既に日は落ちていた。
本来であれば大地を遍く照らしているはずの満月は、天蓋を覆う分厚い雲に隠されて、光の恩恵を天下に届けられずにいる。
そんな夜のことだ。
古臭い街灯のみが闇を照らすスラムの一角に佇む事務所の中で、ダンテはらしくもなくデスクワークに励んでいた。
手元を照らす作業用の灯りを手掛かりに、彼が磨いているのは黒と白の金属のパーツ達だ。
その道に精通している者が見ればすぐに分かっただろう。それらが弾丸という名の牙を持つ、鋼鉄の獣の一部であると。
「……ふうむ? こんなところか?」
昼過ぎから始めた、らしくもないデスクワークを終えた彼の眼差しは、やはりらしくもない慎重さを孕んでいた。
何せ、今彼が手掛けているのは、生涯初となる彼自身の手によるカスタムメイドの二挺拳銃に他ならないのだから。
――いや、少しばかり語弊があろうか。
基幹というべき設計と改造をダンテが、細かな調整とアドバイスをレディが、個人の手に余るパーツの発注をトリッシュがそれぞれ担い、都合十一組目にしてようやく完成に漕ぎつけた代物であった。
組み上げるのを待つばかりとなったそれらをもう一度取り上げて、ダンテの蒼い双眸が精査する。
命を預ける武器だ。何某かの瑕疵があってはマズいのだ。
「……おっと、忘れるところだったぜ」
そして気付く。
グリップ部分には左右一対、計四つの楕円形の不自然な窪みがあった。
ダンテは徐に脇の引き出しに手を伸ばし、そこから何かを取り出した。
金髪の美女が描かれた肖像画。それが四枚だ。
ちょうどその窪みに当て嵌まるように加工された〝それら〟――彼にとっての護りの象徴と言うべき彼の母親の肖像を嵌め込んでやる。
お膳立てはここまでだ。
最後の組み立ては、真に〝彼女〟のモノとするために〝彼女〟自身にやらせるべきだろう。
「――なあ、そうだろう? ニール?」
例え血の繋がりなどなくとも、人は愛し慈しみ合うことが出来るのだから。
*
綿密な調整を終えたパーツを片付けて、ふと室内の方へと視線を向けてみれば、仄かな光の帯が窓の外から差し込んで来ていた。
ダンテは席を外し、濡れるような光条を一身に浴びながら窓を覗きこんだ。
いつしか雲は切れ、中天の円盤がご機嫌な顔を覗かせていた。
いい夜だとダンテは思った。
こんなにも月が明るい夜は、魔なるモノどもが騒ぎだす。そして無論、それは彼とて例外ではない。
満月を視界に収めるや、肉体の奥底から突き上がる熱い滾り。首周りに残るほどよい疲労感と相俟って、彼のテンションは一気に最高潮へと昇りつめた。
とはいえ、残念ながら彼と共に情熱的なダンスを刻む相手は今はいない。
柱時計は七時半を示していた。あと十五分もすれば、命の源たるピザが届けられることだろう。
合言葉ありの依頼が早いかそれともピザが早いか、と独りごち、景気づけに軽くシャワーの一つでも浴びたくなった彼は、奥の居住スペースへと続く扉へと向かった。
まだ湯にならないうちに被ったシャワーの何と心地よいことか。
滾る熱は鳴りを潜め、徐々に暖かくなっていく水が首周りの疲れに染み透っていくようだ。
しばしの間、ゆるやかな水の流れに肉体を預けるダンテ。
それから適当に体を流し、浴室から出たところで事務所の電話が彼を高らかに呼びつけてきた。
途端、鎮まったばかりの熱が再び麗しの肉体美を駆け巡る。
――イカれた晩餐会への招待状の方が先か。
ダンテの美貌に修羅さながらの凄みが宿る。
身体を伝う水滴もそのままに、大急ぎで下着とレザーパンツを穿いた彼は、喜び勇んで事務所に躍り出た。
「――Devil May Cry」
だが、彼がご馳走にありつくことはなかった。
いつの間にか帰って来ていた同居人たる少女が、目の前でご馳走を掻っ攫っていったのだ。
「ええ……いえ、申し訳ないですが今日はもう閉店です」
そう言ってすげなく電話を切った少女が訝しげにダンテを見やった。
「どうしました? ピザのお預けでも食らったような表情になっていますよ?」
「……オイオイ。俺からピザを取り上げてる張本人がそれを言うのかよ、エリゼ」
出鼻を挫かれたこと。そして、合言葉ありではなかったことですっかり萎えてしまったらしく、ダンテの語調からは先程までの修羅の色が欠け落ちていた。
「あら? ストロベリーサンデーは特に制限していませんし、ピザも週一でなら食べてもいいと言っている筈ですが……ご不満ですか?」
「勿論だね。ピザは人生を潤す潤滑油さ。それを週一にまで制限されたらカリカリに干上がっちまうぜ」
「……一度本当に干上がってみますか? きっとかつてない刺激的な境地に辿り着けると思うのですけど?」
完全に禁止すると言外に仄めかすエリゼ・シュバルツァーの言葉は、彼にとって正しく死刑宣告だった。
「……HAHAHA.〝刺激的〟っていう文言には魅かれるものがあるが、謹んで辞退させてもらうぜデビルガール」
