開幕の合図と同時に無数の水の飛沫が仁の周囲に展開された。
それは三百六十度、全方位を取り囲み、逃げることも抗うことすら許さないと言わんばかりに殺意にまみれていた。
「はっ!」
愉快そうに仁が鼻で嗤う――瞬間。
飛沫は全て、水の刃へと姿を変え、細切れにせんとばかりに仁へと襲いかかる。
全方位から迫り来る水の刃。数もそうだが、決められた形を持たない故に小さくも鋭く形成されたそれは、見た目以上に凶悪な凶器となっている。
それを真っ向から防ぐ手段も出来うる者も限られているが、果たして仁はそれを可能とする者であった。
バンと、何かが弾けるような音が何重にもなって聴こえると同時に仁を襲った水の刃は『全て
「相変わらずえげつねーな」
珠雫やアリス、黒乃ですら驚きのあまり息を呑むが、ただ一人、寧音だけは頬杖をしたまま目を細め呟いた。
今この場にいる中で最も彼の強さを理解しているのは寧音だけだ。黒乃もかつて交戦したことがあるが、彼は日々強くなっている。
少なくとも今みせた芸当は黒乃が戦った時には修得していなかったものだった。
「――《大六感応》」
夫婦になる前、互いに敵同士だった頃に彼女に対抗する為鍛え上げた技能。
彼女の剣は無駄を削ぎ落とし、極限にまで研鑽した結果恐ろしく速く鋭かった。
それはどんなに反射神経、反応速度が速かろうと『見て』からでは絶対に間に合わない神速の領域。
対抗するにはいくら五感を研ぎ澄ましても遅すぎると判断した彼は、人間に備わったもう一つの感知能力――『第六感』を鍛えるに思い至った。
第六感とは、人間が持つとされる六つ目の感知能力であり、人は皆これを有しているものの意識的に使うのは極めて難しいものである。大体の人間は無意識下で使ってしまうが、その原理などもわかっていない。
そんなブラックボックスをこの男は意識的に使えるように開花させ、鍛え上げてしまったのだ。
伐刀絶技《胡蝶の夢》。その空間内ならたとえ命を落としても生き返ることが出来る。それを利用し、更に自らの五感を断った状態で何度も敵と戦闘するという常軌を逸したやり方で修得するに至った。
この技能の恐ろしい所は、理屈など関係なく、感じ取った瞬間タイムラグなく即座に対処出来るというものだ。
先の全方位の水刃も自分の周りに障壁を生み出したとかではなく、丁寧に一つ一つ対となる刃を作り相殺、それを一度に同時に行った結果あのような光景になったのだ。
予知とは違い『見る』という行為を必要とせず、しかして同等の……もしくはそれ以上の精密性を持っている。
これが異能ではなく、純粋に鍛え上げて得た技能だというのだから馬鹿げた話だろう。
(ま、うちらと同じ『領域』じゃ理屈とか通る方が稀だがな)
同じように人間の潜在能力という意味では一輝の《一刀修羅》も同じだが、あちらは無理矢理身体能力のリミッターを外すのに対し、これは普段使われていない……そのくせ使い方も満足にわからないものを無理を通して使えるようにしたものだ。
どちらが『まだ』マシかと問われれば前者であろう。
並大抵のことでは修得なぞ出来ず、それどころか得ることができるかも怪しい。しかしそれが無ければ対抗出来なかった。
改めて、彼女が如何に異常な存在かが分かる。
そうして得た超越的な感知能力を前に珠雫は何とか打開出来ないかと攻撃の手を休めることなく、思考する。
大気中にある水素を使い、強力な水の弾丸をいくつも放つが、全て仁に届く前に相殺される。
ならばと、地面に散った水を使い、諸とも凍り付けにしようとするも、仁が片足で地面を蹴りつけただけで周囲に衝撃が走り迫り来る氷を砕いた。結果、彼の周辺を除いた全てが凍りついただけ。
触れることすら出来ない様子に苦虫を潰したような表情を浮かべる珠雫だったが、僅かに仁の左手の人差し指が動いたことに気付きハッとした。
少しだけだがアクションがあった。仁が無意味な行動を取るはずがない。
それが意味するのは――。
次の瞬間、珠雫の頭上より無数の凶器が降ってきた。長さ、厚さは一般的に売られているカッター程度だが、問題はその数だ。数十という単位では生ぬるい、凶悪な物量が容赦なく珠雫の身体を切り裂いた。
「よく気付いた」
しかし、それは咄嗟に作った身代わり、水の人形。
本体は既に刃の範囲外に待避していた。
「うっ……」
だが、完全な回避は出来なかったようで、身体のあちこちに浅い切り傷がいくつもあった。
