リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき   作:観測者と語り部

71 / 84
復讐者のレクイエム 士郎の後悔

 その日。海鳴市は最悪のクリスマスを迎えた。

 後に神隠し事件と呼ばれるようになったそれは。人々を驚愕させ、当事者に涙と絶望を与えるには充分すぎるほどで。何十年と立ち直れない人が何人もいた。

 

 祖父や祖母が入院していた孫は泣き続け。出産を控えた妻を亡くした夫は心に深い傷を負い。後を追うように自殺する者も少なくなかった。もちろん復讐に駆られる者も……。愛しい子供を亡くした夫婦が立ち直れず、家庭が崩壊した一家も少なくない。

 

 中には家族や友人の帰りをずっと待ち続けている者もいた。

 

 神隠し事件の驚愕すべき所は証拠が一切残っていない所にあった。

 

 何らかの荒らされた形跡が無いまま、病院にいた患者、医者、看護師といった。生きている人間が一夜にして消えるという現代ではあり得ないような出来事。それどころか大学で飼われていた実験動物すらいなかった。ここまで見境がないと恐ろしさすら感じるくらいに。

 

 まず、海鳴り大学病院の近隣に住む住人が、深夜だというのに静かすぎる事に気がついた。しかも、クリスマスという一年に一度の特別な日。少しばかり賑わいがあってもおかしくはない。

 

 警察がそれを受けて現場に駆けつけ。医療機器に何らかの異常が発生した可能性もあるとして、近くの消防隊や救急車まで迅速に向かった。詰所から電話を掛けるも、応答は一切なし。病院は緊急を要する事もあるため、応対に出る人間は必ずいるというのに。

 

 ここにきて、ようやく異変が浮かび上がってくる。

 

 そして一番先にパトカーで駆け付けた警察官は、あまりの異常な事態に息を呑むことになった。

 

 消灯し、暗くなった夜の病院は不気味で人気がない。駆けつけた警察官の一人が外側から懐中電灯で院内を照らし、何度もすいませんと呼びかけるも応答なし。ならばと、入り口のドアを何度もノックしても応答なし。拳がぶつかる音が院内に強く響いても、誰も反応しない……

 

 二人の警察官はようやく事態の急用性を理解し、本部に報告するとともに、中を確認するため突入を決意。病院のガラスを叩き割って内部に侵入すると、状況を確認しつつ誰かいないか呼びかけ、事情を聴こうとフロア周辺をくまなく探した。

 

 誰もいなかった……。寝ているはずの患者も、当直の看護師や医師も。応対や受付をする社員も。

 

 しんっと静まり返った病院は恐ろしく。そして誰もいない異常性は恐怖を与えるには充分すぎる。二人の警察官は、この異常事態に怯えつつも、一縷の望みを託して生存者を探した。死体すらないのはおかしい。さりとて争った形跡もない。大規模な誘拐にしても、内部と外部の人間に気づかせずに事を済ませるなど不可能だ。

 

 そして、昨日のように物がそのまま置いてあることが、よりいっそう不気味さを増長させた。

 

 食べかけのケーキ。フルーツ。スーパーで売っているようなステーキ。病室にある途中で開けられたクリスマスプレゼント。あるいは手つかずに枕元に置かれた物もあった。

 

 患者のベットの横には点滴の針が、今まで刺さっていたかのように存在し、シーツを薬液で濡らしている。同じように患者が消えたことで、ベッドに置き去りになった心電図のパッドは、横の心電図の機械によって脈が止まった事をピーっという音と共に知らせ続けていた。

 

 点滴の針を抜けば血の跡が一滴くらいあってもおかしくはない。患者につける心電図のパッドを外したにしては綺麗すぎる。何より集中治療室の患者を動かせば、院内の人間は必ず異変に気付くはずなのに。

 

 それをこんな短時間で、誰も気づかせずに誘拐することなど不可能。もちろん院内の人間を全員殺して死体を隠蔽することも。

 

 誰が返事をしてくれっ!! そんな、とある警察官の叫びは空しく響いて消えただけだった。

 

 

 

 そして、応援に駆け付けた警官隊が現場に到着すると調査を開始する。周辺に病院の患者か職員がいないか捜索態勢まで臨時で組まれた。そこには消防隊員や救急隊員も駆けつけ。テロの疑いありと、自衛隊の出動要請まで考えられる事態となった。

 

