嵐を呼ぶ魔法科高校生   作:ゆうと00

81 / 114
第81話「黒い穴がどーのこーの、だゾ」

 アメリカの西海岸。日本だったら“宵の口”と表現されるであろう時間。

 雫は現在、ホームステイ先で開かれているホームパーティーに参加していた。日本の大企業の娘が留学する際のホストに選ばれるだけあってかなりの上流階級であり、一口にホームパーティーと言ってもそこら辺のホテルよりよっぽど豪華なものだった。

 そんなパーティー会場にて、雫は床スレスレまであるスカート丈に、肩・二の腕・背中が剥き出しになったドレスを着て、肘まで覆う長手袋を身につけるという、パーティードレスとしてはかなりクラシックな装いをしていた。ふと周りを見渡すと、コルセットで体を締め上げないと着られないようなドレスも中には見受けられる。USNAが部分的に伝統回帰していることは聞いていたが、まさかここまでとは雫も思っていなかった。

 

「ティア!」

 

 と、そのとき、大袈裟に手を振ってこちらに駆け寄ってくる少年の姿を見つけ、雫は内心苦笑しながら小さく手を振り返した。

 彼の名は、レイモンド・S・クラーク。雫の留学先の男子生徒で真っ先に彼女に話し掛けた人物であり、それ以来何かと彼女の傍に寄ってくる白人(西海岸では今時珍しい生粋のアングロサクソン)である。彼が今着ているのはこれまたクラシックなタキシードだったが、彼の貴公子然としたルックスに大変良く似合っていた。

 ちなみに、雫のニックネームである“ティア”を考案したのも彼である。雫が自己紹介したときに名前の意味を訊かれた際、彼女はティアドロップ(涙のしずく)の“ドロップ”だと説明したのだが、どういう訳か彼は“ティア”の方を採用してしまった。同じクラスの女子生徒曰く「真珠(tear)のイメージにぴったりだからじゃない?」だそうなので、とりあえずそのままにしている。

 

「素敵なドレスだね、ティア。いつもよりもっとチャーミングだ」

「そう? レイも似合ってるよ」

「ありがとう! ティアにそう言ってもらえるなんて光栄だよ!」

 

 本当に嬉しそうにそう言うレイモンドの姿に、雫は自分の弟を連想した。人種的には年齢以上に大人びて見えるのが相場なのだが、彼の場合は豊かな感情表現によって年齢よりも幼く見える。

 

「レイは1人なの?」

「ティア以外の女性をエスコートする気は無いよ」

「ううん、女の子のことじゃなくて」

「えっ? あ、そ、そうだね……。1人……と言えば1人かな?」

 

 随分歯切れの悪い答えだと雫は首をかしげたが、レイモンドの後ろの方で男子生徒数人が、彼を見て忙しなく手を動かしながらニヤニヤしているのを見つけて、そういうことか、と雫は他人事のように悟った。

 そしてレイモンドもそれを察したのか、ばつが悪そうな表情で視線をさ迷わせてから、別の話題を見つけたとばかりに表情をパッと明るくして雫に話し掛けた。

 

「……そ、そうだ、ティア! この前に頼まれてた件なんだけど――」

 

 その瞬間、雫の目つきがほんの少し鋭くなった。

 

「レイ、場所を変えよう」

 

 力強いその言葉にレイモンドは口を引き結んで黙って頷き、2人はパーティー会場の一部である庭へと出ていった。

 それを見ていた男子生徒数人が、何やら勘違いした様子で茶化すように口笛を吹いていた。

 

 

 

 

 さすがに冬だけあって、太陽も沈んだこの時間ではコートを羽織っていても肌寒い。なので会場の一部とはいえ庭に出ている参加者は1人もおらず、だからこそ雫は“内緒話”の場にここを選んだのである。

 雫はハンドバッグの中にしまっていたCADを操作して、2人の周辺に暖気のフィールドを作り出した。寒空の下でも凍えることのないように、と同時に、自分達の会話が周りに聞かれることを防ぐ効果もある。

 

「ありがとう、ティア。――魔法っていうのは、こんなに便利なんだね」

「この程度なら、珍しくないはず」

「この国に住む人達にとっての魔法っていうのは、こんなに()()()()ものじゃないんだよ。日常的に魔法を応用する場面なんて、この国じゃほとんど目にしない。魔法は力や知識や地位を誇示するためのものなんだ」

