保健室。
その白さが圧迫するようで苦しい。
幸い、芽衣は貧血だったようで大事はなかった。
それは良かったと思うし、安堵した。
安堵したはずなのだが・・・。
(息苦しい・・・。)
鼓動の音がガンガンとやけに響いて聞こえる。
浅い呼吸を繰り返して安定させようとするのだが、一向に治まらない。
気づくと右手がかっちりと左の二の腕を掴んだまま、離そうとしても離れない。
原因は解っている。
赤色灯、消毒薬の匂い・・・白い壁、白い天井・・・。
ここは違う。
そう言い聞かせてみても、母がいた病院を連想させる。
頭で違うと何度も言い聞かせて理解していても、身体が震え出す。
「・・・泣いてるの?」
静まりかえった空間に投げられた声にはっとして、声の持ち主に視線を向ける。
見ると目を開いた芽衣が、不思議そうにこちらを見ていた。
「だ、いじょうぶ。」
なんとか応えようとして、出て来た声は自分の声とは思えないくらいに上ずった声だった。
一体全体、何が、どちらが大丈夫なのかと思えるくらいに。
「ちょっとふらっときちゃって。
その言葉に"アナタは?"と含まれている事は一路にも解った。
芽衣が目を覚ましたせいか、一路自信もそれで落ち着きを少しずつ取り戻してゆく。
「良かった・・・。」
ぎこちない笑み。
芽衣はその笑みを見て、一路に手を伸ばす。
未だがっちりと左腕を握ったままで離れない右手へ。
「無理はしなくていいのよ?」
芽衣の手が触れるまで、力を抜く事が出来てない腕に気づかなかった。
ほのかに温かい手が、自分の指を一本一本ずつ解いてゆくのを
「ごめん。」
「どうして謝るの?」
なんとか腕が解放されて、右手はそのまま芽衣の手の中へと滑り落ちる。
「・・・少し・・・思い出しちゃって・・・。」
一路の一言。
何とか吐き出されたその一言が何を指しているのかを芽衣は理解した。
だからといって、それを聞き返す事はしない。
「私は大丈夫よ。」
ただもう一度、同じ事を確認作業のように呟くだけ。
親族を亡くす目にここ最近出会った事がない芽衣には、一路の辛さは解らない。
たとえ解ろうとしてもだ。
誰にも解らない事。
けれど、だからこそ尚更に自分に母を重ねる必要などない。
大丈夫という言葉にその全てを込める。
「カッコ悪いね。弱くて嫌になる・・・もう半年以上は経ってるのに・・・。」
震えは未だに小刻みに続いていた。
「そういう問題じゃないわ。」
きゅっと一路の手を握る力を強める。
力を込めて・・・。
「それに男の子がカッコ悪いのは知ってる。普段からね。」
全とか全とか全とか。
そう言って笑う。
「・・・・・・母さんはさ、倒れてからあっという間だったんだ・・・。」
「うん。」
「だから、あんまり言葉を交わしたりとか出来なくて・・・。」
「そう・・・お母様はさぞかし心残りだったでしょうね。」
鷲羽と同じ様な事を言うものだと一路は思った。
母になるという女性というものは、皆そう思うのだろうか?
「僕は、母さんに何も出来なかったから・・・。」
「ダメよ。そういう考え方はいけないわ。」
芽衣が語気を強める。
間違っている事は間違っていると指摘しなければ気がすまないのは、彼女の性分だ。
「これからも出来るわ。あなたがこれから何をして、どう生きるか。それがお母様に出来る事よ?」
「これから?」
じっと自分を見つめて、逸らす事をしない芽衣の強い瞳。
そこに説得力があった。
「そうよ?だって、お母様はあなたを生んだのよ?自分が生きたっていう一番の証じゃない。あなただけでも80年、あなたに子供が出来れば100年以上の証よ?これ以上のものがあって?」
お腹を痛めて生むという事はそういう事なのだろうか?
男の自分としては、些か解り難い感覚だ。
母はもういない。
でも、自分がいる。
母が生きたという事は、残り続ける。
そう思うと、一路は心がほんのり温かくなってくるような気がする。
「ありがとう、芽衣さん。」
「あら、ここは芽衣"ちゃん"って呼ぶところじゃなくって?」
悪戯っぽく笑う彼女を見ていると、血色が戻ってきているのが解る。
これでは、どちらが病人なのか解らない。
「そこで・・・それを要求するの?」
なんとか、そう返す。
これくらい返さなければ、男の沽券に関わる・・・既にカッコ悪さを炸裂させた後ではあるが。
震えはもう治まっているが、まだ動悸は少し早いままだ。
「ん~、まぁ、それもそうね。それに私も、ありがとう。」
ゆっくりと上半身を起こしたところで、視界に入った光景に芽衣は気づく。
「やだ、いっちー裸足じゃない。」
「あ・・・うん、武道場から走って来たから。」
同じ様に芽衣も校庭で倒れたままの状態で運んで来たので、ベッドの下には外履きの靴が置いてあるだけだ。
「困ったわね、私も内履き無しで戻らないと・・・。」
それのどこが問題なのだろう?
靴下は汚れてしまうかも知れないが、そのまま戻ればいいだけの事だ。
それも嫌ならば、それこそ裸足で戻ればいいだけで・・・。
これはいよいよ以って、全が冗談半分に言っていた芽衣のお嬢様説が真実味を帯びてきた。
そうなると、一路の取る行動も自ずと決まってくる。
「じゃあ、来た時と同じようにして戻る?」
幸い、芽衣の体格は一路が運ぶのに困難な程ではない。
重さもそうなのだが、極端に身長差だったり手足の長さだったりがあると持ち上げにくいのである。
その点、一路にとって芽衣は運び易い部類で良かったと思う。
「来た時って・・・そういえば、私、どうやって?」
「お姫様抱っこで運んで来たけど?」
静寂。
「今、なんて?」
再度の確認。
「こう、横抱きに抱えて。」
お姫様抱っこというモノが理解しづらかったのかと思い、一路はあらためて違った言葉で身振り手振りを含めて説明する。
そしてまた静寂。
今朝方、女心は男には解らないという話をしたばかりなのだが、そういう意味で、些細な誤解というかスレ違いというか・・・。
芽衣は自分の顔を覆う。
「いっちー、そんなはず・・・目立つ事したの?」
顔を覆った手の指の隙間から一路を見ながら、危うく漏らしそうになった恥ずかしいという言葉を飲み込む。
親切心で起こした行動なのだから、そんな事は言えないし、急だった。
更に言えばそれを指摘して一路を傷つけてしまっても困る。
「早く簡単に運べそうなので思いついたのがそれだったから。大丈夫、芽衣さん軽かったし。」
芽衣が重さの事を気にしたのかと思って言った一路の発言も、完全に空振りだ。
スリーストライク、はい、アウト。
「そういう問題じゃなくてね・・・。」
芽衣の呆れたような様子に、何かおかしい事があっただろうかときょとんとする一路。
これ以上、一路に何を言っても無駄だと悟った芽衣は、この話題で会話を続けるのを早々に諦め裸足で歩く事を決めた。
どりあえず、まずは靴下を脱がなければ。
そう思った矢先、保健室の戸が開く音が響く。
「誰?全?」
しかし、返事はない。
カーテンで仕切られたベットからは、誰が入ってきたのかも見えなかった。
静かに再び、今度は戸を閉める音がした後、一路が動く。
芽衣が倒れた時と同じか、それ以上の速さで・・・。