――七耀暦1205年 二月中旬
「―――はい?」
『だから、アンタに頼みたいのよ。トールズの”臨時武術教官”』
久しぶりに先輩から通信が入ったと思いきや、思いも寄らぬ頼まれ事に、白髪の青年エルガは素っ頓狂な声を上げる。長かった髪をばっさりと切って短髪になった彼は、通信機内蔵型の戦術オーブメント「ARCUS」を片手に頬を引きつらせ、ため息混じりに口を開く。
「……いやいや、何言っているんだサラ先輩。俺が? 伝統あるトールズ士官学院の武術教官? 二日酔いのまま連絡してくるんじゃない」
『何言っているのよ、アタシは素面よ!』
「ついに頭を打ったか……大体俺は日曜学校をお情けで卒業させて貰った口で、高等教育も受けていないんだぞ」
先輩に対してぞんざいな物言いを見せるエルガだが、それも仕方のないことだろう。彼の特殊な幼少期と、育ての親が遊撃士故に各地を転々としていた事も相まって、”勉強”を真面目に取り組んだ経験がほとんどない。高等教育などもってのほかである。
そんな自分が、帝国でも伝統があり、有数の士官学院で教鞭を執るとか、何の冗談だ。生徒からしても、自分達よりも学力が低い教師から教わって得することなどほとんどない――どころか、不満が噴出するだけだ。しかし通信相手であるサラはそうは思っていないようで、
『それを言うならアタシだって似たようなものよ。それでもこの二年は何とかやってこれたのよ? それに、あくまで臨時の武術教官……アタシの後任が正式に決まるまでの間よ』
と、通信越しに何かを煽るような物音が微かに聞こえてくる。そして、何かを飲み干すような喉音も。困ったように眉根を寄せながら、
「アンタまた酒飲んで……もういいです。それより、まだ決まっていないのか、後任」
『えぇ。”内戦”の影響と建て直しで、正規軍からはしばらく人を派遣できないって。それどころか、こっちの教官が軍に戻っちゃうぐらいだし』
内戦――去年の十月、一発の銃声がかの”鉄血宰相”を狙撃したことを契機に領邦軍――“貴族連合”による帝都占領が行われた。そして正規軍との武力衝突――正規軍と貴族連合による内戦が発生したのだ。
十月戦役と呼ばれるその内戦は、年が変わろうとする12月31日、正規軍とトールズ士官学院の尽力によって貴族連合の主催であるカイエン公の逮捕、拘束により終戦。帝都は無事解放された。――その際に”色々と”あったが、それは置いておこう。
そしてそれから三ヶ月――内戦の爪痕は、各地で色濃く残っている。通信相手であるサラ・バレスタインも例のトールズ士官学院の教官であったが、四月からは遊撃士として復帰する手筈となっている。
『まぁ、そんな大変な状況で、アタシが教官職を辞めて“本業”に戻るのは完全に私情だし、せめて臨時の後任ぐらいは紹介しなきゃならないのよ。……それに気になる子もいるしね』
「あぁ、例のⅦ組の……う~ん」
――とりあえずサラの状況はわかった。確かにそういうことならば後任を探すのは理解できる。しばし迷いながら、首を傾げつつ口を開いた。
「……まぁ、受ける受けないはこの際置いといて。ちょっと人選ミスじゃないか? 俺に教官が務まると思っているのか?」
『何言っているのよ、何気に人に教えるのが上手いくせに。ナギサやサリスだって、エルガが教えると分かりやすいって言っていたわよ』
「それはお世辞の類いだろ……」
確かにあの二人の”家庭教師”はやっていたが、それとこれとは話が別だ。あの二人からそんなことは聞いたことがないし、大体あの二人なら、特にサリスはご機嫌取りで言っている可能性が高い。
『……ふぅん。ナギサも苦労するわね……』
「は?」
なぜそこでナギサ限定。さらに首を傾げるエルガだが、通信相手であるサラはため息をついた。――身内からのタレコミを否定する辺り、彼の自己評価の低さが垣間見れる。それに”教官”という役職に臆しているようにも感じられて、
『アンタだったらやれるわよ、エルガ。“バイト先”の評価を聞いて、その確信を得たんだから。少しは自信を持ちなさい』
「サラ先輩……………え? バイト先? …………って、もしかして……」
まさか激励の言葉を贈られるとは思ってもおらず、少しばかりじぃんと来たエルガであったが、続く言葉を聞いて我に返る。バイト先――現状エルガはいくつかのバイトを掛け持ちしているが、この場合のバイト先は――
『えぇ、”リトルウイング”にはしっかり話を通してあるわ♪』
「ばっ……!!?」
『あ、ゾルダのおじさまは快く承諾してくれたわ。存分に使ってやってくれって』
「あの人は本当に……っ!」
がたっと勢いよく立ち上がるエルガ。椅子を倒すほどの勢いで立ち上がり、激しい動揺を見せた。よりによって一番ばれたくないところに。なるほど、今朝からゾルダの旦那がニヤニヤしていたのはこれが原因か!
