俺じゃ世界を救えない   作:ロジの裏

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第四話 幼馴染

 小鳥のさえずりと窓から入る陽光で、キャロルはゆっくりと目を覚ました。昨日のロニアとの出来事が頭をよぎり、寝ぼけた目で隣を見やる。しかし当然ながら、今日は誰も眠ってなどいなかった。

 

 今日は久しぶりの休日でまだ寝ていたかったが、寝起きで喉が渇いていた。仕方なく、水を飲むために布団から起き上がるが、昨日の肉体労働による疲れがまだ残っており、ひどく倦怠感を覚えた。

 

 寝起きで力の入らない体を引きずってキッチンへ行き、蛇口をひねる。が、しかし。蛇口からはポタポタと雫が零れ落ちるだけであった。どうやら、外の貯水槽が空になったらしい。最近ドブさらいの依頼を多くこなし、体を洗うために水を使いすぎのが原因だろう。

 

 キャロルは大きくため息をついた。せっかくの休日なのに、朝からまた肉体労働が待っていると理解したからだ。

 

 外に行くため玄関で靴を履き、扉を開ける。ロニアによって壊された扉はすっかり元の機能を取り戻し、ゴーガンがしっかりと仕事をしてくれたのだと分かった。

 

 あの気前のいいドワーフはタダで直してくれたが、やはり何かしらの礼をしなければならないだろう。そう思いながら木製のバケツを持ち、街を二つの意味で大きく隔てている大河へと向かう。家に井戸でもあればよかったのだが、そこまでの贅沢は望めまい。

 

 人間が統治するバリス王国の王都セントリンクは、街を流れる大河から街中に水路が引かれており、基本的にわざわざ大河まで水を汲みに行く必要はない。

 

 しかしキャロルの住む場所は街の外れも外れ。街を魔物から守るために作られた城壁のすぐそばにあるため、あいにく水が引かれておらず、大河まで汲みに行かねばならなかった。まぁ幸い、キャロルの住居は大河のすぐそばにあるため、水汲みの負担は少なく済んだのだが。

 

 もっとも、この街で貯水槽なんてものを利用しなければならないのは、術式が刻まれた家を持たぬ貧乏人だけであるのだが。いや、貧乏人だけというのは間違いか。一人だけ、例外が存在する。魔力を持たず、術式を起動させられない者が、この街にいた。

 

 キャロルには、魔力が無かった。いや、正確にいえば、魔力を保持できないというのが正しいか。

 

 ここで魔力について説明する。まぁ説明するといっても、まだ人類もこの力の正体を完全に解明できていない上、詳しく説明するとなると膨大な情報量になってしまうため、あくまで簡単にではあるのだが。

 

 魔力とは簡単にいえば、あらゆる生物、物質、さらには大気にまで含まれる生命の力の源である。

 

 この力を利用して人間が魔術を使えるようになったのは、このラージア大陸の長い歴史の中でも約数万年前というごく最近のことだ。人間が魔術を使えるようになってからは、それまでの常識の多くが覆った。

 

 苦労して火を起こさずとも、魔術で火を顕現させればよい。わざわざ水を汲みに行かずとも、魔術で水を湧かせばよい。火球や風の刃を顕現させれば、魔物でさえ殺すことができる。巨人族などの強大な他種族による支配から脱することができたのも、魔術の存在があったことが大きな要因だろう。

 

 人の限界を超越した力。それが魔術なのである。

 

 そんな便利な魔術だが、当然誰でも使えるというわけではなかった。

 

 魔術とは、発動するために術式を魔力で構築する必要があり、どのような術式を組めばどういう魔術が発動するのか、という知識が必要なのである。火を起こすには火の術式を。水を湧かすには水の術式を構築せねばならないのだ。

 

 故に昔は魔術を使えたのは、貴族や王族などの高度な教育を受けられる者か、魔術師しかいなかったのである。

 

 そんな事情があり、昔魔力は魔術を使えない人々にとって、何の役にも立たないものという認識であった。

 

 しかしその認識を覆したのが、ラージア大陸に古くから伝わる英雄伝説に登場し、かつて魔神から世界を救ったといわれる七人の英雄が一人、メルドーガである。

 

 このドワーフの英雄が物体に術式を定着させるという革命的な技術を生み出し、それにより魔術を使えない人間でも、物体に刻まれた術式に魔力を注ぎ込むだけで魔術を発動させられるようになったのである。

 

 術式が刻まれた物体は魔道具と名付けられ、その中でも剣や槍などに術式が刻まれたものは、魔剣や魔槍と呼ばれるようになった。

 

 この技術はドワーフ達を中心にして大陸中に広まっていき、今では魔道具は人々の生活になくてはならない必需品にまでなった。

 

 魔道具が生まれてから、人々の生活は大きく変わった。わざわざ川に水を汲みに行かずとも、水の術式が刻まれた魔道具に魔力を込めれば水が湧く。苦労して火を起こさずとも、火の術式が刻まれた魔道具に魔力を込めれば火を起こせる。暗い夜も、光の術式が刻まれたランプや街頭のおかげで明るく照らせるようになった。

 

 現在では魔術の知識が普及し、小さな火を起こす程度の下級魔術くらいは誰でも使えるようになった。しかし下級魔術といえど、術式を組むのには集中を要するし、時間もかかる。故に魔術の知識が普及した現在でも、お手軽な魔道具は人々の生活の必需品というのは変わらなかった。

 

