日本魔法協会は国際魔法協会の下部組織であり、日本の魔法師の互助組織である。日本の法律では本人の意志に関係無く魔法師のライセンスを取得した者は日本魔法協会の所属となり、そしてそれはライセンス取得前の魔法大学付属高校生徒にも適用される。
と、このような仕組みであるために勘違いされることが多いのだが、日本魔法協会はけっして魔法師を統括するような組織ではない。あくまで個々の魔法師を代表して政府機関に対して利害を代弁する組織であり、だからこそその会長職も百家の
現在の会長は、
「…………」
そんな彼女は現在、京都にある本部の一室に置かれたモニターの前で人生最大の緊張感に襲われていた。ほとんど名誉職で大した仕事も無いから、と軽い気持ちで引き受けた先月の自分を思いっきり殴り飛ばしたい気持ちだった。
彼女に対して
日本魔法協会の会長が持つ特別な権限。
それは十師族各当主に向けた“緊急師族会議”の招集要請である。
「……皆様、お忙しい中、かくも速やかにお集まりいただきありがとうございます」
事前に呼び掛けた時刻になった途端に映し出された11人の人物に、翡翠が絞り出すような声で切り出した。
そして彼女の言葉に対し、その11名が視線だけで応える。
短く刈り込んだ髪に筋肉質で日に焼けた肌と、男臭い風貌をしている一条家当主・
高級旅館の女将とも思える、穏やかながら目に力強い光が込められた二木家当主・
太い眉に恰幅の良い体格と、見る者に威圧感を与える三矢家当主・
年齢不詳の美貌を携えて微笑みを浮かべる四葉家当主・
整ってはいるが地味で垢抜けないビジネスマンといった印象の五輪家当主・
優秀なキャリアウーマンといった風貌で、この中では最年少の28歳である六塚家当主・
サングラスの奥にその目を隠して不敵な笑みを携える七草家当主・
大学講師という
63歳という年齢を抜きにしても覇気の無さを拭えない九島家当主・
最後に、武士然とした雄々しい力強さを感じさせる十文字家当主・
十師族はあくまで私的な枠組であって、日本の魔法師、ひいては日本魔法界の“支配者”というわけではない。しかし日本魔法界の“リーダー”であるという表現ならば、それを否定する者はまずいないだろう。烈だけは十師族当主ではないが、彼の功績を考えればそれだけの理由で蔑ろにできるような人物ではないというのも日本魔法師共通の認識だろう。
つまり翡翠の目の前にあるモニター越しに集まっている人物は、間違いなく日本魔法師を代表する面々だということだ。ましてやそんな人物を(本人の意思はどうであれ)取り纏める立場に選ばれたともなれば、プレッシャーやら何やらで彼女の胃がキリキリと痛んでも致し方ない。
『
微笑みを浮かべながらの弘一の発言に、翡翠は思わず「アンタが真っ先に師族会議を開くよう言ってきたんだろうが!」と言いたい衝動に駆られるが、すんでのところでそれを堪えて小さく深呼吸をしてからそれに応える。
「今回の議題は、老師の……野原しんのすけ? に対する独断での接触、並びに接待とも取れる一連の行動に関して、です」
『ということですが……先生、何が狙いなのか我々に教えてくださいますか?』
七草弘一が会議全体の主導権を握っているかのような振る舞いで烈に問い掛けるが、彼がそれに答えるよりも前に六塚温子が横から割って入ってきた。
『失礼、老師。その前に伺いたいのですが、現在彼はどちらに?』
彼女のせいで出鼻を挫かれた形となった弘一だが、それに対して不機嫌になったりなどの反応は見られなかった。いや、本当は何か思うところはあったのかもしれないが、他の当主も気になっている素振りだったので一旦引くことにしたのだろう。
『彼は現在、私の孫である
『光宣殿というと……失礼ですが、体調は如何でしょうか?』
