リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき 作:観測者と語り部
八神家の夕食は言わずもなが、大変おいしいものだった。一流シェフには劣るだろうし、お金持ちのお嬢様二人が普段食べている料理の方が味の質は上である。それでも、美味しいではなく、おいしいと言えるほどの家庭の味がそこにはあった。なのはが心から喜べる暖かな料理だったのだ。
ちなみにメニューは皆で摘めるからと、すき焼きだったのだが、出汁があまりにも本格的すぎた。少なくとも九歳の少女を超えたレベルだと断言できる。それとヴィータとアリシアのお肉争奪戦があって、もはや定番と化していた。
大きな違いはなのはが声に出して笑っていたことだ。箸を使って争うのは行儀が悪いからと、素手で頬の引っ張り合いを行う二人が微笑ましく。彼女はついつい茶碗をテーブルに置いて笑いを堪えていた。そしてついには声に出して笑ってしまったのである。
――なのは?
――なのはちゃん?
――ごめ、ごめんなさいっ。その、二人の顔が、おもしろくて。ふふ、あははっ!!
これにはアリサとすずかはおろか、ヴォルケンリッターも驚きを隠せないでいた。微笑ましい喧嘩の当事者であるアリシアとヴィータに至っても、思わず固まってしまったほどだ。それ程までに、なのはが声に出して笑うのは珍しい事だった。もしかすると初めてかもしれない。
唯一、事情を知っているはやてだけは、とても優しい微笑みを浮かべて見守っていた。自分の、あの行動は間違っていなかった。少なくとも悪い結果にはならなかったと。ようやく笑ってくれたね、なのはちゃん。と自分の事のように嬉しそうにしていたのが印象的。
そんな夕食を終えて、遂には楽しい時間も終わってしまった。日が沈むのが遅い夏とはいえ、暗闇が訪れる夜は子供にとって危険である。それが有名な財閥の令嬢だったり、裏世界に足を踏み入れる子供なら尚更。当然のごとく送迎のリムジンが迎えに訪れていた。流石にバニングス、月村両家の迎えのリムジンが来ては場所に収まらないので、代表してバニングス家の送迎が選ばれている。
「はやて、今日は楽しかったわ。また遊びに来るからね。もちろん、こっちの妹も連れて」
「うん、またね。はやて、バイバイ!」
「こら、アリシア! お邪魔しましたでしょうがっ。お邪魔しましたっ。はい、やり直しっ!」
「ん、えっと、お邪魔しました?」
「……まあ、いいわ。及第点よ」
初めに明るく快活なバニングス姉妹が、玄関まで見送りに来ていた八神家に礼を言う。アリサが積極的なスキンシップで、はやてと抱き合いながら別れを告げ。続いてアリシアが大きく手をぶんぶんと振って別れを告げた。そこに、公私の使い分けが出来ない妹に対する注意が飛び、アリシアは疑問形になりながらも行儀よくお辞儀する。それは素人から見れば立派なお辞儀。上流階級のお嬢様に見える立ち振る舞いだった。
「うん、待っとるよ。アリサちゃん、アリシアちゃん。いつでも家に遊びに来てなぁ」
「……ぷい」
「こら、ヴィータ。アリシアちゃんが、ちゃ~んと別れの挨拶しとるのに、ライバルのヴィータは負けとるで?」
「誰がこいつなんかとっ! 別にライバルなんかじゃ……っ」
それに、にこやかに対応するのは流石はやてといった所だろうか。また来たくなるような雰囲気を纏いながら、はやてはバニングス姉妹に小さく手を振り返す。だが、はやての座る車椅子の後ろに隠れて、何か言いたげなヴィータに気が付くと、言いよどむ彼女の背中を押した。
戸惑いながらもゆっくりとバニングス姉妹の、アリシアの方へと歩み寄るヴィータ。その顔を慣れないことをしようとして羞恥に染まっており、対象的にアリシアは何時もの様に無邪気な笑みを浮かべて出迎えた。ものすごく満面な笑顔だった。
「おう……そのよ、気を付けて、帰れよ。えっと、それで。次も遊びに、来いよ、な」
