7月7日、土曜日。
今日は午前中に授業が、午後に九校戦の練習が行われる予定だ。なので達也の家でも、平日と同じスケジュールで各自毎朝の日課を進めている。
達也・深雪・水波がほぼ同時に起床し、達也と深雪が九重寺に出掛けるのを見送ってから水波が全員分の朝食作りを開始する。出来上がる少し前に2人が帰宅し、達也が軽く汗を流している間に深雪が朝食作りに合流、達也がリビングに戻って来るのに合わせてメニューが食卓に並べられるという流れだ。
ちなみに文弥と亜夜子の場合、四葉家からの任務があるかどうかに左右される。昨日は特に何も無かったので、このタイミングで身支度を終えた2人がリビングに現れた。5人揃って食卓を囲んで挨拶し一斉に食べ始める光景は、普通の家族と何ら変わりないものに見える。
プルルルル――。
しかしそんな平和な食卓を、1本の電話がぶち壊しにした。
「こんな朝早くに……? 申し訳ありません、少し失礼します」
亜夜子が丁寧に断りを入れてから席を立ち、リビングから姿を消した。電話の内容が気にならないと言えば嘘になるが、とはいえ特に聞き耳を立てるわけでもなく残った4人はそのまま朝食を食べ進める。
「――――はあっ!?」
そして少しして、ドアの向こうから亜夜子の素っ頓狂な声が聞こえた。さすがにこれには4人も食事の手を止め、ドアの方へと視線を向ける。
亜夜子がリビングに戻ってきたのは、それから電話の相手と二言三言ばかり会話を交わした後だった。電話を受ける前と比べて明らかに焦燥感と倦怠感に満ちた表情を浮かべる彼女に、真っ先に文弥が声を掛ける。
「姉さん、大丈夫? 誰からの電話だったの?」
「電話の相手は、黒羽家の者だったわ。……野原先輩の隣に住んでる者からのね」
「えっ!? しんちゃんの隣って、黒羽家の人が住んでるの!?」
初めて聞いた事実に、深雪が驚きの声をあげた。水波も使用人らしく薄い反応ではあるが、その目を驚愕で彩っている。
ただ1人達也だけが、その事実を平然とした顔で受け入れていた。
「……達也さん、知っていたんですの?」
「いや、初耳だ。とはいえ、しんのすけほどの重要人物が住む家をそのまま放置しているとは思っていなかった。さすがに隣の部屋というのは予想外だったけどな」
「左右と上下の部屋は、黒羽の者が押さえてありますわ。――もっとも、他の部屋や近所の物件には、他の家の息が掛かっている方がお住まいのようですが」
目の奥に剣呑な光を宿らせていた亜夜子が、ふと我に返ってその光を消した。
「っと、そんなことを言ってる場合じゃないですわ。――その者からの電話で分かったのですが、今日野原先輩は学校を休むつもりのようです」
「学校を休む? 何か用事ということか」
「えぇ。その者からの報告によると、既にリニア列車に搭乗しているとのことです」
「リニア列車……ということは、長距離での移動か。どこに?」
「おそらく、奈良かと思われます。――
「――まさか」
その人物に思い至ったのか、達也の目が徐々に見開かれていく。
亜夜子は1回大きく頷き、答えを告げる。
「その方とは、――“老師”九島烈殿です」
* * *
「おぉっ! 速い速~い!」
奈良に向かうリニア列車の個室にて、しんのすけが窓に顔をべったりと貼り付けて、高速で流れていく景色を眺めてはしゃいでいた。
バスや
近距離の航空機並みにスピードを出しながら、個室となっている客席にはほとんど振動が伝わっていない。地上交通機関が少人数分散型に移行して久しい現代ではバスに乗ることすら珍しく、まして完全に個室となっている列車など乗る機会すら限られる。
「はははっ、気に入ってもらえたようで何よりだよ」
それこそ、しんのすけの正面の席で微笑を携える烈の姿も相まって、祖父と孫が家族旅行をしているようにしか見えないだろう。