 そんな誰でも扱えることが最大の利点である魔道具だが、魔力を持たないキャロルはそれを扱うことができなかった。魔道具が誰でも扱えるというのは、誰もが魔力を多かれ少なかれ持っているという前提があるからに他ならないからだ。キャロルのような、魔力を持たざる者という例外など、想定しているはずもないのだ。魔力を使いすぎて枯渇したとかならば話は変わるのだが、キャロルの場合、そんなものとはわけが違う。

 

 キャロルのように、魔力を保持できないというのは例外中の例外なのだ。なぜなら魔力とは、あらゆる生物、草花でさえ有するものである。その魔力容量に差はあれど、魔力を持たぬなど普通はありえないのだ。

 

 では、なぜキャロルにそんなありえないことが起こっているのか。それは、キャロルの魔力の器にヒビが入っており、そこから魔力が漏れ出しているからだ。

 

 魔力の器。魔力について語る上で、これの説明をしないわけにはいかないだろう。

 

 魔力の器とは簡単に言えば、生物が魔力を蓄えるための容器である。これは目に見えず、実際に体内に器官として存在するわけでもないため、そういう概念があると考えてほしい。これについては現在も研究されているが、まだはっきりとしたことは分かっていないのが現状だ。

 

 生物が保持できる魔力の限界量ーー魔力容量は、この魔力の器の大きさに比例して大きくなり、より多くの魔力を保持できるようになる。

 

 また、魔力の器の大きさは生まれた時点で決まり、魔力容量を後から増やす、つまり魔力の器を後天的に大きくすることは基本的にはできない。また、この大きさは種族によって、両親の魔力の器の大きさによって、などの条件でも決まる。

 

 魔力は食物や空気中の魔力を体内に取り込んだり、魔力の器自体もその大きさに応じて魔力を生成する役割を持っているため、魔力はどんどん器に溜まっていく。たとえ魔力が枯渇したとしても、一日程度で完全に回復する。また、魔法薬を使えば急速に魔力を回復することも可能だ。

 

 そうして魔力の器が満タンになれば、魔力の器から魔力が溢れ出して体外に魔力が排出される。故に、魔力容量を超える魔力は保持することはできないのである。

 

 他にも山ほど説明することはあるのだが、ひとまずはこの程度で留めておく。要は何が言いたいのかというと、魔力とはこの魔力の器のおかげで蓄えることができる、ということだ。

 

 本題に入ろう。キャロルが魔力を持てない理由。それは先ほども述べたが、キャロルの魔力の器にヒビが入っており、そこから魔力が漏れ出し、魔力を保持できないからである。

 

 魔力の器にヒビが入るなど、滅多に起こることではない。しかし極々稀に、そういう子が生まれるのだ。生まれつき、魔力の器にヒビが入って生まれる子が。それが、たまたまキャロルだった。ただそれだけの話である。特に理由はない。強いて言うなら、とてつもなく不運であったとしか言いようがないだろう。

 

 随分と長くなってしまったが、要はキャロルは生まれつき魔力を保持できない体質なのである。

 

 故にキャロルは魔道具を扱えないため、今の時代にキッチンや浴槽に術式が刻まれていない、街外れにある古い家に住まざるをえなかったのである。まぁ、その分格安で手に入ったのではあるが。

 

 そんなわけで、魔力を持たないキャロルはこの世界でとてつもなく大きなハンデを背負って生きているのであった。

 

 そんな説明をしている間に、キャロルが川に着いたようだ。説明はこのくらいにして、場面を彼に移すとしよう。

 

 キャロルは川の水を飲み、顔を洗う。冷たい水を浴びて意識が覚醒し、朝日を浴びて爽やかな気分だった。本当は貯水槽に水を入れて濾過処理をしてから飲み水として利用するのだが、冒険者として外の川で喉を潤すなど日常茶飯事であるため、キャロルは構わずに飲んでいた。

 

 普段はこんな朝早くから水を汲みに来ることなどなく、なんだが新鮮な気分だった。せっかくの休日なのだからのんびりとしたかったキャロルは、川に降りるために作られた石造りの階段に腰を下ろす。

 

 そうして少しの間、川で魚が跳ねる水音を聞き、気持ちの良い風を浴びる。ほぅと小さく漏れる吐息は、珍しく疲労によるものではなかった。たまにはこういうのも悪くはないなと思いながらも休憩を終えて立ち上がると、バケツ一杯分の水を汲み、階段を上がり家まで歩く。

 

 さほど距離があるわけではないが、ただでさえ力のないキャロルにとって、たったバケツ一杯の水を運ぶのも大変な作業であった。

 

 えっこらと両手でバケツを運び、ようやく家が見えてきた。朝の一仕事を終え、充実感とともに気持ちよく一日が始まる。まだ位置の低い太陽の光を浴びて目が眩むが、そんな出来事でさえ気持ちよく感じる、そんな朝。

 

 キャロルは気がついた。眩しくてよく見えなかったが、家の扉の前に誰かが立っている。誰だろうと目を凝らすと、随分と長身な女性が、どんどんと扉を叩いていた。なにかを叫んでいる。何を言っているのだろうと、キャロルは耳をすませた。

 

「キャロル!大丈夫!?何かあったの!?待ってて、すぐにこの扉ぶち破って助けに行くから!」

 

 待て。待て待て待て。やめろ。何をしようとしているのだあの幼馴染は。

 

 せっかく運んだバケツを思わず落とし、水を地面にぶちまける。だがそんな些事にかまけている余裕などない。キャロルが手を伸ばし、待て、と叫ぼうとした次の瞬間。

 

「オラァ!」

 

 その勇ましい声と同時に木製の扉は幼馴染によって蹴破られ、バキバキと音を立てて砕け散った。あれはもう明らかに、修理とかでどうにかなるレベルではない。

 

