その建物は規模の割に妙に薄暗く、そして人員があまりに少な過ぎた。
そんな場所で引きこもって生活していれば生活力のない者達の集まり故にまともな食事など取れるはずもなく、定期的に外から帰ってくる者達が買い込んでくる材料を"とりあえず焼いとけ"と男飯にして食う事すら珍しくなかった。
「……カップ麺、まだあっただろうか……」
フラフラと廊下を歩くのはエムことマドカ。
この建物で最も消費量と供給量の多い飽きに飽きたそんな食べ物を朝から思い浮かべている時点で手遅れという他ないが、彼女としては今日はとんでもなく辛いカップ麺が食べたい気分だった。
昨夜の衝撃的な出来事から普段からは考えられないほど(強制的に)よく眠らされたマドカは、未だにガンガンと頭痛はするものの、あの光景を思い返す度に顔に熱が登って悶絶する。
「……くっ、こんなニヤついた顔を奴等には見せられんぞ。しっかりしろ私……!」
……これは絶対に誰にも明かすことのできない秘密であるが、実はマドカは昨夜一度だけなんとか意識を保つ事に成功していた。その際、欲に流されてマドカは目の前に置かれていた奈桜の無防備な掌をツンツンと恐る恐るではあるものの触れてみたりしてみた。
『お、おぉ……』
と、触った瞬間はらしくもなく情け無い声を出してしまうほどに感動したものだが、その直後に何の奇跡か偶然奈桜が握り込んだ拍子にマドカの手と奈桜の手が所謂恋人繋ぎになってしまい、その日最大の衝撃によってその後5時間ほど気絶から復活できなくなるという大事件も起きていた。
それを思い返す度にマドカは蹲って叫ぶ衝動を無理やり抑えていたりするのだが、起きてから顔を洗いに行ってもその時に繋がれた右手を彼女は未だ洗う事が出来ずにいた。数ヶ月前の自分が今の自分を見れば間違いなくドン引きするだろうが、『だったら貴様、数ヶ月後にもう一度同じことを言ってみろ』と豪語できるのが今の彼女だ。マドカにとって奈桜の存在はそれほどに大きなものだった。
「……ん?」
ようやく食堂の扉の前まで辿り着いたマドカは、まず妙にその扉の向こうが騒がしい事に気がついた。
いつも騒がしいことは間違いないのだが、普段の食事の奪い合いのような騒がしさではない。カップ麺を取り合って基本的に徹夜明けの兎と朝の弱いオータムがポコポコと殴り合いをしている事はよくあるのだが、どうにも暴れている様子は無く、ただただ喚き声だけが廊下に響いている。
(歩くこともままならなくなるほど殴り合ったか……元気なことだ。)
「おい、朝から喧しいぞお前達……!」
頭痛のしているこちらとしてはその喧しい声は頭にガンガン響いて耐えられない。
威嚇をするように勢いよくドアを開け放ち怒鳴り声を上げると、しかしそんな彼女の目の前に広がっていた光景は多少の頭痛など一瞬で吹き飛ばしてしまうようなものであった。
「あら……おはようございます、マドカさん。」
「テメェコラ兎ィ!!何私の卵焼きまで食ってんだ!!」
「食べるのが遅いOちゃんが悪いんですぅ!これもいただきぃっ!」
「させるかボケ!お前の考えなんか見え見えなんだよ!」
「むぅぅ!!Oちゃんの癖に生意気だぁぁ!!」
「まあまあ、まだまだ作ってますから……ささ、マドカさんも座って下さい。簡単な朝食ですけど、朝のご飯は何より大切ですよ?」
昨日来た時よりも綺麗になった食堂で、これまで見たこともないような景色が広がっていた。
そこにあるだけでまともに使われる事もなかった食器や調理器具達が意気揚々と仕事をしており、部屋中に広がっているこの匂いはただそこにあるものを焼いただけの無骨なものではない。
味噌汁、白米、焼魚、卵焼き、野菜和え……そんな映像でしか見た事がないような、お手本のような温かい朝食がそこにはあった。
「いやぁ、お味噌汁なんて久しぶりに飲んだよ〜。変に気取った高級料理より美味しかったし、束さん的には大満足!」
