「……ここ、は……?」
「起きたか」
医務室で天音は目を覚ました。
白い天井をボーッと眺めていると声を掛けられた。
その声は聞き慣れたものであり、何処か安心感を覚えた。
倦怠感が満たされた身体は言うことを聞かず、何とか首だけを動かし声の主を視界に捉える。
そこにいたのは、果たして仁だった。
「安心しろ、肉体は復元している。黒鉄の方もだ」
ベッドの近くにある椅子に鎮座する姿に驚きはしない。
淡々と語る為か、すんなりと耳に入る。
時間がどれほど経ったのだろうか。そんなことを思いつつ日付けも備えた壁時計を確認すると、まだ準決勝当日の夜十一時のようだ。
既に深夜とも呼べる時間。普通なら面会出来ない時間だろうが、仁ならいても不思議ではない。
家族であることを明かして特別に許可を貰ったのか、それとも忍び込んだのか。どちらでもありえそうだが……あの口ぶりから察するに天音と一輝、両方の状態を確認したようだ。
最悪、《カプセル》で治せないようなものや、後遺症が残るようなものは彼が治した可能性はある。
いや、事実治したのは仁だ。より正確には不自然のないように、それでいてちゃんと《カプセル》で治せる具合に手を加えただけだが。
天音に関しては勿論、一輝にはけしかけるように『助言』してしまった負い目もあった。だから試合の終了と共に即座に動いたという訳だ。
「笑いにきたの?」
心配で来たのかと思うよりも、そんな言葉がつい口から零れてしまった。
だが、そう思われても仕方ないのかもしれない。
あれだけ大見得を切ったというのに、結局勝てなかった。
《無動砕》も発動こそ出来たが、使いこなせなかった。そしてあんな大怪我までしたのだ、滑稽に映ることだろう。
「……そうだな」
少し考えた後、仁は頷いた。
「わざわざ勝ち筋を捨ててまで拘った勝ち方で負けたんだ。笑われても仕方ない」
天音が予想していた答えそのままに仁は言う。
実際、天音が一輝に勝つ方法は幾らかあった。それが可能な程に天音の異能と力は優れている。
だというのに、それを捨ててまで得た方法。仁に内緒で修得し、その彼から忠告されたのにも拘わらず、使おうと決心して負けたのだ。
「前に言ったはずだ、アレは使えたものじゃない、今回の一件でわかっただろう? お前にはちゃんと見合った戦い方がある」
痛感した。
憧れからくる、追いつきたいという想いだけが先走り過ぎた結果がこれだ。
呆れられても仕方ない。
「だからこそ、アレに掛けた時間は無駄と言える」
仁の言うことは正しい。
天音には身に余るそれに掛ける時間を他のことに使えばさらなる飛躍が出来たことだろう。
「――だがそれでも」
そう、正しいのだが――。
「なんでだろうな。どんな形であれ継がれたのは嬉しかったのは……」
「え――?」
意外な言葉に天音は耳を疑った。
つい仁の顔を見るが、彼自身不思議そうに眉を顰めている。
胸に去来する感情に困惑しているのだ。
……思えば、仁が歩んできた人生で何かを残すという行為をしたことはない。
ただ己を鍛え、研鑽し、敵を倒す。これだけの人生だ。
無論、寧音や黒乃と過ごした時間はあり、それが無為な物か問われれば違うと断言できる。あれはあれで必要な過程であった。エーデルワイスに関しても同様だ。
いや、エーデルワイスに関しては夫婦という間柄だからそれ以上だろう。
しかし……だからこそともいうべきか、子を授からなかった事もあり、やはり何かを残したという実感はない。
恐らく、この感情はつい最近、それこそ教師なんて似合わない職種についてからだ、芽生え始めたのは。
自分が培った経験や技術、それらを教え、糧とする生徒達の姿を見て胸の内がザワついた。