そうして一頻り景色を満喫したしんのすけが、窓から離れていそいそとテーブルに置かれたビニール袋へと手を伸ばした。そこには先程駅で購入した弁当が入っており、俵型に区切られた白米の上には杏、横にはシウマイ・鮪の漬け焼・蒲鉾・鶏の唐揚げ・玉子焼き・筍煮・切り昆布&千切り生姜と数多くの料理が詰め込まれている。
「おや、もう食べるのかい?」
「これを食べるために朝ご飯を抜いてきましたからな。やっぱり電車での長旅にはお弁当でしょ」
「ほう、そういうものなのか」
「それじゃ、ごちそうさまー!」
割り箸を持って元気に挨拶をして弁当を食べ始めるしんのすけを、烈は興味深そうに眺めていた。ちなみに挨拶の後、しんのすけが一瞬だけチラリと烈へ視線を向け、特に何も言わない彼の様子に小さく溜息を漏らしたことを追記しておく。
と、しんのすけが最初のシウマイに箸を伸ばしたところで、烈の携帯端末が震えて着信を知らせてきた。
「少し失礼するよ」
「ほいほい」
丁寧に断りを入れてから席を立ち、ドアへと歩いていく。
と、烈が視線だけを後ろへと向けた。
正確には、しんのすけの脇に置かれた大きなボストンバッグへと。
「…………」
そうして廊下に出てドアの横に立つ黒服に目配せをしてから少し歩き、そこでようやく携帯端末を操作して通話状態にした。
「もしもし」
『七草です』
烈の発言からほとんど間を空けず、電話してきた相手――七草家当主・七草弘一が名乗った。最低限で端的なそれは普段からの特徴ではあるが、普段ならばもっと緩やかなスピードで喋るし間もしっかりと空けるはずだ、と烈は感じた。
『先生、どういうおつもりですか?』
そして、普段ならばもっと間接的な言い回しを好むはずだ、とも感じた。
「何のことを言っているのかね?」
『現在先生が行動を共にしている野原しんのすけのことです。彼と直接的・私的な接触を図り、ましてや九島家の本拠地である奈良へ連れて行く理由をお聞かせ頂きたいのですが』
「なぜ君が、それを気にするのかね」
『我々のような立場のある者が彼と接触することの影響を、先生が知らないはずがない。去年の九校戦ならばまだしも、先生の行動は彼を自身の陣営へと引き込もうとしていると受け取られかねません』
「彼がそう簡単に与することのできる存在でないことは、君だって分かっていることだろう」
『問題はそこではありません。彼に対して直接的な行動に出た際の“影響”を危惧しているのです。特に先生の立場でそれをされると、影響の規模も大きくなると予想されます』
ふむ、と烈は顎に手を当てて思案顔になる。
そして、口を開いた。
「君が春に魔法師を対象としたネガティブキャンペーンを仕掛けようとしたとき、野原しんのすけへの影響を危惧した私に対し、君は何と言ったかな?」
『…………』
「彼が何者にも縛られず自由でいられるために行うことでもある、そう答えていたと私は記憶している。――ならば私も答えよう。私が今こうしているのは、彼が何者にも縛られず自由でいられるために必要なことだと」
『具体的には?』
「それを君に教える必要性を感じない。私が君の計画を認可する立場ではないように、君も私の計画を認可する立場ではない」
『…………』
数秒待っても、弘一からの返答は無かった。
「あまり彼を待たせるのも不自然だ。切らせてもらう」
それだけ言い残し、烈は電話を切った。
小さく息を吐き、彼はそのまま個室に戻ろうとして、
「失礼します。十文字家のご当主よりお電話です」
「……そうか」
烈は一瞬遅れて返事をして、黒服の持つ携帯端末を手に取った。
* * *
学校に午前中の授業を休む旨を連絡した後、達也と深雪は再び九重寺へと向かった。
