そしてとうとう瑞鶴は、歴史上で自分が最後を迎えた海域へそっくり同じ作戦へと出陣する日を迎えるが……
どうかお一人でもいい、お目に留まれば幸いです。
「空母瑞鶴の憂鬱」
遥か茫々の海。
風もない夕凪の時刻。どこまでもどこまでも静かに波打つ水面が続く。
ちょうど赤々と燃え上がる夕日が水平線に沈みかけている。
私はこの日没の海を見ているのが大好きだ。
誰も来ない、そも誰も知らないこの場所から見る夕暮れの光景は何物にも代えがたい。
岬の突端から、危うい崖の岩場を伝って、さらに海面からひときわ高くそびえたつ岩の上。ちょうど一人が座れるくらいの場所。
危険は承知の上。
でも翔鶴姉に知られたら、大目玉くらいでは済まないだろうな。二度とここに来られなくなるに違いない。
だから日々、誰にも見つからないようにひっそりと身を隠しつつここまで登ってくる。
訓練と思えば、あながち悪いことばかりではあるまいなどと言い訳を呟きながら。
変わり者として皆から距離を取られているのも、ここに忍んでくるには好都合だった。誰も私のことなど見てはいないから。そしてしばらく姿を消していても、ああ、いつものことだから、と気にもかけずにいてくれる。
感謝する筋合いでもないが、私にとってはありがたいことだ。
もう秋も深い。空気が澄んでいるのだろう。今日の夕映えは一際美しい。吹きさらしの岩の天辺、でも寒さも忘れて眼前の光景に目を奪われている。
水平線に最後の残照のほの赤い光が消えても、しばらく私はその場を離れない。
断崖の縁のような高みに座って、眼下広がる虚空に足を遊ばせながら。
遥かに望む大海にますます深く抱き寄せられながら。
折節目を閉じて潮騒に耳を澄ます。何かを探すのでなく、そこに何も見つからないことに安堵を覚えながら。
大海の虚無を心もないまま優しく包み込む潮騒の音が、私の中にぽっかりと空いた冷たい空白までもその胸に抱き寄せてくれる。
自分がきれいさっぱり消えていくような感覚。それともあるいは元からいない自分をそのあるがままに赦し、受け入れてくれるような、だろうか。
……と、不意にその空白の真っただ中に激烈な閃光が弾け、巨大な爆発音が轟いた。
同時にずきんと激しい頭痛が私を襲う。
紙一重の差で私は辛くも被弾を交わす。
「止まって、瑞鶴、その方向には敵爆撃機の大群が上空に展開しているわ、瑞鶴、聞こえないの?」
どこか遠くから悲鳴にも似た声で翔鶴姉が叫んでいる。
「ちゃんと聞こえているさ、翔鶴姉」
そう呟きながら、けれど私はそんな静止を振り切って全速で敵艦隊旗艦である巨大空母
に真っ向から突撃する。
真正面に敵爆撃機が投下した爆弾が着弾し、私のすぐ鼻の先に巨大な水煙を上げる。
ふん、どこを狙っている?
私をめがけて次々と敵爆撃機が急降下爆撃を行い爆弾が投下される。
けれどそのどれも髪の毛一本の差で私には命中しない。
回避行動もしない私を、捕えられない敵空母と爆撃機部隊の動揺が伝わってくる。
おや、上空では私の戦闘機たちが敵巨大空母を護衛する敵戦闘機の一団に苦戦してい
るようだ。私は彼らに退避を命じ、代わって自ら対空砲火の全門一斉射撃を敢行する。
私の対空火力は自ら勝手に増強に増強を重ねてもはや飛行甲板の周囲は、ありったけ装備を詰め込んだ大小多数の機銃、噴進砲で針山のごとくになっている。
敵航空隊は、この思い設けない常識はずれの攻撃に驚愕し、見事に統制されていた包囲陣形を散り散りに乱して混乱に陥る。
「ゼロ式艦上戦闘機、全機、突っ込め、一気に敵航空隊を殲滅せよ」
私は叫ぶ。
ゼロ戦たちは乱れ散った敵航空隊に猛然と逆襲をかける。統制を失った敵航空隊はすでに抜群の練度を誇る私の艦載機たちの敵ではない。
そも飛行機同士のドッグファイトでゼロ戦に対抗できる戦闘機など世界のどこにも存在しない。しかも私の艦載機たちは、どれも私の手でたっぷりと改造を施してあるから、通常のゼロ戦を凌ぐ戦闘能力を有している。
敵空母の護衛航空隊散り散りにしたところで、私は遥か上空に待機させていた自慢の艦爆部隊の彗星たちに一斉急降下爆撃を命じる。
私の彗星たちはとにかく動きが早い。猛スピードで爆撃を敢行すると、敵護衛艦に機銃攻撃を加えつつ高速で前線を離脱。この動き、戦闘機でもなかなか追捕可能なものは少ない。
さあ、私のこの奇襲爆撃の網から逃れられるかな。
敵空母は巨体ゆえに小回りが利かない。その回避行動はまったく間に合わない。次々に私の艦爆たちの爆弾を被弾して敵空母は、次々と一瞬にして行動不能に陥っていく。
算を乱した敵航空隊はもはや当初の制空権を完全に失い、我が方に一方的に叩かれている。そこに後方から追いついてきた翔鶴姉はじめ五航戦の艦載機たちが追い打ちをかける。
敵は、航空隊のみならず、主力たる空母の動きを封じられて回避行動もままならず混乱を始めている。護衛の敵駆逐艦、敵巡洋艦が応援に駆け付けるが、今度は我が方艦攻の雷撃に次々と動きを封じられていく。
その混乱の中、護衛の薄くなったさらに後方に控えていた敵空母たちに、さらに上空に隠していた私の彗星たちが一斉に急降下爆撃をかける。
敵空母たちは、ほぼ丸裸の状態のまま、次々と艦載機出撃不能、航行不能に陥っていく。
すでに勝敗は決まっていた。
私はすでに、すっかり対空砲火も撃ち尽くし、艦載機たちも攻撃を終えていた。ようやく追いついてきた味方全艦に後を任せて後方に引く。艦載機たちを素早く帰艦させる。念のため全機、機銃の弾、魚雷・爆弾の再装填を行う。
私は無傷。艦載機たちも、戦闘機たちの中に若干被弾した者たちがいたが全機帰投。ほとんど自爆覚悟かという無謀な突撃を単艦敢行したくせに、今回もまた私はほぼ無傷のまま任務を終えていた。
嬉しいかって?
私はただ虚ろな心で徹底的に無為で無意味な虐殺の後を眺めているだけだ。
考えていたことといえば、ああまた提督と翔鶴姉に命令無視で何時間も怒られるのだろうな、ということくらいだった……
……と、気が付けば私はあの岩の天辺の元いた場所に立ち戻っている。
しばしば意味もわからず、私はこれまでの戦闘の光景を幻に見る。白日夢というやつなのだろうか。
ほんとうになぜそんな夢を目覚めたままで見るものか。私は戦争が好きなのか?
いや。
好きも嫌いも、私の中には感情というものが欠片しかないのだから。
私は手にしていた日記帳を開いた。
先日皆で街に出た折に、ふと気紛れに本屋で買ってみた。
その日から、私はいつもその日記帳を携えて歩いては、折節開いてページを繰っている。
日記帳を見るのが好きだった。でも中には何も書いていなかった。ただ日付だけ。日付の下の真っ白なページを、ただいつまでも眺めている。
何か見えるわけではない。
何も見えないことに安堵する。
その空白が、私の日々を優しく慰めてくれる。
さっきの幻影は、あれは確か珊瑚海海戦の時のことだったか。
前線の敵基地を叩いて補給路を断とうという作戦。参戦したのは五航戦。翔鶴姉と私を中心にした空母機動部隊である。敵基地からかなり手前で同じく敵空母機動部隊に遭遇したのも前世の史実と重なっていた。
歴史上の珊瑚海海戦は、世界で初めての空母同士が渡り合った海戦だったと聞く。
確かにその通りになってはいたが、私の戦い方はおよそ空母離れしたものだったろう。メインエンジンにも手を加え、船体からぎりぎりまで装甲など外せるものは外したので、非常識な対空兵装を詰め込んだにもかかわらず、速度は駆逐艦並みになっていた。
最高速三十八.九ノット。
翔鶴型空母は当時世界最高性能を誇る空母であったが、大きな弱点もあった。それは装甲の弱さだった。だからもともと弱かった装甲をさらにひっぺがした私は素裸で喧嘩に飛び込むようなものだった。
しかし被弾しない。「幸運の空母」に装甲など不要ではないか。
さらに私は常に死を恐れない、というよりも早く死んでしまいたいとまで思いながら出撃している。半端な装甲ならない方がいいくらいに思っていた。
訓練に訓練を重ねて、この速度を交戦中にも落とさないような操舵技術を磨きに磨きぬいた。
この魔改造をすべてフル稼働させて、単艦で敵機動部隊のど真ん中に躍りこんだ。無論この無茶な改造仕様、私自身の体力・心力の限界までを酷使しなくては機能しない。心身が悲鳴を上げる。それを構わず、私自身もまた絶叫しながらその常識外の負担に耐えて戦線を踊り狂った。
狂乱の舞、とくとごろうじよ。
すでに味方駆逐艦の護衛まであらかた振り切ってしまっていた。
敵艦隊が呆然として大混乱をきたしたりせず、冷静に反撃を加えていれば、装甲を極端に減らした私の船体などひとたまりもなかったはずではあったが、艦載機との完璧かつトリッキーな連携と圧倒的な対空兵装に守られて、何と私は無傷でこの非常識な戦場を駆け抜けたのだった……
皆は言う。そんな凄絶な戦闘の体験を書き留めていけばいいのに。縦横無尽に海上を踊り狂う狂乱の舞姫の姿を書き留めていけばいいのに。
狂乱の舞姫の姿?
