リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき   作:観測者と語り部

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憎悪に満ちた『なのは』

 アリシアが眠るように死んでいる。腕の中で眠る少女は苦しむことなく、安心した表情を浮かべている。さっきまで、なのはの父や姉と同じような憎悪に満ちた表情をしていたのに。今の彼女は安らかで、二度と苦しむことはない。

 

 なのははその事に安堵するつもりはなかった。悲しむこともできなかった。慟哭することもできなかった。そんな余裕は何処にもなかった。立て続けに親友を失って、彼女の心は限界を迎えていた。気力のみで動いていた身体は愕然としていて、脱力したように動かない。

 

『マスター……?』

 

 むしろ、その顔は笑っていた。

 レイジングハートの呼びかけにすら、応えないくらいに顔を歪ませて。

 

「はは、あははは………あはは、はははははっ!!」

 

 心の底からオカシイと言わんばかりに笑っていた。

 

「くく、ふっ、あははははっ!!」

 

 嗚呼、嗚呼、分かった。分かってしまった。これが本当の苦しみか。これが本当の嘆きか。自分が抱いてきた悲しみなど偽りにすぎないのか。そうか、これが憎悪なのかと。彼女は心の底から湧きあがる本当の気持ちに気付いてしまった。

 

 すなわち、母を失った父の士郎と姉の美由希が抱き続けてきた感情を。憎悪という果てしない心の叫びを。尽きることのない悲しみを。それらが振り切ったときどうなるのかさえも。身をもって理解してしまった。共感してしまった。

 

 それは心に空いた穴を埋めるのには充分すぎて、失っていた気力を取り戻させるのに時間は掛からなかった。

 

 悲しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。枯れたと思っていた涙はこんなにも溢れてくる。苦しくて、苦しくて、笑いが止まらなかった。泣き叫びたいのに、笑い声が溢れて止まらなかった。

 

 冷たくなったアリシアの身体を抱きしめる。こんなにも傷つけられて痛かっただろう。苦しかったろう。それに義姉の死を、本当の妹のような使い魔の死を理解してしまって、とても辛かっただろう。分かる。分かるよ。今なら痛いほど分かってあげられる。

 

 だから、あんなにも顔を歪ませて憎んでいたんだろう。だから、あんなにも傷つけられても、暴力を止められなかったんだろう。だから、あんなにも約束を破ってまで、禁じていた魔法を使ったんだろう。

 

 分かる。その気持ちを今なら理解してあげられる。

 

 ああ、昔の自分はなんて愚かだったんだろうと、なのはは自らを恥じた。こんな感情に支配されてしまったら誰だって、自らの衝動に抗えないというのに。父も、姉も間違った事はしていなかった。ただ、仕方がなかったのだと。今なら分かってあげられる。その行いも今なら笑って許してあげられる。

 

「あは……はは、はぁ……はぁ……」

 

 そしてひとしきり笑った後に、なのはは顔を俯かせると、優しげな手つきでアリシアを寝かせてあげて。それからゆっくりと顔をあげた。

 

 その瞳は憎悪に満ちていた。その表情(かお)は憎悪に歪んでいた。その口は憎悪で噛みしめられていた。その手は憎悪で握りしめられ、血が滲んでいた。

 

「許さない……殺してやる。殺してやる。殺してやるッ!」

 

 全身に有り余るほど力がたぎってくる。溢れ出す魔力は無尽蔵みたいに尽きることはない。無理やり変換された魔力が憎悪の炎となって、防護服の霜を溶かした。そして、学校の制服を模した純白のバリアジャケットが黒く染まり、青のラインも血のように紅く染まる。

 

 もはや、なのはの頭の中は殺意でいっぱいだった。全員殺す。男だろうが、女だろうがこれに関わった人間は殺しつくす。それから、はやてを助けて。それからどうしようか。ああ、家族の復讐の手伝いをするのもいいかもしれない。それともいっそのこと……

 

 なのはは立ち上がり、目の前の階段を上ろうと進みだす。ふと、振り向くと寂しげな表情をして眠るアリシアを見たが、それも一瞬のことだった。

 

 もう何も許せなかった。ただ、憎い。目の前のすべてが憎い。心からの憎悪が止まらない。憎くて、憎くて、たまらない。

 

『――ター。マスター。待ってください、マスター!!』

 

 ふと、声が聞こえてきて。なのはは訝しげに、レイジングハートを見つめた。何だろうか。今は忙しいので後にして欲しい。

 