「……ふふふふふふ。洒落にならない悪口ですが、この際褒め言葉として受け取っておきましょう」
共によく似た『悪人のような笑み』を浮かべながら、三十半ばの男と十一の少女が軽口を飛ばし合う。
軽妙洒脱な会話のリズムであったが、これこそが二年と少しの付き合いで培った彼らのスタイルなのだ。
「……おや? 机にあるのはもしかして?」
「ええ、お望みのものです。ちょうど店の前で配達の方とお会いしました」
平たい箱。上面に描かれたマークの意匠は、彼にとって大変馴染み深い店のものであった。
たまらない香ばしさが鼻腔をくすぐって彼を魅了する。まさしく食欲を掻き立てるピザの芳香に違いない。
クールでスタイリッシュを気取る彼も、この時ばかりは子供のように目を輝かせる。週一にまで制限された好物を前にすればなおのことだ。
この魅惑には逆らえないし、また逆らおうとも思わない。
背後の戸棚にしまってある黒白の二挺拳銃のことなどすっかり頭の端に追いやって、焦がれた女の手でも握るかのように優しく伸ばされた指先は、しかし空しく虚空を掻っ切った。
直前で割って入ったエリゼが箱ごとピザを取り上げたのだ。
「おいおい、この期に及んでイジワルするなよ」
不満に塗れた抗議は続く少女の言葉で一刀のもとに切り落とされる。
「先に身体を拭いて下さい。まあ、貴方が掃除をして下さるなら別にそのままでも構いませんけど」
水浸しのままの姿を咎めたエリゼの視線の先で、滴が落ちて小さな水たまりを生み出した。表面塗装のせいで水分が染み込みにくいのだ。
それを見た彼女の眉が反射的に吊り上がる。
「いい男だからな。この方が映えるだろ?」
水も滴るいい男、とでも言いたいのだろうか。
確かに、三十代とは思えない引き締まった肉体を水に濡らした様子は、艶姿と言ってしまってよい。
加齢によって身についた落ち着いた色香も合わされば、きっと如何な乙女とて惑わされるに違いない。
だが、この男とそれなりの付き合いのある人間ならば決して惑わされたりはしないのだ。
「……いい加減にして下さい?」
ついには、リベリオンに顔を映して悦に入り始めたダンテに向けられたのは、彼との生活ですっかり身についた威圧のある笑顔であった。
「……Easy does it. 落ちつけよ、何も身体を拭かないと言ってる訳じゃない」
――いつになく短気だな? あれか、アレの日か?
そんなデリカシーの欠片もないことを思いながら、しかしその本当の原因に心当たりがあるために、ダンテはそれ以上余計な事を口走ることなく大人しく引き下がることにした。
彼女然りトリッシュ然りレディ然り、どの道キレた女性陣に勝てはしないのだ。触らぬ神というやつだろう。
すごすごと脱衣所の方へと引き下がったダンテの背を流し見つつ、エリゼはピザを手に、二階のバルコニーに続く階段下に置かれた休憩用のソファに腰掛けた。ここにしかテレビがないのだ。
中のサンドイッチを引っ張り出してから手提げ鞄を大雑把に脇に投げ出し、かなり古い型のテレビを点ける。
〝春のボレロ〟の再放送が、今日最終回を迎えるのだ。時折ここを訪ねてくるとある友人から薦められた番組であるが、これがなかなかどうして面白い。
今夜の月の妖しさを思えば、録画の用意をした方がいいかと考えDVDデッキの電源も入れておくことにした。
「……で、つまりは
冷蔵庫に仕舞ってあったトマトジュースを片手に戻ってきたダンテが少女に問うた。
途端、録画の設定をし終えた少女の表情があからさまに不機嫌のそれへと変じた。
「ええ。ハズレもハズレ、大ハズレです。とんだ無駄足でした。あのヨハンという方、ご丁寧にも『魔剣文書』を始めとした――言ってしまえば
藤色のワンピースが汗で体に張り付く感触を嫌ってか、襟元に指を引っ掛けながら言う言葉の節々には忌憚のない呆れが含まれていた。
帰り際に中指を突き立ててやりましたよ、と笑顔で言ってのける辺りどうやら相当腹に据えかねているらしい。
そんなエリゼの態度に苦笑を返しながらダンテもソファに腰を下ろした。
「まあ、
人は潜在的に〝魔〟を怖れる。
〝魔〟に関わることを怖れない人間とは、即ち揺るがぬ強い意志を持つ者か、或いは〝魔〟に魅入られた人間を置いて他にないのだ。
あのヨハンという男、見るからに矮小極まりない彼は前者にも後者にも足り得ないだろう。
つまりは――無知。
「いや、確かにそうなんですけどね……まあ仕方有りません、とりあえず食事にしましょうか。〝彼ら〟主催のパーティーはお客様へのおもてなしがまるでなっていませんから、食事などという粋なものは出てこないでしょうし」
*
食後の倦怠感と革張りのソファに身を預けるエリゼの翠色の双眸が、ぼんやりとテレビ画面を凝視している。
既に〝春のボレロ〟は終わり、大して面白くもない次の番組が始まっていた。
(……依頼が来ないわね?)
