第72話「クリスマスの送別会だゾ」
北アメリカ大陸を版図とする北アメリカ合衆国(USNA)のテキサス州ダラス郊外に位置する、ダラス国立加速器研究所。現在ここでは全長30キロの
その内容とは、余剰次元理論に基づくマイクロブラックホールの生成・蒸発に関するもの。準備自体は2年前に終えていたのだが、安全性のリスクを読み切れないとの理由でなかなか実行には至らなかった。
しかしここに来て、急激に実験を後押しする声があがった。
その理由は、極東での軍事都市と艦隊を纏めて吹っ飛ばした“大爆発”だった。
USNAの科学者達は激しい議論の末、質量をエネルギーに変換したことによるものだと結論づけた。しかし通常の理論で質量をエネルギーに変換した場合、核分裂・核融合の際に残留物質が生じるはずなのだが、今回の爆発ではそれがまったく存在しない。つまりそれは、自分達が想定している方法で引き起こされたものではないということになる。
魔法によるものならば再現できないのも無理はないが、その仕組みが分からないとなれば、いざその矛先が自分に向いた際に対処のしようがない。せめて質量・エネルギー変換のシステムに関する手掛かりだけでも掴もうと、今回の実験と相成った。
例の“大爆発”は、おそらく今回の実験とは違うメカニズムによるものだ。しかしホーキング輻射は対消滅に比べて観測が不充分な現象であり、理論的予測に収まらないデータが得られる可能性がある、かもしれない。場合によっては“大爆発”と一致する現象が観測される、かもしれない。
そのような儚い根拠で危険な実験にゴーサインを出すというのは、通常ならば考えられないことだ。つまりはそれだけ、USNA首脳陣が精神的に追い詰められていたということかもしれない。
だからこそ、彼らは利用されたのだ。
この世のモノならざる、世界を手中に収め得るほどの実力を有する“災禍”によって。
* * *
2095年12月24日。学生にとっては2学期最後の登校日であり、世間一般ではクリスマス・イブとされている日だ。
3度の世界大戦を乗り越えた日本だが、この国は相も変わらず宗教に対して無頓着だ。一神教の絶対神ですらも神々の1柱として扱う日本人にとって、クリスマスと正月を同じように祝うことに対する抵抗など存在しない。
この時期になると、街はクリスマス一色に染まる。ここで達也は「クリスマス“商戦”一色の間違いだろう?」などと斜に構えるようなことはしない。そもそも彼自身、今から魔法科高校の友人達とクリスマスパーティーを始めようとしている真っ最中であり、見目麗しい美少女達に囲まれながら不必要な発言をして場を白けさせる必要性を感じない。そんなことをすれば、わざわざ家からサンタの衣装でやって来たしんのすけに申し訳が立たない。
それに今回のパーティは、クリスマスパーティ以外にもう1つ意味合いがある。
「それじゃ、雫ちゃんの海外留学をお祝いしまして。――メリークリスマァス!」
「メリークリスマス!」
しんのすけの挨拶、そしてクリスマスに限らずお祭り大好きな面々によるはっちゃけた歓声と共に、クリスマスパーティ兼“雫の送別会”は幕を開けた。
雫がアメリカに留学することが皆に伝えられたのは、定期試験に向けて勉強会をしていたときのこと。年が明けたらすぐ出発で、期間は3ヶ月ほど。優秀な魔法師は軍事資源の流出を防ぐために海外渡航が制限されているのだが、なぜか雫にはその許可が下りたという。雫の父親・潮の話では「交換留学だから」だそうだ。
とにかく留学が決まったのなら送別会をしようということになり、どうせクリスマスも近いのだから一緒にやっちゃおう、ということで今回のクリスマスパーティが企画された。
会場は達也たちが普段から懇意にしている喫茶店“アイネブリーゼ”が選ばれ、マスターの厚意で貸切にしてもらっている。テーブルには大きな生クリームのホールケーキが用意されているが、真ん中に飾られたホワイトチョコの板には“MERRY XMAS”と書かれていた。この店の流儀に従えば“WEIHNACHTEN”の方が相応しいのでは、なんて気にしているのは達也くらいである。
