夏休みも後半に差し掛かったこの日、第一高校の敷地内は閑散としていた。夏の一大イベント・九校戦が終了したことで、スポーツ系のクラブも充電期間に入っている。教師達も夏休みなので学校には顔を出さず、彼らの指導を目的に生徒が来校することも無い。
しかしまったくの無人というわけではなく、自主トレに来ている生徒の姿もちらほら見受けられた。特にそれは1年生に多く、普段は上級生に気を遣ってあまり施設を利用できない彼らが存分に練習に打ち込める良い機会とも言える。
その1年生の中に、森崎の姿もあった。コンバット・シューティング部の練習用ユニフォームに身を包み、額だけでなく全身から汗を滲ませながら
ゴム弾を発射する自動銃座の攻撃をかいくぐりながら、迷路のように入り組んだ暗がりの通路(所々に障害物あり)を走り抜けるという、九校戦の練習でも行っていたトレーニングに取り組んでいた森崎だったが、彼の右脇腹に貼りついたゴム質の赤いペイント弾を見るに、その成果は芳しくなかったようだ。
森崎は少々苛立った表情を浮かべながら、準備室の扉を荒々しく開けた。その衝撃に、中で操弾射撃用のランチャーを整備していた1年の滝川が目を丸くして振り返る。
「……荒れてるね、森崎」
「滝川か。こんな所で何してるんだ?」
「随分とご挨拶ね。内蔵CADの部品を分けてもらいに来たのよ。そっちの部長さんにはちゃんと話は通してあるわ。――そっちは、またトレーニング? ここ最近ずっとじゃない、今日はもう上がった方が良いんじゃないの?」
「……心配してくれるのは有難いが、そういうわけにもいかない。とにかく今は、少しでも実力をつけないと――」
「だったら尚更今日は上がりなさい。がむしゃらにやってりゃ実力がつくわけじゃないでしょ? 勉強もトレーニングも、結局は“効率”の問題なんだから」
森崎は反論しようと口を開きかけたが、滝川の言うことももっともだと思ったのか何も言わずに口を閉じた。
その代わりに悔し紛れに彼女を一睨みすると、男子更衣室へと消えていった。
「焦る気持ちも分かるけど……ううん、アタシじゃ分かんないか。森崎は
その背中を見送りながら、滝川は独り呟いた。
* * *
一度自宅に戻った森崎だったが、そこで寛ぐこともほとんどせずに家を後にした。しかし別のトレーニングへ向かったのでなく、カジュアルな服に身を包むその姿は単純な気分転換を思わせる。滝川の言う通り、今日のトレーニングは止めることにしたのだろう。
――やはり1週間のブランクは、そう簡単に無くなるものじゃないか。
だが、彼の心を巣くう“焦り”は未だに消えていなかった。九校戦で負った重傷(普通ならば最低1ヶ月は掛かるほどの怪我を、魔法治療によって1週間で完治させた)はとっくに消えているが、それによってなまった体はまだまだ完全に元通りというわけにはいかなかった。少なくとも、森崎の感覚では。
――九校戦、か。
あの一大イベントは、間違いなく自分にとって大きな転換となった。それまでは達也に対して劣等感にも似た“焦り”を感じていた彼だったが、(彼からしたら実に不本意だが)しんのすけの言葉も手伝ってそれを克服し、あまり得意ではない“スピード・シューティング”で準優勝という結果を残すことができた。優勝できなかった悔しさこそあるものの、自分の実力からしたら充分納得できる結果と言えるだろう。
しかし、もう1つの出場競技である“モノリス・コード”によって、彼はまた別の“焦り”を感じることとなった。
対戦チームの反則行為による不慮の怪我によって途中リタイアを余儀なくされた自分達に代わり、達也と幹比古という二科生が代役で出場することとなり、あの第三高校の“クリムゾン・プリンス”や“カーディナル・ジョージ”を破って見事優勝してみせた。
達也が出場することは自分が提案したことであるため、それ自体に否などありはしない。しかしながら、まさか優勝候補大本命の第三高校を下して優勝するとは思っていなかった。もし自分があの事故も無く勝ち進んだところで、第三高校に勝てるかどうか考えると正直自信が無い。