 殺さなければならない。屋上にいるであろう奴らを殺さなければならない。こんな惨状を引き起こした連中など死ねばいい。死んでしまえ。死んで償え。あの世でみんなに詫びろ。

 

「なんですか、レイジングハート? 用があるなら手短にお願いします」

『―――っ』

 

 レイジングハートは、なのはの淡々とした声に押し黙る。これがあの優しかったマスターなのかと戦慄を隠せなかった。

 

 今までは、どこか淡々としていても優しさがあった。誰かを思いやり、自分よりも他人を気遣うような。どこか不器用でも優しい女の子だった。それが今では見る影もない。瞳は憎悪に満ち、どこか恐ろしい冷たさがある。大の大人ですら戦慄してしまうほどの。

 

 それでもレイジングハートは止めなければならなかった。今、行かせたら愛するマスターはきっと死んでしまう。誰かのために必死に行動してきたマスターが死んでしまう。そんなのはダメだ。だって、ようやく家族と仲直りしそうだったじゃないか。あんなにも焦がれていた父親と仲直りできそうだって笑っていたじゃないか。

 

 まだ、引き返せる。これ以上進んだら、きっと取り返しのつかないことになる。アリシアの傍にバルディッシュがいなかったのもきっと、そういう事だったんだろうから。

 

『マスター……もう、逃げましょう。もう良いではありませんか』

「…………」

『今逃げても、誰も文句は言いません。それとも、このまま戦って、戦って、戦い続けますか? 勝ち目があるかも分からないのに?』

「レイジングハート……」

『帰りましょう。だって、貴女には家族が……』

「レイジングハート……」

 

 レイジングハートはあくまでも冷静に、だけど心の底では必死になって呼びかけた。この復讐鬼に堕ちようとしている幼いマスターが、冷静になってくれる事を願って。絶望して、泣き喚いて、逃げ出したって構わない。幼い少女に、この現実を直視させ続けるのも無理があり過ぎる。

 

 ただ、一人生き残ってしまっても、絶望に閉じこもってしまっても、生きていればやり直せる。まだ、なのはを迎えてくれる家族がいる。なのはを抱きしめてくれる家族がいる。なのはの心を癒してくれる父や、姉がいる。兄もきっと駆けつけてくれる。

 

 だから、こんな所で死なないでほしい。それがレイジングハートの純粋な願い。知能を持つインテリジェントデバイスとしてのひとつの結論。だけど、それは……

 

「レイジングハート……どうしてそんな事を言うのですか?」

 

 だけど、それは他ならぬ彼女のマスター自身の手によって否定される事になる。

 

 レイジングハートを顔の前で掲げて、杖の先端に付いた宝玉に話しかける少女の目は冷たかった。冷たくて、憎悪に満ちていて、なのに無表情だった。ただ、理解できないと告げるように、首を少し傾げていた。本当にレイジングハートの気持ちが理解できないというように。

 

「あなたはわたしの相棒でしょう? 手伝ってくれるのでしょう? 手伝ってくれますよね?」

『いいえ、いいえ! 逃げましょう。逃げるべきです。アリシアは殺されました。貴女より強い守護騎士の方々も。私は貴女を―――』

 

 それでも呼びかけ続けるレイジングハートの声を遮って、なのはは叫ぶ。

 

「ええ、そうですっ! アリシアは殺されました! アリサも、すずかも、アルフも。きっと守護騎士の皆さんだって、そうなのでしょう! 貴女が言うのなら間違いないのでしょう!? さらわれたはやてだって殺されるかもしれない!」

『聞いてくださいっ、マスターっ!! 私は――』

「それなのにあなたは全てを捨てて、逃げろというのですか!? このわたしに、何もできないわたしに。なにも出来なかったわたしに、いまさら逃げ出せと? そんなの……できない、できない、出来ないよっ!?」

 

 レイジングハートの呼びかけは届かない。叫びは届かない。必死の思いは、それ以上の叫びによって遮られる。もはや、彼女に何の言葉も届かない。なのはは言葉を聞いているようで、聞いていなかった。まるで、必死に自分に言い聞かせているようだった。たぶん、自分自身でもわかっていない。なのはは、もう自分が分からない。

 

 ただ、衝動に突き動かされるように動くだけ。あふれ出る憎悪に身を任せ、本能に従って動くだけ。

 

