はるのん√はまちがいだらけである。   作:あおだるま

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その4

 

「ほい、雪ノ下さん」

「お、ありがと。パシリご苦労さま……って、比企谷君」

 

 俺が右手で投げ渡した缶を彼女は両手で受け取り、眉根を寄せる。

 

「これ、くっそ甘いコーヒーじゃない」

「違います。くっそ甘い練乳飲料です」

「より酷くなってるんだけど」

 

 雪ノ下さんは俺をジト目で見て、いかにも憤慨する。

 

「じゃんけんで負けたのは比企谷君だよー。はいやり直し。他の無糖コーヒー買ってきて」

「怪我人をそんなに働かせるな」

「もう治ってるくせに……」

 

 俺は雪ノ下さんの文句を無視し、ベッドに腰掛ける。雪ノ下さんはため息を吐き、決心をしたように手にもったマックスコーヒーをグイと飲む。その表情は俺のように恍惚なもの――でなく、なぜか苦汁に歪むものに変わる。甘いのに。

 

 けっ、これだから格好つけたがりの大学生は。ブラックコーヒーより甘々のコーヒー牛乳の方がうまいに決まっとろーが。先人も言っている。人間の体は、甘いものをうまく感じるようにできている、と。至言である。苦味とか辛みを好む輩は、全く動物として正しくない。

 

 そんなことを彼女に話すと、雪ノ下さんはまた苦い顔をする。

 

「君の弁は否定しない。辛さってつまり痛みだし、苦味は毒として認識してるからね、動物は。赤ちゃんとか子供の味覚は、動物として正しいんでしょう」

 

 ズイ。彼女は人一人分俺に顔を近づけ、珍しく真面目な顔をし、人差し指を立てる。

 

「でも、私は人間なの。人間として、こんな動物的な甘みは許すわけにはいかないの。コーヒーは渋くあるべきなの。甘いものはチョコとか砂糖菓子とか、他で取ればいいでしょう」

「じゃあコーヒーも甘かったら最強じゃないですか」

「君、マックスコーヒー絡んでから偏差値20くらい落ちたけど、大丈夫?」

 

 呆れかえる雪ノ下さんをよそに、俺は一人静かに彼女の言葉選びに感動する。

 

 動物的な甘み。今日の名言リストに入れておこう。マッ缶にふさわしい形容だ。

 

 

 

 雪ノ下陽乃がここに来て、三週間が経った。

 

 この一週間も、彼女は飽きもせず俺の病室に来て、くだらない話をした。そんな彼女との会話の多くは面白く、刺激的だった。……どうやらコーヒーの趣味では相いれないらしいが。

 

 病室はいつもより少し暗い。時刻を見ると、午後七時。窓の外を眺めると、仕事帰りの車が行き来し、ライトが道路を明るく照らしている。あの中に俺の親の姿もあるのだろうか。いや、無い。彼らが帰宅するのは恐らくあと5時間以上後だろう。ああ、お疲れさま。マジで働きたくねえ。俺が専業主夫を志望するのは、8割社畜の両親の影響でもある。働けば働くほど息子が働きたくなくなるとは、これいかに。

 

「で、比企谷君」

 

 コトリ。彼女はマックスコーヒーを机に置き、俺に微笑む。それ、お残しは許しまへんで。

 

「おめでとう。とうとう明日退院だね」

「ええ、おかげさまで」

 

 そう。一カ月で完治の予定の俺の右手左脚の捻挫と骨折は、医者の見立て通り見事完治し、明日退院する。

 

 つまり今日でこの時間も終わる。

 

 雪ノ下さんは手をぶんぶんと振る。

 

「そんな。私は何もしてないよ」

「ええ、本当に。俺の睡眠の邪魔はしてましたけど」

 

 肯定を重ねる俺を、今度は彼女は目を細くして睨む。

 

「ねえ。もしかして喧嘩売ってる?君の快復を労う綺麗なお姉さんに」

「まさか。冗談ですよ、ありがとうございます」

 

 ペコリ。俺は素直に彼女に頭を下げる。断じてその冷たい視線が怖かったからとか、そう言うわけではない。決して。絶対に。

 

「ま、いいや。でも比企谷君。一か月分の勉強とかは大丈夫なの?」

「まあ、一応。学校の範囲分は独学で進めてますし、元々俺は理系捨ててますから。労力は半分です」

 

 雪ノ下さんは俺の言葉に瞠目する。

 

「へー。総武って一年の時はほとんど国公立志望だったと思うけど、比企谷君はもう進路決めてるんだ」

「まあ。そんな大層なもんじゃないですけど。数学が壊滅的で、たまたま社会系ができるってだけですよ」

「?君国語も得意そうだけど」

「まあ、得意には得意ですし、社会よりいい点とることの方が多いんですが……」

 

