戦火の中、銀の青年は小さな花と出会った。

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銀のヒナゲシ

その日は良く晴れた寒い冬の夜だった。

 

ただ自分の呼吸が獣のように生臭く、

そして冬だというのにまるで真夏日の日向に置き去られたように汗で張り付く背中と、

うるさいほどに聞こえる自分の心臓に呼応した耳鳴り。

枯れ葉を踏みつける足の底は少し湿っていて積み重なった落ち葉が擦れるような水の感触が残る。

いつもは曇りがちな冬空だというのには月が嫌に明るく道を示す。いいや、血の減った体ではその光のみが行方を照らしているようで。だから、それ故にこの体を引きずってのなお歩き続けた。

光を求める蟲のように

願いを求める人のように

そして、華を求める蝶のように。

 

 

昨夜の小便にも似た麦の腐っただけの薄いビールが体の中を流れていく。

景気づけとと言い、瓶をくすねてきたあの男は消えた。

これがいいんだ、と得意げに杯を煽っていたあの若い気取った青年も消えた。

歯を食いしばったようにグラス代わりのアルミの空き缶を潰していたあの小男も消えた。

そして、すべてを悟ったように笑っていたあの老父もまた、消えた。

それが最後の一献に相応しいものだったのか、違ったのか、分かるはずもない。

しかし、廉価品の体にはちょうどいい、そんな言葉が頭の中を流れていく。

自棄のような、

逃避のような

達観のような

しかし、そのどれとも違う。

それはただ純然たる事実を並べただけ。

ただの一兵卒にとってこれ以上の戦火が期待できることなどなく

一人の人間にできることが限られているという絶対的な事実を知っているだけ。

絶対的な英雄などあるはずもなく、

一騎当千の力などなく

何もできない男が一人いるだけ。

傾いた情勢を持ち直すことなど出来るはずもなく、

同胞は消え、そして自分も又止まることは免れない。

それでもなお

意思はなく

止まることはなく

ただ次なる工程のために歩みを進めるだけ。

そして

 

体は崩れた。

 

「気が付いたのね」

彼が目が覚めたのは小さく、暗い小屋の中だった。

外明かりはなく、代わりに寝台の近くに置かれたランプの小さな明かりが微かに揺れているのみ。肌に触れるのは冷たい地面でも冷徹な石畳でもなく柔らかなシーツの感触だった。横たわった体を動かそうとすれば代わりに神経を走るような痛みと、ひっぱられるような包帯の抵抗を受けた。右半分の視界はなく、額から頬にかけて布が触れているらしかった。動かそうとすれば走る痛み、耐えられないわけではないものの、それ以上に体が言うことを聞かなかった。多くの傷を負ったこの体ではどうやら手を動かすという行為自体が今は行えないようだった。いくら信号があったとしてもモータが壊れていれば動くことはない。

 小さな光に照らされる彼の体は包帯で白く、そして滲み出した赤い血液のマーブル模様が描かれている。そして目をやるのは足先に広がる暗い闇の中。自分の指先すらも見えぬような薄明りの向こう側に認めたのは小さな人影だった。

「戦況はどうなった」

「あなたは、とか、ここは、とかでもなく軍務のことを心配するなんて流石かの帝国軍人様ってことかしら」

マッチを擦るリンの匂いが漂い、蝋燭を灯した。浮かび上がったのは年若い女の顔だった。黒い髪に、黒い瞳、彫りは浅く、幼い印象を与える表情にはただ固い、そんな感情が浮かんでいるようだった。

