はるのん√はまちがいだらけである。   作:あおだるま

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その6

 空がいやに高い朝だった。

 

 日差しを柔らかく反射する道路に、桜が一片散る。チュンチュンと、どこからか鳥の鳴き声が聞こえた。

 

 そういえば。ふと俺は思い出す。確か、あの日もこんな風に桜が散っていた気がする。

 

 あの日、美しく、可憐で、沼のように昏い瞳を覗いた日。彼女と対面した瞬間、その姿に魅せられ、圧倒された。嘘を吐かずこちらを試すような笑みに、憧れたのかもしれない。

 

 でも、一年前のあの時とは違う。

 

「桜、綺麗ね。比企谷君」

 

 あの日対面した彼女は今、俺の隣にいる。

 

 彼女の呟きに俺は小さくうなずく。契約を交わしたあの日から、立ち位置は変われど、俺たちの関係は変わらない。

 

 雪ノ下陽乃は散る桜に手を伸ばす。彼女自身もあの時と同じように――いや。俺は思い直す。今は舞う桜によって、より人々を惹きつける。散る桜の中の微笑みは、絵画にだって負けてはいない。

 

 俺も、正直見とれた。

 

 ただし。

 

 ここが総武高生の行き交う校門前でさえなかったら。

 

 笑みを浮かべる彼女に、俺もまた笑おうと努力する。上手く笑顔を作れているだろうか。ひきつる頬を気取られぬよう口を開く。

 

「同伴出勤はオプションにねえんですけど。おふざけになられるのもいい加減にしてもらっていいですか、陽乃さん」

 

 彼女に耳打ちする。桜に包まれているせいか軽くピンクに染まる彼女の頬が、ピクリと動いた気がする。

 

「比企谷君。背筋と口調、ついでに目付き。みっともないからきちんとしなさい」

「性根が曲がり切ってる人間に言われる筋合いないんですけど……」

「何か言ったかなー?比企谷君?」

「何も言ってないでしゅ」

 

 です。鋭い視線を向ける彼女に、俺は秒で頭を下げる。ここは人が多すぎる。取り繕う必要はあるだろう。べ、別にその笑ってない目が怖かったわけじゃないんだからねっ!噛んだけど。

 咳ばらいをいくつか、言い方を変える。

 

「二年生の新学期。朝から俺を呼び出してまで、なんで一緒に学校に来る必要があったんでしょうか」

 

 道行く総武高生は、例外なく俺と陽乃さんを訝し気に見る。彼女はその視線をなんとも思っていないようだが、俺は違う。こちとら真性のぼっちなのである。ふええ……八幡みんなの視線が怖いよぅ……なんて余裕もなく、若干焦っている。大いにテンパっている。彼女の隣にいるだけで心臓がドキドキしてきた。やだ、もしかしてこれって、恋?絶対違うわ。ただの緊張だわこれ。ほら、脇の下に冷や汗とか出てきたし。目立つことには全く慣れていない。

 

「んもう、比企谷君のいけず!朝だって夜だって、比企谷君に会いたいからに決まってるでしょう。女の子に言わせないでよっ」

「笑えない冗談は置いといて、さっさと要件言ってくださいよ。大学生と違って暇じゃないんですよ」

「だ、か、ら。比企谷君?いつからそんな嘗めた口きけるようになったのかな?一年も経つとやっぱりだれるもんだね。また『躾』が必要かな?」

「虐めとか拷問を躾と呼ぶのは初めて知りました。教育委員会も真っ青ですね」

「まずはその減らず口から矯正しようね~」

 

 彼女は撫でるように俺の頬に手を添える――ように周りには見えているのだろう。道行く女子から黄色い声が上がり、男子から殺気を感じた。

 が、実際はそれほど心温まるものではない。親指だけで思い切り頬をつねられているだけだ。い、痛い痛い痛い!ちぎれるちぎれるちぎれる!その細っこい体のどこにそんな力があるのか、甚だ疑問である。

