照りつける陽が水面を反射する。俺はその光を疎む振りをして、何よりも目の前の『ソレ』から目を逸らす。
「おーい、比企谷くーん」
横から間の抜けた声が俺を呼び、柔らかい感触が俺の腕を襲う。見なくてもわかる、彼女に腕をとられたのだろう。
だめだ。俺はやはり横を見ることができない。これは罠だ。巧妙に仕組まれた罠だ。絶対にそちらを向いてはいけない。向いたが最後、俺のようなボッチ力53万のモンスターDTがどんな情けないツラを晒してしまうか、想像するまでもない。誰がモンスターDTだ。
しかし、魔王にはそんなことは関係ない。
「ちょっと、せっかくこの日のために新調してきたんだから、感想くらい言ってよ」
ねぇねぇねぇねぇ。今度は腕全体に柔らかい何かが覆いかぶさる。ムニュ。そんな感触が腕を妖しく撫でた瞬間、思わずその場から飛びのく。その勢いで思わず目はそちらに行ってしまう。
そこにあるのは、いつもの腹の立つにやけ面だった。
「で、どう?比企谷くん。この水着は、君のお眼鏡にかなうかな?」
雪ノ下陽乃はヒラヒラと舞うパレオのすそを指でつまみ、プールサイドでくるりと一回転する。その瞬間パレオがはだけ、その中身が一瞬あらわになる。周りの男共の視線が一気に集まった気がした。
落ち着け落ち着け落ち着け。中に履いているのはただの水着だし、まして相手はあの魔王、雪ノ下陽乃だ。その外見にだまされるな。やましいことなど何もない。
花弁をあしらった水色のパレオも、フリルのついた白いセパレートの水着も、派手好きな彼女にしては随分とおとなしいものだ。パレオのせいでその完璧なラインの肢体が隠れちょっと残念――などとは、毛ほども思ってはいない。本当である。神に誓って、戸塚の水着姿に誓って、俺は冷静だ。戸塚の水着もセパレートかなぁ・・・・・・・
「ひ、比企谷君。さすがにそこまで遠慮なく見られると、お姉さん恥ずかしいんだけどな・・・・・・」
バッ。音が出るほど激しく首をひねり、それから目を逸らす。い、今のは無意識に目が行ってしまってですね、これは言うなれば男として当然の反応であり、本能であり、煩悩であります。ゆえに俺は、僕は、わたくしは、何もやましいことは考えていないのであります。あれ、本格的に頭の中ぐちゃぐちゃになってきてませんか?
「――だ、か、ら。比企谷君。感想は?」
こつこつとパラソルの柄で地面を叩き、彼女は声を低くする。危ない、どうやら俺の思考はまたしてもあさっての方向に飛んでいっていたらしい。
その声と笑っていない目から察するに、さすがにそろそろグレーゾーンだろう。彼女は『彼氏』の俺に対して、何らかの返答を求めている。仕方ない。俺はつい吐きそうになるため息を何とかかみ殺す。
「あーっと――似合っていないといえば嘘になりますね、ええ。白の水着も花柄のパレオも、なんかそこはかとなく清純っぽくて、見事に腹黒さが隠せてるんじゃないでしょうか、はい。しゃべりさえしなければ深窓の令嬢にも見えると思いますよ、多分」
「比企谷君?喧嘩売ってるなら今すぐにでも買うよ?まずはどの骨からいこっか?大丈夫、人間の骨がいっぱいあるのは、何本か折れても大丈夫なためなんだから――」「とてもよくお似合いだと思います。今日あなたが一番輝いていますよ。よっ、千葉一の美少女!」
「・・・・・・なんか全然嬉しくないんだけど、ま、いっか。合格ってことにしといてあげる。折角の特別な日だしね」
彼女は俺から目を外し、雲ひとつない青空に宣言する。
「今日は嫌になるまで遊びましょう!比企谷君、覚悟はいい?」
「覚悟決まってないので俺はこの辺でお暇したいと――」
ポカン。うぎゃ。誰もが楽しむプールに、物騒な音が響き渡った。
七月最初の日曜日。俺は例によって、かの暴虐悪辣冷血の魔王、雪ノ下陽乃に連れ出されていた。梅雨も明け、ムシムシした湿気とともに襲い来る夏の日差し。活動的かつ享楽的、本能に忠実な彼女がプールに行きたがるのは、なるほど至極自然なことだ。
