凍てつく吹雪に揺られながら少女は歩みを進める。その足取りは決して軽いものではなかった。
纏わりつく雪を払い除け、無心で脚を前に出す。午の刻に差し掛かる頃、ひと月ほど前に訪れた集落が目に入った。
「変わりないようで良かった」
「えぇ、うちは…」
「そうか…また誰かが」
「舟橋さんの所の次男坊が死んだって聞いたよ。可哀想にねぇ、まだ若いのに」
少女と齢五十近い夫人は暖を挟んで顔を見合わせた。
隙間風の多い旧い家屋は風を受け、一定の間隔でギシギシと音を立てる。
「死因は聞いたかい…?」
「いいや、聞いていないよ。でもきっと…」
「栄養失調か」
「恐らくはね。今の御時世、珍しいことでもないだろう?」
「そうだな。隣の集落でも二人、栄養失調で命を落としていた」
夫人は俯き、両手を合わせ擦り合わせた。
「
囁くように夫人が発した言葉。それを聞き、少女は夫人から目を逸らした。
彼女は夫人の言葉に一切の悪意が無いことを知っている。だからこそ、嫌悪し、憐れむ。
多くの人々から救世主の如く奉られる思兼。その人物こそが崩壊を
「それじゃ、そろそろ失礼するよ」
ぶつぶつと祈りを捧げる夫人を横目に、少女はゆっくりと立ち上がった。
「気を付けてね。今夜はまた一段と冷えると聞くから」
「気遣いは嬉しいが、私は大丈夫だ。凍え死ぬことはないよ」
建付けの悪い扉に手をかけ、一度頭を下げてから夫人宅を後にした。
船橋家の主人は少し変わった人物ではあったが、家族にも周囲の人々にも優しく、戦前から皆に好かれていた。
少女も何度か彼に会ったことがあり、人当たりの良い人物という印象を持っていた。
「私だ、開けてもらえるか?」
横吹きの雪と霜がこびり付いた扉を軽く三度叩く。
すると扉の奥からどたどたと駆け寄る音が聞こえ、勢いよく扉が開かれた。
「おぉ、いつぶりか。相も変わらず美麗な風貌だ」
「それはどうも」
「外は寒いだろう?さぁ、遠慮せず入ってくれ」
出迎えてくれたのは船橋家の長男であった。集落の中で少女と最も親しい人物でもある。彼は大戦時、前線の歩兵隊員として多くの
その際に心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患ったはずなのだが、それを感じさせぬほどの陽気さを持っている。
「腹が減ってはいないか?どれ、すぐにでも食事こさえよう」
居間というには物寂しい部屋に通され、過剰なほどの接待を受けた。
少女も悪い気はしなかったが、すぐに本題を思い出し、申し出を柔らかく断った。
「弟さんが命を落としたと聞いた」
「あぁ、なんと悲しきことか。二週間ほど前に息を引き取ったよ」
彼はわざとらしく涙を流す素振りを見せた、弟の死を茶化すように。
重苦しい雰囲気を嫌う彼の気遣いなのかもしれないが、少女はその行為に不快感を感じ、目を細めて睨みつけた。
「おっと、そんな顔をしないでおくれ。僕だって人の子だ。笑い話にしたいわけじゃない。弟が死んで本当に悲しいよ」
「ならもっと違う素振りを見せてほしかった」
「いつまでも悲しんでちゃいられないだろう?」
「それはそうだが……ちゃんと弔ったんだろうな?」
「勿論だとも。今では誰よりも近くに感じるよ」
少女と男は暫く問答を続け、時間は刻々と過ぎていった。
「そうさ、だから困ってるんだ。貴重な
「鹿の減少か、それは問題だな。
「その馬鈴薯さえも育ちが悪い。どうしたものか」
「弟さんも気の毒にな。そんな状況じゃ栄養失調にもなる」
「弟が栄養失調?はて、なんのことだか」
「何だ?違うのか?」
「弟は妖怪に殺された。決して栄養失調などではないよ」
「そうだったのか。悪い、勘違いしてた」
彼の表情に曇りはなく、嘘はついていない様子であった。
あまり死に際について踏み込むのも悪いと思い、少女は話題を変えた。
「そういえば父親はどこに?まだ姿を見ていないが」
「あぁ、父さんなら出かけているよ。そのうち帰ってくるだろう」
「こんな吹雪の中大丈夫なのか?」
「大丈夫、父さんは肥満体系だからね。これくらいの寒さなら問題ないよ」
事実、船橋家の主人は集落の中ではふくよかなほうであった。
少女も前に会った時のことを思い浮かべ頬を緩ませる。
「確かに、あの体系なら大丈夫そうだ」