「ねぇねぇ、雫! 留学先ってどこなの?」
「バークレー」
「あれ? アメリカの魔法研究って、ボストンのイメージが強いんだけど」
「東海岸は、雰囲気が良くないらしくて」
「ああ、最近“人間主義者”が騒いでるってニュースでやってたよ」
幹比古の言葉に、特にレオやエリカといった面々がうんざりした表情を浮かべる。もちろん、幹比古に向けられたものではない。
一方、フライドチキンをこれでもかと頬張り、ハムスターのように頬を膨らませているしんのすけだけが、彼らの態度の意図が分からずキョトンとしていた。
「おっ? なんでみんな、うんざりしてるの? というか、ニンゲンシュギシャって何?」
しんのすけの口調は皆に向けたものだったが、その視線は既に達也へと固定されていた。4月からの付き合いによって、しんのすけの中では『分からないことはとりあえず達也に訊けば答えてくれる』という信頼が生まれているようだ。
「“人間主義”というのは、元々はキリスト教亜種のカルト運動から生まれた『人は人に許された力でのみ生きなければならない』という思想を指す言葉だ。奇跡は神にのみ許された御業であり、神が定めた自然の摂理を神ならざる者が捻じ曲げるのは悪魔の所業である、というのが奴らの主張らしい」
はたして今回も、達也はしんのすけの信頼に応えて見事に説明をしてみせた。言葉は知っていても詳細は知らなかったらしいエリカやレオなどが、達也の説明に何度も小さく頷いていた。
もっとも、だからといって彼女達の反応が変わるわけではなかったが。
「表向きの理屈がどうであれ、結局は自分達の主張を通すために暴力的な行動に出たら意味が無いっての」
「本当だぜ。結局は“魔女狩り”が“魔法師狩り”に変わっただけじゃねぇか。歴史は繰り返す、ってヤツだな」
「まったくの繰り返し、ってわけでもないんじゃないか。魔女狩りにどんな背景があったか知らないが、ここ最近のは“新白人主義”と根っこが同じみたいだからな」
達也の言葉に、全員の視線が彼へと向いた。
「ふーん、そうなんだ」
「活動団体のメンバーリストを見てると、結構な確率で同じ名前を見掛けるからな」
「へぇ、そりゃ知らなかったな。メンバーリストなんて見たことねぇぞ」
「そりゃな。普通は表に出るようなものでもないし」
「んもう、せっかくのクリスマスパーティなのに、そんな変な話しないの!」
口元を油でベタベタにして叱りつけるしんのすけに、達也も苦笑いで肩を竦めた。確かにクリスマスパーティには相応しくない話題だったと反省したのである。
エリカもそう思ったのか、クルリと雫に向き直って明るい声色で別の話題を振った。
「それで雫、代わりに来る子は分かってるの?」
「代わり?」
「“交換留学”なんでしょ?」
「……同じ歳の女の子、ってだけは」
「それ以上は分からない?」
エリカの問い掛けに、雫は首を縦に振ることで答えた。
「そうですよね。自分の代わりに誰が来るのか、気になったところで答えてくれる人がいませんものね」
美月の言葉に、その場にいた誰もが納得したように頷いた。結局留学生の話はそこで打ち切りとなり、その後は留学先の学校のことや勉強の内容などにシフトしていった。
そんな中、テーブルに並べられた料理を取りに行くために達也が皆の輪から離れた。テーブルにはケーキやフライドチキン、さらにはピザやフライドポテトなどパーティの定番メニューがこれでもかと並んでいる。普段から店でも提供されているメニューはマスターの手作りだが、それ以外は料理の手配を担当したしんのすけが用意したものである。普段は深雪の作った料理を食べることがほとんどの達也には、あまり縁のないものばかりだった。
さて、どれを食べようか、とそれらの料理を物色する達也に、自然な足取りを装って近づく者がいた。
「やっほー、達也くん」
「どうしたエリカ、お代わりか?」
「あーっと、それ“も”あるかな?」
エリカは悪戯っぽい笑みを浮かべ、チラリと周りを一瞥した。他の面々とは少し距離が空いており、小声で話せば喧騒が壁となって周りには聞こえない。