『幸いなことに、今日は調子が良いようだ。彼と一緒に家を出るときも、実に楽しそうな様子だったよ』
そう言って満足げに笑ってみせる烈の姿は、孫の交流を嬉しく思う好々爺といった表現がお似合いのように見える。
しかし相手の裏を読むことを求められる十師族当主達は、それが野原しんのすけと自身の孫との親密な関係をアピールしているように思えた。
『共に食事をして語らい、その後に観光案内ですか。まるで外国の要人を迎える政府のようなもてなしですな』
『そのような例えをされてしまうと、何か締結したい条約でもあるのかと勘ぐってしまいますね』
一条剛毅の含みのある言葉に、二木舞衣がにこやかな笑みに冷たいものを隠したような声色で合の手を入れる。
そうしてしばらく探りを入れる時間になるかと思われたが、ここでいきなり踏み込んでくる者がいた。
『そういえば先生、今年の2月15日から16日未明に掛けて、例の遊園地で先生をお見掛けした者がいるのですが、あちらにはどのようなご用事で?』
『――――!』
その人物――真夜の問い掛けに、他の(一部を除く)当主達から息を呑む雰囲気がモニター越しでも伝わってきた。
『あの事件のとき、老師がまさにその現場にいらっしゃったということか!?』
『四葉殿、それは確かな情報なのでしょうか?』
『えぇ、家の者が確認しております。ちなみに数名の部下を従えてはおりましたが、実質お1人で来園されたご様子でしたわ』
『老師、ぜひとも理由をお聞かせ願えませんか? このような言い方は失礼かもしれませんが、老師がお1人でいらっしゃるような場所とは思えません』
『まさか今回の一件も、それと関連があるということなのですか!?』
真夜の投下した情報により、他の当主達もにわかに騒めき出してきた。それまでは内容こそ気になるものの緊急性を疑問視していた者が何人かいたのが、具体的な懸案事項が出てきたことで現実味のある焦燥感を帯びてきたといった感じだ。
『…………』
矢継ぎ早に放たれる当主達の質問を一身に受けながら、尚も烈の表情は不敵な笑みを浮かべたままだった。
* * *
奈良公園は東大寺や春日大社と隣接する都市公園であり、1000頭を超える鹿が徘遊する光景が日本のみならず世界でも有名だ。この公園に生息する鹿は国の天然記念物にも指定される野生動物であるが、人の手により角切りや餌付けをされているため無主物ではなく、春日大社の占有物として野生の鹿とは区別されている。
この鹿は春日大社の神使であり、春日大社が創建された際に茨城県にある鹿島神宮の祭神・
「ほれほれ~、鹿
もっとも、しんのすけにとってそういった歴史には微塵も興味が無く、先程購入した鹿煎餅を目の前にいる鹿の鼻先に向けていた。鹿はヒクヒクと鼻を動かし、やがて大きく口を開けてそれに齧りつく。
「おぉっ、食べたゾ光宣くん! いやぁ、こうして見ると鹿もなかなか可愛いものですなぁ。どれどれもう1枚――おぉっ! 他の鹿も集まりだしたゾ。ほらほら、ちゃんとみんなの分はこうしてあるから、ちゃんと1頭ずつ並んで――うわぁ! みんなこっちに向かってくるゾ!」
「あははっ、観光客の皆さんが一度は驚くヤツですね」
鹿煎餅を目掛けて一斉に襲い掛かってくる鹿の群れに、しんのすけが悲鳴をあげながら呑み込まれていった。そしてそんな光景を、光宣は助けるでもなく慌てるでもなく笑いながら眺めるのみである。見た目は純真無垢な美少年だが、実は意外と良い性格をしているのかもしれない。
そうしてしんのすけが鹿と格闘している間、光宣は先程までの朗らかな笑顔から一転、目つきを鋭くして辺りを見渡した。人気の観光地で学生は夏休みということもあり、性別や年齢、果ては人種の区別無く大勢の人々が行き交い、あるいは同じように鹿に煎餅を与えている。
