英雄伝説『外伝』 刻の軌跡   作:雨の村雲

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5-08 黒夜叉戦・陰

 

「――来たか、三つ足の獣」

 

重心を低く保ち、床と平行になるほどの前傾姿勢に、バランスを取るために左手を地面についた異形の構えを取るエルガを見て、ネモはそう呟いた。――彼の左腕からはうっすらと線が走っている。エルガが拘束から逃れるために繰り出した一撃が、腕をかすめたのだ。

 

どうやら彼の中にいる”獣”は、命の危機を感じ取ると主人格の意識を乗っ取って出てくるようである。野生動物が持つ生存本能の賜なのだろう、文字通り獣じみた相手に、ネモは剣をだらりと下げ、その場で立ちすくむ。

 

「グルゥゥゥゥッ………」

 

明らかに正気ではない瞳で見つめてくる”獣”だが、こちらの様子をうかがうように距離を保っている。前回の戦闘で学んだのか、さらけ出した”隙”に食いつくような真似はしてこない。

 

一方ネモも、先手を取るのは躊躇われた。何せ相手の反応速度は、本気を出した自身よりも上――速い相手なのだ。そんな相手に先手を取るのは少し不味い。その反応速度で躱され、反撃が飛んでくるのが落ちである。

 

故に、狙うは後の先――相手の一撃を躱し、即座に反撃を叩き込む、それが定石であった。いくら自身より速いとは言え、攻撃直後の隙を狙われない限りは対処できる速度差である。

 

「………聞こえるか、短槍使い」

 

「グウゥゥゥゥ……」

 

隙を見せても襲いかかってこないほどに用心深くなった獣に、ネモは呼び掛ける。しかし返ってきたのは唸り声――どうやら彼の意識はないようだ。相手の気配を読んでも、獣特有のものしか感じられなかった。

 

「ウゥゥゥゥゥ………ガァッ!!」

 

――しかし声をかけたのが呼び水となったのか、相手の気配に動きが現れ――突っ込んでくると察したそのすぐ後に、獣が予測通り突撃してきた。

 

「―――ちっ! やはり厄介だなッ」

 

地面についた三本目の足(左腕)を駆使した鋭角軌道、速さを損なわない身のこなしを持ってネモの死角へ回り込む。あっという間に視界から消えた獣に、彼は舌打ちを放った。――読めるのはあくまで“体の動き”であって、獣の動きは独特すぎて軌道までは読めない。

 

幸い相手の位置は把握できているが――振り向きざまに剣を振るい、後ろに回り込んでいた獣を牽制する。だがその一刀を、身を屈めることで躱して見せた相手は槍の切っ先を向けてくる。

 

「コイツ……」

 

「ガアァァァァッ!!」

 

咆哮と共に突き出される槍の一撃。その凄まじく速い突きを、体を捻ってかわしたネモは足を振り上げた。

 

「グウッ……ッ!!」

 

突きを捌いて繰り出した回し蹴りを、獣は左腕で受け止めて後退。ネモから数アージュほど距離を取り――しかし即座に距離を詰めてきたネモの追撃が襲いかかってくる。

 

「――――ッ」

 

「グッ……!? ガッ……!?」

 

そして振るわれる剣撃は凄まじく重く、一撃事に剣風を引き起こしエルガの体勢を崩そうとする。剣撃を避けても、巻き起こる剣風が体の自由を奪いにかかる――そんな一刀が連続して襲いかかってくるのだ。嵐そのものと戦っているようなものであった。

 

「グッ……ゥゥゥウウウウゥゥゥアアァァァァッ!!」

 

避けても体勢を崩される獣は、やがて体を屈めて体勢を低く保ち、その剣風に耐え忍ぶ。そして低くなった姿勢から、急激に立ち上がるかのような勢いを持って槍を突き上げてきた。狙いはネモの顔面、もう片方の目。

 

「――」

 