「うん! 家の習い事が嫌になったらいつでも遊びに行くねっ!」
緊張しているのかガチガチに固まって、たどたどしい別れの挨拶を告げるヴィータ。まだまだ対人経験が少ないのが原因だった。それを気にした風もなく、アリシアは笑顔でサムズアップしながら空気を読まない爆弾発言をかます。
「へぇ……? アタシの目の前で個人レッスンをサボろうと宣言するなんて、いい度胸してるじゃないっ!」
「いひゃい。いひゃい! ありひゃおねへじゃん。いひゃいよ!」
「なんか……大変そうだけど。まあ、頑張れよ?」
「みへないへ。ひゃすけてよ~~!!」
当然、責任を持って妹の面倒を見てあげなさいと言われ、自分もそのつもりだと宣言しているアリサが見逃すはずもなく。何時もの様にアリサは妹に対してお仕置きを実行。柔らかな白い頬に、つねられた痕が残るくらい引っ張っていた。
それを見て、アリシアも大変なんだなぁと思いながらも、ヴィータはおずおずとはやての元に退き下がっていく。既に彼女の中でアリサには逆らえないというヒエラルキーが出来上がっていたのだから。あの姉はきっと他の妹でも容赦しないだろうと、この一日で理解してしまった。迂闊に手を出すと。何よ、何か文句あるわけ? と巻き込まれかねない。そう判断しての撤退である。
無情にも見捨てられたアリシアは、憐憫を誘うような手振りで助けを求めるが。本人はお仕置きすらも満更ではなさそうである。たぶん、彼女にとってこのやり取りは姉妹におけるじゃれ合いにしか過ぎないのだろう。
「それじゃあ、またね。はやてちゃん」
「またなぁ、すずかちゃん。今度はお勧めの本でも教えてな。わたし、楽しみにしとるから」
「うん、約束。わたしも楽しみにしてるね」
そんな二人のやりとりを余所に、すずかが歩み寄ってはやてに別れを告げる。互いの趣味が読書という事で意気投合した二人は、相性も抜群であり、他とは違う信頼感すら生まれていた。この人なら自分の全てを曝け出しても、受け入れてくれるという予感である。もっとも容易に表には出さないけれど。
「でも、ちょっとだけ嫉妬しちゃうかな。なのはちゃんの心をお風呂場で開いたでしょ?」
「あはは……なんのことかなぁ……?」
「大丈夫。誰にも言わないから。わたしってね、普通の人よりも耳が良いんだよ? 盗み聞きするつもりはなかったんだけど……大事な友達の事だから気になって」
「すずかちゃん……」
「ありがとう。はやてちゃん。私にもアリサちゃんにも出来なかった、なのはちゃんの心を助けてくれて。本当に感謝してる。だから、ありがとう」
そして、別れ際の耳打ちにはやては驚きを隠せなかった。ある意味ではやては、約束を破っているのだ。すずかのそっとしておいてねという約束を、自分の都合で踏みにじった。あまつさえ、なのはの心に土足で踏み入るような真似をしたのだ。友達思いの彼女に叱られても仕方ないと甘んじて受けるつもりだった。
けれど、返って来たのは心の底から浮かべた感謝の言葉。ありがとう、と単純だけど、ものすごく深みを持たせたお礼。耳元から顔を遠ざけたすずかの表情は、はやてが見た事ないくらいの優しい笑みが浮かんでいた。同性でも甘えたくなるような。まるでお母さんみたいな慈愛に満ちた表情。
そうして、月村すずかは誰にも悟られないよう、いつもの笑顔を浮かべると送迎のリムジンに向かっていく。
最後に残ったのは、憑き物が落ちたかのような安穏とした表情を浮かべる不破なのは。だけど、彼女は送迎のリムジンを見送るだけで、乗り込もうとはしなかった。その様子に気が付いた誰もが、不思議そうな顔をする。いや、アリシアだけは引っ張られた頬を押さえてうずくまっていた。
「なのはちゃん、どないしたん?」
「いえ、偶には歩いて帰ろうと思いまして。それに夜道は危険ですから、武術の心得があるシグナムさんに送って欲しいのです。二人っきりで話したいこともありますから」
