「ほい、雪ノ下さん」
「お、ありがと。パシリご苦労さま……って、比企谷君」
俺が右手で投げ渡した缶を彼女は両手で受け取り、眉根を寄せる。
「これ、くっそ甘いコーヒーじゃない」
「違います。くっそ甘い練乳飲料です」
「より酷くなってるんだけど」
雪ノ下さんは俺をジト目で見て、いかにも憤慨する。
「じゃんけんで負けたのは比企谷君だよー。はいやり直し。他の無糖コーヒー買ってきて」
「怪我人をそんなに働かせるな」
「もう治ってるくせに……」
俺は雪ノ下さんの文句を無視し、ベッドに腰掛ける。雪ノ下さんはため息を吐き、決心をしたように手にもったマックスコーヒーをグイと飲む。その表情は俺のように恍惚なもの――でなく、なぜか苦汁に歪むものに変わる。甘いのに。
けっ、これだから格好つけたがりの大学生は。ブラックコーヒーより甘々のコーヒー牛乳の方がうまいに決まっとろーが。先人も言っている。人間の体は、甘いものをうまく感じるようにできている、と。至言である。苦味とか辛みを好む輩は、全く動物として正しくない。
そんなことを彼女に話すと、雪ノ下さんはまた苦い顔をする。
「君の弁は否定しない。辛さってつまり痛みだし、苦味は毒として認識してるからね、動物は。赤ちゃんとか子供の味覚は、動物として正しいんでしょう」
ズイ。彼女は人一人分俺に顔を近づけ、珍しく真面目な顔をし、人差し指を立てる。
「でも、私は人間なの。人間として、こんな動物的な甘みは許すわけにはいかないの。コーヒーは渋くあるべきなの。甘いものはチョコとか砂糖菓子とか、他で取ればいいでしょう」
「じゃあコーヒーも甘かったら最強じゃないですか」
「君、マックスコーヒー絡んでから偏差値20くらい落ちたけど、大丈夫?」
呆れかえる雪ノ下さんをよそに、俺は一人静かに彼女の言葉選びに感動する。
動物的な甘み。今日の名言リストに入れておこう。マッ缶にふさわしい形容だ。
雪ノ下陽乃がここに来て、三週間が経った。
この一週間も、彼女は飽きもせず俺の病室に来て、くだらない話をした。そんな彼女との会話の多くは面白く、刺激的だった。……どうやらコーヒーの趣味では相いれないらしいが。
病室はいつもより少し暗い。時刻を見ると、午後七時。窓の外を眺めると、仕事帰りの車が行き来し、ライトが道路を明るく照らしている。あの中に俺の親の姿もあるのだろうか。いや、無い。彼らが帰宅するのは恐らくあと5時間以上後だろう。ああ、お疲れさま。マジで働きたくねえ。俺が専業主夫を志望するのは、8割社畜の両親の影響でもある。働けば働くほど息子が働きたくなくなるとは、これいかに。
「で、比企谷君」
コトリ。彼女はマックスコーヒーを机に置き、俺に微笑む。それ、お残しは許しまへんで。
「おめでとう。とうとう明日退院だね」
「ええ、おかげさまで」
そう。一カ月で完治の予定の俺の右手左脚の捻挫と骨折は、医者の見立て通り見事完治し、明日退院する。
つまり今日でこの時間も終わる。
雪ノ下さんは手をぶんぶんと振る。
「そんな。私は何もしてないよ」
「ええ、本当に。俺の睡眠の邪魔はしてましたけど」
肯定を重ねる俺を、今度は彼女は目を細くして睨む。
「ねえ。もしかして喧嘩売ってる?君の快復を労う綺麗なお姉さんに」
「まさか。冗談ですよ、ありがとうございます」
ペコリ。俺は素直に彼女に頭を下げる。断じてその冷たい視線が怖かったからとか、そう言うわけではない。決して。絶対に。
「ま、いいや。でも比企谷君。一か月分の勉強とかは大丈夫なの?」
「まあ、一応。学校の範囲分は独学で進めてますし、元々俺は理系捨ててますから。労力は半分です」
雪ノ下さんは俺の言葉に瞠目する。
「へー。総武って一年の時はほとんど国公立志望だったと思うけど、比企谷君はもう進路決めてるんだ」
「まあ。そんな大層なもんじゃないですけど。数学が壊滅的で、たまたま社会系ができるってだけですよ」
「?君国語も得意そうだけど」
「まあ、得意には得意ですし、社会よりいい点とることの方が多いんですが……」
雪ノ下さんの返答に、今度は俺が詰まる。弱点をさらすようで、心もとない。