残った目も潰してやる、そう言わんばかりのなりふり構わない攻撃に対し、首を左側に傾けるだけで躱して見せた。相手の動きを先読みしているからこそ行える、最小限の動きでの回避――しかしそれは――

 

「――っ!」

 

――獣相手には悪手であった。先読みで気づくのと、彼の体の動きがほぼ同時――“槍が軌道を変えて突っ込んでくる”。あくまで軌道が僅かに変わった程度、しかしその一撃は、避けたはずのネモに追従し、その頬をかすめた。

 

「―――やるな」

 

つぅ、と頬から血が滲み出るのを感じながら、獣を賞賛する。自然の中で鍛え上げられた奴の反応速度は、人のそれを超えている。まさか”先読みと体の動きのタイムラグ”がほとんどないとは。これでは先読みもほとんど意味をなさない。

 

――しかし。

 

「だが、やはり獣か」

 

「グゥッ……!?」

 

顔のすぐ側にある伸びきった短槍の柄を握りしめ、低い位置にある獣の顔面に膝を叩き込む。流石にその痛打は効いたのか、仰け反って後ずさり――しかし意地でも短槍を手放そうとはしなかった。

 

「ウゥゥゥ、ガァッ!!」

 

ネモが手放したことで自由になった短槍を振り上げ、やぶれかぶれに振り回す。文字通り”棒振り”のごとき振り回しに、ネモの眉間に皺が寄った。短槍使いだった時に見せた武術の動きが欠片も見えない動作に対し、ネモは何かを見極めるかのように目を細め――そして彼目掛けてかけ出し、すれ違いざまに斬りつけた。

 

「ガ、ア……ッ!!?」

 

(――かすった。今のを避けるだと……?)

 

例えどれほど反応速度が速くても、”避けられないタイミング”で繰り出されれば、回避など出来はしない。その一瞬のタイミングを見極めたネモは、二重の嵐を放ったのである。――だというのに、獣は完全とは行かずとも避けて見せたのだ。

 

当たると思って放った技が、有効打にならなかったことに目を見開くが、しかし獣の背後を取った彼は、即座に剣を返して二撃目の回転斬りを放とうとする。

 

「グゥゥ……ガアアァァァァッ!!」

 

その回転斬りに対し、獣は咆哮を上げ、振り向きざまに短槍を構えて突貫する。獣牙疾走――突進の勢いを乗せた獣の牙は、嵐のごとき暴風に噛みつき、穂先と刀身がぶつかり合い、衝撃が発生した。

 

その衝撃によって両者は吹き飛ばされる。――しかしその身のこなしを持ってネモよりも速く体勢を立て直した獣は、再び槍を構えて突撃を開始した。瞬く間に距離を詰めてくる獣に対し、体勢を立て直したネモは自身の闘気を高め――

 

「――――」

 

「ッ!!」

 

――獣は何かを察知したのか急停止、即座に大きく後方へ飛び退いた。同時に、獣がいた場所に”斬撃”が走り、回廊の床に切れ込みが生じる。

 

「これも避けるか……だが」

 

極限まで高めた闘気による斬撃――無仭の刃を避けた獣を賞賛しつつ剣を構えた。今の獣の回避行動は直感――言わば野生の勘によるものだろう。勘とはいえ、自然界で生き抜く野生動物の勘は凄まじく、未来予知にも匹敵することもあるという。

 

地下道の時は分析しきれなかったが、獣の回避能力の高さは、異常な反応速度に加え、勘の良さという“先読み”じみた特性から来るのだろう。

 

ともかくこれではっきりしたのは、生半可な攻撃はあっさりと躱されてしまうということか。しかし当たらないと言うことはない。現に地下道の時は無心を用いて戦闘不能にし、先程も数回ほど獣を捕らえることが出来た。

 

それに獣の攻撃も、その途中で軌跡を変えるなどと言った特異な点はあるが、そのことを弁えていれば対処は出来る。剣を構え、切っ先を向けるネモは白髪の獣を見据えて、ぽつりと呟いた。

 