これに驚いたのはアリサとすずか。そして指名を受けたシグナム本人である。前者は彼女の珍しく積極的な態度に対して。後者はあまり接点のない自分と話したいという意図が分からない故に。
「珍しいわね。アンタの方から我儘言うなんて。どういう風の吹き回し?」
「別に、色々と吹っ切れただけですよ。少しだけ自分から触れ合ってみるのも悪くないと、そう思えたんです。わたしだけはやての家族とあまり交流しなかったですし、悪い印象を払拭できるうちに、お喋りして交流を深めたいだけですよ」
「でも、はやてちゃんに迷惑じゃないかな?」
「わたしは構わへんよ? そういう事ならシャマルも一緒に付いて行ってあげてなぁ。大人二人がいれば夜道も安心や」
いつもなら人と積極的に触れ合わないのに、どうしたのだろうと疑問に思うアリサ。事情は察しているけれど、さすがに迷惑なんじゃないかと心配するすずか。それをあっさり了承したはやて。そんな中でシグナムとシャマル。ヴォルケンリッターの二人は主の言葉に二つ返事で了承する。御意に、と。
家族であると同時に、主でもある少女、八神はやて。そんな彼女の身を護る事が守護騎士と呼ばれる彼らヴォルケンリッターの役目である。元より、なのはとアリシアの正体を探るつもりだったのだ。彼女の頼みは守護騎士側にとっても願ってもない事だったのである。
但し、それに待ったを掛ける人物がいる。当然のことながら、いつも仲良しメンバーの中でリーダーシップを発揮するアリサその人だ。どうにも、なのはの行動が解せなくて納得がいかないらしかった。
「また隠し事じゃないでしょうね?」
「ある意味ではそうかもしれません」
「それは、例の秘密に関わること?」
「というよりは裏に近いのかもしれません。現状、限りなく黒に近い灰色といった所です」
「裏。ウラねぇ。アタシは話してみて、そんな感じはしなかったわよ?」
「だから、直接話してみて確信したいだけですよ。他意はありますけど」
「他意はあるんかいっ! まあ、いいわ。そういう事なら一応、納得する」
はやては、アリサとなのはのやり取りに何の話かと頭を捻るしかない。それもその筈、なのはの事情を少なからず知っている人間にしか分からない言葉。わざと、そんな言い回しをしているのだ。あくまでも一般の人を巻き込まない為の配慮。
ちなみに例の秘密とは魔法の事であり、裏とは裏世界の事情を示す隠語だ。魔法の事はあまり、この世界の住人に知られてはいけないし。裏世界の事情も本当なら踏み込まない方が良いのである。
なのはは当然として、アリサも次期当主の事情から少しばかり裏に理解を示している。その危険性を知っているからこそ、はやてを巻き込まない為に配慮した結果だった。彼女が興味本位で踏み込んで、御三家に対するカードとして誘拐でもされたら冗談では済まないのだ。
もっとも、はやての家族がいる限りそんな事にはならないだろうけど。現に疑問に思ったはやての裏に対する質問に、シグナムが知らない方が良いでしょうと念を押していた。
「というわけで、アンタ達。先に帰るわよ」
「ん~~? なのはは車に乗らなくていいの?」
「なのはちゃんはちょっと用事があるんだって。だから、心配しないでアリシアちゃん」
「分かった。なのは、まったね~~!!」
「ええ、また会いましょう。アリシア」
そうしてアリサ達は次々と黒光りするリムジンに乗り込んでゆく。最後に手を振って別れを告げたアリシアに、なのはも微笑みながら手を振り返して。鮫島と呼ばれる老執事が丁寧に後部座席の扉を閉めた。そうしてバニングス家の送迎車は静かに、八神家を去っていく。
「それでは、よろしくお願いします。シグナムさん。シャマルさん」
「ああ、頼まれよう」
「こちらこそよろしくね。なのはちゃん」
残されたなのはも、シグナムとシャマルを伴って帰り道を歩いていく。また、遊びに来てなぁ~~。必ずやよ~~と大きな声で、お見送りするはやての声を受けながら。