問題は、場所だった。俺のプール経験といえば、学校のプールか市営のコミュニティーセンターのプール、せいぜいが小学生のころに親に連れられていった、家族向けの流れるプール程度のものだった。
まちがっても、入場料だけで諭吉さんが飛んでいくような、ホテル内のプールではない。
思えば千葉ではなく、わざわざ舞浜駅まで来た時に気づくべきだったのだ。周りを見渡しても大抵が「ウェーイwww」「それあるーwww」「マジ卍でマジマジマジwww」みたいな言語で会話を成り立たせている輩だらけだ。最後のは違うな。
陽乃さんの思惑は知らない。単純に来たかっただけかもしれない。しかし、ため息のひとつ程度は許されないものだろうか。
「・・・・・・・さすがに場違いですね、俺」
「うん、そうだね」
秒速の肯定に、思わず心が折れかける。べ、別にいいもん。わかってはいたもん。自己否定の末に「そんなことないよー」とか言ってほしかったわけじゃないもん。つーかこの人絶対そんなこと言わねえな、馬鹿か俺は。
気づかぬ内に百面相でもしていたのだろうか。陽乃さんは俺の顔を指差して笑う。
だがその目に、俺は背筋が寒くなる。一年も付き合っていれば流石にわかる。
今俺は、彼女の機嫌を損ねた。顔は笑っている。声も楽しそうだ。しかし。
その目が、笑っていないのだ。
「――比企谷君」
「はい」
笑みはそのまま、彼女は俺に一歩近づく。本当は、今すぐ目を逸らすべきなのだと思う。彼女から逃げるために、彼女の主張をすかすために。
だが、俺の体は逃げてはくれない。それは、この一年で彼女に躾られた結果だろうか。俺にはわからない。
彼女はいつでも、俺の目を見て言うのだ。
「場違いだと思うなら、情けないと思うなら。まずは在り方を変えなさい。背筋をのばしなさい。目線は一定に、常に隣にいる私を意識しなさい。手足の先まで神経を届かせなさい」
ああ、もう、ゴミついてる。彼女は爪先立ちになり、俺の髪をいじる。当然彼女の胸元の白が俺の眼に飛び込んでくることとなり、思わず目を逸らす。彼女はそんな俺を今度こそおかしそうに笑い、ポンポンと頭を叩く。
「場に合わせろなんて器用なこと、君には求めてないわ。それは私がやる。ただ、比企谷君。君はいつでも、どこでも。私の隣に居て、恥ずかしくない君でいなさい」
平然と、彼女は言う。彼女が求めることはいつでもひとつだった。それは何よりもわかりやすく、嘘がなく、だからこそ慣れないことでも何でもやって、この一年、彼女の隣に居たのだ。
でも、やはり。改めて思う。
「・・・・・・ハードルたけえんですよ、それ」
「あはは、そうかもね、私、いい女だから」
「普通自分で言うかよ・・・・・・」
「しょうがないでしょ。隣に居るなっさけないへたれでダメダメな男の子が、言ってくれないんだから」
あー、やだやだ。彼女は俺を見て虫を疎むように手を払い、ジト目で見る。何なんだ、その態度は。こっちはあんたの『ごっこ』に休日返上で付き合ってるというのに、流石にここまで言われる理由はないのではないか。そもそも――
思うと同時に、口は開いていた。
「ここにいる程度の女性なんて比べるべくもなく、言うまでもなく――そう、最初から俺が言うまでもない。あんたはかわいいですよ。とびきり」
外面だけはね。小さく、付け加えておく。雪ノ下陽乃は予想だにしていなかったのか、俺が真っ直ぐに放った言葉に、瞳を瞬かせる。たまにはこの女も、赤面すればいい。身悶えればいい。
しかし、臆面もなく彼女は言ってのける。
「言われなくても知ってるよ、そんなこと」
そのキン肉マンより厚い仮面をはがせる時は、果たしてくるのだろうか。