さらに言うと、達也がしんのすけと見事なコンビネーションを見せていたのも、森崎の心に“焦り”を生む要因となっていた。もちろん普段から風紀委員として一緒に活動しているからこそだと頭では理解しているし、それを目論んで達也の代役を提案したのだが、実際にしんのすけと一緒に練習してその実力差を痛感した後だと、否が応にも達也との実力差を実感してしまうのである。
そんな焦りを少しでも解消したくて、森崎はここ最近練習場に詰める毎日を過ごしていた。もし滝川にアドバイスされなかったら、今日も1日それだけに時間を費やしていただろう。たとえそれが、実りも無く単なる時間の無駄だと気づいていたとしても。
他人の忠告が耳に入る内に気分転換に出掛けたのは正解だったな、と森崎は滝川に心の中で感謝した。おそらく本人に向けて口に出されることは無いであろうその言葉を呑み込んだ彼は、ふと自分の周りを歩く人々に目を遣った。
CADのホルスターを忍ばせるために前開きジャケットを羽織っている森崎に対し、周りの人間はタンクトップやミニスカートなどの必要最低限の布しか使われていないような服装をしていた。もちろん彼らがCADの類を所持しているはずも無く、つまりそれは森崎のような魔法師が世間一般では絶対的に“少数派”であることを意味している。
昔ならそれを誇りに思っていたであろう森崎だが、今はとてもそんな気分に浸る余裕は無かった。そもそも、自分を“特別”だなんて思えなくなっていた。
――喉が渇いたな、何か飲むとするか。
森崎はそう思って、真っ先に目に留まった喫茶店へと歩いていった。ログハウス風の外観、白木を使った椅子にテーブルと、店の主人の趣味を思わせるなかなかオシャレな店だった。外のテラス席も日除けのパラソルを差しているだけで、屋外用の空調設備などは置かれていない。もっとも、今日みたいに日差しの強い日はそれが仇となり、テラス席の埋まり具合は疎らなものだったが。
彼はそのテラス席に腰を下ろすと、テーブルのタッチパネルを手に取りメニューを眺め始めた。アイスコーヒーやジュースなどのドリンク、色取り取りのフルーツが盛られたケーキ、大きなグラスにフルーツやクリームなどが詰め込まれたパフェなど豊富なラインナップである。
「とりあえず、アイスコーヒーだけで良いか……」
「おっ? デザートは食べなくて良いの?」
「僕は特別甘い物が好きなわけじゃないんだ」
「ほーほー。じゃぁオラは、メロンクリームソーダとチョコバナナパフェにしよーっと」
「随分と重い組み合わせだな、どっちかだけで充分だろ――」
会話が成立することに今更ながら違和感を覚えた森崎がタッチパネルから顔を上げると、テーブルを挟んだ正面の席にしんのすけの姿があった。
「よっ、森崎くん」
「何が『よっ』だ、野原! いつから僕をつけていた!?」
「『つけていた』だなんて人聞きの悪い。たまたまここに寄る森崎くんを見つけたから、森崎くんと一緒に座っただけだゾ」
いくら人混みの中だからとはいえ、自分と同じボックス席に座る人物の気配に気づかないなんて、と森崎が1人落ち込むのも気にせず、しんのすけはタッチパネルに手を伸ばしてさっさと自分の注文を済ませてしまった。
他の席に移動しようかと森崎が周りを見渡す仕草をするも、どうせしんのすけもついて来ると思い至ったのか、あるいは彼を気にして自分が移動するのを癪だと感じたのか、森崎は浮きかけた腰を再び下ろしてアイスコーヒーを注文した。
すぐに運ばれてきたアイスコーヒーとメロンクリームソーダに2人がそれぞれ口をつけ、一息吐いたところで改めて森崎が口を開く。
「……で、なんで野原はここにいる?」
「バイト代が貯まったから、ずっと欲しかったアクション仮面の新作フィギュアを買いに行こうかと思って」
「だったらさっさと買いに行けば良いだろ。売り切れても知らないからな」
「それは大丈夫、先にお店に電話して取り置きを頼んでるから」
「……おまえ、そういうところは抜け目ないよな」
