嵐を呼ぶ魔法科高校生   作:ゆうと00

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第84話「吸血鬼? と戦うゾ」

 毛先を肩の辺りで切り揃えたセミロングに黒縁の眼鏡、レディスーツをキッチリと着こなすことで清潔感はあるものの地味という印象は拭えない。

 そんな目立たないOLのような外見をした女が、第一高校から数百メートル離れた上空、雑居ビルの屋上から10メートルほどの高さに浮かんでいた。それは比喩表現などではなく、背中に翼も無いのに足場も何も無いその空間でフワフワと漂っていた。仮に魔法に知識のある者がその光景を目撃すれば、トーラス・シルバーが昨年の夏に開発した飛行術式魔法を疑うのだろうが、現時点の彼女がそういった人間に目撃されることは無いので詮無い話だろう。

 なぜならその女は現在、自分に対して認識阻害の魔法を掛けているからである。しかし彼女の両腕は重力に従ってダラリと垂れているだけで、CADの類を持っている様子は見当たらない。

 

 ――マカオ様、ジョマ様。トッペマが憑いていた女を魔法で狙撃、絶命を確認しました。

 ――了解。それじゃ“後始末”は彼らに任せて、アナタは見つからない内にずらかりなさい。

 

 女が脳内で呼び掛けると、即座にその返事が脳内に響いた。まるで目の前で話し掛けられているようにクリアな音声だが、当然彼女の周りに人の姿などあるはずもない。

 女は最後にもう一度だけ第一高校の方へ視線を向けると、すぐに興味を失ったようにフンと息を吐き、その場でクルリと踵を返し――

 

「――――!」

 

 その勢いのままもう半回転して、一瞬前とまったく同じ姿勢に戻る。

 そこには、一瞬前にはいなかった“人間”の存在があった。

 髪型は顎の線で切り揃えたストレートショートボブ、服装は黒いミニ丈のジャンパースカートに同色のレギンス。顔だけ見ると十代半ば特有の中性的な顔立ちのため性別の判断は難しいが、胸は僅かながらも確かに膨らんでいるのが確認できる。

 しかし女は、そんなことを確認するために少女(便宜上そう呼ぶ)を見渡したのではない。

 事実、彼女が最も目に留めたのは、少女が右手にはめたナックルダスターだった。

 

「てめ――」

 

 女が何かを口にしようとしたその瞬間、女は表情を強張らせて発言を中断した。いや、中断させられた。

 グラリと女の体がバランスを崩し、浮力を失ったのか重力に引っ張られて雑居ビルの屋上へと落ちていく。10メートルの高さから地上に衝突する1秒半足らずの間、しかし女は即座に意識を持ち直して自身に重力緩和の魔法を掛けたことで落下速度が緩やかとなり、結果掠り傷1つ負わずに下り立った。

 しかし女は、そのまま2本足で立つこともできずに崩れ落ちて膝立ちとなった。そんな彼女を、数メートル離れた場所に同じくフワリと下り立った少女が見下ろしている。

 

「はぁ……、はぁ……! 何だコレ、幻覚か……!? くそっ、やっぱ本調子じゃねぇな……!」

「いいえ、凄いですよ。気絶させるつもりで放ったんですから」

 

 額に脂汗を滲ませながら悪態を吐く女に、少女は冷ややかな声色でそう言った。少女にしては低く、少年にしては高い声だった。

 

「ったく、狙撃の瞬間を見られてたか……! どうせここから逃げたところで“お仲間”が控えてるんだろ……?」

「はい、その通りです。なので抵抗は無駄ですよ」

「……いや、それはどうかな?」

 

 女がそう呟いて不敵な笑みを浮かべ、少女が怪訝そうに眉を寄せる。

 そして女はその表情のまま、人差し指を立てて自身のこめかみへと向ける。

 それを眺めていた少女が、ハッと目を見開いた瞬間、

 

「今度はちゃんと遊びましょ? ――ボクちゃん」

 

 どしゅっ、という音と共に、女の側頭部から血が噴き出した。血に染まったコンクリートに女の体が横倒れとなり、そしてそれきり動かなくなった。

 その場を動かずにジッとそれを眺めていた少女の背後に、また別の少女が現れた。こちらはクラシカルな黒いワンピースに背中まで届く緩い巻き髪、そして薄いながらも化粧を施した可愛らしい顔立ちから“少女”だと断言できる外見だった。そして先の少女と非常に似た顔をしたことから、歳の近いきょうだい、あるいは双子だと推測できる。

 