なのはも、またね、と彼女の声に静かに応え、微笑んだ。
◇ ◇ ◇
なのはと守護騎士。はやてにはああ言ったが、他愛ない会話をしながら家まで歩くことはなかった。別に互いの事を嫌っていたわけでもなく、警戒して油断すら見せなかった訳でもない。どちらも口下手で何を話せばいいのか分からなかっただけ。そうして不破家の近所にある公園にまで辿り着く。そこのベンチに腰かけたなのは。隣に座るシャマル。近くの電柱に腕を組んで寄りかかるシグナムという形。
「ここなら落ち着いて話も出来るでしょう。わざわざ一人になってあげたのですし、聞きたいことがあるのでしょう?」
それは、なのはが図書館でシャマルと会ってから気が付いていた事だ。相手の観察するような視線。警戒している雰囲気。それは八神家を訪れてから大きくなっていて、ヴィータなどは露骨に敵意を滲ませていたものだ。まるで、絶対に秘密だったことを知られたかのように。
「そうね、正直にいえばありがたいわ。あまり手荒な手段を取らなくて済みそうだもの」
そしてシャマルの言葉で完全に証明された。
「別にわたしは、貴方たちに対して何かをした覚えはありませんが……どうでしょう? ここは単刀直入にお互いの印象を口に出すというのは」
「回りくどい事は無しにして、腹を割って話そうという事?」
「ええ、私は口下手なのです。あまり会話は得意ではありません。そのほうが、分かりやすいでしょう?」
それでも、なのはは務めて冷静に話を続ける。はやてと触れあっていなければ、魔法や武術で身構えていただろう。しかし、はやてとの間に築いた信頼感が、はやての家族に対する警戒心を少しばかり下げていた。対立するには、まだ早い。
なのはの言い回しに、何かを悟ったのか。それとも八神家での彼女の行動を鑑みて納得したのか。シャマルは頷きで了承を返すと、シグナムに視線を向けた。シグナムも目を開けて軽く手を振ることで応える。恐らくはシャマルに任せるとでも言いたいのだろう。
そうして、せ~の。の要領でなのはとシャマルは互いの印象を口にした。
「はやてを利用している不審者?」
「時空管理局の魔導師って。えっ? 私がはやてちゃんを利用する不審、者?」
「えっと……管理局、ですか?」
なのはの確証に至ってないような物言い。見方を変えれば失礼な態度。そしてシャマルの戸惑いのない宣言。結果は空振りに終わった事による気まずさだった。シグナムが手で目元を覆って、空を仰いでいることからも。その気まずさの度合いが覗える。まるで犯人を当てる名探偵が、推理を完全に間違ったかのよう。
なのはは管理局が何なのか分からず、本当に知らない様子で首を傾げ。シャマルは八神家の一員として家族のように接しているのに、幼気な少女を利用する不審者呼ばわりされたショックで硬直。自分たちはそんなに怪しかったのかと……
だから、なのはが次に口にする言葉はごめんなさいだった。
◇ ◇ ◇
「不破。本当にすまなかった。この世界に魔導師はいないと判断していた故に、大きな魔力を持ったお前を不審に思ったのだ。後から思えば子供のお前に向ける態度ではなかったな。本当にすまなかった」
「いえ、わたしも貴方たちを疑っていましたし、お互い様です」
ベンチに座るなのはの前で深く頭を下げたシグナムに、なのはは戸惑ったように反応する事しか出来なかった。
あの後、シャマルは「不審者……私たちがはやてちゃんを狙う、ふしんしゃ」と繰り返しつぶやいて、放心してしまった。心なしか涙を流している様な気配さえする。けれど、そんな態度を取れるという事は、なのはに対する警戒を完全に解いたのだろう。なのはの予測では、どんな時でも一線だけは絶対に譲らない、油断ならない相手と認識していた故に。意外と通常時は精神的に脆いのかもしれない。
