに出来るでしょ?」
「自己紹介?」
「そっ、自己紹介」
「え、えっと……」
何が何だか二人のやりとりが理解できず困惑する不破なのはをよそに、アリシアは軽い足取りでなのはの正面に立つ。そして不慣れで丁寧なお辞儀をした。
「初めまして。アリシア・T・バニングスです。よろしく、おねがいします」
「あっ、これはどうも……私立聖祥大学付属小学校に通っている不破家の末の妹。不破なのはです。よろしくお願いしますってっ、ええっ!?」
今、何やら聞き逃してはいけない単語を聞いた気がする。アリシアの本名は、アリシア・テスタロッサ。その後にバニングス? バニングスってアリサちゃんのお家が代々次いで来た家名だよね。あれ? そこまで考えてなのはは思考停止。なんでバニングス? 訳が分からないと。
混乱しすぎて頭を押さえるなのは。それを不思議そうに眺めるアリシアを余所に、アリサが二人に近寄ってきて説明する。
「まっ、簡単に言えばアリシアはアタシの妹になったってこと」
「か、簡単にし過ぎじゃないですか?」
「仕方がないじゃない。なんか、アタシの知らない所で父様と母様が決めてたみたいで、理由を聞いても古い友人の頼みだからとしか教えてくれないんだもの」
そうなのだ。病弱になったアリシアの面倒を見てあげたい。けれど、不破家では環境は不適切だし、月村家にはやんごとなき家系の秘密があらしいから、引き取ってあげられないと悲しそうにすずかが告げていて。だから、如何にかしてウチで引き取れないかと考えていた矢先に、両親から告げられた一方的な決定事項。
アリサとしては願ったり、叶ったりなのだが、いきなりすぎて唖然としてしまったほど。
こう言っては何だが、アリサは後継ぎとしては大変優秀で、学校の勉強が退屈でつまらないと感じるくらいには頭が良い。運動だって大人顔負けの能力を誇るなのはやすずかに劣るとしても、二人を除けはトップの成績を誇れるほど努力している。
大財閥を率いる後継者として帝王学を学ぶ彼女は、このまま努力を続ければ何も問題なく当主に収まるのだ。他の後継者は必要としていないし、アリサとしては面倒事の多い当主の役割は全て自分が引き受けるつもりである。
だから、両親のアリシアを引き取る意図が分からなくて混乱するばかりだった。普段から仕事で忙しい二人は、アリシアと交流を深める時間はない。しかも、娘の哀願でもない限り、自分から誰かを引き取ろうとするほどお人好しでもないのだ。
しかし、結果としてアリサがお願いする前から、両親はアリシアを引き取る事に決めた。何者かが両親に口添えしたんだと憶測するのは簡単だが、それが誰なのかはさっぱりだった。少なくともアリシアの事を知っていて、彼女の現状を理解している人物だろうことは間違いない。間違いないのだが、そこからバニングス家の当主と個人的に関わりのある人物となると該当する人物は極端に少なくなる。
案外、すずかの姉である月村家の当主。月村忍が妹から事情を聞いて何とかしてくれたのかもしれないが、すずか本人から否定された。いわく、お姉ちゃんの交友範囲は狭いから、とのこと。家同士の付き合いはあっても、それ以上の関係ではないらしい。
こうなると謎は深まるばかり、事件は迷宮入りである。
「わたしたち以外にアリシアを心配してくれる、ひと?」
「分からないことを考えても仕方ないでしょ。こうなった以上、アリシアの事はアタシが責任をもって面倒見るから安心しなさい」
なのはも事情を聞いて首を傾げる。しかし、アリサは気にした様子もない。もはや彼女の中では過去の事よりも未来の事を見据えているらしかった。
実は妹が出来て、密かに喜んでいるのだが、それは内緒である。
