帝都の真下に広がる地下道は広大である。大昔からある物をそのまま利用していたり、また近年における急速な市街地拡大に伴い、下水施設などのために拡大していたりするため、その広大さは帝都庁でさえ正確に把握できずにいるほどだ。
とはいえ、古くからそれを利用してきた者達にとっては(利用していた範囲において)ある程度は把握できており、色々と活用してきたりしていた。
周辺に迷惑をかける“団体行動”や廃棄物の処理――そして“表”では決して出来ないような取引や逃走経路。日頃から地下道を活用する者達は、概ね”そういった稼業”についている。
「――――」
苛立ちを隠さずに地下道を歩く男も、その一人であった。装飾が多く、どこか貴族のような出で立ちの男――ネシード・ネイリはチッと舌打ちを放ち、手近な壁に拳を叩き付ける。
「くそ、なんで俺が……!!」
彼が地下道を一人歩いているのは、昨日の一件が関係していた。唐突に表れた仮面の男によって拠点は半壊状態になり、部下達はほぼ全員病院送りにされてしまった。これでは組のメンツは丸つぶれどころか、組が潰れたも等しい。
下手をすれば――いや、下手をしなくとも、近いうちにブレイツロックから言い渡されるだろう。幹部席からの降格を。これだけやらかしたのだ、当然の結果だろう。
「俺が何をしたっていうんだよクソッ! あの仮面野郎、いきなり襲いかかって来やがって……っ!!」
憎らしげに歯を噛みしめながら恨み言を口にする。――だが本当は、自身の部下が勝手に襲いかかっていったと言うことを彼は知らないし、それに自分の方から一方的に銃を向けたという事実も都合良く忘れていた。
こちらから襲いかかって、逆に全て返り討ちに遭ったのだ。後者は本人に問題があるとして、前者に関しては部下の血の気が多かったが故に起こった事件である。
だがそれは、ネシードの”部下の教育”に問題があったとも言えなくはない。詰まるところ、責任の大半は彼にあったがそれを自分に都合良く解釈し、または忘却していたのだ。
――本人は知らない。そのような男だからこそ、扱いやすいと目を付けられていたと言うことを。
「あら、奇遇ですわね。ネシード様」
「っ!」
不意に横手から声をかけられ、ネシードは慌ててそちらを振り向いた。ねっとりと絡みつくような艶のある声音に、聞き覚えがあったのだ。
振り向いた先には、やはり見知った顔がそこにいた。小顔で切れ長の瞳に整った顔立ち。体つきも豊満であり、世の男達が美女と太鼓判を押す風貌をした女性である。概ね二十代頃だろうか、彼女はにっこりと笑みを浮かべながらネシードの元へ近づいていく。
「あんたか……一体何のようだ?」
彼は女性を見やり、一瞬息を吐き出して努めて冷静な声音で問いかけた。苛立ちを見事に隠したその切り替わりの速さに気づいているのかいないのか、クスクスと笑いながら女性は告げる。
「いえ、昨日のことを彼から聞きまして。災難でしたわねぇ……彼に関しては、私の方からもきつく言い含めておいたので、ご容赦下さいますよう」
「………ふん」
恭しく頭を下げて謝罪してきた彼女を見て、ネシードは鼻を鳴らした。溜飲が下がったわけではないが、多少は燻る思いを抑えておこうとは思えた。だがそれでも、口に出さずにはいられなかった。
「まあいい。ならあの仮面野郎をしばらく俺の所に貸してくれ。それで充分だ」
「う~ん、私としてはそうしても構わないのですが……彼は、私が個人的に契約している空賊団の船員なので……彼のリーダーに話を通して貰わないと」
ネシードの頼みに対し、女性は困ったように小首を傾げながら、それは難しいと告げて来た。その言葉にチッと舌打ちをするものの、すぐにあることに気がついた。
(それよりも、今空賊団と言わなかったか? 猟兵じゃねぇのか……?)