「やっとお前の動きにも慣れてきた。――死にたくなければ、俺を喰らう気持ちで来い、三つ足の獣」

 

「――――グゥゥゥゥ………」

 

ネモが放つ気配に変化が生じたのを感じ取ったのか、距離を保った獣は唸り声を上げつつ、ぐっと身を屈めた。ネモに向かってかけ出すための“溜め”をつくる動作――しかし端から見たそれは、まるで蛇に睨まれた蛙のように、ネモに気押されたように見えなくもなかった。

 

「―――ゥゥゥゥアアァァァァァァッ!!」

 

「――――そこ」

 

「っ!!?」

 

叫ぶ獣とは対照的に、冷静な声音で告げるネモ。突き出された槍を、彼はぎりぎりまで引きつけ、その軌道を正確に読み取り槍の柄を踏みつけた。予想外の方向からの負荷に軌道は逸れ、穂先は地面を穿ち、柄は軋みを上げた。

 

一歩間違えば致命傷になりかねない、突き技に対する自己流の回避技術――だがその一瞬を乗り越えた先には、反撃の機会が待っている。踏みつけることで短槍を封じ込めたネモは、その上に重ねるように踏み込み、

 

「――裂空」

 

「ガッ!!?」

 

槍を抑えられ身動きが取れなくなった獣に叩き込んだ一刀は、その剣圧によって衝撃波を引き起こし、その体を吹き飛ばした。――いくら動きが速く、こちらの攻撃を躱してくる相手と言えども、“動きそのものを封じてしまえば”どんな攻撃も受けざるを得ない。

 

罠や毒を用いて野生動物の動きを封じ込める――“獣退治”の常套手段だ。もっとも罠も毒もないネモには、槍を抑えて動きを封じ込める方法しかなかったが。そしてその槍も、彼の足下にある。

 

「グ、ルゥゥ……!!」

 

裂空斬の一撃を受けて吹き飛ばされた獣は、無手のまま三つ足の構えを取った。吹き飛ばされた際に槍を手放してしまったのだ。それでも右手の五指を曲げて、かぎ爪のように振るうつもりなのか、未だ戦意が高い獣を見据えるネモは、

 

「お前の動きはやい。だが――」

 

例の高速ジグザグ軌道――”三つ足軌道”とでも言うべきか――によって一気に距離を詰めてくる獣を目で追い、獣が左側に消える――それを見極めた瞬間ネモは確認せず振り向きざまに剣を振るった。

 

「グッ……ガァッ……!?」

 

背後に回り込もうとしていた獣の左腕を斬り裂いた。深く斬られた腕を押さえて獣は後退する。だがこちらを見やるその瞳は、なぜと言わんばかりに見開かれていた。

 

「グ……グガァ……!!?」

 

「……何を言っているかわからんが……お前の動きは単調でワンパターンなんだよ。三つ足軌道による攪乱で相手の死角に回り込み、至近距離から突きを放つ。もしくはその速力による突進突きで一気に仕留めてくるか……概ねその二パターンだ」

 

これまでの戦闘を通して、ネモは独自に分析したことを口にしていく。彼の言うとおり、獣の攻撃はその二つに分けられる。攪乱からの突きか、速力任せの突進か――意外にも、“突く”ことしか出来ないのだ、この獣は。

 

先程槍を振るっていたが、その”棒振り”たるや思わずネモが「……素人が」と眉根を寄せるほどであったのだ。アレと短槍使いの槍捌きが、同一人物から繰り出されたものだとは少々驚きである。

 

”短槍使い”だったときは、その技巧を持ってネモと打ち合ったが、獣はあくまで自身の能力のみで戦っている――そんな感覚を覚えていた。

 

「野生化したことで発達した神経の反応速度……だがその速度に技術が……いや、”思考”が追いついていない。文字通り”本能”のみで動いている」

 

「―――ッ!! グッ……!!?」

 

「――だから動きも見切られる。気配察知のような技法を使わずともな……!」

 