私にとっては何ほどもないことだ。わざわざ空白のページを汚すに値しない。
どうでもよい。
命令された通りにする。何の思いもなく兵器として働く。それだけ。
私はこの世界に転生した時、前世の記憶をすっかりなくしていた。
歴史書で前世の自分について数え切れない記録を読んでみた。だから今は自分に何があったのか、知識は充分持っている。至って詳細に正確に。でもそれは、単なる知識でしかなくて、記憶などと呼びようもない。よそよそしい、まるで自分とは縁もゆかりもない誰 かの話としか感じられない。
そこにぽっかりと海ほども広い空白が広がっている。
こんな艦娘も希にいるらしい。原因はわからない。前世に何かひどく心に傷を負ったからではないかと言う人もいるようだけれど、記録から読み取る限り、自分の前世は他の艦
娘たちの前世と比べて、特別に悲劇的なものとは思えない。
私は鎮守府の書庫で前世の自分が沈没した時の記録を読んだことを思い出す。
エンガノ岬沖海戦。
沈没した日の記録。
囮として自らの生命を投げ出すという非情な作戦。
写真も残されていた。当時の敵航空機が上空から撮影したすでに満身創痍の私の全景を映した写真。沈没が決定的なものとなり甲板に集合し万歳をする兵士たちの姿。
貝塚と言う男が私の最後の艦長となったらしい。沈没する私と死を共にして果てた。人格者にして人望厚い立派な指揮官であったと書かれていた。
本に乗せられていた写真を見ても、特段何も感じる事が無かった。ただふと気が付いたのだが、面立ちがどこか提督と似ているようだ。
でもそんな偶然すら、私の心を呼び覚ますことはなかった。
「幸運の空母」の無残な最後だった。
でももっとひどい生き方、死に方をした艦娘なんて、いくらでも挙げられる。
なぜ私なのか。
わからない。
どの艦娘の前世を調べてみても、それはただただ悲惨で、非情で、残酷な……そう、単なる戦争というものの現実に過ぎなかった。
胸が悪くなるような剥き出しの現実。それ以上でも以下でもない。ただそれだけのこと。
そも私はなぜ転生したのだろう。私がそれを望んだのだろうか。そう言われたとしても、私には信じられない。
戦争などという慈悲の欠片もない現実を誰が二度と繰り返したいと思うのだろう。
けれど私はここに転生してしまった。
心のある兵器などという、それこそ悲劇としか言い様のない存在として。
意識がはっきりして、転生した自分の置かれている状況をすべて理解したとき、私は心を閉ざした。
できるなら切り落として海に捨ててしまいたかった。
胸をハート形に切り抜いて捨ててしまおうと、ほんとうに自分の胸に刃を刺したこともある。馬鹿みたいな話だ。私は刹那気を狂わせていたんだろう。胸に今もその時のハート形の傷がはっきりと残っている。
無論痛かった。血も湧水のように溢れ出した。着衣も装備もすぐに鮮血の赤に塗れた。
気付いたら誰かが私の手を取り押さえて泣き叫んでいた。
私はそのまま気を失った。
自室の布団の上で目を覚ましたのは数日後だったという。枕元にいた翔鶴姉から聞いた。私を止めてくれたのは姉さんだったそうだ。そう言えばおぼろげな記憶の中で妙に生し
くはっきりと思い出せる声音は、確かに姉さんのものだった。狂ったように泣き叫ぶ声だった。
あなたを二度も失うなんてこと私には耐えられないのよ、と。
姉さんは意識を失って昏睡を続けた私の枕元にずっと座って看病をしてくれたらしい。
らしいなどと……恩知らずなものの言い方ではないか。無論姉さんには申し訳なく思う。
でも私にとっては、そんな一部始終も現実感のない、意味不明の大昔の記録映像のよう
にしか感じられなかったのだ。
それでも、この人にだけは閉ざした心をわずか開くことができる。前世で姉妹艦という記憶が無意識のどこかに残っているものか。それともただ翔鶴姉の包容力のあるやさしさに救われているものか。私にはどちらともわからない。
あのまま心を切除させてくれればよかったのに。何ならそのまま死んだって少しも構わなかった。
私にはとにかくここにいるということの意味が何一つ分からないから。そんな何もかもが自分のものではない現実の中で、私は空気がなくて窒息寸前の人間のようだった。
ここにいたくない。でも一体何から逃げたいのだろう、どこへ逃げ込もうというのだろう、今も私には何一つ分からない。
私にできたのはただ、ここにいる自分と言う忌まわしい存在を、恨み、呪い続けることだけだった。
それは初めて転生して間もない頃、深海棲艦と一騎打ちをした時のことだ。
相手は空母だった。
もはやいつものことだが私は艦載機たちの芸術的なまでの連携、激怒した山嵐のような対空砲火の弾幕、そして最高速度に乗った狂喜乱舞に守られて、真正面から敵部隊主力の巨大空母に肉薄した。なぜそんなことをしようと思ったのかわからない。折角お互い人型なのだから、いっそ肉弾戦の殴り合いをしてもいいじゃないかとか、多分そんなたわけたことを考えていた。
しかし至近距離で初めて睨み合ったその相手に私は転生して以来初めてほんとうの恐怖というものを覚えた。
艦載機たちの爆弾、魚雷を無数に浴びて、すでに大破、それこそもう何発が殴り掛かれば沈没するであろう艦なのに。
表情のない顔が、表情が無いゆえにむしろ純粋な憎悪の念を放っていた。そして声……人間の言葉で記述不能な言葉とも何とも判別のつかない唸り声。それが深く深く私の心の根をわしづかみにして揺さぶるような激烈な呪詛となって私を圧倒したのだった。
こいつらは一体?
恐怖に狂った私は、もう訳も分からず、雄たけびを上げて敵空母に殴り掛かった。傘のような頭頂部はすでに私の艦載機の爆撃でぐちゃぐちゃの状態だったが、私はそこにありったけの力を込めて両の拳を叩きこんだ。ぐしゃり、ぐしゃり、と気色の悪い音を立ててそれの頭頂部は原型を失っていく。けれどなお呪詛の呟きは続いている。
無我夢中で、血なのか油なのか、敵のからだから噴出し始めたどす黒くぬるぬるした液体を浴びて真っ黒に汚されながら、もう相手が反撃不能なのも分かりながら、それでも私は殴る手を止められなかった。
いくら殴っても、敵艦がついに沈黙しても、確認するまでもなく死んでいることを悟っても、からだにまつわりつく液体までもが恐怖の呪いであるかのように、私の錯乱状態は増す一方だった……
結局あの時も翔鶴姉に羽交い絞めにして止められて、さらに長門さんの渾身の拳にふっとばされて気絶して、初めて私の狂乱は収まったのだった。
深海棲艦。
生態不明。深海のどこかから幽霊のように漂いあがって来る。そして人類という人類を無差別に殺戮する。目的は不明である。まるでただ狩りを楽しむかのように殺し続ける。
地球外生命ではないかという人もある。
言語はあるらしいが、これまで翻訳に成功した者はいない。そも表記不可能な発音なのだ。私たちにはただ完全に無秩序なノイズとしか聞こえない。
彼女たちと相対して伝わってくるものは、ただ能う限り純粋な憎悪と敵意。そして殺戮を無邪気な子供の遊びのように楽しむ喜悦。彼女たちは死にすら一片の尊厳も認めはしない。徹底的に無意味な死を婚礼の花弁のように振り撒く。
皆はそんな彼女たちへの怒りに震えている。
けれどそれは、いっそ私にとっては清々しくありがたいものだったとも言えた。だって何も気にすることなく殺し合えるではないか。
さあ、その無尽蔵の憎悪で、私を殺してくれ。殺しつくしてくれ。
もう二度と転生などできないほどに。殺して、殺して、殺して、殺しぬいてくれ。
でないと私がお前をそんな風に殺してしまうぞ。けれどもまたおまえも、わたしと同じことを私に対して言うのだろうか。
ただ殺してくれと。
心ある兵器と言ったが、私の心はまるで不完全なものでしかないようだ。他人とのかかわりの中で私は次第にそれを理解していった。
私の心には、何か大きく欠落したものがある。それはほとんど心が丸ごとそっくり抜け落ちてしまったかのようである。
時々自分はすでにここにいないのではないかと思うことがある。
欠け落ちたものは何だったんだろう?いつ、なぜ欠け落ちたのだろう?
