副題「人の不幸は他人の幸運」
―0―
直訳すると「無限の成層圏」。ここで意味するのは恐らく「無限の空」。ISとは開発者の夢を体現したものであり、人間が飛び回れる空は何処までも、宇宙すらも手の届く空であると豪語する物だ。
だがそれが幸せのみをもたらすかと問われれば、そんなに美味しい話は存在しない。いつだって幸せを享受する者がいれば、そのしわ寄せを食う者だっているのだ。
例えば、それは
ISによって、それまでずっと、そしてこれからもずっと一緒だと思っていた彼女の家族とも離れ離れになった。さらに初めて恋をした
時代は大きく変わった。男尊女卑から男女平等への転換を訴えていた世間は、女尊男卑へと変わった。
世界における発言力はISの開発力によって決まる。
そんな大惨事を引き起こした
―1―
電車に揺られながら外の景色を見る。外には家が少なく、森林や田んぼが多く存在する。きっと今のような状況でなければ、随分とリラックス効果があるはずだろうと思えるほどだ。
彼女、篠ノ之箒は政府の人間に渡されたどこにでも売られているような地図と父が書いた手描き地図の2つを見る。駅のある商店街から遠く離れたところにある所、そこに大きな丸が付いている。父からは、そこにこれからお世話になる家があると教えられていた。
さっきから箒を監視する人の目がある。ここまで付き添ってくるなら素直に道案内すればいいのに。そう思わずにはいられなかった。
仮宿泊していたホテルから新幹線と電車で移動すること半日。遂に彼女がやってきた村は随分と寂れた場所だった。
駅前の地図を見るとわかる、小中学校が同じ建物にあり、さらに高校に行くのにも遠く離れた街まで電車で長時間移動しなければならないような所だった。
今まで住んでいた所との違いを感じつつも、地図に示された所へと歩き始める。
―2―
碌に整備されてない道を数十分歩いた末にようやく目的地に辿り着く。季節は春から夏に移り変わる頃。恋心を抱く少年から貰ったリボンで髪を結い首元を晒し、持ち物は最低限の物しか持ってないが、それでも道中の山を歩いているうちに汗をかいた。
荷物からタオルを取り出し汗を拭く。これから人に会うのだ、汗だくのままではマズイと考えた。
辿り着いた先にあったのは大きな屋敷だった。美しい庭が存在し、庭の一角には趣のある道場が建ててある。しばらくの間、目を奪われていた箒であったが自分の目的がまずここに住む人と話をすることだったと思い出し、門をくぐり中に入って行く。
綺麗に整えられた庭を抜け、大きな玄関扉までやって来る。呼び鈴が無いか探すものの見当たらないため、扉を叩く。
ギシギシとすりガラスと木の扉がズレる音が響く。
「どなたかいらっしゃいませんか」
大きな声で人を呼んだものの、少し待っても返事が帰って来ない。人が居るか分からないほどにこの屋敷全体が静かすぎる。
箒はこれから大丈夫かと心配に思っても仕方がない。更に待ってみるものの、人が来る様子はない。なんなら人がいる気配すら感じない。
長時間の移動や晒されている現状によって心身ともに疲れた彼女にとって今の事態は辛いものであった。我慢しようとしても、箒の目尻に涙が溜まっていく。
もう一度呼び掛けて、それでも人が出て来なければ、商店街まで戻りここに住む人について尋ねるか何処かに一泊させてもらおう。
幼いながらにそう思い再び扉を叩こうとすると、家の中から慌ててこちらにやってくる足音がした後、渋い音を立てて扉が開かれた。
そこから現れたのは真っ黒な着流しを着た男だった。髪は濡羽色、そして黒曜石のような瞳。その真っ黒な瞳に箒は吸い込まれる様な感覚を覚える。
「すみません。準備をしていまして、呼び出しに応じるのが遅くなってしまいました」