「私的にはもう少し辛くても良かったんだが、やっぱこもってる愛情って言うの?それが違うよなぁ!」
「ふふ。オータムさんへの愛情は入っていませんから、それはきっと気のせいですね。」
「酒を出せ酒を!飲まないとやってられっかぁ!!」
「今日は出掛ける用事があると聞いていますよ?ISでも酒気帯び運転は絶対にダメです。」
「チクショウ、こんなことなら台所を明け渡すんじゃなかった……!」
時すでに遅し、オータムの欲望は制限されてしまった。
そう言う場で無くては特に酒を飲む事はない束はここぞとばかりにオータムを挑発し、再び騒がしく言い争うのだから、この2人は今日も今日とて相変わらずである。
……さて、そんな光景を目の前にしている今のマドカであるが、最初こそ彼女の五感はその場に存在する朝食に意識を奪われていた。
それは彼女がそんなものを食べる様な環境に居られなかった故に生じた少しの感動、加えて起床後の適度な空腹が彼女を引き付けた。
しかし今の彼女が惹きつけられているのはそんなものではない。
確かに目の前の食事は見た目だけでも絶品だ。
湯気が漂っており、白米ひとつ取っても輝いて見える程に盛り付けから配分まで気を遣われていることが見て取れる。オータムに対してはああいったが、食べる者のことを考えて作られていることなんて、素人でも分かるレベルの話だ。
だが、それよりも魅力的なものがあるとするならば……
他ならぬマドカにとって、これまで食べたことの無い様な半ば憧れ染みた料理に対する三大欲求をも超える強力な存在がこの場にあるとするならば、それは間違いなく……
エプロン姿の奈桜に違いなかった。
「……?どうかしましたか、マドカさん。」
「……ごふっ。」
「マドカさん……?」
母性に溢れた優しげな顔つきで、片手でお盆を胸へと抑えながら、もう片方の手でその長い髪をかきあげるエプロン姿の推し。
それだけならまだしも、
呆けているこちらに気付き、目線を合わせる様にそのまま少しだけ前屈みになって、自分の名前を呼びながら笑いかけてくれるなど……
咄嗟に背ろに振り向いて鼻から漏れ出る赤いファン魂を彼に見せることなく、どうにかこうにか気絶せずに事をやり過ごした自分を、マドカは心の中で最大に評価した。
「マドカさん……もしかして、あまり食欲ありませんか……?」
「い、いや!そんなことはない!!ただ少し、クシャミが出そうになっただけだ!」
「……あ!料理に飛んでしまう事を気遣ってくれたんですね。ありがとうございます。マドカさんの為に作った様なものなので、美味しく食べて欲しいですからね。」
「くっ、学園の兵器は化け物か……!?」
「……?」
"流石にそろそろ慣れろよ"と言いたい者もいるかもしれないが、よくよく考えてみれば昨夜は奈桜と近くにいる殆どの時間を気絶して過ごしており、そうでなくとも出会った直後に色々と彼に想いの丈をぶつけてしまったが、必死さ故に何を言ってどんな反応を返されたのかこれっぽっちも記憶に残っていないマドカである。
つまりぶっちゃけ、彼女にとってはまだ推しの実物を実際に自分の目で見てから数分程度の感覚なので……
ただこうして名前を呼ばれて笑いかけられただけであっても、自分の為に作ったと言う料理も踏まえて、『コンサート後に偶然にもサイン会の抽選に当選した熱狂的なファンが、推しに名前を聞かれた後に主演を務めた映画での名台詞を自分の名前にして呼んでくれた時』の様な心持ちなのだ。
つまり足ガクガクである。
気絶してしまうレベルで興奮している。
自分の為に作ったなどと恐れ多いことを言われてしまい、先程まで尋常じゃない程に美味しそうに見えていたあの料理達が、今ではまるで天上の神々が食べる様な眩い至高の存在に見えてしまい、近付く度に息が乱れる。
こんなものをあれだけ横暴に食べていた束とオータムの気が知れない。あいつらは頭がおかしいのか?と普通に思ってしまうが、この場合どう考えても頭がおかしいのはマドカの方である。