吐き捨てるような森崎の言葉に、しんのすけは「いやぁ、それほどでもぉ」と照れたようにニヤニヤと笑みを浮かべていた。
それを横目に眺めていた森崎が、ふと気づいた。
しんのすけの今の服装は、真っ赤なTシャツに黄色のハーフパンツ。その腰部分にはベルト型のCADが巻かれているが、上着を羽織っていないため剥き出しの状態になっている。
「……野原、CADを身に付けるときは、上着を羽織るとかして外から見えないようにしろ」
「おっ? なんで?」
「周りの一般人にしてみたら、常に武器をちらつかされてるようなもんだろ。下手に威圧感を与えて怯えさせたり、逆に好戦的な奴らの目に付くのを防ぐためだよ」
「ほーほー。さすが森崎くん、そういうのに詳しいですな」
純粋に賞賛の言葉を口にするしんのすけだったが、森崎はむしろ苦々しく「別に大したことないだろ……」と彼から逃げるように目を逸らす反応を見せた。
首を傾げるしんのすけを無視して、森崎は店前を通り過ぎる通行人をぼんやりと眺め始めた。
夏休みということもあって、2人と同じくらいの年頃が一番多いように見える。その中でも半分がカップル、もう半分の内9割ほどがグループ、そして残りの1割がソリスト(気分としてはワンマンアーミーの方が近いか)といったところだ。
そんな中で森崎の目に留まったのは、1人の少女だった。
ハイネックのノースリーブシャツに膝丈のプリーツスカート、素足にサンダルという普通の格好をしていながら、それを身につけているのは10人中9人が美形と称するほどの美少女だった。少々吊り上がった目としなやかな動きが、ネコ科の大型獣(とりわけ豹といったところか)を彷彿とさせる。
森崎はその少女に釘付けとなった。美少女であることもそうだが、彼女からは魔法師であるために気づけた“違和感”があった。
そして何より、自分と同じように彼女を目で追っている気配があることに気がついた。彼女に見惚れているとかナンパを狙っているといった下心ではない、はっきりと表現するならば“害意”が伝わってくる。それは彼がときどき手伝っている“家業”故の直感だった。
「野原、あそこを歩く女性なんだが……」
「おっ? 森崎くんって、意外とああいう気が強い感じがタイプ?」
「そうじゃない。おまえの目から見て、何か“違和感”を覚えないか?」
「違和感? うーん、何だか日本人っぽくないゾ。外国の人かな?」
「……もういい、僕は行くからな」
卓上の端末で自分のアイスコーヒー分の代金を支払い、森崎は椅子を引いて席を立った。
「あっ、ちょっと待って。まだパフェ食べ終わってないから」
「知るか。じゃあな」
しんのすけの呼び止める声も無視して、森崎は先程の少女と同じ方向へと去っていった。
* * *
少女は公園地区から離れて、倉庫街の方へと歩いていく。彼女と距離を置いて後をつける森崎は、周りの通行人の数がだんだんと少なくなっていることに気がついた。いくら公園やアミューズメント施設と方向が違うとはいえ、偶然で片づけるには減り方が急すぎる。
森崎はそれを、不自然な力が働いていると結論づけた。少女が魔法を使った様子は無いので、おそらく別の何者かが犯人だ。
そうなると気になるのは、人目を無くすその動機だ。誘拐か、強盗か、それとも強姦か。少なくとも、暗殺ではないだろう。暗殺が目的ならば、わざわざこんな回りくどいことをせずとも、離れた場所から魔法でも実弾でも狙撃すれば済むのだから。
しかしこれだけ広範囲に術を展開するとなると、相手は1人や2人ではないだろう。ならば力量も分からない内に正面からやり合うのは愚行だ。相手が行動に出た瞬間に側面から奇襲、一時的に無力化した隙に彼女を連れて逃走するのが良いだろう、と森崎は頭の中で方針を立てていく。
と、倉庫エリアに入っていくと思われた少女が急な方向転換をし、2代目のレインボーブリッジ方面へと向かい始めた。いくら人目が無いとはいえ表通りには街路カメラがあるため、さすがに賊もここで襲撃を仕掛けるとは森崎も思っていなかった。