「…………」
そうして一通り見渡した後、光宣の視線が最後に行き着いたのは、しんのすけが鹿と戯れるために一旦地面に置いた大きな鞄だった。小旅行の荷物をそのまま持って来たのかと思うほどに大きなそれは、これから寺や神社を参拝するのにはどう考えても邪魔なものであり、車で来たのならばそこに置いておくのが普通だろう。
しばらくそれをジッと眺めていた光宣だが、やがて恐る恐るといった感じで鞄に向けて腕を伸ばしていき、
「いやぁ、酷い目に遭ったゾ」
「お、お疲れのようですね!」
煎餅を全て奪われるという形で鹿との格闘を終えたしんのすけが、随分とくたびれた様子で光宣の所へと戻ってきた。光宣は伸ばしていた腕を即座に引っ込めて、笑顔と共に彼を出迎える。
しんのすけが地面に置いた鞄を取ったのは、その直後のことだった。
「んじゃ、そろそろ行きますかぁ」
「そうですね。東大寺と春日大社、どちらから向かいます?」
「んーと……、じゃあ神社の方で」
「分かりました、こっちです」
光宣の案内で、しんのすけは春日山遊歩道へ向けて歩き出した。21世紀前半頃までは車に乗ったまま山域に入れるドライブウェイもあったのだが、現在は歩道のみとなっている。現代魔法が生み出され、それ以前から存在した古式魔法が明るみとなったことで、目に見えない神聖なものに対する“畏れ”が復活したのが理由だろう。
「おっ、何か小さい神社があるゾ」
「浮雲神社ですね。ここも春日大社の
「ふーん。こんな小さい建物で、神様は窮屈じゃないのかな?」
「神を祭るのに必要な形式が揃っていれば、それは立派なお
スラスラと淀み無く紡がれる光宣の解説に、しんのすけはどこまで理解しているのか「ほうほう」と頷きながら前へと進んでいく。
そうして遊歩道の入口前にまで差し掛かった、そのとき、
「――――野原さん、止まってください」
「おっ?」
ほのぼのとした雰囲気だった光宣が目つきを鋭くし、警戒心を露わにして周囲を見渡す。そんな彼の豹変ぶりに、しんのすけも怪訝な表情でその場に留まっている。
2人の周辺には、特に怪しい人影は見当たらない。
いや、だからこそ逆に怪しいという状況だった。
休日で大勢の観光客で賑わっているはずの奈良公園で、今の2人の周りには誰もいなかった。遠くから人々の声が聞こえてくるが、ここだけは小鳥の囀りさえ聞こえるほどに静まり返っている。
「精神干渉魔法、――結界です」
「?」
光宣が険しい顔でそう告げるが、しんのすけはピンと来ていない様子だ。
「魔法の出力を最小限に絞って、ギリギリまでこちらに気づかせないようにしていたようです。瞬間的に作用するものが主流の現代魔法とは違う、古式魔法ならではの発想と言えるでしょう」
「それで?」
「向こうは我々が気づくより前に仕掛けるつもりだったのでしょう。なので今の状況は、向こうにとっても予想外だったと言えます」
「つまり?」
しんのすけの問い掛けと同時、木々の陰で気配がザワリと揺れる。
「――来ます! 構えてください!」
その瞬間、木々の隙間から銀色の何かが飛び出した。さすがに銃弾ほどではないがそれでも常人では反応すらできないほどの速さで、それはしんのすけへとまっすぐ向かっていく。
「おっ?」
「“トッペマ・マペット”!」
だがしんのすけはそれに反応して振り返り、そして少女の声と共に半透明のシールドが彼を包み込むように現れた。銀色の何か――金属製のダーツ弾(フレシェット弾)はそれに行く手を阻まれ、魔法による推進力を失ったそれが地面へと落ちていく。
と、その直後、鞄のチャックを開けてトッペマが顔を出してきた。
「しんちゃん! どこから飛んできた!?」
「あれっ? トッペマ、顔を出して良いの?」
