リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき   作:観測者と語り部

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悲劇の連鎖

 ギル・グレアムは封印の術式を行使しながら、長年の宿敵である闇の書の守護騎士が討たれるのを見て、何の感慨も抱かなかった。

 

 少なくとも意図的に感じないようにしていると言った方が正しいか。長年に渡って八神はやてという少女の生活を監視していた男は、ここ最近の幸せな生活がどんなものであったのかも熟知している。無論、守護騎士が幸せを得て、人間らしさを得たことも。

 

 勿論、闇の書に憎しみを抱かなかった訳でもない。かといって人の心を手にして、本当に幸せそうに笑う彼らを見て、何とも思わなかった訳でもない。

 

 それを差し引いても、長年に渡る悲しみを。闇の書の因果を終わらせるという鋼の意志の前では、グレアムの心を動かすには至らない。闇の書を封印する局員たちも含め。それに関わった者全ての人間がとうに覚悟を終えている。長い葛藤の末の決断だ。そう易々と意志を変えては犠牲になった人も、犠牲にした人も浮かばれない。

 

 代償を払った以上は、何が何でも封印作戦を完遂させる。それがこの場にいる局員たちの決意だった。

 

「せめて、安らかに、眠ってくれ……」

 

 悲痛の面持ちをしたグリーンが両腕に赤毛の子供を抱いて、床に寝かせられた守護騎士たちの遺体の隣に、その亡骸をそっと横たえた。もちろん本物ではなく八神はやてを絶望させ、闇の書の主として覚醒させるために用意したダミーだ。

 

 あれは確かヴィータという名前の守護騎士だったか。守護騎士の誰よりも子供っぽく、屋上に誘い込まれて現状を知った時は、誰よりも激情を露わにして戦いを挑んできた騎士の一人。殺ったのは双子の使い魔の片割れであるロッテ。止めを刺したのはロッテの姉のアリア。

 

 彼女たちは守護騎士を殺めたことに対して淡々としているが、グリーンはそうではなかった。

 

 いくら覚悟を決めたと言っても、子供を殺めた事実は辛かったろう。苦しかったろう。彼も前の闇の書事件で家族を喪った一人。だが、守護騎士だから、相手が人間じゃないからと言って嬉々として子供をぶっ殺すような外道ではないという事だ。

 

 封印作戦に従事する前は部下の誰からも頼りにされ、信頼されている人柄のよい隊長だったと聞く。自然が誰よりも大好きで、動物にも子供にも心優しい局員、だった。

 

 それが今では好青年の面影もなく憔悴しきっている。

 

 無理もない事だと思う。目の前で婚約者を失ったばかりか、無関係な子供や市民を巻き込む封印作戦。言い換えれば虐殺の真っただ中にいるのだから。それも主犯格の一人として。

 

 たとえ事件が無事に終わったとしても。はいそうですかと平和を、いつもの生活を享受できる筈もない。そしてそれは彼以外の何人かの局員も同じ。中にはかつての守護騎士との戦いで犠牲者を出し、親しい友人や家族を失った者もいる。

 

 今の戦闘だってそうだ。いったい先ほどの戦闘で何人の局員が守護騎士に殺されたか。

 

 そう、この場にいる全員が訳はどうあれ、闇の書から始まる悲劇の連鎖を終わらようとした者である。たとえその結果地獄に落ちようとも構わないと覚悟も決めている。だが、実際に仲間を犠牲にし、親しい人をまた失い。他人の幸せすら踏みにじったともなれば、その精神的ショックは計り知れないだろう。

 

 殺し、殺され。また殺して殺される。闇の書が転生を繰り返す限り終わることはない永遠の連鎖。復讐と憎しみの連鎖は終わらない。

 

 それもこれもギル・グレアムという男の無能が招いた結末だった。誰が何と言おうとも、どんなに優秀で伝説の偉業を称えられる程の偉人だと褒め称えても、この結果は変わらない。全ては己の対策不足が招いた結末だ。

 