エリカはそれを確認したうえで、スッと達也へと身を乗り出した。
「達也くんから見てさ、今回の“留学”ってどう思う?」
そう問い掛ける彼女の表情は、口元こそ笑ってはいるものの、その目の奥には剣呑な雰囲気が見え隠れしていた。下手な誤魔化しはすぐに見破ってやる、とでも言わんばかりに。
「……エリカは、どう思う?」
「雫くらいの魔法資質がありながら留学が認められた、ってのが不自然だよね。最初は“大実業家の娘”としての留学かなって思ってたけど、だったら相手のことを知らないなんて変でしょ。この時期にいきなり留学の話が持ち上がるってのも、裏があるような気がしてならないし」
「裏、か……。確かに不自然な点は見受けられるが、本当にただの留学生かもしれないぞ? せっかくの機会だ、その海外の魔法師から色々と学べることも多いんじゃないか?」
達也の言葉はもっともだが、それを聞いたエリカは「ん?」と首を傾げた。
「留学生って、雫の代わりだからA組に入るんでしょ? アタシ達とは接点無いんじゃない?」
「いいや、そうとも限らないぞ? 何年ぶりか分からない留学生となれば、同じクラスで生徒会副会長の深雪が自然と留学生の面倒を見ることになるだろう。そうなれば俺達とも無関係ではなくなるさ」
「成程! つまり、そうやって関係を築きながら探りを入れれば良いってことね!」
「いや、そんな意図は無かったんだが……」
積極的に留学生と関わろうとするエリカに、むしろ関わりを持ちたくない達也は溜息を吐かずにいられなかった。
なぜなら彼は、2ヶ月ほど前に大亜連合の軍事都市と艦隊を吹っ飛ばした“マテリアル・バースト”の仕組みと術者を突き止めるべくUSNAの魔法師部隊“スターズ”が近々やって来ることを、真夜からの“忠告”で知っているからだ。そんなタイミングでの“留学生”となれば、さすがに偶然の一言で片付けられるものではない。
もっとも留学の話が実現しようとしている時点で、真夜がそれを黙認しているのは明白だろう。四葉家は十師族の中でも七草家と主導的地位を争う地位にあり、優秀な魔法資質を持つ魔法科高校生の留学というイレギュラーな事態を知らないはずは無いのだから。
「仮にその留学生に裏があったとして、エリカはそいつの目的が何だと思っているんだ?」
「そりゃあ、やっぱり――」
エリカは具体的な名前を挙げず、視線を投げることで回答とした。
しかしその視線の先は、正面にいる達也ではなかった。
彼女の視線が向けられているのは、友人達と談笑するしんのすけだった。
「達也くんだって、とっくに気づいてるでしょ? しんちゃんは多分、アタシが思ってるよりももっとずっと大きな意味で、色々な奴らの注目を集めている。この前の横浜だって、そんな奴らがしんちゃんを狙った結果なんじゃないか、なんて思ってるの」
エリカは達也のように軍と関わりがある者達とは違い、大亜連合の工作部隊が引き起こした横浜事変がしんのすけ1人を拉致するための隠れ蓑だったことを知っているわけではない。しかし彼女の野性的な嗅覚は侮れず、嘘を吐くのが下手なしんのすけの態度である程度の察しはついているのだろう。
しかしそれでも、エリカは彼の傍を離れる選択肢を採らなかった。あくまで彼の友人であろうとし、そしてそれを脅かすかもしれない存在へ立ち向かうことを選択した。
「とにかく、まだそうと決まったわけではない。下手に先走りしすぎても良いことは無いぞ」
「そりゃ、まぁ、そうだけどさ……」
渋々ながらも納得してみせるエリカに、我ながら白々しいな、と達也は自嘲した。
* * *
日本でクリスマスパーティが行われている頃、太平洋を隔てた北米大陸中部ではまだクリスマス・イブの前夜だった。単なるイベントの1つとして捉えることの多い日本人と違い、アメリカ人の多くは遥かに真摯に、敬虔に、熱心にクリスマスを迎える。なので人々は明日に備えてぐっすりと眠っており、街は静まり返っていた。
