それは摩利のバトル・ボード予選が終了してから真由美のスピード・シューティングが始まるまでの、昼食休憩が終わった直後辺りの頃。
一旦皆と別れた達也が向かったのは、ホテルにある高級士官用の客室だった。一般客が利用するエリアとの出入口で警備していた兵士が彼の存在に気づくと、それを止めるどころか中へと促し、幾つかある中でも広い部類に入る部屋の前まで案内する。
「来たか達也、まぁ掛けろ」
達也を出迎えたのは、数日前にテレビ電話で会話を交わした風間玄信少佐だった。本来この部屋は大佐以上でなければ使えないのだが、彼が率いる“独立魔装大隊”の特殊性、そして過去の職歴が評価され、軍内では階級以上の待遇を受けている。
部屋の中央には円卓が置かれ、そこに風間以外に4人の男女が座っている。彼らの大隊では円卓の精神をモットーとしており、このテーブルもわざわざ余所から持ってきた物だ。ここまで分かりやすく形にこだわるのも、達也を非正規の士官としてではなく一友人として呼んだという意思を表すためである。
なので最初の内は躊躇う素振りを見せた達也だったが、最終的には他の幹部達に促される形で席に着いた。
「お久し振りです。ティーカップでは様になりませんが、乾杯といきましょうか」
達也たちを出迎えた5人の中でも紅一点、レディーススーツを着こなし、まるで大企業の若手秘書の雰囲気を漂わせる女性――藤林少尉の言葉に賛同したのは、一級の治癒魔法師でもある山中軍医少佐だった。
「うむ、そうだな。再会の祝杯はぜひとも必要だ」
「山中先生の場合、カップにブランデーを注ぎ足す口実が欲しいのでは?」
「めでたい席に酒精はつきもの」
「……まったく、“医者の不養生”という言葉はもっと別の意味合いだったと思うんだが」
そんな遣り取りの後、6人はそれぞれティーカップを軽く掲げて乾杯した。
久し振りとはいっても、長くて半年、短くて1ヶ月ほどなので、特に積もる話があったわけでもない。互いに近況を世間話レベルで語り合った後は、自然と話題は九校戦を狙う謎の組織へと移っていく。
「やはり昨日の賊は、
「ああ。だが、詳しい目的はまだ調査中だ」
「それにしても達也くん、昨夜はあんな遅くまで警戒していたの?」
「いえ、自分はCADの調節をしていたんです。“彼”とも、散歩をしていたところに偶然出会っただけでして」
「それであのコンビネーションかぁ……。達也くん、“彼”との信頼関係をしっかり築けているみたいね」
「信頼関係、かどうかは分かりませんが、戦闘において馬が合うのは確かでしょうね」
この部屋に盗聴器の類が仕掛けられている可能性は限りなくゼロに近いが、このような場所においてもしんのすけの名前を出すことは極力避けている。特に規定があるわけではないので名前を出しても構わないのだが、“彼”だけでも充分通用するので達也もそれに従っていた。
「それにしても、天下の“シルバー殿”が高校生の大会でエンジニアかぁ。レベルが違いすぎてイカサマのような気もするな」
「もう、真田少尉。彼だって、れっきとした高校生なんですからね?」
真田を窘める藤林だったが、そんな彼女も苦笑いを抑えることができなかった。
そしてそれをごまかすように、彼女が達也へと視線を向ける。
「ところで、達也くんは選手として出場はしないの? 結構良い線行くと思うんだけど」
「藤林。たかが高校生の競技会だ、“戦略級魔法師”の出る幕じゃないだろ」
「私だって、そこまで大規模な魔法の出番があるとは思ってませんよ。でも去年だって、十師族の十文字家や七草家がAランク魔法を使用した例があるじゃないですか」
「それとこれとは事情が違う。彼の魔法は“軍事機密指定”だ、衆人環視の競技会で使うべきではない。――達也、分かっていると思うが、もし選手として出場するようなことがあれば――」