喧嘩が激しくなり食堂を勢いよく飛び出して行った天才的な馬鹿2人はさておき、
奈桜にしてみれば束から渡された手の感覚を補助する薄い白手袋の使い心地を試しながら、昨日マドカに言われた事を思い出しつつ、取り敢えず今ある物を使って簡単に作ってみただけのものだ。
もちろん一切手は抜いていないが、それでも奈桜の感覚としてはそこまで仰々しくされるほどの物ではない。むしろ"簡単なもので申し訳ない"というのが本音だ。
それなのに……
「こ、これを、本当に私が食べても、いいのか……?」
「え?ええ、簡単なもので本当に申し訳ないのですけど……えっと、もしお嫌いなものがあれば別の物をお作りしますよ……?」
「そ、そんなはずがあるか!私はこれでいい!い、いや、これがいい!これを私に食べさせてくれ!頼む!!」
「……ああ!なるほど、そういうことでしたか。ふふ、それなら私に任せてください。」
こんな話になれば奈桜が困惑するのも当然で……
それ故に奈桜がこんな風に勘違いをしてしまうのも仕方ないと言えよう。
「はい、マドカさん?あ〜んです♪」
「………??????????」
"これを私に食べさせてくれ"
"頼む"
そんなことを言われてしまえば奈桜の性格から考えて思考がこう向かってしまうのは当然の話である。
しかもマドカの見た目はいくら織斑千冬に似ているとは言え、それよりかなり幼い容姿。
孤児院で多くの子供達の面倒を見ていた奈桜にとってマドカは、"千冬に似ている自称妹"という要素よりも、"少し恥ずかしがり屋な可愛らしく小さな女の子"という要素の方が強く印象付けられているのだ。
それ故に、どれだけマドカがストーカー行為を暴露しようとも奈桜の中では子供の悪戯としか認識されず、許容範囲も大の大人に対するモノよりも何倍も大きなものに拡幅されている。
そして、世話焼きの度合いや甘やかしっぷりも普段学園の生徒達に対するものの比ではない。
小さな子供に対してこそ、奈桜の本質は花開く……それが自分に対して好意を持ってくれる者に対してならば尚更……
「ち、ちがっ!私は別にそんなつもりじゃ……!」
「ふふ、マドカさんは本当に可愛らしい方ですね。いいじゃないですか、今はどうせ私達しか居ないんです。誰も見ていませんよ?」
「そ、それは……!だ、だがこんなこと、私には勿体無いというか……」
「もう、そんなこと言わないでください。私はマドカさんが望む事なら、可能な限りは応えちゃいますよ?」
「か、かかっ、可能な限り……!?」
その時のマドカの反応は間違いなくDTのそれであったが、彼女の内心を露ほども知らない奈桜にとってはそんな反応も可愛らしくて、こうして卵焼きを摘んだ箸を持っていなければ抱き締めてトドメを刺してしまうところであった。
「マドカさん。もし時間が空いていればいいのですが、私の話し相手になってくれませんか?私、こうしてゆっくりとお話ししながら朝食を食べる時間が好きなんです。」
「うっ……あ、貴女がそう言うのなら、私は、その、構わないが……」
「ふふっ、やっぱりマドカさんは優しいですね。はい、あ〜んですよ。」
「う、うぅ……あ、あー……」
織斑マドカはのちに語る。
この日が人生最良の日であり、私は彼に出会う為に生まれてきたのだと何の迷いもなく言い切れる様になったきっかけでもあったと。
なおこの数時間後、魂が完全に抜け切った抜け殻の様な織斑マドカが食堂で発見された。
死因はあーん実行時の至近距離による幸福顔の過剰摂取……食べさせる側の人間が一番嬉しそうな顔をするという事態に逃げ場を失ったマドカは耐え切れなかったと見られる。
完食した後の顔を近づけての自然な頭撫での破壊力はマドカにとって完全なオーバーキルであったが、止める者など誰も存在しなかった……
一方その頃、学園では……