「――ああ、そうだよね。そうだった。そうでした。わたしの魔法は、結局なんの役にも立たなかった。誰も救えませんでした」

『マスター……?』

 

 それどころか、レイジングハートは、なのはの次の行動に驚愕することになる。そして、予測すらできなかった。

 

「ばいばい、レイジングハート。次はわたしよりも相応しいマスターに出会って下さい」

『っ――マスター、マスター! なのはーーー………』

 

 あろうことか待機状態に戻したレイジングハートを投げ捨てたのだ。頑丈な躯体が傷つくことはなかったが、ペンダントは階段の隙間から転がり落ちて、そのまま階下へと消えていった。

 

 なのはは再びゆっくりと階段を上っていく。身に纏う黒いバリアジャケットを自身の力だけで制御し、迫りくる冷気も無理やり遮断して突き進む。身体から揺らぎ出る黒い炎が尽きることはなく。ただ、敵を打ち倒す為に突き進む。

 

 もはや、憎悪に満ちた『なのは』が止まることはなかった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 リーゼアリアは傷ついた身体に顔をしかめながら、治癒魔法を行使し続けていた。応急処置だが何もしないよりはマシだった。

 

 あの時、捨て身に等しいアリシアからの砲撃魔法を受ける瞬間。転移でロッテとポジションを変更したアリアは、割り込む形で砲撃魔法サンダースマッシャーを防ぎ切った。身を挺してロッテと封印術を守り抜いたのである。

 

 しかし、代償としてアリア自身は負傷していた。両手は焼け焦げてしばらく使い物になりそうにない。それ程までの渾身の一撃であり、アリシアがどれほどの殺意を魔法に込めていたのか窺い知れるというものだ。腕の部分の防護服だって弾け飛んでいた。防ぎきれなければ、確実に消し飛んでいたのはこちらだった。

 

「助かったよアリア。少し油断してたかもだ」

「ええ、ロッテ。無事でよかった。だけど、ごめんなさい。しばらく援護できそうにない」

 

 ロッテはホイールプロテクションを発動させたアリアの両手を横目で見た。だらんと垂れ下がった腕は、完全に力が入っていないことを示していた。

 

「まあいいさ、アリアはそこで休んでなよ。あとは、あたし一人でやる」

 

 屋上の入り口を見やれば、ふらりと一人の少女が現れるところだった。

 

 その身に黒衣を纏い、不気味な陽炎を揺らぎだす少女。ロッテは彼女から恐ろしいまでの殺気を浴びせられても微動だにしなかった。ただ、静かに構えを取ると、いつでも対応できるように息を整えるだけだった。

 

 無粋な問いも、呼びかけも必要ない。あるのは殺しあうことだけ。どちらかが死ぬまで戦い続けるだけだ。

 

 その為に、あの娘はここに来たんだろう。不破なのはが、さきほど殺めた少女をどれほど大切にしていたのかは、痛いくらいに知っている。ジュエルシード事件の時から監視していたのだから尚更に。

 

 だからこそ、ロッテはなのはの殺意と憎しみを全身全霊で受けるつもりだった。受けて、往なして、傷つけて、弱らせる。今更引き返すつもりはないが、せめて"見ている少女"に最後の別れくらいはさせてやる。それがせめてもの手向けだ。

 

「もうやめて……もう、やめてよう……!! なんで、こんなことするん……」

 

 やめてと叫んでいるのに、やめなかったロッテとアリアの罪を誰かに背負わせるわけにはいかない。さっきから聞こえるのは、この場にいる局員すべての者に罪悪感を抱かせるはやての悲痛な叫びだ。はっきりいって気が滅入るなんてもんじゃない。聞いていると心が折れそうになる。けれど、やめるわけにはいかない。

 

 闇の書の悲劇はここで終わらせる。それだけは絶対に覆らない。覆すわけにはいかない。

 

 なのははロッテとアリアを見て首を傾げた。なんで平気そうな顔をしている。アリシアの渾身の一撃を受けて立っている。死ななきゃダメじゃないか。殺したら殺されなきゃダメじゃないか。

 

 ああ、そうかと考え直した。死んでいないなら殺せばいいと。自らの手で仇を討つと。皆の恨みを自分が晴らそう。それが死んでしまった彼女たちにできる自分の精一杯の手向けだ。

 

「あああぁぁぁぁアっ!!」

 