男はうっすら首元に汗をかいていて、その言葉に嘘はないようだ。また男は、箒の目が潤んでいることに気が付き言葉を続ける。
「出るのが遅くて不安にさせてしまい申し訳ありません。ここまでの道のりで汗をかきましたよね? 冷たい麦茶を用意してあるので、どうぞ中にお入りください」
―3―
箒は男に連れて来られた居間に座る。男の言葉の通り程よく冷えた麦茶が出される。一口飲む。市販のものと違う味がした。もしかしたら彼が手作りしたのかもしれない思った。
乾いていた喉が潤いを求めて更に一口。コップに入っている麦茶がなくなるのと同時に、箒の向かい側に男が座る。その際に、空になったコップに麦茶を注ぎ足す。
「貴女が篠ノ之箒ちゃんですね」
「……はい」
これから彼女は彼の家にお世話になる事を父親から言い渡され、その事を十分に理解はしていた。しかし、心のどこかにはそれを受け止めきれてない自分がいた。
その為、図らずもその気持ちが返事に現れてしまい、ぶっきらぼうな返事になってしまう。謝ろうとするが何と言っていいか分からず閉口してしまう。
「大丈夫ですよ」
「え?」
「こんな小さい時に親から離れるのは大層大変なことです」
箒の心中を察しているように男は話す。黒い瞳に心の隅から隅まで覗かれている錯覚を覚える。
「ここを自分の家だと思うように、なんて難しい事は言いません。ですが、それでも篠ノ之ちゃんにとって安らげる場所くらいにはなって欲しい、と私は思っています。だからあまり気張らなくて良いのです」
優しい口調で、そして柔らかな笑みを箒に向ける。箒は彼の事を父から少しは聞いていた。理由は分からないが、揺らめいていた箒の心は落ち着きを取り戻す。
「篠ノ之ちゃん付いてきて下さい。貴女の部屋に案内します」
「…きでいいです」
「はい?」
「箒で良いです」
別に心を許したわけではない。ただ、ここまで来て常に気を張っているのが嫌になったから。そんな軽い理由だった。
「分かりました。では箒、行きますよ」
男は笑顔で箒の名を呼んだ。
連れて行かれた部屋は箒が想像しているよりも広い部屋であった。それは箒の荷物がすべてダンボールに入っていることを含めても広い。
「この家には私しか住んでいないので部屋は沢山あります。気兼ねなく使ってくださいね。必要そうな家具は全て準備したつもりですが、足りないものがあったら言ってください」
それでは、と晩御飯の準備のために台所に向かおうとする。箒はまだ聞いていないことがあり、彼の服を掴む。
「どうしたのですか?」
「名前を、名前を教えて下さい」
父親からもそして本人からもまだ伝えられてなかった名前を尋ねる。
「私の名前は雨宮白夜です。箒の好きなように呼んでください」
彼の名を一生彼女は忘れないだろう。
例えどんなことが起ころうとも。
―4―
箒が白夜のもとにやって来てから数週間が経っていた。学校の方は箒がこちらでの生活に慣れるまでは自主休校、具体的に言えば夏休み明けまでは休む事になった。これは白夜に突然言われたことだった。
暦は6月。日に日に気温が上がり、服装も爽やかな物へと移ろい始める。
ようやく新たな場所での生活に違和感を感じなくなり始めた箒は、ここに来るまでの日課であった朝の素振りを再開することにした。
庭で父からもらった竹刀を振る。
数十回。その日の予定回数を振るい終える。縁側からその様子を眺めていた白夜から冷えたタオルを貰い、大粒の汗を拭く。程よく冷えたタオルが火照った体に心地よい。
「白夜さんは何か武道やってないのですか?」
先日の白夜との会話が頭の中に蘇る。
日課の素振りをすると伝えた際に「道場を使わないか」と尋ねられたのだ。なんでもしばらく使っていないので、もし使うなら掃除をする必要があるから、らしい。
