「あー、暇」
「……」
どこかでチャイムが鳴った。雪ノ下さんは頬杖をつき、窓の外を眺める。俺もちらりとそちらを見ると、中学生がわらわらと下校している。
「暇ー。暇暇、あー、ひまだなー」
「……」
彼女は窓の外に向けた視線をこちらに向け、まだわざとらしく呟く。うざい仕草にため息が出かけるが、本を顔の位置まで上げて視線をガードする。
病室に沈黙が降りることしばし。すると、
にゅ。
雪ノ下さんの顔が、俺と本の間にあった。出かけた悲鳴を必死に抑える。長いまつげ、整った眉、驚くほどキメの細かい肌、艶やかな唇。
「暇暇暇暇暇暇暇暇暇暇暇暇暇暇……」
しかしそんな完璧な造形も、無表情で念仏のようにそんなことを唱えられれば、恐怖しか感じない。仕方なく読みさしの本から顔を上げる。
「……はぁ。なんですか」
「お、やっとこっち向いたね、比企谷君。なんだかんだ言って最後は相手してくれるの優しいねぇ。お姉さん嬉しい」
にこぱーっと、雪ノ下さんはわざとらしく花のような笑顔を咲かせ、ウリウリと俺の頬を人差し指でつっつく。うぜえ。しかも嘘くせえ。顔を振ってその指を振り払う。
「暇なら大学にでも行ったらどうです。こんなとこにいるよりましでしょう」
「むー、つれないこと言うなぁ。だから、こうやって大学の帰りに寄ってるじゃない」
「講義が終わった後も、付き合いとかあるんじゃないですか?知らんけど」
「そんなの毎日毎日やってたら、ここにいるより100倍退屈で死ぬ。お姉さん、退屈だと死んじゃう生き物なの」
「あんた毎日のように来てるでしょうが……」
あほなことをのたまう彼女に、また深いため息を吐く。
雪ノ下さんの初めての来訪から、二週間。
彼女は決まって夕方から面会時間ギリギリに来る。よって学校にも行っているのだろうし付き合いもあるのだろうが、まだ彼女の行動は不可解だ。なにが彼女の興味を引いたのか、やはりよくわからない。
しかし、三つほどわかったこともある。
「ほらほらぁ、そんな嫌っそうな顔していいのかな?こーんな綺麗なお姉さんが見舞いに来てくれることなんてないんだぞー?」
1.うざい。俺の髪をくしゃくしゃと撫でまわす彼女を無視し、本に視線を落とす。
「ぶー、無視してれば飽きるとでも思ってる?ところがお姉さん、反応ないと余計弄りたくなっちゃうんだよね」
2.とてもうざい。今度はアホ毛をみょんみょんと引っ張り出した。痛い。痛いから。
「む、これでも反応なしか。もーかくなるうえは……えいっ!」
意図して反応しないようにしていると、突然捻挫していない左腕に柔らかい感触を感じる。
横目で見ると、彼女は薄ら笑いを浮かべ、俺の腕に腕を絡めていた。
「あは、ようやくこっち向いた。どう?ぼっちの比企谷君にはちょっと刺激が強かったかな?ドキッとした?ね?ね?ね?」
「3.ただひたすら、うざい」
「おーい?思ってること声に出てるぞー?」
気づけば心の声は音になっていたらしい。ニッコリと笑う雪ノ下さんは、絡めた腕をそのままギリギリと捻り上げる。ちょ、ギブギブギブ!まじでやばいから!え、何この人、こんなきれいな顔してゴリラの子供かなにかなの?めっちゃ痛いんですけど。
声を出せないほどに悶絶する俺。笑顔で腕を捻りあげる美女。地獄の空間である。
しかし救世主は現れた。
「おっにいちゃーーーーん!小町が久しぶりに見舞いに来てやったぞー!頼まれてた本とか、も……」
その瞬間、病室の時間が止まった。