しかし、何事も予想通りにはいかないものである。
「あ、あなた達、何者なの!?」
人通りと車通りが完全に途絶えたその瞬間、今までずっと感じてきた視線が6人の男となって姿を現した。突然その男達に周りを取り囲まれた少女が、動揺しながらも彼らを睨みつけて叫び声をあげる。男性ですら得体の知れない恐怖に身を竦ませて声が出なくてもおかしくない状況で、彼女のその反応は気丈なものだった。
少女がパニック状態に陥っていないことを確認して、森崎は街路樹の陰に隠れた。CADを構えるその手は小刻みに震え、こめかみに冷たい汗が一筋流れる。
自然と荒くなっていた呼吸を整え、森崎は街路樹から一気に飛び出した。
そのままCADの引き金を引いて2発。相手が懐に手を伸ばしたのを見て、前方へ身を投げ出しながら空中で1発、転がり込みながら1発、体を起き上がらせながら1発。
森崎が使用したのは、後方と前方の加速を瞬時に切り替える2工程の加速魔法。余計なダメージを与えず一撃で相手を無力化するためのものであり、これを食らった者は脳と内臓を前後に揺さぶられて意識を刈り取られる。計5発の魔法は寸分違わず5人の男に作用し、奴らはその場に崩れ落ちていった。
そして6人目に狙いを定めようとして、森崎の心臓は大きく脈打った。
そいつの手に握られているのは、サプレッサー付きのオートマチック拳銃――実弾銃だった。魔法で反撃してくるものだと思っていた森崎は、実弾を防御する術を持ち合わせていない。今から魔法を構築していたのでは、実弾に間に合わない。
せめて射線から逸れようと森崎は脚に力を込め、
「アクショーン、キーック!」
「――――!」
突如横から弾丸のような勢いで飛んできたしんのすけ、そしてそんな彼の脚が横っ腹に突き刺さり“く”の字になって吹っ飛んでいく男に、森崎は思考が空白になるほどの驚きを覚えた。少女も同じく相当驚いたようで、目を丸くして彼を見上げながら路上に座り込んでいた。
しかしいち早く我に返った森崎が、彼女の下へと駆け寄りその手を取った。
「立てますか? とにかくここから離れましょう。こいつらも人目を憚るようですし」
最初は戸惑っていた少女だが、泣き出したりパニックになることもなく森崎の言葉に頷いて立ち上がった。
少女と手を繋いだまま、森崎は駅方面へと走り出した。高いヒールのサンダルで懸命に走る彼女の姿に、そして手から伝わってくる彼女の小さく柔らかい手の感触に、彼の中に眠る騎士道精神が掻き立てられる想いがした。
「いやーん、森崎くんったら大胆なんだからぁ」
「…………」
しかし、2人の横を並走するしんのすけのからかいに、森崎は気分がみるみる降下していく心地になった。
* * *
森崎が少女を連れて駅へと向ったのは、単純に人通りが多いために襲われる可能性が低いのと、いざとなれば公共の交通機関で遠くまで逃げられるからである。もちろん一旦バスや電車に乗ってしまうと行動が著しく制限されてしまうため、使いどころは見極めなくてはいけないが。
ところが、どこか遠くへ逃げるという提案は、他ならぬ少女自身によって却下されてしまった。
「ちょっと待ち合わせをしててね、ここを離れるわけにはいかないのよ」
「だったら相手にメールでもすれば――」
「ちょっと訳ありでね。こっちからメールできないの」
上目遣いで困惑気味の笑みを浮かべる少女に、森崎は自身の頬が紅くなるのを自覚した。“訳あり”だなんて重要なワードが聞こえてきたが、既にこの少女に対して騎士めいた義務感を抱いていた森崎は、そんな些細なことには触れないで――
「訳ありってどんな?」
一切のオブラートにも包むことなく、しんのすけが少女にそう尋ねてきた。あまりにもハッキリと言うものだから、少女だけでなく森崎も一瞬表情を固まらせてしまう。
「おい、野原! そういうのを普通に話せないから“訳あり”なんだろ!」
「でもさ、それのせいで襲われたんじゃないの? もしかしたらその子は悪い奴で、警察から逃げてる真っ最中かもしれないゾ?」