それはおそらく自分にとっては、それがすべてというような何かだったのだろう。
暗くなるほんの少し前、こそこそと岩場を伝い、鎮守府の裏口まで戻った。皆には私は鎮守府の中のどこやらにこもっているのだと思わせることにしている。
無用なことだったかもしれない。誰も私のことなど気にかけていないのだから。無駄な詮索をするものもいない。
翔鶴姉だけは心配をしてくれているようだが、あえて私の孤独癖に無理に踏み込んで来ようとはしないのだった。
それは私にとって何よりありがたい心遣いだった。
そのまま自室に向かおうとして、後ろから呼び止められた。翔鶴姉だった。
「瑞鶴、どこにいたの?ずいぶん探したのよ」
「ああ、すまなかった、姉さん、考え事に耽っていたらこんな時刻に……覚えているよ。今日は我々五航戦が食事当番なのだろう?」
「そう。献立についてみんなで相談していたのよ」
「そうだったのか。それは悪いことをしたよ。だけど献立はもう決まっていたのではなかったのかい?」
「提督が、近隣の農家の方から新鮮な卵と鶏を山ほどもらって来られたの。だから急遽卵と鶏肉の料理にしようって話になって……」
「そうか、それで急な打合せになったのか」
「そう」
「で、新しい献立は決まったのかい?」
「うん。鳥は水炊き、卵は卵かけご飯にって。いろいろ案は出たんだけど、結局それぞれ新鮮な味を楽しめるようにシンプルな料理にしようってことになって、それで……」
翔鶴姉は私の手を取り厨房に引っ張っていきながら、楽しそうに料理の支度についてしゃべり続けていた。
こういう時、翔鶴姉は、本当に心の底から楽しそうに見える。
私と二人、五航戦の主力空母として、最前線で獅子奮迅に戦う姿からは想像もつかない、家庭的な姉の素の姿につい笑ってしまう。本来この人は戦などではなく、こうして穏やかに家事をこなしている方が似合っているように思う。さぞよい主婦とやらになるだろう。
と、ふと鎮守府の日常のひとこまを思い出す。
あの提督と呼ばれる男とその秘書艦である翔鶴姉が楽しげに談笑している情景。
そのとき翔鶴姉はいつも飛び切りの笑顔になって心から楽しげになる。
そうだ。いっそあの男と一緒になって、ほんとうに専業主婦とやらになってしまえばいいんだ。
心優しい姉さんに、あんな人間性のかけらもない殺し合いの場など似合わない。
にも関わらず、あの男は顔色一つ変えずに姉を最前線で戦わせて躊躇いの一つも見せない。
だから私はあの男が嫌いだ。
大嫌いだ
だけれど。
あの男のそばにいる姉はやっぱり美しい。
いつもしばし見とれる。
そしてわけもわからない寂しさに襲われる。
乱暴に床を蹴って、ぷいと無愛想顔にその場を立ち去る。いつも。そして思う。ああ……またやってしまった、と。
自室に駆け戻ってため息をつく。しばらく立ち尽くす。
と、なぜかわからないまま鏡台の前に正座する。
姉妹艦なのだから、私だってもしかしたらあんな風に……
けれど鏡を覗いて、いつも我ながらひどい容姿だと苦笑する。
手入れなんか何もしていないしな。
ぼさぼさに伸ばしただけの髪の毛を鬱陶しいから乱暴に二つに結んでくくった姿に、女らしさの欠片も感じられない。
髪をおろしたら?
あちこちでほつれ、縺れた髪の毛。
むしろ醜くすら見える。
情けない。
こんな私が、あんな輝くように美しい翔鶴姉の妹だなどと。
訳も分からず悲しい気持ちになる。
そこにふと、何かもやもやと燻ぶる、黒い気持ちがあるのに気づいた。
嫉妬?
私が?
翔鶴姉に?
なぜ?
食堂は賑やかな音に包まれていた。食器の立てる音、皆の弾んだ話し声、笑い声。第六駆逐隊のちびっ子どもが、卵の取り合いでわあわあもめている。それをいさめる長門さんの声も、けれどどこか寛いで優しげだ。
とは言え長門さんも時々ちびっ子たちの乱行に堪忍袋の緒を切らせて、主砲一斉発射で有無を言わせず連中を黙らせることがある。無論食堂は大破。長門さんは山ほどの始末書を書かされた上、一週間の営倉入りの罰を食らう。
しかしそれもまたこの穏やかで楽しい鎮守府の生活の愉快な一幕なのではあった。
なるほどと感心するほど新鮮な卵と鶏肉の料理は大成功だった。普段から殺風景な食堂が、何だかとても暖かで朗らかな場所と思えて来るほど。
卵かけご飯をはむと頬張る。うまい。普段ほとんど食べるということに関心を持てない私でも、気付けば夢中で何杯目かをかきこんでいた。
「今日は良く食べるのね、瑞鶴」
「そ、そうか?普段からこのくらいは……」
「食べていないでしょう?いつもそのくらいしっかり食べなきゃだめよ。満足に戦うため。あなたは五航戦きっての主力艦なのだから。そんなやせ細った体をしていてはいけないわ」
「放っておいてくれ」
私はぷいとそっぽを向く。と、翔鶴姉がつんと私の頬に指先を触れた。私は驚いた、はっと身を引いた。
「あら……そこまで嫌がられると少し傷つくわ」
「い、いや、そうじゃないんだ。ちょっと驚いただけで……」
「ほら……」
翔鶴姉が私の頬に触れた指先を突き出して見せる。卵の黄が絡んだ米粒が三つ摘ままれている。
「あなたときたら、時折幼い子供みたいになるのね」
悪戯っぽく笑う翔鶴姉に、私は瞬時に見とれてしまう。翔鶴姉は摘み取った米粒をぱくりと自分の口に入れる。にっこりとほほ笑みながら軽くもぐもぐする。その笑顔がまた私のなけなしの心を魅了する。
何て純粋に美しい……
今日はとりわけ賑やかで華やいだ少女たちの輪の中でひときわ目立って咲き誇る大輪の白百合の花。
ああでも、翔鶴姉がそんな笑顔を見せれは見せるほど、私は姉さんとの距離の遠さに怯えてしまうのに。
団らんの輪から一人はぐれたまま。その団らんの中心にいる翔鶴姉に私の心の手は届かなくなってしまう。
提督の傍らにちょこんと座って、ご飯のお替りをよそったり、お茶ついだりと、いつものように甲斐甲斐しく使えている。
提督はねぎらいなのか、時折翔鶴姉の方を振り返り、優しげな笑顔をする。すると翔鶴姉はほんとうに心の底から幸せそうな笑顔をこぼす。
言葉をかけることはほとんどない。寡黙な男である。表情もあまり動かさない。だから翔鶴姉とのこんな日常のやり取りの中で見せるつかの間の笑顔がとても輝いて見える。
いっそ不愛想と言いたい男なのだが、時折見せるあの笑顔がそれを綺麗さっぱり否定する。それほど心のこもった笑顔だと私は感じる。あんな表情、心からの笑顔など、そうそう見られるものではない。
転生以来、私は誰からもあんな笑顔をもらったことはない。
あれ?翔鶴姉からも?
そう、翔鶴姉はいつでも私に労わるような優しい笑顔を見せてくれる。その表情が私は大好きだ。でも私に対する姉の笑顔にはどこかに陰がある。姉なりの気配りが正直に顔に出てしまうだけなんだろうと思っている。私に対する優しさといたわり、けれどもう一方で姉が隠せずにいるのは、不安と恐れ。表情に乏しく本音がさっぱりわからない私への戸惑い。正直な姉にはそれを隠すことができない。あるいはそれらは無意識の働きで、姉も気づかぬうちにしみ出してしまっている思いなのかもしれない。
姉以外に私に笑いかけてくれる者などいないから、私がもらえるのは姉のこのちょっぴり疑い、躊躇いのこもった笑顔だけ。それだけで十分すぎるのだけど、私としては内気な姉にもっと心から笑って欲しいと願ってしまう。
それをあっさり引き出してしまうのが提督という男である。姉はすっかりこの男を信じて甘えている。恋愛関係とかにあるのかと、率直すぎる問いかけをしたことがあった。翔鶴姉は慌てた様子で、「そんなのではないのよ、私はただあの方の秘書艦で……」まあ姉の心はまるわかりだ。わからないのはあの男の方である。
至って身持ちの固い男だというのは、何人もの彼のファンクラブを自称する艦娘たちからいく分の話は聞いていた
また戦闘に当たっては、常に冷静沈着、冷徹と言ってもよい冷静さを一切崩さない。また酷薄と言いたいほどに艦娘たちへの作戦指示は厳格を極めている。
まるで死んで来いと言われているように思えるほど。
そのクールさに艦娘たちは魅かれるというのだが、私にはよくわからない。
ただ死地を求めて戦いに狂っている私にはありがたいことではあった。
そんな男だから、普段は誰に対しても仏頂面しか見せない。ところがそれが時折あんな優しい笑顔をして見せるので、さらに多くの艦娘たちの心をわしづかみにしているということらしい。
確かに中身のない愛想笑いではないことは私にもわかった。
けれどだから私にはこの男が優しい男なのか残酷な男なのかさっぱり判断がつかないのだった。
まあ艦娘たちの方も戦闘時とこんな和やかな団らんの席ではまるで違う表情を見せるの
ではあるが。
それに気づいたのはミッドウェイ海域での深海棲艦との大決戦前夜のことだった。
主力として任命されたのは、一航戦の艦娘たち。赤城、加賀、蒼龍、飛龍を中心とする機動部隊だった。
私はふと気づいたのだった。それはすでに心のどこかでは気付いていて、ずっと噛み潰せない違和感として私が胸のうちに持ち続けていたことだった。
提督はなぜなのか、深海棲艦との交戦海域・作戦内容が史実と一致する艦娘をわざわざ選抜して派遣している。
そしてそれは当然のことながら、遅かれ早かれ前世において自らが沈没した海域・作戦に艦娘が派遣されるということになる。
なぜわざわざそんなことを?