 次に捜査官が現場に到着し、事件の調査を始める。あらゆる専門的な視点から事件の手掛かりを追うも、関係性は一切見つからなかった。手掛かりが全くない事件。それこそが海鳴大学病院で起きた事件の異常性を一言で表している。

 

 テレビ番組では緊急のテロップが流れ始め、続くようにどの局も臨時ニュースを行い始める。ここに来て町の人間どころか、日本全国規模で人々は騒然となってゆく。別の病院に入院していた家族の安否を確かめようと、全国の病院がパンクするほどの電話がひっきりなしに鳴り始め。政府主導のもとで、直ちに安全を確認する事態となる。

 

 同時に関係者を誘拐して、海外に逃亡しないか国境線に警備が敷かれた。海上保安庁の巡視船が海を監視し、全国の空港で警官隊を総動員して臨時の検問が行われた。

 

 やはり、何の手がかりも掴めなかった。

 

 世界各国ですら、この異常事態に関心を示し、トップニュースで伝えるころになると。誰が言い出したのか、これを神の裁きだ。悪魔の陰謀だと囁かれ。人の手によってなされなかった事件。いわゆる神隠しだと言われるようになり。

 

 2005年12月25日。この日より、海鳴市にとってクリスマスとは祝いの日であり、弔いの日となる事になった。

 

 

 

 最初に、その一報を受けた時。不破士郎は何を思っただろうか。

 

 情報を察知したバニングス家と月村家が総動員体制で娘と友人たちを探そうとする中。不破美由希はテロ組織"龍"の仕業かもしれないと顔を強張らせて周辺を走り回っていた。まるで、娘が、なのはが誘拐されたあの雨の日の焼き直しのように。

 

「父さんっ!!」

 

 ただ、士郎を襲ったのは発作だった。家の電話から受話器を取り、耳に当て、聞こえてきたバニングス家の使用人と名乗る男から娘が消えた事を知った時。頭が真っ白になった。心に浮かんだのは焦燥でも、憎しみと怒りの炎でもなく。損失感。愛する妻の桃子を失った時のような絶望感。

 

 三度目となる家族の危機は長年、己の身を省みずに動き続けてきた士郎に止めを刺すには充分だった。復讐をするために全国を駆け回り、鬼気迫る戦いを繰り返し、家の中であっても常に気を抜けぬような生活を続けてっ来た彼が、ついに限界を迎えてしまった。

 

 身体からは急速に力が抜けていき、慌てて駆け寄った息子の恭也に支えられるも、ひどく動揺した士郎の動悸は収まることを知らない。頭の中が真っ白で何も考えられない。心は動揺して不安でいっぱいで、一向に落ち着きを取り戻さない。

 

 手を伸ばす。失ってしまったのか、失おうとしているのか分からない。ただ、最愛の存在をもう一度掴み取ろうとするかのように。震える腕を虚空に伸ばす。

 

 誰かの手を求めたのかと勘違いした恭也が、片手間に携帯電話で救急車を呼びながら、安心させるように握り返す。暖かなで安心させるような、でも、ごつごつしていて誰かを守るために鍛え抜かれた掌。もうすぐ彼も父親になる。生まれてくる赤子をその手に抱き上げる父親になるのだ。

 

 取り戻せると思っていた。小娘と呼び捨てていたアリシアの、なのはの友人のおかげで気づいた大切なこと。もう一度やり直せるのだと思っていた。桃子を失ってからバラバラになってしまった家族の絆。あたりまえのような家族生活。なのはの幸せを考えて毎日を頑張る。娘を不器用なりに支える。そんな日々を。

 

 しかし、大切な存在はもう一度、手の届かない向こう側に行こうとしている。探しに行かなければ。でも、身体に力が入らない。耐え難い損失感を味わった心が悲鳴をあがている。まるで魂が抜けていくかのよう。

 

「な、のは……」

「大丈夫だ父さん。なのははきっと無事だ。だからしっかり――!!」

 

 近くで爆弾が爆発したみたいに音が飛ぶ。耳鳴りがキーンとする。恭也の声がよく聞こえない。意識が遠のいていく。

 

 なのは。心の中で何度も呼び続ける娘の名前。しかし、それに返事をしてくれる最愛の娘の声は結局聞こえなかった。

 

 

 

 救急車が到着し、各地で同じような事が何件も続いていると焦る救急隊に運ばれ、病院まで搬送された士郎は。入院したその日から茫然自失となってしまった。

 

 誰が呼びかけても虚ろな反応しか示さず、動くこともままならない。点滴だけで生かされているような存在。段々と衰えていく肉体は、屈強だった頃を忘れるかのようにやせ細っていく。

