千冬さんがまた失敗します。
綾崎ちゃんも失敗します。
千冬さんのちょっとした勘違いですよ。
小さなスレ違いが小さなまま終わるといいですね。
side奈桜
「あ、美味しい……」
「ほ、ほんとか母さん!?」
「ええ、とても美味しいです。また腕を上げましたね、箒ちゃん。」
「ふ、ふふ……そうか、そうか!母さんが居ない間も手を抜かずに毎日自炊をしていたのだ、頑張った甲斐があった!」
「「ぐぬぬ……」」
「あ、あはは……」
その日の夜は箒ちゃんが夕食を作ってくれた。
こうして寮監室に集まることも私が気絶していた間は無かったらしく、なんだかそれを考えると酷く申し訳なくなる。
けれどその分皆何処か嬉しそうで、シャルルくんちゃんという新しい仲間も増え、今日の寮監室は一際騒がしかった。
「はい千冬さん、お注ぎしますよ。」
「ん?ああ、すまない。……お前にこうして注がれるのも久しぶりだな。」
「ふふ、そうなんでしょうか。私としては目が覚めたら2週間も経っていたので、つい先日のことの様に思えてしまうのですが。」
「こちらにしてみれば長過ぎる2週間だ。何度お前が帰ってこない悪夢を見て飛び起きたと思っている。」
「あら、そんなに心配されていたんですね。なんだか嬉しくなってしまいます。」
「お前が居ないと私の食事が貧相になるからな。」
「もう、直ぐそういうこと言うんですから。」
頬を膨らませる私にお酒を飲みながら薄っすらと笑みを浮かべる千冬さん。
そんな私達を他の人達は微笑ましそうに見守っているが、きっと私の知らない2週間は彼らにとってそれほどに長い時間だったのだろう。
本当に申し訳がなく、そしてそれほどに思われていたということが何より嬉しい。
「……そういえば、そろそろ学年別トーナメントがあるんでしたっけ。千冬さん、私は「許さん」……はい。」
有無を言わせず却下されたのはともかく、トーナメントとなれば、きっとこの部屋にいる生徒達はやる気に満ちていることだろう。
その証拠に、その単語が出た途端に女性陣+一夏くんの目の色が変わった。
「今度こそ勝ちますわ。」
「私だって、必ず優勝してやるんだから。」
「私とて負けるつもりはない、足手纏いになるのはもう御免だ。」
「俺だって負けてられねぇ……もっと強くならないと駄目なんだ。」
「あ、あはは……」
各々がやる気を見せ、バチバチと視線を合わせる中、1人だけその外で愛想笑いをしている人物がいた。
……彼(女)の内心を考えれば、その気持ちも分からないこともない。
彼(女)にしてみれば、今はそれどころでは無いだろうから。
「一夏くん、一夏くん。」
「ん、んぇっ!?ど、どうしたんだ綾崎さん!?」
バチバチとしている一夏くんの服を指で摘み、クイクイっと引っ張る。
何故か妙に驚愕している彼であるが、そんなことは気にせず生徒手帳を取り出して彼の耳元で囁く。
(生徒手帳の42ページ、困った時に見てみてくださいね?)
「えっ?えっ……!?」
盛大に困惑しているが、今はこれでいい。
シャルルくんちゃんが善人か悪人かは分からないけれど、その判断は一夏くんにして貰おう。
生かすも殺すも彼次第……けれど彼の判断なら、きっと悪い事にはならないと確信できる。
私はその判断がされるまでのフォローに徹していれば問題は無いはずだ。
シャルルくんちゃんの方にも顔を向けて手を振り、その場を離れた。
そのまま千冬さんの隣へと戻ったのだけれど、千冬さんの顔は妙に神妙で……
「お前は悪女の才能があるな。」
???