猟兵――それは金で雇われる”傭兵”の中でも、優れた者達のことを指す言葉である。昨日見せつけてくれたあの実力から、さぞ名のある猟兵だと思っていたのだが、まさかの空賊団であった。腑に落ちないとばかりに表情をしかめたネシードに、女性は笑みを浮かべながら口を開いた。
「正確には、元猟兵だったようですよ」
「……そうか」
――口に出していないはずの疑問に、女性は答えてきた。そのことに若干の不快感を示しつつも、ネシードは納得する。つまり猟兵団からドロップアウトした者か、もしくは何らかの理由で縁を切られたか。それはともかく、ただの空賊団なのだとしたら。
「なら、あんたの方からその空賊団に伝えてくれ」
「えぇ、良いですわよ。一体どのような言伝を?」
「俺に協力すれば、お前達をブレイツロックの傘下組織として迎え入れる。裏社会じゃ帝都最大の組織だ。お前達にとっても、悪い話じゃないはずだとな」
「えぇ、承りましたわ。流石は次期“党首”、器の大きさも帝都随一ですわ」
ネシードの言葉を聞いて、恭しく頭を下げてくる女性を見て、ネシードはようやく頬に笑みを浮かべた。そうだ、俺は今の三代目を蹴り落として、ブレイツロックの”四代目”になるんだ。ならそれに協力してくれた奴らに恩を返すのは当然のことだ。
女性の言葉に気をよくしたネシードであったが、しかしすぐに今の自分の現状を思い出し、苛立ちがぶり返してきた。浮かべた笑みが数秒と持たずに消え、剣呑な雰囲気を漂わせながら呟く。
「だが……今の俺じゃ、その空賊団を納得させるのは難しいよな……?」
「そうですわねぇ……」
件の空賊団一人に、部下の大半を失ってしまったのだ。これでは協力しろと頼み込んだところで、向こうが拒否する可能性がある。現に昨日の夜に勧誘したのだが、あえなく断られている。
逆に向こうの気が変わり、協力してくれたとしても、こちらを下に見てくるに違いない。そうならないよう、あくまで対等の立場で協力関係を結ぶには――
「彼らも、独自の理念を持っていますので……そうですね、あなたが上に立つに相応しい人物と認めれば、あなたの命令にも従うことでしょう」
――また”綺麗事”か。胸中に過ぎる不快感に、ネシードは険しい表情をさらに険しくさせた。だがそれで何かが変わるわけでもない。やがて彼は諦めたように首を振り、
「要は力を見せて認めさせれば良いのだろう? だが今の俺は――」
「だからこそ、私もあなたに協力しますわ」
女性はネシードの言葉を遮り、胸元から小さなペンダントを取り出し、それを彼に差し出した。困惑したかのように眉根を寄せる彼に、女性は妖艶な微笑みを浮かべながら、
「あなたは次期党首になるお人。あなたでしたら、この局面を乗り越えることが出来ますわよ。これは、そのお手伝いにと」
「……これは?」
――流石の彼も、何かがおかしいと警鐘をならした。このペンダントを受け取ってしまえば、引き返せなくなると。差し出されたそれをじっと見て、そして女性へと視線を移す。
「……どうしたのですか? もしや……私の力は不要なのでしょうか……出過ぎた真似でしたでしょうか……」
――潤んだ瞳と悲しさを表した声音に、彼は何も言えなくなってしまう。これはおそらく演技だ、しかし――その表情に、ネシードの“男”の性は抗えなかった。理性を瞬く間に解かしてくる“色香”を漂わせる彼女に引かれるように、彼はそのペンダントを手に取った。
「――まぁ。……ふふ、ありがとうございます……」
ネシードがペンダントを握りしめたのを見て驚き、そして心底安堵したかのような笑みを浮かべた女性を、彼は無表情に見つめていた。
「――面白いですわねぇ、彼。たかがチンピラの集まりのごとき組織を、”裏社会随一”と呼ぶなんて」
その場を立ち去っていったネシードの後ろ姿が見えなくなると、クスクスと笑いながら女は呟いた。確かにブレイツロック――ヤクザ者の組織は裏社会において“それなり”の知名度を誇っているだろう。