 思えば闇の書の力を侮り、半永久的に氷結封印するという計画に欠陥が出たのが始まりだったのかもしれない。もっと早くに気づいて対策を打っていれば変わったのかもしれない。せめて無関係な市民や、あの子供たちを巻き込まずに済んだのかもしれない。それもこれも、もう遅い。

 

 もう、此方も進み続けるしかない。どんな結末が待っていようとも。

 

 闇の書を氷結封印したうえで、虚数空間の底に落とす。そうしなければ、闇の書は不完全な封印を解いて、未来で再び悲劇を繰り返すだろう。だから、負債を未来に押し付けることはできない。主もろとも這い上がってこれない虚数の底に落とすしかない。

 

(すまんが、今だけは耐えてくれ。私を恨んでくれても、憎んでくれても構わん。だが、今だけは)

 

 グレアムは闇の書封印の為だけに造られたデュランダルを握りしめ、大学病院を今もなお蝕んでいるエターナルコフィンの術式に集中する。

 

 魔力の変換資質を持つ人間は貴重で、氷結変換の資質となるとさらに数は少なくなる。

 

 個人の履歴や実績。裏があるかどうかを絞ったうえで実力ある局員をこの局面に投入しているのだ。特にロッテ、アリア、グリーン、マルタの四人は対守護騎士用の要として選抜された選りすぐりだった。彼女達を選出するだけでもかなりの時間を捻出している。それを命を捨ててもいいという者たちでもある。

 

 それ以外は封印式の中心から離れた補助に回した。守護騎士と直接対峙して犠牲にならぬように。結果はこの有様だが。

 

 そんな状況だから、氷結封印のデバイスを扱えるような実力ある魔術師は、そうそう運よく見つかるはずもなく。実力と経験に裏打ちされた魔導師としても最高峰の局員であるグレアム自身が封印を担っていた。

 

 おかげで制御や範囲の指定に一苦労して、海鳴大学病院の一帯を犠牲にせざるを得なかった。そこにに虚数空間への入り口を開くとなると、さらに大規模な術式が必要になる。闇の書の完成までの残り時間もあって、結果的に犠牲を最小限に留めることは叶わなかった。

 

 なんてのは言い訳に過ぎない。

 

 封印を成功させるには、闇の書に感づかれないようにじわじわと。それも真綿で首を絞めるようにゆっくりとやる必要がある。そうしなければ、危険を察知した闇の書は自らの主を喰らって転生してしまうからだ。直接なんてもってのほか。急に危害を加えるような真似は出来なかった。

 

 あくまで主に影響のない範囲でゆっくりと、まるで自然災害でも起きたかのように。多少の違和感があってもいいから、少しでも時間を稼ぐ。そし意図的に覚醒させる瞬間に一気に氷結させて、虚数空間に突き落とす。

 

 でも、それには時間が掛かる。今か今かと封印術を行使し続けるグレアムだが、一向に悪夢が終わる気配はない。自ら引き起こした悪夢は永遠に続くかのようだ。

 

 もはや、病院で無事な区画は闇の書のあった病室ぐらいだろう。そこも時期に氷が蝕んでいく筈だ。そうなったら、はやての病室に予め仕込んでおいた転移魔法を発動させる。それで彼女を屋上に導いてから、封印術は最終段階に移行するだろう。

 

「……ロッテ」

「ああ、何か来るね。あのちみっ子二人は魔導師だったから。そのどっちかだろうけど」

 

 ふと、ロッテとアリアがやりきれない表情で、屋上と病院を繋ぐ扉を眺め、身構えた。

 

 固く閉じられたそれは氷結封印の術式で冷え切っていて、一般人では押し開けられない程凍り付いていた筈だった。

 

 そんな扉が瞬時に細切れにされる。扉だけでなく、周りの壁も、周辺の床すら巻き込んで、閃光の斬撃が幾度も迸った。

 

 重い音を立てて崩れる扉や薄い壁。その先に現れたのは黒衣の衣装にマントを纏った戦斧を持つ死神だ。煌めく黄色の光刃の大鎌を構え直し、どこか冷めた虚ろな瞳で。けれど、煮えたぎるような底知れぬ怒りと尽きる事なき悲しみを宿して。

