レオが渋谷の居酒屋で話し込んでいたのと、ほぼ同時刻。
ベッドで眠っていたリーナが、同居人のシルヴィアに叩き起こされた。正規の軍人になって3年以上、スターズの総隊長になって1年半が経った彼女の体は、こういう非常事態にすぐさま意識を覚醒するようにできていた。
リーナはベッドから起き上がると、すっかり覚めたクリアな表情でシルヴィアに問い掛ける。
「何事ですか、シルヴィ」
「カノープス少佐から緊急の連絡です」
USNA国内にてスターズ総隊長代行の任に就いているベンジャミン・カノープス少佐は、スターズの中でも屈指の常識人だ。日本とアメリカの時差を充分理解しており、そんな彼がこんな時間に連絡してきたという事実だけでリーナの表情が緊迫の色に染まり、返事をする間も惜しんで無線機の前へ走った。
「ベン、お待たせしました。音声のみで失礼します」
『こちらこそ、お休み中に申し訳ございません』
「構いません。何が起こったのですか?」
『先月脱走した者達の行方が分かりました』
カノープス少佐の報告に、リーナの目が大きく見開かれた。
先月に発生したスターズ一等星級、アルフレッド・フォーマルハウト中尉の脱走事件は記憶に新しいが、USNA軍首脳部にも大きな衝撃を与えたその事件は、リーナの手によって本人が“処分”されたことで終わりではなかった。同時に7人もの魔法師や魔工師が脱走し、その中には最下級の“
「どこです、それは!」
『それが……、日本です。しかも横浜に上陸後は、東京に潜伏しているものと思われます』
「なぜ日本……、しかもこの東京にですか!」
『統合参謀本部は、追跡者を追加派遣することを決定致しました。日本政府には極秘で、です』
外国領土内での諜報活動と、戦闘行為を伴う脱走者の追跡作戦では、相手国政府に対する心証がまるで異なる。主権に対する重大な挑発行為として国交断絶に発展する恐れすらある決定を下したことに、ペンタゴンがいかにこの一件を重大視しているかリーナは改めて思い知った。
『参謀本部からの指令をお伝えします。アンジー・シリウス少佐に与えられた現任務を優先度第2位とし、脱走者の追跡を最優先せよ、とのことです』
「了解しました、と本部に伝えてください」
『了解です。総隊長、お気をつけて』
その言葉と共に、通信は途切れた。顔を俯かせて考え込むリーナを、シルヴィアが不安そうな表情で見守る。
リーナの頭を占めているのは、こんな思いだった。
――もしかして、シンちゃんの“主人公補正”が発動した……?
とにかく今夜はもう眠れないな、とリーナはむりやり考えを打ち切った。
* * *
週明けの教室は、怪奇事件の話題で持ちきりだった。
国内で2位の規模を誇るニュースサイトでスクープ記事として配信されて以降、様々な報道機関がこぞってその“都内連続猟奇殺人事件”を報じていた。殊更にオカルト面を強調したセンセーショナルな報道によって、瞬く間に日本中へと広まっていった。
そしてそれが広まるにつれて、日本中で推理合戦が始まった。プロの犯罪組織による犯行説、臓器売買ならぬ血液売買のブローカー説、あるいは本当に“
「おはよっ、達也くん! ねぇねぇ、昨日のニュース観た?」
読者を煽るような報道にはけっして踊らされず、しかし故意犯的に踊ってみせるタイプの筆頭であろうエリカが、教室に入ってきたばかりの達也に満面の笑みで話し掛けてきた。
「……ニュースというと、“吸血鬼”の?」
「そう! アレってさ、やっぱり単独犯じゃないよね? プロの犯罪組織とか? アタシとしては、臓器売買ならぬ“血液売買”組織の犯行って説に1票なんだけど」
「それだと1割しか血を抜かなかった理由が分からないな」
そんな会話を交わしながら達也は自分の席に向かい、椅子に座る前にエリカが彼の机に浅く腰掛けた。その姿勢から体を捻って顔を近づけてくるが、1年生の中では深雪(とリーナ)に次ぐ容姿と評される彼女の顔を間近で見る達也の感想は『随分と体が柔らかいな』程度だった。
「殺すつもりは無かったとか? 生かしておけば血液工場に使えただろうし」
「だったら死体を街中に放置しないだろ。それに血を抜き取った跡が無いというのも不可解だ」