最初は分からなかったが、後任を育てるという行為が自分が今まで行ってきたものとは真逆のものだったからだ。
倒す、殺すことで磨き上げた力なぞ、それ以外では使い道がないと思っていた。それをこんな形で思い知らされるとは……。
無論、全てという訳ではない。一輝やステラ、珠雫といった特定の生徒は別だが、基本はその中から使えそうなものだけを教えた。
やはり殊更強く感じたのは一輝だろう。ステラが寧音に弟子入りしていなくなっていたのもあるが、一輝は叩けば叩くだけ強くなる。それが如実に分かるからか、嬉しくもなる。
そうして、判明した感情だが、実は既にその片鱗は燻っていた。
それが天音だ。彼を育て、鍛える際に時折感じていたが当時の仁は分からなかった。しかし、此処暫くの教師生活でその正体に気付けた。
日本から脱出する際に助けて貰った礼として請け負ったのだが、思った以上に収穫があり、黒乃には感謝しかない。まあ、わざわざ面と向かって言うのもあれなので、心の内に留めておくだけだが……。
兎角、心境に変化が起きたのは確かだ。
今回の一件でそれは明確に感じた。
使えないとわかっていた技。だから教える気もないし、覚えさせてどうなると思っていたのだが……。
しかし、唯一無二とも言えるそれを修得し、目の前で実践され、確認した事で見方は変わった。
あんなものでも継いでくれた者がいた。本人の意思は関与していなかったが、いざ直面すると思ったよりも嬉しかったらしい。
一輝や珠雫とは違い、天音が覚えたのは完全な仁のオリジナルだ。それ故に、他とは違って感じたのは仕方のない事かもしれない……。
「頑張ったな――
だからか、なんとも言えない感情が仁の心の中にあったのだ。
それでも自分なりに考えた結果、天音に対し労いの言葉を掛けることにした。
一輝との『約束』もあるし、今更目を逸らす気にもない。だからこその行動だ。
「ぁ……ぁ、ぅ……ぅぅ」
……なのだが、天音の様子がどうにもおかしい。
顔を背けたかと思ったら、布団の上からでも分かる程小刻みに震えている。
「おい、天音」
どうしたのか? そう思い、容態を確認しようと近付くが――。
「おっと」
何故かいきなり物――枕を投げつけられた。
そんなに速くもなく、容易に受け止められたが、どうしてそんな行動を取ったのかが仁には分からなかった。
何か気に障ったかと思いつつも枕を投げ返す。
今度は天音がそれを受け取る。そのすぐ後に、また布団を被ってしまった。
一見ふて寝のようにしか見えないが、だとすれば何が原因なのやら……。
「お前なぁ……」
「もう用は済んだろ、僕は寝るから早く出ていってよ」
呆れたように呟く仁に対し、振り返ることなく言い放つ。
その様子に、やはりため息を吐いたが「ま、それだけ元気なら大丈夫か」と頭を切り替え、仁は静かに出ていった。
そうして残された天音だったが、彼は宣言通り眠って……などはいなかった。
寧ろ眠気など綺麗さっぱり吹き飛んでおり、それどころか一輝との戦いの疲れすら感じてはいなかった。
「……“天音”」
つい、今の自分の名前を呟いていた。
紫乃宮天音。実の親から与えられた名である天宮紫音のアナグラム。
過去の自分との決別としての表れであり、現在の自分を支える大事なアイデンティティの一つであることは自覚していた。
だからか、その名を一度として呼ばなかった
認められれば呼んで貰えるかもと思わなかった事もないが、それでも数年間一度もなかった。
それ故に諦め掛けていたのだが……つい先程その想いは成就した。
天音からしたらどういう心境の変化なのかは分からないだろう。しかし、名前を呼んでくれたという事実は変わらない。
長い間心の奥底で燻っていたそれだったが、いざ現実になると少しばかり問題が起きた。
(……ああ! もう!)