来訪者は我が愛しの妹、小町だった。彼女は瞠目し、俺と雪ノ下さんを凝視したままだ。完全にフリーズしている。雪ノ下さんは何が面白いのかニヤニヤと俺と小町を見比べる。
「ねえねえ、あの子ひょっとして比企谷君の妹ちゃん?」
「ひょっとしても何も、妹じゃない女の子に『おにいちゃん』と呼ばせるような趣味、俺にあるように見えますか?」
雪ノ下さんは俺をまじまじと見つめた後、断言する。
「うん、めっちゃ見える」
「表に出ろ」
俺の視線をひらひらと手を振って受け流し、彼女は椅子から腰を浮かす。向かう先は先ほどからフリーズしたままの小町のもとだ。目の前まで歩き、小町の前で手を振り、軽くおーいと呼びかけるが、まだ小町は覚醒しない。
「あはは、比企谷君、この子面白いよ。本当に魂どっかに飛んでっちゃった」
「飛んでっちゃった、じゃないですよ。なにしてくれてるんですか俺の可愛い可愛い妹に。何かあったら許さない。許さないからな。絶対に」
「え、もしかして比企谷君、シスコン?」
「それが何か?」
「ちょっとは隠そうとしようよ……」
即座に返す俺に雪ノ下さんは珍しく苦笑いを浮かべる。何か、初めて彼女をやり込めた気がした。重度のシスコンという事実にただ引いているだけとも言える。ほっとけ。
「ま、このままじゃ私も困るしね。比企谷君の妹とお話してみたいし――」
彼女は小町の前で両手を合わせる。
パチン
猫だましの高く乾いた音が病室に響き、小町の目に焦点が戻る。目の前の雪ノ下さんからオロオロと視線を外し、縋るように俺を見る。
「あ、あれ?お、おお、お兄ちゃん?確か、弱ったお兄ちゃんがすっごい綺麗な人に絵とか壺とか買わされそうになってて、小町はそれを助けようと――」
「いや、記憶歪めるにも程があるだろ。ただの知り合い、つーか、『車側』の関係者だとよ」
「へ、へー。そういえば、お金置いてったあの凄い綺麗な女の人に、ちょっと似てるかも」
「あー、それ多分私の母だねー」
チラリ。上目遣いで雪ノ下さんを見る小町の目を、雪ノ下さんは屈んでのぞき込む。
ひっ。一瞬の悲鳴と共に小町は後ずさるが、咳払いとともに頭を下げる。
「こんにちは!小町はお兄ちゃんの妹の、比企谷小町って言います。わざわざこの愚兄のためにご足労頂き、ありがとーございます!」
ぺこぺことさながら営業サラリーマンのように頭を下げる小町に、雪ノ下さんは目を瞬かせる。
「ひ、比企谷君。この子、急に元気になったけど」
「多分、さっきは本当に状況が飲みこめなかったんでしょう。女性と俺が一緒に居るところが信じられなかったのかもしれません。本来はこういう、しっかりした自慢の妹です」
「比企谷君、どんだけぼっちなのよ。やっぱりシスコンだし」
雪ノ下さんは呆れたようにため息を吐く。しかし困惑を見せたのも束の間、相変わらず飛び切りの笑顔を浮かべる。
「こちらこそこんにちは、小町ちゃん。ご丁寧にありがとね。お姉さんは、雪ノ下陽乃っていいます。挨拶遅れちゃってごめんね。大体毎日ここには来てるんだけど、タイミング悪かったかな。はじめまして」
「あー、小町も新年度で忙しくて、あんまり来れてなくってですね――って、毎日!?ま、ま、ま、毎日って、毎日ってことですか!?」
「うん、どう考えてもそうだよね」
小町は雪ノ下さんの肩から顔を覗かせ、あわあわと俺に言う。
「や、やばいよお兄ちゃん!こんなきれいなお姉さんがお義姉ちゃんになるとか、小町的にポイント激高だよ!熱々だよ!……はっ!?ちょっとお兄ちゃん、陽乃さんにお茶も出してないの!?」
「いやお茶って言われても、俺怪我人ですし……」