「日本人か」

「違うわよ」

「では中国人か」

「別にそう名乗る気も無いわよ」

女はつまらなさそうに寝台の傍らに置かれた椅子に座り彼の体を抱き起すと彼にまかれていた包帯を替え始めた。

「軍人なのに誰とも知らぬ女に触れられても無抵抗なのね」

「敵ではない、そう判断したためだ」

「根拠を聞かせてもらっても」

癒着しようとしている包帯を剥がされつつもその反応に変化は無く、朗々と言葉をつなげていく。

「一つはこの状況だ。十二月にしては気温が高い。あたりには火を焚いているような様子もなく煙のにおいもない。熱源が存在しないにもかかわらず気温が高いということは蓄熱性、もしくは別の高熱源の近くであるということ。しかし、硫黄臭もなく元居たチェルカースィのあたりに火山は存在しない。また、ひげの伸び具合から判断して五十五時間程度のこん睡状態であったと判断すれば意識を失った一月十八日の深夜二時から数えて二日と七時間。ならば今は午前九時。密閉性の高いウクライナの住宅といえども日光を完全に遮るとは考えにくい。故にここが気温の変動が少なく、完全に密閉された洞窟であると判断した」

確かに、彼の言葉通り、暗い天上に目を凝らせばところどころに岩肌が見え隠れしている。床や壁などはある程度板張りにしてあり人としての生活を送れるように改造してはあるものの確かにその一室は天然の洞窟の一部であるようだった。

「それで」

つまらなそうに彼を見る女に彼は気を害した様子もなく当然であるようにつづけた。

「二つ目はこの包帯と治療だ」

その言葉とともに包帯の下から現れたのは胸の中央、脈動する暗い芥子色の物体だった。本来心臓があるべき場所に鎮座するその丸い玉は拍動とともに肥大と収縮を繰り返し、また時折表面には血管のようにいくつかの筋が浮き上がっては消えている。血液のような赤色が沈着したように斑にこびりつき、玉と肉体の境界面では細胞が押しのけられたように肥大し、盛り上がっている。

まるで埋め込まれたように歪なその有様。しかし、彼が視線をおろすのはその中央ではなく、その端、えぐれた銃創によって吹き飛んだはずの肉と玉が見事に縫合されていた箇所であった。

「これを治療できる人間は研究所の人間以外には存在しない」

「ただ縫い付けただけじゃない」

「これはそう簡単なものではない」

 それは銀の林檎と呼ばれる装置。

オカルティズムにも傾倒している総統によって設立された特務開発局によって製造された魔術礼装なる兵器であった。どこかの遺跡で見つけたらしいオーパーツの残骸を研究し作り上げられ、二厘の確率で適合することで身体機能と代謝機能を数倍まで向上させることのできるドーピング装置。どこまでが科学でどこまでがオカルトなのか、男には分からないものの少なくともそれがどちらに属そうとも向上した身体機能を得ることになったその結果だけあれば十分でもあった。

「先日壊滅したとはいえ銀林檎部隊は軍部の中で極秘事項だ。使えなければそのまま自爆装置によって他国へと渡る前に証拠は隠滅される。しかし今私がこうして生きているということは自爆装置の切除とともに治療を行ったということ。それができるのはこのプロジェクトにかかわった一部の科学者のみ」

女はじっと彼を見つめていた。微かに眉間には皺が寄り始めていた。

「しかし、その治療員、いいや修理工が来ているという報告は受けておらず、また軍部の後退した防衛ラインにもこのような洞窟は待機所としてはいなかった。以上のことから貴殿がプロジェクトからの脱走員ではないかと推察した」

「それが何で理由になるのよ」

「機密を保持したまま脱走したとなれば死罪は免れない。ならば軍兵である私を医療することはリスクが大きすぎる。さらにこの玉の詳細を知っているならばいかようにも扱うことはできるだろう。私が眠っている間に四肢を動かさぬように神経を切ることもできたはずだ。にもかかわらず私が今こうして五体満足の状態でいるということは何かしらの理由が存在する。それが交渉によるものか、私を人質にするものかは証拠はないが少なくとも敵対者ではないそう判断した」