ネモの言葉を遮るかのように、相手の虚を突き、指を立ててかぎ爪の如く振るう右腕を飛び上がって躱し――そればかりか、獣の体を踏み台にして、もう一度空高く飛び上がった。

 

気配察知による先読みではなく、相手の挙動、クセから次の動作を予測し、獣の動きを見切ったネモ。むしろ先読みの技法を使った方が、返って読みづらい――上空で剣を振り上げた彼は内心そう独りごちる。

 

「グゥッ………ッ!!」

 

踏み台にされた獣はその衝撃で前につんのめり、やや遅れて上を見上げると――目の前に映るのは、落下と同時に剣を振り下ろそうとする夜叉の姿。その一撃が、目前に迫り――

 

「―――っ!!」

 

声にならない叫び声を上げてその場から退避する獣。流石にネモ――黒夜叉相手に無手で敵うと思うほど、獣は考えなしではない。ちらりと床に転がった短槍を見やり、三つ足軌道を持ってネモを攪乱しつつ槍の回収へ向かう。

 

「―――」

 

獣の素早い動きから目を離さず、そのジグザグ軌道を見極めたネモは、獣の意図を察知したが敢えて放置。――同時にその時に出来た”間”を利用して、自身の気を練り上げ、高めていく。そして練り上げた気を長剣に乗せて、彼は構えた。

 

「グゥッ……!」

 

槍を回収し、その切っ先をネモに向ける獣だが、その視線はちらりと自身の左腕に向けられる。先程相手に斬られ、傷を負った腕からは、先程よりも出血が激しくなっていた。

 

それも当然である。高速移動しつつジグザグ軌道を取る三つ足軌道は、地面についた左腕を軸に使っているため、かかる負担は相当な物だ。そうしてかかる負担が、左腕に負った傷をより深くしている。

 

「グルゥ………ッ!!」

 

唸り声を漏らす獣だが、その唸り声はまるで「これ以上は戦えない」と気づいたかのようである。体力の消耗も激しく、故に獣は一撃で決めるためか、槍を構えて重心をより低く保ち、突進の構えを取った。

 

――獣牙疾走とは異なる、もう一つの獣の戦技――初めて見る構えに、ネモは僅かに眉根を寄せ――火傷によって視力を失った左目を閉じる。より正確に見きるために、右目に意識を集中させて、獣の出方を待ち――

 

「――ッ!!」

 

――”無音”で獣はかけ出した。咆哮もなく、地面を蹴る音すらしない完璧な無音動作。なるほど、これが獣の本気の一撃。これまで何度も行っていた咆哮は、それで相手を威嚇させ僅かな隙を作り出すために。そして今の無音動作は、その威嚇が通じない相手に対して不意打ちを行うために。

 

野生化していたとはいえ、幼い肉体では敵うはずもない凶暴な野生動物や魔獣共を狩ってこれたわけかと独りごち、しかし――

 

「――無心」

 

――目の前にいる相手に、不意打ちも何もないだろうに。内心吐き捨てながら、ネモは構えた長剣を横一文字に薙ぎ払い、突っ込んできた獣の槍をはじき飛ばす。そして高めた剣気が生み出す無仭の刃が獣に襲いかかり――

 

「ッ――――アァァァァァッ!!」

 

「何……ッ!? ッ……!?」

 

体中を切り刻まれながらも、怯まずに特効。ネモのもくろみでは、無仭の刃によって相手の足を止め、とどめの斬り下ろしを繰り出そうとしていたのだが、その途中突っ込んできた獣は、先程踏み台にしたお返しとばかりにネモを蹴り、その反動で宙に飛び上がる。――無仭の刃の範囲から逃れたのだ。

 

「貴様……!」

 

「アアアアァァァァァァッ!!!」

 

咆哮なのか、それとも絶叫なのか、判別出来ない叫びと共に、飛び上がった獣は、落下と同時に槍を振り下ろそうとしてくる。――穿ち、飛び上がり、また襲いかかる獣の牙と爪――獣牙飛爪撃。