だから、使えなくなった彼女に変わってシグナムが行動するのも当然で。シャマルの態度に溜息を吐きながら、近づいてきたシグナムが最初に起こした行動が謝罪である。いっそ清々しいと言える程、実直なまでに彼女は頭を下げた。
「しかし、魔導師という単語を知っているという事は、貴女たちはこの世界の住人ではないんですね」
「そうだ。我ら四人は訳あって居候させて頂いている身。詳しい事情は語れないが、主はやてに危害を加える輩ではない。そこは安心してほしい」
その点については問題ないと、なのはは思っている。はやての家族と称する彼女達は、ずっとはやてを護るように動いていた。それは家の中で合っても例外ではなく、常に誰かが傍に居る状態を保っていた。いっそ心酔していると言っても良い。
疑問なのは魔導師に対して警戒心を抱いていること。特に時空管理局を警戒している理由が分からない。ユーノに聞いた話では、管理局は次元世界のおまわりさん的な存在であるらしい。やましい事がなければ何も問題はないはずだ。そこまで考えて、思い至る。つまり、この人たちも次元世界で云う裏側の人間だったのかもしれないと。
「過去に、何か罪を犯したのですか?」
「……そうだ。我ら四人は先代から、ずっと先々代の主に至るまで、ある命令を受けて人々を襲っていた過去がある。愚かにもそれが大きな過ちであると知らず、知ろうとせず、命じられるままに戦場を駆け抜けた罪。それを管理局は赦しはしないだろう」
だが、当代の主。つまり八神はやてに出会って彼女達は変わったという。基本的に主の命令に逆らえない彼女達に、家族として接した。さらには傍に居てくれるだけで良いから、他には何もいらないとも。この四人もあの少女の優しさに救われたのだ。
「過去の罪をなかった事にするつもりはないが。出来る事なら、このまま平穏に過ごしていたいのだ。管理局に我らの事が知られてしまえば、主はやても無事で済まないだろう。最悪、何の罪もないあの娘も罰せられるかもしれん。我らはそれを恐れている」
それは、なのはにも分かる気がした。
なのはの両手も赤く染まっている。その両肩に咎を背負い、罪の意識に苛まれることも多くある。
それはとても苦しい事。
そしてずっと恐れ続けるしかないのだ。いつか、大切な人を知ってはならない世界に巻き込んでしまうのではないかと。巻き込んでしまえば、最悪。自分の母のように手折られてしまうかもしれない。その事に怯えるのも無理はないだろう。
かといって太陽の温もりを知ってしまった今では、それを遠ざけることも、自分から遠ざかることも出来ない。光に照らされた道と暗い影に閉ざされた道を、中途半端に行き来する事しか出来ないのだ。一度でも纏わりつかれれば、闇は決して離れない。だからこそ、闇が光を閉ざさないようにするしかない。光を喪い闇に堕ちてしまえば、その先に待っているのはは、なのはの姉や父と同じ道だ。
「少しだけ、貴女たちに共感できるかもしれません。わたしも同じですから」
「主と同じ幼さでありながら、理解できると?」
「わたしが、ただの小娘ではないと、シグナムさんも薄々察しているのでしょう?」
「……そうか。お前も背負っているということか。難儀なものだ」
寡黙で、あまり表情を表に出さないシグナムが、この時ばかりは苦心した様子だった。この平穏な世界において、なのはのような子供がいる。これが戦場だったら珍しくもないと割り切れるが、平和な世界で染まった子供がいるのは心が痛む。本当は、こうなるべきでは無かったろうに。
「そろそろ頃合いだろう。よければ、このまま家まで送っていくが?」
シグナムは腕時計を見て、話しは終わりだと言わんばかりに立ち上がった。肝心なことはぼかされていて、詳細は分からなかったが、それで良いのだろう。これが彼らなりの、巻き込まない為の優しさだと、なのはも気が付いているから。だから追及はしなかった。