「不十分ね、案外あなたをとらえに来ただけのソ連のスパイかもしれないのよ」

女の声が洞窟の中に響いた。

不愉快そうに、

激怒したように、

しかしどこか、安堵したように。

「軍人が聞いてあきれるわ、怪我して帰ってくるならそこら辺の子供にも劣るわ」

「そうか」

「そうよ。それにあなたは意識は取り戻したけどまだ体は万全じゃない。軍とその兵器について情報を聞き出すために生かしているだけかもしれないじゃない」

「その可能性も否定はしない」

暗闇の中、女は微かに血で汚れた彼の体を拭き上げていく。まだ彼に体を動かせるほどの余力はなく、ただ女になされるがままに体を預けた。

「ただ」

新しい包帯を巻いていく彼女の温度を男は感じていた。

「ともにあってほしい、そう思っただけだ」

唐突に痛みが走る。

引き絞られた包帯が傷口を締め付けたのだ。痛みは顔に出ることはないものの生き物として衝撃が大きければ肉体が悲鳴を上げることは避けえない。

「痛いではないか」

返答はなく、女の顔は見えなかった。

「全部外れよ、なにもかも」

ゆっくりと女は部屋を出ていった。

枕もとのランプがふっ、と消えた。

 

 

 

 

 起きることができたのはそれから一か月後のことであった。

もとより口数が少ないのか、それとも失言をしたのかわからないものの、彼女が発するのは必要事項のみの簡素な言葉だけ。彼の言葉にも返答することはなく、食事と二日に一度の傷の消毒と包帯の交換に来るだけ。それでも深い暗闇の中で眠る彼を手放すことは無かった。

 

 彼が目を覚ましたのは朝だった。

傷を負った体が休眠を求めていたのか、それともいついかなる時も暗いこの部屋に体が冬眠でもしようとしているのかわからないもののこの部屋に入って以来、随分と長く眠っていた。女の来訪がなければ朝と昼の感覚さえなくなるほどに。

 しかし、その朝は何もなく目が覚めた。

長く伸びた髭で確認したわけでもないが、朝だ、とそう感じたように体が目を覚ました。微睡のような暗さがゆっくりと見知った暗所であることを訴えかけてきた。手のひらを掲げた。千切れそうにすらなっていた右腕もまたつながっているらしい。筋肉の落ちた細腕が自重にすら耐えきれずゆらゆらと揺れていた。高く掲げられた右腕に血を送るために久しぶりに鼓動が早くなる。その不甲斐なさに少しだけ驚いた。

早くなった鼓動はゆっくりと血液を頭まで送り、意識を覚醒させていく。全身に突っ張るような、何か異物でもあるような感覚を持ちながらもそれでも動き始めた体に久しぶりの命令を下した。

「動け」

力が足りないように数度のベッドへの転倒を経て立ち上がる。何とか立っていると直ぐに力が入る。銀林檎の最適化が終わったのだろう、本来性能ではないものの、現状での最高の肉体の効率化が終わりゆっくりではあるものの歩けるようだった。

一歩

二歩

三歩

四歩

五歩

もたれるように開いた扉の先に会ったのは小さな階段だった。人一人がようやく入り込めるような狭く小さな階段。隠し部屋へと続いているようなその階段を上がると跳ね上げ扉を体で押し込んだ。上がる息の代わりに背中から重さが消え、一瞬遅れて扉が後ろへと倒れるばたんという音が聞こえてきた。

そしてその光に目がくらむ。時刻はまだ夜明け前、微かに東の空が紫紺へと移り変わっていく明けの日差し。どれくらい目を瞑っていたかはわからない。一か月の光を貯めこむようにゆっくりと目を馴らした先に広がっていたのは部屋だった。

どこにでもあるような深い森の中の小さな小屋が広がっている。かまどと机と一人用の小さなカウチとそして部屋の端には血に濡れている包帯の山と白いシーツと今の自分の着ているものと同じ貫頭衣が几帳面にたたまれておかれている。月の夜灯が窓から入り込み微かに木々の輪郭が見て取れる。生き物たちの眠る冬の夜の静けさがそこにはあった。

