「っと、脱線が過ぎたね。だから雪乃ちゃんは、将軍君の依頼に合わない」
「できないではなく合わない、ですか」
「うん。これは善悪じゃなくて、相性の問題だよ。将軍君の需要と雪乃ちゃんの供給が合ってないんだ」
だってさー。パラパラと材木座の原稿をめくり、雪ノ下陽乃は平坦につぶやく。
「将軍君、別にこれに本気なわけじゃないでしょう?」
その言葉は、怜悧でもなければ辛辣でもなかった。ただの事実を彼女は淡々と口にする。
「私はラノベなんて読んだことないけど、これはとても人に伝えるための文章じゃない。あまりにも稚拙すぎる文章に、矛盾だらけで共感なんて全くできない登場人物の心情。唐突すぎる展開。面白いとか面白くない以前に、彼以外にはこれを理解できない。
……ああ、勘違いして欲しくないんだけどね。別に私はそれが悪いって言ってるわけじゃないんだよ。努力の動機づけなんて個人の自由だし、全ての夢に本気で努力する必要なんてない。夢を息抜きにするのも、承認欲求を満たす材料にするのも、等しく正しい」
コン。彼女はなにとはなしに道端の石を蹴り、下水に落ちる。一連の路傍の石の一生を冷たい目で見届ける。
「でも、雪乃ちゃんは違う。あの子は誰よりも律儀で天才で、それ故に努力の分だけ――ううん、努力以上の成果が必ず出る。
だから雪乃ちゃんはこの文章も本気で添削する。辛辣すぎる指摘をする。あの子はそれが本気で将軍君のためだと思っている。その考え方はとても正しい。
でも、それになんの意味があるのかな。本気じゃない将軍君に雪乃ちゃんが本気で応えて、彼は折れるかもしれない。もう文章を書かなくなるかもしれない。ズレた需要と供給の果てに、そんなものをわざわざ雪乃ちゃんが背負う必要はない」
「でもそんなのは、あんたが決めることじゃない……ちょっと過保護じゃないですかね」
つい口が出た。彼女は極力他者の人生に干渉しようとしない。相談には乗るし力も貸す。だが他者の人生の方向性を決めてしまうことも、決めつけてしまうことも無い。
陽乃さんは僅かに息を漏らし、俯いて立ち止まる。
「かもね。でも現に雪乃ちゃんはそうやって敵だけを作って、一人で生きてきたんだ。今までの16年間ずっと。正しいだけなんだよ、あの子は――だから姉として、ちょっとは口も出したくなってもいいんじゃない?」
「……じゃあ、材木座は何を求めて奉仕部に来たと思いますか?」
彼女は材木座は本気ではないと言う。故に雪ノ下と噛み合わない。ではなぜ彼は今日、奉仕部に来たのか。
「ん?そりゃあ『今日の私』でしょう」
問いに対する答えは明快で、今度こそ彼女らしく合理的だった。
「自己顕示欲と承認欲求を満たすため。本気じゃない彼に私が見出せる理由はそれくらいかな。わざわざ奉仕部に来たのも『面と向かっては酷評しづらいだろう』なんて、彼は考えてるのかもね――比企谷君」
頬に冷たい感触が触れた。横を見れば陽乃さんはしたり顔で人差し指を立て、ニシシと笑っている。
「私はね、無駄なことはしないんだよ」
You understand?