陽乃さんによれば、どうやらここはガーデンプールという代物らしい。高くそびえるホテルと抜けるような青空を背景に、ただっ広いプールが広がる。所々にオブジェクトの岩が配置され、風に揺られる木々は見た目にも涼しげだ。プールサイドには所狭しとパラソルとデッキチェアが並び、イメージとしてはハワイのリゾート地、と言ったところだろうか。
そんなどう見てもリゾートチックな場所で、俺たちはと言えば。
「比企谷くん、いっくよー!」
「あ、はい」
「はいパーーーース!」
「とーす」
「アターーーーーーーック!!!」
「ぐへっ!?」
ビーチバレーに興じていた。
ただし。
「さ、比企谷くん、ボール貸して」
「・・・・・・はい」
「いっくよー!」
「・・・・・・おー」
「返事がちいさーーーーーーーい!」
「おーーーー!」
「よし。いくよ、比企谷君。パース!」
「トース」
「アタァァァァァァァァァァック!!!!」
「ぶべしっ!?」
ひたすら俺がトスを上げ、彼女にアタックされるビーチバレーである。は?自分で言ってて理不尽さに怒りが湧いてくる。なんだこれは。なんなのだこれは。
しかし彼女はそんな俺の怒りも知らず、さも楽しそうにのどを鳴らす。
「あはは!比企谷君かえるがつぶれたみたいな声!おもしろーい!じゃ、もう一回ボール貸して」
「・・・・・・」
ポイ。俺は無言でボールを彼女に返す。ここで逆らっても無駄だ。やるなら、もう少し後。
「じゃ、いっくよー!」
「はい、どうぞ!」
「わぁお、いい返事。やる気出てきたね、比企谷君!」
ええ、出てきましたとも、殺る気が。
「はいパース!」
「ト――アタァァァァァァァァァァァァック!」
いつからバレーボールはトスを上げなければいけないと錯覚していた?
が、
「フン」
「あだぁ!?」
グーパンでアタックに直接カウンターを食らった。この人の化け物じみた運動神経を計算に入れるのを忘れていた。控えめに言ってこの女、人間じゃない。
「ふっふっふ。比企谷君、考えがあっさいよ、相変わらず。そんなんだから成長がないって言うんだって。――ほら、これに懲りたら、も一回ちゃんとビーチバレーしよ?」
「延々と俺の顔面にアタックをぶち込む茶番をビーチバレーというのかあんたは、おい」
「それなら君もアタックするか、私のアタックにカウンターかぶせればいいじゃん。できれば、だけど」
ニヤニヤニヤ。そんな擬音が聞こえてくるような、その腹の立つ笑み。このアマ、人を馬鹿にするのもたいがいにしとけよ。
「いいでしょう。今日こそその精神的厚化粧に、ヒビを入れて差し上げましょう」
「精神的厚化粧って・・・・・・君、いつも私のことそんな風に思ってたの?」
視線が交錯する。しかし、退くわけにはいかない。これはプライドの問題なのだ。ここまでコケにされまくって、いい加減それを許容できるほど、俺は人間ができていない。
「いきますよ、陽乃さん」
「いいよ。おいで、比企谷君」
どこかで派手に水しぶきがあがった。
今ここに、ビーチバレーを介したプライドのぶつかりあいが始まる。
「――っと、もうこんな時間か。そろそろ一休みしよっか、比企谷君」「・・・・・・はい」
その後、俺たちの勝負は水中息止め、鬼ごっこ、かくれんぼ、50m自由形、初心に帰ってバレーなどで行われた。
そして俺は、そのことごとくで完膚なきまでにぼこぼこにされた。
「ま、しょうがないよ、比企谷君。基本性能が違うんだから」
彼女はカラカラと笑い、俺の肩を叩く。くそが、俺とてスペックは悪くないほうなのだ。スポーツはそこそこにはできるし、平均よりは上だろう。その自己評価は体力測定、体育などの数字で証明できる。
俺の誤算はただひとつ。やはり、雪ノ下陽乃は化け物であるということに対する認識不足だろう。
「14時だし、お昼ご飯にしようと思うけど――軽くにしときなさい。後でお楽しみもあるから」
