「わんわん!ガウガウ!バウバウ!ほらほら比企谷君、こっちこっち!」
「いや、俺こっちの鳥コーナー見てたいんですけど」
尻尾をブンブンと、そりゃあちぎれんばかりに振る巨大な犬の前で、陽乃さんは目を輝かせる。
しかし生憎、俺は別に犬は好きでもないのだ。それよりも先ほどから俺の目を釘付けて止まないものがある。あ、今も翼バサバサってやった。くそかっけえ、なんだあれ。
俺の視線の先を見て、陽乃さんは目を細める。
「もう、鳥なんて外でもいくらでも見れるでしょ。それに触れもしないし。何が楽しいのかな?」
「犬の方が遥かにいくらでも見れるんだよなぁ」
「プードルとかチワワは見られても、グレートピレニーズを見る機会はそうそうないでしょう」
「雀とか鳩は見られても、シロフクロウを見る機会もそうそうないんじゃないですかね」
バチバチバチ。一歩も譲らない互いの視線が交錯することしばし。陽乃さんは肩をすくめ、お姉さんから受け取ったピレニーズのリードを俺に渡す。
「減らず口はこの子に触ってからにしなさい――おりゃ!」
「どわ!? ちょ、まって……」
「わんわんわんわん!」
ピレニーズはありえんほどの巨体で俺にのしかかり、ブンブンと尻尾を振る。ベロベロと俺の顔を舐め回す。
「あはは、比企谷君好かれてるね~」
「……地獄だ」
なお俺にのしかかるピレニーズの体をモフモフと遊びながら、雪ノ下陽乃はケラケラと笑った。
「お願いがあります、陽乃さん」
とある土曜の午前9時。今日も今日とて陽乃さんに呼び出された俺は、のっけから彼女に頭を下げる。
「お、君からお願いとは珍しいねぇ。もしかしてお姉さんと一年一緒にいて、溜まりに溜まった欲求不満を解消して欲しいなんて……」
「帰っていいですか?」
本気で踵を返す俺に彼女は足をかける。俺は見事にこける。……まじで帰ってやろうかこのアマ。
「ジョーダンだって、ジョーダン! もう、洒落が通じないなぁ比企谷君は」
「洒落になってねえんですよ言い方も行動も全て……」
こけたことによってついた土埃を払い、俺は小さく文句をこぼす。彼女と一年いたことにより唯一身についたことと言えば、それは忍耐である、と自信を持って言える。唐突に土曜の午前九時に呼び出されることも、その上転ばされて土だらけになることも今の俺には大した問題ではないのである。……あれ、人としてだめじゃない?尊厳的にダメじゃない?
一旦浮かびかけた問題を棚に上げ、俺は「お願い」を切り出す。
「結論から言います。今日は東京わんにゃんショーに行きましょう」
「へぇ。それは私の今日のデートプラン『地獄! 永遠のウィンドーショッピングとスパルタのスポッチャ』に勝るものなの?」
「まず今日のプランを初めて聞いたわけですが、初手の「地獄」と「デート」を外してください」
「なんで?」
「地獄と付くプランを嬉々として行う神経を理解したくないのと、俺は貴方とデートをしてるわけじゃない。契約です」
「むー、本当につれないなぁ、比企谷君は」
陽乃さんはつまらなそうにセットした俺の髪を弄る。うぜえ。俺が彼女の手をはねのけると、なぜか嬉しそうに笑って続ける。
「ま、所詮暇つぶしだよ。別にどこ行こうが本当はどうでもいいんだけど。それより重要なのはなんで、ってところだよ」
彼女の大きな瞳が細くなる。