 

 なのはがやっぱり見つからない。探しに行こう。美由希にそう呼び掛けられた気がするが、反応は無い。終いには張り裂けるような怒声と、頬に残る熱さを伴った痛みだけが残った。

 

 娘に殴られたのだと薄ら薄ら気が付いたが、反応できない。なのはを失った損失感だけが残り、何も考えられない。動く気力もない。

 

 結局、美由希は恭也に怒鳴られながらも、何処かへと消えてしまった。恐らくなのはの事を探し出すつもりなのだろう。或いは誘拐したと思われる存在を探し出して殺すのかもしれない。今までそうしてきたように。しかし、もうどうでも良いことだ。

 

 バニングス家の当主であり、古い友人であるデビットが忙しい合間を縫って訪ねてきた。同じように大事な娘を失った父親として、お前の気持ちは良く分かる。こんな事を言うのも何だが、支えてくれる伴侶すら亡くしたお前がそうなるのも……私だって勝気な妻がいなければ今頃は。そんな言葉を聞いた気がする。

 

 だが、最後には諦めるな。必ず俺達の娘を探し出そう。きっとあの子たちは、助けを求めて待っている。だからお前も立ち上がって来いと励まされたようだった。だが、どうでも良いことだ。クリスマスのあの日。行ってきますと言って出かけて行った娘はもういない。呼びかけに答えない。ただいまと帰ってこない。どうしてだ。

 

 約束したのに。

 

 その後も、月村家の当主となっている、娘の友人の姉。恭也の伴侶となる忍が、相談に来たりもした。

 

 ……気がする。

 

 あの子たちがいない所で、結婚式を挙げるべきかどうか。こんな状況だからこそ慎むべきではないか。何か月たっても見つからないあの子たちを待つべきじゃないかって。そんな事を。でも、恭也が励ましてくれたから、形だけでも結婚式は上げることにしたと。新郎の父として参加してほしいと言われた。そんな気がする

 

 どうでもいい事だ。なのはが帰ってこない、娘がいない。

 

 いつの間にか退院していたことに気が付いたのは何時だったか。恭也が毎日面倒を見に来てくれて、日々の出来事を言い聞かせてくれるが、良く分からない。用意してくれたらしい布団で寝て、トイレで用を足し、飯を食う。毎日が茫然自失としている。何も感じないような虚ろな日々。まるで夢でも見ているかのようだ。

 

 どうでもいい事だ。剣士を引退して、裏社会から半分足を洗った時に、ずっとそうしてきたじゃないか。

 

 娘に無理やり稽古をつけて、強くして。不埒な輩から己を護れるようにと鍛え、帰りを待つ日々。在りし日の思い出を浮かべながら、ただ日々を過ごす存在。それが不破士郎だったじゃないか。

 

 もう、どうでもいい。桃子に、なのはに会いたい。

 

 

 

 

 いつの日からだろう。士郎が酒に溺れるようになったと自覚し始めたのは。

 

 度数の高い酒を水で薄めず、グラスにすら注がない。瓶を傾けて酒を浴びるように飲んでは、泥酔する。常人が想像を絶するような鍛錬で鍛え抜かれた士郎の体調は、さらに悪化し、日に日に衰えていく。

 

 それでも意識だけはしっかりしていた。戦闘民族としての不破や御神の血が、アルコールや薬物に強い耐性を示すからだ。悪酔いして物や人に当たり散らすような事もせず、酒が与える高揚感で全てを忘れようと、日々をぼーっと過ごす毎日。

 

 そして、アルコール量が許容範囲を超えれば、嘔吐する。肉体にとって有害な毒を少しでも排出するように。さすがに畳部屋でやらかすと拙いと思う程度の理性はあったのか、ふらつく体を支えて洗面所に向かったのをぼんやりと覚えている。

 

 恭也も見かねて何度も止めようと注意し、時には羽交い絞めにしてでも士郎の暴挙を抑えようとした。だが、一時の間は止まっても目を離せばすぐに酒に逃げる士郎。一時は病院に隔離しようとも考えたが、今の父親を一人にすることの不安感が勝ってどうすることもできなかった。目を離せば彼は自ら命を絶ってしまいそうだったから。

 

 士郎は自らの習慣だった仏壇にお祈りする行為すら忘れてしまった。怖かったからだ。仏壇に立つことで娘が死んでしまった事実を認めてしまいそうで怖かったからだ。或いは行方不明で、誰も見つかっていないという状況に希望を持たせたかったのかもしれない。娘は、なのははいつの間にかひょっこり帰ってくるんじゃないかと。