 キャロルは伸ばした手をへなへなと力なく下ろし、下を向いてフラフラと幽鬼のように家へと歩く。足元には水が広がり、歩くたびにピチャピチャと音を立てた。

 

 その音を聞き、何事かと下手人は振り返る。茶色のショートヘアーが靡き、煌めくエメラルドグリーンの大きな瞳でこちらを見つめる。そうしてキャロルの存在に気がつくと警戒を解き、花が咲くような満面の笑みを浮かべてこちらに駆け寄ってくる。

 

「キャロル!よかったぁ〜、何度呼んでも返事がないから、何かあったのかと思って心配したよ〜……」

 

 そんな幼馴染を尻目に、見るも無残な姿になった扉を見やる。ゴーガンのじいさん、またなんとかしてくれるかな。そんなことを考えるキャロルだったが、なんやかんや文句を言いつつも、あの気のいいドワーフはきっと直してくれるに違いない。そんな希望的観測を抱きながら、こちらまで来た幼馴染を見上げる。

 

「キャロル、おはよう!」

「……おはよう、ジル」

「もう、どこに行ってたの?心配したんだから」

 

 そんなことを言う幼馴染に、小さくため息を漏らし、疲れた声音で言う。

 

「とりあえず、片付け手伝え」

 

 こうしてキャロルの一日は、最悪なスタートを切ったのだった。

 

 

 

 ひとまず扉の残骸を軽く片付け、キャロルは扉を破壊した大罪人を寝室兼居間に招いていた。

 

「ーーもう、悪かったわよ。でも、いつもの時間にいなかったキャロルにだって責任はあるのよ?」

「いや、まぁ確かに俺にも落ち度はあるけどさぁ……。でもさすがに扉を蹴破るのはやりすぎだろ……」

 

 キャロルは特に悪びれる様子もなくこちらを見下ろす幼馴染ーージル=エクスレートを見上げる。昔は同じくらいの背丈だったのに、どうしてこんなに差がついてしまったのか。頼むから10センチくらい分けてもらえないだろうかといつも思う。

 

「もう、弁償するからいいじゃない。それに、本気で心配したんだから」

 

 実際ジルの行動はキャロルを本気で心配してことであり、キャロルもそのことはわかっていたためあまり強くは言えなかった。

 

 それでもせめてもの仕返しとばかりにキャロルはジト目でジルをじーっと見つめる。不機嫌アピールである。身長差のせいで見上げなければならないのが辛かった。

 

 しかしそんなキャロルの姿も、ジルから見れば小動物がこちらを見上げているのと同じようなものであり、キャロルには申し訳ないが愛くるしさを感じずにはいられなかった。

 

 ジルはキャロルの姿を見てからかうように、ニヤニヤしながら言う。

 

「何?誘ってんの?」

「いや、なんでそうなる」

「あーもう、相変わらずかわいいなぁ〜……」

「おま、ちょ、やめっ……」

 

 後ろからキャロルを抱え、うりうりと弄るジル。40センチ近い身長差では抵抗など無意味であることを、キャロルは長い付き合いでよく知っていた。しかもたちの悪いことに、ジルは薄着であった。どことは言わないが、柔らかな感触がとてもよく伝わった。

 

 まぁとはいえ、長い付き合いの幼馴染に欲情を抱くキャロルではなかったし、最近は抱きしめられるという行為がトラウマになりつつあるので余計にその思いは強かったが。

 

 しかしそれでも同じ年齢の女性、それも幼馴染にこんな子供扱いをされるのはあまりに恥ずかしい。そう思い、キャロルはなんとか拘束から脱しようともがいて抵抗する。

 

「ジル、いい加減離せって」

「もー、恥ずかしがらないでもいいじゃん。長い付き合いなんだし」

 

 そんなことを言いつつも、ジルはキャロルを解放する。やけに聞き分けがいいなと思った次の瞬間。ジルはえいっとキャロルを布団に押し倒した。尻餅をついたキャロルに、四つん這いになったジルがジリジリと詰め寄る。

 

「何を……」

「最近会えなくって寂しかったのよ?いいじゃない、久しぶりなんだから」

 

 久しぶりだからという理由が、どんな行為も正当化できる免罪符になると勘違いしていないだろうか。よだれを垂らしそうな勢いでグフフとだらしない笑みを浮かべるその顔と、いやらしい手の動きがやけに様になっているのが腹ただしかった。

 

 ジルから離れようとキャロルが後ろに下がるのに合わせ、ジルもゆっくりと詰め寄る。明らかにキャロルで遊んでいる。そして、とうとう壁際まで追い詰められてしまった。

 

 体格差もあいまって、威圧感がすごい。きっと猫に追い詰められた鼠というのはこんな気持ちなのだろうなと、思わず鼠に感情移入できてしまうほどだ。

 

 そんなジルに対してどこか原始的な、本能的な恐怖を感じたキャロルは、図らずして最悪の悪手を打ってしまった。

 

「ジ、ジル。本当に、シャレになってないよ……」

「ッ!」

 

 キャロルは小さな体を更に縮こまらせ、若干涙目になりながら言う。その、相手の嗜虐心を否応無く刺激するキャロルの姿を見たジルは息を呑み、大きく目を見開いた。

 

「……可愛い」

 

 そう一言呟くと、ジルから先ほどまでのどこかふざけた様子は消え失せ、ハァハァと呼吸を荒くし、妖艶な眼差しでキャロルを見つめる。

 