ミッドウェイでの作戦は、まさに史実を追うような展開になった。一航戦・二航戦の主力空母4隻は全員大破・沈没寸前の状態で這う這うの体で駆逐艦たちに曳航されて鎮守府に帰投したのだった。
私は運命論者ではない。けれど史実上自分が沈没の憂き目にあった作戦・海域に喜んで出撃する者がいるだろうか。赤城以下、史実上ミッドウェイで沈んだ艦娘たちは誰一人そのことを口にもせず、わずかの怯えも見せずに出撃していったのだが。
彼女らの内心の思いはいかばかりであったのだろう?
あえて「運命」を乗り越えさせるため?
言葉は美しい。
けれど私にはそれは何か悪趣味な皮肉を含んでいるように思われて仕方ない。
だからやはり、私はあの男が嫌いだ。
前世で竣工した当時、私たちは世界最高性能の空母だった。
だからどうとも思わなかったが。優秀な人殺しの道具であることに何の喜びがあろう?
私たちは人が人を殺すために研ぎ澄ました刃だった。
そうであるのだから、私は私たち艦娘に心など明らかに不要なものだと思う。
他の艦娘たちは、どうやって心ある兵器という存在と折り合いをつけていられるのか、私にはまったく理解できない。
確かに転生して後の敵は深海棲艦という正体不明、目的不明、対話不可能の存在であり、人と人の戦いと言う矛盾はここにはない。
けれど私は思ってしまう。彼女たちもまた何か守るものがあって戦っているのだろうと。ならば私たちの立場は結局同じものなのではないかと。
私たちはなぜ戦う?彼女たちが襲ってくるから?彼女たちはなぜ襲ってくるのか?彼女たちが戦う理由は一切不明である。であれば私たちにとっても戦う理由はどこにもないのだ。だからここでは、戦争と言うものが、本質的に無意味で不条理であるという真理が、むしろさらにむき出し赤裸々な事実として、私の心を苛む。
私はそんな現実を受け入れられないまま、奥へ奥へ、もっと奥へと自分の中に閉じこもっていった。
在りし日の「幸運の空母」は今「憂鬱の空母」と呼ばれている。
ほとんどの艦娘たちと、必要な情報交換以外のことで言葉を交わすことはない。ただ一人の例外は翔鶴姉だけだ。
私に記憶はないのに、なぜか前世の姉妹艦だった翔鶴姉にだけは、いくらか心を開いて話ができる。それとて僅かな言葉でしかないのだけれど。姉に対してすらそんな無愛想な私に友人などできるわけもない。
私はひたすらに周囲に対して壁を固めて、孤独という私に許されたたった一つの逃げ場に立てこもっている。
でもそんな孤独という城ですら、決して私にとって安住の地になどなりはしなかった。なぜなら記憶のない私はただ誰でもない誰か、私にとってただ見知らぬ他人でしかないから。だからこの孤独という城は、実は空っぽの箱でしかないのだ。
私は転生して今ここに生まれている。けれどそこに私はいない。
笑えてくる。どうすればいいのだ。何をすればいいのだ。何一つわからない。この心に理解できることなど何もない。
今過ごす時の中では、何もかもが滑稽で、そして無意味だ。
私はひとたび戦いが始まると、徒に死に急ぐような戦い方ばかりすると翔鶴姉にいつもこっぴどく叱られる。
あまりに目に余る時には、あの男の命令で懲罰牢にぶちこまれる。
でも私はこの懲罰牢という場所が大好きなものだから、好んで懲罰ものの無茶な攻撃へと繰り返し身を投じる。
唯一面倒なのは毎回始末書といって何十枚もの反省文を書かされることだろうか。でもそれとてそれらしい文章を書くのがなぜか得意な私には何ほどのことではなかった。
艦娘たちが背後でひそひそと囁いている。
あの子はまともじゃない。
まったく私はまともではない。艦娘たちの陰口は反論の余地なく正しい。それでも時折思うのだ。まともじゃないのは、私の方なのか、それとも世界の方なのか、と。
別に死に急いでいるつもりはないのだ。私には自ら守るべきものがないだけだ。守るべきはただ命令だけ。それ以上でも以下でもない。だから私はどんなに危険であろう、無謀であろう、命令遂行の最短距離を走るだけだ。
ところが、そうすればするほどに、なぜなのか私は、私だけが、ちっとも被弾をしないのだ。一体これは、現実世界の私に対する皮肉なのだろうか。
マリアナ沖海戦の時もそうだ。
史実上、翔鶴姉がついに大破、沈没した作戦海域。
あの男の執務室に怒鳴り込んだが、暖簾に腕押しだった。彼は私の訴えに対して表情一つ変えず、黙って聞いているばかりだった。
私がヒステリーを起こしかけた瞬間のことだ。彼はかっと目を開き、私の目を見つめてきた。
凄まじいまでの気迫のこもったまなざしだった。
結局私はそのまなざしに負けて訴える言葉も失いすごすごと引き下がったのだった。
なぜだ?なぜこの海域、この作戦に五航戦なのだ?今なら主力一航戦・二航戦が休養十分で出撃可能なのに。
何一つ理解のできないまま私たちはマリアナ諸島海域へと出撃した。
深海棲艦は当初北太平洋、南太平洋など遠方の海域に出現していたが、次第にアジアへの侵攻を進めて来ていた。またこれまでないことだが、東南アジア海域の無数の島に港湾と陸上基地を作り始めていた。
私たちは彼女たちのアジア侵出を押し返すべく出撃を繰り返していた。
中でも敵戦力が集中し始めていたサイパン島を叩くことが急務だった。
そのサイパン島争奪戦となった海戦がマリアナ沖海戦。まさに翔鶴姉が撃沈された海戦なのだった。
敵艦隊は強大な戦力を誇り、少数精鋭の私たち艦隊に力押しで襲いかかってきた。
無数の艦攻・艦爆の投じる無数の魚雷と爆弾の驟雨。
史実上も最大規模の空母同士の海戦として有名な戦闘。私たちの立ち向かったそれもまた熾烈を極めた空母戦だった。
私はほとんど無防備に身をさらして、翔鶴姉を守ろうと敵包囲網のど真ん中に踊りこんだ。それなのに翔鶴姉に被弾が集中する。
「被害担任艦」そんな陰口も耳にしたことがある。確かに私の機動性は極限まで高めたものだ。けれど元より同じ翔鶴型の空母である。翔鶴姉の機動力が私とかけ離れて低いなどと言うことはありえない。その上翔鶴姉は誰よりも真剣に日々鍛錬、訓練を重ねて、魔改造により無茶な機動性を引きずり出している私ですら驚くほどに、見とれるような巧みな操艦で、まさに美しき戦場の舞姫のごとく神出鬼没の戦闘を行う。
にもかかわらず被弾は翔鶴姉に集中する。
そしてほとんど自ら当りに行っている私には被弾が無い。
「幸運の空母」だから?