「さて、我が家ではそろそろ食事の時間なんだ。どうだい?大切な話は終わった。食べていかないかい?」
「貴重な食料品だろ?私は最悪、食べなくても死なないんだ。遠慮しておくよ」
否定の意思も込めて席を立った。
「死なずとも腹は減るだろう?無理にとは言わないさ、僕のためだと思って食べていってくれ」
「そこまで言うなら分かった。でも奮発はするなよ?」
少女は断り切れずに再び椅子に座った。彼の押しの強さと、空腹が躊躇いを上回る瞬間であった。
「さぁ、召し上がれ。豪華とまではいかないが、悪くもないだろう?」
卓に並べられた料理はどれも色彩に欠けるものではあったが、状況を考えると華やかな品々だ。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
馬鈴薯と人参のスープを手に取り、真新しい木製の匙で掬う。
冷えた身体にはその湯気さえも心地よく感じられた。匙を口に運び、飲み込む。
味こそ薄いが、その温かさは全身に染み渡っていった。
少女の向かいに座る彼も、真っ先にスープを手に取った。考えることは同じらしい。
「悪くない。素朴ながらも美味しい」
「だろう?出汁取りもしたからな」
「へぇ、何の出汁を取ったんだ?」
「動物の骨からさ」
「本格的だな、そこまでやる奴はなかなかいないぞ」
「誰も彼も味があるだけマシと言うが、僕はそう思わない。こんな時代でもどうせなら美味しいものが食べたい、多少苦労をしてでもね」
半時間ほどで二人は全ての料理を平らげた。少女も身体が芯から温まり、失いつつあった気力を取り戻した。
「ごちそうさま、美味かったよ」
「お粗末さま。満足してもらえたようで嬉しい」
「再三悪いが、御手洗いを借りても?」
「構わないよ。そこから出て左の突き当たりにある扉だ」
「どうも」
尿意による焦りを覚られぬよう、ゆっくりと席を立った。
そのまま彼の指示通りに居間を出て左を向き、薄暗い廊下を直進する。
少女は左側、炊事場の扉が少し開いていることに気が付いた。
冷風が入ると悪いと思い、扉に手をかける。その時、炊事場の中が見えた。
「え……?」
ほとんど照明のない炊事場。夜眼のきく彼女は見てしまった。見えてしまった。
そこにあったのは内臓が抜かれ、保存が利くように加工が施された肉。
人の形をした大きな肉であった。
刹那、少女の脳裏に彼との会話が巡った。
「動物の…骨……?」
自分が取り返しのつかないことに巻き込まれている。そう気づいた時にはもう遅かった。
拒絶反応にも似た吐き気が彼女を襲い、胃の中の物を逆流させる。
「どうしたんだい…!?」
すぐに男が居間から飛び出してきた。彼は少女とその惨状を見て、察した。
一瞬、何かを考える素振りを見せ立ち止まったが、すぐに少女に近付いてきた。
「見てしまったんだね」
「人が人を喰らうなんて…気でも触れたかッ!?」
「仕方がないだろう。食料不足なんだ、特に肉が足りない」
彼は表情一つ変えず、少女を見つめる。
少女が取柄として捉えていた陽気さが今では不気味さを引き立てている。
「弟が妖怪に殺されたっていうのも嘘だったんだな…ッ!?」
「それは真実さ。弟は妖怪に殺された。狩りに出かけた時、襲われたんだ。そして重傷を負って、命からがら逃げ延びた。その後吹雪に見舞われ、遭難した。その日に弟は出血多量で死んだよ」
「まさか……」
「だから食べた。仕方がなかったんだ。食べ物が何も無かった。僕は人間だ、君みたいに不死じゃない」
彼の目に影が差した。悲壮感に満ちた瞳で少女を凝視する。
少女の腕を両手で強く掴んだ。その圧で骨が軋む。
「君だって美味しいと言って食べていただろう?」
「人の肉だと知っていたら食べなかったッ!!」
「でも一度食べたら病みつきになる。今なら妖怪の気持ちが少し理解できるよ」
「何を……言って」
「父さんよりは、君のほうが美味しいかもしれない」
「やめろ、放せ…ッ!!」
握り潰す勢いで彼は腕に力を込めた。激痛に耐えかね、彼女は―――――
船橋家は猛炎に包まれた。その数時間後、吹雪によって鎮火した。
少女は世の不条理を嘆き、彼を焼き払ったことを後悔した。そしてついには死を願った。しかし、それを叶えられる者はいなかった。
彼女の名は『