「いえ、わたしの家はすぐ近くにあるので、お構いなく。そちらも、はやてに心配かけないうちに帰ってください」
「そうか。よければ、また主の元に遊びに来てくれるか。あんなに笑った主の姿は久しぶりなのだ」
「もちろんです。はやてと、約束しましたから」
「感謝する」
なのはも立ち上がり、今度は疑いもなく歓迎されたいと笑い。シグナムもそうだなと、微笑みを返す。互いに交わした握手は信頼の証。すくなくとも双方が恐れていた疑念は晴れた。ならば、それでいいのだ。余計なことは知る必要もない。
シグナムは、なのはに深々と謝罪のお辞儀をするシャマルを連れると、静かに公園を去ってゆく。それを最後まで見送りながら、なのはも帰りの途に付く。そうして屋敷の玄関に繋がる門まで辿り着いたのだが、そこで驚くべき人物が待ち構えていて、なのはは驚愕を隠せなかった。
「……おとう、さん」
不破士郎。なのはの父親にして厳格という言葉を体現したような人。復讐の為ならば、己の娘すらも容赦なく鍛え上げる冷血漢。愛する人を喪って、優しさは微塵もなくなり、根底から変わってしまった男。そこにかつての快活な面影などない。
また、怒られるのかと、なのはは戦々恐々とした。もしかして、自分はいつの間にか門限でも過ぎたのだろうか。或いは、父親の癇に障ることでもしたのだろうかと、身を竦ませる。いつもなら、どこか諦めた風に淡々と接することが出来るのだが。はやてによって心を幾分か癒された少女は、感情を少しばかり取り戻していたのだ。麻痺していた喜怒哀楽が戻ることによって、それまで無視できていた些末な恐怖も感じるようになってしまったのである。
きゅっと、きつく目を閉じた。もしかしたら、ぶたれて怒鳴られるかもしれないと思ったのだ。そう思うと目を開ける事なんて、とても出来なかった。まだ何も見ない方が痛みや恐怖にも耐えられる。そうして、幼子のように身を震わせる少女に。いつまでも頬を叩くような衝撃は訪れなかった。
「……ッ…………?」
感じたのは頭にごつごつした岩のような感触。とても大きな手を乗せられた重み。恐る恐る目を開けてみれば、目の前には父親の鍛えられた大きな身体。見上げれば、そこには何か戸惑うような顔をした父の姿。何か、気恥ずかしいというよりも、怯えている様な。普段の姿とはとても似つかしくない士郎の姿。
「あっ、えっ……? あ、れ……?」
だから、それ以上になのはが困惑するのも無理はなくて。思わず口を魚のようにパクパクさせて、だけど言葉が出て来ない。本当にどうしてこうなったのか理解できない。あまりにも突然すぎる父親の、異常? いや、殴られないだけ良しとするべきなんだろうが。どういう心境の変化だろうか。とにもかくにも、なのはの頭は真っ白に染まり、心は混乱して心臓の鼓動すらも早くなる。もう、訳が分からないよ状態だった。
だってそうだろう。いつも厳しくする人が、突然優しくなったら、それは違和感がありすぎるだろう。何か悪いモノでも食べたか、それとも記憶喪失になったのかと心配するか。逆に気味悪がって近寄らないか。或いは何か裏があるんじゃないかと疑うか。冷静な行動を取れる人がどれだけいる。すくなくとも、なのはは混乱する状況に陥った。
これは仕方のない事ではある。なのはの知らない所で、アリシアの天心満欄さに触れ、少しずつ心境の変化を来たしたなど誰が推測できるのか。事情を知っているのは当の士郎本人とアリシアだけ。ここに当事者である少女が居れば、意味深に満面の笑顔を浮かべたのかもしれないが、今はいない。
よって、あまりにも混沌とした情景が訪れてしまったのである。少なくとも、二人の関係を知る人が見れば、口を大きく開けて放心するくらいの異様な光景。そこから、状況はちっとも進まず、空白の時間がしばらく続くことになる。だが、数秒か、数分の時間か分からないが、しばらくして、なのははひとつの結論に思い至る。それは。
(もしかして……頭、撫でられてる?)