だが、”本当の裏社会”においてならその評価は地に落ちるだろう。全く知られていない、ということはないだろうが、知る人物は少ない。そんな組織の頂点に立つことに野心を抱く”小さな男”に、彼女は笑いを堪えられなかった。
「井の中の蛙だと言うことを知らぬままに、己の小さな野望を大望と信じ夢見る……なんて可愛らしいのでしょう。――そうは思わなくて?」
「っ……」
優雅に口元を押さえながら笑う女性は、ひっそりと物陰から事の成り行きを見守っていた男に問いかけた。その問いかけに動揺する気配を感じた物の、やがて諦めたかのようにどうどうと物陰から姿を現した。
「気づいていたのか。一体どの辺りから気づいていた?」
「そうですわねぇ……私が帝都駅の前を通り過ぎた辺りから、と申しておきましょうか。……ふふ、ストーカー行為には慣れておりますが……貴方のそれは、中々堂に入ったものでしたわよ?」
「…………」
男は表情をしかめながら、何か言いたいことがあるのか口元をヒクヒクさせていた。ストーカー行為になれていると言ったが、それは両方の意味――されるのも、するのも得意だろうに、という嫌味を言ってやりたかった。
「……奴を直接呼び出すのは止めろと言っていただろうに。どういうつもりだ?」
「あらやだ、彼の方からこちらにやってきたのですよ?」
断じて、彼を呼び出したりはしていません、と女は言いつのるものの、男はそれを素直に信じることは出来なかった。――果たして本当に、この広い地下道で”偶然出会う”ことが容易に可能なのだろうか。
「運が良いので、彼にちょっとした頼み事を。どうやら”あの子”は支える篭手達によって守られている様子ですし。いくらあなた達と言えども、”篭手”と全面抗争をするつもりはないのでしょう?」
「………」
男は女性の言葉に無言を貫いた。それを肯定の無言と受け取ったのか、女は浮かべていた笑みをますます深めて、
「なので、まずは篭手達を引きはがす策をあの方に……そういえばあの方、名前を何と言いましたっけ……?」
「……痴呆は治らんぞ」
「ひ、ひどいです! 私はまだ若いですわ!! 少なくとも、若いはずです!!」
呆れたように呟いた一言に、女は顔を真っ赤にさせて感情的になり、強く否定した。先程までの雰囲気をぶちこわしたその反応に、男ははぁっとため息をついた。
「それで? ネシードに一体何を渡した?」
「あぁそうです、ネシード様。えぇ、覚えていましたとも。ちょっと名前が出てこなかっただけですわ」
先程の発言が地味にダメージを受けているのか、うんうんと言い訳のようなことを呟きつつも、にっこりとした(男からすれば)いやな笑みを浮かべて、
「先程言った策の”要”になる物ですわ。……時にあなたは、”黄昏”時をどのように思っていますか?」
「黄昏時?」
唐突に呟いた女の言葉に、男は眉根を寄せた。黄昏――というのは、日が沈み、夜になるまでの僅かな時間帯――概ね夕方頃のことか。それをどう思っているか。
「……一日の終わり……それぐらいだな。それがどうかしたのか?」
「ふふ、確かに普通ならばその程度の認識でしょう。……ですが私にとっては、黄昏時というのは、生と死が混じり合う頃だと思っています」
口元を隠すかのように笑う女性に、意味が分からないと男は首を傾げた。生と死が混じり合う――まるで何か怪しい宗教のように思えてきた。胡乱げな瞳で女を見やるが、彼女はそれを無視して己の持論を口にしていく。
「昼は生者の世界、夜は死者の世界……黄昏時というのは、その二つの世界が混じり合う時間帯。……故に私は、あのペンダントを”黄昏のペンダント”と名付けました」
「黄昏のペンダント……」
あのペンダント――ネシードに渡したものか。それの名前を聞かされたものの、その話の内容から宗教関連に思えて仕方がない。信心深いとは言えないが、それでも空の女神を信奉する者としてはやや眉根を寄せて女を見てしまう。
