日本有数の繁華街である渋谷は、たとえ夜であろうと人通りが途切れることは無い。しかしそれは渋谷という街をマクロ的に捉えた場合であって、短い時間でなら虫食いのように人がいなくなる場所が存在する。ビルとビルの間に挟まれた狭い路地や、表通りと裏通りの間にある申し訳程度の広さしかない公園も、そういった場所に該当する。
そして1脚のベンチだけ置かれた猫の額ほどの緑地帯も、2つの“人間の形をしたもの”が存在しているだけで人通りは無い。1人はベンチに横たわる、ハーフコートの下にニットのセーターとミニのラップキュロット、厚手のレギンスで装った若い女性。そしてもう1人はその女性に覆い被さる、ロングコートにマフラー、丸いつばのついた帽子を目深に被った、人相も性別も不明な影のような人物。
その帽子の人物が体を起こした直後、背後に新たな人影が現れた。
――どんな感じ? また不適合?
帽子の人物とまったく同じ外見をした人影が、空気を震わせることのない声でそう尋ねた。
――駄目ね。生きたまま無力化して
1人目が、同じく無音の声で2人目に答えた。
――成功と失敗の基準がよく分からないわね。資質があっても望みが無ければ駄目なのかしら?
――望みの無い人間なんて、この世にいるのかしら? それとも、望みは望みでも適合する種類があるとか?
――条件を絞り込むためにもっとサンプルが必要だけど、さすがに騒ぎが大きくなり過ぎちゃったわね。どうも
――はぁ、アタシ達も焼きが回ったわね。さすがに
――まぁ、のんびり行きましょ。どういうわけか知らないけど、
――そうね……んっ?
2つの人影が、思念会話を中断して同時に同じ方向へと顔を向けた。
――結界を突破した人間がいるわね。2人……いや、3人かしら?
――強度は高めてたはずだけど、随分と高い資質の持ち主なのね。
――どうする? 一旦退く?
――せっかくだし、サンプルにしちゃえば? それだけの逸材ならば適合するかもしれないわよ。最後尾の1人は他の2人から離れてるみたいだし、その1人が合流するまでには最初の2人を無力化できるでしょ。
――それもそうね。
ベンチの上に女性を残して、2つの人影は街灯の光の外へと姿を消した。
スターズはUSNAの中核的魔法戦力であるが、軍に所属する魔法師全員がスターズ隊員というわけではない。現に国家が公認している3人の戦略級魔法師でスターズに所属しているのはアンジー・シリウス1人だけで、残りの2人はそれぞれアラスカ基地と国外のジブラルタル基地に配属されている。
しかしそれでもスターズがUSNAにとって魔法戦力の主軸であることに変わりは無く、特に“一等星”のコードを与えられた魔法師ともなれば“世界最強の魔法戦力”を象徴する存在だ。だからこそその1人であるアルフレッド・フォーマルハウト中尉の脱走事件はかなりの衝撃であったし、今後このようなことを繰り返さないためにも、残りの脱走者を見せしめの意味も込めて“処分”しなければならない。
現在夜の渋谷を早足で進む、夜遊びに興じる若い女性という格好をした2人の女性も、そんな任務に駆り出された精鋭である。彼女達の所属は“スターダスト”と呼ばれ、スターズと同じくUSNA軍統合参謀直属の魔法師部隊でありながら
そしてこの2人は、捜索・追跡に優れていた。サイオン波のパターンを識別してその痕跡を感知するという、まだ日本では実用化されていない技能を
「奴はこの先の空き地だ」
足を止めた女性に相棒が頷き、コートのポケットから情報端末を取り出した。ターゲットのいる公園までの路地は一本道であり、2人から見て左側と、右の角を曲がった所に入口がある。
「挟撃しよう。私は右を行く。仕掛けるのは同時だ」
「了解だ」
短い会話で意思疎通をした2人は、即座に左右に分かれてその公園内へと足を踏み入れた。
目深に被った帽子とマフラー、そしてその間から覗く翼を広げたコウモリの描かれた灰色の覆面、という出で立ちの人物を見つけたのは、それから10秒と経たない頃だった。
「脱走兵デーモス・セカンド。両手を挙げて指を開きなさい」