 

 ただいま、お父さんって。そう言って帰ってきて。いつものように学校に出かけて、時には友達を連れてくる。そんな日々が。

 

 戻ってくるんじゃないかと。

 

 心のどこかで、それにすがっている自分がいる。

 

 

 

 帰ってきた娘を迎え入れて自分は怒鳴り散らすだろうか。いや、もしかすると心配のあまり、泣き散らしながら娘を抱きしめて、ずっと話そうとしないかもしれない。

 

 妻を亡くしてから涙を流すことを忘れた自分が、いとも簡単に嗚咽を漏らす姿を想像して、次には首を振って否定する。

 

 涙を流すことなどできはしない。泣くことも笑うことも忘れて、日々を憤怒と憎悪に彩られるまま、復讐心に駆られて過ごしてきた自分には。きっととうの昔に忘れてしまったのだ。半身ともいえる存在を失ったその日から。

 

 

 

 

 日々を虚ろに過ごして季節が何度か移り替わったある日。

 

 士郎は娘との日々の記憶が段々と薄れていく感覚に恐怖した。徐々に思い出せなくなっていく、娘の顔。幼い娘の妙に落ち着いた声。たとえ僅かでも記憶の精細さが失われていく事実に怯えるしかなかった。

 

 記憶の中の娘が死んだとき。なのはの死が確定してしまう。そんな気がした。

 

 ふらつく身体を押して家中を必死にあさった。朦朧とする意識。思うように動かない体。おぼつかない足取り。霞が掛かったかのような思考のなか。頭の中はどうにかして記憶を失うまいと、都合のいい術を探す。そう、アルバムだ。娘や妻との写真が納まったアルバム。それさえあれば。

 

 いつの間にか、手には一冊のアルバムが握られている。記憶の片隅で、なんとなく恭也が助けてくれたような感じがしたが些末なことだ。今は、なのはとの思い出を探すほうが先決である。

 

 アルバムの題名は高町家の思い出。綺麗な文字の横には可愛らしい動物が描かれていて、絵心を感じさせた。

 

 ページをめくる。いきなり結婚式や披露宴の写真ばかりが目に入った。それもそうだろう。結婚するまえは士郎も何かと忙しかった。御神の剣士として、裏社会の脅威から要人を護衛するボディーガードの日々。多くのツテはあったが、交友と言えるほどの関係はなく。あくまで仕事上の付き合いでしかない。

 

 日々を彩る光景を写真や絵にして、個人で日記をつづったりもしなかった。趣味ではなかったし、仕事柄で些細な情報すら誰かの危険に為りかねなかったから。

 

 アルバムを持とうと考えたのは、やはり家庭を持つことになったのが大きいのだろう。その頃には危険な護衛の依頼も殆ど受けなくなっていた。

 

 なんだか懐かしいような気がする。

 

 

 披露宴の中で新郎新婦は幸せそうに笑っていた。そこには笑顔があった。在りし日の自分が嬉しそうに、幸せそうに笑っていた。その隣には愛しい妻の桃子が幸せそうに微笑んでいる。二人とも、その先に地獄があることなど知らないように。

 

 士郎は写真の中の自分が自分であって、自分でないような気がした。懐かしいような寂しいような、そんな気分。今の自分は、こんな風に笑うことすらできないだろう。

 

 そして写真に写る幸せそうな桃子の姿を見ていると、心が締め付けられるようで苦しかった。彼女を失った時の絶望感と損失感。そして申し訳なさ。自分に対する情けなさ。無力な自分に対する怒りと憎しみ。妻を奪った相手に対する憎悪。いろんな感情に振り回されて頭がどうにかなってしまいそうだった。

 

 ただ、ただ、己を恥じるしかなかった。何が護る為の御神の剣士だ。結局、大事な人は救えはしないのだ。それも、これも自分の弱さが招いたことだから。

 

 だから、士郎は仏壇に祈ることはしても、思い出を振り返るようなことはしてこなかった。幸せそうな桃子の姿を見れば見るほど、あの日の光景が思い浮かぶ。脳裏に焼き付いた瞬間が再生される。無力な自分にどうしようもなくなる。なんど、護れなくて済まないと詫び、なんど、護れなかった己を責めたか。

 

 いっそのこと士郎のことを責めてほしかった。不甲斐ない自分を殺してほしかった。

 