どうやら逃げ道など最初からなかったらしい。そのことを理解して頭を押さえ、一人項垂れるエルガ。
『――ま、そっちから見ても悪い話ではないんでしょうね。最近ようやく名が広まりだした民間警備会社……そこに勤める若手が、内戦で活躍したトールズで臨時教官を勤める……良い宣伝になりそうじゃない?』
「その広告塔がきっちり仕事を果たせれば良いんだけれどな………ってか、まず俺バイトだし!!」
バイトの身にして重そうな内容だが、どうやら断るのは難しそうだ。彼にしてみれば自信がない仕事を押しつけられた状況だが、ここまで外堀を埋められては一人わがままを言い張るわけにはいかない。半ば自棄に近い形で、サラの要請を受け入れることにする。
「……わかりました、その話引き受けます……詳しい話は、また後ほど……」
『えぇ、よろしくね。でも良かったんじゃないの? ”本業”を休んでいるんだし、これでナギサのヒモにならずにすみそうじゃない』
「ヒモじゃないし!! 収入だと俺の方が多いし!!」
『勝負している時点で負けだと思うわ』
鋭い突っ込みを聞いた気がするが、きっと気のせいだ、そうしておこう。
同居人――妹分が始めた露店の”占い屋”だが、よく当たると評判で最近売り上げが急激に伸びている。おまけに噂では”やんごとなきお方”がお忍びでたびたび来店しているとか何とか。その噂の真偽については口を閉ざしておこう。
そのせいか最近では主なバイト先であるリトルウイングやメドサン亭――アニマ・ロサウェルの実家でレストランを営んでいる――でたびたび弄られている。正直勘弁して欲しい。
『でもぶっちゃけ、正遊撃士とはいえ低ランクなんだから、収入は今の方が多いんじゃないの?』
「……………」
黙秘権を行使、口を閉ざすエルガ。現在サラはA級の正遊撃士だが、当然低ランク時代も経験している。だからこそ分かる発言だろう。
『あら無言。まぁ良いけれど……それと、アンタはいつ”復帰”するのかしら?』
「………」
その発言に対し、エルガは無言を貫く。先程までとはうって変わり、真剣味を帯びたサラの声音と雰囲気に、彼も同等のものを発した。ARCUSがそれを通信越しに伝えてくれるとは思えないが――しかし何かを感じ取ったのだろう、通信機越しにサラは息を吐き出し、
『……確かにあんたの気持ちは分かるわ。二年……いえ、もう三年前に起こった”帝国遊撃士協会襲撃事件”……それが起きているまっただ中で、アンタはレマンで半ば”拘束”されていた』
――当時を振り返るように言うサラに、エルガは無言で応じていく。三年前に発生した、とある猟兵団による遊撃士協会襲撃事件。帝国全土にある遊撃士協会が、一斉に襲われたのである。
突然の襲撃に、流石の遊撃士達も対応が遅れ、また襲撃を受けた支部によっては戦力が足らず、猟兵団に支部を占拠される事態になった。帝都に置いては在駐していた正規軍の機甲師団が出張ることにもなり、かなりの混乱が生じたのだ。
幸いにも報告を受けたリベールの”剣聖”カシウス・ブライトが帝国入りし、彼の指揮の下猟兵団を捕縛、壊滅させ支部を取り戻すことが出来た。――が、その後帝国政府から鉄血宰相の名で裁定を下されたのである。
”市民の安全、保護を第一とする遊撃士が猟兵に後れを取った。それは果たして、己等の役割を果たしていると言えるのか”と。実際巻きこまれた市民の救助、支援を行ったのは正規軍であり、遊撃士はその立場を失い、活動自粛、地域によっては活動停止にまで追い込まれた支部もある。
――あくまで私見であり、確証などありはしないのだが、一連の流れの手際の良さ、タイミングの良さから”何者かの自作自演”ではないかという疑惑を抱いた遊撃士は多いだろう。サラもその一人である。