しかしUSNAの大都市・テキサス州ダラスの一画では、ビルからビルへ跳び移って逃亡を図る者と、その不審者を頭上から包囲する複数の魔法師が暗躍していた。まだ普及が始まったばかりの飛行魔法特化型CADを使用していることから、追い掛けている集団は警察か軍の関係者ということが推察できる。
「止まりなさい、アルフレッド・フォーマルハウト中尉! もはや逃げ切れないのは分かっているはずです!」
と、そのとき、逃亡者を包囲する魔法師の1人、目の周りを覆う仮面をつけ、首に大きなストールを巻いた小柄な人影が、逃亡者の正面に下り立って進路を塞いだ。少女のように甲高いその声に、呼び掛けられた逃亡者はピタリと足を止める。
「なぜですか、フレディ? “一等星”のコードを与えられたあなたともあろう人が、なぜ隊を脱走するなんて真似を……」
「…………」
先程の居丈高な呼び掛けから一転し、不安と戸惑いの入り混じった声で問い掛けるが、逃亡者からの返事は無かった。
「この街で起きている連続焼殺事件も、あなたのバイロキネシスによるものだと言う者もいます。まさかとは思いますが、あなたの仕業ではありませんよね?」
「…………」
「――答えてください、フレディ!」
その瞬間、逃亡者に反応があった。
言葉を使った弁明ではなく、魔法を使った迎撃というものだったが。
咄嗟にそれを感じ取った少女は、首に巻いていたストールを残して後ろに飛び退いた。逃亡者の視線から少女を隠すことになったそのストールは、次の瞬間、何の火種も無いはずにも拘わらず突然炎を上げて燃え盛った。
バイロキネシスは体系化された現代魔法ではなく、かつては“超能力”とも言われた発火念力である。CADを使わず、CADよりも圧倒的に早い攻撃を仕掛けることが可能だが、視線をキーとして発動する能力のため、こうして障害物を超えて向こう側にいる人物を攻撃することはできない。
だからこそ、バイロキネシスの発動が確認された次の瞬間、逃亡者の周りから一切の光が消えた。一定の空間に光が侵入しなくなる“ミラー・ケージ”によって、逃亡者が魔法を発動する視線を遮ったのである。
それに気づいた逃亡者が離脱を試みるが、彼は既に別の魔法によってその身を拘束されていた。
「フォーマルハウト中尉! 連邦軍刑法特別条例に基づく“スターズ総隊長”の権限により、あなたを処断します!」
悲痛な声でそう叫んだ仮面の少女は、逃亡者に向けてサプレッサー付きの自動拳銃を構えた。
強力な情報強化によって一切の魔法干渉が無効化された弾丸が、逃亡者の心臓を1発で貫いた。
スターズ専用機のクラスターファンVTOLで基地に帰還し、統合参謀本部に暗号通信で報告を済ませた後、USNA軍統合参謀本部直属魔法師部隊“スターズ”の総隊長であるアンジー・シリウスことアンジェリーナ・クドウ・シールズ少佐は、制服のまま自室のベッドに横になった。そのまま寝返りを打って俯せになり、枕に顔を押しつける。
彼女にとって、処刑任務は何回やってもけっして慣れることはなかった。最初のように任務終了後に嘔吐することは無くなったが、それは単に心の痛みに体が慣れただけのことである。むしろ任務を経験する度に、心の痛みは大きくなっていった。
「……何をやっているんだろう、私」
ふいに呟いたそのとき、部屋の呼び鈴が鳴った。それを聞いたシリウス少佐は苦笑いを浮かべてベッドから起き上がり、リモコンで鍵を開けながらドアホンのマイクに向かって「どうぞ」と呼び掛けた。
「失礼します、総隊長」
そして入ってきたのは、スターズのナンバーツーであり、彼女が不在のときは総隊長の任務を代行する第1隊の隊長、ベンジャミン・カノープス少佐だった。スターズは階級と地位がリンクしていない編制を採っているため、隊長と総隊長の階級が同じということは珍しくない。
スターズは12の部隊から成り、総隊長は各隊長を統括する立場にある。つまりシリウス少佐の部下は自分の部下の面倒を見なければいけない立場にあるのだが、カノープス少佐の場合はこういう任務の後は決まって様子を見に来てくれる。おそらく彼自身に彼女よりも2歳年下の娘がいることが大きいのだろう。
「差し入れです、総隊長」
