パラサイト・インクマシン 作:アンラッキー・OZ
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麝香の薫り、辛苦の心
Chapter 87
カチャカチャ。食器の擦れる音が小さく響く。
その後は手術室から溢れる金属音でもなければ、暗い暗室に響く怪しげな操作音でもない。
何の捻りも、何の特別性もない、ごくありふれた家庭で見かける夕食の一風景に過ぎない。
家々から小さな談笑やテレビの音が聞こえる夜中、レイニーはパーカー家にお邪魔して食事を摂っていた。
実はレイニー、こう見えても何度かピーター家のテーブルを囲み食事した経験がある。当然だ、幼少期は男女の境界線が曖昧で、他人を見れば遊びの対象か否かという酷く簡潔した関係性を求めるのが子どもだからだ。
「でも久しぶりね、この三人で食卓を囲んで食事なんて。何年ぶりかしら」
「1、2、3……ざっと12年ぶりくらい?」
「ホ、ホントホント。すっごく久しぶりっていうか、なんかもう一周回って初めてっていうか…」
「そりゃ、3歳の頃なんて記憶も曖昧よねー」
ぱくりとフォークに刺したステーキの一切れを頬張り、レイニーはご機嫌そうにその様子を眺めるメイ・パーカーから隣でぎこちなさそうにステーキにナイフを押し込むピーター・パーカーに視線を移す。料理はレイニーとメイの共同作業で作ったものなのだが、ピーターは心ここにあらずといったようである。
というより、レイニーにはフォークとナイフを上手く使うというよりも、どう力を抜いて使おうかと、そのことに念頭を置いているようにも見えた。
「……ちょっと、大丈夫?」
「えっ、えええええ、な、なにが?」
「あら本当、すごい汗よそんなに不味かった?」
「汗?」
ピーターは食器を握っていた手を放して焦るように自分の顔に触れると、じわりとした汗が顔と手に、その両方に付着した。ここで、ピーターは漸く手にも顔にも汗が流れていたことを知った。
流石のレイニーもスケジュールの合間を縫った貴重な団欒とはいえど、唯一の幼馴染が体調不良とあっては無理強いできない。残っていたステーキを一口で平らげると(はしたない)、やや顔を青くしたピーターの肩を担ぎ、ピーターの自室に連れていく。ふらふらした足取りではあるが、よく観察すれば、力が出ないというより出さないように心がけていることがわかる。何らかの症状による脱力ではなく、ピーター本人の意思によって力を込めないように心がけていると分かった。
「ちょっと、別に歩くくらいできるでしょ。ベッドに乗っけるよ」
「うん…」
結局ピーターは最後までレイニーの肩を借り、這々の体といった形でベッドに横になる。血色の悪いピーターの顔を覗き込むと眼前にレイニーの顔が映り、女性特有の馨しい香りが鼻を突き、ピーターは思わず寝返りを打った。丁度、レイニーに背を向ける形で。
なんだ、そこまで元気なら大丈夫か、と思ったレイニーは流し目に部屋の内装を眺める。昔遊びに来た頃と特に変わりはないが、一部奇妙なものが映った。
ゴミ箱に大量破棄された、歯ブラシ。
ん? と首を傾げ、ピーターにバレないように首を(実際インクで)長くして覗き込むと、どの歯ブラシも新品らしいのに、ヘッドやネックの部分が噛み砕かれていた。
なんだこれはとレイニーは驚いたが、以前見た光景と重なって見えた。
それは、ニューヨーク決戦後のスティーブとの同居生活だった。
当初、スティーブは冷凍保存された影響か自分の身体の力の調節が効かなかったらしく、フォークやナイフを握り過ぎて折るということがあった。特に歯磨きにおいては顎や手など無意識に力を込めやすく、何本歯ブラシをダメにしたかは覚えていない。スティーブはトリスケリオンでS.T.R.I.K.E.チームと訓練していく中で徐々に力を加減する感覚を掴み、漸く現代の生活に慣れることができた。
つまり、ピーターも似たような状況下にあるのではないかと、レイニーは予測を立てた。
ハルクやソー、ワンダ、ピエトロ、アントマンなど、思いがけないタイミングで力を手にするケースがあることは知っている。恐らくピーターも同様で、今はその制御が効かない時期にあるのだと察した。それ故の、先ほどの食事だった。
発汗は新陳代謝の促進の証左。つまり、以前にも増してピーターの代謝が活発になっており、それは即ち常人を超えた身体能力を手にしたことを意味する。