 なのはは駆けた。我武者羅に駆けて、駆け抜けて、ロッテに肉薄した。それは若干9歳の少女とは思えないほどに早く、恐ろしく、そして繰り出される貫手からは殺意が込められている。だけど、それだけだった。

 

「……………」

「ぐっ……」

 

 ロッテはそれを片手で往なした。そして続く連撃を。身体の回転とともに繰り出される、なのはの裏拳を受ける前に、幼い少女の身体を蹴り飛ばした。

 

 転がって、転がって、元の場所まで蹴り飛ばされて、受け身を取りながら立ち上がるなのは。普段なら鍛えられた不破の武術に感謝するところだろうが、憎悪に満ちた彼女にはもはや関係なかった。ただ、頭の中は相手を殺すことでいっぱい、いっぱいだった。

 

「殺してやるっ、殺してやるっ、殺してやるっ……」

 

 獣染みた眼つきをしながら、なのはは再び駆け抜ける。相手の懐に飛び込んで殴り殺そうとする。その手に黒い炎を纏って、相手の肉を肌を焼き尽くさんとする。肉を抉り、掌打で内臓を殺し、無意識に組技で相手の人体を破壊しようと迫る

 

「無駄だよ……」

 

 ロッテはそれを哀れな目で見ながらも、軽くいなして再び蹴り飛ばした。吹き飛んだ小さな体に魔力の誘導弾(スティンガー)を何発も叩き込み、確実に魔力ダメージを与え、体力を削っていく。不用意に接近せず、触れることもしないのは、なのはの纏う炎を警戒してのこと。

 

「げほっ、痛っ……」

 

 それでも、なのはは咳き込んで立ち上がることをやめない。その身に宿した憎悪をより一層強めながら、なのはは腕を構え、腰を落とす。思い出すのは父、士郎との鍛錬の日々。間近で見せられた不破流としての体捌き。それを瞬時に思い浮かべ、彼女は実行に移す。

 

「――――っ!!」

 

 ふと、誰かの悲痛な叫びが聞こえた気がしたが、気のせいだろう。きっと自分の弱い心が生み出した幻聴だ。最後まで、なのはを止めようとしたレイジングハートの叫びが、なのはの良心からくる微かな罪悪感を刺激しただけだ。それよりも、今はアイツ等を殺さないと。

 

 瞬間、ロッテの前から、なのはの姿が掻き消えた。

 

 見よう見真似の『神速』に酷似した動き。足りない分は魔法で補って行う縮地にも似た歩法。肉体の限界を超え、なのはの感じる周囲の景色がモノクロに変わり、周囲の時間経過を遅く感じるようになる。そして、肉体はそれに追いつこうと爆発的な加速力を叩き出していた。

 

 さらに、己の利き腕が見せる構えは御神流奥義・虎切(こせつ)。一刀での高速、長射程を誇る抜刀術。父の士郎がもっとも使い込み、信頼していたひとつの必殺剣。それに『神速』が加われば、剣術の中でも、もっとも速度と射程に秀でた技となる。

 

 なのはは己の腕を鋼の剣に見立てていた。肉体を自身の魔法で限界以上に強化し、無意識に脳を極限状態まで移行させ、肉体のリミッターまで外す。幼い自らの身を試みない方法。なのはの中にある最強の武術を引き出す為には、捨て身ともいえる方法を使うしかない。

 

 だが、そんなスローモーションに満ちた光景の中でも、ロッテは平然と対応してくる。瞬間的に構え、なのはの左腕による抜刀術に合わせるように、彼女も腕で防御の構えを取る。

 

 しかし、魔法による防護が間に合わない。振り抜かれるなのはの腕。なのはの刃そのものと化した腕が、ぶつかり合う。

 

「シィッ――!」

「くぅ――」

 

 骨が軋む音。筋肉がぶつかり合う音。骨がひび割れるような音が順番に聞こえてくる。なのはは自身の腕の骨が駄目になったような気がしたが、痛みは感じなかった。まだ、動ける。

 

 ロッテは痛みに顔をしかめたようだが、それだけだった。そこに追撃を掛けるように、なのははコンクリートを踏み抜く。飛び込むように駆け抜けた力を変換し、振りぬいた腕と空いた手を使って新たな技を繰り出すために動き出す。

 

 御神流奥義・虎乱(こらん)虎切(こせつ)から発生する高速連続切り。相手との間合いを詰めた状態で放つ必殺剣の連撃。高速抜刀術を防いだ相手に対して確実に仕留める為の技。姉の美由希の武術から盗んだ見よう見真似の技の続き。