一体何の話をしているのだろう。
side千冬
消灯時間の1時間前。
この時間になると決まって私は騒がしいガキ共を自分達の部屋へと追い返す。寮監室で集まることはまあ良いとしても、それが理由で消灯時間後もフラフラしているとなると体裁が悪いからだ。
楽しく遊ぶのは構わないが、それが理由になって規則を破ってはいけない。自由には責任が伴う。
「……ふう、今日も楽しかったですね。千冬さん。」
「ふっ、相変わらず騒がしくて仕方ない。これでは昨日までの静かな夜が恋しくなってくるな。」
「またそんなこと言って。ほら、口角上がってますよ?」
「……見るな。」
「ふふ、は〜い♪」
皆が帰った後、この部屋は一気に静かになる。
正直に言えばその落差に少しの寂しさを感じる事はあるが、綾崎と二人になるこの時間も嫌いではない。
2人で向かい合って座って、他愛のないことを話し、酔った私が世話を焼かれる。
ちっぽけな平穏ではあるが、そんな時間がたまらなく愛おしく、自分が幸福な時間を生きているのだと実感することができる。
そう思っているのが私だけではないと嬉しく思う。
……こんな事、普段は誰にも言えなければ、ひどく酔った時くらいにしか考えたりすらしないが。
「……綾崎、久しぶりの授業だったが、何か変わった事はなかったか?困った事でも構わない。」
自分の思考の恥ずかしさを隠すように、目の前でニコニコと笑っている綾崎に声を掛ける。
1日出来る限りフォローはしたつもりだが、ずっと付いていることなど立場上出来るはずもなく、実は気になっていたことでもあった。
「そうですね……メモが取れない分、先生方から資料も頂けましたし、特に問題はありませんでしたよ?実技に参加できないのは少し寂しいですが。」
「それはせめてトーナメント後までは我慢しろ。事情が事情だ、筆記と補習で成績もカバーする。まあ、成績に関してお前の心配はしていないが。」
「教えてくれる先生が優秀ですから、当然です。」
「……媚びても頭を撫でてやるくらいしかできんぞ?」
「いいんですか?私には十分過ぎるご褒美になりますけど。」
「うっ……」
自分で言い出しておいてなんだが、こんな返しは卑怯だと言わざるを得ない。
頭を撫でるなど一夏にすら数度くらいしかした覚えがない。
つまり慣れていないのだ。
こいつはそれを分かって言っている。
意地が悪いように思えるが、きっと"十分な褒美になる"という言葉も嘘ではないのだろう。それも含めて卑怯だと言うのだ。
こういった小さな事でもこいつには勝てる気がしない。
「……全く。ほら、こっちにこい。」
「ふふ、やりました♪それではお言葉に甘えて……」
わっしわっしと若干乱暴にだが頭を撫でてやる。
自分の不器用さが嫌になるくらいに無骨なものだが、それでも嬉しげに受け入れるのだからそこもまた好ましいというかなんというか。
「………」
……だが一方で、その嬉しさの感情を素直に受け取ることが出来ない私もいた。
そんな好ましさだとか、愛らしさだとか、そういったものをそれだけで全て台無しにしてしまうような一つの大きな違和感。
それがあの日からずっと私の心の内に蠢いていたからだ。
きっと他の誰でも気付くことはできない。
他ならぬ自分だからこそ気付くことが出来た、小さな変化。
小さくて目立たないものにも関わらず、考えれば考えるほど嫌な想像ばかり掻き立てるその疑問は、着実にこの和やかな空間を蝕んでいる。
私はそれに耐えきることができず、この日遂に言葉に出すことを決めていた。
「………綾崎、聞きたいことがあるのだが、構わないな?」
「聞きたいことですか?ふふ、千冬さんの質問になら私、なんでも答えてしまいますよ。」
「正にそれについてだ。」
「へ……?」
キョトンとした顔の綾崎から手を離し、真っ直ぐにその瞳を見つめる。
何が何やらという顔をしているが、私はむしろ信じられなかった。
本人がこの変化に気付いていないということに。
「綾崎……」
「は、はい。なんでしょう、千冬さん。」
「お前の一人称は、いつから【私】になった?」
「………?なんの話ですか?」
「っ!」
気付いていないなんて話ではなく、覚えていない……?
まさかそんなことが……あり得ないとは思うのに、そんなタチの悪い冗談を綾崎が言う筈もないというのも事実で、
「お前はこれまで私の前では、口調が元のものに戻っていた筈だ。そんな女性がかった笑い方もしなければ、自身を"僕"と呼称していた。覚えていないのか……?」
「えっと、そう言われましても……。千冬さんが嘘をついているとは思いませんが、何分そんな覚えが無いので……」
「バカな……!」
「……千冬、さん……?」
そういえばと振り返れば彼が目を覚ました次の朝、一夏を含めた生徒達の呼び名が変わっていたことがあった。
精神鑑定の結果で問題が無かったが故に、あの時は混乱しているのか程度にしか考えていなかった。
しかし今思えばそんな混乱の仕方はあり得ないだろう。
【"わたし"が、あまやかしたい、から……】
(っ!!あの夜にはもう既に……!?)