 雪ノ下さんの返答に、今度は俺が詰まる。弱点をさらすようで、心もとない。

 

「あー、わかった。現代文、それも小説でたまーに壊滅する、ってとこかな?」

「……ええ、まあ」

 

 だから嫌だったのだ。ニヤニヤと俺を見る彼女とは対照的に、俺は渋面を作る。俺の国語の成績は学年トップだ。古文も漢文も得意だし、論説や随筆を読んで問題を解くことも得意だ。点数も安定している。

 その中で、小説だけがそうもいかない。前者以上に満点を取ることの方が多いが、ごくたまに信じられないポカをする。

 例えば「傍線部の主人公の心情は以下四つのどれか」という問題があるとする。これが「主人公の親友が、好きな人にフラれて悲しむ」ような場面なら、やるせないとか気の毒だ、みたいな答えを選べばいい。

 だが、俺は思ってしまう。主人公はそれ以上に『喜んでいる』のではないか、と。今がチャンスだ。邪魔者は消えた。友情なんざ知るか。友達なら他に作ればいい。今なら彼女の心に付け込み、自分のものにできる――。

 ところが往々にして、そのような選択肢は問題文にない。結果散々迷い、別のよくわからない選択肢に逃げてしまう。

 

「君、悪意に敏感過ぎるんだよね」

 

 彼女は軽く、口を開く。その言葉は、真実だったような気がした。俺はため息を吐き額に手を当て、それを誤魔化す。

 

「大げさですよ。単純にぼっちだから、細かい人間関係とか問題にされるとわからんだけです」

「ま、そういうことにしとこっか」

 

 ふー。彼女は窓の外を見てマッ缶を飲み、息を吐く。

 

「君のそういう賢い所、嫌いじゃないよ。比企谷君」

「そりゃどーも」

 

 その笑顔は、窓の外に映る夕闇より暗く、月光より柔らかい。

 

 三週間。彼女と過ごした時間だ。長いとは言えないが、短いとも言えない。何せ彼女は、毎日ここに来たのだ。その一瞬一瞬が、今でも鮮明に思い出せる。そのくらい彼女との日々は刺激的で、明るく、愉快だった。

 

 だから目を伏せ、微笑む彼女を見て、俺は思う。

 

 彼女もそう思っているのだろうか。

 

「うん。比企谷君と一緒に居た三週間ちょっと、ほんと楽しかった。暇つぶし、どころじゃないよ。妹ちゃんも可愛いし、君も想像以上に面白い人間だった。こんなに人に興味持ったこと、正直無かった。

だから、伝えたいなって思った」

 

 伏せた視線を上げ、彼女は俺を見る。俺だけを見る。そのまっすぐな視線を、正面から受け止める。

 

 多分、それは今日なのだ。俺にとっても、彼女にとっても。

 

 彼女は飛び切りの笑顔を浮かべ、手をパンと叩く。

 

「さて、比企谷君。退院前の最後の夜に話があるんだけど、いいかな?」

「奇遇ですね。俺もあります。あなたに話すことが……いえ、話したいことがあります」

 

 彼女の白磁のような頬にうっすら朱色が差し、俺も頬が熱くなるのを感じる。

 

 らしくなく、高揚しているのだろうか。

 

「比企谷くん――」「雪ノ下さん」

 

 多分、初めてだろう。俺は彼女の声を遮る。その瞬間は、いくらヘタレの俺でも女性に任せるわけにはいかない。

 

 嘘のように明るく柔らかい月光を背景に、家路へと向かうライトがピカピカと光る。夕闇のコントラストでそれは一層映える。

 

 しかしそれも全て、美しい、女神のような彼女の笑顔に呑まれる。

 

 夢かと思った。

 

「雪ノ下さん」

 

 もう一度、彼女の名を呼ぶ。その綺麗すぎる笑顔に、決心が揺らぎそうになる。

 

「なあに?」

 

 わかっているくせに。可愛らしい笑みを前に、俺はそう思った。

 

 その深い瞳を見た瞬間、いつものこの空間が戻った気がした。

 

 だから、俺は言うことができた。

 

「3週間かけた芝居、ご苦労様です」

 

 ピシリ。病室の時計が止まり、彼女から表情が消える。

 

 ああ、やはり。俺は確信する。俺が知っていると思った、理解していると思いこんだ彼女の『本性のようなもの』は、まだ上辺だったのだ。

 

「高1のガキ相手にここまで労力かけた理由、聞かせてもらえますか」

 

 ニィ。俺の言葉を聞いた瞬間、彼女の口が三日月に歪む。

 

 次の言葉に、俺は心底安心する。

 

 やはり、俺の最初の勘は間違っていなかったのだ。

 

 この人は気味が悪い。

 

「合格よ、比企谷君」

 

 そしてその笑みは。

 

 騙されてもいいと思う程度に、美しかった。

 

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