「つまり、出し惜しみしているってこと?」

「ははは、そうだね……。ステイツの魔法研究は軍事利用を除いて、基礎研究ばかりが重視されているんだ。民生利用とか日常生活への応用とかは、下等なことと見なされているんだよ。大金が稼げると分かればその限りじゃないんだけど……。そんなだから――」

「それで? “例の件”で、何か分かったことがあるの?」

 

 逸れかけている話題をむりやり打ち切った雫に、レイモンドは恥ずかしそうに頬を掻いた。

 雫が口にした“例の件”というのは、日本とここの両方を騒がせている“吸血鬼事件”のことだ。ほのかに話した“情報通の生徒”というのがまさに彼のことであり、達也と約束した(と本人は思っている)情報収集の協力者でもある。

 

「まず“吸血鬼”についてだけど、実在しているのは確かなようだね。原因は不明だけど、無関係とは思えない情報が手に入った」

「話して」

 

 もちろん、とレイモンドは力強く頷いた。

 

「高度に情報封鎖されているけど、11月にダラスで“余剰次元理論に基づく極小(マイクロ)ブラックホール生成・蒸発実験”が行われたらしい」

「余剰次元理論?」

「ごめん、詳しいことは僕にも分からないんだ。後で()()()()()()()()()()()()に訊いてみて」

「うん、分かった。それで?」

 

 雫は頭の中に達也を思い浮かべながら、レイモンドに続きを促した。

 

「実験の詳細については不明だけど、その実験の直後から吸血鬼の目撃情報が挙がってる」

「つまりレイはその実験と一連の吸血鬼事件の間に、因果関係があると思ってる?」

 

 雫の質問に、レイモンドは再び力強く頷いた。

 彼がどこから情報を仕入れて、何を根拠として判断しているのか、雫には分からない。自分には伝えていない情報を握っている可能性も、充分に考えられるだろう。彼が自分に協力してくれる理由も、彼個人によるものなのか、あるいは彼が所属している組織の意向によるものか、そもそも彼が組織に所属しているのかも雫は知らない。

 しかし確実に言えるのは、彼の情報は信用できる、ということだ。

 

「ありがとう、レイ」

「他ならぬティアの頼みだからね。僕で役に立てることがあれば、いつでも相談してよ」

 

 雫からの礼に心からの笑顔を浮かべながら、レイモンドは実に嬉しそうにそう言った。そんな彼の“露骨なアプローチ”に対し、雫は特に普段と表情を変えることなく受け止めた。おそらく彼女の中では、彼の態度について『留学生が物珍しいのだろう』くらいにしか思っていないだろう。

 そんな彼女の鈍感さは、はたして先天的なものなのか、それとも最近の友人関係で伝染したものなのか、それは誰にも分からなかった。

 

 

 *         *         *

 

 

 学生以外の顔を幾つも持つ達也にとって、この日は久々の“何の予定も無い日曜日”だった。しかし彼は元々宛ても無く外出するような性格ではないため、この日はずっと家の中で深雪と共に過ごしていた。

 深雪としては兄を独占して世話ができたことに大変満足した様子だが、そんな達也は現在、夕食を終えたリビングのソファーに座って真剣な表情で考え込んでいた。キッチンの自動洗浄機に食器を並べる深雪はそんな彼が気になって仕方がなかったが、考え事の邪魔をするわけにはいかないので口を閉ざしたままでいる。

 達也の頭を悩ませている原因、それは、

 

 ――俺とリーナが過去に出会っている……? それはどういう意味だ……?

 

 昨日リーナが口にしたあの台詞は仮定の形を取ってはいたが、明らかに実際に起こったことを想定したものだった。しかもしんのすけの話題の中でそれを出したということは、2人の出会いに彼が大きく関わっていることを表している。それこそ、彼とリーナが旧知の仲である理由に繋がることかもしれない。

 しかし当然ながら、達也にそのような記憶は無い。顔を合わせてはいるが相手がしんのすけやリーナだと認識してない状態だったという可能性もあるが、はたしてその程度の希薄な繋がりを彼女がこれ見よがしに主張するだろうか。

 

 ――いや、リーナも最初はしんのすけのことを顔見知りだと認識していなかった。

 

 それはまだ記憶に新しい、留学初日の食堂での出来事。あのときは確実に、リーナはしんのすけと初対面だという認識だった。そして彼女は慌てて彼をその場から連れ去り、そして“何か”を聞いた後はガラリとその態度を変えている。

 その何かの中に、まさか自分も含まれていたというのだろうか。

 

 ――リーナと同じように、俺も何かを忘れている……?