「一体どういうことなんだ? 回りくどく言わず、直接的に――」
「――あなたは”あの子”のことを知るでしょう。さすればあなたは、以前私が言った言葉が、ただの世迷い言ではないと確信する」
「………」
女の自信に満ちた言葉に、男は口を閉ざして固まった。世迷い言――この女の口から出る言葉の大半はそれに近いが、それでもすぐに察することが出来た。この女のことを、半信半疑ながらも協力するきっかけとなった言葉を。
『――あなたの目の前には、”越えられない壁”がある。一生かけても乗り越えられない壁が。なぜそんな壁が目の前にあるのか、疑問に思ったことはありませんか?』
『答えは簡単です。なぜなら――“この世界は、そういう風に出来ているから”』
『馬鹿げているとは思いませんか? 巫山戯ているとは思いませんか? もしそう思っているのなら……貴方の力を、私にお貸しただけませんか?』
その言葉を世迷い言と断じながらも、応じるつもりになったのは――きっと、感じる物があったのだろう。自分でも分からない思いに、彼は女を警戒しつつも力を貸すと決めたのだった。
「……力を貸すと決めた以上、貴様の願いが叶うまでは付き合ってやる。だがその時までに、俺が納得できなかったら、その時は――」
「えぇ、存じております。……貴方が乗り越えたいと願った”壁”も、後少しです」
重みを感じさせる口調の男に対し、女はふふっと笑みを溢しながらちらりと流し目を送ってくる。妖艶さを感じさせるその瞳を容易く受け流し、男は胸ポケットから取り出したサングラスを自身にかけた。
「そう、後少し……ですから――貴方の後ろに控えている“毒使い”を遠ざけてはくれませんこと? 私、あの方が怖くて怖くて……」
「何のことかさっぱりだが。ともかくその毒使いも、貴様が何もしなければ何もしてこないのではないか? 詳しくは知らんが」
流し目が通じないと分かると、女はちらりと地下道のとある方角を見て体を震わせた。ここ一帯には人の気配など皆無であり、何を言っているんだとばかりに男は首を傾げてそう答えた。――その言葉の裏にある真意に、女は不満げな表情を溢した。
「それとも――何かするつもりがあるのか?」
「――ふふっ。いけずなお人……ですが……私、最近そういういけずな殿方とばかり関わりを持っていまして……そういうプレイに目覚めそうですわ」
「勝手にやってろ」
「あら、つれない……本当に目覚めそうですわ……では」
瞳の奥にうっとりとした光を宿らせ、ねっとりとした口調で迫ってくる女から距離を取りつつ、男は吐き捨てた。その態度に、これは無理だと悟ったのだろう、すぐに表情を改めた女はにこやかに一礼をしてその場から立ち去っていった。その姿が完全に見えなくなった後、男は様々な不快感を込めて毒をはく。
「……”250歳越えの性悪魔女”め……」
サングラスをかけた男は懐から取り出した煙草を口にくわえて火を付ける。ふぅ~、とこれまでの苛立ちを吐き出すかのような一服をしていると、唐突に声をかけられた。
「――あの女、放置して置いて良いのですか?」
声をかけられて、ようやく男はその人物に気がついた。それまで完全に気配を殺し物陰に隠れていたであろう”毒使い”は、警戒心を高めて女が立ち去った方角を見ていた。
毒使いを遠ざけろと女が言ったとき、完全にこちらを見ていたのだ。やはりあの女はただ者ではない――ここで始末しておかなければならないと、暗殺者でもある毒使いは警鐘を鳴らしていた。
男はふぅ~っと一服をしながら何かを考えている様子であった。口から離した吸い殻を捨てようとして、そこで思い留まった。――身内に口うるさい”清掃業者”がいたことを思い出し、苦笑いを浮かべて、
「今はまだ良い。少なくとも、あの女の目的と、その結果を見るまではな……それと、お前にも矜持があることは理解しているが、これ以上”あの人”には手を出すな」