「逃げられちゃったわね、ヤミちゃん」

「…………」

「まぁ、()()()()もその辺りは特にこだわりも無かったようだし、構わないんじゃないかしら。――第一高校の方については、達也さんたちに任せるしかないでしょうね」

「…………」

「ちょっと、どうしたのヤミちゃん。大丈夫?」

 

 ヤミと呼ばれた少女がまるで返事をしないことに、後から来た少女が心配そうな表情で歩み寄っていく。

 と、そのタイミングでふいにヤミが振り返った。

 その表情は、やけに嬉しそうだった。

 

「姉さん。あの人、僕を一発で男だと見抜いていた」

「あら、そうなの? 魔法の性質的に直観力が高かったりするのかしら……?」

「初めて、初対面の人に男だと見てもらえた……」

「…………」

 

 ヤミと呼ばれた少女、改め少年の独り言に、少女は白けた目を向けて溜息を吐いた。

 

 

 *         *         *

 

 

「ミア!」

 

 自分の目の前で倒れ行く仲間の姿に、リーナは思わず叫び声をあげた。傷口がレーザーで焼かれているのか、左胸に空いた穴からは出血はほとんど無いが、それが致命傷であることは医学的な知識の無い者が見ても明らかだ。

 リーナの声に、その場にいる全員が一斉に視線を向けた。そしてミカエラの姿で事態を認識するや、実戦経験に長けたエリカや克人といった面々は即座に攻撃が仕掛けられたであろう方向へと視線を移す。しかしそこには学校を取り囲む外壁と空くらいしか見えず、敵の姿はどこにも見当たらない。こちらが視認できない魔法を使用しているのか、あるいは既にその場を離脱しているのか、情報の少ない現状では判断のしようが無かった。

 しかしそんな中、この中でもとりわけ実戦経験に長けているであろう達也はというと、意外にもそちらには目もくれず、地面に倒れ込むミカエラへと即座に駆け寄っていった。

 そうして彼女に辿り着くまでの道中、腰のホルスターからCADを抜いた。

 銀色の拳銃型であるそれの銃口が、ミカエラへと向けられる。

 

「お兄様! それは――」

「タツヤ! 何する――」

 

 同時に発せられる2人の制止の声をBGMに、達也は引き金を引いた。

 

情報体(エイドス)変更履歴の遡及を開始――復元地点を確認】

 

 達也が発動した魔法に必要な時間は、本当に僅かなもの。しかし深雪は、達也が()()()()を発動している僅かな時間に想像を絶する苦痛を味わっていることを知っている。現に達也の表情は変化に乏しいが、よくよく観察すれば額に脂汗が滲んでいることを確認できるだろう。

 しかし兄の身を案ずる深雪以外の全員が、その後に起こった劇的な変貌に目を奪われたため、それに気づくことは無かった。

 

【復元開始】

 

 エイドスの変更履歴を遡り、負傷する直前のエイドスを復元し複写する、達也の固有魔法の1つである“再成”。

 事象には情報が伴い、情報が事象を改変する。魔法の基本原理に従い、ミカエラの体が()()()()()()()()()()()()()()する。怪我を治すのではなく、怪我を負った事実を無かったことにする。

 

【復元完了】

 

 そうしてミカエラの体が霞んだように見えた次の瞬間には、彼女の体には傷1つ見当たらなくなっていた。

 

「えっ!? これって……えっ?」

「おぉっ! 元通りだゾ!」

 

 目の前で繰り広げられた、時代によってはそれこそ“神の奇跡”と称される現象に、リーナは頭がパニックになって言葉を紡げなくなり、しんのすけは純粋に賞賛の言葉を達也に贈る。

 しかしそんな2人の頭に冷水をぶっかける言葉を吐いたのは、他ならぬ達也だった。

 

「まだだ、2人共。――トッペマ・マペットらしきモノの情報が、彼女の中に無かった」

「――――!」

「ん? それって、どういう意味?」

 

 達也の言葉の真意を瞬時に悟ったリーナに対し、しんのすけが首を傾げて尋ねる。

 しかし幸いにも、いや、不幸にも、彼に説明する手間を掛ける必要は無くなった。

 

「――危ないっ!」

 

 この場から少し離れた場所で俯瞰的に状況を把握していた幹比古からの、突然の警告。

 それに真っ先に反応した克人が、自分達を取り囲む防壁魔法を展開した。

 

 そしてその直後、達也・深雪・リーナ・ミカエラ・エリカ・克人・しんのすけの7人に、魔法の雷が襲い掛かった。

 