「あー、わかった。現代文、それも小説でたまーに壊滅する、ってとこかな?」
「……ええ、まあ」
だから嫌だったのだ。ニヤニヤと俺を見る彼女とは対照的に、俺は渋面を作る。俺の国語の成績は学年トップだ。古文も漢文も得意だし、論説や随筆を読んで問題を解くことも得意だ。点数も安定している。
その中で、小説だけがそうもいかない。前者以上に満点を取ることの方が多いが、ごくたまに信じられないポカをする。
例えば「傍線部の主人公の心情は以下四つのどれか」という問題があるとする。これが「主人公の親友が、好きな人にフラれて悲しむ」ような場面なら、やるせないとか気の毒だ、みたいな答えを選べばいい。
だが、俺は思ってしまう。主人公はそれ以上に『喜んでいる』のではないか、と。今がチャンスだ。邪魔者は消えた。友情なんざ知るか。友達なら他に作ればいい。今なら彼女の心に付け込み、自分のものにできる――。
ところが往々にして、そのような選択肢は問題文にない。結果散々迷い、別のよくわからない選択肢に逃げてしまう。
「君、悪意に敏感過ぎるんだよね」
彼女は軽く、口を開く。その言葉は、真実だったような気がした。俺はため息を吐き額に手を当て、それを誤魔化す。
「大げさですよ。単純にぼっちだから、細かい人間関係とか問題にされるとわからんだけです」
「ま、そういうことにしとこっか」
ふー。彼女は窓の外を見てマッ缶を飲み、息を吐く。
「君のそういう賢い所、嫌いじゃないよ。比企谷君」
「そりゃどーも」
その笑顔は、窓の外に映る夕闇より暗く、月光より柔らかい。
三週間。彼女と過ごした時間だ。長いとは言えないが、短いとも言えない。何せ彼女は、毎日ここに来たのだ。その一瞬一瞬が、今でも鮮明に思い出せる。そのくらい彼女との日々は刺激的で、明るく、愉快だった。
だから目を伏せ、微笑む彼女を見て、俺は思う。
彼女もそう思っているのだろうか。
「うん。比企谷君と一緒に居た三週間ちょっと、ほんと楽しかった。暇つぶし、どころじゃないよ。妹ちゃんも可愛いし、君も想像以上に面白い人間だった。こんなに人に興味持ったこと、正直無かった。
だから、伝えたいなって思った」
伏せた視線を上げ、彼女は俺を見る。俺だけを見る。そのまっすぐな視線を、正面から受け止める。
多分、それは今日なのだ。俺にとっても、彼女にとっても。
彼女は飛び切りの笑顔を浮かべ、手をパンと叩く。
「さて、比企谷君。退院前の最後の夜に話があるんだけど、いいかな?」
「奇遇ですね。俺もあります。あなたに話すことが……いえ、話したいことがあります」
彼女の白磁のような頬にうっすら朱色が差し、俺も頬が熱くなるのを感じる。
らしくなく、高揚しているのだろうか。
「比企谷くん――」「雪ノ下さん」
多分、初めてだろう。俺は彼女の声を遮る。その瞬間は、いくらヘタレの俺でも女性に任せるわけにはいかない。
嘘のように明るく柔らかい月光を背景に、家路へと向かうライトがピカピカと光る。夕闇のコントラストでそれは一層映える。
しかしそれも全て、美しい、女神のような彼女の笑顔に呑まれる。
夢かと思った。
「雪ノ下さん」
もう一度、彼女の名を呼ぶ。その綺麗すぎる笑顔に、決心が揺らぎそうになる。
「なあに?」
わかっているくせに。可愛らしい笑みを前に、俺はそう思った。
その深い瞳を見た瞬間、いつものこの空間が戻った気がした。
だから、俺は言うことができた。
「3週間かけた芝居、ご苦労様です」
ピシリ。病室の時計が止まり、彼女から表情が消える。
ああ、やはり。俺は確信する。俺が知っていると思った、理解していると思いこんだ彼女の『本性のようなもの』は、まだ上辺だったのだ。
「高1のガキ相手にここまで労力かけた理由、聞かせてもらえますか」
ニィ。俺の言葉を聞いた瞬間、彼女の口が三日月に歪む。
次の言葉に、俺は心底安心する。
やはり、俺の最初の勘は間違っていなかったのだ。
この人は気味が悪い。
「合格よ、比企谷君」
そしてその笑みは。
騙されてもいいと思う程度に、美しかった。