――以前身内の一人から聞いた毒使いの行動に、しっかりと釘を刺しておく。暗殺者にとって、”顔を見られた”という事実に対する対処方の一つが「口封じ」になる。そう、毒使いは”あの人”に顔を見られているのだ。――二年前の、クロスベルでの一件で。
「………」
数日前、帝都駅で起こった狙撃事件のことに対し釘を刺された毒使いは、先程の提案も退けられたこともあり、やや不満げな雰囲気を漂わせながらも頭を下げて了承する。
「それともう一つ、お前には苦労をかけるが頼みがある。――例の空賊団について、情報を集めてくれ」
~~~~~
その日の夜、アニーはヴァンクール大通りにある実家の方へ顔を出していた。実家はレストランを経営しており夜間も営業しているが、もう深夜とも言える時間帯のため、お客さんはいないはずだ。
この時間帯なら、少しは落ちつくことも出来るはず。昨日耳にしたネイリ一家の一件以来、自分でも分かるほど動揺してしまっていた。おかげでレオンやダーゼフはもちろん、エルガやナギサといった子供達にまで心配されてしまう始末。
「……はぁ……」
思わず深いため息を溢してしまう。原因は分かってはいるが、解決する手段がない――ため息をつく彼女を心配したエルガは、う~んと悩みながら頬をかく。
「……あの、アニー。俺なんかでよければだけど、もし悩みとかがあるんだったら聞くよ?」
営業時間外のはずのレストランに彼がいるのは、ひとえに彼女を心配してのことだった。いくら遊撃士とはいえ、夜間に女性を一人で出歩かせるのは感心できず、さらに彼女の調子もよろしくないとのことで、彼が実家まで送ることになったのだ。
その後は、店の店主――アニーの伯父である――が送ってくれたお礼と、もう遅いからと言うことから、半ば成り行きで一泊させてもらうことになった。現在カウンター席で二人は横並びになって話をしているところである。
「あははは……うん、ありがとう。でも大丈夫よ」
「………」
大丈夫と笑顔を浮かべながら言うものの、その微笑みは強がりから来るものだと言うことははっきりとわかってしまった。今度はエルガがため息をついて、
「……そういう風に大丈夫って言われても、全然安心できないんだけれど」
「あう……」
本人も自覚しているのだろう、彼の指摘に困った表情を浮かべて口ごもった。だが進んで話そうとはしない雰囲気は感じ取れる。これ以上は、こちらから話しやすいようにしなければ聞き出すことは出来ないだろう。
「……やっぱり、例のネイリ一家のこと? 昔何かあったみたいだけれど……」
「………」
言ってから、少し直球過ぎたかと後悔するエルガ。押し黙ってしまったアニーとの間に、気まずい雰囲気が流れ――やがて彼女は髪の毛をかき上げてふふっと微笑んだ。色の薄い金髪がさらりと揺れ、彼は思わずドキリとしてしまった。
「……私、遊撃士になる前はお医者さんになりたかったの」
「それは……うん、サラさんから聞いたよ。けれど、ネイリ一家のせいで諦めたって」
「あはは……そこまで言ってたんだサラ。……うん、色々あって、諦めちゃった」
微笑みを浮かべながら言葉を溢すアニー。しかし微笑みの裏にある無念さを隠しきれておらず、エルガにも何となく察せられたのだ。
「……私のお母さんがお医者さんで、お父さんがこのお店の店主だったの。二人ともいつも優しくて、笑顔で……。お父さんはここで毎日美味しい料理を作ってお客さんを喜ばせていて、お母さんは小さな診療所で働いていて。私は、そんなお父さんのお手伝いをしていたんだけれど、でも正直お医者さんだったお母さんに憧れていたんだ」
アニーが語る彼女の家族関係。父はレストランの店主として、母は医者として働き、彼女はそんな両親を見ながら育ってきたのだろう。昔を語る彼女は幸せそうなのが伝わってくる。両親のことが好きだったのだろう。