痛みで表情が僅かに歪んだ。
「あれが、先生の異能……」
初めて見る仁の能力にアリスは顔が険しくなる。
あの刃の群れを見るに恐らくは具現化系統の能力だろう、しかし問題はその形成速度だ。先の『迎撃』の時もそうだったが、仁の形成する速度は並ではない。文字通り一瞬で複数体を精密に形成する。
珠雫の師匠というだけはあり、その魔力制御は恐ろしく高いようだ。アリスが見た所、どう考えてもAランクはあると思われる。
(プロフィールを偽るのはよくある話だけど)
『一ノ瀬仁』として作られたプロフィールは真っ赤な偽物だ。本来の彼のステータスで同じようなものなど精々『運』くらいなもの。
他は全て一級品とも言える実力であり、特に《大六感応》とあの異能のせいで防御力と魔力制御は文句なしのAランクである。
他のステータスも最低でもBランク以上はあると考えると、《千刃》としての伐刀者ランクはAと見るのが妥当だ。
表舞台に立つことがない故に世界的な知名度はないが、それでもその強さは
現在は力をある程度制限しているようだが、それでも珠雫が圧倒される程だ。本来の力など推して知るべしだろう。
それを一番に理解しているであろう珠雫は、しかし諦めることなく仁を見据える。
その不屈の姿に、仁は嬉しそうに口を歪ませ――
「《
ある伐刀絶技のトリガーを放つ。
刹那。突如珠雫の右腕が切り裂かれ、肩から夥しい血が吹き出た。
「ああああァァああぁぁ!!」
良く見ていた、観察していた。
そのはずなのに、完全な不意打ちを食らったことで、頭は混乱し肉体は激痛で悲鳴を上げた。
実像形態である以上、受けた傷は現実のものとなる。つまり珠雫は本当に右腕を切り落とされたのだ。
目で確認せずとも切り口から感じる痛みと熱、それと水使いの彼女ならではの感覚として身体から凄い勢いで水分がなくなっていくのを感じた。
痛みを我慢し、意識を集中し、すぐに切り口を止血すると何故不意打ちを受けたのか思考し、原因を突き止めた。
それが分かると同時に、珠雫は止血を行った以外の傷口から“意図的に”出血を促す。
すると彼女の血に混じり、小さな鉄の欠片が幾つも出てきた。
――そう、それは先の回避し切れなかった、軽症と言える程度の切り傷から出たのだ。
珠雫は直撃を受けていないと思っていたのだろう。確かに『直撃』はしていない、しかし『当たった』、『傷つけられた』という事実が重要なのだ。
仁は《自在刃》という『紙一重』を許さない伐刀絶技を生み出す程に徹底した人間だ。『軽症』なんてものを見逃すはずがない、特に自分の攻撃で与えたものであれば尚更だ。
仁の
似たような伐刀絶技に
「はぁ……はぁ……」
急激な出血多量と片腕を切り落とされた激痛が珠雫を蝕む。
息も絶え絶えだが、それで待ってくれる相手ではない。動かなければ、また何をされるか分からない。
そう判断し、少しでも距離を取ろうとして――足が止まった。
嫌な悪寒が走った、それこそ第六感的な何かだった。
本能が囁くのだ、『動いてはいけない』と。
それに従い、その場で佇み、入念に周囲を調べた。
(囲まれている……)
上手く隠しているが、珠雫は今無数の刃に囲まれていた。しかも、初擊のお返しと言わんばかりに三百六十度、全方位をだ。
先の件を鑑みるに、この刃一つ一つがあの伐刀絶技に必要な条件を孕んでいると見ていい。
かすっただけでも致命傷。いや、恐らく命はない。
先程まだ珠雫の体内に刃の欠片が残っていたのにも関わらず、右腕を切り落としただけで終わったのは、緊急時での判断能力を確認する為だろう。実戦であれば、片腕を失う可能性なぞ十分にあり得る。喚くだけで終わろうものなら、仁は容赦なく他の刃も再構築し珠雫を肉片に変えたことだろう。
しかし、その様子見は既に終わった。次は猶予はない。
浅い僅かな切り傷でもついた瞬間、内部から切り刻まれる。
『傷』に対する対処法はある。完全に防御に専念すれば易々と傷をつけられることはない。
しかし『守り』に入った所でその場しのぎにしかならず、『勝利条件』を満たすことは出来ない。
元よりこの試練は戦って、挑んで、攻めるしか勝ち筋がなく、『強くなりたい』と願い彼に頼んだ以上そんな無様な真似は出来ない上、珠雫自身がしたくないのだ。
「私はお兄様の妹で……師匠の弟子」
呟くように言い聞かせた。
自分の追う背中の人達なら同じ状況に追いやられた時どうするか?