 

 そんな左右斜め上から振り下ろされる、なのはの両手をロッテは掴み取ることで対処した。なのはの纏う黒い炎を、拳に纏わせた防護魔法(プロテクション)で相殺し、完全になのはの動きを止めてしまう。体格差によるリーチと、数々の戦闘経験。そして、使い魔特有の高い身体能力の為せる技だった。

 

「おらぁっ!」

 

 ロッテの膝がなのはの腹に入る。肺から空気が吐き出される。浮かび上がる小さな身体。続くようにロッテから、頭突きを繰り出され、なのはの額から出血する。頭が揺れる。視界が揺らぐ。

 

「がぁっ――!!」

 

 そんな中でも、なのはは反撃の手を緩めず。相手の喉笛を食い破らんと噛みついた。ロッテの目の前で鋼鉄のワイヤーすら喰い千切りそうな歯が、カチンと音を鳴らす。そして、これ以上変なことをされる前に、なのはは遠くに放り投げられていた。

 

 無残に転がる小さな体は傷だらけだ。しかし、それは幼い肉体で無茶をした代償であり、半ば自滅したにも等しい事。

 

「――――っ!!」

 

 ふと、誰かの悲痛な叫びが聞こえたのだろうか。もう、何も聞こえなかった。分からない。分からないよ。

 

 ふら付きながら立ち上がる。うまく立つことが出来ない。さっき足を思いっきり踏み抜いたときに、膝か足首を痛めたのかもしれなかった。痛みを感じないのに、身体がいうことを効かない。左腕がだらんと垂れ下がる。転がった時に変なぶつけ方をしたのだろうか。ただ、妙に体が熱かった。怪我をした部分はもっと熱かった。

 

 そして、気配を察知して顔を上げれば、目の前に飛び掛かってきたロッテの姿。

 

 頭を思いっきり掴まれ、地面に押し倒されて、それからなのはの体はバインドで拘束された。地面に展開された回転する円形魔法陣(ミッドチルダ式魔法)から延びる無数の青い鎖が、なのはの身体を拘束する。起き上がろうとしても、魔法の鎖を引きちぎろうとしても、それはびくともしなかった。

 

「があぁぁっ、くがぁぁっ!!」

 

 それでも諦めきれないと、相手を殺すまでは止まらんと、獣じみた叫び声をあげてなのはは抵抗する。

 そのままにしていれば鎖を無理に引きちぎろうと腕を折ってまで暴れ続けるだろう。ロッテはため息を吐いた。

 

「いいから大人しくしてろ」

 

 なのはを見下ろす形で、何らかの術式を行使する。次の瞬間、なのはは自身の肉体を強化していた魔法が解かれたのを感じた。ストラグルバインド。対象の強化魔法を強制解除する捕縛魔法。ロッテのはリーゼ姉妹が使うバインドからの発生系で、術の発動速度を見直したタイプだった。気取られないよう設置に時間が掛かったが、うまくいった。

 

 捕縛対象が殺意に曇り、デバイスの補助がなかったからこそ容易に罠に嵌められた。これがアリシアの時だったら、間違いなく優秀なデバイスが阻止していただろう。最後まで支え続けようとしたバルディッシュならそうする。そして、主を支えるべきレイジングハートは此処にはいない。

 

 今の、なのははどこまでも一人だった。

 

「ぐっ……殺してやるっ。殺してやるっ。殺してやるっ!!」

 

 尚も暴れようとするなのはに、ロッテは噛みつかれないよう再びなのはの頭を掴んだ。伸ばした指すら喰い千切ろうとするから油断ならない。そこからフィジカルヒールに加えて追加で即効性の催眠魔法を、なのはに掛けた。対象の精神を落ち着かせて、興奮や錯乱から元に戻すための魔法だった。自殺防止用でもある。

 

 いくら高い魔法の資質を持っていたとしても、レイジングハートの補助がなければ抵抗は不可能。ベテランのリーゼに未熟ななのはが叶うわけがない。

 

 それでも整った呼吸の合間に呟いては、殺してやる、殺してやる、と無意識に怨嗟の声が漏れ出ていた。それ程までに深い憎悪だった。精神が落ち着いても、頭の中では殺意に満ちている。心から湧き上がる憎悪が止まることはない。

 