「朝の鍛錬から間を空けず、失礼します」
「構わないよ。じゃあ、中で話そうか」
僧坊の階段から腰を上げて中へと入っていく八雲の背中を、達也は若干白けた目で見つめていた。小さく溜息を吐いて目を伏せると、地面に転がる八雲の弟子達が視界に入る。
相談したいことがあると八雲に伝えたのが、学校に連絡を入れた直後のこと。大事な相談であると念押ししていたし、そもそも日課の朝練は既に終えていたはずなのだが、山門を潜った途端に八雲の弟子達が一斉に襲い掛かってきたのである。
そして達也は普段よりも容赦無く叩き伏せ、飄々とする八雲の後を追った。そんな達也の後ろを、深雪が寄り添うように続く。
2人が入った瞬間、扉が自動的に閉められた。魔法の形跡は感じなかったが、単純に弟子が外から閉めたのかもしれない。窓も全て閉められているため、空間の密閉度がかなり高い。
壁一面のロウソクに灯が
「結界ですか?」
「内緒話だからね」
短く肯定する八雲に、達也が深雪に目配せした。
彼女は即座にCADを操作して、電磁波と音波を完全遮断する障壁を構築する。
「師匠、この度は面倒な案件を持ち込んでしまい、申し訳ございません」
「気にすることは無いよ。この件は僕にとっても放っておける内容ではない」
深く頭を下げる達也と深雪に対し、八雲は軽く手をかざしてそう答えた。普段から色々と煙に巻く言動の多い八雲ではあるが、この台詞に関しては嘘偽らざる本音であった。
しかし彼の場合、その理由は野原しんのすけの方ではなかった。
「それにしても、九島も随分と危険な賭けに出たものだね。いや、それとも九島烈個人の行動か? いずれにせよ、彼にはそれだけの賭けに出なきゃいけない“事情”があるわけだ」
「その事情について、師匠は何か心当たりがお有りですか?」
「うーん、何とも。ここ数ヶ月、旧第九研で何かを開発しているらしいけど、それと関係あるかどうかは分からないな」
「旧第九研で? そちらについては?」
「“P兵器”という
普段通り仮面のような微笑を浮かべる八雲だが、その声色には極めて不本意であるという感情が滲み出ているように達也は感じた。
「分からないという点では、九校戦の競技変更も同じだよ。スティープルチェースは他の競技とは比べ物にならないほど危険なものだ。いくら魔法科高校の生徒とはいえ、専門的な訓練を受けていない者がいきなり挑戦して良いものであるはずがない」
「やはり先生も、そうお考えなのですね」
相槌を打つ深雪の声は、微かに震えていた。地下深くで鳴動するマグマのような、激しい憤りを秘めたものだった。
「その辺も併せて九島の思惑を探るためにも、本当ならば今すぐにでも奈良に向かいたいところだけど……。さすがに無策で“物語の中心地”に飛び込む勇気は無いなぁ」
「師匠でも、そのように考えますか」
「逆だよ。僕だからこそ、さ。君達と違って、僕は彼と友好関係を築いていない」
確かに八雲は、しんのすけに存在すら認知されていない。そんな人間に対して“主人公補正”がどのように作用するか予想できない以上、下手に首を突っ込むのは避けた方が賢明だろう。
「なぁに、案外彼のおかげで、九島が何を企んでいるかあっさり分かるかもしれないよ。僕達が探るのは、彼が奈良から帰ってからでも全然遅くはないさ」
「ですが師匠、しんのすけの身に危険が及ぶかもしれません」
「万一そうなれば、尚更僕らが急ぐ必要は無い。彼が奈良から戻る頃には、どうせ
つまるところ今の自分達にできるのは、安全圏からその様子を見守ることだけのようだ。
それこそ、スクリーンの前に座る観客のように。
* * *
奈良駅を到着したしんのすけと烈は、コミューターに乗って
生駒山東山麓にある九島家本邸は、