 そのジルの様子を見て、キャロルに悪寒が走る。キャロルは経験で知っていた。こうなった女はやばい。脳裏をよぎるのは、酔っ払って理性を失ったシャルナだ。あの時はかろうじてなんとかなったが、今回はどうなるか。自分では天地がひっくり返ってもジルには勝てない。万事休すか。

 

 これから自分に訪れる未来を想像してキャロルは思わず目をつぶり、ジルの手がキャロルに触れようとしたときだった。何かがジルめがけて勢いよく飛んでくる。

 

「グハァッ!」

「……え?」

 

 それはジルの横腹に深々と突き刺さり、その大きな体を吹き飛ばした。ジルは吹き飛ばされた勢いで床を転がり壁に激突する。戦闘に関しては超一流のジルも、このあまりに突然の出来事には対応できなかったようだ。そしてそれはキャロルも同じで、思わず間抜けな声を漏らしていた。

 

 キャロルは何が起こったのだと、飛んできたものを見やる。そして飛んできた者はゆっくりと立ち上がると、キャロルを見つめる。そして、二人の目があった。

 

「キャロル、おはよう」

 

 ジルを飛び蹴りで吹っ飛ばした者ーーロニアは、いつもと変わらぬ感情の起伏がまるで感じられない声でそう言うと、ペタペタと素足でこちらに歩み寄る。

 

「キャロル、大丈夫だった?」

「え?あ、あぁ。大丈夫だよ。ありがとう、ロニア」

 

 どうやら自分を助けるための行動だったらしい。それにしてももう少し他にやり方があったと思うが、助けてくれたことには変わりないため素直に礼を言った。

 

「朝ごはん、食べにきた」

「そっか……」

「あと、今日は一日お休みだから、ずっと一緒にいられるよ」

 

 天使の如き美しい微笑みを浮かべながらロニアは言う。まるで先ほどの出来事など何もなかったかのような態度だが、視線を横にずらせば、そこには横腹を抑えて呻くジルが倒れている。そうしてジルがよろめきながら立ち上がった。

 

「おい……。何しやがんだ、てめぇ……!」

 

 キャロルに向けていたものとは真逆の、ゾッとするような低い声でジルは言う。その目はギラギラと輝き、明確な敵意をロニアへと向けていた。

 

 まぁ、ジルがこうなるのも仕方がないと思う。なにせジルからすれば、いきなり飛び蹴りを食らった挙句に無視を極め込まれたのだ。怒り心頭になるのは当然だろう。そしてロニアもロニアで、ジルの殺気に反応して戦闘モードに入っている。その赤い瞳はジルをじっと見据えて動かない。あれは魔物を狩るときの、じっと獲物の動きを観察するときの目だ。

 

 このままではまずい。この組み合わせはまずい。なぜよりによってこの二人なんだ。そう思わずにはいられない。大抵はどんな組み合わせだろうが、口論や睨み合い程度で済む。仮に殴り合いになりかけても、胃のダメージと引き換えにして止められる。

 

 しかし、この組み合わせだけはまずい。ジルもロニアも、猛者ばかりの自身の知人の中でもさらに戦闘面に関しては抜きん出ている。その上キレたら自分が何を言おうが聞きはしない。そんな二人の喧嘩が始まれば、このボロ家が家でなく、瓦礫の山に変わり果てるのは目に見えている。

 

 キャロルは無理だと思いつつも、慌てて止めに入る。

 

「ま、待てって二人とも!落ち着けって……」

「キャロルは黙ってて」

「キャロル、今忙しい。後にして?」

 

 これはダメだ。二人とももう完全にスイッチが入ってしまっている。こうなってしまえばもうどうしようもない。

 

 二人は構えてじっと見つめあっている。うってかわって、空間は静寂に包まれていた。時さえも止まったかのような静寂の中、不意に、小鳥が木から飛び立つ音が聞こえた。ーー瞬間、二人は同時に飛びかかった。

 

 ロニアとジルが、がっしりと両手を重ねて組んず解れつとしている。もっとも、互いに相手をぶちのめそうとして行われるそれに、興奮するものなどいやしなかったが。いや、フーフーと獣のように唸る二人は、ある意味では興奮しているのだろうが。

 

 ロニアも長身ではあるが、いかんせん相手が悪い。更に背の高いジルがロニアを押し倒して優勢に思えたが、ロニアもうまく体を入れ替えている。さすがは人類が誇る最強生物と言われるだけのことはある。

 

 そんな二人を見てキャロルが考えることなど、一つしかなかった。

 

 ーーそうだ、朝ごはん作らないと。水、汲みにいかないとな。

 

 いや、というよりも、何も考えなくなった、という方が正しいか。キャロルは考えることをやめてすっくと立ち上がると、フラフラと玄関まで歩いて靴を履きバケツを持つ。

 

 部屋から出た後、一層激しくドタバタと争う音が聞こえた。家が揺れ、パラパラと木屑が落ちてくる。しかし、もういいのだ。

 

 家を出ると、あいも変わらず眩い朝日がキャロルを照らした。

 

 あぁ、なんて気持ちの良い日差しなんだろう。そう、もういい。だって、今日はこんなにも天気がいいんだ。きっと良い一日になるに決まってる。

 

 キャロルはそう信じて疑わないような晴れ晴れとした表情で、バケツを持って川へと向かった。

 

 

 

 20分くらいしてある程度水を汲み終わったキャロルが部屋に戻ってくると、ジルとロニアは組み合うのをやめて再び距離を取り見つめ合う均衡状態となっていた。

 

 二人ともゼェゼェと息を切らしており、身体中ボロボロだった。この後に友情でも芽生えてくれればいいのだが、生憎と両者の瞳からは闘志が一欠片たりとも失われておらず、いつ再び戦いが始まるかわからぬ危険な状態であった。