 地面に這いつくばっても、顔をあげてなのははロッテを睨んだ。その先にいるアリアを睨んだ。呆然と此方を見つめるグリーンや、空に浮かび上がる魔導師たちを睨んだ。そして、その最奥で封印術を行使し続けるギル・グレアムを睨んだ。

 

 その、殺意に満ちた視線。憎悪に歪んだ表情は、大人たちの心に感傷を抱かせるには充分で。

 

「……っ、なのはちゃん」

 

 だからこそ、それを見せつけられていた八神はやては、悲痛に満ちた表情をしてしまう。何も信じたくなかった。何も見たくなかった。何も感じたくなかった。この世界で起きている全てが、悪い夢であればいいと思いたいのに。一向に夢が終わることはない。ただ、空しくてあまりにも悲しい現実がそこに転がっているだけだった。

 

 それは心優しい少女が見るには辛すぎる光景だったのに違いないから。

 

 家族が目の前で死んだ。明るくて無邪気だった大切な友達(アリシア)が殺された。そして、自分を慰めてくれて、死にたくないと本心を明かしても支えてくれるような優しかった友達(なのは)は、見る影もなかった。

 

 こんな光景は見たくなかった。

 

 ただ、なのはにはもう、はやてがどうして泣いているのか分かることすら出来なかった。頭の中は憎悪でいっぱいなのに、体が動かなくて、酷く眠くなって。けれど、溢れ出す憎悪が意識をはっきりとさせてしまっていて。

 

 もう、なにが何だかわからなかった。そこに理性は存在しなかった。十歳に満たない小さな子供が怒りと憎しみで狂っているだけだった。心なんて当の昔に壊れているだけだった。なのはは、もう、なのはじゃなかった。憎悪に満ちた、ただの小さな復讐鬼だった。

 

 婚約者を失い。どこか呆然としていたグリーンは、その光景を見て打ち拉がれたように動かなかった。心ここに非ずといった風に動かなかった。動けなかった。もう、何も見たくなかった。これが本当に正しいことなのかどうかすらわからなかった。

 

 リーゼ姉妹は、最後の抵抗者であるなのはの様子を見ながら、最終段階に移行した封印術の補佐していく。病院の敷地一帯を包むように、巨大なミッドチルダ式魔方陣が展開され、病院の屋上の一部が虚無に満ちた光を現出させる。虚数空間の入り口が開こうとしている。

 

 そして、ギル・グレアムは全てを凍てつかせる封印の杖。デュランダルを両手で掲げながらゆっくりとはやてに近づいていった。先ほどまでの戦いを目に焼き付け。復讐を叫び続けるなのはを目に焼き付け。そして、ゆっくりとはやてを見下ろした。病院に存在するすべてを凍てつかせながら、何も感じないように意識していた初老の男は、初めてはやての事を見た。足が不自由でまともに立つこともできず、両手で上半身を支えながら、涙を流して凍てついた世界を見ていた八神はやてを。悲痛に心を痛め、呆然としている彼女を。

 

 そして、絶望に打ちしがれる八神はやては、静かに涙を流しながら、ゆっくりとグレアムの顔を見上げた。グレアムは酷い顔をしていた。まるで怒っているように歪んだ顔つきで、けれど喋りだすことは一切ない。口を噤んだ男は、今まではやてが泣いても叫んでも語りかけることは一切なかった。ただ、淡々と凍てついた魔法を行使するだけだった。

 

 けれど、それでもはやては問いかけずにはいられない。心が絶望に満ちても、悲しみに潰えても、問いかけずにはいられなかった。

 

 もう、それくらいしか出来ることはなかった。

 

「なんで、何でこんなことするん……」

 

 お前たち許さない。殺してやると叫ぶことが出来る。それは簡単だ。しかし、復讐を叫び続けるなのはの声が耳から離れなくて、今も聞こえ続けていて。ただ、こんな事になったのは自分の所為だという自責の念だけが、はやてを傷つけ、追い詰めていく。口から無意識にごめんなさいとという、か細い声がこぼれて。涙を流す資格はないと思っているのに、涙が溢れて止まらなかった。追い詰められた苦しみと、自身の過ちによる深い絶望と。そして全てを失った深い悲しみだけがはやての心を支配していた。

 