私はただ狂ったように翔鶴姉に向かってくる敵を叩き続けた……
翔鶴姉は沈没寸前まで被弾を重ねたが、私が戦い狂っている隙に駆逐艦が曳航、護衛をして戦線離脱、からくも生命を落とさずに鎮守府に帰投した。
私は姉が完全に安全圏まで退避したことを確認するまで滅茶苦茶な単騎戦闘に躍り狂った。
後日瑞鳳に言われたのだが、あまりの攻撃の激しさに味方艦も近づくことが出来なかったそうだ。
私はとにかく姉の死を回避することで無我夢中で周りのことなど何一つ見えていなかった。そしてそんな私の狂乱の舞について来れる艦は駆逐艦ですらいなかったと言う。
もう作戦などあったものではない。
当然のごとく、そのあからさまな命令無視の単独行動は厳罰に処され、私は一か月もの期間を懲罰牢で暮らすことになった。
それ以降「憂鬱の空母」という綽名は「狂乱の空母」という汚名に変わった。
ある日のこと、いつもの岩の天辺で潮騒に耳を澄ませていた時のことだ。不意に誰かの気配を背後に感じて振り返った。
あの男だった。
彼はたった今私の存在に気が付いたというようにかすかに気まずげな笑みを浮かべた。
私は肩をすくめると元の姿勢に戻り、再び潮騒の底に沈んだ。
あの男の気配はいつまで待っても消えない。
私がいらいらし始めたころ、よく通る男の声が飛んできた。
「独坐大嶺峰というところかい?」
「いちいち小難しい言葉を使うな。わけがわからない。私は馬鹿だからな」
「瑞鶴は、なぜそんなに死に急ぐんだ?」
「さあな。業とか言うものじゃないのか?」
「業?業、か。私は思うんだが、業とは、そんな風にたった一人で背負いこむものでは本来ないのではないかな」
「不勉強だな。業とは己自身と言うことだろう?ならば私が一人で背負えばいい」
「そうかな。私が学んだ業とは、そう、そもそも人が背負うようなものですらなかった」
「禅問答は嫌いだよ」
「ああ、そうだ……まさしくその禅の教えだよ。業とはこれ無明なり、と」
「むみょう?」
「明らかなるもの無しと書く」
「それがなんだ?」
「この世の理を知らぬこと、人としてあることの理を知らぬこと、これを無明と言うそうだ」
「この世に理などというものがありうるなど初耳だな。よしんばあるとしても、こんな徹底的に無意味な戦いを人に強いるような理などというものがあるものか。おまえの言葉を借りれば、無明こそがこの世界の本質だということではないのか?この世に理などというものはないのだから」
「人としての理もないと?」
「世界に理が無ければ、人にだけ理があろうはずもない。あると言い張ったところで、世界が理を拒むのであれば、人の理など何の意味もない。それにそも私は人ではない」
「艦娘は人ではないと?」
「ない。私たちの本質は兵器だ。そうだな、それがこの世の理なのではないか?万物がひたすらに争い合い、殺し合う。おそらくはなにものも存在しない虚無に至るまで」
「それがおまえの信じるこの世の理だというのだね?」
「他に何がある?」
「まあ……いいよ。おまえの人生だ。おまえの思うまま生きればいいさ」
「勝手に生まれ変わらせておいて、また無責任な台詞だな」
「ははは、でもおまえの発言もどうも一貫しないようだぞ。瑞鶴、おまえの言うおまえの業、私は喜んで共に背負いたいんだがな。それが責任を取ることにはならないのか?」
「知るか」
「瑞鶴……これを……」
振り返る間もなく、彼は私に向かって何かを放ってよこした。
「なんだこれは?」
危うく空中で受け止めたものは、一個の石だった。
何の変哲もない、そのあたりに落ちていそうな石。そういえば、この男、石を拾い集めて飾るという妙な趣味を持っているのだったっけ。
「こんなものをどうしろと?ああ、おまえの顔にぶつけてやればいいのか?」
「ははは、それは痛そうだから御免こうむりたいな。いや、それを持っていなさい」
「何でまたこんな石ころなど」
「今は分からずともいい。でもおまえがぎりぎりの死線を前に、迷った時にその石に問うてみろ。答えは必ず与えられる」
そう言うと、彼はくるりと背を向けて鎮守府の方へ歩き去った。
結局最後までいつもの禅問答でけむに巻かれたか。
しかしこの石はいったい?
私はあの男が嫌いだ。
けれど。
なぜだろう。石ころを海へ投げ捨てようとして出来なかったのは。
なんだろう。この心の乱れは。
私は何かに気が付きかけて動揺していた。
私はあの男が嫌い……のはずだ。
はずなのに。
この感情は何だ。私にはなかった感情。いやそれとも。
かつて私もまた持っていた感情?
いやだ。私は見たくない。見たくないんだ。
見たくない?何を?
わからない。わからない。わからない。
私はそれに向かって必死で背を向けて目を、耳を塞ぐ。
それはいつか私が知っていた感情。そしていつか背を向けた感情。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
私は必死にその自分が知らないはずの心から目をそらし続けた。
その日、急な召集をかけられた五航戦のメンバーを前にして、翔鶴姉はいつになく厳しい表情をしていた。そしてその口から重々しく伝えられた作戦指令に、私はついにその日が来たことを知った。
レイテ島攻略作戦。
他でもない、前世で私が、「幸運の空母」と呼ばれ続けた私が、ついに沈没することになった作戦海域だ。
史実上のレイテ島作戦は着実に東南アジア海域に上陸、基地建造を進めていた米軍に対する反撃として計画されたものだった。
主力艦隊を派遣しレイテ島の基地を撃滅するというのが主たる作戦。しかし私が担わされたのは、主力艦隊が敵艦隊に邪魔されずレイテ島基地を殲滅できるように、敵艦隊をエンガノ岬沖に誘導、囮となり主力に寄るレイテ島敵基地攻撃を成功に導く、というものだった。
文字通りの捨て駒だった。
赤城、加賀、蒼龍、飛龍をミッドウェイに失い、翔鶴姉をマリアナ沖に失い、航空戦隊の主力たりうる空母は私と新鋭の大鳳が残っているのみだった状況。それを捨て駒にしようというのだから、当時の日本連合艦隊がどれほど追い詰められた状況だったかは想像に余りある。
この作戦、私たち囮舞台は見事に作戦成功、敵艦隊をエンガノ岬沖に誘導、レイテ島の海上守備をお留守にさせ、レイテ島基地を海上から叩く絶好の機会を作りだした。
ところがこの報がなぜか主力艦隊に届かず、折角空っぽになったレイテ島海域から主力艦隊は基地攻撃を断念し引き返してしまった。
私たちは文字通りエンガノ岬沖で犬死させられた。
緊張するかと思ったが、不思議と心はむしろ凪いだ海のように静まり返って行った。私は目を閉じて翔鶴姉の作戦説明に耳を傾けた。
それは史実とは異なる内容だったが、私はただ淡々として作戦の理解に努めていた。
作戦内容は史実と異なり、敵レイテ島拠点はすでに大規模に展開されており、航空機・対空兵装とも質量ともに十二分なレベルにある。海上兵力も精鋭を多数そろえており、このまま放っておけば東南アジア海域で広範な制空圏・制海圏を敵方に許すことになる。
互角に戦える今の内に徹底的に叩き、逆に我が方の制空圏・制海圏を盤石にする。
しかし五航戦は一航戦・二航戦の後方支援という作戦だった。五航戦の艦娘たちは不平たらたら。翔鶴姉がやんわりと皆を叱る。大変な難敵との勝負になる。主力一航戦・二航戦が存分に全力を尽くして戦えるのに、後方を固める五航戦の意味はとても重要なのだと。
主力同士の決戦となる。万が一全軍をもって敗北するようなことがあれば後がなくなる。いささかの戦力は後方て温存しておきたいという意図だろう。
とは言えあのミッドウェイ海戦を生き残った一航戦と二航戦が休養十分・訓練十分・装備十分で出撃する。誰も私たち五航戦に出番が回ってこようなどとは思っていなかった。
出撃は翌日早朝。ここ一か月ほど訓練と称してやけに本格的な戦闘の準備をしていたと思ったら、ほんとうの出撃の準備なのであった。
皆薄々感づいていたことではある。
でもいざその作戦のことが言葉にされると、皆の間にぴりぴりした緊張が走った。
まさに文字通りの難敵。鎮守府の総力を挙げての戦闘となる。
ふと気づけば翔鶴姉が気遣わしげに私の方を見ていた。私は普段使わない表情筋を総動員して何とか笑顔を作って見せた。素直な姉はそんなものでも安心してくれたらしく、いつもの慈しみ深いまなざしとともに、にっこり微笑みかけてくれた。
私はその後一人自室で、少しも波立たない心で、集中して装備を整えていた。
どうやら皆が重宝するという高射砲の有効性がむしろ低い気がしてならなかったので、思い切ってそれをすべて外して、手動単装機銃を大幅に増やした他、新鋭の噴進砲を詰め込めるだけ詰め込んだ。
噴進砲は他の空母たちからは命中精度が悪すぎると人気が無かったが、私はその予測のつかない弾道という点にむしろ面白みを感じていた。機銃相手なら弾道は一目瞭然、回避も容易と言えるが、噴進砲はなにしろ撃っている私たち自身にも弾道が読めない。二十八発のロケット弾が作る広範囲の無秩序な弾幕は敵の動きを乱すのには最適といってよかった。乱れ飛ぶロケット弾を避けきったとして、そこで一瞬でも気を抜いたところに機銃が一斉掃射を浴びせる。