血が抜き取られていた、血を抜いた痕跡が残っていなかった、という事実はいたずらに世間を騒がせないよう当局が隠しておきたかったことだろうが、なぜかそれらの情報は“吸血鬼事件”とセットで世に広まってしまっている。
2人がそんな話をしていると、隣の席から美月が表情を曇らせて、というより少しビクビクした表情で会話に入ってきた。
「テレビで言ってるように、オカルト的な存在による殺人なんでしょうか?」
「吸血鬼なんてものが本当にいるのなら、とうに分かっていそうなものだが……」
現代魔法が理論体系化される過程で、それまで“魔法使い”と呼ばれていた者達の存在も明るみとなった。もし実体を持つ妖怪変化の類が実在するのならその流れで発見されていそうなものだ、と達也は考えていた。
しかし同時に達也は、しんのすけが過去に関わった事件には地球外生命体など未だにオカルト扱いされている存在が関与している事実も踏まえ、そういった存在はどこかに身を潜めているだけで実在していても不思議ではない、とも考えていた。それこそ、しんのすけの“主人公補正”によってそういった存在が引き寄せられるまでありそうだ。
しかし達也はそんなことをおくびにも出さず、現時点で意見を仰げる“オカルト専門家”に尋ねることにした。
「おまえはどうだ、幹比古? 妖怪とか魔物とか、そんな存在が関わってると思うか?」
「ただの人間の仕業とは思えないけど、断言はできないな……」
「達也くん自身はどう思ってるの? もしかして、魔法師絡みだと思ってるとか?」
「街路カメラの
“精神干渉系の系統外が使える術者”の辺りで達也の脳裏に“或る人物”の顔が浮かんだのは、完全に余談である。
と、いつも
「はよッス、何の話だ?」
「おはよ、レオくん」
「始業ギリギリに来るとは、今日は随分と遅かったな?」
「まぁ、ちょっと野暮用で夜更かししちまって……。んで、何の話?」
「例の“吸血鬼事件”ですよ」
美月がそう答えると、レオは顔をしかめた。
彼の口から「またかよ」という呟きが聞こえた気がしたが、端末に1時限目開始のメッセージが表示されたため、確かめる間も無く朝の井戸端会議はお開きとなった。
そんな彼らの遣り取りと、ほぼ同時。
A組の教室でも、E組と同じように“吸血鬼事件”で盛り上がっていた。一科生と二科生という隔たりはあるものの、こういった反応は年頃の若者らしく違いなど存在しない。深雪とほのかもその例に漏れず事件の話をしているが、他のクラスメイトほど興奮した様子は無く、あくまで落ち着いた理知的な会話をしている。
と、教室に入ってきた1人の男子生徒が、そんな2人に足早に割って入る。深雪に対してそんな真似ができる男子など、このクラスでは1人だけだろう。
「2人共、こんばんは~」
「朝だから“おはよう”だよ、しんちゃん」
「おはよう、しんちゃん」
いつもの調子で挨拶をするしんのすけに、ほのかが苦笑い混じりで挨拶を返し、深雪がそれに続いた。
しんのすけは自分の席に荷物を置き、2人の近くの壁に寄り掛かった。そうして初めて教室を見渡し、普段にも増して騒がしい教室に気づく。
「何か騒がしいね。何かあったの?」
「ほら、例の“吸血鬼事件”だよ」
「吸血鬼? 何それ?」
キョトンとした顔で首を傾げるしんのすけに、深雪とほのかは驚きで目を見開き、しかしすぐに納得したように元に戻った。世間がそれ一色で染まっている中でまったく知らないというのも逆に凄いが、ニュースサイトをチェックする彼の姿が想像できないのも確かだ。
ほのかがニュースサイトに書かれてた内容を一通り説明すると、しんのすけは「ほーほー」と普段とさほど変わらないリアクションを見せた。こういう話題には真っ先に食いつきそうな印象だったが、吸血鬼というオカルトな存在にも反応が薄い。
「吸血鬼かぁ。ニンニクとか効くのかな?」
「ニンニクが効くかどうかは分からないけど、雫の話だとアメリカでも似たような事件が起こってるんだって。雫のいる西海岸じゃなくて、中南部のダラスの周辺らしいんだけど」
「ほーほー、ワールドワイドですなぁ」
「アメリカでも起こってるっていうのは、ニュースサイトにも無かったわね」