 ロッテが動くことすらなくなったなのはを、はやての傍に横たえた。ただ、殺してやると微かに呟き続ける少女を、はやてはそっと抱きしめた。見詰め合ったなのはの瞳は、何も映していなくて。ただ、ただ、虚ろだった。涙を流しながら、絶望に満ちて憔悴しきった顔をしていて。なのに表情は憎しみで歪んでいて。それが、よりいっそう、はやての心を締め付けた。

 

 そこにはもう、はやての知るなのははいなかった。昔の物静かだけれど、心優しい少女の面影などなかった。

 

 戦いで傷ついた身体で、立ち上がることすら出来ないなのはを抱きしめながら、はやてはそっと優しくなのはの髪を梳いた。もう、誰も殺さなくていい。誰も傷つけなくていい。ゆっくり休んでほしいと願って。憎悪に心を凍てつかせた少女を少しでも安心できるように祈って。頭を撫でた。強く抱きしめた。

 

 或いはこれから死ぬかもしれない恐怖に打ち震えた自分の傍にして欲しいだけなのかもしれなかった。これから何が起こるのか分からなくて、怖くてたまらなくて。悲しくて堪らなくて。誰も助けてくれず独りぼっちになった自分の傍にいて欲しかっただけなのかも知れなかった。

 

 それでも、最後に残った温もりだけは、離したくなくて。この手に残して置きたくて。はやては弱り果てた姿で、泣きながらグレアムを見上げて。怖くて何もできない自分がはがゆかった。

 

 それを受け止めながら、グレアムは静かに告げた。はやての最後の別れとなる言葉を。

 

「お前の罪。それは闇の書に選ばれたお前の存在そのものだ」

 

 グレアムの手がかざされ、虚数空間を開くための術式が発動しても。雪降る静寂な街を見ても、光り輝く神秘的な魔方陣に世界が照らされても、はやての心は動かなかった。グレアムの諦めたような瞳を見ても、何も感じなかった。

 

 ただ、腕の中でうずくまる、はやての罪の象徴となった親友の温もりと感触だけが残っていた。

 

 不破なのは。封印の術式に抗えず、身体を蝕む氷に為されるままになり。死に逝こうとしている少女。そんな彼女の失われつつある温もりを必死に抱き留めた。

 

 ただ、ただ、悲しかった。どうしてこんな事になったのだろうという想いだけが残っていく。

 

「ごめんなさい」

「………」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 それは、何のことに対する謝罪の言葉なんだろう。闇の書に選ばれたという自分の罪か? 自分のせいで巻き込まれてしまった親友や、病院の人たちに対するものであろうか? 或いは、蒐集していた真実を知って、ショックを受けて少しでも守護騎士や親友を心の中で責めた自分の愚かさにだろうか。

 

 何のことかは分からない。ただ、謝りたかった。誰かに謝りたかった。そうしないと罪悪感や絶望感に押しつぶされてしまいそうだった。心がどうにかなりそうだった。

 

 闇の書が氷漬けになる主を取り込んで転生しようと、動き出す。はやてが無意識に手を伸ばして、闇の書を掴み取る。だが、転生する前に、備えていたグレアムが動き出すほうが遥かに速い。はやてごと、闇の書は凍りついた。腕の中で衰弱するなのはも同じように凍てつかされる。その身に憎悪を宿したまま。なのに、はやては眠ることができない。なのはも、はやても生きたまま凍って、動けない。氷越しに世界の風景を見続けるしかなく。痛いとも冷たいとも感じないのだけが救いだった。もう、身体の感覚がなかった。

 

 虚数空間の穴が開き、底知れぬ暗闇に落ちていく自分。そこから急速に小さくなって消えていく元の世界への穴を見た。いや、遠ざかっていく元の世界だろうか。同じように落ちて来る凍りついた人々の遺体を見る。それでも心は薄れて行って、深い悲しみだけが残っていく。今のはやては、ただ謝り続ける生きた躯のような存在だった。

 

 それでも最後に残った失われつつある友人の温もりを、肌の感触を、命の重みを手放したくなくて。落ちようとする世界で必死に抱きしめ続けた。凍てついた体で、ずっとずっと落ち続けた。

 

 それが穴に落ちる瞬間に見た、はやての最後の光景だった。瞬間的に凍結封印されて、親友もろとも虚数空間に落ちた少女の末路。それでも意識が消えることはなく、肉体は凍てついたまま、闇の書と共に虚数空間の中を漂い続ける。

 

 そんな中で闇の書だけが静かに胎動を続けていた。


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