「分かっていますよ。そのような魔法を使わなければならない状況に追い込まれれば、潔く負け犬に甘んじます。――もっとも、自分が選手として出場する事態になるとは思えませんが」
達也の言い分はもっともだ。そもそもエンジニアとして出場していること自体、達也にとっては想定外なのである。既に出場選手が確定しているこの状況で、自分が選手となるなんてまず有り得ない。
しかし達也のそんな考えを、真田が(ニヤニヤと嫌らしい笑みと共に)否定する。
「いや、そうとは限らないぞ? 何てったって今の君の傍には、あの“嵐を呼ぶ”と名高い“彼”がいるんだからな」
「…………」
そんな軽口に対し、達也は真田を一睨みするに留めた。
否定の言葉を添えようともしたのだが、残念ながら彼には的確な言葉が思いつかなかった。
* * *
大会2日目。
さっそく、達也にとって想定外の事態が発生した。
昨日、摩利と平行して男子のバトル・ボードも行われたのだが、その結果が思っていたよりも芳しくなかった。試合自体は勝ち進んだものの摩利のような圧勝劇ではなく、特に出場選手の1人である服部は本調子でないのかギリギリの内容だった。これを重く見た作戦スタッフの鈴音は、担当エンジニアと付きっきりで調整させることにした。
しかしそうなると、そのエンジニアが担当するはずだった女子クラウド・ボールの代役を立てなければならない。クラウド・ボールは1日の試合数が多く副担当がいないと厳しいが、かといって男子のサブを女子にも回すというのは負担が大きすぎる。
明日と明後日の両方ともオフであり、突然の事態にも対応できる優秀な人物。
そんなわけで、達也に白羽の矢が立ったのである。
技術スタッフ用の校章入りブルゾンに袖を通し、昨日の夜に急遽渡された出場選手のサイオン特性データ内蔵の記録デバイスを持った達也が、エリア内に設けられた第一高校用の天幕へと足を踏み入れた。特設のテントだけあって簡易的な造りだが、CADを調整する機材は一通り揃えられているし、試合の様子をここからモニターで確認することもできる。
そんな天幕にやって来た達也を真っ先に出迎えたのは、彼をここに呼んだ張本人である生徒会長――ではなかった。
「おっ、達也くん! こんばんわー」
「……それを言うなら“おはよう”だろ。というか、なんでしんのすけがここに?」
「深雪ちゃんと雫ちゃんが新人戦で出るからって“氷倒し”の方に行って、他のみんなもそれに乗っかったからオラ1人だけなの。んで、どうせ1人だったら客席で観るのもなぁって思ってここに来たんだゾ」
「しんのすけのご家族も向こうに行ったのか?」
「“氷倒し”の方が派手で面白そうだからって。本当はオラもそっちに行きたかったんだけど、父ちゃんから『おまえはこっちで少しでも自分の試合の参考にしろ』って言われちゃって」
「あらあら。それじゃせっかく来てくれた可愛い後輩のためにも、試合の参考になる面白い試合にしなくちゃね」
おどけた声色でそう言いながらその場に姿を表した真由美は、熱電効果による冷却機能の付いたクーラージャンパーに身を纏っていた。
そして彼女の右手には、おそらく試合で使用するであろうCADが握られている。銃身の短い拳銃型のそれは、1系統の魔法しか使えない代わりに発動までの時間を高速化した特化型だ。
「会長は確か、普段は汎用型でしたよね?」
「まぁね。この試合では1種類しか使わないし」
「移動か、それとも逆加速ですか?」
「正解。“ダブル・バウンド”よ」
「運動ベクトルの倍速反転、ですか。低反発性のボールでは、相手コートまで戻らないことがあるのでは?」
「去年は他の加速系魔法も入れてたんだけど、結局は使わなかったのよね」
真由美から受け取ったCADを軽く眺めながら、達也は彼女の言葉に内心舌を巻いた。本人は事も無げに言っているが、相当の力量差が無ければできないことだ。