「向こうでも報道規制は結構あるみたい。雫が知ってるのもニュースサイトじゃなくて、留学先の情報通の生徒に聞いたって言ってたよ」
達也が(叔母の警告のこともあって)USNA関連のニュースを熱心にチェックしていたことを知る深雪だが、兄からそのような話は聞いたことが無かった。特に自分に隠すような話題でもないし、もしかしたら兄も知らなかったのかもしれない。
そうなると、そんな事件を知っていたという“留学先の情報通の生徒”というのが俄然気になってくる。深雪は秘かに、この件を兄に報告することを心に決めた。
しかし、しんのすけにとって“吸血鬼事件”は既に興味を失った話題のようで、
「あれっ? そういえばリーナちゃんは? オラよりも遅いなんて珍しいゾ」
「あぁ、彼女は今日休みよ。お
「ふーん」
深雪の答えにしんのすけは納得したようで、壁から背中を離してリーナの席へと腰を下ろした。持ち主が来ないと分かって、始業まで席を借りようと考えたのだろう。
彼のそんな反応に、どうやら詳しい事情は知らないようだ、と深雪は結論づけた。
* * *
1年生や2年生は通常通りの日程で授業が行われているが、3年生は既に自由登校となっている。下級生が教室や実習室に拘束されているのを尻目に、3年生の男女2人が誰もいない部室でこっそりと顔を合わせていた。
しかしながら、そのシチュエーションを聞いて当然のように想像される甘い雰囲気は、この2人の間には皆無だった。いくらこの2人――七草真由美と十文字克人がそれぞれの親からいずれ結婚相手にと考えられているとはいえ、本人達には関係の無いことだった。
「なんで私達がわざわざこんな所で、とは思うけどね」
「すまない、人目につかない場所が良いと判断した。四葉を刺激するのは十文字家としても避けたいところだ」
「ウチと四葉家が冷戦状態なものだから……。まったく、あの狸親父は余計なことを……」
「七草でも、そういう言い方をするんだな」
「あら、はしたなかったかしら? オホホホホ」
芝居っ気たっぷりにしなを作る真由美に、克人が僅かに苦笑を浮かべた。
「おまえの相手をしていると、男扱いされてないように感じるときが時々あるぞ」
「あら、そんなことないわよ? 十文字くんは私の知ってる限りでも、ピカイチに男らしいわ。入試のときから3年間ずっとライバルだったから、今更そういうことを意識できないだけ」
真由美はそう言って一頻り笑うと、途端にその表情を真剣なものに変えた。とはいえ、笑っている間もその雰囲気にはどことなく重苦しいものがあったので、“スイッチを切り替えた”というほどではなかったが。
「七草家当主・七草弘一からのメッセージをお伝えします。――七草家は、十文字家との共闘を望みます」
「穏やかではないな。“協調”ではなく“共闘”とは」
克人が目線で続きを促すと、真由美はそれを感じ取って口を開いた。
「“吸血鬼事件”について、どの程度知ってる?」
「報道されている以上のことは知らん。当家は手駒が多くないのでな」
「十文字家のモットーは“一騎当千”だものね。無駄に数だけ多い七草家で分かってる限りでは、吸血鬼事件の犠牲者は報道されている数の3倍、昨日の時点で24人の犠牲者が確認されているわ」
さすがの克人もその新事実には驚きを隠せなかったようで、僅かに目を見開いた。
「……東京近辺のみで、か?」
「正確には、都心部のみで、よ」
「警察が把握していない被害者を、七草家が把握している。しかも被害が発生しているのは、限られた狭い区域内……。もしや被害に遭っているのは、七草の関係者か?」
「半分正解。警察が把握していない被害者は、全員ウチと協力関係にある魔法師よ。それ以外の被害者も、魔法師あるいは魔法の資質を持っていた人だと判明している。魔法大学の学生とかね」
「つまり犯人は、魔法師を狙っているということか……!」
その瞬間、克人の表情に凄みが増した。普段から高校生とは思えない威圧感を放っている彼がそんなことをするものだから、至近距離でそれを目の当たりにした真由美が表情を引き攣らせて僅かに後退った。
「……十文字くん、ちょっと怖いんだけど」
「むっ、すまん」