しかし門を潜ったしんのすけを迎えたのは、高さ2メートルほどの生垣で作られた迷路だった。それはまさしく招かれざる客を拒む絡繰り屋敷か、あるいは城塞建築が本格化する前の軍事的な意味合いを兼ねた領主の館か。
「おぉっ! 何だか面白いゾ!」
だがしんのすけにはそのような意図は伝わらず、遊園地のアトラクションか何かとしか感じていないようだ。生垣の迷路に感嘆の声をあげ、わざと行き止まりに行き着くよう走り回ったりしていた。そして彼の後ろを、烈が微笑ましげな表情と共について来る。
「大袈裟な代物に見えるだろうが、この迷路には旧第九研の研究成果が組み込まれている。当時の政府からここに屋敷を構えるよう命令されてから、少しずつ改良を加えていったんだ」
「えっ、自分でここに住もうとしたんじゃないの? なんで?」
「我々に大阪を監視させるためさ。国際商業都市だけあって外国人の行き来に寛容で居住も容易だから、魔法師工作員を監視する役割が欲しかったんだよ」
「だったら大阪に住めば良いじゃない」
「近すぎると取り込まれる恐れがある。つまり政府は、我々の裏切りを警戒していたのさ」
しんのすけが「ほうほう」と頷いている間に玄関へと辿り着き、何も触っていないのに扉が勝手に開かれた。とはいえ別に機械や魔法的仕組みによるものではなく、単純に使用人がタイミングを見計らって中から開けただけである。
「ちょうど昼時だ。昼食を用意したんだが、良かったらどうだろうか?」
「んじゃ、いただきますかぁ」
日本魔法師界の重鎮である九島烈からの昼食の誘いに、これだけフランクな態度で応じられる者はそうそういないだろう。大抵の者は彼に対して委縮するか警戒するか、あるいは崇拝するかのいずれかに分けられるのだから。
「あぁ、そうそう」
と、長い廊下を歩く途中で、烈がふと思い出したかのように声をあげた。
「私には君と同じくらいの歳の孫がいてね、せっかくだから一緒に食事でもと思っているんだが、どうかね?」
「ふーん。別に良いゾ」
しんのすけの何でもない返事に、烈は「そうかね」と頷いた。そのときの微笑みは彼にしては珍しい、裏の無い純粋なものだった。
九島邸には食堂が幾つかあるが、今回案内されたのは子供用のカジュアルな装いのそれだった。子供用といっても小児用という意味ではなく、親族に連れて来られた未成年が親睦を深めるためのもので、逆に言えば烈が普段利用するような場所ではない。つまりこれは公的な食事会ではなく、そしてこちらから歩み寄る意思があるという意味を含んでいるのだが、しんのすけにそれが伝わっているかというと甚だ疑問だ。
さりげなく傍に控えていた使用人が食堂のドアを開け、烈を先頭として2人が室内へと入る。
「待たせてしまったかね、――
「いいえ、お
先に席に着いていたその少年は、有り体な表現をするならば“目を見張る美形”だった。美形といっても女性的な印象は無く、神秘的とも称せるほどの“美少年”だ。もしこの場に達也がいれば、一切の世辞抜きで“深雪と同質の美しさを持つ者”という評価を下すだろう。
「初めまして、野原しんのすけさん。九島家当主・九島
「これはこれはご丁寧に。野原しんのすけだゾ」
「去年の九校戦での野原さんのご活躍、中継映像で拝見しました。お会いできて嬉しいです」
「ほうほう。つまりオラのファンだと」
「はい、その通りです! 今年の九校戦も、ご活躍を期待しています!」
「なかなか見所があるお孫さんですなぁ」
すっかり気を良くした様子で話し掛けてくるしんのすけに、烈も一層笑みを深くしていた。その笑みには満足そうな、そしてどこかホッと胸を撫で下ろすかのような印象が内包されていた。
しかし、しんのすけは言わずもがな、光宣も同世代の少年との交友に夢中で気づかなかった。