 

 だとすると問題は、それが単なる物忘れなのか、第三者による記憶の改竄によるものか、ということになる。

 前者はともかく後者は有り得るのか、というのが普通の考えだ。しかし達也は、その可能性を有り得ないと切り捨てることなどできなかった。

 この世界には、既に“サザエさん時空”という前例が確認されている。

 特定の人物が一切歳を取らないという現象も不可思議だが、達也はむしろそれ以上に『世界中の人間がそれを不思議と感じなかった』ことの方が深刻だと考えている。その現象が引き起こされた原因やメカニズム、そしてその首謀者については知る由も無いが、世界中の人間の認識を捻じ曲げることは可能だという純然たる事実だけは今もハッキリと残っている。しんのすけという存在が、それを無意識に主張している。

 それだけのことが可能なのだ。たかだか数人の記憶を消し去ることに、いったい何の障害があるというのだろうか。

 

 プルルルル――。

 

 ふいに鳴った電話のベルに、達也は思考の海から上がって現実世界へと戻った。キッチンから早足で駆け寄ろうとする深雪を片手で制してリモコンを取り、その画面に『北山雫』と表示されているのを確認し、テレビにリモコンを向けてボタンを押す。

 雫からの電話をテレビ電話に切り替えたことで、居間のテレビの大画面に雫の姿が映る。

 その瞬間、達也はその行動に出たことを後悔した。

 

「ちょ、ちょっと雫! 何て格好をしてるの!」

 

 挨拶よりも先に深雪が叫んでいたが、達也がそれを窘めることは無かった。

 テレビ画面に現れた雫は、ファッション性重視のネグリジェ姿だった。シルクのように薄く光沢のある生地なので、雫のほっそりとした肢体を隠すのにあまり役立っていない。しかもどうやら上半身の下着を身につけていないようで、ふんだんに縫い付けられたレースと細やかなドレープで大事な部分を一応隠しているが、少しでも着崩れたら簡単に顕わになってしまいそうだ。

 さらに今の雫は、視点が定まっていないようにボーッとした顔つきだった。頬だけでなく体全体が仄かに桜色になっており、普段は幼くすら見える雫に大人っぽい色気も加わって非常にまずい状況となっている。主に深雪の精神的な意味で。

 

『えっと……、2人共、こんばんは』

「挨拶は良いから! せめてガウンを羽織って!」

 

 深雪の必死な呼び掛けに、雫は首を傾げながらもモソモソとガウンを着始めた。深雪は雫の行動に深く溜息を吐いて、ソファーに座る達也を盗み見るようにチラチラと見遣った。そして達也が(表面上は)何の反応も示していないのを確認して、ホッと胸を撫で下ろした。

 やがてガウンを羽織った雫が、改めて画面に向き直った。

 

『えっと……、夜遅くにごめんなさい』

 

 眠気とは違う倦怠感に、所々怪しい呂律(ろれつ)

 

「こちらは特に遅くないから問題無いが……。もしかして、呑んでるのか?」

『何を?』

「……まぁ良い。それより、どうしたんだ?」

『えっと……、吸血鬼事件について色々知ったから、できるだけ早く知らせようと思って』

「もう分かったのか。凄いな」

『もっと褒めて』

「…………」

 

 平坦な口調でねだられ、達也は急激な脱力感を覚えた。どうやら雫は酔うと幼児退行を起こすようだ、と必要無い知識を得たことで、達也は彼女に酒を呑ませた顔も知らぬ相手に心の中で悪態を吐いた。

 

「いや、本当に凄いな雫は。それで、何が分かったんだ?」

『えっと……、吸血鬼が生まれた原因についてなんだけど』

 