覆面の前に躍り出た女性が呼び掛けるのと同時、背後に回り込んだ女性がガラスを引っ掻いたようなノイズを覆面に浴びせ掛けた。とはいえ、そのノイズは普通の人間に聞こえることはない。
それは“キャスト・ジャマー”が放つサイオン波だった。USNA軍魔法技術部が開発した携行武器による魔法妨害は、アンティナイトのような無差別妨害ではなく、CADの機能を妨害するものだ。サイオンを放出するタイプの無系統魔法に長けた者しか使えない、有効範囲はせいぜい5メートル以内、という非常に限定的なものだが、非常に高価で希少な鉱石を使わずに魔法妨害ができる画期的な秘密兵器である。
突き付けられた銃口を前に、覆面――サリバンは両手を挙げて指を開いた。彼女達に与えられたデータによれば、サリバンはCADが無ければ魔法を行使できず、身体能力も一般兵の域を出ない。魔法師であると同時に生化学的強化措置が施されている彼女達の敵ではない。
「おまえには発見次第即時消去の決定が下されている。しかし他の脱走兵の情報を提供するなら、刑一等を減じるとも命令されている」
「デーモス・セカンド。10秒だけ考える時間をやろう」
「いいえ、必要無いわ。スターダスト
恐怖どころか緊張の欠片も無いサリバンの声に、そして自分達のコードを言い当てられたことに、2人の女性ことQとRの眼光に鋭さが増した。
しかしそれと同時に、彼の女性を思わせる柔らかな語り口に困惑を隠せなかった。
「
サリバンの言葉と共に、Qが構えていた銃が火を噴いた。サプレッサーによっておもちゃのエアガンと変わらぬほどに銃声が静粛されているが、放たれた弾丸は人の命を奪うのに何の不足も無い本物だ。
従ってその銃弾はサリバンの胸を抉って心臓に達する――ことなく、彼の後ろにいたRの腕を抉った。
「ぐっ――!」
苦悶の声を漏らすRに、Qは思わず目を見開いた。銃という武器からしたら至近距離とも言って良い場所でターゲットを外す、なんてことは訓練された兵士であるQには有り得ない。どこぞの女刑事じゃあるまいし。
しかしQは、その現象が引き起こされた原因にすぐさま思い至った。そしてそのうえで、驚愕の表情を浮かべていた。
「軌道屈折術式だと!」
「何をそんなに驚いてるの? この子がそれを得意としていたことくらい、あなた達だって聞いているはずでしょ?」
「なぜだ! キャスト・ジャマーは確かに発動していた! なぜそんな状況下で、魔法を行使することができる!」
「それって、あのCADとかいう変な機械を使えなくするヤツでしょ? あんなのが無いと魔法を使えないなんて、この世界の人間ってのは不便なものね」
Qがスカートの下に隠していたホルスターに銃を突っ込み、Rと共に袖口からナイフを引き抜いてサリバンに襲い掛かった。強化された身体能力と阿吽の呼吸で繰り出される連撃は、生身の人間には到底避けることのできないものだった。
しかし強化措置を受けていないはずのサリバンは、ひらひらと華麗な動きでそれを躱していく。彼の身体能力が不自然に向上しているのみならず、的確に彼の急所を狙っていたナイフが不自然に軌道を変えて軌道を逸らしていた。
その事実に、QとRの目がまたしても見開かれた。手に持つナイフの軌道を変えるというのは高度な技術であり、以前の彼ならばそのような強力な魔法を使えるはずがないからだ。
「アタシ達がいない間にこの世界の人間が魔法を使えるようになってたのは驚きだけど、だけどやっぱりまだまだね。この子本人よりもアタシの方が、この子の魔法を上手く扱えるわよ」
「何を訳の分からないことを!」
QとRが、再びサリバンに突っ込んだ。しかしそれぞれのナイフはまたしても軌道をねじ曲げられ、Rが苦悶の声を漏らしながらバランスを崩していく。そしてサリバンが手品のような手際で2人と同じナイフを取り出して握り締めると、Rの背中に向けて振り下ろした。
しかしそのナイフは、空中に築かれた透明な壁に跳ね返された。
「ベクトルの反転――!」
「総隊長!」
サリバンの台詞に被せるようにして、Qが叫ぶ。その意味を瞬時に理解したサリバンが、体勢を崩したままのRに跳び掛かった。