「良いの! で、どこ!?」
「あっち」
しんのすけが正確にフレシェット弾の飛んできた方向を指差し、
「“トッペマ・マペット”!」
トッペマが自身の名を冠した呪文を叫び、緑色の魔法弾を右手から発射した。魔法弾は彼の指差した方へとまっすぐ飛んで木々の隙間へと消えていき、そして直後に「ぐえっ!」と小さな悲鳴があがった。
その光景を、幽霊でも見たかのような唖然とした表情で眺めていた光宣だが、ふと我に返ってそれとは反対方向の木々へと向き直る。
「野原さんはそこで待っててください」
光宣がそう言い残し、そちらへと歩き始めた。それは実にゆっくりとした足取りで、まるで攻撃を誘っているようだった。
そして彼の目論見通り、激しい攻撃が木々の隙間から襲い掛かってきた。どうやらそちらには独立情報体(いわゆる精霊)を駆使したSB魔法を得意とする者が隠れているようで、風や火や音など自然的なものが次々と彼の体を貫いていく。
しかし魔法が彼の体を貫いて尚、彼は歩みを止めなかった。それどころか彼の表情は一切変わらず、まったくダメージを受けていない様子である。
それこそ、彼の姿を投影したホログラム映像を魔法が通り過ぎているかのように。
光宣が右手のCADを操作する。展開された起動式が彼の体に吸収され、魔法が発動される。
彼の正面に広がる地面一帯が、放電現象によって激しく発光した。放出系魔法“スパーク”は基礎的な術式でありながら物質の構造に干渉し強制的に改変する魔法であるため、要求される事象干渉力はかなり高い。しかも彼が仕掛けた範囲はかなり広く、一流と呼ばれる魔法師ですら干渉力不足で発動に失敗するような代物だ。
しかし敵もさることながら、足元から這い上がる電流に対処するため即座に防御の魔法を行使した。あらかじめ用意した条件発動型の人造精霊を使い、術者の認識した魔法による現象を相殺したのだろう。
「――見つけた」
しかしそれこそが、光宣の狙いだった。
自動的に魔法が発動、つまり術者の意図しない魔法の発動によって、自分の居場所を隠す“隠形”がその瞬間解除された。
そうして現れた敵に対し、光宣は左手のCADで展開した魔法を発動、相手術者の体内電流に干渉して外部から電流を流し込まれた状況を再現した。これにより敵の古式魔法師達が、まるで感電したかのようにその場に倒れ伏して動かなくなる。
「野原さん! そっちは大丈夫ですか!?」
「大丈夫、怪我は無いわ。逃げられちゃったけどね」
緊迫した表情で問い掛ける光宣に答えたのは、尋ねられたしんのすけではなく、鞄から顔を出すトッペマだった。操り人形のような姿をした者が生物のように動き、流暢な言葉で受け答えをする光景に、光宣は思わず表情を強張らせる。
「野原さん……。その人形は――」
「そうだトッペマ、光宣くんに姿見せちゃって大丈夫なの?」
「どうせこの子に存在を気づかれてたし、敵じゃないと分かってもらえればそれで良いわ」
普通に会話を交わす2人(光宣から見たら1人と1体)に、光宣はその目に浮かぶ恐怖の色を拭いきれないながらも、彼女の存在を受け止めようと努めることにした。
それに光宣にとって、今はそれ以上に優先すべきことがあった。
「とりあえず、観光は中止にして一刻も早く戻りましょう」
「えぇっ? せっかくここまで来たのにぃ」
「申し訳ありませんが、お願いします。詳しい話は道中で」
「何? 今の奴らに心当たりがあるの?」
「それも含めてお話しますので。奴らの結界魔法も解けた今、すぐにでも人が集まってくると思いますよ」
光宣の言葉に、トッペマは「ヤバッ」とばかりに表情をハッとさせて、すぐさま鞄の中にその身を潜らせた。
あまりにも人間臭いその動きに、光宣は先程までの恐怖も忘れてフッと笑みを漏らした。