 想像以上にセンセーショナルな話題に、達也も深雪が揃って身を乗り出した。

 

『えっと……、確か、余剰……、何だっけ? 余剰何とかの黒い穴の実験がどうのこうの……』

「余剰? 黒い穴? どういう意味よ、雫?」

 

 まったく要領を得ない単語の羅列に、深雪の頭上には疑問符が飛び交った。

 深雪の頭上に、だけだった。

 

「雫。その“黒い穴”というのは、もしかしてブラックホールのことか?」

『あっ、そうそう。ブラックホールの生成が何たらかんたら――』

「まさか“余剰”というのは、余剰次元理論のことか?」

『あ、うん。そんな感じだったと思う』

「そうか……、“アレ”をやったのか……」

 

 雫の少ないヒントから何やら推測したらしい達也は、いつもと変わらぬ冷静な声と表情ながらも大きな衝撃を受けていることが深雪にはすぐに分かった。

 

「お兄様、それはどのような実験なのでしょうか?」

「おそらく雫が聞いたのは“余剰次元理論に基づくマイクロブラックホールの生成・消滅実験”のことだろう。理論自体は昔から存在していたから、興味本位で調べたことがある」

『それって、どんな実験?』

 

 実際に尋ねてきた雫だけでなく深雪も知りたそうにしているので、達也は簡単に説明することにした。

 実験の内容は、ごく小さなブラックホールを人工的に作り出し、そこからエネルギーを取り出そうというものだ。ブラックホールとは膨大な質量が高密度に集中することで発生するものであり、それが蒸発して消失する過程でその質量が熱エネルギーに変換されることが予想されている。

 今回の実験の場合、ブラックホールを生成する際に“余剰次元理論”が用いられている。余剰次元理論とは『この世界は高次元の世界に閉じ込められた三次元空間の薄い膜のようなもので、物理的な力において重力のみが次元の壁を越えられる』というものだ。

 この理論に基づくと、重力はその力の大部分が別次元に漏れているので、この次元では本来よりもずっと小さな力しか観測できないことになる。しかし素粒子スケールの極小距離では、重力が別次元に漏れ出す前にこの次元の物体同士で作用することになるので、普通のスケールで観測するよりも遥かに強く引き合うことになる。これを利用すれば、本来の想定よりも遥かに小さなエネルギーでブラックホールの生成が可能になる、というのがこの実験の土台となる理屈である。

 

『……その理屈が、吸血鬼とどう関係するの?』

「雫には話していなかったが、俺は吸血鬼の正体を“別次元からやって来た怪異”だと踏んでいる。もしかしたらその別次元へとやって来る原因となったのが、その実験かもしれないんだ」

 

 達也の説明を聞いて尚も、深雪と雫は揃って首を傾げていた。

 それを見た達也は「そうだな……」と脳内で文章を組み立ててから話し始めた。

 

「それを説明するために、そもそも魔法がどのようなメカニズムで発動しているかについて考える必要がある。――2人共、“エネルギー保存の法則”については知っているな?」

 

 達也の問い掛けに、2人は揃って頷いた。

 

「それを踏まえて、移動系魔法か加速系魔法でボールを撃ち出した場合を考えてみよう。魔法が発動する様子を観察しても、ボールを撃ち出すだけの物理的エネルギーが供給されることは確認できない。にも関わらず、実際には魔法が発動している。そのことを考えると、一見“エネルギー保存の法則”が成立していないように思える」

「“現代魔法の第一パラドックス”と呼ばれている命題ですね」

『でもその命題(めーだい)は、それ自体が不完全(ふきゃんぜん)って結論(けちゅろん)だったはず』

 

 かなり呂律が怪しくなっている雫だが、頭の回転はまだ鈍っていないようだ。

 

「その通り。ここで重要なのは、“エネルギー保存の法則”は『()()()()()()()()エネルギーの総和は一定である』という法則だということだ。つまりエネルギーの総量に変化があったように見えるのなら、観測の仕方がそもそも間違っているか、その系が閉じていないと考えるべきだ」

「……ええと、つまり余剰次元理論が成立すると仮定した場合、この世界は“閉じた系”ではないことになるから――」

(しょ)うか! 魔法に必要(にゃ)エネルギーは、異次元から供給さ(きょーきゅーしゃ)れている!』

 