 

 一人の少女が相棒となる死神の鎌を携えて。此方を睨み殺すかのように殺気立っていた。

 

 この場にいる誰もが思う。あの少女は復讐者だと。そして既に心が死んでいると。

 

 この状況を作りだしたのは自分達であるが、ああした少女を生み出してしまったのだと思うと本当にやるせない。死にたくなるくらいの後悔が胸から湧き上がった。それでも止まるわけにはいかない。ここで彼女に殺されては今まで犠牲になった者たちの全てが無駄になる。

 

 闇の書が引き起こす悪夢はここで終わる。終わらせる。誰にも邪魔はさせない。地獄に落ちるのはそれからで良い。責めはそこで聞こう。

 

 アリシアの視線が局員たちを見据えた。

 

 アリシアは静かにグレアムを見て。身構えるロッテとアリアを見て。二人の指示でグレアムの護衛に付く虚ろのグリーンを見て。それからダミーとして用意された守護騎士の亡骸を見て悲しそうに目を伏せた。あの子のお気に入りののろいうさぎが寂しそうに床に横たわっていた。

 

「そっか。ヴィータも死んじゃったんだ」

 

 それはあまりにも淡々とした声だった。どこか他人事のように呟かれた幼い子供の声。あまりにも現実味のない底冷えする声だったから、誰もが思わず身を震わせるような。そんな恐ろしげだけど悲しすぎる幼い声。

 

「は、はは……なら、仇は討たなきゃダメだよね……」

 

 それからもう一度、親の仇でも見るようにグレアム達を睨み付けると、アリシアはグッと足に力を踏み込んで。

 

「お前ら絶対に許さない……殺してやる……殺してやるっ――!」

『Blitz Action』

 

 神速のごとく飛び出した。

 

 ありったけの憎悪を込めた叫び。そこから続く爆発的な踏み込み。閃光の如く駆け抜ける死神の凶刃がアリアとロッテに迫る。

 

 地面をすれすれに飛ぶようにして、すれ違いざまにアークセイバーを振りかぶる。金の閃光を纏いし大鎌の刃が、ロッテの身体を両断せんと瞬時に迫った。非殺傷設定すら無視した魔法の一撃は防がなければ本当に身体を両断する。

 

 ロッテはそれをいなす様な事もせず、重々しく受け止めてシールド魔法で防いだ。

 

「援護を……」

「手を出すなっ!!」

 

 それを見て、周囲で浮遊している局員たちが助太刀しようとするのを、ロッテは声で制した。

 

 彼女達は健気にもはやての見舞いに来てしまった。そうなった段階で、こうなる事は心の何処かで分かりきっていたことだ。

 

 唯でさえ多くの局員たちに罪なき人の命を奪う重責を背負わせた。この期に及んでこれ以上の重荷は背負わせたくない。ましてや子供を直接手に掛けるなんて言う苦痛は自分たちだけで充分だ。これ以上背負わせる訳にはいかない。

 

 アリアも同じ想いだ。双子の使い魔故に姉妹の考えていることは何となくわかる。

 

 彼女はここで殺さなければならない。説得は意味をなさない。アリシアをここまで追い詰めたのは自分たちなのだ。せめて出来るのは苦しまないように殺してやることだけ。出なければ、彼女はこの場にいる全ての人間を殺しつくすまで止まらないだろう。そして、アリシアを殺人鬼にしない為にも殺されてやる訳にはいかない。自分たちのエゴを押し通す。偽善でもいい。子供に怒りのまま殺されて、人殺しの咎を背負わせる訳にはいかない。

 

 何よりも、闇の書がもたらす悲劇を終わらせるチャンスなのだ。

 恨みも、責めも、憎しみも、そのあとで全部受けよう。

 

 今は安らかに眠ってほしい。せめてあちらの世界で友人たちと、家族と笑い合えるように。

 

 だからこそ、ロッテとアリアは容赦しなかった。

 

 悪い夢はすぐに終わらせる。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

「なのはちゃん……」

「大丈夫ですよ。わたしが守りますから」

 