部屋の中に女の姿はない。しかし、代わりに小屋の扉は開け放たれていた。

 

「人の愚かさっていうの変わらないのね」

月の光の下で彼女は零すように言った。

「いつの世も世界は嵐にあふれていて、争いに歯止めはない。あの人が望んだ平定ですら二百年と持たずに崩れ去った」

揺れるように彼女は言う。

「争い、悼み、そして悔いる。にもかかわらず人間は戦いをやめられない」

ゆっくりと彼女が振り返った。

その瞳は赤く、泣きはらしたように、紅かった。

 

「それでもあなたはまた戦いに戻るというの」

「そうだ」

「このままいけばあなたたちは負ける、確実に。そしてナチスはその痕跡をも残さないためにあなたたちは残らず処分される。一片も残すことなく消えてしまうのに」

「そうだ」

「歴史からも葬られて命もそして名前すらも残ることはないというのに」

「そうだ」

「どうして」

「それが世界を進めるためならば」

 

頬が熱く痛んだ。

目の前には彼女がいて、そして視界には振り切った彼女の右手が見えた。

暗闇の中いつも頬に触れてくれていた彼女の右手が見えた。

「そうしてそう思うのよ、あなたは戦った。戦い抜いた。それで十分じゃない。これ以上傷つく必要なんてないじゃない。手も足も目も心臓もボロボロになってまでまであのくそ野郎のために働きたいっていうのっ」

「主義趣向でいうならば私もあの髪型にはいささか抵抗を覚えるがな」

「じゃあっ」

「しかし、これでよいのだ」

その言葉に彼女は詰まったように言葉を飲み込んだ。

「確かに我らの行いは断罪すべき悪に他ならない。死すら生ぬるいとも言える。しかし、なぜ彼らがこうも我らを忌み嫌う理由がわかるか」

「人間のことなんて変わりたくもないわ」

彼女の言葉に少しだけ笑った。

「それは彼らが怪物ではないからだ」

「何が言いたいのよ」

「自分たちも簡単にそうなりうるということだ」

人の悪性を煮詰めたような戦争とそしてその元凶としての標的。人に非ずと、怪物と、兪やする悪性が自分たちにも存在していることを知っているから強く、強く反発する。

「世界は大きく、歪に膨れ上がり、その結果として悪性を煮詰めたような我々が生まれ落ちた」

生存を超えた欲の戦争。

「世界はその悪を嫌悪し、憎悪し、反対に人間の善性を思い知ることとなる。ならばその悪が打倒されればあとは善なる平定が成るだろう」

「でもそこにあなたはいないじゃない。あの時と同じようにまた悪魔と、魔王とののしられて消える必要なんてない。銀丹を持つあなたがどうしてそこまでする必要があるのよっあの時と同じように、またっ」

金丹に及ぶことのない廉価品は吠える彼女へとほほ笑んだ。

「あなたがその世界を生きていてくれる」

赤い月の雫を拭った。

「また、あなたは私を置いて行ってしまわれるのですね」

「私は其方の願うものではない」

「分かっています、っでも」

彼女はそれ以上は言葉を紡ぐことはなかった。

彼女の髪をゆっくりとゆっくりと撫でる。

「生きろ、虞よ」

朝焼けの紅に小さなヒナゲシの花は揺れていた。

 

 

 

 

「ねぇ、あなたの親戚に従軍していた人はいる」

「ええ、確か祖父の弟だった人がいましたけど、終戦前に戦死しちゃったそうであったことはないんです」

「そう」

「あ、でもそういえば無くなる少し前に送ってきた手紙に一言だけ『後は頼んだぞ』って書いて送ってきたことがあって、いったい何を頼まれたのかって一族で大騒ぎになったらしいんです。もしかしたらこの漂白化を予知していたとかだったりして、」

『何脂売ってんだ、時間ねぇんだぞっ』

青年は小さく会釈をするとそのまま走り去っていった。

女はその背中を見つめていた。

 

 

 

「確かに頼まれました」



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