 深雪の台詞を奪って力強く叫んだ雫に、達也が口元に笑みを浮かべて頷いた。その光景を眺めながら、深雪がこっそりと悔しそうにしている。

 

「そのような説を唱える魔法研究者は最近増えているし、俺もそう思う。おそらく魔法式の中に、異次元の壁を壊さずにエネルギーを引っ張ってくるプロセスが組み込まれているんだろう。物理的なエネルギーが供給されている形跡が観測されないのは、そのエネルギーが非物理的な性質を持つ魔法的なもので、魔法式がそれを事後的に物理的なものに変換しているんだと俺は思っている」

 

 ふむふむ、と深雪も雫も納得顔で頷いている。

 

「ここから先は何の根拠も無い空想に近いものだが、異次元に作用している重力というのは、異次元の壁を支える役割を果たしているのかもしれない。しかし今回の実験では、本来別次元に逃げるはずだった重力が使われている。つまり一時的に次元の壁を支える力が奪われたということだ。これによって次元の壁に一時的に揺らぎが生じ、その隙に“別次元に存在していた怪異”がこの次元へと逃げ出したのではないか、というのが俺の持論だ」

「さすがはお兄様です。こんな少ない情報から、そこまで読み取ってしまわれるなんて」

「いや、俺だって雫から実験について聞かなければ、ここまで考えることはできなかっただろう。雫のおかげだな」

達也さん(たちゅやしゃん)の役に立てて嬉しい』

 

 達也の賞賛に、雫は素直な気持ちを口にした。酒のせいで上気した頬。幼児退行のせいで普段より表に出るようになった感情。そして舌足らずな口調。今の雫は女性としての色気と幼児性が同居する、男の感情を悪戯に掻き乱す存在となっていた。

 そんな彼女を、前世紀と比べて解像度が飛躍的に向上したテレビの大画面で目の当たりにしている達也だが、それでも彼は普段とまったく変わらない態度だった。

 

 時差を考えれば向こうは真夜中だ、あまり雫を引き留めておくのも良くない。なのでその後は特に世間話をすることもなく、簡単な挨拶を交わして通話を終了した。居間のテレビ画面から、雫の姿が消える。

 そうしてリビングが2人だけの空間となったところで、深雪が口を開いた。

 

「……雫には、その“怪異”がパラサイトであるとはお伝えしないのですか?」

「パラサイトとはまた別の存在である可能性が出た以上、それを雫に伝えるのは得策ではない」

「……その怪異がしんちゃんと関係あるモノ達である可能性があることも、ですか?」

「それを伝えたところで、どうなるというんだ?」

「……申し訳ございません、浅慮なことを申しました」

 

 頭を下げて謝罪の言葉を口にする深雪に、達也は「いや、俺の方こそすまなかった」と答えた。

 そんな彼の姿に、深雪は言いようの無い不安を覚えた。テロリストが学校を襲撃しても、仲間が国際犯罪シンジケートに狙われても、自分のいる街が海外勢力に侵攻されても普段通りの態度を崩すことの無かった彼が、今は明らかに精神的な余裕を無くしている。

 ぎゅっ、と深雪の拳に自然と力が込められた。

 

 

 *         *         *

 

 

 司波家でそんな遣り取りが行われているのとほぼ同時刻、しんのすけは自宅である単身用アパートの一室でのんびりとテレビを観てアハアハと笑っていた。

 親の目が届かない気楽な1人暮らしではあるが、彼の暮らし振りは意外にも健全なものだった。学校をズル休みすることは無いし、放課後や休日に遊びに行くのはもっぱら太陽が昇っている間だけ、たまの夜更かしも家の中でテレビを観るかゲームをするかくらいで夜の街に繰り出して遊び歩くなんてことは無い。

 

 つまり、エリカと幹比古と共に吸血鬼捜索をしていたときが、むしろ彼にとっては例外だったのである。例えるならば(彼女達には気の毒だが)悪い友人に唆されて不良の遊びに付き合わされていた、といったところか。

 しかし金曜日に吸血鬼と対峙して、その後エリカの提案で吸血鬼捜索を中止したしんのすけは、この土日の間にすっかり普段通りの生活を取り戻していた。この調子ならば、明日からの授業も普通に1時限目から出席できるだろう。