奈良に住んでいるから食事も和食なのかとしんのすけは勝手に思っていたが、洋風屋敷に合わせたのかメニューは典型的な洋食だった。そしてコース料理というわけでもなく、複数の料理を一度にテーブルに並べている。こういったところでも、この場が格式張ったものではないことをアピールしているのだろう。
勿論しんのすけがそういった気遣いに気づくはずもなく、そもそも気にするはずもなく、目の前に出された料理をモリモリ食べながら同世代である光宣との談笑に花を咲かせていた。
「えっ!? 去年の横浜侵攻は、野原さん1人を誘拐するためだけに起こされたんですか!?」
「うん、あいちゃんがそんなことを話してたゾ。なんで狙われたのかは全然憶えてないけど」
「そんなことのためにあれほどの事件を起こすだなんて……。やはり大亜連合の連中は危険ですね、早い内に手を打たないと……」
「ダイジョーブ! オラがアクション仮面に変身して悪い奴らを退治したから!」
「アクション仮面って、あの特撮ですよね? 野原さん、アクション仮面になれるんですか!?」
「オラの魔法は、アクション仮面をイメージしたものだからね。ボーちゃんが作ってくれたスーツがあれば、もっとそれっぽくなるんだけど――」
「ボーちゃん、というのは?」
「オラの友達で、あいちゃんの会社で働いてるんだゾ。でも年齢がどうのこうのって決まりがあるらしいから正社員じゃなくて、会社の中でも一部の人にしか知らされてないんだって。でもお金はいっぱい貰ってるんだって、羨ましいですなぁ」
しかしその内容は、“談笑”にしては聞き捨てならない重要な情報のオンパレードだった。烈ですら把握していない情報も中には含まれていて、横でそれを聞いている烈の口元が先程からヒクヒクと引き攣っている。
そしてそんな内容の話を、光宣は高校1年生にしては随分と
そうしてデザートも食べ終え、食後のお茶を飲んで一息吐いた頃、
「打ち解けてくれたようで何よりだ」
「はい、お祖父様。とても楽しいです」
「そうかそうか、それは良かった。ところで――」
しんのすけと光宣の両方を視界に据えて、烈が“提案”を口にする。
「本当ならば彼を連れて観光案内でもと思ったんだが、急な用事が入ってしまってな。光宣の都合が付けばで構わないんだが――」
「はい、お任せください! 野原さん、僕が案内致しますが宜しいですか?」
「オラはそれで良いゾ。若い者同士、水入らずで行くとしますか」
「あはは、まるでお見合いみたいですね」
「すまないね、野原くん。夕食までには間に合うから、それまでは光宣を宜しく頼むよ」
「ほいほーい」
軽く手を挙げて答えるしんのすけに、烈は笑みを深くした。
「…………?」
光宣は、今度は見逃さなかった。
「野原さん、こちらへ。車を用意してあります」
「おぉっ!」
光宣が用意した(正確には光宣が家の者に用意させた)のは、黒塗りの高級車であり金持ちの代名詞とも言えるリムジンだった。酢乙女あいの持つそれには幾度となく乗ったことのあるしんのすけだが、何回乗っても飽きないのか素直に感嘆の声をあげていた。とはいえ光宣にそれを見せびらかす意識は無く、それはしんのすけの反応にキョトンと小首を傾げている様子からも分かる。
とりあえず2人は車に乗り込み、向かい合わせに腰を下ろした。充分な広さがあるため膝がぶつかることもなく、シートのクッション性も心地よく実に快適だ。
「……野原さん、そちらの鞄も持って行かれるのですか?」
「あぁ、どうもお構いなく」
町中を観光するには邪魔になるであろうボストンバックを提げたしんのすけの返答に、光宣は何か言いたげに口を開きかけるも小さく首を横に振って運転手に出発するよう命じた。車の性能によるものか、それとも運転手の技術の賜物か、ほとんど揺れが感じられない。