「だから将来は、お医者さんになろうって決めてがんばってきたんだ。お店の手伝いの合間に、医学について学んだり、お母さんの職場を見学したりしてね」
かなり大変だったんだけれどね、と最後に付け加えたアニーだが、その表情はどこか満足げに見えた。彼女の言うとおり大変だったのだろうが、それでも充実感も覚えていたのだろう。しかし、そこから彼女の表情は曇り始めた。
「けれど……ある日お母さんが働いていた診療所が閉鎖されることになったんだ」
「診療所が閉鎖? それはなんで……」
「診療所があった区画で、土地開発の話が起きたの。それで元からそこにいた人達は立ち退きを余儀なくされて……多くの人はミラを貰って他の区画に引っ越しするっていう話になっていたんだけれど、診療所の院長さんが、それに猛烈に反対したんだ」
「土地開発……」
その言葉をエルガは無意識に呟いていた。――ブレイツロックの話にも出て来た単語であり、彼は眉根を寄せる。別に何でもないのだろうが、気になってしまった。
「反対し続けていたら、次第に嫌がらせが起きるようになったの。診療所の前にゴミが置かれたり、落書きされたり……ガラの悪い人がたむろするようになったりしてね。そんなことになっていたら、悪い噂も広がって……」
「………」
当時のことを思い出しながら伝えてくれているのだろう、悪質な悪戯に対し、悲しそうに、悔しそうな感情を抱きながら彼女は口を開いている。そんな彼女を見ていられなくて、しかし視線を外すことは、彼女に失礼だという思いから、エルガは彼女を見続けた。
「それでも院長さんは反対し続けていたんだ。けれど……もう五年前かな、ネイリ一家って名乗るヤクザが騒動……暴力沙汰を起こしたんだ。」
「……もしかしてさっき言っていた嫌がらせって、ネイリ一家が……!」
悲しげに、そして悔しげに呟く彼女の言葉を聞いていくと、エルガは一つ脳裏に過ぎる物があった。先程語った、診療所で発生した諸問題。それを実行したのが、ネイリ一家ではないのかと。その推測に、アニーは無言で頷いた。
「それまではあくまで嫌がらせだったのだけれど……その時は、診療所で大暴れしていって。院長は大怪我を負ってしまって、お母さんは……その時診療所の手伝いをしていた私を庇って……亡くなったの」
「………」
小さく呟く彼女の言葉から伝わってくる悲しみ。何でもないように努め、淡々と事実を語ろうとするその口調がとても痛々しい。彼女の過去を聞きながら、エルガは拳を強く握りしめていた。
五年前、まだ少女だった彼女は、その一件でいったいどれほどの傷を負ったのだろうか。憧れていて大好きだった母親が、自分を庇って死んでしまった。――おまけに、ロサウェル家に起こった悲劇は、それだけではなかったようだ。
「そして……一体どういう手品を使ったんだろうね。殺人を犯したネイリ一家は、一切罪に問われることはなかったの」
「――何、それ……」
「それどころか、帝都庁は私達の方に対して、彼らに”慰謝料”の請求を命じられたの」
「……本当に、どうなってるんだよそれは……っ!!」
あまりにも理不尽なその対応に、エルガは思わずカウンター席のテーブルに拳を叩き付けた。一体なぜそんな馬鹿げた話しになってしまったのか。そもそも慰謝料の請求を命じられたと言うことは、帝国政府も一枚絡んでいると言うことか。
「まさか、ネイリ一家は帝国政府から……!!」
「……そうかも知れないわね。でも私は……真実を知ることを諦めた」
――怖かった。その真実を知れば、今度は自分の方へと災いが降りかかるような気がして。だから本当に帝国政府がこの一件に関わったかどうかはわからない。
「その一件があって、誰よりも土地開発に反対していた院長は夜逃げして、慰謝料を払うためにお父さんはすごくがんばって……借金はなかったけれど、貯金もなくなって……お父さんも最後には体を壊してそのまま……」
「………………」