 陽乃さんは隠そうともせずに痛がる俺をよそに、また散る桜を眺め、ため息を吐く。

 

「まったく、比企谷君は一年経っても全然成長しないねぇ」

「あんたもな」

 

 今度は足を踏まれた。飛び上がるほど痛かった。

 俺も彼女の足めがけて踏み出すが、あっさりとかわされ、桜の木に顔からつんのめる。彼女はカラカラと笑い、指差す。もうやだこの人。

 

「ほら、成長してない」

「……ほっといてください」

 

 今度は俺が深くため息を吐く。彼女の掌で転がされるのも、いい加減慣れた。

 

「では今日も元気よく行こう!君がいるなら、退屈はしないだろうしね」

 

 俺で遊ぶのに満足したのか、彼女は一人片手を上げて校舎へ向かう。もはや振り返ることは無い。彼女が歩くと自然と生徒がよけ、道が開いた。モーセかよこいつ。

 結局ここに来た理由を説明されていないが、そんなのはいつものことである。俺の意思決定や時間は、俺のものではない。この一年でよくわかった。朝っぱらから呼び出され、さらし者となり、飽きたらポイ。あれ、なんか八幡涙が出てきちゃった。男の子なのに。

 

 と、そんなことよりも。俺は周囲を見て歩を速める。とりあえずは男子ども――主に三年生と思われる――からの射殺すような視線をどう躱すか、それが問題である。

 

 はぁ。何度目かわからないため息とともに、今日も退屈とは程遠い一日が始まる。

 

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃の依頼を受けて、一年。さっきも言ったが、俺のこの一年は悲しきかな、一つの単語で表すことができる。

 

 下僕。

 

 彼女に呼び出されれば放課後休日問わず、どこへでも引っ張りまわされた。と言っても、場所は主に千葉駅周辺か彼女の大学内だ。俺という『彼氏』の存在を周囲にアピールするためであろう。俺から『交際』の動機を訊くことはなかったし、彼女も言おうとはしなかったが、今は大方の理由は察している。

 

 恐らく、俺の知り合いには『交際』のことは気づかれていないと思われる。彼女に呼び出されるときには日ごとに所定の服装に身を包み、髪型も所定のものに変え、眼鏡をかけるように指示されているからだ。半ば仕事着であり、ほとんど変装である。そもそもお前知り合い居ないだろ、とかは誰も幸せにならないから言ってはいけない。ほんとやめて。その技は俺に効く。

 

 そう。彼女に、雪ノ下陽乃に付き合うことは、思ったよりも並大抵のことではなかった。ルールも多いし、制約もある。『陽乃さん』という呼び方もそうだ。俺のことは苗字で呼ぶくせに、自分のことは名前で呼ばせる。俺の方から彼女に惚れている、というポーズだろう。全く、すこぶる性根が歪んでいる。

 

 だが俺は結局、彼女から離れることは無かった。

 

 彼女は決して俺に踏み込み過ぎることは無く、己に踏み込ませることもなかった。初めて会った時と何も変わらない。俺は契約の理由すら聞かず、彼女もそれを語らない。互いに自らの事情に踏み込むことは無い。しかし会う時は言葉遊びに興じ、互いを尊重する。

 そんな歪な関係が一年も続いたのは、やはり楽だったからだろう。そう。彼女の隣にいるのは楽だった。 嘘だらけの関係の中、決して互いに嘘を吐かない。その関係は思ったよりも心地よかった。多分、彼女もそう思っていたと思う。俺は不遜にも小さな確信を得ていた。

 

 その気味の悪い笑みを見ることができるのは、隣にいる俺だけだとすら、思ってしまっていた。

 

 

 

 

 

 

「で、比企谷」

 

 場所は生徒指導室。担任の平塚静は、机の上の作文をトントンと人差し指でたたき、ため息とともに煙を吐く。

 

 朝から魔王の相手をし、日中は同級生の鬱陶しい視線を何とか無視し、ようやく放課後が来た。同級生の中には朝の一幕を見ていた者もいたのだろう。遠巻きに噂をするように指差されるのを感じたが、誰も直接は何も言ってこなかった。当然である。まず、誰も俺の名前知らないだろうからね!