「なんで君は今日そこに行きたいの?」
その問いに対する答えは、当然用意していた。陽乃さんの瞳から目を離さず、早口で言う。
「毎年小町と行ってるんですよ。でもあいつ受験生でしょう。塾の講習外せないらしいんで一人で行こうと思ったんですけど、今朝あんたに呼び出されてガックリ、というわけです」
「なんでも正直に言えば良いってもんじゃないんだよ、比企谷君? ……ま、いいや。君から言い出すことなんて珍しいしね。れっつらごー」
というわけで、何とか東京わんにゃんショーの切符を勝ち得たわけだが。
「埋まってる!比企谷君が埋まってる!」
ピレニーズの次はバーニーズマウンテンドッグに潰されていた。俺が。陽乃さんの顔は見えないが、音でわかる。バンバンと手を叩き、目尻には涙すら浮かべて爆笑しているに違いない。殴りたい、その笑顔。
「……重い息苦しい犬くさい」
「君、飼い主の目の前でそれって」
ピレニーズとバーニーズの飼い主の男性は苦笑しつつ首を振る。
「いえいえ、大丈夫ですよ。50キロ近くあるんで間違いなく重いですし。でも遊び相手にはちゃんと加減しますから」
「比企谷君、犬に同レベルだと思われてるんじゃないの」
「……牧羊犬二匹に同レベルだと思われるなら光栄ですよ」
ぺろぺろと顔面を舐められたままの俺の言葉に、陽乃さんは感心したように頷く。
「へぇ、この子たち牧羊犬なんだ。比企谷君結構動物詳しいよね。こういうイベントよく来てるから?」
「いえ、唯一の友達が図鑑だったので」
「誉め言葉にはすかさず重いエピソード挟むよね、君」
微妙に噛み合わない会話に、飼い主の男性が空笑いを浮かべる。
「はは……でも実際、初対面でここまで懐かれるのも珍しいですよ」
「そうなんですねー。比企谷君、猫からは好かれてるようには見えなかったけど」
当然それは我が家の愛猫、カマクラのことだろう。
「あいつにはそろそろ誰が餌をやってるのか、わからせようと思います」
「ヒエラルキー最下位脱出、頑張れ(笑)」
「猫より下の事実に笑えねえ……」
やはり飼い主の男性には、最後まで苦笑以外の表情はなかった。
「あー、楽しい!」
陽乃さんはベンチで大きく伸びをし、周囲の男性客の視線を集める。どこに視線が集まるかは言うまでもないだろう。妹との格差を思うたびに、俺は世の理不尽を感じずにはいられない。(見たらなんとなく負けだと思っているので、俺は断じて見てはいない。見ていないったら見ていない)
とは言ってもなんとなく決まりが悪い。俺はつい誤魔化すように口を開く。
「あんた、犬好きだったんですね。いつもの三割増しでテンションが高いですよ」
「え、『大好き』? 比企谷君が、私を? そんなこと言われなくても知ってるよ、もうっ」
「文字でしか伝わらないボケをするんじゃねえよ。しかも薄ら寒い」
この上なくうざいことを言い出す彼女に顔も苦くなる。マッ缶で一息。この甘さ、信頼できる。
俺の苦み走った顔を見て満足したようにニヤニヤし、彼女はんー、と顎に指をあてる。
「まあ犬なんて大体の人が好きじゃない?」
「そうですかね。犬派か猫派かなんて、定番の話題じゃないすか」
「でも猫が好き=犬が嫌い、というわけではないでしょう?」
「まあ、そうですけど」