 でも、死のうとしなかったのは。そうしなかったのは、きっと娘がいたから。なのはがいてくれたから。

 

 アルバムのページをめくる。 

 

 幸せな夫婦生活。新婚旅行の写真と続いて、現れたのは生まれたばかりの赤ちゃんの姿。

 

 ひらがなみっつで、なのはと名付けられた。士郎と桃子の本当の娘。菜乃花では可愛げがないからと、桃子がひらがな三つにしましょうと付けた名前。

 

 生まれたばかりの娘が自分の指を握った感触を思い出す。とても小さくな手が、自分の指を強く握りしめたあの時。小さくても力強く、そして新しい命を感じさせる暖かさを感じさせてくれた。

 

 抱き上げればとても軽いのに、命の重みがあった。吹けば消えてしまいそうなほど弱く、けれど力強く今を生きている命の鼓動を感じた。決して失ってしまわないと、とても大事に扱い、触れる時も些細な事にまで気を付けた。

 

 あの時は、桃子が苦笑していたのをよく覚えている。

 

 士郎さん。そんなに心配しなくても大丈夫よ。この子はとっても強い子だから。だから、安心して抱っこしてあげて。そう、言われたのをよく覚えている。

 

 そうしてアルバムのページをめくるたびに、時を刻んでいく高町家の姿がある。

 

 特に子供の、なのはの成長は早いもので、赤ん坊から幼児に成長するまであっという間だった気がした。赤ん坊の頃は、何かあるたびに泣きわめいては、士郎を心配させたものだ。お漏らししてないか。おむつの取り換えは必要か。お腹がすいてしまったのか。風邪はひいてないか。

 

 時には寂しくなってぐずらないように、何度も変な顔をして笑わせ。抱き上げては親が傍にいるよって。何度もぬくもりを感じさせた。その度に伝わってくる、なのはの体温はとても暖かかった。そうして、士郎は安心するのだ。この子はちゃんと健やかに育ってくれていると。

 

 なのはが初めて立った時は、思わず万歳して、高い高いと抱き上げそうになったが、桃子に叱られたのでやめた。なのはが二本の足で歩いて、自分の元までやってきたときには感動のあまり泣き叫びそうになった。

 

 桃子も何度も娘のことを褒めていたのを覚えている。もちろん時には厳しい人だったが。自分はどうだったろうか。少なくとも、妻を亡くす前までは、なのはを甘やかしてばかりだった気がする。

 

 娘がちょっとずつ言葉を覚えていくのにも感動した。心がわくわくした。少しずつ成長しているんだろうと感じ、同時に期待感もあった。

 

 自分のことは何て読んでくれるんだろう。パパかな。お父さんかな。そんな気持ちでワクワクしていた。

 

 ママが先か、パパが先か。どちらが最初に読んで貰えるのか桃子と競争したこともあった。結局、なんだかんだで、なのはの世話を焼いていた恭也がおにーちゃん♪と呼ばれるのが、一番早かったが。あの時はちょっとした嫉妬心から。ついお話してしまった。

 

 あの頃が一番楽しかった。

 

 

 

 

 そうして消える桃子の姿。桃子を映した写真は一枚もなくなった。小学校の入学を控えている時期に、消えてしまった愛する妻の姿。

 

 これからだというのに。入学を祝い、事業参観に出て、学校は楽しいか聞いて。友達はできただろうか。仲良くやれるだろうか心配して。お迎えの準備をするときは、どうしようかな。なんて考えていた。

 

 けれど、桃子の夢だった小さな喫茶店を建てる夢も、何もかもが消えた。

 

 もう、その頃には何もかもがどうでもよかった。頭の中は悲しみと怒りでいっぱいだった。あの時から自分はどうにかしていたのだろう。悪鬼が生まれてしまったのだ。自分の心の中から復讐を躊躇わない恐ろしい悪鬼が。

 

 桃子を殺されてから復讐に奔った。心を激情に突き動かされるままに。世界を奔走して桃子を殺した人間も、それに関わった人間も常に皆殺しにしてきた。感情に突き動かされるままに剣を振るい、足を斬り、腕を裂き、首を跳ね飛ばした。そこに躊躇いも、疑問の余地もなかった。

 

 それでも怒りは収まることを知らず、二度と惨劇を繰り返さないためと称して、それを大義名分にして、悪質なマフィアやテロリスト共を斬った。

 

 奴らの背景にどうしようもない理由があったとしても、剣を振るう腕は止まらなかった。

 