――かける言葉が見つからない。表情を険しくさせて、拳どころか体全体を振るわせて怒りを露わにするエルガを見て、アニーはふっと口元を和らげた。他人の事情を聞いて激しい怒りを見せた彼に、優しい子だなぁと、そんなことを思ったのだ。
「……だから、最後に残ったこのお店を守りたい……そう思って、夢を諦めて遊撃士になって、事情を知っていた伯父さんやダーゼフさんの力を借りながらここまで来て、何とか立ち直ってきて。……けれどまたヤクザ者が、”ネイリ一家”が関わっているって聞いたら……」
思えば彼女はC級正遊撃士だというのに、地下道でヤクザ者と対面した際、どこか気弱な面を見せることが多々あった。あれは単純に、彼らの雰囲気に飲まれていたからと思っていたが、考えてみればC級ともなればそれなりに場数を踏んでいるはずだ。
あの気弱には、ヤクザ者と関わったという”トラウマを刺激された”ことが原因だったのか。それはつまり、彼女はまだ過去の一件を、夢を諦めたことを、まだ乗り越えられていないのだということ。――それが、彼女の不調の原因か。
「ごめんね、エルガ君は私よりも年下なのに、こんなこと言っちゃって。年上なのに、こんな弱音吐いちゃって――」
「――弱音を吐いても良いと思う。そうやって自分の弱いところを吐き出していかないと、胸の内に溜まっていって……傷になると思うから」
「え……」
見苦しいところを見せたと、今にも泣き出しそうな心情を隠して苦笑するアニーに対し、エルガは首を振って自身の胸を押さえた。弱音を吐いても良いと、むしろそうするべきだと語る彼に、アニーはきょとんとする。――その時の彼の表情はよく見えなかったが、何かを押さえつけるかのような、そんな表情をしている気がした。
「エルガ君……?」
「アニーはまだ、夢のことや、ご両親のことを乗り越えていないんだろ? 乗り越えられないまま、その元凶と関わろうとしている。……だったら、今回の件を通して乗り越えていこうよ」
「それは……でも……」
「きっとアニーの時間は、その時に止まってしまったままなんだ。だから乗り越えて……乗り越えることで、止まったままの時間を動かそうよ。そうやって、前へ進んでいこう。俺も……ううん、俺達も協力する」
「……ぁ……」
自身の手を包み込むように握りしめてきたエルガに、アニーは瞳を瞬かせた。彼の真剣な表情と眼差しと、そして歳不相応にゴツゴツとした硬い手――槍だこが出来ているその手はとても暖かった。その手から伝わってくる暖かさは、彼が真剣に自身を案じていることが伝わって来て。
「………」
「……って、アニー!? ど、どうしたの!?」
その暖かさと彼の言葉がじんわりと心に染み渡り、気づけば自分でも知らないうちにぽろぽろと涙が零れ始めた。自分が泣いていると言うことに気づいたのは、エルガが慌てた様子を見せた後だった。
そっと自分の目元に手を当てて、濡れていることに気づき、アニーは恥ずかしげに、しかし嬉しそうににっこりと笑みを浮かべて、ただ一言エルガに告げる。
「――ありがとう、エルガ君」
――止まったままの時計の針が、僅かに動いた瞬間だった。
知らないところで年齢をばらされる魔女様。原作の帝国史でもターニングポイントとして扱われている獅子戦役時代の魔女ですね。一体どういうことなのかは後々語られるでしょう。おそらく、きっと、多分。
そして主人公イベントを発揮するエルガ君。ーーさぁ、お前の罪を数えろ! ついで某警察官と某士官学生もだ!
前回後書きの続き
アニー
「趣味は……趣味は……ど、読書……かな?」
サラ
「……一応言っておくけど、医学書を読むのが趣味、とか言わないわね? それだとあまりにも寂しすぎるわ」
アニー
「ちゃ、ちゃんとはやりの小説とか読んでるよ! お客さんから貰った物だけど、これとか!」(サラスバティーの復讐鬼2巻)
エルガ
(なぜ2巻をピンポイントで……)
サラ
(ならせめて包装とか解いてあげなさいよ……明らかにプレゼント用じゃない……)