流石にそこまでの用意はいらない為その申し入れは断った。だが、その時少し違和感を覚えた。
白夜の立ち振舞はとても、と頭に付けても足りない程完成されていた。四肢の動かし方、重心の移動、どれを取っても素人ではない事が分かる。
それ程の人なのだ、道場を日常的に使わない訳が無いと考えるのが当然である。
結局その質問に対する答えは上手にはぐらかされてしまった。それがもどかしくて、もう一度聞いてみよう。そう思ったのであった。
先日と同じ質問に白夜はどう答えるべきか考える。以前答えを濁したのは箒の実力を知らなかったからだ。
以前から関わりがある【篠ノ之】の家系だからと言ってもその時代によってその才能は大きく変わっている。例えば今代の当主、篠ノ之柳韻は今の時代に合わせた実力となっている。
ならばその娘の箒も、と思い答えを濁した。もしそこで肯を返すと、それは師を失った箒の師を担うのと同義である。別にそれが嫌というわけではない、ただ柳韻程度の実力ならば潰してしまうと思ったからだ。
だが今は違う。箒の実力はこの目で見た。もしタイムスリップをして先日の自分に何かを伝えられる事が出来るのならば、箒の実力を伝えたいほどだ。
「そうですね…」
となれば後は白夜の心の問題だ。自分の様に矮小で、人の道から外れた者が無垢な少女を導く師となって良いのか。そんな小さく大きな問題だけだ。
「見てもらった方が早いでしょう。付いてきてください」
―5―
連れて行かれたのは、白夜の家の中で最も存在感を放つ道場だった。掃除をしなければならないと言っていた割には掃除され整備されている。
「先ほどの質問に対する答えは『否』です。私が武道をやっているなどど言えば、武道家全員に否定されるでしょう」
竹刀立てから一本の竹刀を手に持つ。
瞬間、白夜の雰囲気が変わる。一本の鋭い刀。持っているのが竹刀にも関わらず、触れてしまえば斬られてしまうと心が訴えている。
「私が剣を振っていた理由は一つ」
ゆらりと、風が自然に吹くかのように違和感なく竹刀を上段に構える。そして切り下ろす。
空気が死んだ。
よく分からないが箒にはそう思えた。
「ただ殺すだけ。私はその為に剣を振るってきました。これが私が箒に示す答えです」
竹刀立てに竹刀を戻す。そして道場に入ってから初めて箒の顔を見る。それだけで白夜は箒の心を理解した。
私の目に狂いは無かった。
剣に魅了された小さな少女。この娘を正しく導くのが自分の為すべきことだと。これまでの日々はこの日の為の前座でしかないと。これは信じてすらいない神が齎した必然の出会いであると。
「ところで箒。貴女には今師が居ないのですよね?」
「はい」
「ならば私を師にしてみませんか。いえこの言い方は正しくない、私に師をさせてください。貴女を今世紀最強の剣客として導きましょう」
箒の答えは勿論一つしかない。
―Blank―
嗚呼、柳韻殿。
貴方は何て罪深いことをしてしまったのでしょう。あの様に可憐で苛烈な少女を私に渡してしまうなんて。
彼女は強い。正しく導けば何処までも成長する事だろう。私にはない人間性、やはりそれが成長には必要だと貴方が知っていたお陰です。
今はショックで草臥れ、弱っている心。それは成長に必要な壁でしかない。それを刀で切り伏せる度に彼女は強くなる事でしょう。
彼女に多くの困難が訪れることは確定している。姉が発明したISによるしがらみも今後増えることでしょう。彼女はそれを見事に斬り捨て、自らの糧とするに違いありません。
嗚呼、彼女がいつか私をも斬り殺してくれる事を望み私は彼女を育てましょう。
雲一つない夜空に、欠けた部分の無い月が煌々と輝く時。男はお猪口から一口酒を含む。こんなにも幸せな事があった日の酒はまた格別であった。