と、真由美がテーブルに置かれたデジタル時計を一瞥する。
「さてと、そろそろ時間ね。達也くん、一緒に行きましょうか。――それじゃしんちゃんも、ちゃんと試合を観ていてね」
「ほいほーい。頑張ってね、真由美ちゃん!」
しんのすけの激励を背中に受けながら天幕を出ていく真由美に、達也は黙ってその後に続いた。試合直後にCADを調整する場面も無いわけではないが、別にわざわざコート脇までついていく必要は無い。とはいえ頑なに拒否するほどのことでもないので、それを指摘する真似はしなかった。
しかしコート脇に到着した真由美が羽織っていたクーラージャンパーを脱ぎ、ジャンパーの下に隠されていた姿が露わになったとき、達也は目をギョッと見開いて思わず尋ねた。
「……もしかして、そのウェアで試合をするんですか?」
「え、そうだけど……。もしかして、似合わない?」
「……いえ、とてもお似合いです」
彼女が着ていたのは、テニスウェアとしか形容できないポロシャツにスコート姿、しかも競技用ではなくファッション用だった。ちょっと体を傾けただけでアンダースコートが見えてしまうであろうその格好は、ボールを追い掛けてコート中を走り回るクラウド・ボールにはどう考えても相応しくない。
しかしまぁ、彼女なら何でもありだろう、と達也はこれ以上考えないようにした。
そんな彼を余所に真由美はコートにぺたりと座り込み、大きく脚を広げた。「ちょっと手を貸してもらえるかしら」という彼女の言葉に、達也は了承して彼女の背中を斜めに押してやる。ほとんど抵抗も無く彼女の胸は脚につき、左右4回ずつそれを繰り返したところで「もういいわ」と声が掛かったためその手を離した。
と、両脚を揃えた真由美が悪戯っぽい目つきと共に彼へと手を差し出した。達也は最初彼女の意図が分からず首を傾げていたが、彼女が少し不満げに頬を膨らませるのを見て察したのか、彼女の正面に回り込んでその手を握って軽く引っ張り上げた。膝を揃えたまま器用に立ち上がった彼女の顔は満足げだ。
「もし私に弟がいたとしたら、達也くんみたいな感じなのかしらねぇ」
「そんなに慣れ慣れしくしているつもりはありませんが……」
「そういう意味じゃなくって、達也くんは変に構えたりオドオドしないじゃない? 敬語は使うけど遠慮はしないし、冷たいのかと思ったらこうして我が儘を聞いてくれたりするし」
「オドオドしないという意味でなら、しんのすけもそれに該当すると思うのですが」
「しんちゃんはねぇ……。一緒にいて確かに楽しいけど、あそこまでマイペースだと振り回されそうで大変じゃない? その点、達也くんなら安心ね」
振り回されそうで大変、というのは真由美のような姉を持ったこちらも同じことだと思うのだが、と達也は考えたがさすがに口にはできなかった。
と、しんのすけが話題に挙がったからか、真由美はふと彼のいる天幕の方へと視線を向けた。
「達也くんは、しんちゃんとプライベートな話をすることってあるの?」
「プライベートな話、というと?」
「うーん、そうねぇ……。たとえば好きな女の子とか?」
「しんのすけの場合、高校生は恋愛の対象外でしょう。子供には興味無い、ですからね」
「確かにそんなこと言ってたわね。……それってやっぱり、歳を取らなかったとはいえ100年近く生きてきた影響かしら?」
「どうでしょうか? 案外、彼の元々の性格から来ているようにも思えますが」
そう話す達也の視線も自然と、真由美と同じく天幕へと向けられていた。
春日部を中心に発生していた局所的タイムループによって、100年近く歳を取らずに5歳児のままだった少年・野原しんのすけ。その間、一般的な常識では計れない様々な騒動に巻き込まれ、その度に多くの仲間と共にそれを解決に導いてきたことで、彼を“英雄”と称している者もけっして少なくない。
