「――ぜデス!」
(誰だ……)
呼吸音すら耳に届かない圧倒的静寂と、一点の光も届かない圧倒的暗闇が支配する空間。その中で、少年は直接脳に響くノイズに自問自答する。
「――なぜデス!」
ただただ独り言のように続くノイズは、付随するような形で映像までも脳に運んでくる。
血に染まった祭壇に祈りを捧げ続ける、黒いローブを纏った色白の痩せこけた男――。
見覚えのないはずの男の顔がはっきりと思い浮かぶ様は、まるで“他人の記憶が脳に刷り込まれている”そんな摩訶不思議な感覚だった
そしてそれは単に映像で終わることなく、次いで少年の精神にも影響を与え始める。
全身に走る寒気。この上無い禍々しさから来る血の引くような悪寒が少年の心を蝕んでいった。
それは男の骨格まで浮き彫りになった顔に恐怖を抱いたからでも、呪いの儀式を目の当たりにして嫌悪感を抱いたからでもない。
男の想いの重さを、少年が理解してしまった――ただそれだけの理由だった。
「―――ナゼ!ナゼ!ナゼ! これほどまでに魔女を! アナタを! アナタを愛しているというのにナゼ! ナゼあなたは私の愛を受け入れてくれなかったのデス! ナゼあなたは姿をお見せになってくれないのデス!」
その祈りは崇拝を超えて狂気。
自らの捧げられる愛全てを――、この世界に蔓延る愛全てを――、憎悪、嫌悪、怨嗟、憤怒、悲嘆、嫉妬、絶望の込められた憎愛すらも――、勤勉に魔女に捧げる男の姿だ。
(お前は一体……)
どれだけ少年が歩み寄ろうとしても、その声は男には届かない。少年は不可解な状況下にただただ脳を疲労させていった。
そんな少年に、休む暇も与えず次の景色がインプットされた。
先ほどの狂気とは真逆の優しく愛おしい空間。
銀髪の母娘と青年が仲睦まじく生活している幸せな記憶だ。
木々に囲まれた平地で小鳥と戯れる銀髪の少女と、それを優しく眺める二人――。
駄々をこねる子供と、しかる母と、娘の頭を撫でる青年――。
三人で手をつないで、森の奥へと歩いていく三人の家族――。
そんな数々の正の感情に溢れた光景が――
記憶と呼ぶには朧げな、願いのようにも思える光景が――
次々と少年の頭に刷り込まれて行く。
しかし少年には、それを純粋に感じ取って微笑んでいる余裕はなかった。
記憶が刷り込まれるたびに、脳への負担が頭痛となって少年を襲う。
(俺に何を伝えたいんだ……)
「―――約束を」
(約束?)
答えた刹那、緑溢れた景色をきらびやかな赤い炎が襲う。
木々は倒れ、血で溢れ、生き物は息絶え、辺り一面は火の海と化す。その倒壊した森の姿はまさに地獄絵図であった
煙炎天に張る地獄の中、先ほどの青年が立ちつくしていた。
少年は、初めて青年と目が合った。
「―――ジョット。約束を」
(それは……)
――俺じゃない
しかし少年のその言葉は青年には届かなかった。情景の中を眩いばかりの白い光が走り、強制的にかき消した。
白光が過ぎ去り世界が色を取り戻すと、辺り一面は白銀世界へと変わっていた。
先ほどの地獄とは、対極をなす地獄だ。
ただ、そこに絶望は感じなかった。絶望よりも物言えぬ悲しみがはるかに勝っていた。
少年は言葉を失っていた。どんな言葉を紡ごうと巡り巡る記憶の連鎖を受け入れるしかないと悟った。
そんな少年が言葉を取り戻したのは、情景の奥に人影が映し出された時だった。
氷漬けになった銀髪の少女と、その前に佇む狂気の化身の痩せ男。
少年はすぐに、この空間を支配する悲しみの理由を理解した。
男にとって、その少女は何を賭しても守らなければならない大切なものだった。
全てを尽くして助け出さなければならない存在だった。
それを証明するように。男からは強い後悔と決意が溢れていた。
――あなたにお願いがあるのデス
男と目が合う。その目には血の涙が流れていた。
――滅びゆく私の代わりに、彼女を守って欲しいのデス
その惨憺たる表情に不思議と恐怖は感じなかった。
男の決意を感じ取った脳髄が不純な感情を抱くことを拒否しているようだった。
(わかった。必ず守るよ)
少年は記憶の中の男に誓いを立てた。
実在しない妄想の中の産物だとも、記憶の中だけの存在だとも、少年には思えなかった。
――後は、任せたの、デス
生気の薄れていく、弱々しい声だった。
男の意識をつなぎとめていた強い意志が、目的をやり遂げた安堵から薄らいだためだと、少年は理解した。
――自らの使命を他人に任せて死にゆく……、怠惰デスね
悔しさの混じったその言葉を最後に、景色は闇に覆われた。
そしてその記憶もまた、まるで夢の話だったかのように薄れ、少年――沢田綱吉の意識は覚醒した。
あまり深く考えないほうがいいプロローグ