 楽しかったころの思い出も。喜びも。笑顔も。悲しみも。涙も。すべて忘れた。怒りだけがすべてを支配した。

 

 ただ、怒りのままに全てを斬り捨ててきた。それ程までに妻を愛していた。だからこそ妻を殺した存在も、遠因となった存在すらも赦せなかった。妻を目の前で殺されて、守れなかった自分自身にも怒りが向いていた。だから、己を試みないで復讐を続けた。

 

 やがては、殺しても、殺しても満たされず。復讐を果たしても怒りが収まることはなかった。恭也に止められる形で負傷して、裏稼業から足を洗っても心は満たされなかった。

 

 後には損失感だけが残って……

 

 

 

 

 何の写真もおさめなくなったアルバムの白紙のページをゆっくりめくる。

 

 もう少しでなのはの入学式だった。順調だった夫婦生活は終わりを告げた。

 

 ため息を吐く。どうしてこんなことになったのだろう。

 

 少しだけ冷静さを取り戻した士郎は、何度もアルバムのページを捲って。

 

「ああ………」

 

 気が付いてしまった。気が付くと、心は愕然として。それから後悔ばかりが募った。

 

 思い出してしまった。楽しかった頃の高町としての生活。そんな日々を僅かでも。桃子となのはの写真が思い出させてくれた。

 

 そうして気が付く事実は、娘との思い出など殆ど残ってないという真実だけ。

 

 人生に一度のめでたい入学式の写真がなかった。制服姿にランドセルを背負った娘の姿がなかった。授業参観で一生懸命頑張る娘の姿がなかった。夏休みに水着姿ではしゃぐ姿も、海でスイカ割りや砂遊びをする写真がなかった。運動会の駆けっこで親に良いところを見てもらおうと頑張る娘の姿がなかった。冬のクリスマスでサンタさんを心待ちにして、やっぱり寝てしまった娘の寝顔の写真がなかった。

 

 なのはとの思い出は妻を失った日から殆ど無いといっていい。あるのは護身術と称して無理やり鍛錬を施し、厳しく接し続けた日々の記憶だけ。

 

 そして、傍らの、なのはの日記にすら家族との思い出はほとんどなかったのだ。

 

「嗚呼……俺は……なんて、事を……」

 

 自分は、実の娘である、なのはすら。復讐の道具として見ていなかったか? 何が身を守るためだ。そんな言い訳ばかりして、嫌がるあの子に暗殺術すら仕込まなかったか?ハッ、何が護身術だ。笑わせるな。ただの人殺しの技じゃないか……と。士郎は心の中で吐き捨てた。自分を罵って、嫌悪した。親として最低だった。

 

「俺は大馬鹿野郎だっ……!!」

 

 酔いが醒めた。後に残るのは気怠さ、吐き気、めまいと頭痛。そして死にたくなるほどの後悔だけ。

 

 満たされる訳がなかった。

 

 士郎が欲しかったのは復讐を果たすことではなかった。

 

 ただ、家族との幸せな日々が欲しかった。愛する妻と一緒に互いを支えあいながら、子供たちを育てて。幸せそうに過ごす家族に囲まれて。いつの日か結婚する子供たちを送り出して。生まれてくるであろう孫を抱く。

 

 やがては老い、どちらかが先に看取って、あとを追うように死ぬ。

 

 誰もが当たり前のように思い描く、人の一生を果たしたかった。

 

 桃子が死んでしまったのだとしても、怒れるままに復讐をするのではなく、振り返るべきだった。自分の背中を見上げていたであろう娘に気づいて、二度と離さないよう抱きしめてやるべきだった。護ってやるべきだった。親として支えてやるべきだった。

 

 だが、護るべき娘はもういない。桃子が残した忘れ形見は、士郎を置いて消えてしまった。果たして生きているのか、死んでいるのか。それすらも分からない。

 

 士郎がすべき事は復讐ではなかった。娘をきちんと育てることだった。育てなければならなかった。

 

 きっと桃子が今の自分を見たらぶん殴るに違いない。それほどまでの過ちを士郎は犯してしまったのだから。

 

 そして、男は一人。部屋の中で慟哭し続けた。

 

 もし、叶うのならやり直したいと泣き続けた。

 

 けど、その時は永遠に訪れないだろう。もう、何もかも変わってしまったのだ。

 

 ただ一つの儚い希望は、日記に残された娘の希望を叶えるために、待ち続けることだけ。

 

 そう、士郎にはもはや待ち続けることしかできないのだった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。