布団の中で顔を触る。
そうすれば嫌でも分かった。『ニヤけている』事に。
それはもうだらしないと言える程であり、何とか律しようとするが、長年溜め込み発散させられた喜色は中々鎮まってくれない。
自分自身でも気持ち悪いと思えるが、抑える事が出来ないのだ。
天音にとって、自分が思っていた以上に今回のことは嬉しかったのだろう。
試合の事もあるから努力が全て実ったかと問われれば否だが、天音にとっては十分と言える収穫だ。
(……未熟だな)
……もっとも、過ぎたるせいで嬉しい悲鳴を挙げているのだが……。
お陰で仁に顔を見られないようにするのに必死だった。
感情の制御がうまく出来ない所か爆発している状態。自己嫌悪するも、そんな中でもまだ残る喜色に驚く。
それだけ、天音にとっては大切なことだったのだろう。
「天音」と頭を中で仁の声で反芻されるだけで嬉しさの燃料は投下されるが、同時にどんどん恥ずかしくもなってくる。
流石にこの歳にもなってこんなもので喜ぶなど、子供過ぎる。
そう恥じる天音だが、親の愛を受ける期間である幼少期に異能に目覚めたせいでそれを受けることが出来なかった過去がある。
だからこそ、本人も自覚出来ないが愛情というのに飢えているのだろう。
今の親から受けられていない訳ではない。エーデルワイスからは大変可愛がられているし、仁だって口はともかく天音のことを考えて行動する。
異能だけを見ていた実の親よりもちゃんと“天音”を見てくれている。
だからこそ頑張ってこれたし、それだけ仁に認められて名前を呼ばれたのは嬉しいのだ。
ただ、やはり年頃なのか気恥ずかしさが勝ってしまう。
「――良かったですね、アマネ」
「――ッ!?」
身悶えている最中、聞き覚えのある声が耳に入り、身体が硬直する。
まさか、と思いつつもゆっくりと布団から顔を出すと、そこには微笑んでいるエーデルワイスの姿があった。
「……いつから?」
冷や汗をかきながらの質問。
エーデルワイスのことだから、随分前からということはないだろう。今来ましたと言われても納得出来る、音もなく現れるなど何時ものことだ、それが出来る人物なのだから、だからきっとそうなのだろう。寧ろそうであって欲しい。
「あの人が出て行ってすぐです」
だがその願望は儚く散った。
仁が出て行ったすぐ後ということは、つまり先程までの醜態を見られていた。
布団を被っていたとはいえ、育ての親にそんな姿を見られたことに天音は目の前が真っ白になった。
「は、はは……いつもなら気付けたのに……」
長い時間共に暮らしてきた為、音は無くともエーデルワイスが近くにいるという気配は分かるようになっていた。
それが出来なかったということは、やはり想像以上に浮かれていたらしい。
「…………なに?」
意気消沈している天音に対し、未だに笑顔を向けるエーデルワイス。何か用でもあるのか? と思い、気分は重いが訊いてみた。
「いえ、ようやく二人共素直になってくれて、嬉しいだけです」
本当に、本当に嬉しそうに語る。
その姿に天音は唖然としたが、よくよく考えれば二人の間に立っていたのは彼女だ。互いに嫌っている訳ではないと分かっていても、やはり気が気ではなかったのだ。
そんな肩の荷が降りたのもあるが、彼女の人柄を知るに純粋に喜んでくれているのだろう。
「……別に、僕は元々素直な方だと思うけど」
「フフ、そうですね」
先程までとはまた違った気恥ずかしさに襲われた天音はついそう言ってしまう。
だが、それが照れ隠しなのが分かるからか、エーデルワイスは微笑を浮かべ続けている。
今更な話だが、どう取り繕った所で天音の仁に対する想いは知られている。
強さや在り方もそうだが、何より荒療治とはいえ天音を立ち直らせたのは大きい。
手段はどうあれ救われたのだ。何かしらの感情を持つのは当たり前。余程偏屈ではない限り、恨みはしない。
そういった意味では天音は確かに素直といえる。
表向きの理由をどんなに用意しようとも、根底にあるのは仁に認められたいという想いなのだから。
仁の態度に問題があったとはいえ、今まではそう捉えていなかった天音が、ついに正面切って言葉にして貰って、その評価を受け入れたのだ。
そこに至るまでどれだけ長かったことか……。
一部始終を見守っていた身としては、こんなに喜ばしいことはない。
「良かったですね、アマネ」
「…………………………うん」
だから我が事のように喜べる。いや、実際家族なのだから他人事では決してないのだ。
子供の如き笑顔を浮かべて、「良かった良かった」と安堵するエーデルワイスを視界に収めながら、恥ずかしそうに、顔を朱に染めながら天音は静かに頷いた。