「さてと、待たせたわねユーノ。アンタが遠い所に出発するっているから見送りに来てあげたわよ」
「ありがとう、アリサ。でも、ごめんよ。散々、お世話になったのに、急に次元世界に帰ることを決めちゃってさ」
「いいの、いいの。アリシアを助ける為なんでしょ? むしろ力に為れなくて申し訳ないくらいよ。アタシ達は魔法の事はさっぱりだもの」
アリシアが抱えてしまった持病を治すきっかけ。それを見つけることが出来るのは、魔法という技術が進んだ次元世界を旅できるユーノだけだ。自分と同じ年ごろの少年に全てを託すしかなく、彼の力に為ってあげられない事をアリシア以外の全員が悩んでいた。
「それでも、君たちには充分お世話になったから。正直、僕一人ではジュエルシードを回収しきれなかった」
だから、ありがとう、とユーノは丁寧にお辞儀をした。
あの日、なのはに出会って、助けて貰わなければ自分はジュエルシードモンスターに襲われて死んでいただろう。そして彼女達の協力があったからこそ、街に大きな被害を出すこともなくジュエルシードを回収できたのだ。最後の結末を除けばこれ以上ない良い結果を迎えたのである。
「これ、ユーノ君の為にプレゼントを用意したんだよ。受け取って」
そんな彼にすずかが、可愛らしい模様の紙に包まれた贈り物を差しだす。
「これは?」
「アタシと、すずかのお小遣いで用意したスカーフよ。アンタの民族衣装風なバリアジャケットに似合うんじゃないかと思って、見繕ってみたわ」
「はは、皆、本当にありがとう。大事にする」
「当然よ。なんたって最高級の素材を使用した特注品で、アタシ、すずか、なのは、アリシアの名前を刺繍入りしてあるんだもの、大事にしなかったらぶっ飛ばすわよ」
ユーノはアリサの言葉に苦笑する。彼女は遠回しにそれを、自分たちの代わりだと思って大事にしてほしいと言っているのだ。
だから、彼は本当に大事そうにプレゼントを胸に抱いた。共に過ごして一カ月くらいの月日しか経ってないのに、ここまでしてくれたのは初めての経験。嬉しすぎて泣きそうになるのを必死で我慢する。女の子の前で泣きたくない、ささやかな男の子としての矜持。
「それと、ユーノさん……これを」
次に、なのはは近づいてきて、すずかと入れ替わりにペンダントを差しだした。それはレイジングハート。かつてユーノが持っていたデバイス。彼がもともと持っていたソレを、なのはは律儀にも返してくれるらしい。
でも、ユーノは微笑みながらゆっくりと首を振った。そして、レイジングハートを握るなのはの手を掴むと、彼女の胸元まで遠ざける。自分はそれを受け取らないという意思表示。
「ユーノさん?」
「それは、なのはが持っているべきだ。僕はインテリジェントデバイスと相性が悪いからね。彼女を使いこなしてあげられないよ」
「でも……」
「僕からの贈り物だと思って受け取ってよ。アリサとすずかの分がないのが残念だけど。スカーフのお返しだと思ってさ」
『改めてよろしくお願いします。私の小さなマスター』
ユーノが「レイジングハート、なのは達を護ってあげて」と告げれば、彼女も肯定するようにチカチカと明滅した。意志を持つデバイスに、決意を表明されては返却など出来る筈もない。だから、なのはは困惑しながらも大事そうに、レイジングハートを胸に抱く。
アリサとすずかは、その光景を微笑ましく見守っていた。アリシアも自分の事のように満面の笑みを浮かべながら眺めていた。
「それじゃあ皆! また会おう! 必ず、必ず此処に帰って来るから!!」
そしてユーノは別れを告げると、四人の少女達に激しく手を振りながら、起動した転移魔法陣の上に歩いていく。
「じゃあね~~ユーノ! 今度はいっしょに遊ぼうね~~っ!!」
「なのはとアリシアの為にも絶対に帰って来なさいよ。約束を破ったら承知しないんだからね!!」