* * *
野原しんのすけと九島光宣が、奈良公園で古式魔法師の集団に襲われた。
緊急師族会議に出席していた十師族当主と九島烈がその事実を知ったのは、実際に事が起こってから数分後のことだった。
『それで、今はどうなっているのですか!?』
『光宣の魔法により撃退、既にその場から退避している。敵の魔法師達はその場から逃走、現在
部下からの報告をそのまま伝える烈に、それまで緊迫の表情を浮かべていた各当主から安堵の溜息が漏れた。例外を挙げるならば、感心したように小さく頷く一条剛毅と十文字和樹、そして意味深な微笑を保つ四葉真夜、
『……この事態も、先生の意図したことですか?』
そして猜疑心から来る苛立ちをより強くした七草弘一だ。
かつて教え子だった彼の追及に、烈はハッキリと首を横に振った。
『まさか、有り得ない。私が孫を危険な目に遭わせると思うか?』
『ですが今回の戦闘は、先生が野原しんのすけを奈良に連れ込まなければ起こらなかったことでしょう?』
『確かにそうかもしれない。しかし、そうではないかもしれない』
『……どういう意味ですか?』
『私の行動をも含めた一連の出来事が、既に彼の“主人公補正”の支配下にあるかもしれない、ということだ』
『――――!』
烈の発言に、当主達が一斉に緊張感を迸らせた。
そうして真っ先に発言したのは、恐怖で顔を真っ青に染めた五輪勇海だった。
『今すぐ、野原しんのすけを東京に戻すべきです!』
『いや待て。予定では1泊2日のつもりなんだろう? 予定を崩してしまうと“物語”を動かすことになりかねない』
『“伝統派”の連中が、九島家の客人として野原しんのすけを認識した可能性がある。今このタイミングで長距離を移動させるというのはリスクではないか? それならば九島家で責任をもって匿ってもらった方が――』
『奈良に居ること自体が“物語”の条件である可能性は?』
皆が思い思いの意見を述べるが、意見が纏まる気配は無かった。それはそうだろう。この中にいる誰しもが、どの行動が最も穏便に事が済むのか分かっていないのだから。
そうしてしばらくは結論が出ないまま時間が流れていくか、と思われたそのとき、
『皆さん、落ち着いてください』
まさに鶴の一声と言わんばかりに、真夜の呼び掛けによって皆が口を噤んだ。
『とにかく先生には、野原しんのすけが東京に帰るまで責任もってその安全を確保してもらえれば宜しいのでは?』
『しかし四葉殿、それでは何か起こったときに――』
『何か起こった際には、九島家が真っ先に彼のサポートに入って尽力されることでしょう。――その認識で間違いありませんよね、先生?』
『あぁ、約束しよう』
力強く頷く烈だが、当主達からの反応は芳しくなかった。そもそもの原因は奈良に彼を連れて来た九島烈にあるのだから、どうしても彼の言動に白々しい印象を抱いてしまう。
しかし相手は九島烈。九島家の当主を退いてなお絶大な影響力を持つ彼に対し、面と向かって 責の言葉を向けることに躊躇いが生じる。
『四葉殿』
『どうしましたか、七草殿?』
そんな躊躇いから真っ先に抜け出した、サングラスによって表情が読みづらくなっている七草弘一が、真夜へと呼び掛ける。
『我々はまだ、先生が何を目的として動いているのか聞いていない』
若干前のめりになってまで問い掛ける弘一に対し、真夜はフッと笑みを漏らした。
その笑みに嘲りの色を感じ取った弘一が、口角を僅かに引き攣らせる。
『逆にお尋ねしますが、それを聞く意味は?』
『…………何だって?』
『我々十師族は、野原しんのすけが関与してきた事件の全てを事前に把握してきたわけではありません。むしろ割合としては、全てが終わってから彼の関与を知った方が圧倒的に多い。何なら、我々でも未だに知らない事件があったとしても不思議は無い』