 すずかの呟きに、なのはは彼女の手を握って安心させるように言う。

 

 病室を出て行ったアリシアを追いかけようとして、なのははそれができなかった。病院全体が異様な冷気に包まれていて、そこから二人の親友を守れるのはなのはだけだったからだ。困惑する三人。なのはだけは、これが魔法による現象だと気づいていたが、冷気を魔法で遮断するのが精いっぱいだった。

 

 特に魔法に耐性を持たないすずかは非常に拙い状態だった。少しずつ下がっていく室温。吐き出される吐息は白く、彼女の手から伝わる体温は、バリアジャケットのグローブ越しからでも分かるほど冷たかった。目も虚ろげで、先ほどから意識が混濁してきている。

 

 はやても、なのはも大切な親友を救おうと必死に努力した。なのははありったけの毛布をかき集め、はやては彼女を少しでも助けおうと、自身のベッドに招いて温め合っている。それでも状況は刻一刻と悪くなるばかりだ。シーツに包ませて体を温めようにも全然だめで、なのははどうすればいいのか分からなくて混乱していた。普段は冷静に努めようとするなのはがパニックに陥るほど事態は悪化していた。

 

 すずかが、はやてが死んじゃう。どうしよう。どうしようと心のどこかで怯えているなのはがいた。

 

 守護騎士やアリシアとの念話は繋がらず。ナースコールも、部屋の外への呼びかけも意味をなさない。ううん、なのはだけは気付いている。部屋の外を自由に出歩けるなのはは、凍死したたくさんの死体を見てしまったのだから。皆、何が起きたのか分からないといった表情をしていた。

 

 窓の外はたくさんの雪が積もり始めている。きっと、はやても気づいているだろう。この異常事態に。これは何らかの異変なんだって。

 

「すずかちゃんしっかり! もうすぐ助けが来るからな。きっとどこも同じような状況で大変なだけだから。だから……」

「うん、信じる……信じるよ……はやて、ちゃん……」

 

 はやてが必死にすずかに呼びかける。彼女の身体を抱きしめ続け、背中をさすり続けている少女はきっと気づいている。もうすぐ手遅れになってしまうのだと。いいや、何もかも遅いのかもしれないと。はやてはすずかを通して、彼女の体の冷たさを知ってしまっている。なのはでさえそうなのだから。

 

(お願いや神様。どうか、すずかちゃんを、なのはちゃんを。みんなを守って。この身はどうなってもかまわへんから)

 

 それでも諦めきれないのは達観してないから。子供じみた意地があるから。一心に友達を救いたいという願いがあるから。だから、心の中では神様に祈り続けていた。はやて自身はどうなっても構わないから。必死に家族を、友達を助けてと祈り続けていた。

 

 そんな二人を見て、なのはがどれほど歯がゆい思いをしていたのかは想像に難くない。彼女は無力だった。何もできない自身を恨み、恐れていた。魔法という力があるのに何もできなくて。このままでは友達を救えないまま失ってしまうかもしれないと恐れていた。

 

 それが途轍もなく怖くて。怯えて。手が寒くないのに震え始めて

 

(わたしは……わたしは――)

 

 なのはは絶望し始めていた。

 

「っ……!?」

「なんや! なにが起きたん?」

 

 ふと、部屋を襲う急な震動。いや、病院全体が揺れたのかもしれない。そう思うほどの衝撃が響いた。

 

 何らかの爆発音みたいな音が響き。その度にどこかが揺れる。遠くから聞こえる剣戟のような音に、なのはは誰かが戦っているのだと判断した。音は遠くに響いていて分かりにくいだろうが、恐らく屋上からだろう。

 

 こんな時に何をやっているのだろうという疑問が、普段なら浮かび上がるだろうが。今はそんなことを考えている余裕などなかった。彼女にできるのはすずかとはやての傍にいることだけだった。今離れ離れになったら、二人ともどこか遠くへ行ってしまうという確信があった。

 

「なのはちゃん……」

「大丈夫ですよ。はやて」

 