「それで野原さん、どこかご希望はありますか?」
「ベタベタな観光がしたいなぁ。鹿を見て、大仏見て、神社見たい」
「それだと奈良公園になりますね、東大寺も春日大社もありますし。でも、そうかぁ……」
奈良観光でおそらく真っ先に挙がるであろう名所を並べた光宣が、何やら顎に手を当てて思案顔になった。
「どうしたの?」
「……いえ、大丈夫です。心配はいりません」
まったく大丈夫とは思えない不安げな表情で答える光宣に、それでもしんのすけは「ふーん」と特に追及することなく引き下がった。
と、光宣が唐突に話題を変える。
「ところで野原さん、今ってCADはお持ちですか?」
「おっ? 持ってるゾ」
光宣の質問に、しんのすけは自身のシャツをベロリと上げて答えた。引き締まった腹筋と共に、バックルが大きいベルトが顔を出す。
すると光宣が、若干興奮した様子で身を乗り出してそれに注目した。傍目には怪しげに見える光景だが、もちろん光宣の興味の対象は腹筋ではない。
「これが九校戦でも使っていたベルト型の音声起動式CADですか!」
「大会で使ってたのは達也くんが作ったヤツで、これはあいちゃんから貰ったヤツだけどね」
「さすが世界企業の一人娘、これだけのハイグレード品を用意できるとは……。いや、確かに野原さんほどの魔法の腕ならば、これだけの性能でなければ務まらないでしょうね」
「そう言う光宣くんはどんなの?」
「僕ですか? これです」
光宣はそう言って、
「ほうほう、2つ持ってるんだ」
「99個じゃ足りないので……。類似の起動式を整理すれば良いのは分かってるんですが、なかなか良い技術者が見つからないんですよ。それに両手でCADを操作するのが大変で」
「だったら、達也くんに相談してみれば? 達也くんも風紀委員のときに2つCADを使ってたから、何かコツとか知ってるかも」
「達也くん……というのは、モノリスで一緒のチームだった司波達也さんのことですか?」
「そうそう。それに達也くんのお父さんが働いてる会社で、手を使わずにCADを操作する新商品を作ってるみたいだし」
「手を使わず……というのは、もしかして“完全思考操作型”のことですか?」
光宣の問い掛けに、しんのすけは「そんな名前だったかも」と曖昧な答えを返す。
「そうですか……。少し前にローゼンが世界初を謳って出した物を使ってはみたんですが、
「達也くんの方は大丈夫じゃない? 1回使ったことあるけど、ペンダントだったから気にならなかったし、使ってて使いにくい感じはしなかったゾ」
「えっ、もう完成してるんですか? しかも野原さんがモニターを?」
「達也くんに頼まれたんだゾ。お父さんがお偉いさんで、自分の所に回ってきたから使ってみるかって言われて」
「へぇ……。野原さんのお眼鏡に叶う代物だというなら、試してみる価値はありそうですね」
「それが良いゾ。――それにしても、達也くんもあいちゃんもそうだけど、そういうコネって便利で羨ましいゾ~。光宣くんも、そういうのってあるの?」
「いや、僕はどうでしょうね……?」
苦笑いでしんのすけの問いに答える裏側で、光宣は頭の中でこんなことを考えていた。
――さすがに普通の観光客に紛れれば“伝統派”がちょっかいを掛けてくることは無いでしょう。それにいざとなれば、僕が野原さんをお守りすれば良いですし。
2人を乗せたリムジンが、奈良公園へと向かっていく。
「野原さんは、その完全思考操作型CADが発売されれば普段使いする予定なんですか?」
「えっ? オラはしないゾ」
「そうなんですか? そのベルト型って音声認識ですよね? 声を出さずに動かせる方が相手にも悟られないし便利なのでは?」
「声を出さないで技を出すなんて、アクション仮面の雰囲気が出ないじゃん」
「…………成程」