だとしたら、日本の魔法界に君臨する“十師族”は、彼をどう見ているのだろうか。
ふと湧いた彼の疑問は、真由美の試合の時間がやって来たことで一旦保留となった。
クラウド・ボールはテニスに似た競技だが、サーブという制度は無い。圧縮空気によって低反発ボールがコート内に射出され、それを相手コートに打ち込んで1回バウンドするごとに1ポイント、転がったり止まっているボールに対しては0.5秒ごとに1ポイント加算される。コート全体は透明な壁に覆われており、20秒ごとにボールが追加射出、最終的には9個のボールを1セット3分間休み無く追い掛け続けることとなる。インターバルを3分ずつ挟んで、合計3セット(男子は5セット)行われる。
そう。普通ならば、ボールを追い掛け続けるはずなのである。
――さすが会長、もはや勝負にすらなっていない。
達也の目の前で繰り広げられているのは、試合などではなく一方的な“蹂躙”だった。
相手も代表に選ばれるだけあって、かなりの手練れだ。移動魔法を使ってボールが飛び込んでくる場所に先回りし、両手で持つ拳銃型のCADをボールに向けて打ち返していく。
しかしボールがネットを超えた瞬間、それが倍のスピードになって返ってくるのである。相手はそれを打ち返すために、再び移動魔法でそのボールを追い掛けていく羽目になる。
一方真由美は、ただ立っているだけだった。祈るように小銃型のCADを握りしめているだけで、ネットよりもこちら側に来たボールが自動的に返されていく。一歩も動いていないのだから、達也が試合前に心配していた短いスコートが微塵も揺れることはない。
真由美の魔法はただ来たボールを跳ね返しているだけなので、ボールが1個の内は相手も頑張って返していた。しかしそれが2個、3個と増えていくごとに相手のミスが比例して増えていき、最終的に9個になったときにはもはや手の施しようが無くなっていた。
第1セット終了のブザーが鳴る頃には、相手選手は膝から崩れ落ちるほどに疲労していた。
結果は85対0。どちらが0かは、書くまでもないだろう。
小さく息を吐いてコート脇に戻ってくる真由美を、達也はタオルを彼女に手渡して出迎えた。もっとも、1滴も汗を掻いていないので無意味かもしれないが。
「お疲れ様でした、会長」
「もう達也くん、まだ第1セットが終わったばかりよ。気を抜いちゃ駄目」
「いえ、おそらく相手は棄権しますよ。ペース配分を誤ったせいで、サイオンが枯渇してるので」
なぜそれが分かるのか真由美が聞き返そうとした次の瞬間、審判団による相手選手の棄権が告げられた。戸惑う彼女を尻目に「次の試合に備えてCADの調整をしましょう」と言い残して天幕へと戻っていく達也に、彼女は慌ててその後を追い掛けていった。
クラウド・ボールは予選から決勝まで半日で終わらせる、かなりスピーディな競技だ。当然CADの調整に当てられる時間も少なく、エンジニアとしては少しでも時間を無駄にはできない。なので天幕へと戻った達也はすぐに真由美からCADを借りて調整機に繋げると、画面に映し出される文字列に注目しながらキーボードに指を走らせ始めた。
そしてその作業を、右から試合中のウェアのままの真由美が、左からしんのすけが興味深そうに眺めていた。ちなみに彼女がクーラージャンパーを着ていないのは、下手に体を冷やさないように達也が使用を止めたからである。彼に他意が無いのは、肩が触れそうなほどに近い彼女の剥き出しの太腿にまるで見向きもしないことからも分かる。
「しんちゃん、さっきの試合はどうだったかしら?」
「凄かったゾ、真由美ちゃん。でもオラの試合の参考にはならないと思う」
「あらら、それは残念。――それで達也くん、どうかしら?」
真由美の質問は何とも要領を得ないものだが、達也はそれを正しく解釈して答える。
「ご自分で上手に調整されているようですね。特にソフトを弄る必要は無いでしょう」