 

 二人の様子を見ると、ジルは薄い服が所々破けて肌が露出し、ロニアも服が汚れ、サラサラだった髪が乱れてところどころ跳ねている。繰り広げられた激戦がどれほどのものだったかを物語っているようであった。

 

 そして、それ以上にボロボロになった、部屋。あらゆる家具がグチャグチャに床にぶちまけられ、変わり果てたその様はまるでハリケーンにでもあったのではないかと見まごう程だ。

 

 それを見てキャロルは、普段と変わらぬ平坦な声で二人に言った。

 

「朝食ができるまでに片付けが終わってなかったら、お前ら二人とも追い出すから」

 

 二人はそそくさと掃除を始めた。

 

 

 

 朝食を作り終えたキャロルが部屋の様子を見に行くと、見事に綺麗に……、なっていなかった。少しは片付いているが、まだまだ元どおりというには程遠い状態だ。二人はバツが悪そうに視線を下に向け、キャロルよりよほど大きな体を縮こまらせていた。

 

 それを見てキャロルが小さくため息をつくと、二人の体がビクンと震える。まるで花瓶を割った犬のようにしおらしくなっていた。

 

 出て行けと言われるんだろうか。

 

 その言葉を覚悟した二人だったが、耳に届いたキャロルの声は、予想外の優しさを含んだものだった。

 

「ごはんできたから、早く食べよう?お腹空いてるだろ?」

 

 二人にキャロルがかけた声は、母性すら感じさせるようなとても優しげなものであった。キャロルのその声を聞くと二人は顔を上げ、パァッと表情を明るくする。

 

 キャロルは元より、あれだけボロボロになった部屋が短時間で綺麗に片付くとは思っていなかった。初めから、二人とも反省しているようであれば許すつもりでいたのだった。

 

 それから部屋に朝食を運び、机を囲む。本日の朝食はパン、サラダ、コーンスープ、オムレツという簡単なものであったが、味付けや調理法にこだわるキャロルはこれらの料理を美味しく仕上げていた。

 

「「いただきます」」

 

 そう言うやいなや、二人はバクバクと食べはじめる。運動というにはあまりにアレだったが、朝から激しく体を動かして相当お腹を空かしているようだった。特にこの二人はよく食べるので、多めに作っておいてよかったとホッとするキャロル。

 

 そうしてどんどん皿の中身が無くなっていく。自分の作った料理をここまで食べてくれるのは、見ていて気持ちが良かった。しかし嬉しい気持ちになる反面、二人とも身分は貴族なのである。こんな貧相な食事よりももっと良いものを毎日食べているはずだ。自分の料理で満足できるのだろうかとも思ってしまう。

 

 しかし美味しそうに食べる二人を見ると、次第にそんな思いは薄れていった。それに、二人のがっつく様子は全然貴族には見えない。それがなんだか可笑しくて、思わず微笑んでしまう。

 

 やはり、今日はいい一日になりそうだ。そう思うキャロルだった。

 

「「ーーごちそうさまでした」」

 

 そうしてあっという間に食事を平らげた三人。まぁキャロルは小食であるため、平らげたのは主に二人であったのだが。

 

「相変わらず美味しかった〜」

「キャロル、美味しかった」

「それはよかった」

 

 そう言いながらもキャロルが食器を片付けようとすると、慌ててジルがそれを止める。

 

「あ、キャロル、私がやるからいいよ。キャロルはゆっくり休んでて?」

「ダメだ。部屋の片付けがまだ残ってるだろ?」

「うぅ……」

 

 キャロルにそう言われると、流石のジルもどうしようもなかった。普段は家に来るたびに、キャロルが別にいいというのにもかかわらず家事をするジルだが、今回ばかりは自分に非があるため渋々了承したのだった。

 

 そうしてキャロルが食器を洗い終わる頃には部屋もだいぶ綺麗になり、ようやく一息ついた三人は近況報告も兼ねた会話に花を咲かせていた。

 

「キャロル、私この前の遠征で、単騎で大型二体を同時に相手にして討ち取ったの。どう?すごくない?」

「いや、すごいなんてもんじゃねぇよ……。怪我はしなかったか?」

「もちろん無傷よ」

「そうか、良かった……。まぁでも、俺は生きて帰って来てくれるだけで十分だよ」

「心配しないでキャロル。私は絶対に死なないから」

「……そうか。なら、安心だ」

 

 えっへんと大きな胸を張るジル。もしも自分が大型の魔物二体を相手にしたら、倒すどころか生きて帰れるかどうかも怪しい。さすがはたった一人で魔物の群れを全滅させ、騎士になってからわずか五年足らずで大隊一つを任され、千人あまりの騎士を率いているだけのことはある。

 

 しかし願わくば、幼馴染にはそんな危険な仕事をして欲しくないと思ったが、それがどれだけ身勝手な願いか自覚して思わず自嘲する。10年前に目の前の幼馴染に泣きながら同じことを懇願されたのにもかかわらず、冒険者になったのはどこのどいつだ。

 

 それにジルは絶対に死なないと言ったが、人があまりに簡単に死ぬことを、俺はよく知っている。

 

 人は脆い。あまりにあっけなく死んでしまう。その気になれば、幼い子供にだって人は殺せるのだ。魔物にとってはもっと簡単だ。奴らはただその腕を振るうだけで、牙を突き立てるだけでいい。それだけで人は死ぬ。奴らと対峙する以上、命の保証などどこにもありはしない。

 