『だから放っておいても大丈夫だと? それで我々にも害が及ぶことになれば――』
『仮に先生がそのようなことを企んでいるのだとしたら、尚更首を突っ込みたくはありませんね。下手に関わって彼の“主人公補正”に巻き込まれたら堪りませんもの』
『――――!』
その瞬間、ほとんどの当主が息を呑んだ。
理由は2つ。1つ目は、下手に関わることで野原しんのすけの能力に巻き込まれる、つまり彼にとっての“敵”と認識される可能性があること。
そして2つ目が、それを避けたいと口にしたのが、よりによって“四葉家”であることだった。
四葉家は“十師族”という制度が制定されてから、一度も選定に落ちたことが無い。それは七草家も同様であるため世間ではこの2つが日本魔法界の双璧と評価されているが、魔法の実力は四葉家が抜きん出ているという見方が強い。
だからこそ四葉家は、国家に対し背信行為を働いた魔法師の粛清を依頼されることが多い。今は日本政府に従っている形だが、もし彼らが地下に潜りテロリストと化したなら、4回目の世界大戦の引き金が引かれると評する者までいる。
そんな四葉家の当主が、断言したのである。
野原しんのすけとは、可能な限り敵対したくないと。
『ということですので、先生、くれぐれもお気をつけください。うっかり野原しんのすけの“敵”とならないように』
『あぁ。私の元教え子からの意見として、胸に留めておくよ』
その遣り取りを最後に、数秒ほど沈黙の時間が流れる。
それまで何が何やらといった感じに会議を眺めていた(一応)議長の十三束翡翠が、誰も発言しないのに気づいて慌てて口を開く。
「えっと、それでは今回の議題については、以上ということで宜しいでしょうか?」
翡翠の問い掛けに、明確に返事をする者はいなかった。
しかし彼らの醸す雰囲気が賛同を示している、と翡翠は判断することにした。
「それでは今回の緊急師族会議については、これにて閉会とさせていただきます。皆様お忙しいところお集まりいただき、誠にありがとうございました」
翡翠が口にした定型文に、九島家の2人を映す画面が真っ先に消された。それを皮切りに次々と他の画面も消えていき、最後に七草家を映す画面が、若干疲れた様子の弘一の残像を一瞬浮かべて消えた。
その瞬間、翡翠が肺に残った空気を全て吐き出す勢いで溜息を吐き、背もたれに全体重を預けて仰け反った。
そして、ポツリと呟く。
「いや、野原しんのすけって誰よ」
* * *
春日大社から退散したしんのすけ達であるが、そのまま九島家に戻ろうとせず寄り道をすることにした。襲撃犯の仲間が追っている気配は感じられず、かといって他の名所で観光する状況でもないため、それならばせめて温泉で先程の汗を流そうと
そうしてやって来たのは、平城京跡から程近い場所に建つ老舗ホテルだった。天然の温泉が売りであるそのホテルにリムジンを付け、宿泊するわけでもないのに客室を取り、そして2人(トッペマは部屋で留守番だ)揃ってそのまま大浴場へと向かう。
この時代において、公衆浴場だろうと人前で肌を晒すことはまず無い。体を洗うブースは個別に仕切られており、湯船では湯着を着用するのがマナーだ。老舗旅館だけあってその湯着も露出を抑えたものだったが、それでも光宣の湯着姿はそれなりに賑わいを見せていた大浴場の利用者の目を大いに惹いた。
「ふぅ……。やはり、温泉は気持ち良いですね……」
白い足がそっと湯の中に差し入れられ、体を湯に沈めながら溜息を漏らす。湯着が羽衣のようにフワリと揺れ、白い肌がほんのりと紅く色づいていく。