帝国ではそんな事態になっている中、エルガは一人遊撃士協会の本部があるレマン自治州で”足止め”を喰らっていたのだ。いや、あれは半ば拘束、軟禁といっても良いだろう。
正遊撃士として認められた彼は、帝国に戻ろうとするのを引き留められ、緊急性が低いどうでも良いような仕事を押しつけられ、自治州――それも”本部”に留まらざるを得なかったのである。
何度も帝国に戻りたいと言ったのだが聞き入れてもらえず、ようやく戻れた頃には全てが終わっていたのだ。その出来事により、エルガの中で一つの疑惑が過ぎったのだ。
何者かが裏で手を回し、足止めされているのではないか、と。件のカシウス・ブライトも帝国入りには難儀したという。それらが重なり、遊撃士協会そのものに疑念を抱いた彼は、無期限の休業を申し出たのであった。
『気持ちは分かるけれど、いきなり休業は少し急ぎすぎたんじゃない? せっかく正遊撃士になれたって言うのに、ランクが一つも上がっていないじゃない』
「……まぁ、少し性急すぎたのは認めるよ、うん」
当時はやや頭に来ていたため即座に申し出たが、今思うと少し待ってからの方が良かっただろう。おかげでこの三年ランクが上がらず、最下位であるGランクのままである。苦笑いを浮かべながら肩をすくめ、しかしと反論する。
「でも後ろに何かが控えているままだと、色々とやりにくいだろ? だったら、一度距離を置いた方が良いさ。そのおかげで、輪郭は掴めてきたしね」
『――――あら、以外ね。なら聞かせて貰おうじゃない、アンタを足止めさせた黒幕の輪郭とやらを』
距離を取ったからこそ見える物がある。エルガの言葉に、ゴトッと何かを置く音が微かに届く。おそらく酒をついだグラスを置いて通信越しに伝わってくるサラの真剣さに答えようとして――
「それは――――今はやめとく。“ここ”で言うのは、少しだけ憚られるからな」
ちらりと周辺に目を向けるエルガ。視界に映る範囲と、彼の気配を察知できる範囲に人はいない――だがどこで誰が聞いているかわからないのだ。彼が掴んだ情報を、“リトルウイング内”で口にするのは、少し危険だった。
『……アンタ大丈夫なの? やばいことしてないでしょうね?』
何となくエルガが口を閉ざした理由を悟ったのか、通信越しに聞こえるサラの声音は心配するようだった。再度苦笑を浮かべながらエルガは頷き、
「大丈夫だ。少なくとも、リトルウイングは」
――一人を除いてな、と口には出さず内心で呟く。鉄血によって首輪を嵌められた金髪隻眼の剣士の顔が浮かび上がったが、とりあえず放置して話を戻し、
「とりあえず、例の臨時教官の話は了解したよ。また後で詳しい話を詰めると思うけど」
『えぇ、その時はまた同じ時間帯に連絡するわ。……大丈夫よ、アタシだってやってこられたんだし、もっと自信を持ちなさい』
「……過小評価するなって言うけど、過大評価もダメなんだぞ」
最後に励ましの言葉を贈ってくれる先輩に力なく笑みを返しながら、その日の通信は終えるのであった。
「……俺が先生ねぇ……サラ先輩が先生をやるって言ってたのがつい昨日のようだよ……」
ARCUSをテーブルに置き、独りごちるエルガ。襲撃事件の後、サラがトールズ士官学院で教官をやると言ったときは何の冗談だと思ったが、どうやら立派に先生をやっていたらしい。
誇らしく思う反面、それ相応の重圧を感じ、一人苦笑いを浮かべるが――意外にも臆する気持ちはなかった。
「ま、やってやるとしますかー! ――……って、あれ? そういうことは……俺、”あいつ等”の先生になるの?」
ふととあることに気づき、次第にエルガは頬を引きつらせていくのであった。