 

獣独特の動き、それも初見の技を見切るのは困難であった。このタイミングで繰り出された”隠し技”――しかもこちらを”蹴る”ことで奴は飛び上がると同時に、足場にされたこちらは体勢を崩し、対応を遅れさせるという、完全な初見殺しの技に、彼は目を細める。

 

――頭上から振り下ろされた穂先に対し、ネモに出来たのは――

 

「――見事だ」

 

落下してきた獣の一撃をその身で受けるネモ。左肩から右脇腹にかけて長く深い切り傷が走り、鮮血が飛び散った。ついに獣の――エルガの攻撃が夜叉に届いたのである。しかし――

 

「だが……後一歩足りなかったか」

 

「――――ガッ……!」

 

――ネモに出来たのは、“回避も迎撃も捨てて”剣を斬り上げることだけだった。無心、その最後の一撃は、確実に獣の体を捉えていたのである。闘気を纏ったその一撃を受け、落下してきた獣の体はもう一度宙に打ち上げられ、放物線を描いた後に背中から地面に打ち付けられた。

 

相打ち覚悟の打ち合いを制したのはネモ。そして獣もその一撃が痛打となり、さらにこれまでに溜まっていたダメージも相まって、立つ事はおろか身動き一つ出来なかった。

 

 

 

 

「グッ……ウゥ………ぅぅ………」

 

獣の呻き声も小さくなり、同時に彼が発していたおかしな雰囲気も薄れていく。――何となくだが、彼が”エルガに戻った”のだと察したナギサだが、その表情はひどくこわばっている。自身を助け出すと言ってくれた遊撃士の名を、震える声音でそっと呟いた。

 

「え、エルガ……?」

 

「う……うぅ………」

 

今のか細い声では、玉座からは届かないだろう。しかしその小さな声は届いたのか、それとも偶然か、エルガは呻き声を漏らして反応した――ようにナギサは見えた。たまらず、彼女は玉座の上から身を乗り出して彼の名を叫ぶ。

 

「え、エルガ……エルガぁ……!」

 

「――どうやら彼はここまでのようですわね、ナギサさん」

 

必死に呼び掛ける彼女をあざ笑うかのように、隣にいるロゼリアはうっすらと笑みを浮かべてそう告げた。素人目から見ても分かる、もう彼が立ち上がることはないと。魔女が告げた事実に、ナギサは震える瞳で見返した。

 

「や……やだ……っ!」

 

――先程”天眼”によってロゼリアが何をしようとしているのかを知ったナギサは、いやいやと拒否するかのように首を振る。しかしその反応すら愉しむかのように、嗜虐的に口元をつり上げたロゼリアの手が迫ってくる。

 

「やだ……っ! 助けて………っ!!」

 

一度は拒否したのに、助けるため懲りずに追いかけてくれ、そして手を差しのばしてくれた遊撃士に。諦めかけていた時に現れ、そして今消えかけようとしている希望に、ナギサは必死にしがみついて。

 

「――助けて、エルガぁ!!」

 

 

 

 

――誰かに、呼ばれたような気がする。遠くなりそうな意識の中、エルガは全身に力を入れるも、ぴくりとも動かない。全身傷だらけで痛いはずなのに、痛みは全くなく、寒さだけが感じられていた。

 

――ここで、死ぬ……のか……?――

 

迫り来る死の予感に、相反する二つの心情が芽生えた。迫り来る“死”を受け入れようとしている自分と、必死にそれに抗おうとする自分の、二つの“自分”に、彼は戸惑いを覚えていた。

 

体は動かないし、寒いし、眠い――もう疲れた、休ませてくれと願う自分と。

 

まだ何も出来ていない、約束を守れていないと必死に抗う自分。

 

――何も出来ていない、約束を守れていない――深淵に引きづり込まれつつある意識の中で、一体何のことだったかと思いはせようとしたとき、エルガの耳に声が届く。

 

 

『――この馬鹿弟子が。こんな所で寝ているんじゃない』

 

 

――唐突に耳に届く、聞き慣れた声に、彼は目を見開いた。自分を馬鹿弟子と呼ぶ、聞き慣れたこの声は――

 

(し……師匠……?)