彼女に連れられた先は、プールサイドで料理を提供する場だった。ハンバーガー風ポテト添え、ハワイアンピッツァ、ハワイアンパストラミサンド、ホットドッグパイナップルレリッシュ・・・・・・なんのこっちゃ。
「これとかいいんじゃない?シンプルに冷やしヌードル」
「ああ、それでいいです」
もう、なんでも。そう続かないよう少し苦労した。値段を見れば、これまたちょっと手が止まるくらいの値段だった。
「あ、流石にここは私が出すから。付き合ってくれてるお礼ってことで」
「嫌です」
俺ははっきりと、彼女を否定する。呆れ、諦め、疑問。この問題に当たる度に、彼女からこんな視線を投げられる。珍しい、とても珍しいことだ。彼女と俺はこの瞬間、何よりも相容れられない。分かり合えない。お互いがお互いを否定し合い、平行線の上に彼女が折れる。何度も、何度でもそんなことを繰り返してきた。
変装代、デート代、その他もろもろの諸費用。それが発生するたびに、彼女は言う。自分を利用すればいい、受け入れればいい。雪ノ下陽乃によれば、俺はその程度の功績を、価値を、彼女に残しているらしい。結果には対価が発生しなければならない。だから胸を張ってその対価を受け取るべきだ。彼女はそう俺に繰り返す。
しかし、そんなことは知ったことではない。俺が彼女の横にいるのは、そんな確からしい理由の上ではない。確からしい契約の上ではない。
言葉にできる気はしない。しかしそれを何らかの形――金銭でも、肉体関係でも、彼女の時間、地位や名誉でも。何かでその対価を求めた瞬間、受け取った瞬間。俺は雪ノ下陽乃とは対等ではなくなる。隣にいられなくなる。この歪な関係は、音を立てて崩れ落ち、俺はくず折れる。そんな気がする。
だから、俺は何度でも否定する。彼女を拒絶する。
俺と彼女は別々に会計を済ませ、パラソルの下冷やしヌードルとアサイーボウルを食す。OLかよ。
「・・・・・・ほーんと、この件に関しては折れないよね、君」
「理由のない施しは受けるなって親父に教わってるんで」
「理由、あるんだけどなぁ・・・・・・」
「少なくとも俺にはないんですよ」
まったく、どうしようもなく頑固なんだから。彼女は大きく、深くため息を吐き、やはり俺に諦めの、呆れの、理解不能という視線を送る。
屈折しているかもしれないが、俺はこの瞬間が嫌いじゃない。彼女をやり込めた気になれる、唯一の瞬間だ。もしかしたら俺は彼女のこの顔を見たいがために、彼女の言う『対価』を拒絶し続けているのかもしれない。
「君、いくつかバイトもしてるんでしょ?全く、そんなことさせないために私が出すっていってんのに・・・・・・まあ、気が変わったらいつでも言ってね。これまでの君が私のためにかけた諸費用と、それとは別の報酬は口座にプールしてあるから」
彼女はさらりと新事実を言ってのける。
「あの、初めて聞いたんですけど、なんですかそれ」
「だから、文字通り。もう一年以上でしょ。最初から君は私から何も受け取らなかったから、最初から貯めてあるの。もうかなりの数字になってるよ。君でも流石に面食らうんじゃないかな」
ごくり。思わず生唾を飲み込む。
「ち、ちなみに、その金額っていくらくらいに――」
「比企谷君」
彼女は俺の目を覗き込み、にっこりと笑顔を浮かべる。
「私がそんな、安い女に見える?」
彼女は安くはない。そんなことは俺が一番知っている。
デート代だけで、雪ノ下家から受け取った見舞金など、2ヶ月で消し飛んだのだ。
「いやー、遊んだねー」
「・・・・・・疲れた」
返事も碌に、できなかった。
あの後、約三時間。俺たちはプール、ジャグジー、スライダー、ホテル内のプレールームなどで、とにかく遊び呆けた。折角リゾート風の施設なのだから、プールサイドでゆったりとすればいいと思い、彼女に進言したのだが――