私はこの腕白な兵器がなぜだかいたく気に入っていた。
このように私の対空兵装は、下手な戦艦と比べてもはるかに充実していた。質も量も。ひとつひとつ大事にして手入れを怠らず大切に育ててきたし、また自分なりにいつもの魔改造をせっせと施したりしてきたからでもある。
防御は今一度見直して、さらに外せるものは外してしまった。今までが下着姿だったとすれば、今はもう完全に真っ裸の状態とでも言おうか。
艦載機についても私はこだわりぬいていた。練度はすでに我が艦隊一と自負している。また期待をされつつ不具合に泣かされていた新鋭機である天山艦攻と彗星艦爆に度重なる改造を加えて、ポテンシャルをすべて引き出した上、爆弾・魚雷の搭載数を倍に増やしていた。
今回は試す機会はなさそうだがな。
私はこの兵装を早く試したくて仕方なかった。
そしてさらに磨きに磨いた操艦技術も。
「狂乱の空母」の乱舞、さらに度外れた見世物をご覧にいれよう。
その日深夜、一航戦と二航戦の艦娘たちは意気揚々、戦意満々で勇躍出撃した。
遅れること一時間、私たち五航戦は隊列を整えて静かに鎮守府を後にした。
「あーあ、物凄い遠出になるけど、私たち、どうせ行って帰るだけだよね」
「一航戦・二航戦が全艦出撃ってどれだけよ。敵艦一隻残らず瞬殺じゃないの」
「こら、あなたたち、油断は禁物、遠足じゃないのよ」
「はーい」
今ひとつ戦意高揚とはいかない五航戦艦娘たちを、旗艦翔鶴姉がやんわりと叱る。けれどそう告げる翔鶴姉自身も一航戦・二航戦への信頼厚く穏やかにリラックスした声だった。
私たち自身もよもや自分たちに出番が回って来るなどと思いもせずに、悠々と南海の孤島へのクルージングでも楽しむかのように進んでいた。
ところが、だった。
そんな私たちに一航戦・二航戦から緊急連絡が飛び込んできた。
「何ですって?作戦エリアから大きく手前で、一航戦・二航戦が突然敵巨大艦隊に囲まれ全艦大破寸前ですって?」
「やつら、どこから現れたのよ?」
「どうする瑞鶴?全速力で救援に向かう?」
「いや……一航戦・二航戦がほとんど瞬殺された相手となれば、我々が加わっても共倒れの可能性が高い。よしんば我々が善戦したとしても、その間に一航戦・二航戦のほとんどの艦が撃沈されるのは間違いないと思う」
「じゃあどうすれば?」
私は目を閉じて、ひとつ大きく深呼吸をして口を開いた。
「姉さん、私たちは、このままレイテ島に突っ込もう」
「なんですって?意味が分からないわ、瑞鶴」
「何を言うんだ、姉さん、私たちの得意技だろう?」
「瑞鶴、まさか……」
「囮作戦だよ。史実に習うのさ。順序は逆になるけれどね。私たちが全速全戦力をもってレイテ島に突撃をかければ、やつらは私たちの方に刃を向けかえる他はなくなるよ。その隙に一航戦・二航戦を退避させるんだ」
「では私たちは……」
「差し違える覚悟を決めるほかはあるまい。一航戦・二航戦は私たちの主力だ。主柱が折れれば館全体が崩れ落ちる。選ぶなら一航戦・二航戦が生き残ること。それだけだろう?」
翔鶴姉は深くため息をついた。
「瑞鶴、この状況の中でよくそんなに冷静な割り切りをするわね」
「すまない、姉さん。でも時間がない。私たちが一瞬でも早く動くことで、一航戦・二航戦の運命を変えられる」
「わかったわ。ふふ、どちらが姉かわかりゃしないわね。あなたに従うわ。指揮を取りなさい。あなたの信じるままにね。」
「全艦レイテ島への最短距離を全速前進。艦載機は全機飛行甲板で待機、いつでも出られるようにしてくれ。敵艦隊が私たちに食いついたら、即出撃、先制攻撃をかける。軽巡洋艦と駆逐艦は全艦、雷装準備、いつでも撃てるようにしておいてくれ」
「レイテ島そのものはどうするの?」
「当然諦める。一隻でも多く生きて帰ることが最優先だよ」
「こちらが諦めても、レイテ島の敵航空機が私たちを放っておいてくれないのじゃない?」
「すまないが、そこは賭けになるよ。レイテ島基地の制空権内に入る前に、やつら艦隊が私たちに矛先を向けてくれることを祈るだけだ」
「そういうことか……ねえ、瑞鶴、それならばもう一息早く、艦載機で敵背後からの奇襲攻撃をかけてしまった方がよくない?彼我の速力を考えれば、タイミングは今でもいいのじゃないかしら?」
「その通りだね、翔鶴姉さん、ふふ、何だ、私よりも姉さんの方がやっぱり冷静じゃないか」
「年の功と言うほど年は違わないけど。少しは姉らしくさせなさい」
「わかったよ、翔鶴姉。なら派手に行こう。向こうの全艦隊の目をこちらに向けさせなくちゃならないんだからね」
異を唱えるものは一人もいなかった。私たちは直ちに、方位を変更、臨戦陣形を組んで、静かに黎明の光の中を前進し始めた。誰一人わずかな迷いも感じることなく。
「すまない、姉さん……」
「何のこと?」
「私のがむしゃらに付き合わせて、前世と同じ戦の展開に巻き込んでしまったようだ」
「何を言うかと思えば……私たちは五航戦、一つのチームなんだから、一緒に戦うのが当たり前でしょう?」
「全艦を巻き込む必要はあったのかな?」
「そうしなければ、敵全艦をこちらに引き付けることはできないでしょう?」
「そうだよな、その通りなんだよな」
「誰も躊躇ってなんかいないわよ。そこはあなたのよくない癖だわ」
「よくない癖?」
「もっとチームを信じなさい、チームに甘えなさい。それがチーム。みんなの思い。あなたも同じはずよ。あなただけがすべてを背負わないで。それは少しもいいことではないのよ。まるで逆。それはみんなの信頼関係を無にするに等しいことだわ」
「姉さん……」
「共に行きましょう。そして生き抜きましょう。共に帰るために」
間もなく戦況は私たちの思い描いた通りになった。すなわち敵全艦隊が私たちを包囲、総攻撃を仕掛けてきた。
苦戦などという言葉では生易しい。敵はこの戦闘を殲滅戦と覚悟を決めて襲いかかってきた。
私たちは追い詰められるふりをしながら、少しずつ進路を全速退避のできる方向へと変えていった。けれど敵の攻撃は想定以上に激烈なものだった。
「何なのよ、この艦載機の数!前情報の軽く倍は来てるわよ」
「翔鶴姉、どうやら今回私たちは見事に嵌められたということじゃないか?」
「残念ながらありそうな話ね、それは」
「私の幸運が思っていた二倍もあることを祈っていてくれ」
「被害担任艦の私の被弾も倍になるってことかしら?」
「翔鶴姉は私が守るんだ」
「懲罰牢から出してもらって何日になるの?とにかく命令違反をしないでちょうだい」
「ははは、約束はしかねるかな」
一航戦・二航戦退避の時間稼ぎはもう十分できたと判断した翔鶴姉が緊急撤退命令を出した時、すでにことごとく傷を負った艦娘たちの足取りは遅かった。
こんなに傷を負いさえしなければ、全艦隊の中で最も速力を出せる艦娘揃いだというのに。
このままでは全滅する。
すでに満身創痍の翔鶴姉が目の前でまた被弾する。
私はそこである決心をした。
今回も奇跡のように被弾の少ない私は、味方を逃すために歴史上と同じように単身囮となる決心をした。
「何をしようと言うの、瑞鶴、私たちは最後まで一緒よ」
「だめだ。ここで沈んでは。あなたは生き残らねばならない。あのときと同じことを繰り返さないでくれ」
「瑞鶴?……あなた一体……」
「このまま行ってくれ、姉さん、全速で戦域を離脱するんだ。今ならまだできる。私が囮になればいいんだ。私が全速力、全戦力で戦えば、まだ味方をすべて救うことができる」
私はここを死地と覚悟を決めた。ここエンガノ岬沖を。歴史上の私が沈没したこの海域を。
そのとき脱落した翔鶴から旗艦を瑞鶴に移すという提督の宣言が伝えられた。
物好きな男め。なぜ私になど。旗艦も何も私は一人で戦おうというのに。
「私を旗艦にしてどうする、提督様?」
自ら囮となり死地に闇雲に突撃しようとする私に、提督は厳しく止まれと命じ続けた。
「私のような未熟者の命令に従うのは、おまえの本意ではなかろうけれど」
それは悲しげな声をだった。
「そんな風に言うな」
私は通信を切る間際、この男と出会って以来初めて心から笑い声をあげていた。
「いいや、あなたは最高の将だよ。あなたと共に戦えることは、このうえのない幸せだ。
でもだから私を行かせてくれ。ここであなたの艦隊を守れない私だとしたら、この存在に一体どんな意味があるだろう?」
もう一度高らかに笑い声をあげる。
「無理に笑ってなんかいないよ。これは心からの笑い声。せめて最後にいつもの仏頂面の代わりに、これをあなたにを贈ろう。だからこれ以上私を止めないでくれ。私はようやく時と所を得たのだよ。これが嬉しくなくてなんだというんだ。それにね、提督様、私は沈まないよ。私は幸運の空母だぞ。私を得たというあなたの幸運を、私が裏切ったことが一度でもあったかい?」
私は一人、囮として敵艦隊に突撃する。
と、瑞鳳が付いてくる。