彼はいかにも高級士官といった、叩き上げの兵士とも民間のビジネスマンとも違うスマートな所作で、シリウス少佐に湯気を立てるハニーミルクを手渡した。自分の父親にも似た年齢の部下からの気遣いに、彼女は照れ臭いような申し訳ないような表情を浮かべながらそれを受け取った。
「ありがとうございます、ベン」
「どういたしまして。――“準備”は、もう終わったんですか?」
「ええ、大体は」
「さすがに手際が良いですね。日本人の血、というヤツでしょうか?」
「日本人だからって、みんなが几帳面というわけではありませんよ」
自分の体に流れる4分の1の血を言われて、シリウス少佐は軽く肩を竦めた。
「せっかくの機会です。しばらく因果な任務のことは忘れて、のんびり羽を伸ばしてください」
「ベン、休暇じゃなくて特別任務です。……それに、のんびり羽を伸ばすなんてできるわけないじゃないですか。我々がこれから調査するのは、あの“稀代の英雄”と近しい人物達なんですよ」
「だからこそですよ、総隊長。確かに総隊長の役目はとても重要ですが、下手な真似をして総隊長の身に何かあってはそれこそ目も当てられません。それくらいならば、いっそ何の成果も挙げられなかった方がマシなレベルです」
彼女が担当するターゲットである東京の高校に通う兄妹2人は、世界中の有力者が一目置き、そして同時に最大級の警戒心を抱く“野原しんのすけ”と親しい関係にあった。妹はクラスメイトとして、兄は学内自治活動での良き相棒として、友人と呼んで差し支えない間柄となっている。
それが上層部の頭を大いに悩ませた。しんのすけが有する“主人公補正”は、自身やその周辺の人物に敵対的行動を取る者に対して発動される。その容疑者2人を下手に突っつくことで力の矛先がこちらに向けば、どのような結果になるか予想もできない。かといって、軍事的脅威をそのまま放置しておくこともできない。
そうして考えた結果、万が一に備えて畑違いではあるが戦闘力は申し分ないシリウス少佐を矢面に立たせ、多くの専門家が彼女のバックアップに当たるという体制を採用したのである。
「野原しんのすけもそうですが、この2人自身も油断ならない相手です。戦略核を凌駕する魔法の使い手かもしれないうえに、こちらの調査でも正体を掴ませなかった。だからこそ総隊長の役目は諜報そのものではなく、容疑者に接触して揺さぶりを掛ける面の方が大きいと思われます」
「ええ、そうでしょうね。諜報技能に関しては、私は素人同然ですから」
「だとしたら、変に気負わずに学生生活を満喫した方が良いかもしれませんよ。その方が、相手が隙を見せる可能性も高い」
「……まぁ、そうかもしれませんね」
シリウス少佐はカップをテーブルに置いて立ち上がると、カノープス少佐の正面へと回った。
「ベン、留守中のことはよろしくお願いします。残りの脱走者の処分も終わっていない状況で、本来私が負うべき役割をあなたに押しつけるのは心苦しいのですが……、私の代わりをお願いできるのはあなたしかいませんので」
「お任せください、総隊長。少し早いですが、いってらっしゃいませ」
慈しみの籠もった笑顔で敬礼をする部下に、シリウス少佐は感謝の意を込めた笑顔で返した。
* * *
脱走兵が人知れず処断された現場から2キロほど離れた路地裏で、1人の男がフラフラと覚束ない足取りで歩いていた。
麻薬密売の取引所となっているクラブに入り浸り、自身もバイトと称して何回か運び屋のような真似をしている二十代半ばのその男は、酒を呑んで上機嫌に鼻歌を口ずさみながら自身の家へと向かっていた。夜も更けているため近所迷惑になりかねないが、周りには彼を注意する通行人の姿も無い。
と、そんな男が突然苦しそうに声をあげながら、その場に倒れ込んだ。上着の左胸辺りを鷲掴みにしながら苦悶の表情を浮かべていたが、やがてパタリと動きを止めて静まり返る。
そうしてしばらく経った後、男が何事も無かったかのようにスッと立ち上がった。その表情には苦悶の色は微塵も無く、体中から不機嫌を表すオーラが滲み出ている。
そして男は、ポツリと吐き捨てた。
「――ったく、暑苦しいお嬢ちゃんだったわ。ああいうの大嫌い」