 続く異常事態に、はやてが恐る恐るなのはに手を伸ばす。なのはは震えを押し殺して、少しでも冷静に気丈に振舞い。その手を取った。荒事や非日常に慣れていないはやてでは不安になるのも無理はない。

 

 だから、自身がしっかりしないといけないのだと。なのはは弱気になる心を押し殺して。不安を少しでも忘れようとした。なけなしの勇気なんてこれっぽっちもわかなかった。冷静に状況を判断しようとする不破としての自分が残酷な答えを導き出そうとしている。それを少しでも否定したかった。

 

「なのはちゃん」

「はい、はやて。わたしは此処に居ますから」

 

 はやてが安心したように笑い。なのはも安心させようと微笑もうとして、うまく笑えなかった。笑い方なんて当の昔に忘れてしまっていて、ふとした拍子にしか笑えないなのはは、こんな時にどう笑えばいいのか分からなかった。

 

 だって、笑顔なんて楽しいときにしか浮かんでこなかったから。だから、今の表情はどこか歪んでいて、怯えていて、泣きそうになっている事になのは自信が気づかなくて。だから。

 

 だから、はやてはなのはを安心させるように笑って。

 

「なのはちゃん。大丈夫や。きっと、守護騎士のみんなが何とかしてくれる。だって、あの子たちはわたしなんかよりずっと――」

 

 語る途中で、彼女の姿が何処かに消えた。

 

「はや、て……?」

 

 手の中に残る温もりが、はやてが先ほどまで其処にいたという実感を知らせてくる。だから、これが異常な寒さからの幻覚ではなく、只の現実なのだと否応にでも理解するしかなくて。

 

「はやて!!」

 

 気が付けば、なのはは無意識に彼女の名を叫んで、椅子から立ち上がっていた。だけど、叫んでも彼女の姿は何処にもない。急に部屋から姿を消した真実が、静寂とともに残るだけ。

 

『Master.』

「レイジングハート。はやてが、はやてが――! 彼女は一体どこに!?」

 

 レイジングハートの呼びかけに、なのはは愛杖に必死に縋って、はやての居場所を問いかける。そこに何時もの彼女の冷静さはなくて、何かに怯える幼い子供がいるだけで。いつもの強さなんてどこにもなかった。

 

『マスター。落ち着いてください、マスター。少し深呼吸して、落ち着きましょう?』

「レイジング、ハート……」

 

 そんな彼女にレイジングハートは優しく呼びかける。まるで母親のような声と態度で、幼子を優しくあやし掛けるように。そんな愛杖をなのはは縋るように抱えて、言われたとおりに深呼吸をした。もう、自分ではどうすればいいのか分からなかった。

 

 そして、自らの主であるなのはが落ち着いたのを見計らって、レイジングハートははやてが急に消えた真実を告げる。

 

『先ほど、僅かですが転移反応を捉えました。恐らく八神はやては』

「……屋上」

 

 なのはの脳裏に先のジュエルシード事件から転移魔法という言葉と情景が浮かび上がった。アリシアが故郷ともいえる時の庭園に帰るときや、ユーノ・スクライアが遠くに移動するときによく使っていた魔法のことを。

 

 転移対象の周囲に魔方陣が浮かび上がり、何処かへ転移させる魔法だが、これほど違和感なく一瞬のうちに作動させられるのを、なのはは見たことがなかった。

 

 それと同時にどうして、はやてが屋上に転移したのかも、何となく理解してしまう。ううん、理解していた。

 

 恐らく全ての元凶は、この病院の屋上にいるのかもしれないと薄々気が付いていた。でも。

 

 落ち着いたなのはは、そっとベッドを見やり、意識を朦朧とさせているすずかの手を取った。弱っている彼女の事を放っておくことなど出来はしない。置いていくなんてもってのほかだった。優しいなのははそれができない。どうしても残酷になんてなれない。たとえ、手遅れだと無意識に分かってしまっていても。そんなの信じたくない。信じたくなかった。

 

「すずか……」

 

 なんて、冷たい手なんだろうと思う。なのはの体温を奪っていく彼女の手は、まるで氷の彫刻のようで。震えず微動だにしないのが余計にそう思わせた。

 