レイニーも同様に、力を与えられる場所や時期は選べなかった。それこそ正しく運命、または宿命とでも言うように、力の拝受に本人の自由意志は一切介在しないのだ。
毛布を肩まで被ったピーターから、小さな声が聞こえる。
「さ、最近…ヘンなんだ。ヘンな蜘蛛に噛まれたからかな…なんていうかさ、万能感ってやつ? 今までよりもたくさんのことができるっていうか、体の変化に頭が追い付かないっていうかさ。でも、それでも体は勝手に動いちゃうんだよ。ねぇ、これってあの思春期ってやつなのかな…」
(……これは…)
ベットにゴロリと寝込み、レイニーに背を向けた形になったピーターにはわからなかった。レイニーが、ピーターの部屋の一角にある奥の引き出しに、最近ネットに出回った動画に映る、
だが。
「んー…まぁ、そういうこともあるかもね。いきなり力が付くと、誰でも戸惑うと思うよ」
あえて、レイニーは無視した。
唯一の友がひた隠しているであろうことに、無遠慮に土足で踏み込むような真似はしない。後日、トニーと相談してピーターへの監視を頼むことを胸に決め、もし万が一事件に巻き込まれるようなことがあれば、あらゆる職務を放棄してでも自ら出張って助けようと考えた。
「こんな格言知ってる? 〝大いなる力には、大いなる責任が伴う〟」
「……それ、どっかで聞いた気がするよ。なんの映画だっけ?」
「何だったかしらね。流石の私も覚えてないわ」
「ホントに? レニーに覚えてない映画なんてあるの?」
「そりゃあるわよ。三度の飯より映画好きだと豪語する私だって、星の数ほどある映画のタイトルと台詞を完全暗記してるわけじゃないわ。私だって、誰もが憧れる完璧超人とは程遠い」
「それって、キャプテン・アメリカとかどうなの? トニー・スタークとか、ソーとかさ」
低く、呻くように呟くピーターの声に、レイニーは一瞬だけ体を強張らせた。
実際には全身のインクが小さく波打った程度であるが、被った人間のガワが揺らぐ程度の心理的ショックであったことは事実だった。
しかし、この発言では「レイニー・コールソン=ベンディ」という方程式に結び付く訳ではない。あくまでも、アベンジャーズという世界的ヒーローの一例を挙げただけであって、レイニーとアベンジャーズの関係性を言及している訳ではない。
ただし、そこにピーターなりの探りであったことは、レイニーにも判っていた。その上で、レイニーは踏み込んだ。
踏み込み、ピーターが横たわるベッドに腰を下ろす。ギシリと軋んだスプリングが、普段乗せたことのない人間二人分の重みに対する悲鳴であることを暗示していた。
「あの人たちは、私たちには手の届かない英雄かもしれない──そう思ってない?」
「違うの?」
「さぁ?」
拗ねたような疑問の声に対し、レイニーは白を切るように肩をすくめて応えてみせる。
「宇宙人を倒す、暴走マシーンを止める、世界を救う。やること成すこと、そのすべてが規格外。じゃあ彼らヒーローは私たちとは違うのか? 生憎だけど、私はそうは思わないわね」
「なんでさ、あの人たちの真似なんか誰もできないよ。あの人たちにしか、この世界は救えないじゃないか。それとも、別にあの人たちじゃなくても誰かが世界を救えたとでもいうのかい?」
「──彼らにしか、救えなかったでしょうね。でも、誰にもできなかったことだからとか、そういうんじゃないと思う。『ダイ・ハード』のジョン・マクレーンの台詞、覚えてる?」
「……4?」
「そ」
ピーターは体にかけられた毛布を掴みながら目を閉じ、過去の記憶を手繰り寄せる。『ダイ・ハード』シリーズはハリウッドを代表する屈指のアクション映画だ。ジョン・マクレーンという人物を、シリーズを一貫してブルース・ウィリスという1人の俳優が演じることで、シリーズが数を重ねるごとにジョン・マクレーンという人物の人生の軌跡を垣間見ているようで、シリーズを追わずにはいられない作品だ。
何と言っても痛快なのは、彼が〝世界一ついてない男〟と冠される点である。正に彼のいるところにトラブルは尽きない、と言いたげな──それこそ、名探偵がいるところに殺人事件は起こるような、そんな予定調和を生み出す存在。そして我々視聴者ですらあんぐりと口を開けてしまうような、有り得ないようなアクションをやってのけるのである(あくまでも演出だが)。
様々なアクションシーンと台詞が往来する中、ピーターはある印象的な台詞を導き出す。
