人間の記憶ほど不確かなものはありませんが、そこから何かに気づくものもあるのかもしれません。
一体全体どんなきっかけでそんな話になったのか、私は実は全然覚えていなかった。
ただ、いつものように2人でお茶を飲みながら他愛もない話をしていた…はずだった。
気づいたら、私の口からこんな言葉が飛び出していたのだ。
「今1番怖いことって何かな?」
貴方は少し首を傾げ、天井を仰いだ。
「そうだなぁ。記憶がなくなることかな?」
貴方は上を向いたまま、答える。その時どんな表情をしていたのか、私には見えなかった。
「記憶?」
まるでオウム返しのように、私は言葉を返した。
普段、あまり感情の見えない貴方から出てくる言葉としては、あまりに意外だったから。
「うん、だってさ…。今まで大事にしてた物や事に、価値を見いだせなくなるかもしれないんだよ?」
「なるほど。」
なんとなく、わかるような気もするけど…。
思いの外、この話題に食いついてきた貴方が次に何を語るのか気になって、私は言葉を飲み込んだ。
…トンっ。
貴方の人差し指が机を叩く。
思わず、目線が指先に向かう。
しなやかな指がリズミカルに踊り、更に数回机をタップする。
「自分がどうしてこんなものを所持しているのか…、何故こんなことをしているのか、その理由の全てがわからなくなる。」
指先を見つめながら、貴方の言葉が耳の中に入ってくるのをじっとまっていた。
こんなもの…とは、うずたかく積まれ、部屋の中を埋め尽くす勢いの書籍たちのことだろうか。
それとも、実際に質感を確かめてみたいと無作為に集めた資料(私にはガラクタにしか見えない)だろうか…。
いずれにしろこんなこと、は貴方がしている仕事に他ならないだろう。
物書きとは難儀な生き物だ。
「ん~、でもさ。身近な物を見てたりしてたら、またわかるようになるんじゃないかな?」
1度は心に響いたものなのだ。如何に記憶がなくなったからと言って、そう簡単になんとも思わなくなるものなんだろうか…。
私がそんなことを考えていると、貴方は自分の指先から目線を上げる。
そのまま、目線は窓の外へ向けられ…。
「そんな保証はどこにもないさ。ずっと、失ったままかもしれない。」
「確かにそうかもしれないけど…。」
貴方の視線が、少し悲しげに揺れた…ように見えた。
「今あるものが大事なほど、今、まわりに居てくれる人が大切なほど、その恐怖は計り知れない」
……どくんっ
不意に、私の心臓が大きく跳ね上がった。
え?なんでいきなり?
突然の事に、少なからず私の心は動揺した。
「…そうだね。」
平静を装いながら、やっとの思いで私は一言を口から絞り出した。
貴方はいつものように、何を考えているのか読めない表情でこっちを見ている。
慌てて、目の前に置かれているアイスティーに手を伸ばす。
いつのまにか結構な時間が経っていたのだろう、グラスにはびっしりと細かい汗が浮かんでいた。
私が触った場所から大きな雫になり、膝元へと滴り落ちる。
「冷たいっ。」
「そりゃあそうだろう。」
少し呆れたような顔で、拭くものを手渡してくれた。
私は一先ずアイスティーをテーブルに戻し、濡れてしまった自分の膝を拭く。そして、また同じことが起こらないようにグラスの汗も拭き取る。
使い終わった手拭きはたたみ直し、テーブルの隅に置いて貴方の顔をそっと見る。
特に何も考えていない、そんな表情ではある。
カラン…
私は少し恥ずかしくなり、アイスティーの中に少し残っていた氷をつついて音を立てる。
もしかしたら、動揺が伝わってしまっただろうか。
そんなことを考えながら次の言葉を探していると、貴方は小さく息をつき話を続けた。
「まぁ、モノならまだいいさ。もし僕が記憶をなくして君を不審人物扱いしたら?君はどうするかな?」
「どうって…。そりゃあ、記憶がもどらないかなぁってがんばってみるんじゃない?」
ある程度の予想はしていたが、やはり矛先は私に向けられた。
記憶を取り戻すためにどんな方法があるだろうか…。
1番ポピュラーなのはアレか…。
ショック療法。
でも、不審人物扱いされてるのにいきなり殴ったりしたら余計に拗れそうな気がする。
そもそも、初めまして状態になるわけだから…近づくことも出来るか怪しい。
て、ことはある程度仲良くなってから隙を見せた時にスパーンっと一気に叩きのめすか…。
でもでも、それで仮に記憶が戻ったとして、殴った記憶がそのままだったら?
それはそれで私は危ないヤツ認定されるのでは?
そんな事を考えながら私がウンウン唸っていると…。
「相変わらず、百面相が得意だな。まぁ、どうせロクなことは考えていないんだろうが。」
「なっ…。私が折角色々考えているのにっ…。」
考え事をしている間の表情を、冷静に観察されていたと思うと一気に顔が熱くなった。
なおも噛み付こうとした私の言葉を制し、貴方は話し続ける。
「ふむ。僕がにべもなく君を冷たくあしらったとしても?」
「それは…実際に起こらないとわからない。」
「だろうね。」
そう言うと貴方は椅子に深く腰を下ろし直して、背もたれにぐっと寄りかかる。
私はたまらず、下を向く。
なんだろう…なんか嫌だ。
別に貴方に冷たくあしらわれるのは慣れているはずなのに。
感情をあまり表に出さない人だから、良く誤解されると自分でも言っていた。
それなのに、貴方の中に私の記憶がないと思うと重たい鉛が胸に詰まっているような感覚がする。
その上で、向けられるであろう視線や言葉を想像すると…。
椅子に座っているのにグラグラと足元が揺れているような、そんな奇妙な感触に襲われる。
なんだろう、これ。
私、おかしくなっちゃった?
冷静になろうと、さっきは手に取るだけでテーブルに戻してしまったアイスティーを再び取り、1口飲む。
カラン、と音を立てていた氷はさすがに全部溶けていて私が期待したような冷たさはもう保たれてはいなかった。
それでも私は、もう1口、さらに1口とアイスティーを飲み干していく。
「でもきっと、僕は君とどんな風に過ごしてきたかなんて、キレイさっぱり忘れている。」
貴方のその言葉がまるでスイッチだったかのように、ポタポタと雫が垂れる。
私の手に、膝に落ちて折角乾いたスカートが再び濡れてしまう。
「……。」
何も言葉にならなかった。
最初は自分で話を始めたはずなのに、今はなんでこんな事話し始めたんだろう…と考えていた。
喫茶店の中にいるのに、店の中にいる人達の話し声や店内のBGMすら私の耳には入ってこない。
いたたまれなくなり、目を瞑り俯いてしまう。
貴方の目には、今の私はどんな風に写ってるのかな…。
永遠とも感じられるような時間が流れ、ふと私の頭にあたたかいものが触れた。
ぽんっ…わしゃわしゃ…
軽く頭を叩き、髪の毛を無造作に撫で回す。
「それでも、君は僕のそばにいられる?」
顔を上げて貴方を見つめたはずなのに全然顔が見えない。
それは、貴方の大きな手が涙を拭ってくれたから。