――そんなの決まっている。
「ッ――ああああああああ!!」
空気を吸い込んだ後、声の限り叫んだ。
自らの固有霊装《宵時雨》を掲げ、同時に間欠泉の如き勢いで水柱が立った。
初擊で迎撃された水、凍った地面、そして多量の血液。水ならもう十分にある。
《雷切》の時のように氷塊を叩きつけた所で、彼女に通じなかった手が仁に通じる訳がない。
全身全霊の一撃を以てしかこの人には挑めない、決して届くことはない。
意識を研ぎ澄ませ、水柱は只の水から姿を変え、巨大な刃へと変わった。
「ヴァーミリオンの伐刀絶技の真似か」
「はい。癪ですけど、ステラさんの《
オリジナルであるステラの伐刀絶技が炎の大剣に対し、珠雫のは水の大太刀といった所か。
恐らくはトン単位の水量を使い、凝縮し、成したのだろう。
総魔力量を鑑みて何度も使える技でないのは明白。
この一刀で決めるつもりと見た。
幸いにして、珠雫を囲んだ刃……頭上の方にあったものは水圧に弾かれ、吹き飛ばされたらしく、腕を振るスペースはギリギリあるようだ。
おまけに、狙うは動くことのない的ときた。
好機は今を除いて他にない。
「私の
「来いよ、ガキ。俺に力を示してみろ!」
綺麗な太刀筋を描いて振り下ろされる縦一閃。
対して、隠し切れない喜悦を口下に表した仁は、ここにきて試練中初めて固有霊装の柄に手をかけた。
迫り来る水刃は優に数十mはある。珠雫を包囲した刃はその質量により弾かれ、または破壊された。
それに対抗する《
長さ、重さ、大きさ、全てにおいて負けているのだ。普通なら挑もうという気すら起きないだろう。
「はっ!」
仁は鼻で嗤う。愉快に、楽しく、嬉しそうに。
この男の前には長さも重さも大きさも、果ては切れ味すら関係ない。
何故なら、答えは簡単、単純に『想ったことを現実に出来る』からだ。
「閃刃――断空」
抜いた。
そう見えた瞬間、短刀は何事もなかったように鞘に収まり鯉口が鳴った。
刹那として、宙を一筋の閃が走った。
それは巨大な水刃の“側面”を貫き、そして……見事に両断した。
空中で、仁に当たる前に切断された水刃はまるで切られたことに気付かないかのように、液体ではなく固体のまま彼を通り過ぎ無人の方の観客席に突き刺さった。
珠雫の渾身の一撃。それが呆気なく破られたことに落胆した……者はまだいない。
“当人を含めて”。
珠雫は走った。
痛む身体、途切れそうになる意識に鞭打ち。仁目掛けて一直線に駆け抜ける。
珠雫は分かっていた。見よう見まねの《
如何に質量を凝縮しても、仁の前ではそれは無力だ。
彼がどんな理不尽な存在か珠雫は知っている。馬鹿正直に正面切って打ち勝てる程甘くない。
何処かで『裏』をかかねば、今の自分の力量ではまず無理だ。
だからこそ、ある意味隠し球として取っておいた物を囮として使ったのだ。
全てはそう、彼へ接近する為だけに。
「ッ……!」
残されたありったけの魔力を放出した。
仁との間は十数m程度。三秒もかからない距離だ。
《宵時雨》を構え突撃する。もはや切るのは体力的に無理だ。刺すしかない。
正真正銘最後の一撃。
己の全てを乗せたそれは――届くことはなかった。
あと五mという所で、珠雫は霊装ごと腕を切り落とされてしまった。新たな鮮血が舞う。
両腕を失いバランスを崩した彼女は、しかし倒れる前にその頭を仁によって鷲掴みにされてしまう。
そして、持ち上げ息も絶え絶えの瀕死の彼女と目が合うと――珠雫はうっすらと笑みを浮かべた。
その様子と自分の足下を見た仁は、呆れたように目を閉じ、
「――合格だ」
静かにそう告げ、ゆっくりと地面に下ろし、その頭を不器用ながらも優しく撫でた。
「《胡蝶の夢》」
魔力で作られた銀色の蝶が珠雫の肩に止まり、弾けた瞬間、まるで画面が切り替わったかのように一秒すらなく彼女は試練前の状態に戻っていた。
切り落とされた両腕は勿論のこと、小さな切り傷や服の汚れまで、まるでなかったかのように『元通り』だ。
その様子に、然して驚くこともなく珠雫は緊張の糸が切れたようにそのまま倒れ、眠ってしまった。
流石に疲れや精神的なものは元に戻せないので、仕方ない。
もう少しすれば心配でしょうがないアリスが飛んでくるだろうから、後は彼に任せよう。
「さて」
仁は改めて視線を足下に落とした。
仁の足、正確には革靴なのだが、そこには赤い液体が付着していた。
この試練中、仁は一度も負傷していない。試練前から靴に血が着いていた訳でもない。何よりもその血は『真新しかった』。
それが意味するのはつまり、その血は珠雫の物だということだ。
ここで試練前に仁が述べた勝利条件を思い返してみよう。
彼は言った『一当てするか円から出せば勝ち』だと。
『一撃』ではなく『一当て』というのがミソで、つまりどんなものでも当てることが出来れば良かったのだ。
それは、ほんの一滴の血液でも身体の何処かに触れることが出来れば『
――無茶をする。
そうとしか言えないが、事実それしか手がなかったのだ。
如何に制限されているとはいえ、仁はそれほどの強敵だったのだから。
ともあれ、珠雫は見事試練に合格した。
これからはまた、仁に鍛えられる日々が続くことになる。
それは修羅や茨よりも険しく厳しい道だろうが、ただただ彼女が後悔しないことを祈るばかりだ。
前回の更新の際「ネタ浮かんだし、お気に入り1000越えたらif的な番外編でも書こうかな」とか思ってたら、その更新分で越えるなんてたまげなぁ。