そしてそんなサリバンの背中に降り注ぐ、4本の短剣。
それを察知したサリバンが短剣を避けるように体の軌道を横に逸らし、着地したのと同時にRをQ目掛けて突き飛ばし、その直後に4本のナイフを2人へと投げつけた。しかし地面に刺さる寸前だった短剣が軌道を変え、その4本のナイフを叩き落とす。
その隙に、サリバンは近くのビル目掛けて飛び上がった。向かい合わせの壁を3回蹴ることで、路地を構成するビルの屋上へと到達する。
それを見た赤髪・金瞳・仮面の魔法師が同じルートで追跡を行おうとし、その直後に路地の向こう側で新たにサイオンが活性化するのを感じ取った。
一瞬動きを止めて考え込んだ魔法師は、サリバンの追跡を断念し、新たな犠牲者が発生するのを防ぐべく行動を開始した。
レオは今日も、深夜の渋谷を歩き回っていた。しかしいつものように宛ても無くさ迷うのではなく、知り合いに聞いて回って怪しげな連中の情報を収集し、それを基に実際に足を運んでいた。
なぜこんな刑事の真似事をしているのか、レオ自身にもよく分かっていなかった。正義感から動いているにしては、他の理不尽な犯罪にはさほど関心は無い。渋谷がホームタウンではない以上縄張り意識は適当でないし、単なる好奇心としても実は犯人の正体にそれほど興味は無い。
レオは自分の行動を、“第六感”によるものだと考えている。
彼は元々、危険に対して人並み以上に鼻が利く。それが彼の出自によるものかどうかは定かではないが、魔法科高校に入学して様々な事件に巻き込まれてきたせいか、さらにその感覚が鋭くなったように感じている。
本来ならば、その感覚を危険から自分を遠ざけるために使うべきなのだろう。しかしレオはこの感覚によって、別方向からの予感も感じ取っていた。
この事件が、いずれ自分達に火の粉として降り掛かってくる。
だからこそ、今の内にできるだけの情報を集めようとしているのかもしれない。自分達の生活が脅かされることのないように。自分達の大事な人を守り抜けるように。
「……さっきから、気になるんだよなぁ」
先程からレオが聞き取っている、虫の羽音のようなノイズ。耳に直接聞こえてくるのではなく、彼の意識の奥底近くを過ぎっているそれを、彼は魔法的な力を使った会話だと直感していた。
その発信源へと吸い寄せられるように歩いていくと、
「――――!」
急激に膨れ上がった闘争の気配に、レオは足を止めた。ここから先は好奇心で踏み込める領域ではない、とレオは本能的に感じ取った。寿和に話した「危険なことに首を突っ込むつもりは無い」というのは嘘ではない。
レオはポケットから通信ユニットを取り出すと、寿和に教えられたアドレスへ短いメールを送信した。『吸血鬼はここにいる』という内容で位置情報を公開しているので、寿和がすぐに気づけば容疑者を捕捉することができるだろう。
これ以上巻き込まれないようにレオはそのまま踵を返そうとして、公園のベンチに横たわる人影に気がついた。レオは周囲への警戒、そしてベンチの人影自体にも警戒を怠らずに、そのベンチへと近づいていく。
「おい、大丈夫か」
恐る恐る肩に手を触れて揺するが、その女性からの返事は無い。首筋に手を当ててみると、肌が冷たく、指先から今にも消えそうな鼓動が伝わってくる。レオは慌てて通信ユニットを取り出した。今度は警察ではなく、救急車を呼び出すために。
「――――!」
そして次の瞬間、レオは反射的に振り返って端末を持つ手を顔の前に掲げた。
通信ユニットが砕け散る。その得物が伸縮警棒だということは、後ろに大きく飛び退いてから分かったことだ。
その伸縮警棒を持つ人物は、一言で言えば“異様”だった。丸いつばのついた帽子の下は、目の部分だけが切り抜かれた不気味な白一色の覆面。足首まで届くケープ付きの長いコートは体の線を完全に隠し、性別の判断すら判然としない。いや、ここまでくると性別どころか人間かどうかすら分かったものではない、とレオは他人事のように考えていた。
そしてその間にも、レオの意識に例のノイズが過ぎる。先程は会話のように聞こえたそのノイズは、今度は仲間に退却を促す警告だと直感する。