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――七耀暦1205年 三月下旬――トールズ士官学院、入学式当日
「――っと、これでよし! どう、おじさん! 似合ってる?」
「……あぁ、似合っているぞ。似合っているから、もう少しスカートを意識しろ。お淑やかにな」
緑色の制服に身を包んだ金髪の少女は、親代わりの男性に己の姿を見せびらかす。くるくる回って己の姿を披露する少女に、男性――レオン・オーガストは頭を抱えながらそう告げた。すると少女――義理の娘であるサリス・オーガストは笑顔を見せながら、
「大丈夫だよ、めくれても大丈夫なように、スパッツ穿いているから!」
とスカートの端を摘み、自ら持ち上げる。乙女の秘密が明らかになる寸前に、慌ててレオンがその手を止めさせる。
「そういう問題ではない、もう少しお淑やかさを学べ。……やはりアストライアに入れるべきだったか……」
後悔するももう遅い。聖アストライア女学院――帝都のサンクト地区に建てられた女学院であり、本音を言えば女性らしいお淑やかさを学ばせるためにもそこに入学して欲しかったのだが、本人は拒否した以上無理じりは出来なかった。――それに、周囲からのやんわりとした反対もあった。
「……レオンさん、アストライアは無理だと思います。その……性格的にも、学力的にも……」
「……大体トールズでさえ、補欠入学だぞ、補欠入学。内戦の影響で貴族生徒の数が減っていなかったら、こいつ入れていなかったんだから」
その反対意見を述べる黒髪の少女――誰が見ても美少女と思える成長を遂げたナギサが言いづらそうに、銀髪に褐色肌、難しい表情を常に浮かべているカイト・ヴァリウスはジト目を向けながら口にする。
「二人ともうるさい! 結果はどうあれ、入れたんだから良いでしょう!?」
「まぁ、私とエルガとカイトの頑張りが無駄にならずにすんだのは良いんだけれど……」
「そんな調子じゃ、入ってから苦労するぞ」
吠えるサリスに、ナギサとカイトは頷きつつ冷静に告げる。トールズ士官学院も、本来ならば倍率が高く、また内戦における活躍もあってさらにハードルが高くなることが予想されたが、カイエン公が逮捕され、実質的に貴族派が敗北した事を受けたのか、入学を辞退する貴族生徒がそれなりにいたのである。
それによって繰り上がりが発生し、本来ならば試験に不合格だったサリスが滑り込むことが出来たのである。空の女神は相当上機嫌だったのだろう、とカイトは語っていた。
ちなみに聖アストライアの方は、そういう生徒はあまりいなかった(零ではない)ようだが、授業料を引き下げて欲しいという話はいくつか舞い込んでいるようだ。やはり内戦の影響は、至る所で出ている。
「大体、ろくに試験勉強しなかったカイトが、なんで高得点たたき出しているのよ! 少しはその頭ちょうだいよ!」
「無理だし、理不尽だし。……その分お前の試験勉強見てやっただろうが」
さんざんな言われようである。それには理由があるが、口に出すのはちょっと憚られた。未だにギャーギャー喚く彼女を放置して、同じように緑色の制服に身を包む彼は椅子から立ち上がり、
「そろそろ時間だし、行ってくる」
「あぁ、サリスのこと頼んだぞ」
「もう、おじさん! あまり子供扱いしないでよ!」
そろそろ鉄道の時間が迫っていることを悟り、レオンに挨拶を済ませようとすると、娘のことを任せようとしてくる。過保護っぷりは相変わらずのようで、その点はサリスも不満らしく、唇を尖らせていた。
「大丈夫だろ、コイツはもう子供じゃない」
「カイト……」
「最も、大人でもないがな」
「どっち!?」
がーん、と擬音が聞こえてきそうな表情で口を開くサリスを見て、ナギサはクスクスと楽しそうに笑っている。その微笑ましい光景に、思わずレオンの頬も緩み、頷いて、