「〝俺は他にやる奴がいないからやってるだけだ〟」
「正解」
この間、僅か10秒。
映画の嗜好こそ違いはあるが、それでもレイニーもピーターも映画が好きであることは変わらなかった。それ故の正答。それ故の以心伝心。十数年離れてしまっても、映画という趣味の繋がりは途絶えることはない。
勿論、作品に対する感想や評価は十人十色であって、完全に一致するわけではないのだが。
「〝ヒーローのご褒美知ってるか? 無いぞ。撃たれるだけ。凄い奴だとかなんとか誉められるくらい。それで離婚。妻は俺の名前を忘れようとしてる。子供は口を聞かない。たった一人で飯を食う…そんな男に誰がなりたい? 他に誰もやる奴がいないからやってる。本当に誰かいればすぐに代わる。だが、誰もいない。だからやってる。それだけだ〟…これね、彼らだって言えるのよ、きっと」
「……他にやってくれる人がいないから、やるってこと?」
「あ、いま彼らを貶してるって思った? 違うわよー寧ろ尊敬している」
若干不機嫌そうなピーターの声色で、言わんとしていることは分かった。その気になれば誰かがやれることを
「だれもが裸足で逃げ出すような難行に立ち向かい、その重みに潰れることなく乗り越える彼らは正に英雄……ちょっと胡散臭くなったわね、コホン」
「ホントだよ、一瞬
「…エッヘン。と、とにかく、彼らは多分、誰もやらなくて自分ができるから、ただできることをやってるだけの、人間よ」
「……ただ、できることをやってるだけ?」
「そう。いいことでも悪いことでも…いや、悪いことはやっちゃダメよね。いいこと、いいことをしてる。そう見える。でも彼らには、その〝いいこと〟って意識して実行してるとかナイナイ。手の届く範囲でできることをやってるだけ。人間、それで十分よ」
たとえば、とレイニーはベッドに腰かけたまま、横たわるピーターの向こう側のカーテンに手を伸ばす。当然レイニーには届かない。頑張って伸ばした手が、ピーターの眼前を通過した。
「私はそのカーテンに触れたい。でも届かない。どうやっても限界。じゃあどうする?」
「どうって…誰かに頼むとか?」
「だいせーかい。じゃあカーテン取って、P.P.」
ピーターは寝転がりながらカーテンの裾を掴み、必死に伸ばしたレイニーの手に引っかける。その時触れた、ややひんやりとした感触にドキリとピーターの動悸がしたことを、レイニーは知らない。
「ありがとう、これで貴方も私のヒーロー!」
「え、なんで」
「私に手の届かないことをやってのけたわ。それだけで、私にとってはヒーローよ。
いい? いまのが一般人とヒーローの縮図。一般人に手の届かないところに手が届くのがヒーロー。それを邪魔したり、伸ばす手を短くさせたりするわるーい人たちがヴィラン。ヒーローを簡単に例えれば……孫の手?」
「ぶはっ! な、なにそれ」
思わずピーターは吹き出した。
まさか、ヒーローを孫の手に例えるなんて思いもしなかったからだ。古今東西、ヒーローを孫の手に例えた人物なんてレイニーしかいないだろう、という確信さえあった。
くつくつと笑い声を押し殺して肩を震わせるピーターに笑いかけ、レイニーはカーテンの向こうの夜空を眺める。夜のカーテンには無数の光と、ひときわ大きな月が浮かんでいた。
「決して届かない人たちじゃない。私たちと同じようにできることとできないことがあって、悩みもあるし苦しみもする。でも、それを我慢して自分のやりたいことを貫けるのが
「ふっくくくく…! あー、面白い、相変わらずレニーの例えって独特っていうかさ。面白いよね」
でも、とピーターは続けていた言葉が止まる。
(でも、それなら)
ピーターの胸中には、十数年前の光景がまざまざと映し出されていた。
胸を突く小さな衝撃。巨大な何かが通り過ぎた風圧。思わず倒れて擦りむいた手のひら。痛みに顔をしかめて起き上がった目の前に、
血だらけのロケットだけが、レイニーの末路を暗示していた。
(でも、それなら。レニーは僕の、たった一人のヒーローだよ)
人間は死後美化されると言うが、レイニーは事故死同然の扱いで処理されていたし、幼き日のピーターもレイニーは命を懸けて己を守ってくれたと、レイニーという存在を神聖視していた傾向があることは否定しようがない。
まさか生きているとは思わず、初めて家に来た時には隠れてしまったが。こうして話すと、昔と変わらない映画好きの幼馴染だとピーターは実感していた。
しかし、あるニュースが脳裏にちらつく。