この不器用な男が、ぶっきらぼうに娘の頭に手を置いている。考え直してみれば、頭を撫でていると受け取れなくもない。
だが、どうして? 理由が分からない。なのはは怒られるようなことをしている自覚はあるが、褒められるような事をした覚えはない。というか、父親が何を褒めるのか、それすらも分かっていない。知らないのだ。親に褒められた事なんて一度もない。
「あ、あの……」
決まってできるのは、恐る恐る声を掛けることのみ。どうにも困惑に満ちているが、それは仕方のない事。なのはだって訳が分からないのだ。そもそも何を喋っていいのかすら分からない。分からないことだらけ。こんな風に父と触れあったのは、昔はあったのかもしれないけど。今はないも同然だったから。
「ッ……」
娘から恐る恐る声を掛けられて、士郎は顔を歪めながらゆっくりと手を離した。続いて口から漏れるのは怒声ではなく、大きな溜息。それも、なのはに対してではなく自分に向けてのモノだったように、なのはは感じた。
そして、何をやっているんだ自分とでも言うように、彼は己の手のひらを見つめると。背を向けて不破家の屋敷まで去っていく。
「あっ――」
なのはは手を伸ばしていた。そこに戸惑いや恐怖はなく、はっきりと名残惜しいとでも言うように、手を伸ばした。これは千歳一隅のチャンスなのかもしれない。これを逃したら、こんな機会は二度と訪れないかもしれない。そう思うと、どうしようもなく胸の内から切望が湧き上がってくる。親に愛されたいという想いが、子供なら誰もが抱く、そんな当たり前の感情が溢れて止まらなくなる。
どうしよう。どうすれば良い。こんな時、なんて声を掛ければ良かったんだっけ。なのはは思い出す。必死に思い出そうとする。自分の家に帰ってきたら、誰もが口にする言葉があったじゃないか。おはよう、おやすみ、と並ぶくらい当たり前の挨拶があったじゃないか。それは何だったろうか。
考えて、考えて、知恵熱が出そうなくらい必死に思い出そうとして。
「た、ただいま……」
気が付けば、小さな声でそんなことを口にしていた。自分でも、どうしてそんな事を口にしたのか分からないくらいに。でも、自覚してしまえば、それは大きな波紋となって広がり。今度はもう一度、はっきり告げようと決意して。
「ただいま。お父さん」
なのはは母を喪ってから、声に出すことがなかった。あたりまえの挨拶を父の背に向けて告げた。
それを受けた士郎の心境はどうだったろう。娘にただいまと告げられて。父上ではなく昔のように、お父さんと呼ばれて。彼はどんな気持ちだっただろうか。なのはに察する事が出来ないが、それでも背を向けた父の歩みは止まった。
そして数秒の沈黙の後。
「……おかえり、なのは」
不器用な男は、ぶっきらぼうにそう告げて去っていく。
だけど、久しく交えていなかった父親とのやり取り。会話にも満たない単なる挨拶。娘にとってはそれで充分だった。
「はいっ! ただいま、お父さん!」
だから、もう一度、大きな声で挨拶して、去っていく父親の背中を追いかけるように、なのはも屋敷の中へ駈け込んでいく。感じるのは胸の内から湧き上がる喜びと予感。はっきりと何かが変わった。そんな予感がしていた。