「そんなの、本当のリゾート地でやればいいじゃない。ここは偽物で、模倣よ。でもそれが悪いってわけじゃない。相応の、俗な楽しみ方がある。例えば伊豆の海水浴場で、でかいパラソルを差して、サンオイルを塗りたくって、メラニンがどーたら言ってる人種、どう考えても無粋でしょう?『そういうの』がしたいなら、サイパンでもバリでもハワイでも、今度いきましょう。比企谷君、場所にはそれぞれの楽しみ方があるのよ。銭湯にフェラーリで乗りかけるような恥知らずな人間と私を、一緒にして欲しくないの」
呆れ返るようにため息をつくこのお嬢様を殴りたいと思ったのは、俺だけではないはずだ。こちとらパスポートすらもってねえっつーの。
「ところで比企谷君」
「なんですか」
彼女は自らの腹部を指す。
「お腹の具合はどうかな?」
「どうかといわれれば、まあ空いてますね」
昼はかなり軽かったし、あれだけ遊んだ後だ。実を言えばいつ腹が音を立てるかと気が気ではない。
「よし、じゃあ、BBQとしゃれ込もうか!」
「はい?」
当然、俺の頭は疑問符で埋め尽くされた。
「あははー、プールサイドでBBQとは、これはまた格別だねぇ。花火のひとつでも上がってくれれば言うことはないんだけど」
「ホテルのプールの一角でBBQ・・・・・・そこはかとなく分不相応だ・・・・・・」
日が斜めになってきた、17時半。まだ俺たちは、プールサイドにいる。見れば、ちらほらとカップルやリア充グループが俺たちと同じようにBBQに興じている。
このプールでは、どうやら夜間の間BBQを申し込み制で請け負っているらしい。材料機材を貸し出し、好きに焼いてくれ、というシステムだ。
「そろそろ焼けてきたかな?」
陽乃さんがトング片手に、金網の上のビーフラウンドなんちゃら、ポークバックリブなんちゃら、チキンレッグなんちゃら、エビやパイナップルやナス、夏野菜のなんちゃらをひっくり返していく。こんなに食えんのかよそもそも・・・・・・
「じゃ、比企谷君。コップを掲げて。乾杯といこうか」
「はい」
彼女はハイグラスに注がれたブラッディメアリーを掲げ、俺はジンジャーエールを掲げる。
「さて、何に乾杯しようか」
彼女はこの期に及んで、試すように俺の目を覗き込む。確実に言えることは、俺が気づいているということに、彼女も気づいている。
というか、去年は気づかずにひどい目にあったのだ。忘れるわけがない。
「貴女の二十歳の誕生日に」
「よくできました。私の、『記念すべき』二十歳の誕生日に」
一言多い。彼女は臆面もなくいい、チン、とグラスが高い音を立てる。
「「乾杯」」
声が重なり、グラスの中身がみるみる減る。まてまてまて、飲み慣れない新成人の介抱をする気はないぞ、俺には。
彼女は俺の視線に気づいたのか、ああ、と手をひらひらと振る。
「ん、大丈夫だよ。飲むの初めてってわけじゃないし、多分そんなに弱くはないから。成人するまでは付き合いでしか飲んでないし、自主的に飲むのは初めてだけどね」
「自称弱くないが一番危ないって親父に聞きましたけど」
「あー、それはあるかもねー。いくら飲んでも酔えないから、結局付き合いの場でも私が最後まで残るの。それでもいくら飲んでも酔えなくて、私を俯瞰する私が天井より上のほうにいて。吐くまで一人で飲んで知らないうちに寝て、頭ガンガンのまま目が覚めるの」
「最悪の酔い方じゃねえかおい」
「あはは、私もそう思うよ。でも」
その瞬間、ひやりとした感触が頬を撫でる。彼女のグラスの水滴が、俺の頬を伝って顎を濡らす。
「比企谷君。君となら、お姉さんおいしいお酒が飲めそうな気がする」
「三年後、まだ関係が継続してたら、お願いします」
「相変わらず見た目によらずお堅いんだから、君は」
薄暗く、ホテルの光が妖しくプールを照らす。肉の焼ける音がする。氷がグラスを叩く音がする。彼女の笑う声がする。
これは現実、なのだろうか。
「比企谷君」