 

 プルルルル――。

 

 と、テーブルの上に置いていた携帯端末が震えた。着信を知らせるその画面には、でかでかと『非通知』の文字が並んでいる。

 普通ならば警戒心の1つでも抱いて当然の状況だが、しんのすけは特に何も考えずにそれを取って耳に当てた。

 

「もしもし、アンタ誰?」

『おっと、臆すること無くいきなり直球で来るとは、さすが野原しんのすけくんだね』

 

 少年のように無邪気で擦れたところの無い声が、少し発音に癖があるものの充分に流暢といって良い日本語で話し掛けてきた。当然ながらしんのすけにも聞き覚えが無く、その太い眉を寄せて首を傾げている。

 

「んで、アンタ誰?」

『すまないけど、今は名前を名乗るわけにはいかないんだ。とりあえず僕のことは“賢人(セイジ)”とでも呼んでくれると嬉しいよ』

「成程、セイジくんですな。んで、そのセイジくんがオラに何の用?」

 

 電話の相手が名乗った“セイジ”という単語を、しんのすけはそのまま個人の名前だと解釈したようだ。その単語に隠された意味を理解してくれなかった彼に、しかし電話の相手は特に残念だという想いを抱いた様子は無かった。

 それよりも自称賢人は、しんのすけと話をしているこの状況を楽しんでいた。

 

『君のことは、前々から注目していたんだ。まさしく物語の主人公のごとき八面六臂の大活躍、それこそ読み物として凄く楽しませてもらったよ』

「ほーほー、よく分かんないけど、()()()()()()()

『あっはっはっ! まったく動じないなんて、君って本当に凄いね。読者が作品世界に介入するなんて無粋の極みだけど、どうやらその心配こそが無粋だったみたいだ』

 

 顔も分からない音声だけでの会話だが、端末から聞こえてくるその声には裏の意図などまるで無く、本当に心からしんのすけを凄いと感じている想いが伝わってくるようだった。

 しかしそれが本音だろうが建前だろうが、しんのすけにとっては至極どうでもいいことだった。

 

「んもう、悪戯だったら切るゾ」

『あぁ、待ってよしんのすけくん。いや、君の親しい友人達に倣って“しんちゃん”と呼ばせてもらっても良いかな?』

「初めての癖に馴れ馴れしいゾ」

『あっはっはっ、手厳しいなぁ』

 

 辛辣な言葉にも一切めげる様子は無く、自称賢人はしんのすけへの用件を話し始めた。

 

『君が捕まえようとしている吸血鬼について、とても有意義なネタを持ってきたんだ。お代は見てのお帰り、と言いたいところだけど、今回はお近づきの印に無料で提供させてもらうよ』

「えぇっ? 怪しいですなぁ」

『まぁまぁ、そう言わないで。――明日の昼間、ちょうど昼休みの時間に、マクシミリアン・デバイス日本支社の社員になりすました吸血鬼が、君の通う第一高校に潜入しようとしている。しんちゃんにはそれを捕まえてほしいんだ』

「なんでオラが?」

『それはもちろん、君がこの作品の“主人公”だからさ』

 

 自称賢人の答えになってない答えに、しんのすけは「ふーん」と反応するのみで追及しない。そもそも、相手の思惑そのものに興味が無い様子だ。

 

『信じるも信じないも君次第だし、これを聞いた君がどんな行動を取ろうと構わない。おそらく君のことだから、どのように動いたとしても必ずや僕を満足させてくれるだろうしね。――さてと、用件も伝えたし、そろそろ失礼させてもらうよ』

 

 自称賢人はそう言うと、しんのすけの返事も聞かず電話を切った。彼と会話することを楽しんでいたとは思えないほどに、その幕引きはあっさりとしたものだった。

 そんな態度を取られたしんのすけは、不機嫌そうに唇を尖らせていた。一方的に用件を話して一方的に電話を切ったとなれば、そんな反応になるのも当然だろう。しかしいつまでも引きずるほどのことでもなかったようで、数秒後にはテレビを観てアハアハと笑ういつもの調子に戻っていた。

 彼の頭に先程の用件が残っているかどうか、それは本人にしか分からない。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。