「たとえ彼女が誰だろうと、街中で平気で銃を撃とうとしていた連中が警察みたいなまともな人間のわけが無いだろ。――というか、そもそもなんで野原がここにいるんだ? カフェで別れたばかりだろ」
「んもう、せっかく助けてあげたのに。森崎くんが女の子の後をつけ始めるから、恋人がいない寂しさにストーカーするようになったのかって心配だったんだゾ」
「ス、ストーカーなんてするかぁ! 恋人がいないとか余計なお世話だ!」
どんどん脇道に逸れていく森崎としんのすけの会話に、少女が堪えきれずにフフッと笑い声を漏らした。2人はそこで少女の存在を思い出したように会話を中断し、森崎は恥ずかしさを紛らわすように咳払いをする。
「えっと、さっきは助けてくれてありがとうね。私はリン=リチャードソン、カリフォルニアの大学に通っていて、今は旅行中なの。リンって呼んでね」
「僕は森崎駿といいます。よろしくお願いします」
「オラは野原しんのすけ、しんちゃんって呼んでね」
少女・リンの自己紹介に併せて森崎としんのすけも互いの名を口にするが、リンが「えっ!」と声をあげてしんのすけに意外そうな目を向けた。
「おっ? どうしたの、リンちゃん? オラのこと知ってる?」
「えっと、ほ、ほら、あなた九校戦に出てたでしょ? そのときの試合を観てたのよ」
「ほーほー、オラもすっかり有名人ですなぁ。――同じく九校戦に出てた森崎くんには一切反応しなかったのに」
「余計なことを言うな、野原!」
流れるように始まる2人の漫才めいた遣り取りに、リンは「あはは……」と乾いた笑い声をあげるのみだった。
そんな彼女に、森崎が心持ち身を乗り出して申し出る。
「リンさんの事情については訊きません。その代わり、お迎えの方が来るまで僕に護衛を務めさせてもらえませんか?」
「……守る? あなたが、私を?」
目を丸くして問い掛けるリンに、森崎は力強く頷いた。
「この国には“袖振り合うも多生の縁”という言葉があります。僕があなたの誘拐未遂に居合わせたのも、きっと何かの縁でしょう。あなたの知り合いが迎えに来るまでの間、僕にボディーガードを務めさせていただけませんか?」
「危険だっていうのは、さっき分かったでしょう?」
「ご心配なく。家業の手伝いで、2年のキャリアがあります」
「家業の手伝いって……ああ、あなた、
それまで話半分に聞き流している雰囲気だったリンが、納得したように何度も頷いた。それは目の前の少年と百家の“森崎”が繋がったからであるが、同時にそれは彼女がボディーガードというものに馴染みがある立場の人間であることを意味している。
「でも私、今手元に持ち合わせが無いし……」
「お金を取ろうなどと思っていません。僕はただ、知らぬ振りをしたくないだけです」
「ふふっ、紳士なのね」
クスリと笑みを零すリンに、森崎は気恥ずかしさで彼女から目を逸らした。
するとちょうど逸らした先で、しんのすけと目が合った。ジトーッというオノマトペでも付きそうな半眼でこちらを見つめる彼に、森崎は思わずムッと顔をしかめる。
「……何だよ」
「別に、オラは何も言ってないゾ」
「それじゃ、せっかくだからお願いしちゃおうかしら? ――あ、でも次から私のことは“リン”って呼んでね? 今度“リンさん”なんて呼んだら、その場でバイバイしちゃうんだから」
「はい、分かりました」
リンの申し出に森崎は頭を下げて了承すると、とりあえずこの場を離れることを提案した。何人に狙われているか分からないこの状況で、襲われた場所の周辺でずっと留まっているのは得策ではない。
そういうわけで、3人は人通りの多い場所を目的地として歩き出し――
「……いや、なんで野原もついて来るんだよ」
「んもう、そんなにリンちゃんと2人きりになりたいのぉ?」
「なっ――! そんなわけないだろっ!」
「私は大歓迎よ。ボディーガードは1人でも多い方が心強いものね」
他ならぬリンが嬉しそうに手を叩いてそう言うのだから、森崎としては反対する理由は無い。
「……怪我しても知らないからな」
なので一言だけそう告げて、その場からの移動を始めた。