自分が目を覚ました綾崎に泣きついた時、綾崎は既にこの状態になっていた……?
だとしたら自分はどれほど間抜けだと言うのだ。
正直な話、心当たりはある。
直接的な原因となったであろう心当たりだ。
精密機器の増えた学園の医療施設で徹底的に行った検査の結果、ナノマシンの弊害"以外"で見つかった、左目以外のもう一つの"異常"。
原因はそれ以外に考えられない。
しかし理屈が分からない。
一体どんな理由があれば『人格が塗り潰された』とでも言える、こんな状態に陥ることがあるのか、説明ができない。
記憶はある、思考は正常、性別の認識も問題ない。
言動も変わらず、恐らく考えていることも同じだろう。
ただ、綾崎の中の男性的な思考が、女性的な演技だったものに完全に塗り潰された。
取って代わられた。
そう思わざるを得ないような変化が起きている。
記憶さえもそうだ。
……さもそれが自然であったかのように居座っている、この人格は一体なんだ……?
綾崎の女性的な振る舞いは、例えそこに嘘偽りが無かったとしても、自意識的に誇張して作り出していたものに過ぎない。
元の主人格とでも言うべき彼は間違いなく男性的なものであるし、敬語を使うタイプではあったが、ここまで畏まった使い方はしなかった。
ここにいるのは、一体誰なんだ……?
本当に、綾崎直人という少年なのか?
心優しく、素直で、誠実で、けれど弱い心を持っているわけではなく……
いや、ダメだ。
これでは目の前にいる綾崎奈桜という少女も同じ。
人間性では2人を分ける決定的な何かにはなり得ない。
そもそも、綾崎直人と綾崎奈桜の違いとはなんだ?
2人の間にある違いなど、それこそ言葉遣いや呼称程度のものしか無いではないか。
私は消えてしまったからという理由だけで綾崎直人という人格を惜しみ、綾崎奈桜という人格に嫌悪感を抱いているのではないのか?
どちらも憎むべきものではなく、どちらも愛すべきものであるにも関わらず、愚かにも2人を区別しようとはしていないか?
そもそも分けて考えることがおかしいのだ。
綾崎直人も綾崎奈桜も同一人物であり、どちらか一方を疎かにしていいものではないだろう。
なぜこんな当然のことを私は……
いや、待て、前提を履き違えるな……!
そもそも綾崎奈桜という人格は作り物で、元の綾崎直人という人格が乗っ取られた今、今居る人格を疑うのは当然だ!
しかし自分は綾崎奈桜に何かされたのか?
この人物から何か不穏な空気でも感じたか?
そんなはずがない。
そんなわけがない。
この少女はいつも通りに私を慕い、仲間を想い、誰かのために身を粉にして何かをしようとしていた。
何の問題もない。
綾崎直人が綾崎奈桜になったところで、何の変わりもない。
きっとこのことが分かるのは自分だけだ。
この急激な変化に気付けるのは自分だけだ。
そして問題は自分にしか起きていなければ、むしろ性別がバレる危険性が減ったという利点もある。
綾崎自身もそれに気づいていなければ、これが自然だと思い込んでいる。
……本当に、何の問題もないのだ。
綾崎直人という人格が消えたところで。
悲しいくらいに、
何も。
……ならば私は、一体なにをこんなにも気にしている……?
「……千冬さん。そろそろ夜も遅いですし寝る準備をしましょう?久しぶりの学校で、今日は "僕も" 疲れてしまいましたから。」
「っ!?」
懐かしいその響きに、私は勢いよく綾崎の方へと振り返った。
綾崎は後ろを向き、フラフラと覚束ない足取りで壁に手をつきながら洗面所の方へと歩いていた。
「綾、崎……?」
そんな何かを求めるような情けない声をかけた私に、彼はピタリと立ち止まり、こちらへと振り返る。
「………お風呂、先にいただきますね。千冬さん。」
酷く寂しく、何かを堪える様な悲しい笑顔で綾崎はそう言った。
胸に添えられた片手が強く握り締められていたことには気付くことができた。
……けれど、
私には、その言葉がどちらのものかさえも分からなかった。
2人とも自分が男だという自覚はある。
どちらも心優しい人間だ。
どちらも千冬を慕っているし、
どちらも一夏達を大切に思っている。
2人の間に違いなんてない。
どんな状況でも2人の出す答えは変わらない。
だって同一人物なのだから。
……それならば、どちらがどちらでも構わないじゃない。
違うのは言葉遣いくらいなのだから。