 もちろんそんなことはジルも理解しているだろう。だからジルの言葉は自分を気遣ってのものであり、幼馴染に気を遣わせてしまう己の不甲斐なさが情けなくて仕方がなかった。

 

 キャロルの心に暗い感情が渦巻くが、無理やりその感情を振り払う。気を取り直し、ロニアの近況を訪ねた。

 

「ロニアの方はどうだ?」

「私も昨日、大型三体倒した」

「すごいさらっと言ったけど、そんな依頼を平気でこなすのはお前くらいだからな?」

 

 自分はロニアの実力を知っているのでさほど驚きはないが、一日で大型を三体倒すなど本来なら正気の沙汰ではない。逆にいえばギルドはロニアに対し、そんな正気でない依頼を任せても平気であると、無事に生還できると信じているという信頼の証でもあった。

 

 二人の話を聞きながら、キャロルは思う。

 

 ーーあぁ、この二人はやはり、俺なんかとは違う。

 

 自分は小型の魔物を相手にするのでさえ精一杯だ。中型になれば逃げの一手。大型など、出会えば死を覚悟する。

 

 大型相手に一人で戦いを挑み、ましてや勝利するなど自分には不可能だ。弱気になっているとかではなく、事実として、自分の実力ではそれが無理だと理解している。

 

 ジルとロニアは間違いなく歴史に名を残す傑物だ。この二人の代わりが務まる人間など誰もいやしないだろう。いくらでも代わりのきく自分のような人間とは違うのだ。

 

 自分がどれだけ努力しても、彼女達には決して届かない。自分が百の努力で一を得るのを、彼女達は一の努力で百を得る。そんな他の追随を許さない圧倒的な才能を持ちながらも、二人はさらに血の滲むような努力をしている。無才な自分がそんな彼女達に追いつける道理などありはしない。

 

 自分が求め、焦がれ、血を吐くような努力をしてなお手に入らなかった力を持つ彼女達に、どうしようもなく憧れる。同時に、それに決して手が届かないことも知っている。

 

 家族を殺されたあの日以来、力を欲し、そのために努力してきた。しかし望んだ力を手に入れるには、自分には何もかもが足りなかった。

 

 生まれつき筋肉が付きにくい体質故に、鍛えても全く筋力がつかず、細く小さな体では満足に剣を振るうこともできなかった。

 

 めげずにジルに、自分でも扱える軽い木刀で稽古をつけてもらったりしたが、自分に剣の才能がないことを知っただけだった。

 

 魔物を殺せるような強力な魔術を覚えようにも、魔力を持たぬ自分では前提からして話にならなかった。

 

 これがキャロルに突きつけられた現実だった。他の誰より努力しても、他の誰よりも弱かった。どれだけ努力しようが望んだ力は手に入らなかった。手に入るはずがなかった。ただでさえ才能がない上に、小さな体と魔力を持てないという先天的な、努力ではどうしようもない部分でもキャロルは詰んでいたのだから。

 

 キャロルは努力では超えられない壁があることを、どうしようもないくらい理解していた。

 

 きっと神様がいるのだとすれば、自分のことが心底嫌いに違いない。そんな馬鹿なことを考え、何度自分の運命を呪ったことか。

 

 再び暗い感情が心を侵食していくのがわかった。しかし、表情には決して出さない。二人には無用な気遣いをされたくなかった。

 

 そうして二人の近況をある程度聞き終わり、ジルがキャロルに尋ねる。

 

「キャロルの方は最近どうなの?」

 

 キャロルは、心に抱いた暗い想いを一切感じさせない様子で話す。こんなことばかり、キャロルは得意だった。

 

「俺の方は特にいつもと変わりないよ。基本的には街の中でできる依頼をこなしてる。街から出たとしても、近くの森の採取依頼くらいかなぁ」

「そっか。でも最近は魔物の動きが活発になってるから気をつけてね?行動範囲も広くなって、街の近くにも現れてるみたいだし」

「あぁ、気をつけるよ。でも、俺なんかより二人の方がよっぽど危ない橋を渡ってるんだから、二人の方こそ気をつけろよ?」

「大丈夫よ。私強いから」

「ん。私も、こいつより強いから大丈夫」

「そうか。表に出ろ、白黒つけてやる」

「やめなさい」

 

 そんな会話をしていた時だった。すいません、と玄関から聞きなれない女性の声が聞こえてきた。どうやら来客らしい。

 

 本来キャロルの家は、玄関の扉についてるノッカーを叩いて来客を知らせる仕組みなのだが、今はあいにく扉が壊れているためそれを使うことができない。

 

「悪い、ちょっと行ってくる」

 

 相手に不便をかけたことを申し訳なく思いながら、席を立つキャロル。そしてそのまま玄関に向かおうとしたところで、ジルが小さく呟いた言葉を耳にした。

 

「この声……」

 

 この来客に心当たりがあるのだろうか。そう思ったが、ジルにその事を聞くよりもまずは来客の相手をすることを優先した。ロニアを部屋に残し、ついてきたジルと共に玄関に向かう。

 

 それにしても、知り合いの女性を除けば来客など珍しいことである。というのも、この家はただでさえ広い街の外れにある上、あまりに濃密だったせいで忘れていたが、まだ朝早い時間帯だ。一体誰なのだろうと思いながら、玄関に着いた。

 

 玄関に立っていたのは、長く鮮やかなピンク色の髪をサイドテールにし、吸い込まれるような深い青の瞳を持った、美しい女性だった。

 

 しかしキャロルの意識を奪ったのはその容姿ではなく、服装の方だった。その女性は、ジルの所属するバリス騎士団の隊服を着ていた。しかも白を基調にした隊服の胸あたりには、勲章のようなものがつけられている。あれはたしか、大隊の副隊長の者が身につけるものだったはずだ。