「……犯人が単独か複数かは分からないけど、少なくとも魔法師を狙っていることは確かよ。時系列的には魔法大学の学生や職員が最初に被害に遭って、それを調査していた七草の関係者が返り討ちに遭って、そして被害はなおも拡大しているって感じなんだけど」
「何か手掛かりは無いのか? 七草の魔法師を害するほどの実力とすると、考えられるのは強化兵か魔法師だろう。それも外国人の可能性が高い。事件発生の前後に入国あるいは上京してきた外国人の中に疑わしい者は?」
克人の質問に、真由美は残念そうに首を横に振った。さすがにそれくらいのことは思いついていたのだろう。
「その時期に入国してきた外国人といえば、USNAから来た魔法師の留学生や魔法技術者かしら。当校にも1人、留学生がいるわね。――彼女、どう思う?」
「怪しいとは思うが、犯人ではないだろう。まったくの無関係とは思わないが、当面は放っておいて構わないのではないか?」
「十文字くんがそう言うなら……」
真由美としても本気でリーナを疑っているわけではないようで、自信なさげに目を伏せながらもその仮説を引っ込めた。
そして彼女が頭の中に思い描いている『野原しんのすけに関係する者達の仕業ではないか』という仮説については、敢えて口に出さないことにした。現状それを裏付けるだけの証拠が無いというのもあるが、口に出した瞬間に現実化しそうで怖い、というのが偽らざる本音だった。
「しかしそういうことなら、尚更四葉とも協力すべきだと思うのだが」
「本当は私もそう思うんだけど……。
「今回の件で協力を仰ぐのは難しい、か……。弘一殿と真夜殿との“確執”を考えれば分からなくもないが、四葉がここまで態度を硬化させるのも珍しい」
四葉は取り憑かれたように自らの性能アップのみに邁進し、他の家が何をしようと気にしないというスタンスを取ってきた。他の家が多かれ少なかれ政治的な駆け引きを加味したうえで十師族に残っているのに対し、ただその実力のみで十師族の座を守り続けているというのは、十師族の中においてもひたすら異端である。
だからこそ、こうして明確な対立姿勢を四葉が取ってきたことは無かったはずだった。
「……いったい何をしたのか、訊いても良いか?」
「私も詳しくは知らないんだけど、四葉の息が掛かっている国防軍情報部の某セクションに、あの狸親父がこっそり割り込みを掛けたみたいで……」
本当に余計なことをしてくれやがって、とでも言いたげに真由美の表情が険しくなっていった。少なくない時間を掛けて平静を取り戻した彼女は、改めて克人へと向き直って口を開いた。
「それで、如何でしょう。十文字家は、七草家と共闘していただけませんか?」
「協力しよう。十文字としても、この事態は放置しておけないからな」
相変わらず即断での頼もしい言葉に、真由美は感心したように何度も頷いていた。
頭の中で誰と比べていたのかは、あえて追及しないでおこう。
* * *
十師族の直系2人の会話の中にほんの少しでも話題に挙がっていた留学生・リーナは、学校へ行かずにUSNA大使館を訪れていた。通信回線越しに話すことができない重要案件についてミーティングを行うためである。
「つまりフレディ……いえ、フォーマルハウト中尉の大脳皮質には、普通の人間にけっして見られないニューロン構造が形成されていた、ということですか?」
「“普通の人間”では語弊があるかもしれません。“魔法師を含めたこれまでの人間”としましょう」
リーナの質問に答えたのは、白衣こそ着ていないものの科学者然とした外見の男だった。
「解剖の結果、フォーマルハウト中尉の大脳には、これまで観察例の無かったニューロン構造が発見されました。具体的には、前頭前皮質に小規模の
曖昧な表情を浮かべる参加者(リーナもその1人だ)が多いことを受け、その男が大学の講義のように説明を始めた。
人間の大脳は大きく2つ、“右脳”と“左脳”に分かれている。この2つは完全に分離しているわけではなく、それぞれの中心部を架け橋のように繋ぐ組織が存在する。これが“脳梁”である。
つまり、普通の人間の大脳は中心部にしか左右を繋ぐ組織が無く、表面部分である前頭前皮質に脳梁があるはずがない。