「ふふ、お世辞を言わない相手から褒められるのは良いものね」
「ってことは、決勝まであの魔法で行く感じ?」
「まぁ、そうなるな。――ただまぁ、一応“ゴミ取り”はしておくが」
「ゴミ取り?」
達也の言葉に、真由美としんのすけが同時に首を傾げた。テーブルを見渡しても、CADを分解する器具もクリーナーも見当たらない。
「ハードではなくて、ソフトの方ですよ。CADのシステム領域に、アップデート前のファイルの残骸があるようです。不要なデータを削除しておけば、僅かですが魔法の効率が上がりますよ」
「へぇ、そうなの。さすが達也くんね、私は気づかなかったわ」
「ほーほー、さすが達也くん。これで真由美ちゃんの優勝は間違いありませんな!」
「ふふっ。駄目よしんちゃん、油断大敵よ」
まるで自分のことのように胸を張って優勝宣言をするしんのすけに、真由美は口では窘めていても笑みを漏らさずにはいられなかった。達也はそれを聞きながらほんの僅かに口角を上げ、ゴミ取りの作業を淀みないタイピングで進めていく。
しかし、
「そういえば達也くん、あいちゃんと会ったことがあるって聞いたけど本当?」
「――――!」
しんのすけが何気なく尋ねたその質問に、達也は驚愕と不審の意を咄嗟に呑み込み、口を微かに引き結んだ。
一方真由美は、その話題に素直な関心を抱いたようで、
「あいちゃんって、もしかしてこの大会にも来ている酢乙女あいさんのこと?」
「おっ、そうだゾ。よく分かったね」
「彼女がしんちゃんと同じ春日部出身なのは有名だから、もしかしてって思って。それで、彼女は達也くんと会ったことがあるの?」
「あいちゃんが仕事でCADを作る会社に行ったとき、達也くんと深雪ちゃんに会ったんだって。『将来を見据えて自分の父親の会社の工房を見学するなんて素晴らしい』って褒めてたゾ」
「……えぇ、父親がCADメーカーに勤めてまして、工房を時々見学させてもらってるんです。そのときに彼女と偶然顔を合わせたことがありまして。とはいえ、多少世間話をしただけですけどね」
変に誤魔化そうとすると逆効果になると悟った達也は、素直に真実を話すことにした。傍目には普通の世間話にしか聞こえない内容だったので、彼の言っていることは別に嘘ではない。真由美もそれを素直に信じたようで「私も一度彼女と話をしてみたいわ」と達也を羨ましがっていた。
ちらり、と達也はしんのすけへと視線を向けた。彼はそれ以上会話に参加する様子も無く、調整機のディスプレイに表示された文字列を目で追うのに夢中なようだ。
――少なくとも、しんのすけに何か吹き込んだ様子は無さそうだな。
大きな溜息を吐きそうになるのを、すんでのところで食い止めた。
* * *
元々の天性の才能に加え、達也のエンジニアとしてのサポートも受ける真由美に付け入る隙があるはずもなく、真由美はその後も1つの失点すら許さないパーフェクトゲームで優勝を飾った。第一高校の生徒会長として、まさにこれ以上ない最高の成績を収めたといったところだろう。
アイス・ピラーズ・ブレイクに出場する花音も順調に勝ち進み、前人未到の3連覇に向けて上々といったところ――と普通ならばそう考えるだろう。
しかし2日目の競技結果を確認した鈴音ら作戦スタッフと、選手を纏める立場である克人の表情は、それほど芳しいものではなかった。
「……これは、ポイント計算をやり直す必要がありますね」
鈴音の声がやけに冷たく聞こえたのは、こちらがショックを受けているからか、それとも彼女が感情を意識的に抑えているからか。いずれにしろ、それを聞いた克人は無言の肯定を返した。
彼女達の計算が狂ったのは、この日の午後に行われた男子クラウド・ボール。桐原を含む3人が出場したのだが、いずれも1回戦敗退、2回戦敗退、3回戦敗退という結果に終わってしまった。確かに男子クラウド・ボールは他の競技に比べても力不足の印象はあったが、その代わり大本命もいなかっただけに充分優勝を狙える位置にいたはずだった。