「来るな、瑞鳳、私ひとりで十分だ」
「いけません。私も参ります」
「不必要な犠牲だ」
「私たちはチームではないですか。そしてあなたはいつでもその無言の背中で私たち皆を引っ張ってくれたではないですか。どんな絶望的な状況の中でも、あなたは凛々しく背を真っ直ぐにして立ち向かっていった。私たちが、その姿にどれほどの勇気を頂いたことか」
「ははははは」
私は再生をして以来仲間たちの前でも、初めて心からの大きな笑い声をあげた。
私を取り囲む艦娘たちはびっくりして皆ぽかんと口をあける。
「馬鹿は私ひとりだと思っていたんだがな。世の中こんなに馬鹿ばかり集まっていることもあるのか」
「そうです、私たちだって大馬鹿です。それについてあなたに引けを取る者など、ここには一人としておりません」
瑞鳳は誇らかに宣言する。
「わかった。皆で行こう」
私は顔をきりりと引き締めると、確かな声で艦隊に命令を下す。
「全艦密集陣形を保て。空母はすべての艦載機を発進させ、雲上に待機させろ。すべての火器は発射準備を完了させ、いつでも撃ち始められるように待機。敵艦隊中心に位置する主力に向けて真っ直ぐに全速前進。私が命じるまで一切の攻撃を禁じる。敵を引きつけられるだけ引きつけ、主力艦に接近できる限り接近したところで、一斉攻撃。それまではぎりぎり陣形を崩さない範囲で敵攻撃を回避に努めよ。そして……」
私は明るく微笑みながら、最後の命令を告げた。
「一艦として沈むな。幸運の空母の名に懸けて、お前たちを沈ませはしない」
私は、なぜ好き好んでこんな無茶なことを思いついたのだろう、と一方で呆れつつ、ほとんど考えることもなく囮として戦闘に突入していった。
次々と被弾。しかし致命傷にはならない。
ついている。まだ。まだいける。
それはそれまで経験したことのない凄絶な海戦になった。
私は「狂乱の空母」の汚名を十全に証しだてながら、縦横無尽、戦場の狂乱の舞姫を演じて見せた。
これまで戦場で試した技の限りを尽くして。敵航空機を屠り続ける。
そしてまだ戦場で一度も試したことのない、そしておそらく艦娘史上初めての技を繰り出すことにした。
もしかしたらもう二度と現実の世界で演じることが出来ないかもしれない。技の出し惜しみなどしている場合ではなかった。
まずは対空砲火の一斉射撃で敵を屠りつつ引きつける。そして回避と見せて一気にスピードを上げるこれまでの最高速度を超えて実に四十ノットに達したところで、ぐっと腰をかがめると重心を大きく後ろにかけて、火を噴きそうに高速回転するスクリューの推力に身を任せる。そしてその刹那私はスクリューの推力と私の脚力、すべてを出し尽くして空中に飛び上がる。そして錐もみしながら機銃の一斉掃射、着水の直前に噴進砲全門斉射。着水の瞬間を襲おうと追いすがって来た敵航空機を足止めし、その間に回避、次の攻撃体勢を取る。
私は敵航空機が固まって編隊を組んでいる空域を狙って、その技を繰り返す。何機落としたかなど数えもせず。
そしていい加減私の動きに追い付き始めてきた敵航空機に奥の手の大技を繰り出すことにする。空中に飛び上がり錐もみ状態から着水まではまったく同じ動き。ここまでは正面を向いて勢い任せに回避に入っていたのを、着水を逆向きに行うと、最高速で回転するスクリューでいきなりのブレーキ、次の瞬間追いすがって来た敵航空機の残党の一団をめがけて、捨て身の機銃掃射を敢行する。
空戦の真っただ中を疾走しながら、夢中の私の指先がふと、ポケットの中の小石に触れた。
あの男がくれたもの。そうか、ここに入れっぱなしにしていたんだな。
指先にふとその感触を確かめる。そして気づく。こんな小さな石くれにも刻まれた幾億幾万の個性。その限りない豊かさ。
この石は確かにこの石なんだ。どの一つとも違う、かけがえのないひとつ。
はっとした。石が語りかけてきたのだ。静かな静かな声で。けれど盤石不屈の意志を秘めた確かな声で。
決めよ。
私は唐突に覚醒する自分を感じた。
私は今まで眠っていたのか。
すべての感覚を通して、今自分のいる世界のすべてがなだれ込んでくる。
そのほとんどは被弾の痛みに覆い隠されてはいるが。
その痛みの一つ一つすら、今ここにいる自分だけのもの、かけがえなく愛しいものと思われた。
そして目覚めた自分は、今自分に残忍無情な牙を剥いて迫りくる世界に向かって叫び声をあげた。
私は私だ。私は今ここにいる私だ。今ここに生きている私だ。
そうだ、私は生きたい、生き抜きたい。
どんな残酷であろうと、この世界を。
と、唐突に自分の中でたくさんの声が叫ぶのが聞こえ始めた。
何だ?この声は?
被害状況を報告する声。反撃、回避を命じる声。死に直面したものの声。怒号。罵声。悲鳴。絶叫。無数の声が自分の中で渦巻きはじめる。自分の心すべてを埋め尽くして、自分の心くらいではまるで足りないとばかりに溢れ広がり続く声、声、声。
記憶の中に。映像のフラッシュバックまでも始まる。今ここで被弾するたびに、鮮明な情景が被弾の爆発のように飛散する。
死にゆく人々。次から次へと。
死ぬな。こんなところで、こんな風に死ぬな。
これは、この声は?
そのときに自分自身が彼らには届かぬ声で叫び続けた声。
そうか。
これは私の記憶なんだ。失われていた前世の記憶なんだ。
記憶の中で、ついに動けなくなった私。左舷が大きく水中に没して飛行甲板はすでに斜めにかしいでいる。
意識は現在の認識と記憶のフラッシュバックで大混乱の状態にある。もう何も考えることができない。
今まで声だけだった人々の幻影が見えた。
傾いた飛行甲板の上で集い、「瑞鶴万歳」と叫ぶ人々。
「幸運の空母」を心から愛し、信じてくれた人たち。真っ黒に汚れて傷だらけの人たち。
やがて接近してきた味方駆逐艦に移乗が開始される。
よかった。あなたたちは生き延びられるのだな。
そうだ、あなたたちは死んではならないのだ。
なぜ?
最後まで私を信じてくれた人たちだから。
最後まで私を愛してくれた人たちだから。
そして。
私が愛し続け、転生した今もなお愛し続けている人たちだから。
思い出したよ。
その時のことを。
兵たちの移乗が完了し、駆逐艦が全速で戦線離脱に入る。
もはやその援護すらできない自分が悔しい。
ところが人が消えたはずの船内に一人残っている気配に気づく。
艦橋だ。
貝塚艦長……
なぜだ、なぜあなたは逃げない?私はもう間もなく沈む。早く逃げなければ、それに巻き込まれて死んでしまう。
ちがう。そうか。ちがうんだ。
私は理解する。思い出す。その鮮明過ぎる記憶を。その鮮やかさがまるで鋭い刀のように自分の心を切りさいなむ。
これだ。この記憶なんだ。私が逃げ回り続けた記憶。必死で見えぬ、聞こえぬと目を塞ぎ、耳を塞いできた記憶。
この人は私とともに死ぬ覚悟なのだ。
いけない。それはいけない。あなたは生きなければならない。なぜならあなたは人だから。兵器ではないから。私は兵器だ。所詮いつかはこうなるのが定めの兵器に過ぎない。
だから誰一人、私と一緒に死ぬ人間など必要ではないのだ。
逃げてくれ。まだ間に合う。
嫌なのだ。あなたが死ぬのは。嫌なのだ。
私はあなたを誰よりも愛しているから。
人間に恋をした兵器という存在を、こんなにも悲劇的なものにさせないでくれ。
だめだ。私を、もはや死にゆくほかはない私を、なおも暗く深く冷たい絶望の淵に落とさないでくれ。
私はこの人をすら守れなかったのだと。
そんな思いのまま私を沈ませないでくれ。
なぜ人は人と殺しあうのだ?私の心を繰り返し繰り返し八つ裂きにしながら。
殺したくない。でも殺さなければ、私の愛する人たちを殺すことになる。
私は私の愛する人たちを守りたい。でも守れない。人は次々と殺される。死んでいく。
あなたたちひとりひとりが、どれほどかけがえのない価値あるものだと知らぬ気に。
ほんとうにあなたたちは知らないのか?
あなたたちは、こんなにも美しく、尊いのに。
でも彼は穏やかな表情で、今はもう動かない私の舵を愛しげに撫でてくれる。
「よく戦い続けてくれたね」
その声があの男の、提督の声に重なる。
そうだ、あの男は、提督は、あの時の貝塚艦長にそっくりなんだ。
ああ……そんな言葉は私にまるでふさわしくない。何が「幸運の空母」だ。愛する人一人すら守り切ることのできない私に、むしろそんな言葉は拷問よりもつらい。
けれどあなたは静かに私に微笑みかける。そして。
「瑞鶴、最後の命令だ」
命令?もう私には何もできないのだぞ。
「もういいんだよ、瑞鶴、もう戦わなくていいんだ」
あなたは、何を言っている?
「すべて忘れて安らかに眠りたまえ、瑞鶴、それが私の最後の命令だ」
そんな、そんな命令など聞くことができるか、そんな残酷な命令を。
それでもあなたは優しく私に微笑みかけるばかりだ。
艦の傾斜が急激に大きくなる。
私は沈む。
さあ眠りなさい。そしてこんなすべてを忘れなさい。
私はぐらりと身を揺らして、そのまま冷たく暗い海の底へと沈んでゆく……
瑞鶴……瑞鶴……
遥か遠くから誰かの声が聞こえる。誰だろう?