その声は、いつもと何も変わらない。彼女に幾度も幾度も幾度も、飽きるほど、そう呼ばれた。だから、わかる。その声にアルコールの影響はない。
彼女はなんでもないように、問う。
「今日、何でここに来たか、わかる?」
不意の問いに、息が詰まった。
おかしいとは思っていた。彼女は今年度に入ってから、何かおかしい。昨年度の彼女は、常に俺との付き合い方の姿勢が一貫していた。
『彼女の大学、ないしは千葉駅周辺でしか会わない』
それは言うまでもなく、彼女の知人に俺という『彼氏』の存在を周知するためだろう。だが今年度に入り、彼女は少しおかしい。
俺の高校の中で必要以上に俺に近づいてみたり、妹に近づいてみたり。ちょくちょくと奉仕部にも顔を出し、今日はこんな知り合いが誰もいないだろう場所にまで俺を連れ出した。
彼女は、面倒ごとが嫌いだ。だからこそ、俺と付き合った一年間、徹底していたのだ。俺に変装をさせ、高校には顔を出さない。彼女は俺との『交際』を周囲にアピールする必要があったのだろうが、俺には全くない。むしろ彼女との『交際』の発覚は、俺にとっては面倒ごとにしかならない。だから、それを今まで自然に秘匿した。
ならば、なぜ。なぜ一年たった今になって、隠すのを止めた。避けるのを止めた。
なぜ、今日。ここに来た。
「簡単なことなんだよ、比企谷君。小学生にだって――ううん、幼稚園児にだってわかる、簡単な理屈」
俺にはわからない。何もわからない。彼女はそれを簡単だという。それに答えを与えるという。
そう。彼女は簡単に言ってのけるのだ。
「親に、妹に、友達に。私の『それ』を勝手に祝われるなんて、気持ち悪いじゃない」
それは、その笑顔は。とても理解できるものではない。社会的にも、道徳的にも。理解してはいけないものとすら思う。
でも、俺はそれに惹かれるのを止められない。
「私を生んだのは親。私の後に生まれたのは妹。私の周りに居たのは友達。でもね、比企谷君」
彼女はうつろな瞳のまま、どこまでも俺に問うのだ。
「それのどこに、私があるのかな?」
問いに対する答えを、当然に俺は持たない。選びうる選択肢は、沈黙しかない。
「親は、いい人。私をここまで育ててくれて、養ってくれて、愛を与えてくれた。感謝しても仕切れないし、返しきれる恩じゃない。
妹のことが、私は大好き。不器用で、弱くて、いつでも私の背中を追っかけてくれる。そんな妹を私は愛したい。愛すべきよ。
友達は、かけがえのない財産。友人はいつだって私を助けてくれるし、私は彼らを助けるでしょう。だから私は、私を好きになってくれる人は、手の届く限り愛することに決めているわ」
暗がりの目じりが、一瞬きらりと光った気がした。
「全部、選ばされたものなんだ、それって。親の求める学校。妹の求める完璧な姉。友達の求める明るい私」
きっと。俺は愚考する。彼女はいつでもそれを求めていて、でも求めるからこそそれは当然に手が届かなくなって。だから、俺はそれを諦めた。
でも、彼女は違う。完璧な彼女は、完璧であろうとする雪ノ下陽乃は。それを諦めることは許されない。諦める己を赦さない。
不幸なことだと思う。彼女は頭が良すぎて、俺は小賢しすぎるから。皆が当たり前に受け入れるそれを、当然に享受できない。
「でもね」
でも。
「君は、比企谷八幡君。君だけは、私が選んだ。私が、私の意志で隣に立つことを選んだ。――嘘をつかなくていい君の隣は、楽だった」
俺は、この人の、雪ノ下陽乃の隣に立ちたいと思った。対等でありたいと思った。
「だから区切りのこの日に、君を選んだの。『選ばされる子ども』から、『人に成る』この日に、君を選んだ。私は、雪ノ下陽乃は。これまでの19年間、いつだって選ばされてきたから」
わかるかな?彼女はわかって欲しいとは思っていないのだろう。事実、俺に彼女のすべてをわかっているなど、到底思わない。それは傲慢というものだ。強欲というものだ。