「あぁ、そうだな。お前達は、もう子供ではない……”アイツ”の代わりに家訓を果たしに行くんだ、気をつけて行ってこい」
「――うん、わかった」
――今はもう”オーガスト”に姓が変わっているが、その前はサラスバティー家という伯爵家の令嬢だったサリス。すでに没落してしまった家系だが、どうやら家訓――一種の習わしがあったようだ。その習わしというのが、トールズ士官学院への入学である。
本来ならば彼女ではなく、”兄”が行くべきなのだが――事情が重なり、サリスが代わりに行くことになっている――というよりも、“代わりに行きたい”と意見を発したのだ。それがトールズ入学の始まりである。
「カイトの方は、ゾルダの旦那から何か言われているのか?」
「別に……青春してこい、っていうやんわりとしたことしか」
「はは、確かにやんわりしているが、しかしそれが一番だ」
笑みを溢しつつ、レオンは頷いた。――ゾルダもしっかり”父親”をやっているらしい。今はこの場にいない彼の代わりにも、しっかり送りだそうと決意して、
「――行ってこい。しっかり学び、そして学院生活を楽しんでこい」
「うん!」
「………」
笑顔で頷くサリスと、無言で首を傾けるだけのカイト。すでに荷物の大半は士官学院の寮に送っているため、彼らが手にするのは手提げ用の鞄ぐらいのものだ。片や元気よく、片や落ち着き払ったまま駅に向かっていった二人を見送り、レオンは先程から黙っているナギサに目を向ける。
「……それで、あの二人にはエルガのこと言ってあるのか?」
「言っていませんよ、本人からも口止めされてますし……やっぱり、恥ずかしいみたいですね」
「そうか。……あの二人が知ったらどんな反応するのか楽しみだったんだが……クックック……」
「あははは……」
意地の悪そうな笑みを浮かべるレオンに、ナギサは苦笑。ひとまず用事を終えたと言うことで、彼女もオーガスト邸を後にしようとする。
「む、もう行くのか?」
「はい。元々親友を見送るのが目的でしたし、それも果たしましたから」
「そうか。嬢ちゃんも、お勤めガンバレよ」
「えぇ、ありがとうございます」
柔らかく微笑みを浮かべて一礼し、ナギサもオーガスト邸を後にした。その後ろ姿を見送りながら、レオンはそっと息を吐き出しつつ、
「……初めて会ったときは比べものにならないぐらい、良い表情をするようになったな」
――初めて会ったときの、気むずかしそうな表情を浮かべて周囲の人間を警戒するように見ていた少女の面影は見当たらず、心底安心した顔でレオンも頷いた。傍らに置いてあった灰色のジャケットを羽織り、サングラスをかけ、彼も仕事先へと向かうのだった。
ヴァンクール大通りから少し外れた路地裏に、ひっそりと構える露天商。天幕を張り、そこに看板を掲げただけの、簡単でどこか擦れた印象のあるものだが、”占い屋”という雰囲気にあったものとなっていた。
せっかく占いが出来るのだから、それを少しでも役立ててみたらどうだ――かつてネモがくれたアドバイスを元に始めた占い屋で、相性占いや失せもの探しなどといったものも行うが、お客さんの話を聞き、悩みを解決する手伝いをするといったことの方が多い。
「――――あら? また来ていたの」
「………」
その占い屋の目の前、ちょうど入口の前に一匹の黒猫が座り込んでいた。すらりとした体格に、長い尻尾にはリボンが巻かれた、毛並みも綺麗な黒猫。ここ最近よく占い屋に来る子で、ナギサのことをじっと見つめてくるのだ。
「よしよし、良い子ね貴方。……それにしてもなんでいつもここに来るのかしら」