 

 あまりに予想外の来客にキャロルは目を瞬かせる。そんなキャロルに対し、その女性は申し訳なさそうにしながら言葉を発した。

 

「あ、扉がなかったもので、玄関まで勝手に入ってしまいました。申し訳ありません……」

「あぁ、いえ、お気になさらず。こちらの方こそ不便をおかけしてすいません……」

 

 そうして互いに頭を下げた後、女性は今度はジルへと言葉をかける。事務的な言葉遣いだったが、その声音には親しみが込められているのがわかった。

 

「隊長、おはようございます」

「リンデ、なんであんたがここに……」

「隊長に用があって来たんですよ」

 

 ジルにリンデと呼ばれた女性は、詳しく用件を説明する前にキャロルをまじまじと見つめ、恐る恐るといった感じで訪ねた。

 

「あの……、あなたが、キャロルさんでしょうか」

「あ、はい。そうですけど……」

 

 ジルに用があって来たのではないのか?なぜ彼女が自分の名を知っている。そう思い警戒するキャロルだったが、そんなキャロルを見たリンデは慌てて疑念を晴らそうと言葉を続けた。

 

「あ、名前を知っていたのは、隊長からよくお話を聞いていたからであって、別に警戒されなくとも大丈夫ですよ?」

「ジルから話を……」

「はい……。あ、そういえばまだ名乗っていませんでしたね。申し遅れました、私はバリス第七騎士団、第五大隊副隊長、リンデ=ストラベルと申します。そちらのジルさんの部下にあたりますね」

「あ、これはご丁寧にどうも……。俺は、キャロル=リズウィークです。職業は冒険者です」

「はい。よろしくおねがいします」

 

 大抵貴族というのはどこか平民を見下した態度をとる者が多いのだが、リンデの自分に対する対応はとても丁寧なものだった。騎士には平民出身の者もいるが、リンデの所作は明らかに上級階級の人間のそれだ。珍しいこともあるものだと思った。

 

 そうして挨拶まで終えたが、リンデは相変わらずキャロルをじっと見つめていた。

 

 自分の顔に何か付いているのだろうか。そう思い始めたあたりで、リンデは悩ましげな吐息を漏らした。こちらを見る瞳がユラユラと揺らぎ、体をモジモジと動かすリンデ。その様子は、ギルドでたまに女性の冒険者が自分に向けてくるものと酷似していた。

 

 リンデの瞳に何やら纏わり付くようなものを感じ、少し恐ろしくなり思わず視線を逸らしてしまう。その様子は恥ずかしがって顔を逸らしたようにも見えた。

 

「これはちょっと、卑怯ですね……」

「でしょ?いつもこうなの」

 

 ジルとリンデがそんな会話をしていたが、意味はよくわからなかった。

 

「で、本当に何しに来たのよアンタ」

「って、そうですよ、こんなことしてる場合じゃなかった……。隊長、休暇中に申し訳ないのですが、会議場まで来てもらいたいのです」

「……何?」

 

 リンデのその言葉を聞き、ジルの様子が一瞬でオフからオンに切り替わる。その目は既に、キャロルの幼馴染のジルではなく、バリス第七騎士団、第五大隊隊長、ジル=エクスレートのものであった。

 

「内容はここでは詳しく話せませんが、現在王都にいる大隊の副隊長以上の者に、召集命令がかけられています」

「……わかった」

 

 ジルは頷くと、キャロルの方へ向き直る。

 

「……キャロル、ごめん。今日はもう行かないといけないみたいだから、また今度ゆっくり過ごしましょ」

「あ、あぁ……。またな、ジル」

 

 ジルは苦虫を噛み潰したような表情をしてから、心底残念そうにキャロルにそう言った。いまいち事情がつかめないキャロルは戸惑いながらも別れの言葉を口にした。

 

 口惜しいが、ジルはそのまま家を出ようとした。が、このタイミングで部屋から出てきたロニアと目が合う。そしてトコトコ歩いてくると、キャロルの右腕と自身の両腕を絡め、ジルを心底バカにしたように、フッと鼻で笑った。

 

「ロニア、どうかしたのか?」

「なんでもない。早く、部屋に戻ろう?」

「こいつ……」

「隊長ほら、行きますよ」

 

 それを見たジルは額に青筋を浮かべて頬をヒクつかせるも、大きく一度深呼吸して、リンデと共に家を去った。

 

 

 

 ジルとリンデは大河沿いを歩きながら言葉を交わしていた。

 

「あの、隊長。あの女性って、ロニア=センスレイヴですよね?なぜあんな大物が……」

「私も詳しくは知らないんだけど、キャロルが昔仕事で面倒みたら懐かれたって言ってたわ。本当に腹立たしいったらないわ……」

 

 心底イライラしながらそう言うジル。その話に興味があったリンデだが、同時にこの話を続けるのはジルの機嫌を損ねるだろうと思い、話題を変える。

 

「それにしてもキャロルさんって、なんというか、とても綺麗な人でしたね……。最初見た時お人形さんかと思いましたよ」

 

 そう言いながら、リンデはキャロルの容姿を思い出す。中性的で整った顔立ち。抱きしめれば折れてしまいそうな、細く小さな体。サラサラの金の髪に、大きな青い瞳。その声も中性的であり、透き通った綺麗な声であった。

 

 リンデがそんなキャロルに抱いた第一印象は、儚げ。弱そう。お人形さん。という、おおよそ青年に対して抱く印象とは程遠いものばかりであった。

 