 と思ったら、額に青筋を浮かべた独身教師に呼び出されるとは、これはいよいよ厄日と言って差し支えないだろう。

 

「呼び出された理由は分かるか?」

「生憎ですけど、心当たりがあり過ぎてわかりません」

「君、ちょっとは悪びれたまえ……」

 

 彼女は灰皿に煙草を押し付け、ジト目でこちらを見る。学校で煙草を吸う教師も同じくらい良くないと、八幡思います。

 

「『高校生活を振り返って』のこの作文。誰が大学生がリアクションペーパーにでも書きそうな、捻くれた自分語りをしろと言った?」

「高校生は自分語りも許されないんですか?横暴じゃないですか」

「高校生は青少年だ。『それなり』の言動を大人は求めるものだよ。国語教諭としてならともかく、教育者としてこんな文章に判を押せるか、馬鹿者」

 

 彼女の言いたいことは分かる。『青少年』という言葉の持つ強制力はかなりのものだ。だが待て、俺にだって言い分はある。

 

「でも俺、振り返っても自分しか語ることないんですけど」

「……君、友人はいないのか?」

「まずは貴女の友人の定義から教えてください。話はそれからだ」

 

 声は上ずっていなかっただろうか。平塚先生は今度こそはっきりとため息を吐き、煙草の火を消す。

 

「はぁ。もういい。要するにいないんだな。わかり切ったことを聞いてすまない」

 

 彼女は何かに思い当たったのかチラチラと俺を見て、いかにも恐る恐る続ける。

 

「……彼女とかは、いるのか?」

「……答えたくないです」

「そうか……」

 

 愚問だったな……今度こそ彼女のその目には憐憫がはっきりと浮かぶ。別にいいし。友達も彼女も、作らないんじゃない。作れないだけだ。あれ、それじゃダメじゃね?逆じゃね?

 

 だが。俺は自分自身を少し不思議に思う。どちらの質問にもかつてのように「いない」と断言できないのは、果たしてどういうことなのだろう。

 

「よし、レポートは再提出。それと同時に、友人も彼女もいない憐れな君に、レポートの罰ついでに奉仕活動を命じる」

「奉仕活動?ゴミ拾いとかボランティアとかですか?」

「うーむ、まあ少し内容は違うが、大枠で言えば似たようなものだ」

「……ちなみに拒否権は?」

「ついてきたまえ」

 

 彼女はソファから腰を浮かし、ドアの前に立つ。早くしろ、と言わんばかりに顎を廊下に向ける。

 

 おい、国語教諭。会話が成立してねえぞ。

 

 

 

 

 

 

 連れていかれた先は、特別棟の一角だった。平塚先生はある教室の前で立ち止まる。その教室にはプレートにも何も書かれてはおらず、使われているかどうかも一見定かではない。

 

「入るぞ」

 

 彼女はノックもなくドアに手をかける。まだ心の決まらない俺が止める間もなく、その扉は開かれる。俺は彼女の背中越しに、仲の様子を覗き見る。

 

 扉を開けたそこには、少女がいた。

 

 斜めに差し込む陽だまりの中、彼女は本を読んでいた。柳のように流れる黒髪。意思の強さを感じさせる大きく、鋭い目。背筋に一本芯が通っているような、凛としたその姿。

 

 絵画になってもおかしくないほど、彼女は美しかった。

 

 ただし。

 

「ねぇ、雪乃ちゃーん!無視しないでよーほら、せっかく愛しのお姉さんが来たっていうのにぃ」

「近い……暑苦しいからあまり引っ付かないで、姉さん」

 

 朝見たばかりの魔王がいなければ、だが。

 