「あんまり無理しちゃダメだよ? 皆でユーノ君の帰りを待ってるからね」
少女達も手を振り返しながら、それぞれ別れの言葉を告げた。
それを嬉しそうに見届けると、ユーノは光に包まれて何処かへと旅立っていく。
「ええ、また会いましょう。ユーノさん」
後に残るのは涼しげな風が吹く緑の大地。
そして彼が旅立った跡をいつまでも眺めている四人の少女達。
その中で、なのはは気が付くことが出来なかった。
自分が心の底から微笑んでいたという真実に。
もし、彼女の昔を知る家族の誰かが目にしていれば驚愕しただろう。
それは昔の幼いなのはが浮かべていた天使のような微笑みだったのだから。
◇ ◇ ◇
「お久しぶりです、ステイツさん。こうして直に出会うのは初めてですね」
ユーノは今回の依頼主であるリエルカ・エイジ・ステイツとクラナガンの外れにあるカフェで対面していた。
本来であれば管理局の通して彼の元にジュエルシードが届けられる予定だったのだが、向こうから直に会って話がしたいと誘われたため、ユーノもそれを了承したのである。
ステイツという男はその業界でも有名な学者であるらしく、博士号をいくつも取得している天才。数多の新技術や理論を発表しては、管理局や民間に出回る製品に流用されているらしい。
最近では彼の頭脳を狙って犯罪組織が誘拐を企んでいるそうで、身を護る為にいくつもの偽名を持つという。ステイツという名前も、そのひとつだそうだ。
それ程までに高名な学者ならアリシアの治療法について何か分かるかもしれない。せめてヒントだけでも掴めれば良い。そう考えたユーノは彼と会う事を二つ返事で了承したわけである。
実際に出会ってみると高名な研究者のイメージとはかけ離れており、黒のスーツを着こなした青年だった。
白衣を着こんだ年老いた老人という想像をしていたのだが、だいぶ若いようだ。さながらセールスマンにも見える。
整えられた紫の髪。均整な顔立ち。目元はサングラスで隠していて分からない。恐らく軽い変装なのだろう。有名な人物がサングラスをするだけで、一見しても同一人物だと分からなくなる。下手な変装よりは効果的だ。端から見ればファッションのひとつなのだから。
椅子に座るステイツの後ろには二人の女性が控えていた。
一人は同じようにスーツを着こなした女性。出で立ちから考えて彼の秘書だろうか。血縁関係でもあるのか同じように髪の色は紫色で、肩まで伸ばしこんでいた。眼鏡の奥に見える瞳の色は一般的な青色。
もう一人は護衛なのだろう。管理局の制服を着こんだ女性だった。赤毛の髪に、鋭い眼光から覗く視線は見る者を怯ませるには充分だ。
「やあ、ユーノ・スクライア君。キミの噂はかねがね聞き及んでいるよ。たった九歳という年齢で発掘現場の責任者を任され、知識や経験も豊富だとか」
「いえ、ステイツさんに比べれば僕なんてとても。今回の件だってジュエルシードを無事に届けられませんでしたし……」
「輸送船の事故で依頼品が散らばってしまい、君は責任を感じて回収してくれたそうではないか。いやはや、一時はキミの事が心配で、管理局に捜索を依頼しようと思っていたのだが無事で何よりだ。ユーノ・スクライア君」
「きょ、恐縮です」
恐らく本当のことだろう。現に依頼の品よりも、ユーノの身を一番に心配しているのだから。もう少し帰還するのが遅ければ本当に次元航行部隊が捜索に来ていたのだろう。
海も陸も人手が足りず、辺境世界に次元航行艦を派遣できるほどの余裕はない。しかし、彼のコネならばそれが出来るのだろう。依頼しようとしたという事は、それだけの繋がりが彼にはあるのだ。現に管理局の人間が護衛に付いているのだから。
「さてと、約束の品を確認してもいいかな」
