「時に、比企谷君」
「今の時間は17時45分を回ったところです。そろそろお引き取りを」
「時間は聞いてないよ。導入とか話題転換『時に』ね。わかってるくせにぃ」
ベッド脇の椅子に腰掛ける雪ノ下さんは、俺の額を人差し指で軽く押す。
そして続く言葉に、のっけから頭が痛くなる。
「私に彼氏いないって、そんなに変かな?」
「はい?」
またわけのわからなことを言いだした。俺は読みかけのラノベとやりかけのスマホゲーに目を落としながら、戯言を聞き流す。
「いや私大学生で、成人前のピチピチの女子でしょう?当然私には比企谷君とは違って、男女の友達がたくさんいるんだけどさ」
「ええ、ええ、ぼっちで悪うござんした。そんな相談されても役に立たないと思うんで、さっさと出てってくれませんかね」
「もう、ほんと可愛くないんだから。まあそんな君だから聞くんだけどさ、そんなにおかしいかな。私に彼氏がいないって」
雪ノ下陽乃は、さも不思議そうに首をひねる。
「大学入ったばっかで、皆そのことばっか聞くからさ。いい加減鬱陶しくて」
その無邪気な笑みに。無邪気を装ったわざとらしい笑いに、俺は苦笑いで返すことしかできない。そうお前に質問する人間の気持ちなんざわかってるくせに。この女、まあいけしゃあしゃあと。その挑発的な笑みに、思わず振り上げかける拳を抑え、鬱憤をため息とともに吐き出す。
雪ノ下陽乃が俺の病室に顔を出し、一週間が経った。
この一週間、どうやら彼女は俺を玩具とすることを決めたらしい。毎日のようにここに現れ、今のようにくだらない話をして俺の反応を見ていた。まったく、何が楽しいのか。上流階級の遊びは俺には理解できない。何が彼女の琴線に触れたかはわからないが、初対面で交わしたあの会話のどこかで、彼女の興を買ってしまったのだろう。
しかし俺とて、意思がないわけではない。こう見えても立派に人権を持つ一人の人間である。
よって最初の二、三日はその傍若無人ぶりに文句を言い、彼女が病室から退出するように冷たい言葉を選び接したつもりだった。しかし彼女はそれにこたえるどころか、全てをその女神のような微笑みで受け流すのみだ。
はぁ。ため息の一つや二つや三つは出て然るべきだろう。
「あ~、ほんと失礼だね、君。こんなに綺麗なお姉さんが話しかけてあげてるっていうのに、そういう反応するんだ」
「一度も俺から頼んだ覚えはありませんけどね。……つーか、大学生ってやっぱ暇なんですね」
「なんでそう思うの?」
「毎日毎日、こんな所でくだらないことで管巻いてるのは、暇としか言いようがないでしょうが」
「その言い分はさすがに酷いよ?比企谷君」
ぶー。彼女はリスのように頬を膨らませ、顔を逸らす。その視線は力無く俺の手元に落ちる。
「私だって毎日ここ来るために、結構無理してるんだけどな……」
不覚にもキュンとしてしまった自分を、三秒で殴り飛ばす。
騙されるな巻き込まれるな懐柔されるな。この女は得体が知れない。初対面の俺の勘は、恐らく間違っていない。時々『アメ』を混ぜて俺を骨抜きにしようとしているだけだ。もう骨折してるけど。
「別に彼氏でも何でも好きに作ればいいでしょう。あんたならよりどりみどりじゃないですか」
「えー、そんなことないよー。ていうか、比企谷君はなんでそう思うの?私がすぐ彼氏できるって」
「なんでって、そりゃ……」
「うん?」
彼女は小首をコテンと傾げ、不思議そうに俺を見る。
ぐ。
騙されるなと自らを戒めたばかりだというのに、その深い瞳に、あどけない仕草に、つい揺らぎそうになる。
だがやはり。俺は安心する。
彼女は口元の笑みを、またもや隠しきれていない。
「ぼっち力53万の俺を手玉に取ってるんです。その辺の男を手玉に取ることなんざ、お茶の子さいさいでしょう」
「ぷ、くく……お、お茶の子さいさいって、それ流石に死語じゃない?君の同級生には伝わらないんじゃないかな、それ」
「同級生にも下級生にも友人はいないんで、やっぱり問題ないですね」
「なるほど、道理だ」
彼女はいつかのように満足げにうなずき、ニヤニヤと俺を見る。
「やっぱり君、面白いよ。で、どう?私が彼氏の有無を尋ねられることについての感想は?」
「別に。リア充として生きるなら、そのくらいリスクの一つとして入れとくべきでしょう」
「……君、前から思ってたけど、『リア充』なる人種に親でも殺されたの?」
「まさか。そもそも俺の両親が『リア充』じゃなきゃ、俺はここにはいませんし」
「ぷ……そういうこと言ってるわけじゃないんだけど」
くすくす。彼女は口元で笑いをかみ殺し、俺を見据える。
「つまり、君は言いたいわけだ。私の生き方をするなら、そういう面倒事もリスクの一つだ、と」
「まあ、概ねそうですね」
「それは具体的に、どんなところが?なんで私はそんな質問をされるのかな?」
今度こそ彼女は俺の言うことの意味がよくわからなかったのか、首をひねるのみだ。俺はため息とともに机の前の鏡を顎で示し、彼女はそちらを見る。
「鏡見ればわかるでしょう、そのくらい」
「?どゆこと?」
しかし、彼女はまだわざとらしく、あどけなく、俺に問う。は、よく言う、とうにわかっているくせに。
俺は内心で毒づきながら、いよいよ腹が立ってきた。いつもと同じだ。彼女のただの遊びなのは分かっている。俺の反応をからかって、楽しんでいるだけだ。
しかし俺にとっては、ラノベを読む時間が奪われ、ゲームをする時間が奪われる。それも不当に。なぜ俺がこんな理不尽な目に遭わなければならないのだ。
だから、つい口に出してしまう。
「あんたほど可愛い人、そんなにいないでしょ。男だったら誰だって見とれるんじゃないですか」
「……へ?」
あ。
言ってから思う。しまった、と。
二人きりの病室に、気まずい沈黙が流れる。
俺と彼女の間にはこの一週間で、ある種の信頼関係が生まれていた、ように俺は思う。
彼女は俺で暇をつぶし、俺は彼女で暇をつぶす。俺にとっての彼女は、彼女にとっての俺は、暇をつぶし、言葉遊びに興じ、上辺だけの駆け引きを楽しむのに『丁度良い』相手だったのだ。互恵関係、と言っては大げさだろうか。
また、あることを俺は知っている。たった一週間で、知った気になっている。その上辺に纏ったリア充の皮は、彼女の本質ではない。そしてその下にあるように見える『本性のようなもの』ですら、恐らく彼女が作り上げた上辺の一つだろう。
だから、俺は想像していなかったのだ。
「ちょ、き、君、何言ってくれてんの。玩具のくせに、生意気なっ――」
微かに、ほんの微かに、その頬に朱色が差した。
違う。間違っている。
「私、君の前で『綺麗』でも、『可愛い』とこ見せた覚えないんだけど……」
雪ノ下陽乃が可愛く見えるのは、どう考えてもまちがっている。