「もう!ごみいちゃんがこんな綺麗な人に見初められるなんて、奇跡でしかないんだよ!?ちゃんとわかってる?怪我なんてしてる場合じゃないよ!」
「わかんない。お兄ちゃん、小町が何言っているかわかんない」
見初められるて。小町、そんな古風な表現もできたのね。心中で妹の成長を喜び、謎のテンションの高さを煙たがっていると、横から忍び笑いが聞こえる。
「く、くくっ……お、お兄ちゃん。妹ちゃんと仲いいんだね」
「あんたのお兄ちゃんになった覚えはない」
「そうですよ!陽乃さんは小町の未来のお義姉ちゃんなんですから!」
「……あのな、小町。流石に失礼だぞ。初対面の人に――」
暴走を続ける小町にいい加減小言を挟もうとすると、雪ノ下さんがニヤニヤと遮る。
「失礼、ねぇ。そういえば初対面の私に、開口一番『お引き取りを』って連呼した人もいたよねー、比企谷君」
「なっ、お兄ちゃん!陽乃さんにそんなこと言ったの?」
「小町。お前は初対面の胡散臭い女と14年連れ添った兄の言うこと、どちらを信用するんだ?」
「陽乃さん」
「小町なんて嫌いだ」
グスグス。わざとらしく泣きまねをし、俺は布団にくるまる。が、その外からは雪ノ下さんと小町の非常に楽しそうな声しか聞こえてこず、俺を気にする様子はまったく、これっぽっちも、ミジンコほどもない。大事なことだから三回強調してみました。あ、やばい。ほんとに泣きそう。
「へぇー、陽乃さんって大学生なんですねー。それにしては大人っぽい……って、あっ!そういえば!」
俺抜きで非常に楽しそうに盛り上がる小町は、何かに気づいたのか突然声をあげる。
「結局お茶もお出しせず、立ち話でごめんなさい!ただいまお持ちしますので!」
「いいよ小町ちゃん。きょうだい水入らずになるところを、お邪魔しちゃってるのは私の方だし。そろそろお暇させてもらうよ」
離席しようと扉に向かおうとする雪ノ下さんを、小町が椅子に押し込む。
「いえいえいえいえいえ、大丈夫ですから!もうちょっとゆっくり大学のこととかお兄ちゃんとのこと、聞かせてください!……では、小町お茶買ってきまーーす!」
ぴゅー。なぜか小町は慌てふためき、恐らく自販機へ去っていった。残される俺たち二人。
「ぷ……くくっ……とっても可愛い妹さんじゃない。比企谷君がシスコンになるのもわかるわ」
「でしょう?」
「うん。比企谷君に全然似ずに、素直でかわいい」
「でしょう?本当に俺に似なくてよかった」
「それ、君が言っちゃうのはどうなの」
クスクスクス。彼女は愉快そうに笑う。だって、本当だもの。小町が俺に似ず、はつらつ超絶美少女に育ってくれてよかった。もし小町がお嫁にいこうもんなら相手を殺す自信がある。娘はやらん!と言う父はいても、妹はやらん!って言う兄、ドラマでもあんま見たことねえな。
「でも」
くだらないことを考えていると、陽乃さんは小町の去った扉を見て、つぶやく。
「仲が良さそうで羨ましいよ……本当に」
一瞬映る横顔。伏せられた目は、今までに見たことがないほど儚く、頼りない。
本当は、気づいていた。彼女は俺が小町と話しているときも、こんな顔をしていた。俺はらしくないそれを見てはいけない気がして、見ない振りをした。
「あんな可愛い妹なら、誰だって自慢しちゃうよね!」
病室に寒々しく明るい声が弾ける。
彼女とバカな会話をして、暇を持て余して、二週間。俺は思い直す。やはり俺はまだ、雪ノ下陽乃のことなど何も知らないのだ。
その似合わない空笑いを見て、ケガをしてもいないどこかが痛んだ。