しかしレオがそれに気を取られている隙に、覆面の怪人が一気にレオとの距離を詰めてきた。まるで自己加速術式のような動きだが、魔法式を構築する予兆をまるで感じなかった。不意を突かれた形となったレオは、硬化魔法を編み上げる余裕も無く、横殴りで襲い掛かる警棒を咄嗟に左腕で受け止めた。
何かが潰れる、鈍い音。
そうして折れ曲がった
「いてぇじゃねぇか、この野郎!」
雄叫びと共に放ったボディーアッパーが、怪人の胸を捉えて硬い音をたてた。大きく後方によろめく怪人に、痛そうに手を振り払うレオ。しかし骨が折れた様子は無く、先程警棒を受け止めた左腕にも損傷の様子は無い。
武器を用意するんだったな、と内心でほぞを噛みながら油断無く覆面の怪人を見据え、構えを取った。この怪人が“吸血鬼”であると、レオは直感的に悟った。
「コートの下は、カーボンアーマーか? ご大層なこって」
「暑苦しい性格に見えて、意外と冷静なのね。アタシ好みだわ」
まさか返事が来るとは思っていなかったレオは、怪人の言葉に虚を突かれたように目を丸くした。声色は完全に男のそれ、しかし口調は女のそれというチグハグさも、彼の困惑を増幅させる要因となっている。
と、次の瞬間、風に乗って怪人が再び襲い掛かった。自己加速術式に流体移動魔法による追い風をプラスしたスピードに合わせ、カミソリのように薄い刃が飛んでくる。レオはそれを、硬化魔法を展開したジャケットで弾き飛ばした。
しかしすぐさま、怪人が手刀が振り下ろしてきた。レオはそれを、左腕で迎え撃つ。
と、そのとき、怪人がその左腕を掴んできた。
「――――!」
そして次の瞬間、その左手から真っ黒な流体が飛び出してレオの腕に巻きついてきた。ヘドロのような粘性を持ったそれはみるみる腕を包み込み、彼の左肩から全身へと浸食を始めていく。
魔法なのかどうかも判断がつかない未知の現象にレオが顔を引き攣らせていると、怪人がズイッと顔を近づけてニタリと目を細めた。
「あなた、体も丈夫そうだし、アタシの家来にしてあげる」
「――悪ぃが、お断りだ!」
レオは叫び声と共に気力を爆発させて、握り締めた右の拳を怪人の
今の一撃は手応えこそあったが、決定打にはなっていない。ここで意識を手放すのは負けを認めたと一緒だと考え、レオは己に鞭を打って懸命に顔を上げた。
怪人は既に立ち上がっているが、レオに追撃しようとはしなかった。怪人は正面にいるレオではなく、まったく別の場所に視線を遣っている。
そこにいるのは、赤い髪に金色の瞳をした仮面の人物。距離があるからか小柄に見えるその人物に、レオが感じた最初の印象は“鬼”だった。
――何だ、あれ……?
逃げる怪人と追う鬼の光景を遠くに捉えながら、レオの視界が黒く塗り潰された。
仮面の魔法師“シリウス”となったリーナは路上に倒れるレオを一瞥するが、すぐさま怪人の追跡を開始した。ハンターの救出を優先したためにコウモリ覆面の怪人――デーモス・セカンドことチャールズ・サリバンに逃げられてしまっている以上、白覆面の怪人は何としても捕まえておきたかった。
「シルヴィ、
『申し訳ございません。ノイズが多く、特定には至っていません』
「カメラはどうです?」
『今のところ捉えておりますが、都市部ですので障害物が多く、いつまでトレースできるものか』
「分かりました。追跡を続行します」
技術的なサポートに頼れないと分かったリーナは、追跡の足を速めた。真夜中にも拘わらず路上に溢れる若者に紛れ、怪人の残留サイオンは急速に薄れつつある。人間には不可能な速度で逃走する怪人の背中を見失わないよう、リーナは自己加速魔法のギアを更に上げた。
と、怪人が突然細い路地裏へと逃げ込んだ。怪人の姿が見えなくなるが、リーナはすぐさま曲がり角へと辿り着き、その路地裏へと突入する。
「――――えっ?」
角を曲がった路地裏の先にも、怪人の姿は無かった。
それどころか、つい今まで感じ取っていたはずの残留サイオンすら、路地裏を少し進んだ先で突然途切れていた。それこそ、怪人がその場で消滅してしまったかのように。