でも、今。俺は確かに感じている。
俺は、彼女を分かりたい。分かり合いたい。
「私はね、比企谷君」
柔らかいその手が、俺の髪を撫でた。
「私が選んだ君に、君だけに。隣に立ってて欲しいみたい。飽きるまで、永遠に」
ああ、堕ちる。
俺は、そう確信していた。だから俺はこの一年、その眼を見ないようにしてきたのだ。見てしまえば、分かりたいと思ってしまえば、どこまでも引きずりこまれると直感していたから。
彼女は俺を自らの空白にあてがい、俺は彼女を空白にあてがう。それはとても汚いもので、本物とは程遠いだろう。向き合うことを恐れた人間同士の、ただの欺瞞だ。
でも。
気づけば俺は、それを彼女の首にかけていた。
「比企谷君、これ・・・・・・」
それは、ゴールドカラーのひまわりのペンダント。
鈍く光るゴールドのチェーン。同じくゴールドのひまわりの花弁の中心で、鮮やかに緑黄色のカラーストーンのペリドットが揺れる。
それは、渡そうか迷ったもの。プールに上がってから、常にポケットに潜ませていたもの。なぜ俺はそれを今日、この日に選んでしまったのだろう。どう考えても分からない。
でも、これだけは確信していた。
「あんたはひまわりなんて柄じゃないと思うでしょう」
「そうだよ、私はそんなに真っ直ぐに生きてきてない。誰に恥じず、太陽だけを見て生きることなんて、私にはできない」
ああ、だから。だからこそ。いつになく、いつもよりも弱い彼女を見て、俺は思う。
「だから貴女は、ひまわりなんです」
そう。だから彼女は、いつだって陽に憧れて、陽を見て苦しむ。己の昏さと比較して、それでもそれを見ることを止められない。
いつだって陽を見て、真っ直ぐに伸びようともがいている。丁度、その花のように。
「あんたはいつだって、どこだって。陽だけを見てればいい。自分には届かないもんを追い求めて、どこまでも苦しめばいい。でも、保証しましょう。あんたは例えそれが手に入ったって、絶対に満足なんてしない。――それで満足するなら、あんたは今、ここまで苦しんでない」
彼女はうつむいたまま、俺の方を見ることはない。流石に羞恥が邪魔をしようとする。
だが。俺は思う。中学の恋は最低の形で終わり、高校ではそれを諦めた。俺にはいまさら、恥じうるものなど何もない。
この一年。のどに小骨のようにつっかえていた言葉は、自然と口をついて出た。
「それでいい。あんたはどこか遠くを見て、呆けていればいい。俺はあんたが陽を見上げてる時。いつでも隣で、足元を見てます。俺には多分、そのほうが性に合ってる」
だから――続く言葉は、音にはならなかった。目の前の彼女に頭をはたかれ、俺は悶絶する。このアマ、俺がちょっといいこといってるってのに。
「うるさいよ、比企谷君・・・・・・何も知らないくせに」
彼女は首にさげたペンダントを外す。ダラリと力なく、その腕は落ちる。
ああ、それならそれでいい。俺は本気で、そう思った。俺にも彼女にも、互いは鎖のようなものだ。ちょうどそのペンダントのように。もしや、互いに居ないほうがいいのかもしれない。そのほうが、普通に幸せになれるのかもしれない。
だが。
「ふざけないでよ、比企谷君」
彼女はそのペンダントを、俺と彼女の手首に柔らかく巻く。彼女の手と俺のそれが、絡み合う。
「君、勝手に格好良くなりすぎでしょ。・・・・・・一ヵ月後の、君の誕生日。見てなよ」
目に物見せてやるから。彼女はそう笑い、多分、同時に泣いていた。
それならそれでもいい。俺は矛盾しつつ、そうも思った。
正しくないし、嘘だらけの関係。でも、俺も彼女も確信する。
多分、まだ子供の俺たちには、この関係が必要なのだ。
ひまわりの花言葉の一つに「いつもあなたを見ています」というものがあるそうです。これを書いて1年近く経って初めて知りました。なんかちょっと怖いです。