「何をおっしゃってるんですか博士、俺は」
「女性だよ……目の前にいる奴みたいにな、手鏡でも見せてやろうか?」
俺は目を逸らすことで、その提案に答えた。
自分が今どんな顔をしているのかわからない程に混乱している。
いきなり自分の性別を否定されるなんて、全く意味がわからない。
からかわれているだけなのだろうか。だとしたら面白くもない冗談だった。
俺のことを動揺させて、情報を引き出そうとしているのだろうか?
自分の体のことは、自分が一番良くわかってるつもりだ。
それが俺の現実でずっと変わりようのないものだし、これからだってきっとそうだった。
例え人の認識を弄れたり、自分の体の構成を元に戻すことは出来たとしても。
羽を生やしたり、腕を増やしたりと弄ることは出来なかったのは実証済みだ。
だからきっと俺は自分の体というものが基底にあるのだと思っている。
なのに心臓は、いつもよりずっと早く鳴っている。
「ありえません、俺は“ずっと昔”から男ですよ、学校にだってちゃんと男子学生として通ってました、そちらが掴んだ情報でも証明されているはずです」
「本当に……本当にそう思っているのか?見ていた鏡の中のお前はちゃんと男だったのか?」
「そうです、毎朝見ていました」
なんなら鏡なんてどこにでもある。
あるいは街中のショーウィンドウの反射だろうと。
その中での俺は確実に男だった。意識するまでもない。
学生服だってしっかりとした男子制服だった。セーラ服なんて着ていない。
着ようと思ったこともない、前世と同じく俺は男だから。
博士はいつの間にかコンパクトな手鏡をどこからか取り出していて、机に置いた。
「なら、よく見てみろよ」
言葉のままに俺は、それへと視線を向けた。
鏡面の中には知らない誰かが居た。その誰かは、椅子に座っている。
映画で見たことのあるような大層な拘束具に包まれて。
喋れるようにだろうか顔面だけが晒されていた。
そこから零れ落ちた長い髪、黒く淀んだ瞳、刻まれた深い隈、その顔を、俺は知っていた。
不健康そうな少女が項垂れながら、鏡の中でコチラを見つめていた。
その目が驚愕に見開かれたことがすべてを物語っているようで我慢ならなかった。
「誰ですか、これ」
否定するように、絞り出すように俺は言った。
願わくばその虚像が他人であることを望みつつ。
それが何の意味も持たないということも知っていた。
「君だよ」
「ハ、そんなはずないじゃないですか!?こんなの!俺じゃない!違う、違います……」
目を大きく見開いて、鏡の中の少女は博士に噛み付くように叫んだ。
まるで俺の真似をするように拘束具が振り回され、こすり合ってギチギチと音を立てた。
自分でも気づいている事に気づきたくないからこそ、大声を出してしまっている。
何も救われない、自己中心的で醜い振る舞い。
何も変わらないし消えない、鏡の中で少女は拒絶するように首を振った。
混乱の渦が脳みその中で回り始める、痛みは床の下から響く音をより大きくさせた。
スクラントン現実錨は正常に起動しているんだ、歪められそうな現実を維持するために。
そして現実を歪めようとしているのは俺だろう、無意識にコレは行われていたんだ。
この世界における人生と匹敵するくらいの長い間、ずっと。
何のために?
それはきっと俺が、自分の人生を進めるためにだ。
俺の人生を、もう一度歩もうとしていた。
盗んだ靴で、他人の敷いたカーペットの上を歩くみたいに。
馴染みやすくなるように無理やり合わないサイズなのに靴紐を緩めたりしながら。
だから、俺はこんな事を続けていた。
いつからだ?
タオルがあの人の手によって小さな顔に押し付けられた時からか?
この娘が歩むべき輝かしい未来も、味わうべき苦渋も、その全てを俺は奪い去ってしまった。
そうして自分が奪ってしまったものを、開き直ってやっと飲み込めてきたところだった。
俺は自分が望む様に世界に塗り替えて、全てから目をそらし続けてきただけだったのか?