黒猫の前までやってくると、ナギサは膝をついて頭を撫でてあげる。気持ちよさそうに瞳を閉じてされるがままになる猫に声をかけるが、当然言葉が返ってくることはない。
――だが妙に気になる事があるのだ。この黒猫に見られていると、まるで観察――否、“監視”されているかのように思えてくるのだ。そんなはずはおそらくないというのに。
「……やっぱり一度エルガに聞いてもらった方が良かったかな……」
「――ミャア」
一度過ぎった疑念は晴れず、ふとそんなことを口にした。脳裏に過ぎるのは、特異な幼少期を過ごした同居人のこと。大自然の中で育った影響か、動物と意思疎通が取れる彼に黒猫のことを相談した方が良かったかも知れない。
すでに彼は昨日のうちにトールズへ赴いているため、しばらく会えない。――一抹の寂しさを感じたものの、猫の鳴き声に我に返り、苦笑を浮かべて頬をかく。
「だ、ダメだよね、こんなんじゃ。もうちょっとしっかりしないと……」
「…………」
やれやれと、そう言わんばかりに黒猫はため息を付いた――気がする。おそらく気のせいだろうが。
「さてと、それじゃ私もお仕事を始めると――……あれ?」
とりあえずナギサは立ち上がり、天幕に入って占い屋を開店させようとして、ふと黒猫の視線に気付いた。これまでじっとナギサから視線を外さなかった子が、何かに気付いたように振り返り、じっと宙を見やっている。
「ねぇ、どうしたの――」
問いかけても通じないだろうが、それでも思わず口にしてしまった。そして黒猫の視線の先を追い、”それ”に気付いた。
淡い光を放ちながらひらひらと飛んでいく一匹の蝶々。季節と最近の暖かさを思えば、蝶々が飛んでいてもおかしくはないが、それでもヴァンクール大通りでは少し珍しいだろう。
「…………」
宙を舞う一匹の蝶々を、じっと見つめる黒猫。別に珍しくはない光景だろうが、ナギサはその蝶々に違和感を覚えていた。
「――あの蝶……もしかして……」
――あの蝶から微弱ながら“霊力”を感じ取り、ナギサの視線を釘付けにする。じっと蝶を見つめていると、ふいに両目にちくりとした痛みが走った。“仄かに光を放つ蝶々”に対し、彼女の持つ“天眼”が何かを捉えたのだ。――だが生憎、捉えた何かがはっきりとした形で現れることはない。
「――っ………」
気付けば蝶はその場から消え去っていた。黒猫はじっと蝶が飛んでいた場所を見つめ――やがて駆け出し、その場を後にしていく。一人残されたナギサは、痛む瞳をほぐしながらポツリと呟くのだった。
「……光る蝶は……確か……」
――吉報とは呼べない蝶の存在に、心の奥底で波乱の予感を微かに感じ取るのだった。
最後までお目通しいただきありがとうございました。最後の最後で不穏なものが流れる結末になっていますが、”繋ぐ物語”ということで次回作に繋がるための布石となっております。
次回作は七耀暦1205年を舞台、つまり閃の軌跡2と閃の軌跡3の間に起きた出来事です。原作でも流れしか語られていない北方戦役も独自解釈、オリジナル設定満載で書いていくつもりです。
それに伴いメインキャラも変更し、エルガからカイトとサリスの二人に焦点を向けて執筆していくつもりです。
ちなみに裏目標としては……「原作でも大変なリィン君に、二年生最後の学生生活で青春を感じて貰いたい(感じられるとは言っていない)」です。
リィン
「え?」
また刻の軌跡本編で語られていないことも拾って行けたらなと思っています。……個人的には、ようやくあの人の裏がかける……という気分だったりします。とはいえ実際に動いていくのは少し間が空きます。なぜなら8月27日に創の軌跡が発売されるからです。
最後に二度目となりますが、ここまで読んで下さった読者の皆さん、ありがとうございました。それではまた。