と、湯船に浸かっていた他の利用者が、湯の面を波で揺らしながら慌て気味に立ち上がってその場を後にしていった。あっという間に湯船は光宣1人になり、彼らの行動の理由に思い当たる節が無い光宣はキョトンと首を傾げている。
「おぉっ! これはこれは素晴らしいですなぁ!」
もっとも彼の疑問は、しんのすけが喜びを露わにしながら湯船に飛び込むように入ってきたことで霧散した。ロケーションを考えればもう少し言動を抑えた方が良いのではと思わなくもないが、このようなタイプの人間が周りにはいない彼としては、これもまた新鮮な経験であることは間違いない。
「いやぁ、極楽極楽。光宣くんが羨ましいゾ、こんな立派な温泉にしょっちゅう入れるなんて」
「いえいえ、そんな事ないですよ。外出自体、あまりしないので」
「えぇっ、そうなの? 温泉も?」
「はい」
「ってことは、温泉の後のコーヒー牛乳も?」
「えっ? まぁ、はい」
「それは駄目だゾ! あんな良い物を知らないなんて、人生損してるゾ!」
「そうなのですか? でしたら、温泉から上がったら頼むとしましょうか」
光宣の提案に、しんのすけは「それが良いゾ」と諸手を挙げて賛同する。
そんな彼に微笑ましそうな表情を浮かべる光宣だが、ふとその顔を引き締めて彼に向き直る。
「野原さん、先程僕達を襲った者達についてなのですが」
「へっ?」
突然雰囲気が変わったことにしんのすけが困惑する中、光宣が湯の面に顔がつかないギリギリまで頭を下げた。
「申し訳ございません。我々九島家のいざこざに、野原さんを巻き込んでしまいました」
「いざこざ? さっきのが?」
しんのすけの質問をきっかけとし、光宣が先程の襲撃犯についての説明を始めた。
「あれは“伝統派”と呼ばれる、我々のような旧第九研出身の者と敵対する古式魔法師の集まりなのです」
「キューダイキューケン?」
「九島家のように苗字に“九”を冠する魔法師の家系は魔法技能師開発第九研究所の出身でして、奴らも現代魔法のノウハウを求めて研究に参加していたんです。しかし奴らは自分達の望む結果を得られず、それどころか自分達の秘術を盗まれたと逆恨みするようになり、我々を敵視するようになったんです」
しんのすけからの返事は無かったが、光宣は話を聞いていると解釈して続きを説明する。
「伝統派というのは奴らの自称ですが、本物の伝統を継承する術者から見れば“異端派”、あるいは“
「…………」
「だからでしょうか、奴らの拠点はかつて自分達が所属していた正統派の拠点の近く、いえ、裏側と称されるような場所に設けられていることが多いのです。早い話、観光名所にもなっているような有名な寺社仏閣の近くということですね。今回我々を襲ったのも、おそらく春日大社から少し奥にある
「…………」
「野原さんが九島家の人間と一緒にいれば狙われる可能性もあると分かっていたはずなのに、僕はそれを止めることができませんでした。結果野原さんを危険に晒してしまい――」
「んもう、さっきから話が長いゾ! せっかくの温泉なんだから、楽しまなきゃ損だゾ!」
本人にその意図があるかは分からないが、しんのすけが光宣の謝罪をむりやり打ち切らせたことに、彼は一瞬意表を突かれたように目を丸くし、そして無邪気な笑顔を浮かべた。
「……そうですね、今はとにかくこの時間を楽しみましょう。温泉でゆっくりしたら、このまま夕食の場所に向かうことにしましょうか」
「そういえば、夕飯ってどこで食べるの?」
「九島家が贔屓にしている料亭がありまして、そこで食べることになっています」
「おぉっ、料亭! それって、偉い人が『お主も悪よのう』ってやってる場所でしょ? それは楽しみだゾ」
「いえ、料亭は普通に食事をする場所なのですが……」
先程までの緊張がすっかり抜けたからか、光宣の笑顔は彼の美貌のせいで年齢よりも幼く見える素朴なものだった。