 ジルの話では、とても小さくて可愛い。小動物のようだ、とのことだったため、幼い少年のような容姿を想像していたのだが、実際見たキャロルの姿はそんなリンデの想像とは異なるものだった。

 

 まず、子供のように寸胴な体型ではなく、華奢なその体はとても細かった。また顔も小さいため、頭身や体のパーツバランス的には大人とそう変わらないように思えた。逆に言えば、体格的には子供にも劣るということなのだが。中性的で整った顔立ちも、子供らしさよりも、どちらかといえばむしろ大人びた印象を受けた。

 

 その中性的で美しい容姿と透き通るような白い肌も相まって、一種の芸術品のようだとすら感じてしまった。あのどこか儚げな雰囲気を醸し出す少年。いや、実際は青年なのだが、彼を見て庇護欲を掻き立てられない女性などいないだろうとリンデは思う。

 

「そうなのよね〜……。あの容姿だから、昔は大変だったのよ?昔キャロルが貧民街に仕事に行った時のことなんだけど、娼館に攫われたことがあってね?知り合い……、と一緒にその娼館を潰して助け出したことがあったくらい」

「その話、すごい気になるんですけど……」

 

 知り合いという単語を発したとき、一瞬目つきが怖くなったが、リンデは特にそれには言及はしなかった。触らぬ神に祟りなしである。

 

 しかし、確かにあの容姿ならば攫いたくなる気持ちも分からないでもない。それほどまでにキャロルの容姿は刺さるところには刺さるものだった。もし娼館でキャロルが働くとなれば、間違いなく一番人気になるに違いない。そんなことを考えるリンデに、ジルは一転して真面目な表情になって言う。

 

「なんで私のいる場所がわかったのかは、まぁいいわ。けど、副隊長のあんたがわざわざ来る意味って何?他にいくらでも使える人間はいたはずでしょう?」

 

 場所に関してはいえば、ジルは身長のせいでただでさえ目立つ上、役職上、その動向を知られていても不思議はなかったためよしとした。しかし、わざわざリンデが出向いた意味がわからなかった。

 

 大隊の副隊長というのは、政務などで結構忙しい。ジルにとっては休日に呼びつけられることなど別に珍しいことではないし、こんな雑用紛いのことは下の人間に任せればいいことなのだ。

 

 リンデが自分を呼びに来たことが意味すること。それはつまり、下の人間ではダメな理由があるということ。それだけ今回呼び出された理由が重大なことなのではないかと、ジルは思う。そして、その重大な事態に思い当たることが、ジルにはあった。

 

「……例の魔物の件か?」

「それもあるとは思いますが、本題は別にあります。まぁ、私もまだあまり詳しくは知らないのですが」

 

 例の魔物の件ではないとすると、アレだろうか。ジルは目つきを鋭くし、リンデの言葉を待つ。リンデはジルにだけ聞こえるように声を小さくして話す。

 

「今回の情報は、暗部が入手したものらしいのですが……」

 

 暗部。その言葉を聞くと、ジルは自分からキャロルを奪った、飄々とした銀髪の女性を思い出してしてしまい、反射的にギリッと歯を軋ませた。しかし、リンデの次の言葉を聞くと、そんな些細な感情など流されてしまった。

 

「自我を持つ魔人。ーー魔族が、魔界からこちら側へ侵入したとのことです」

 

 ジルは、リンデの言葉をゆっくり咀嚼し飲み込んだ。その言葉の内容が意味すること。それはつまり。

 

「竜人族が、やられたの?」

「いえ、そこまではわかりません。しかし、魔人が集団で動くことなどありえません。少なくとも、魔族が侵入したという情報は確かかと」

「……そう」

 

 リンデの言葉を聞いたジルの頭は、混乱するでも慌てるでもなく、ただただ冷静であった。なぜならジルにとっては魔族が攻めてこようが、魔物の群れが迫ろうが、関係がないことだからだ。ジルの思考は単純明快である。どんな脅威が迫ろうとも、関係がない。なぜならば。

 

 ーーどんな敵だろうが関係ない。キャロルの命を脅かすものは、なんであれ必ず殺す。

 

 ジルの答えは、10年前のあの日から何も変わらないのだから。

 

 

 

 大河に架かる大きな橋を渡ると、貴族たちの住む立派な邸宅が並び立ち、その奥には豪華な王宮がそびえ立っている。

 

 この街は、大河を隔てて平民と貧民が暮らす土地と、貴族と王族が住まう土地に分けられている。各国同士の貿易の中継地として、他種族と手を取り合い発展してきたバリス王国の王都そのものが、人間に対して差別的な構造をしているのはなんとも皮肉を感じずにはいられなかった。

 

 それから王宮近くにあるバリス騎士団の敷地に入ったジルは、自身の所属する第七騎士団の隊舎に着いた。他の隊舎と比べると、どこか古いというか、悪く言えばボロい印象を受ける建物。これは、第七騎士団が貴族ではなく、平民出身の者が多いことが原因だろう。

 

「リンデ、先に会議場に行っててちょうだい。私は着替えてから行くから」

「わかりました。では、失礼します」

 

 そうしてリンデと別れる。とりあえず、今のボロボロの服装のままでは色々と問題がある。大隊長として、千人近い人数を束ねる者として、こんな格好で他の隊の者に姿を晒すわけにはいかない。

 

 貴族として位の低い、男爵家であるエクスレート家の者が大隊長を務めているというだけで、周りの者は煩いのだ。体面くらいは貴族らしくあらねばならない。心底面倒くさいが、これも必要なことだ。ジルは正装に着替えるため、自身の部屋へ向かった。


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