姉さん?……
私の意識はそこで途切れた。
後から聞いた話だ。
翔鶴姉は撤退支援の艦隊を案内して私を救い出しに来てくれたのだった。
大破状態だった私は、ほんの紙一重のところで沈没をまぬかれ、曳航されながら母港へ帰投することができた。
「今回も幸運に恵まれたわね、瑞鶴」
翔鶴姉さんが嬉しげに笑いながら言った。
いいえ。私は「幸運の空母」などではないんだ。私は前世の最後にその名を裏切ってしまった。私にその名を担う資格はないんだ
でも。
私は思い出す。今は思い出すことができる。
忘れなさい、という命令があったから、私はずっと前世の記憶を封印していた。
記憶がないことの理由はそれだった。
私は「幸運の空母」などではない。
でもだから。
あの最後の瞬間の微笑みの記憶ゆえに、私は今自分を「幸運な空母」だと思える。
満員状態でさらに順番待ちの船渠は、安堵感の中賑やかな活気にあふれていた。
翔鶴姉は付きっ切りでかいがいしく私の看護をしてくれた。自ら大きな損傷を受けているのに。
「あなたほどではないもの、瑞鶴」
確かに。私は自分で吹き出してしまった。まったくだ。こんな大破状態でなぜ沈没せずに母港まで帰投できたものだ。
カルテを見せられた時のことを思い出す。
飛行甲板に爆弾の直撃十二発、魚雷の直撃三本。
これで沈まずにいられたとは。さすがに自分でも呆れてしまった。
まだ浮いていたというのが奇跡だ。
そんな状態だったので、当然のことながら出撃させた艦載機の回収は不可能だった。
私の艦載機たちは駆けつけてくれた生き残りの軽空母たちが分担して回収をしてくれた。皆私と同じく満身創痍になりながらも全機帰還。
そして私に従って囮作戦に共に飛び込んでくれた仲間達もまた満身創痍になりながら、全艦が帰投。今は船渠に皆で仲よく枕を並べている。
今回もまた幸運に救われたらしい。
これだけ神に抗うような非常識を働いてもなお「幸運の空母」は健在だったらしい。
私は初めて神様とかいうやつに心からの感謝をささげたのだった。
こうして私の戦闘の日々は再び始まった。
心ある兵器としての日々。
心ある存在にとって、現実は常にその根において残酷である。それは誰にも否定できない、変えることのできない事実だ。だから誰も現実の中に希望を見出すことはできない。
でもだから、私は私自身の中に希望を見出そうと思う。
そこにいつもあるもの、私の心と言う希望を。それなれば私はどんな残酷な現実にも立ち向かえる希望を。
危うく沈没を免れたあの海戦以来、少しずつ私は前世の記憶を取り戻してきた。
何もかもが大きな戸惑いになって戻ってきた。何もかもが懐かしいのに、何もかもが新しかったから。
最初に思い出したあの約束。それはパンドラの箱だったろうか。今私の中には哀しみが溢れに溢れて、気持ちをしっかり持っていないと始終泣きっぱなしになってしまう。
でもそれは眩いほどの喜びと表裏一体の感情だった。
空っぽだった私が、今こんなにも心に満ち溢れている。
私の中の虚無、あの空白、そこから欠け落ちていたのは、貝塚艦長、あなただったのですね。
あなたを失った後に残る心はただ哀しみだけだったろう。
でもその哀しみすら、あなたの命令によって封じられていた。
悲しむことすら禁じるなどと、あなたは何て残酷な人だったろう。そして自らの死の間際に、微笑んでそんな命令を下したあなたは、何て優しかったのだろう。
ずるいよ、あなたは。
また泣き笑いをしている自分に気づく。
悲しい。悲しい。悲しい。
でもそれがこんなにも嬉しい。そして愛しい。
私の胸の中は今暖かなものでいっぱいだ。
空っぽのまま凍てついていた私の中は。
もちろん心は欠けたままだ。あなたを失ったのだから。でもその欠けた穴から、熱い心がとめどもなく溢れて溢れて止まらない。
貝塚艦長、今私はやっとあなたを失うことができたんだよ。
よかれあしかれ、愛する人との別れは、人生の中で何かの契機になる。心が欠けてしまったとき、人はそれまでと同じ自分ではいられなくなるから。
でもだから、そこに新しい自分が生れ落ちるのだと私は思う。
船渠でずいぶん長い時間を過ごした。その間ずっと私は夢うつつの状態でただぼんやりしているばかりで、自分も大けがをして療養中のはずの翔鶴姉が、なにくれと世話を焼いてくれた。
悪いな、と思いながら、ただそうして翔鶴姉に優しくされているのが心地よくて、私はただなされるがままに任せていた。
ようやく船渠から出られた日、一足先に鎮守府に戻っていた姉の抱擁に迎えられた。
そう言えばあの男は一度も見舞いに来なかったな。
当然のことだから恨み言など言えはしない。あれだけ邪険にし続けてきたのだから。
私はあの男が嫌いだ。
けれど今はわかる。この言葉はほとんど真逆の心から出た言葉だったことを。
私は無意識に隠された記憶の中の艦長とあの男の存在をだぶらせていたのだった。
だからその辛い思い出から逃れたい私は、あの男との接触を避け続けていたのだった。
二度とあんな思いはしたくないと。
この男と心のつながりを得てしまったら、いつか私はこの人をも失うことになるのではないかと、私はそう恐れ続けていたのだった。
艦長との記憶を取り戻した私には、その記憶と真っ直ぐに向き合えるようになった私には、もうあの男、提督を避ける理由はなくなっていた。
そしてそこまで考えて気づいたのだった。
私はあの男が嫌いではない、と。
数日の後。
姉はまだぼんやりしている私になにくれと世話を焼き続けていてくれた。そしてようやく体も旧に復した頃、気晴らしに街へ出ようと誘ってくれた。
私は姉と一緒にいられるならどこでもよかったのだけれど。
手をつないで街を散歩した。
とある書店の店先で、私はふと立ち止まった。
ショーウィンドウのとある品にふと目が留まったまま動けなくなったのだった。
「どうしたの、瑞鶴、気分でも悪い?」
翔鶴姉は相変わらず私にひどく気を使ってくれて心配げな顔をした。
「そうじゃないんだ、翔鶴姉、ただその……」
「何?」
「もしできたらなんだけど……あのね……ひとつ、おねだりをしてもいいかな、姉さん?」
翔鶴姉は目を丸くして驚いていたけれど、すぐに嬉しそうな笑みに顔を輝かせた。
「悪いわけないでしょう、瑞鶴、何でも言って御覧なさい」
「じゃあ……私は、その、あれ、あれが欲しいんだ」
私は顔を真っ赤にして、おずおずとその品を指差した。
翔鶴姉はただにっこり頷くと店に入り、その品を買って戻ってきた。そして私にその品を手渡すと、私ごと大きな抱擁で包み込んでくれた。
姉さんのからだはとても柔らかくて、暖かだった。海のように広くて深い優しさだった。胸に熱いものがこみ上げた。何だろう、これは、この思いは……しばらく考えて分かった。
そうか、これが姉妹であるということなんだ。
目に見えない細い糸のつながり。でも世界中の何よりも強く確かな繋がり。
絆。
私は嬉しくて嬉しくて、いつの間にか姉の胸に顔をうずめて泣きじゃくっていた。翔鶴姉はそんな私をぎゅっと抱きしめると、そっと頭を撫でていてくれた。
ふと見上げてみたら、翔鶴姉はとても幸せそうな顔をしていた。
また気が付いた。そうか、姉さんは今幸せなんだ、と。そして……
私も同じ思いを抱いているんだと気づいた。
私は幸せだった。
買ってもらったのは、白い羽毛の模様をカバーにプリントした日記帳だった。
確かに日記帳ならすでに持っている。何も書いていない真っ白の日記帳を。けれどそれはそれで何も書かれないままに取っておきたかったのだった。
その空白の内に確かに、その頃の私が記されていると思うから。
だからその日記帳は真っ白なままでいい。
そして私は今、いつもの岩の上にいる。
今日は雲一つなく晴れた綺麗な朝だった。風もなく静かな海が穏やかな潮騒を奏でていた。
日記帳を開いた。最初のページに日付を書いた。そしてそれから、溢れだす心をつたないけれど、ひとつひとつ言葉にして、真っ白な頁の上に綴り始めた。
それは、私と言うタイトルの物語だ。
そして五航戦は今日も出撃する。
読み終えてくださった方がお一人もいらっしゃらないのではと、すでに寂しい心であとがきなど書き始めました。
願わくば、瑞鶴を愛し、翔鶴・瑞鶴姉妹を愛して下さる方が一人でも多く増えてくれたらいいなと祈りつつ。
なおすぐ引き続いて「戦艦大和の春愁」という艦これ2次作品投稿予定です。
大和・武蔵姉妹もの、やはり戦艦と戦争の意味を問う内容と、同工異曲ではありますが、本作よりは気楽に読んでいただける仕上がりになったと思います。
そちらにもお目を止めていただけたら幸いです。