「そこに脳梁があったとして、どのような機能を果たすと考えられるんだ? 前頭前皮質というと、思考力や判断力と密接な関係のある部位だと聞いたことがある。そこに新たな脳細胞が形成されるということは、思考力に影響があるということか?」
向かい側に座っていた高級武官からの質問に、科学者は愛想笑いを浮かべて首を横に振った。
「我々USNAの魔法研究者の間では、大脳は独立した思考器官ではなく、真の思考主体であるプシオン情報体――いわゆる“精神”からの情報を肉体に、肉体からの情報を精神に送信する通信器官である、という仮説が支持されています。この仮説に従うならば、フォーマルハウト中尉の大脳に形成された新たなニューロン構造は、従来ダウンロードされることのなかった未知の精神構造とリンクするものである、と考えられます」
仮説に基づく理論というのは、どうにも抽象的で雲を掴むような話になりがちだ。参加者の顔にまたしても途方に暮れる表情が浮かぶ中、考え込んでいたリーナが発言を求めて手を挙げた。
「少佐、何か?」
科学者に発言を促されても、リーナはなかなか言葉を発しない。そんな状況ではないと分かっていながらも目を惹かれずにはおけない彼女の唇が動いたのは、それから3秒ほど経ってからのことだった。
「ドクター、その未知の精神機能が、外部から意識に干渉する未知の魔法という可能性はありますか?」
「フォーマルハウト中尉が何者かに操られていた、という可能性を指しているのだとしたら、残念ながらその可能性はありません。仮説ではありますが、肉体と精神は1対1で対応するものと考えて間違いありません。他者の精神に介入できたとしても、それが大脳の組織構造にまで影響することは無いでしょう」
間髪入れぬ科学者の返答に、リーナは目に見えて落ち込んだ。
それを気の毒に思ったのか、その科学者は即座に言葉を続けた。
「もっとも、他者の精神構造そのものを作り替えるような強力な魔法ならば、それも可能かもしれませんが」
「精神構造、そのものを……」
そのフレーズから、リーナは1人の魔法師を思い浮かべた。
今から30年ほど前、当時十代だったその少女が引き起こした数々の所業は、当時の魔法師や各国有力者を恐怖に震え上がらせた。精神構造そのものを作り替え、小国ならばたった1人で落とすことも可能な彼女は、スターズにおいても“伝説”として語られている。
しかし彼女は、20歳を超えた辺りで表舞台から突如姿を消し、それ以降の消息については何も明かされていない。死亡したとの情報は流れていないのでまだ生きているのかもしれないし、もしかしたら結婚して子供もいるのかもしれない。
――もし“彼女”が犯人だとしたら、そのときは……。
その伝説の魔法師“四葉深夜”の名前を思い浮かべながら、リーナは1人覚悟を決めた。
「……あら? ひょっとして、眠っていたのかしら?」
「はい、深夜様。それはもう、ぐっすりと」
外の冷気を内部に一切伝えることなく、太陽の光によって発生する熱を蓄えるサンルームは、冬場でも心地良い暖かさに包まれている。そのような場所で読書をすれば、穏やかな陽気によって眠気を誘われること請け合いだろう。
事実、自然の光を照明と暖房代わりにして読書をしていた四葉深夜(つい数年前までは司波深夜だったが、離婚した現在では四葉姓に戻っている)は、いつの間にか夢の世界へと旅立っていた意識を現実世界へ引き戻し、隣で紅茶の用意をしていた桜井穂波が微笑んで彼女を出迎えた。
深夜は両腕を挙げて大きく伸びをすると、ふわぁ、と大きなあくびをした。かつて世界中を震え上がらせた“精神構造干渉魔法”の世界唯一の使い手だとはとても思えない、彼女のガーディアンである桜井ですらほのぼのとしてしまう姿である。
「……ここはいつも平和ね。東京とは大違い」
「達也くんたちは、大丈夫なんでしょうか?」
2人の頭の中には、現在東京にて極秘任務中のスターズ、そして彼らの来日とほぼ時期を同じくして発生した“吸血鬼事件”が思い浮かんでいた。
「桜井さんは、今回の事件の犯人をどう見るかしら?」
その口振りは事件が発覚してから推理遊びをして楽しむ様々な人間達のようだったが、その目つきだけは獲物を探す肉食獣のようにギラリと鈍く光っている。