「新人戦のポイント予測が困難ですが、現時点でのリードを考えれば、女子バトル・ボード、男子ピラーズ・ブレイク、それにミラージ・バットとモノリス・コードで優勝すれば安全圏だと思われます」
作戦スタッフである2年生がそう言うが、それは些かハードルが高すぎるように思える。克人や摩利が出場する競技だからこその予測なのだろうが、何事にも“絶対”などというものは存在しない。そのような見通しは、万が一のことが起こったときに不安があると思うのだが。
――いや、それよりも……。
克人の脳裏に過ぎったのは、無鉄砲な性格の反面、責任感の強い桐原のことだった。
* * *
選手達関係者が泊まるホテルのロビーにはカフェが併設されており、飲食をするためのソファーやテーブルなども置かれている。今は夕食時なので平時よりも客の数は少ないが、遅めに夕食を摂る予定の人、または既に夕食を終えた人がちらほらとソファーに座り、本日の試合についてあれこれ語る光景が見られる。
そんな中で一際騒がしい、5人組のグループがあった。
「こういうのを観るのって初めてだったけど、やっぱり生で見るともの凄い迫力だなぁ!」
「特に千代田花音って人が一気に氷の柱を壊したときなんて、氷の破片がキラキラしてすっごく綺麗だったもの! ネネと1つしか歳が違わない女の子なのに、すっごくカッコ良かったわぁ!」
「千代田家の“地雷原”は、魔法師の世界ではかなり有名。生で観られて良かった」
「へぇ、そうなんだ。さすがボーちゃん、よく調べてるね」
「ほーほー、そんなに面白かったのかぁ。後で真由美ちゃんに頼んで見せてもらおっと」
興奮したようにそう話す風間、ネネ、ボー、マサオの4人に、キャラメルマキアートを飲みながらそれに相槌を打つしんのすけ。幼稚園からの幼馴染であり、“春日部防衛隊”なる組織を結成して一緒に遊んでいたほどの仲であるこの5人の関係は、高校生になって顔を合わせる機会が減ってしまった程度で揺らぐほど柔なものではないようだ。
「それにしても、こんな大きな大会にしんちゃんが出るなんて未だに信じられないわ」
「本当だよね。しんちゃんに魔法の才能があったことも驚きだけど、まさか第一高校なんて凄いエリート学校に入学できるとは思わなかったし、しかもそこで代表選手に選ばれるなんてねぇ」
「まぁ! オラって天才ですから!」
「あんまり調子に乗るなよ、しんのすけ。上には上がいるもんだし、それにしんのすけの出る“モノリス・コード”なんて特に危険な競技なんだからな。せいぜい大怪我しないように気をつけるんだな」
「あらぁ? トオルちゃんったら、オラを心配してくれてるのぉ?」
「なっ――! そんなんじゃない! ボクはただ――」
「風間くん、しんちゃんがちゃんと1人暮らしできるのか、学校で上手くやれてるかずっと心配してた」
「ちょっ、ボーちゃん! 何を言ってるのかな! ボクはそんなこと一度も――」
「いやぁん! トオルちゃんったらぁ!」
しんのすけが風間に抱き着き、風間が顔を真っ赤にして引き剥がそうとするという懐かしい光景に、他の3人は特にそれを止めようともせず楽しそうに笑っていた。
と、ふいにマサオが何かに気づいた。
「あれっ? しんちゃん、あそこにいるのってしんちゃんの学校の人じゃない?」
「どれどれ? ――おっ、桐原くんだ」
しんのすけ達のいるカフェスペースから離れた所にある壁際のソファーにて、項垂れたように力無く座る桐原の姿があった。人1人分ほど空けた隣には彼の恋人でもある紗耶香も座っているが、話し掛けようと口を開きかけては諦めたように視線を逸らす、というのを何度も繰り返している。
「ちょっと行ってくるね」
「あ、おい、しんのすけ――」