 なのははベッドに寄り添うと、背中からすずかの半身を助け起こし、自分の胸により掛けさせた。力を込められないすずかは、普段よりも重くて、冷たい背中が防護服越しに伝わってきて。それが何よりも悲しかった。もう、元気がないように感じられるのが、昔見た月村邸での死んでいく猫のようだった。

 

 ぎゅうと、彼女を背中から抱きしめる。少しでも彼女の体が温まるように。普段なら憧れになりそうなほど、よく手入れされた長い髪の感触とか。暖かな温もりに何だかどきどきして安心したりするんだろう。でも、今はただ、ただ、悲しいだけだった。体重をすべて預けてくる親友の姿が、微動だにしない彼女の姿が。頬から伝わる冷たさがただ、ただ悲しくて。寂しくて。どこかに行ってしまいそうで怖かった。

 

 冷たい。冷たい。彼女は冷たくなっていく。凍って行ってしまう。

 

 このたくさん雪が降り積もる世界の中で。凍えていく寂しい病室の一室で。すずか自身の魂でさえも凍って行ってしまう。

 

「すずか……」

「…………」

 

 嫌だ。嫌だ。もう、どこにも行かないで。一人ぼっちにしないで。寂しいのはもう嫌だ。独りは嫌だ。

 

 すずかの背中を抱きしめる。もう何処にも行かないように。何処かに消えてしまわないように。

 

「すずか……」

「―――」

 

 一人ぼっちになるくらいなら。いっそのことこのまま。二人で一緒に……

 

「すず「――なのは、ちゃん」か?」

 

 急に彼女の声が聞こえて、なのはの朦朧としていた意識がはっきりとする。

 

 いつの間にか眠っていたのかもしれない。なのはの左の頬には、相変わらず冷たい月村すずかの右頬の感触が。そしてなのはの右頬にはすずかの冷たくて小さなてのひらの感触があった。そっと添えられた、すずかの右の手。氷の彫像のように冷たい手。

 

「お願い――」

 

 か細い声だった。今にも消えてしまいそうで、そとの雪と風の音のほうが大きく聞こえるくらいで。だから、なのははすずかの口元に耳を寄せて。それからいやいやと首を振った。視界がぶれて、今にも泣きそうだった。なのはの鼓動は慟哭して激しいのに不安で、ちっとも熱くなかった。

 

「いや、です……いや、だ。いや……」

 

 こんな震えはいらなかった。そんな言葉は聞きたくなかった

 

「お願い――」

「やだ、いやだよ……だって、そんなの……」

「お願いだから言うこと聞いてよ!!」

 

 でも、震える声はすずかの叫びにかき消されて。なのははいつの間にかベットに押し倒されているんだと気付いた。気づくのが遅れた。唖然としてしまって気持ちの整理なんて付くわけなかった。目の前に馬乗りになったすずかの姿があった。

 

 いつものすずからしくない姿だった。初めてこんな風に怒鳴られた気がした。その剣幕に押されてなのはは何も言うことができなかった。ただ、ただ、触れている彼女の手が冷たくて、悲しくて。死んじゃいやだと叫びだしそうになる自分を必死に抑えるしかなかった。

 

 すずかの白く吐き出される吐息が荒い。呼吸が乱れている。彼女の目は据わっていて、微動だにしない。けれど、揺れていて焦点が合っていない。その瞳から一滴の涙が零れ落ちて。それからなのはの頬を伝って流れ落ちて。

 

 なのはの視界が揺れて、ああそうか。すずかの目は揺れていない。揺らいでいたのは自分の方。

 

 なのはは自分が泣いているのかもしれないと思った。きっと泣いているんだと思った。

 

 自分が悲しくて、心が叫びだしそうなくらい悲しくて。でも、どこか心が壊れている自分は静かに泣いているんだと他人事のように感じていた。

 

 目の前にすずかの顔がある。馬乗りになって、自分を見つめおろしたすずかの顔がある。

 