そう言われてしまえばそうなのだが。何となく腑に落ちないのが顔に出ていたのだろうか。陽乃さんは少し神妙に頷く。
「君の言いたいことは分かるよ。猫は賢しいけどお利口ではない。犬はお利口だけど賢しくはない。性質としては結構逆だ。二元論的な考え方になるのは分かる。でもさ」
会場中の犬にも猫にも、彼女は飛び切りの笑顔を向ける。
「どっちだって等しく馬鹿なところが、可愛いじゃない」
喉の奥に残るマックスコーヒーの苦い甘さが、嫌に不快だった。ちびりと再度マッ缶で唇を濡らす。
「……嘘を吐かない分、どっちも人間よりは上等だと思いますけどね」
「あはは、確かに。人間の方がよっぽど馬鹿だ。比企谷君の方がよっぽど馬鹿だ」
「おい、自然と俺のディスに持っていくな」
俺は少し息を吐き、首を振る。
「ワンワンワン!」
一瞬気を抜いたその時、茶色い塊が突進してきた。跳ねた瞬間にそれを空中で受け止める。柔らかい毛が俺の手を包んだ。
「なんだこいつ」
「ダックスフンド、だねぇ。リードしてるから飼い主いるんだろうけど……」
持ち上げるとダックスはブンブンと尻尾を振り、何かを期待する目で俺を見る。いや、そんな目で見られても、もう犬は八幡お腹いっぱいです。
なお俺に近づこうとするダックスを、陽乃さんは興味深げに見る。
「それにしても随分と懐いてるじゃない、比企谷君に」
「ここまで懐かれる謂れはないんですけど、ね」
いや、本当にここまで好かれる謂れはない。これが異性だったら即美人局と断定するほどだ。ちなみに美人局に仕掛けられたことは無い。あるのは気になる女子に呼び出されて5時間待った挙句「ごっめーん、寝てた☆」で済まされた青い記憶だけだ。青いというより、苦い。死にたい。
思い出したくもない記憶が勝手にフラッシュバックしている間に、間延びした声がこちらに近づいてくる。
「す、すいませーん! うちのサブレがご迷惑を――って、ひ、ヒッキー!と陽乃さん!? な、なんでこんなとこに!?」
なんと声の主は由比ヶ浜だった。この犬の主でもあるか。俺は興奮する犬をあやしながら答える。
「なんでって言われても毎年来てるからな、これ」
「へ、へー! そうなんだ、奇遇だね。あたしもサブレが喜ぶから毎年来てるんだ」
あはは……。由比ヶ浜は俺たち二人を見比べなぜか俯き、黙ってしまう。常に鬱陶しいほどうるさい陽乃さんも、今は特に話したいことは無いらしい。由比ヶ浜ではなく俺の腕の中にいるサブレと戯れている。
不毛な沈黙が重くなってきたころ、また一つ見知った声が聞こえてくる。
「はぁ、はぁ……由比ヶ浜さん、貴方きちんとリードは握っておきなさいとあれほど」
もう一人は雪ノ下だった。陽乃さんはその声を聴いた瞬間パッと顔を上げる。
「はろはろー。雪乃ちゃんも来てたんだねぇ。奇遇奇遇!」
「……姉さん、それにヒキニートくんまで」
「出会って二秒で罵倒するのを止めろ。露骨に嫌そうな顔をするな」
「失礼、ヒキガミ君」
「おい、なんかどこぞの土地神みたいになってるから」
ヒキガヤハチマンと申します、どうぞよろしく。
一連のやり取りを終える。人に名前を覚えられないのは俺の特技でもあるが(決して得意にはしていない)、バリエーションに富んだ間違い方を望んでいるわけではない。それも故意的な。……故意だよね?本当に覚えてないとかじゃないよね?