明らかに話し掛けづらい雰囲気にも関わらず、しんのすけはまったく躊躇することも無く立ち上がって彼らへと向かっていった。
しんのすけの足元から伸びる影が桐原に差し掛かり、桐原が顔を上げて彼の存在に気づく。
「……よう、野原か」
「どうしたの、桐原くん? そんなに落ち込んじゃって」
しんのすけの直球すぎる訊き方に隣の紗耶香が表情を強張らせるも、桐原はそれを気にする余裕も無いのかフッと自嘲的な笑みを浮かべた。
「おまえだって観てただろ。あっさり2回戦で負けちまったから、こうして落ち込んでんのさ」
「まぁまぁ。来年もあるんだから、それまで頑張れば良いじゃない」
「俺はおまえほどそこまでポジティブにはなれねぇんだよ……。まぁ、何つーか、自分が情けなくなってなぁ……」
しんのすけが首を傾げたまま黙っているのを、桐原は続きを促していると解釈して口を開いた。
「ここに来てから、服部が何だか調子悪いだろ? それでまぁ、具体的な内容はアイツのこともあるから言わねぇけど、それに対してアドバイスみたいなことを言ったわけよ。そうやって人の心配なんかしてる俺が特に調子が悪いってわけでもないのに2回戦止まり、一方アイツは本調子じゃなくてもしっかり準決勝まで行ってんだからよ……。俺のせいでみんなにも迷惑掛けたし、合わせる顔がねぇっつーか――」
「いやぁ、そんなこと無いでしょ」
そう言い放つしんのすけに、桐原は顔を上げてしんのすけを見遣った。
こちらを見下ろす彼の表情は、普段と同じあっけらかんとしたものだった。
「桐原くんの試合、もの凄く盛り上がってたゾ。一緒に観てた真由美ちゃんもずっと声をあげて応援してたし、達也くんも最後まで興味津々って感じだったし」
「…………」
「真由美ちゃんから聞いたけど、相手って優勝候補だった三高のエース? だったんでしょ? 真由美ちゃん、『そんな選手を相手にフルセットまで粘るなんて凄い』って褒めてたゾ。しかも桐原くんと戦ったその人、すっごく疲れてたから次の試合ボロ負けだったし。あれはほとんど引き分けみたいなモンでしょ」
「……本当か?」
「本当だって。――そうでしょ、紗耶香ちゃん?」
突然話を振られて驚く紗耶香だったが、即座に首をブンブンと力強く縦に振って同意した。
「そ、そうよ桐原くん! 桐原くんを情けないなんて思う人は誰もいないし、私も……その、凄く格好良かったって思ってる!」
「壬生……」
顔を真っ赤にして力強く断言する紗耶香に、桐原はフッと笑みを漏らした。
その笑みは、先程のように自嘲的なそれではなかった。
「まぁ、おまえは気を遣って嘘を吐くようなタイプじゃねぇし、本当にそうだったんだろうな」
桐原はそう言って、ソファーから勢いよく立ち上がった。
「そうさ。三高のエースと互角に戦ったんだ、俺も捨てたもんじゃねぇよな。――わりぃな壬生、気まずい思いさせちまって」
「う、ううん! そんなこと無いわ!」
「サンキュな、野原」
桐原はそう言い残し、ズンズンと力強い足取りでその場を離れていった。それを見ていた紗耶香が慌てて立ち上がり、しんのすけに一言礼を言って早足で彼の後を追い掛けていった。
「うむ、どんどん壁にぶつかっていくのだ、若人よ」
そんな2人の背中を見送りながら、しんのすけは腕を組んでウンウン頷いて謎のキャラを演じ、
「……へぇ、しんちゃんが誰かを励ますなんてねぇ」
「人って成長するものねぇ」
そんな彼の後ろで、幼馴染4人が先程の光景に目を丸くしていた。
「真由美ちゃんって、兄弟とかいるの?」
「上に兄が2人と、下に妹が2人いるわよ」
「おぉっ、大家族だゾ」
「魔法師の家系はできるだけ子供を多く作るよう言われるのよ。――しんちゃんは、妹のひまわりちゃんだけ?」
「うん、そうだゾ。――ずっと昔、お姉ちゃんがいたような気がした時期もあったけど」
「……えっ、どういう意味?」