「良いですよ。厳重に封印してありますので、危険はないですから」
ユーノはアタッシュケースをテーブルの上に置くと、閉じられたケースを開錠してステイツに差した。
「クハハハ、素晴らしい。確かに依頼していた品と間違いないようだ。これで私の研究も捗る」
嬉々として収納されたジュエルシードを手に取り、好奇心旺盛に観察する姿は、さすが研究者といった所だろうか。だが、仮にもジュエルシードは遺失物である。万が一に暴走しないように封印してあるとはいえ、慎重に取り扱って欲しいと苦笑いするユーノだった。
「博士……」
「ん? ああ、すまなかったね。私とした事がつい好奇心を優先させてしまったようだ」
護衛らしき局員の女性がステイツに耳打ちすると、ようやく自分がはしゃぎ過ぎていた事に気が付いたらしい。丁寧な手つきで観察していたジュエルシードをケースに収納すると、秘書に持たせるステイツだった。
代わりに秘書から端末を受け取り、素早く何らかの操作を施してユーノに手渡す。受け取ったユーノが端末を確認すれば画面に浮かび上がる送金完了の文字。どうやら約束の報酬をスクライア一族の口座に振り込んでくれたようだ。
「これでキミの依頼は完了だ。ご苦労だったね。ユーノ・スクライア君」
「いえ、あの、少しだけお時間を頂いても良いでしょうか?」
「どうかしたのかね?」
「実は……」
受け取った端末を返しながら、ユーノは話を仕掛けるタイミングはここだと判断した。
立ち上がりかけたステイツを呼び止めるとアリシアの事情を話す。もちろん出自のことを可能な限り伏せた上でだ。特にプロジェクト「F.A.T.E」は人造生命を生み出す技術。それは管理局で違法として禁じられている技術だから話すわけにもいかなかった。
「複数のリンカーコアがひとつに癒着する難病か、その少女は中々面白い症状に……おっと失礼」
「いえ……」
ステイツは自分の発言で場を弁えない表現が混じっているのに気が付いたのだろう。わざとらしく困った表情をしてみせると、ユーノに謝罪してみせた。
もっとも謝罪されたユーノ自身はそれほど不快になっていない。確かに病に苦しむ友人をおもしろいと評したのには苛立ちを覚えた。だが、それでアリシアが病状が悪化した訳でも苦しんでいるのでもないのだ。
むしろ彼が興味を持ってくれた方が重要だった。上手く行けば病状の解明ついでに治療法すら確立してくれるからだ。
研究者とは得てして興味を持ったモノを調べ尽くさねば気が済まない生き物。特に天才と評される人物なら尚更である。
遺跡の発掘以外に考古学者としての側面を持つユーノは、仕事や個人的な付き合いでそれを学んでいた。
「よろしければステイツさんの考えを聞かせてください」
「ふむ、そのアリシアという少女を直接診断しなければ分からないが、治療法に関してはいくつかのプランが考えられる」
「本当ですか!?」
これは思わぬ僥倖だった。さすがは管理世界で天才と謳われる人だ。これでアリシアは救われるとユーノは純粋に喜んだが……
「残念ながらそれを行う理論と技術を完成させるまで二、三年を要するのだよ。済まないが今は力に為れないね」
「そうですか……」
掴みかけた希望は一瞬にして儚く散った。それでも数年の時が経てば助かる手段をひとつ確立できる。
ユーノは絶望と希望の半々を胸に抱く。時間はまだあるのだ。もっとたくさんの治療法を見つけ出して希望の割合を増やせばいい。
自分は治療法を探して帰って来ると約束したのだから。
ありがとうございました。そう言って別れようと立ち上がったユーノに彼の秘書が名刺らしきものを渡してきた。
何だろうと首を傾げるユーノに、ステイツは意味深に笑ってから告げる。私の連絡先だと。