『少佐、どうしました!?』
「……見失ってしまいました。移動基地へ帰投します」
いきなり立ち止まったリーナの身を案じるシルヴィアに、リーナは悔しげに、しかし潔く自分の失敗を口にした。
* * *
千葉エリカの朝は、日の出前から始まる。小さい頃から続けてきた鍛錬を行うためだ。
10歳までは、父に逆らえず言われるままに。14歳に自分が何者か思い知らされるまでは、誰よりも千葉の剣士らしくあろうとして。そして去年の3月までは、ただ惰性で。
しかし去年の4月に達也やしんのすけと出会ってからは、自らの意思で強くなりたいという想いで鍛錬を続けている。惰性の日々を過ごしていたときには
今朝も目覚まし時計が鳴ると同時に目を覚ましたエリカは、何千回と繰り返されてきた習慣だからか、あくびを噛み殺しながらも危なげない足取りで彼女専用のバスルームへと歩いていった。
バスルームといってもシャワーブースとシャンプードレッサーのみの簡易的なものだが、一般家庭には普及していないそれをエリカが持っているのは、ひとえに彼女が資産家の娘だからだ。彼女の父親は少なくとも、物によって子供を差別するタイプではないらしい。
真冬に冷水を頭から被って眠気を洗い流したエリカは、トレーニングウェアに着替えるためにクローゼットの前に立ったとき、視界の隅でメールの着信ランプが点灯しているのに気がついた。時間から考えて真夜中に届いたであろうそのメールを、何か嫌な予感がしたエリカは後回しせずに開いた。
シンプルが故に今も現役のテキストメールを読み進める内、エリカの表情がみるみる険しくなった。ぎりぎり、と歯軋りが聞こえてきそうなほどに奥歯を噛みしめ、怒りが今にも溢れてきそうな声で呟く。
「あの馬鹿兄貴……、馬鹿に何やらせてんのよ……!」
乱暴にパジャマを脱ぎ捨てたエリカは、トレーニングウェアの代わりにセーターとスカートに手を伸ばした。
達也の元にそのメールが届いたのは、登校のために家を出ようとしていたときだった。
家の電話にではなく携帯端末に送り込まれたプレーンテキストのメッセージは、普段は災害予報のような速報性を最優先した情報の配信にしか使われない。不吉な切迫感を漂わせるそれを、達也はすぐに開いて中の文章に目を通した。
そうしてメールを読み進めていた達也から目敏く感情を読み取った深雪が、心配そうに彼を見上げていた。
「お兄様、良くない知らせなのですか?」
「エリカからメールだ。レオが“吸血鬼”に襲われ、病院に運び込まれた」
「……冗談では、ないのですね」
深雪の質問に、達也はゆっくりと頷いた。
「中野の病院で治療を受けているらしい。幸い命に別状は無いようだから、見舞うのは放課後にしよう」
「……はい」
達也の決定に、深雪が反対することはない。それに達也は母親によって強い感情を奪われていたとしても、人間としての情までも失ったわけではない。
おそらく誰かが彼についているのだろうと結論づけて、深雪は達也の提案に肯定の返事をした。
第一高校から数駅ほど離れた場所に建つ、何の変哲も無い単身用アパートの一室。
そこが、野原しんのすけの現在の住まいだった。
第三次世界大戦によって人口が減少した影響もあり、賃貸の部屋は大戦前に比べて全体的に広くなっている。しんのすけが住むこの部屋も高校生が住める家賃でありながら、風呂とトイレが別々に作られ、備え付けの家具も一通り揃っている。
本来しんのすけにとってこの時間は、テレビで天気予報を観るのが日課だった。現代における天気予報は大戦前よりも更に高い精度で予測できるようになったが、彼の場合は天気のチェックではなくそれを伝える美人リポーターの麗しい姿を鑑賞するのが目的だった。あまりにそれに夢中になるあまり、雨だと予報された矢先に傘を忘れて出掛けることもしばしばだった。
しかし今のしんのすけは、テレビこそ点けているものの、視線はそちらに向いていなかった。携帯端末を目の前にかざし、画面を何度も上下にスライドさせている。
やがて彼は大きな溜息を吐いて、独り言を呟いた。
「リーナちゃんの電話番号、聞いておけば良かったゾ」