「……陽乃。君はこんなところで何をしている」

「あ、静ちゃんだ。何って、雪乃ちゃんの場所教えてくれたの静ちゃんでしょ?」

「静ちゃんはやめろ、ここは学校だ。……そういうことではなく、だな」

 

 平塚先生はチラリと雪ノ下雪乃を見る。彼女らは目を合わせ、同時にため息を吐く。その気持ちは痛いほどわかる。

 

 俺はこの少女を知っている。というより、この少女を知らぬ人間はこの学校内に存在しないだろう。眉目秀麗、成績優秀、運動神経抜群。おおよそこの世の賞賛の言葉は、彼女のためにあると言って差し支えない。完璧な少女。

 

 そして当然に、知っていた。この二人が姉妹であることも。

 

 雪ノ下陽乃はため息を吐く二人を見て頬をかき、珍しく苦笑いを浮かべる。

 

「やだな、静ちゃんも雪乃ちゃんも。可愛い妹に会いたいと思うのが、そんなに不思議なこと?」

「そういうことではなくてだな……」

「そうよ、姉さん。来るなら来るで前もって連絡の一つくらいは……」

 

 ソロリ。文句を言う二人を前に、俺は静かに後ずさる。平塚先生の後ろにいる俺に、彼女たちは気づいた様子はない。雪ノ下陽乃一人でも手に余り過ぎるのに、姉妹でなど冗談ではない。

 

 一人、彼女を除けば。

 

「あれー、比企谷君じゃん」

 

 ギクリ。余りに白々しい声に呼び止められ、肩が震える。恐る恐るその声の主を見れば、見慣れたにやけ面が飛び込んでくる。俺の動揺するさまを見て楽しんでいたのだろう。本当に、ほんっとーに性格が悪いですこの人。

 

「うれし-!わざわざ会いに来てくれたの?」

 

 彼女はツカツカと俺に歩み寄り、殊更その距離を縮める。ちょ、近い近い近い近い。色々当たってるから、色々。ほら、貴女の妹も先生も怪訝そうに見てるから。

 

 雪ノ下雪乃と平塚先生は目を丸くし、問う。

 

「姉さん、そこのぬぼーっとした男と知り合いなの?」

「うむ。まさか君と比企谷が知り合いだとは全く予想外だったが――」

「あ、そっか。言ってなかったっけ」

 

 コホン。咳払いとともに陽乃さんは俺の肩を抱き、花の咲くような笑顔を浮かべる。

 

「こちら、比企谷八幡君」

 

 ちろりと、その真っ赤な舌が唇を舐めた気がした。まずい。

 

 止める暇は、無かった。

 

「私の彼氏だよ」

 

「……は?」

 

 彼女らの疑問符が重なり、教室に静寂が落ちる。俺も内心頭を抱える。この人は、本当に。陽乃さんは悪戯が成功した子供のようにクツクツとのどを鳴らし、呆ける彼女らに止めを刺す。

 

「とびっきり可愛いお姉さんにぴったりの、可愛い子でしょう!」

 

「お、おお。そうだな……君はどこか変わってるし……」

「ええ、そうね。趣味は人それぞれ……」

 

 その台詞には、どこか既視感を感じた。二人は唐突な言葉に頭が働かないのか、陽乃さんの笑顔に気圧されるようにただ頷く。あの、なんか微妙になぜか俺がディスられてるのは気のせいですかね。そうですかね。

 チラリと横の彼女に非難の視線を向けると、能天気にピースサインで応えられる。このアマ。殴りたくなる衝動を、嘆息とともに吐き出す。煙かアルコールか、成人していればのんでいるところだろう。

 

 しかし。俺は目の前の彼女らを見る。学年一の才女に、底の知れない国語教諭。彼女たちがこんな風に呆けるさまを、誰が想像し得るだろうか。少なくとも普通に生活していればそんなことはあるまい。こういうことがあるから、俺は一年も彼女に付き合ってきたのかもしれない。

 

 やはり彼女の隣は、退屈しない。

 


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