 ああ、何でだろう。さっきまで楽しいひと時を過ごしていたはずなのに、まるで悪い夢でも見ているかのようだ。

 

 悪い夢なら早く覚めてほしい。

 

「お願いだから……アリサちゃんの様子を見てきて……二人でアリシアちゃんとはやてちゃんを探しに行って」

「でも……すずか……」

「もう、気づいて、ううん……わたしはだいじょうぶ……だいじょうぶだから……だから、ね?」

 

 だから、どうしてそんな事を言うんだろうと思う。そんな寂しいことを言わないで。そんな悲しいことを言わないで。そんな風にお願いされたら、きっと心の弱い自分はそれに縋ってしまう。友達の願いだからと言い訳にして、きっとそれを実行に移してしまう。

 

 置いていかないで。わたしを置いていかないで。

 

 必ず迎えに行くから。必ず迎えに来るから。

 

 だからわたしを独りにしないで。お願いだから。

 

「はやく……いって、みんなを……助けて、あげて……」

 

 なのははすずかに促されて、静かにベットから立ち上がった。すずかに毛布を掛け直し、寒さで震える彼女の手を温めなおすように強く握って。それから何度も何度も、ベッドで眠るすずかに振り返りながら。優しく微笑むすずかに振り向きながら。ゆっくりとした足取りで廊下に繋がる扉のほうへと進んでいった。

 

 自らの吐息と鼓動以外は何も聞こえず、やけに静かになった世界。なのはの足音はすずかにとって、とても大きく聞こえる。

 

 足音が去っていく。彼女は迷うような足取りで歩いていたようだが、やがて先を急ぐように走ったようで、段々とそれも聞こえなくなった。ごめんね、なのはちゃん、とすずかは弱々しい声で謝る。だが、そんなちっぽけな気力もすぐに消えた。寒さが容赦なくすずかの体力を奪っていく。感覚が徐々に無くなっていく。

 

 本当は大丈夫じゃない。本当はとても怖いし、心細いし、一人で死にたくなかった。こんな寒い死は認めたくなかった。誰かに傍に居て貰わないと、恐怖のあまり叫びだしそうになる。でも、そんな気力すら当に無く。考えが纏まらなくなっていく状態こそが本当に怖かった。叫びたしたいのに叫べる体力も気力も無くなっていくのが怖かった。

 

 これが死の恐怖なのだと理解する事ができない。何も考えられなくなっていく。身体は冷たくなり、まともに動かすことができない。もはや震えすら無くなっていた。ただ、ただ冷たくて肉体どころか、魂すらも凍り付いてしまいそうで。

 

 それでも、なのはに自分の哀れな死を看取ってほしくなくて。そんな残酷なことを、優しいあの子にさせる訳にはいかなくて、だから無理やり遠ざけたのだ。

 

 それに、一階に向かったアリサとアルフも寒さに参っているだろう。自分でさえこうなのだから、アリサが無事である保障はどこにもない。それでも僅かな可能性があるなら、それに賭けたかった。なのはが傍にいれば、この寒さを魔法とやらで凌ぐことができるだろう。先ほどそれは実証されたばかりだ。すぐに凍りつくことなく、こうして生きながらえているのは、なのはの張ってくれた魔法のおかげなのだから。

 

 後はアリサか守護騎士たちを追いかけて行ったアリシアと合流して、はやてちゃんを探し出して逃げてくれれば良い。最悪なのは何もしないで、このまま二人で共倒れすること。何故ならば自分の命が長くないことは、すずかが一番理解しているから。

 

「やっぱり、そばに居て貰えば、よかった、かなぁ……」

 

 自分の吐息が白くて冷たい。体が重くて全然動かない。指先すら動かない。冷たい感覚だけが残っていく。痛みを感じないのが救いといえば救いだろうか。

 

 最後に大きく息を吐き出し、瞳から一粒の涙を流してすずかは眠るように息絶えた。

 

 目を瞑り涙を流す少女の、その横顔は酷く寂しそうで。伸ばされた手はまるで置いていかないでと言っているかのようだった。

 

 悪い夢はまだ終わらない

 


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