ユカリ・アマツという日本人風の少女がアニメ会社の広告塔として社長に就任したという、小さなニュース。髪は結んで黒い大人っぽいスーツに身を包んだ少女が、ベンディで、アベンジャーズの一員であるということ。それが、幼馴染の姿と重なって見えた。
(いやまさか。名前違うし)
確かに黒髪はニューヨークではそれなりに見かけるが、レイニーのような顔の凹凸が少ない姿はあまり見かけない。多くの人種を受け入れる国として多くの国の人間が移住し、生活している。グローバルあるあるの一つ、「外国人は一人一人違いがよくわからない現象」だ。
だから、胸の内にくすぶる小さな疑問は知らないフリをした。
きっとそうなら彼女から言ってくれるだろうと、その時いまの自分に起こっていることを話そうと。
それまで、自分がやってきた武勇伝を彼女に披露しようと。
───もしここで。
もしここで、ピーターが「キミはあのベンディなのかい?」と聞いていれば。
もしここで、レイニーが「貴方は巷で噂のスパイダーマンなんでしょう?」と返していれば。
少なくともいくつかの悲劇を避けることができただろう。
しかし、彼らは物語の
ここに物語の流れは決した。
あとは坂を転がる石の如く堕ちて往くだけである。
Chapter 88
「じゃあメイさん、また今度」
「えぇえぇ! 是非また来て~ピーターも喜ぶから! また面白い料理いっしょにしましょ!」
「是非とも。お邪魔しました」
何故か含み笑いで見送られたけど、メイ叔母さん何考えてるのかな? 別にP.P.と私には男女の仲みたいな関係はないよ? 至ってノーマルな幼馴染。言い換えるなら同じ学校の同じクラスにいた友達、的な? 腐れ縁っていうのかね、別に腐ってないけど。腐る死体ですらない訳だし。
パーカー家から出て雑多な夜道を歩く。人が多いって訳じゃなくて、ゴミとかモノとかそういうのが散らかってるってだけで。流石に中世のウィーンみたいに治水が悪くてそこかしこにウ〇コとか〇便とかが見えるわけじゃないよ。
すこしひんやりとした夜道を歩く、ホップステップジャ──NO! え、何々急に視界がブレたんだけど!? あぁ、サーチャーからの視覚共有か。
「───あ、みっけ」
みぃつけた。
腕に機械を嵌めて悪態つく見覚えある
褐色黒髭の見覚え無い男。
その男の背に仄かに見える、〝黒猫〟の守護霊。
報告報告、端末開くと『ワカンダ王子様』の名前。アドレス交換してて正解だった。タップして数回のコール音の後、すぐに通信が繋がる音に切り替わった。
「オージ様? 弟さん見つけたわよ、ウンジャダカ…今はエリック・スティーヴンスだったかしら。近くにクロウもいるわ。寝首を…狙ってる訳じゃない? 協力体制? 座標は端末に送るわ、〝黒い
よし、これでワカンダ側が大ポカしなければ契約成立! いやー、世界中にサーチャーをばら撒くのは骨が折れたけど、その甲斐はあったね。まぁ折れる骨が無いんだけど!
オークランドでワカンダ人らしき男性が出入りしてた記録は残ってたからそこから足取りを追ったら、ヴィブラニウム関連の工作員に行きついたのは行幸だった。でもクロウと繋がってるのは予想外だった、ワカンダ国民にとっての仇への確執はないの? って思ったけど、そもそも彼はワカンダから村八分されたような存在だしね。そこまで憎しみはないのか、それとも単なる利用価値だけを追求してのことか…ま、そのあたりはワカンダに任せよ。私が深入りする案件じゃないし、下手に深入りしてワカンダの内政に関わるなんてたまったもんじゃない。
ん? 電話? もう確保したの? 仕事はやーいワカンダの技術は世界一ィィィィ────ッ! …って思ったら違った。スティーブだ。
「はい、こちらレイニー」
『ラムロウを見つけた、ラゴスに潜伏しているとの情報が入った。至急本部に来てくれ』
「了解」
端末の通信を切って──
お酒で酔ってるその辺のおじさんからすれば、黒いハエかなんかが通り過ぎたようにしか見えないでしょうね。実際間違いでもないし。
私の内に眠る
彼みたいに銀色の風には成れずとも、黒色の
【 No No No , Don't say that Nobody can beat me 】
(イヤイヤイヤ、ソコデ弱気ニナッチャダメデショ)
「わかってるわよ」
そうだ。
私は彼の、彼らの魂を引き継いでるのだから。
私は、彼らの無念を晴らすために、生きなきゃいけないんだ。