「よければ無限書庫に行ってみるといい。そこは無限の知識が埋蔵する知恵の泉。キミが治療法を求めるのならば必ず役に立つだろう。無限書庫に入るための申請書は私が発行しておこう。これでも管理局に顔が利くからね」
「あ、ありがとうございます。何から何まで本当に」
「いいんだよ。面白い話を聞かせれくれたお礼というヤツさ」
深々とお辞儀をして去っていくユーノに軽く手を振って見送りながら、ステイツは零れ落ちる笑みを抑えきれそうになかった。
脳の奥底から好奇心が溢れだして止まらなくなる。サングラスの奥底に隠された蛇のような瞳が細まり、表情は輸税を隠そうとして隠しきれていない。
「まさか、プロジェクトFの残滓の手掛かりがこんな所にいたとは。私はてっきり庭園の崩壊と共に潰えてしまったのだと勘違いしていたよ」
自分が基礎理論を完成させ、何者かがそれを利用して技術を立証段階にまで持ち込んだという噂は聞いていた。
だから、その何者かを探し出して研究データと成果を頂戴するつもりだったのだが、発見した時はすでに研究所である庭園が崩壊し始めたという有り様。仕方なく派遣した部下に研究データの方だけ確保させるに留めた。
まさかこんな所で研究成果の行方を掴む手掛かりを得るとは何たる幸運だろう。ステイツは厭らしく口元を歪めた。
「拉致して行方を吐かせますか?」
「いや、その必要はないよ。好き勝手に動いたせいで爺どもの監視が厳しいからね。今は大人しくしているさ」
物騒な提案をする秘書と、すぐにでも動こうと身構える護衛らしき女性の二人に、ステイツは軽く手を振って否定する。
時の庭園の件を飼い主に咎められていたのだ。あまり好き勝手に動くとステイツとしても自由に動けなくなる。最悪、裏で処分されかねない。
「それにスクライア一族の天才。彼は思っていた以上に優秀なようだ。私の求める遺失物を探す手駒としては充分ではないかね」
秘書が抱えているアタッシュケースに収められたジュエルシード。こんなモノは探せばいくらでもあるし、ステイツも動力炉程度の利用価値しか考えていない。ただ模造品を造るための原型が欲しかっただけなのだ。
だが、単に御使い程度の、それこそ暇つぶしでしかない遺失物探索の依頼を、あの少年は見事にやってのけた。ステイツの部下を持ってしても時間が掛かる作業を意図も簡単に、だ。
これを有効に利用しない手はない。表向き依頼という形で動かせば何も問題はないし、遺失物は研究の為にオークションで取引されることもある。誰も不振に思わないだろう。
「ユーノ・スクライア君。キミとは近いうちに会いそうな予感がするよ。その日を楽しみにしておこう」
ユーノが知っていれば驚愕したかもしれない男の正体。
それは数ある次元犯罪者の中でも凶悪な一人。無限の欲望の異名を持つ男。
「それにしても、彼の身に付けていたスカーフは上等なものだったね」
「それでは私が、博士に似合うスカーフを見繕いましょうか?」
「ダメよ、ウーノ。博士の事だからきっとナプキンの代わりにして、せっかくのプレゼントを台無しにしてしまうわ」
「それは、いくらなんでも酷くないかね? ドゥーエ」
「博士には前科がおありでしょう? 私が帰還する度に渡している贈り物。いったい何処に消えているんですか?」
「……黙秘権を行使するよ」
彼こそがジェイル・スカリエッティなのだから。
あばばば、間違って瞬間投稿してしまったでござる!
うん、シリアスの反動って酷いよね。でも、しょうがないんだ。これも予定調和の内なのだから。
博士はフラグ1に、気付けなかった。
アリシアを入手できなかった。
博士はフラグ2を、手に入れた。
隠しルート解放。完全勝利フラグ設立。
○○のカルマ値が、急速に上昇している!