 

ジルヴィア・ローグ、エルガの師にして養父の声。しかし姿は見えず、気配も感じられない。それに何よりも、師匠がこんな所にいるはずがない。死にかけている自分が生み出した走馬燈、都合の良い妄想か、それとも幻聴か――

 

『お前はあのとき、あの子を助けるため、救うために手を掴んだのだろう? ならその手は、何があっても手放すなと伝えたはずだ』

 

(――――)

 

掴んだ手を手放すな――そう告げてくる幻聴に、まどろみかけた彼の意識が戻ってくる。それは師匠からの手紙に書かれていた追伸。助けるために、救うために――誰を?

 

 

『お願いです、エルガさん。あの子を……ナギサを、助けて下さい』

 

 

今度は知らない女性からの声が聞こえてくる。この声の主は誰だったか。思い返して、ハッとする。首元にぶら下がる真珠のペンダントの本来の持ち主。――そして自身が助けようとした少女の”母親”の声。子を思う親の願いは真珠に宿り、彼女を守るために確かにそこにあったのだ。

 

 

『エルガ君。ナギサちゃんを助けてあげて』

 

『坊主……いやエルガ。ナギサの嬢ちゃん、必ず助けてこい』

 

 

続いて聞こえてきたのは、仲間達の声。アニー、レオンの言葉が幻聴となって耳に届く。――いや、これは本当に幻聴なのだろうか。だとしても妙に現実味のある幻聴に、彼の意識が目覚めていく。

 

 

『彼女のこと、頼みましたよ、エルガ。教えると約束した料理、まだ全部教えられていないのですから』

 

 

今度はダーゼフの声が。いつの間にそんな約束をしていたのだと微かに苦笑しながら、聞こえてくる声は幻聴ではないことに気づき始めていた。これはきっと――

 

 

『気張りなさい、エルガ! アンタだったら出来るわよ!』

 

『お前だったら出来るさ! いや、お前にしか出来ないんだよ、エルガ!』

 

 

サラの、そしてトヴァルの声も届いてくる。この回廊に集った仲間達の声――彼らの思い、”心”が流れてくる、不思議な感覚。何かを通して回廊にいる仲間達と”繋がった”からこそ流れてきた心が、エルガの意識を呼び覚まさせた。

 

「………」

 

まどろみから醒めたその場所は、真っ暗な空間であった。そして目の前には、一匹の獣がこちらを見上げている。その体も暗闇に覆われているため姿は見えないが、巨大な針に独特な三つ足のシルエットから、その正体はあっさりと判明する。

 

「三つ足の獣……」

 

”もう一人のエルガ”と呼んでも差し支えのない獣は、暗闇に包まれたまま口を開いた。

 

「――イキル」

 

「……生きる……?」

 

獣の口から溢れ出た言葉に、エルガは眉根を寄せざるを得ない。いきなり何を言い出すのだろうか。と言うか喋れたのか――いや、喋っているのではない。獣の意思が言葉となって直接流れてくるのだ。

 

「――イキタイ。オレ、イキタイ」

 

「…………」

 

獣の”生きたい”という願い、それを否定する権利はエルガにはない。生きたいという本能、それは生物であれば当たり前の感情なのだから。だが今の自分はどうだろうか。獣のように本能から生きたいと願っているのだろうか。

 

「オマエ、チガウ、ノカ?」

 

「……俺は……」

 

――そうだと、確信を持って言える自信はない。何せ彼は、野生化していたとはいえ、人を殺めたことがある。他人を傷つけ、命を奪った自分が、生きたいなどと言って良いのだろうかという疑問がどうしても拭えない。

 

「……オレタチ、ココデ、シヌ。オレタチ、ナニモ、デキテ、ナイ」

 