違う、これでも精一杯やってきたんだ。死にたくもない。
全てが赦されるように頑張っただけなのに。
全身から血の気が引いていく、なのに目の周りだけが熱くなってくる。
あっ駄目だ。嫌だ。泣きたくなんてない。最後の最後に残った何かが叫んだ。
行所をなくした感情が溢れ出るのを阻止するために、上を向く。
俺は一体何なんだ?幾度となく繰り返してきた疑問に答えは存在しない。
誰も答えてくれない、これは俺の話で、誰もこれに介入してくれない。
ささやかな抵抗を笑うごとく、頬に熱い線が引かれた。
涙はこぼれ落ちた。首筋を濡らしきった液体が、汗と混じって首の下へと伝っていく。
「……きもちわるい」
吐いてしまいそうだ。
けれども博士は、こっちの様子にはお構い無しなようだった。
「実利的な話をしようじゃないか、なぁ現実改変者“ちゃん”」
ぱさぱさと紙の擦る音が聞こえる、テーブルの上に並べられたのは幾つかの資料だった。
俺はそれに見覚えがある、財団内で使用されている一般的な報告書の形式だ。
読まれてもいいという意思表示なのかもしれない。
考えるのにも疲れてしまった。もう何時から眠っていないのだろう。
脳も体も疲れている。ダンボールの上でもいいから寝かせてほしかった。
自室の柔らかいベットが懐かしい。
マトモな部屋で眠ってしまうと襲撃の危険性があるから大抵は屋外だった。
帰りたい。どこへ?居場所なんてどこにもない。
ただ、眠りたかった。
「まだ続けるんですか」
つい口から出たのは懇願に近いものだった、俺は正直言ってもう音を上げている。
思考も感情も頭の中でコンクリートミキサーに掛けてぶち撒けられたようにぐちゃぐちゃだ。
「権利は俺にあるんだ、何時終わるかなんて俺にだってわからないよ」
知ったこっちゃないと言うように、投げやりな言葉が返ってくる。
「それにだな、お前にひとこと言いたいってやつがここには上から下までワンサカいるんだ、自覚がないわけじゃないだろ?」
「それは……」
「次の番がやってくるまでは俺の話を聞いてもらうしかないということだ」
トントンと集めた紙束を白い手が机の上でまとめた。
いつの間にかそこには分厚い束が出来上がっていた。
「お前の追っかけたちがかき集めたデータだ、知ってるよな」
自分を追っている機動部隊の存在を俺は知っていた、けれども此処までとは思ってもいなかった。
俺は自分のしてきたことが、どこかちっぽけだと自嘲していたところがあった。
「これがお前の成してきたことだ、きっと振り返る暇もなかったよな?」
「……」
「お偉方はお前のことを全く掴みきれていない、発端から現在に至るまでお前は安定しない化合物みたいに辺りを跳ね回ってきたからな」
それは事実としか言いようがなかった。あの日、あの家から解き放たれた日からずっとだ。
俺は自らの作った安定の中で暮らしていたことを知って、そこから逃げ出した。
怖くてずっと見ていなかった報告書を、俺は追跡班のPCから読んでどう見えていたかも知った。俺は、無意識下に自分の好きなように現実の改変を行っていた。
笑えるな。ああはなりたくないと思った存在に、無意識の内になっていたんだから。
「結局の所、みんなお前がわからないのさ」
「わからない?」
「ああ、そうだ、わからない、俺はお前がわからない、そしてお前自身もわかってない」
博士の人差し指が前後する、最後に突きつけられたのは俺自身である。
俺も、もう自分がわからない。かつて抱いていた願いも望みも薄汚れている。
「そういった場合、俺達のやることは決まっている、お前ならわかるだろ」
異常存在が確保され、それを前にした博士がいる。
博士、あるいは研究員はそれと言葉を交わし、未知を暴いて、効率的な収容プロトコルを作成しなければならない。
そうだ、ここは財団だ。俺の好きだった創作ではない。
現実の異常存在と戦い、封じ込め、人々の目から遠ざけるための組織。
「インタビューはすでに始まっているぞ、SCP-████、お前を最後まで暴いてやる」
ああ、だからこそ俺は此処が好きだったんだ。