陽乃さんは俺たちのやり取りを笑いながら眺め、雪ノ下との距離を詰める。
「休みの日までガハマちゃんとデートなんて、雪乃ちゃんも隅に置けないなぁ、もう」
「近い……はぁ。偶然ここで会っただけよ。大体それを言うならあなたたちこそ――」
続く言葉は、分かる気がした。雪ノ下はそこでピタリと口をつぐむ。陽乃さんも何も言うことは無い。
この場にはいくつか、認識の齟齬と誤解がある。それが状況を面倒にしている。
由比ヶ浜はいかにも恐る恐る、と言った感じで手を上げ、口を開く。
「ヒ、ヒッキーと陽乃さんは、もしかして今日は一緒に……」
由比ヶ浜は何か言いかけ、しかし俺の頭からつま先まで見て、口をつぐむ。ああ、そうか。俺はすぐに思い当たる。今の俺は陽乃さんにプロデュースされた髪型、服装そのままだ。学校での『比企谷八幡』を知っていれば、違和感があるのは当然だろう。
それでも、それも含めて。俺から言うべきことは何もなかった。
そもそも俺と陽乃さんの関係は、俺主導のものではない。陽乃さんが俺たちの関係をどう見せるか、その選択権は俺にないし、そんな面倒なことをする気もない。殊更総武高で彼女が俺たちの関係を宣伝していないのは、単純にその必要性が無いからだろう。雪ノ下陽乃はいつだって無駄なことはしない。
陽乃さんは今日初めて、由比ヶ浜を正面から見る。由比ヶ浜が気まずそうに目を逸らしたところで、陽乃さんは悪戯っぽく笑う。
「逆にガハマちゃんは、私たちはどういう関係に見える?」
「それ、は……」
由比ヶ浜は、問いに対する答えを返せない。いじいじと手を弄っていたかと思えば、バッと陽乃さんの方を向く。そんなことを数度繰り返した後、陽乃さんは常の軽い笑みを浮かべる。
「あはは、ジョーダン、ジョーダン!真に受けないでよ。私もガハマちゃんと雪乃ちゃんと同じで偶々だよ、偶々。比企谷君毎年ここ来てるみたいなんだけど、今年は妹ちゃんが受験らしくてさ。なら独り身同士一緒に回ろってね。どんなに愛想悪くても、いるだけで話相手にはなるからさ」
「愛想が悪くて悪かったですね」
俺が苦み走った顔で口を挟むと、由比ヶ浜は安心したように息を吐く。
「あ、そ、そうなんですか! あたしも毎年サブレと来てるんですけど、今回はゆきのんが居てくれてよかったです。2人で周れるの楽しいですし」
「そう? 雪乃ちゃん犬怖がっちゃうかわいいとこあるから、犬好きなら大変じゃない?」
「姉さん、勝手なことを言わないでくれるかしら。別に怖いわけではないわ。嫌いなだけよ」
犬嫌いという時、その大半は犬が怖いからだろう。鋭い牙が、中途半端な頭の良さが、何をするかわからない獣の部分が怖い。疑問をそのまま問いかける。
「怖いと嫌いになんか違いあんのか」
「地震と比企谷君くらい違うわね。前者は怖いけど、後者は視界にも入れたくない。もっとわかりやすく言えば火事とゴキブリくらいの違いね。ちなみにゴキブリと比企谷君に違いはないわ」
「わかった、充分わかったから。もうやめてください」
おれも迂闊な質問をしたことは認めるが、まさかゴキブリと同列に扱われるとは思っていなかった。
なお薄ら笑いを浮かべながら俺たちの会話を眺めていた陽乃さんは、パンと手を打つ。
「あ、どーせならわんにゃんショー皆一緒に周ろっか! そっちの方が楽しいし」
「なにを勝手なことを……」
「めんどくせえ……」
「賛成! 皆で周りましょう、皆で! そっちの方が絶対楽しいよ。ゆきのんも、ね!」
真っ先に渋ったのは、当然俺と雪ノ下だった。団体行動は一対一より無理。ぼっちの基本である。
しかし、そんなぼっち同盟の雪ノ下はと言えば。
「……まあ、そこまで言うなら」
あれ、ゆきのん? 貴女なんかガハマさんに甘くない? あっれれー?ぼっち同盟解散か?
「あはは、じゃあ満場一致ってことで。ではではれっつらごー! ……あ、それとガハマちゃん」
「は、はい!」
陽乃さんは今日初めて由比ヶ浜に向き合う。
「犬のリードはちゃんと握っとこうね。ケガしてからじゃ、遅いから」
ね、由比ヶ浜ちゃん。
初めて由比ヶ浜に向けた彼女の笑顔は、今日一番綺麗だった。
半年くらいあいてるように見えるハーメルン特有のバグ。