その問いに、適当な応えを返せない。
彼女は言った。自分は天才たり得ない。凡人たる自らと天才の差を説いた。
彼女は言った。天才は天才故に不幸になる。天才たる妹の行く末を憂いている。
彼女は言った。彼は夢に対して本気ではない。凡人の気持ちを理解している。
雪ノ下陽乃の言葉を反芻し、それら全てに俺が思うことは一つだった。
「陽乃さん、あんたは」
止まる彼女の脚に合わせたわけではない。自然と俺の脚も止まり、自転車のハンドルを強く、強く握る。
「あんたは自作コスプレをして、鏡の中の自分に酔ったことがありますか?」
当然、沈黙が降りた。
横を見ると陽乃さんはこれ以上ないほどに目を瞠り、右脚を斜め後ろに引いていた。
「……いや、ないけど。いきなり何?」
「世界のために政府報告書を綴ったことはありますか?」
「は?なにそれ」
間髪入れずに問いを続けると、今度は彼女の左脚が斜め後ろに下がる。おい、引くな。これからだろうが。
「自分は神から祝福を受けていると思ったことはありますか?」
「ちょ、ひ、比企谷君?」
震える彼女の声にかまわず、俺は続ける。
「気になる子の下駄箱にポエムを書いて入れたことは?」
「気になる子にポエムなんて書いたらフツーに嫌われるでしょ……」
くそ、もっともすぎる。ありえない程の正論に崩れ落ちかけながらも、最後の問いを振り絞る。
「あんたは、自分は特別な人間だと信じたことがありますか?」
俺の問いに、初めて雪ノ下陽乃は止まった。
一瞬の間。くつくつと喉で笑う音が聞こえる。思わず横を見ると、今度は思ったより近くに彼女の顔があった。その距離のまま彼女は俺の目を見て言う。
「それならさっき言ったでしょう」
その口は、いつかの病室のように三日月に歪む。
「そんな無駄なことをする時間は無かったよ」
二十年間ずっと。
彼女の長い二本の指が、俺の頬を妖しく撫でた。
雪ノ下陽乃は――凡人を自称する彼女は。二十年もの間勝ち続け、ひたすら積み上げることを自らに課している。寄り道も回り道も彼女はしてこなかった――いや、できなかった。俺はその薄気味悪い存在に、心底安堵する。
「そうですか、安心しました」
「何が?」
俺の心からの言葉に、表情に。彼女は怪訝な視線を返す。そう、何でも分かった気になってもらっては困る。
「自称凡人程度のあんたじゃ、中二病患者の言動も思考も、理解するには遠過ぎると言っているんです」
彼女は化物で、俺たちとは違いすぎる。凡人を自称する彼女は、どうもそれを理解していない。
陽乃さんは目を細め、感心したように幾度か頷く。
「……へぇ。言うじゃない。比企谷君にとって材木座君って、そんな大事なお友達だったんだ」
「違います。最初に言ったでしょう。アレは関係ない。というか関わりたくない。体育のたびに捨てられた子犬みたいに見てくるな気色悪い」
「外道じゃん……」
あんたに言われたくねえよ。軽口を飲み込み、続ける。
「あいつのことはどうでもいいです。でも」
そう。これはいつも通り、俺だけの問題だ。材木座義輝も雪ノ下雪乃も関係ない。ぼっちたる俺の目に映る問題は、いつだって俺のものでしかない。他でもない俺が、分かった気になっている雪ノ下陽乃に突っかかりたくなった。それだけだ。
「何も知らない人間に、過去の自分を知ったように語られる謂れはない」
「絡むね、やけに」
「先に絡んでくるのはあんたでしょう、いつも」
んー。彼女は少しの間唸り、思案する。
「君はつまり――彼は自己顕示欲も承認欲求も満たしたいわけではなく、本気で作家を目指している、と言いたいのかな?」
「そんなわけないでしょう。あれで作家になれるなら今すぐ俺でも売れっ子作家ですし――いえ、そうですね。あんたの言葉を借りるなら、あんたの最大の誤解はそこにある」
そう。俺が彼女を誤解するように、彼女も誤解している。曲解している。正解を出したつもりになっている。
「1か0の考え方は人心掌握の面では効率的でしょうが、いつでも有用なわけじゃない。過程と結果が、いつでも物事の最重要事項ってわけじゃない――中二病にそんな高度なこと、考えられないんですよ」
「……へぇ。ちょっとは面白そう。続けて」
「別に面白い話でもないですけどね」
まさか続きを促されるとは思っていなかった。俺は流れのみに身を任せて言葉を紡ぐ。
「譲れないもんは誰にだってあって、それは往々にして周囲には理解されない――というかこれはまあ、あんたが自らを『凡人』と称すこと、俺がそれを理解できないのと多分同じで。『中二病』も『天才』も、皆あんたのように葛藤する一人の人間で、各々心中にこれだけはって線引きがある。そして――」「――それをわかった気になられると腹が立つ、か」
理解が早くて助かる。大人しく俺の話を聞き続けた彼女は体をほぐすように伸びをし、バシンと俺の背中を叩く。
「じゃあ一週間後。将軍君が来る時、勝負しよっか。比企谷君」
「何をです」
退く気は最初からなかった。それなら最初から、今まで通り。ここまで彼女に噛みついていない。陽乃さんは自らと俺を交互に指差す。
「わかった気になってるのは君か私か、それとも両方か」
「いいですよ、やりましょう」
俺の即答に彼女は僅かに目を瞠り、しかしすぐに笑みを取り戻す。
「そうこなくっちゃ」
振り返ることなく先を行く彼女を立ち止まって見送る。柄にもなく奮起しているのだろうか、どこぞの剣豪将軍のように鼻息が漏れた。負けるわけにはいかない――いや、負けるわけがない。俺は小さくなる彼女の背中に、心中で投げかけた。
この戦いは、元中二病患者の矜持を賭けたものである。
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