当てが外れたかと思った途端、小さな欠伸が思わず漏れた。
「よう。お嬢さんにちょっとしたプレゼントがあるんだが、見てくれねえか?」
トイレから戻ってきたダンテの手には、何やら白い包みがあった。
カチャカチャという甲高い物音から察するに金属製の何かのようだ。
「あら? エンゲージリングか何かですか? 私がいい女なのは分かりますが、両親の許可を得ていないので、そういうのはその内お願いしますね」
思わず口を吐いた諧謔にさも面白そうにダンテが乗った。
「……おやおやこいつは手厳しい。だがそうだな、アンタみたいに美しいお嬢さんに贈るなら、今からでも金を貯めてもっといいものを買うべきだ」
嘘偽りない本心を呟きながら、机に置いた包みを丁寧に開いていくダンテ。
中から現れた大小様々な金属片を訝しげに見つめるエリゼであったが、
「……あ……もしかして?」
すぐにその正体に思い当たり、下らない諧謔を弄したことを後悔した。
「ああ、お前のために作った力作だ。俺だと思って大事にしてくれよ?」
照れ隠しめいた洒落を飛ばしながらダンテが差し出したそれらを、エリゼが僅かに震える指先で摘みあげた。
――SCHWARZ&WEISS――
スライド部分と思しきパーツの片面にはこのように彫られていた。
シュヴァルツ&ヴァイス。ドイツ語で黒と白を意味する言葉。
ヴァイスのSSの綴りは、おそらくエスツェットという文字に馴染みがなかったが故なのだろう。
外観のモデルは、元の形を大きく逸脱しているが、エボニー&アイボリーと同じコルト・ガバメントを参考にしている。
そして、例えば連射性能を重視して採用したリングタイプのハンマーや精密射撃を重視した可変式のサイトなど、エボニー&アイボリーに施された創意工夫を踏襲しつつ、少女に合わせた調整が成されているのだ。
例えば――。
連射重視の右手専用拳銃――アイボリー。
精密射撃重視の左手専用拳銃――エボニー。
ダンテとエリゼの利き手の違いからそれぞれの役割を入れ替えた。
即ち、連射重視のヴァイスを左手用に、精密射撃重視のシュヴァルツを右手用に。
少女――ひいては女性の手による銃把の保持を確実なものにするために、エボニー&アイボリーのような複列弾倉ではなく単列弾倉を採用し、それによる弾薬数の減少を補うために銃把をやや延長させている。
そうして生まれた、エボニー&アイボリーの兄妹銃とも父娘銃とも言える二挺の拳銃。
武器としても工芸品としても、いっそ黄金比とさえ言って過言ではないエボニー&アイボリーを生み出した〝芸術家〟の腕と魂に、改めて敬意と感謝を抱きながら完成へと漕ぎつけたそれが今、少女の手の中で形を成す。
銃の銘が刻まれた側とは反対の側面にはこうある。
――FOR ELISE SCHWARZER――
――BY DEVIL MAY CRY――
「…………」
言葉は、なかった。
ただ、何かを確かめるようにその文字をそっと優しく撫でた。それだけで十分だった。
ちょうどその時のことだった。
依頼の到来を告げる甲高い鈴の音が空気を震わせた。
思わず見合わせた二人の美貌に、次の瞬間、酷薄な色香が燻り始める。
受話器を取ろうと立ち上がったエリゼを制したダンテが、奪い取るかのような勢いで一気に受話器を撥ね上げた。
「Devil May Cryだ」
電話の向こうの何某かが震えあがる様子がありありと想像できる、昏い情動を孕んだ冷たい声音だった。
言葉を交わすダンテの表情が目に見えて豹変していく。
双眸に宿る光は僅かに触れただけで斬られてしまいそうな刃の冷たさへと変じ、口角は肉食の獣さながらの危険な角度を描きつつあった。
そんな彼の気配に呼応するように、その手の黒白を弄ぶ少女の表情もまた、どこか歪で艶やかな魔性美を帯びていった。
常の彼女ならば絶対に見せることのない笑みは、嗜虐と蠱惑の色で満ちており、その〝趣味〟ではない男であっても一も二もなく惑わされていたことだろう。
常ならぬ少女の態度は、彼の骸骨野郎に対する不満だけが原因ではなかったようだ。
月の光を受けて生まれた少女の影は、人ならざるモノのカタチをしていた。
「――Jack Pot」
この店でのみ通じる魔法の言葉が、イカれたパーティーの幕開けを告げた瞬間だった。
ついにパーティーメンバーから黒幕が出てしまった所為で、現時点で色々疑惑が持たれている会長やジョルジュはおろか、エリゼやアルゼイド子爵といった人物たちまで裏の顔がありそうに思えてきてしまう。
つまり何が言いたいかと言うと、続編の発売日が早く来てほしい(切実)