「そうですね……。外傷も無しに血液が抜き取られているなんて真似、普通の人間にできるなんて思えません。巷では“吸血鬼”の仕業だなんてまことしやかに語られていますが、もしかしたら本当にそういった未知の存在によるものかも……」
「そうね、そんな存在がいたって、ちっともおかしくはないわ。――それこそ、“彼”が今まで関わってきた事件のことを考えれば、ね」
深夜の含みを持たせた言葉に、桜井はピクリと肩を跳ねさせた。
「……深夜様は、今回の件に彼の関係者が関わっている可能性があると?」
「そういう不可思議なことができる存在といえば、みたいなところがあるでしょ? それに単なる可能性の1つよ」
「可能性、ですか」
桜井の問い掛けに、深夜は小さく頷いた。
「そうね。例えば、ターゲットを
「……中から、ですか?」
「ええ。操られていたと考えればUSNA軍の兵士達が突然脱走した理由も説明できるし、外的要因でないから外傷が無いことにも説明がつく。そうね……、血液の一部が無くなっているのは“相手の精神を乗っ取るための材料”なんて考えられるわね」
「……そのような魔法、有り得るのでしょうか?」
「どんな魔法も、有り得ないなんてことはないわ。そもそも魔法は属人的なところがあるし、今まで考えられなかった魔法が開発されてもおかしくないわ。――それに、私だってできるわよ」
その言葉に、桜井はハッとなった。自分が仕えているこの女性は、精神構造そのものを作り替える強力な魔法の使い手だ。既に表舞台を退いて久しい彼女だが、その実力は未だ衰えておらず、実の息子の無意識領域に人工の魔法演算領域を構築するほどである。
と、そんな深夜の表情に、ほんの僅かながら嘲りの感情が浮かんだ。
「それにしても、もしその精神魔法にターゲットの血液が必要不可欠なんだとしたら、その魔法師は“未熟”と言わざるを得ないわね……。私だったら、血液すら必要としないでターゲットを完璧に操ってみせるわよ」
深夜はそう言って笑みを浮かべると「さて、どこまで読んだかしらね……」と途中になっていた本をパラパラと捲り始めた。何てことないかのように、そして実際に可能だという確固たる自信が垣間見える彼女の姿に、桜井は背筋が寒くなるのを抑えることができなかった。
そんな彼女の耳に、がちゃり、とドアの開く音が聞こえた。
「あらあら、昼間から紅茶片手に読書だなんて、随分なご身分ね」
優雅な笑みを浮かべて辛辣な台詞を吐くのは、薄手の真っ黒な服に身を包む、深夜とそっくりな外見をした双子の女性・真夜だった。その後ろには、彼女のプライベートな用向きを果たす(本当の意味での)執事・葉山の姿もある。
そんな彼女の登場に、深夜は隠そうともせずに顔をしかめた。まるで自分の時間を邪魔されたことを不機嫌に感じる子供のようである。
「そう言うあなただって、特に仕事という仕事はしてないじゃない。他の当主の方々は表向きの職業があるのに、あなたにはそれすら無いんだから。せいぜい指示を出すだけで、実際に動いてるのは葉山さん達でしょ?」
「指示を出すのだって立派な仕事だし、そのために色々と“下準備”があるから結構忙しいのよ? それに私の場合、ただ存在しているだけで仕事しているみたいなところはあるもの。――そういう意味で言えば、対外的には生死不明のあなたはそれすらしていないことになるわね」
「あら、だったら大々的に公表しても良いのよ? 『精神構造干渉魔法の使い手である四葉深夜は存命で、かつて活動していたときよりも更に力を付けてます』って」
「皆さんの驚く顔が目に浮かびそうな提案ね。――
最後に付け加えられたその一言だけは、冗談めかしたものではない、彼女の本心が含まれているような声色だった。聞く者が聞けばすぐ分かるその変化に、桜井はギョッと目を丸くして彼女へを顔を向け、深夜はチラリと視線だけを動かして反応する。
「さてと、私も紅茶が欲しいところね。葉山さん、用意してちょうだい」
「かしこまりました」
真夜の申し出に、葉山が恭しく腰を折って応えた。
世間の喧騒とはどこまでも無縁な、穏やかな午後の出来事であった。