「――――っ!」

 

なにもできていない――獣の指摘に、エルガは目を見開く。そうだ、自分はナギサに言ったではないか。必ず助け出すと。なのにここで息絶えてしまったら、その約束は果たせない。そればかりか――

 

「リーゼネェ、オモイ、ネガイ……ムダ二、ナル」

 

リーゼネェ――リーゼ姉ちゃん。かつて自分を“人”にしてくれた少女の名前。彼女は自分を救うためにその身を投げ出したというのに、その犠牲が無駄になる。

 

「オレタチ、イキルイミ、アル。イキナキャ、ダメ」

 

「……俺達、か。……そうだよな」

 

必死に生きろと伝えようとする獣に、エルガは苦笑した。――そもそも目の前の獣は、エルガの心から生まれたものであり、彼の一部なのだ。その一部が生きたいと願うのなら――それも本能の固まりのような奴が言うのなら、それはきっと、エルガの自覚出来ない願いなのだろう。

 

「俺達には、生きている意味がある……なら……生きなきゃいけない。ナギサを救うためにも。俺の願いを……誰かを助けたい、救いたいという願いを叶えるためにも。そうだよな?」

 

「――――」

 

確認するかのように獣を見やると、奴はこくりと頷いてくれた。そして遠くから聞こえてきたナギサの助けを求める叫びに、彼ら視線を交合わせて――

 

「行こう!」

 

「――イッショニ、タタカウ」

 

辺りを包む暗闇が、晴れていき、彼らの視界は光に塗りつぶされて――

 

 

 

 

「助けて、エル……エルガ……!?」

 

「……貴様、まだ……!」

 

胸の傷を抑え、油断なく獣を見据えていたネモは、全身から血を流しながら立ち上がるエルガを見て思わず顔をしかめた。――あのまま寝ていれば良かったものの。これ以上の戦闘は、本当に命に関わるだろう。ロゼリアも、あそこから立ち上がるとは思ってもいなかったのか、その表情には驚きが浮かび上がっていた。

 

「ふふ、まだ立ち上がるだなんて……ネモ殿、手加減しすぎではなくって?」

 

「俺も驚いているさ。……確実に仕留めたはずだが」

 

ロゼリアの手前仕留めたと言うが、実際は殺さず、かつ意識を奪うぎりぎりを狙っていたのだ。だがこう起き上がってしまっては――内心で舌打ちを放ち、剣を構えたネモだが、すぐさま眉間に皺が寄る。

 

「約束、したからな……絶対に助けるって……それに、みんな同じ気持ちなんだ。みんなの思いを背負って、俺はここにいる……! だから、ここで倒れるわけには、いかない……ッ!!」

 

ふらふらになりながらも立ち上がったエルガが放つ気配――どうも違和感がある。その正体に察しがつくよりも先に、立ち上がったエルガは短槍を構え、より鋭くなった瞳でネモを見つめてきた。

 

「行くぞ、”獣”!」

 

そして彼は自身の中の獣に呼び掛けた。一緒に戦うと言ってくれた獣が、エルガの中で雄叫びを上げ、”人と獣が交ざり合っていく”。頭上で槍を回して持ち直し、その穂先をネモへ突きつけて彼は目を見開いた。

 

「――陰陽交差」

 

 




エルガ対ネモ戦。正確には獣対ネモ戦ですが。

ちなみにエルガの、獣に対する感情は「思うところはあるけれど”概ね”受け入れている」という感じですね。どっちなんだよと言いたいです。

そのルーツも知っている上に、獣が自分の中から生まれたものであることを分かっているからこそです。だから獣の時に犯した罪も、自分の罪として受け入れています。ただ分かってはいても、獣の時の自分を「うわぁ……」と思って引いている辺り、まだまだ子供なのでしょうね。

そして獣と会話(というか対話?)を経て、この後どうなっていくのか。次回でネモとの対決に決着がつきます。(予定)
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