「うおぉっ! 何だ!?」

 

 空は今にも雪が降り出しそうな分厚い雲に覆われているが、雷はそれよりもずっと低い場所、それこそ頭上10メートルほどの何も無い空間から突然現れている。その速度は時速10万キロメートルに遠く及ばない、せいぜいクロスボウから射出される矢のスピードでしかないが、ゴルフボールくらいの小型球電でも人を行動不能にするには充分であるし、同時に10発も食らえば死に至るだろう。

 幸いにも防壁魔法によって初撃を防ぐことはできたが、それで攻撃が収まったわけではない。

 

 深雪の背後に生じた閃光は、彼女が振り返るよりも早く達也が消し去った。

 エリカの頭上に生じた閃光は、深雪が作り出した氷の粒に帯電したことで消えた。

 克人の障壁が電光を阻み、リーナのプラズマが電撃を蹴散らした。

 達也の“視界”には現在、様々な物質や自然現象に関する情報が記載される“情報の海”が広がっている。サイオンで編まれた魔法式の情報を読み取ることで、ランダムに発生しているように思える放電の兆候を察知している。

 

 ――あれが、トッペマ・マペット……。“吸血鬼”の正体か……!

 

 しかしそんな達也の“眼”を持ってしても、“それ”は霊子(プシオン)の塊にしか見えなかった。

 

 

 

 

 幹比古と美月は、他の面々から少し離れたトレーラーの陰から様子を窺っていた。

 美月の目には現在、空中に生じた閃光が友人達に届く前に四散する光景が映っている。魔法の兆候や余波が見えていないのは、幹比古が彼女を想って魔法的な波動をほとんど遮断する結界を張っているからだ。肉体を放棄した情報生命体は魔法的な波動でこの世界を知覚しているのか、結界に守られた2人に電撃が襲い掛かる様子は無かった。

 友人達の置かれた状況は、けっして芳しくない。攻撃自体は散発的であり圧倒されている感覚は無いが、相手の位置が分からないため反撃のしようが無く、謂わば互いに攻めあぐねている膠着状態といったところだろう。

 ハラハラした様子でそれを見守っていた美月の耳に、幹比古の呟きが聞こえた。

 

「おかしいな……、なぜ逃げないんだ……?」

 

 

 

 

「トッペマ! なんでオラ達を攻撃するの!?」

 

 しんのすけが必死に頭上の何も無い空間に呼び掛けるが、返事はおろかその声に反応する様子も無い。不意打ちのように電撃の魔法が編み上げられ、しかし事象改変に結びつく前に達也の手によってそれが分解される、という遣り取りが続くのみである。

 現代魔法のような起動式の展開プロセスが無かったせいで最初は要領を掴めなかったが、達也は既にほぼ確実にトッペマの魔法を撃ち落とせるようになっていた。攻撃に対処する余裕ができたことで、疑問を覚える余裕も心に生じる。

 

「司波、なぜだと思う?」

 

 最低限の台詞で、克人が達也に問い掛ける。具体的な疑問の内容は何も無かったが、達也はそれが先程しんのすけが口にしたこと、つまりトッペマが自分達に攻撃を仕掛けている理由であると正確に読み取った。

 しかし達也がそれを口にするよりも前に、2人の会話に横槍が入った。

 

「待ってください! おそらくトッペマには、私達に攻撃する意思はありません!」

 

 達也の再成魔法によって命を取り戻した、そしてつい先程までトッペマをその体の内に宿していたミカエラが、それこそ自分の仲間を庇うような必死の形相で2人に呼び掛けた。

 

「確かにヤツの立場からしたら、俺達に攻撃する理由が無いことは分かる。だとすると、この現状はどういうことだ?」

「ミア、説明してください」

 

 リーナがミアに対して語り掛けたその口調は、仲間にお願いするというよりも上司が部下に命令する意味合いの強いものだった。しかしそれによって、たとえミカエラが機密事項を達也たちに明かしたとしても、上司であるリーナの指示で行ったことであるという名目が立つ。

 

「……ヴァンパイアの本体は“パラサイト”と呼ばれる非物質体である、というのがトッペマを宿した私を除く関係者の見解でした」

「ロンドン会議の定義だろう。それは知ってる」

 

 達也の言葉、そしてそれに同意するように頷く深雪と克人に、ミカエラは絶句したように目を見開き、リーナは若干同情するような視線を彼女に向けた。

 ちなみにその隣でしんのすけが「パラサイトって何?」とエリカに尋ねる光景が見られたが、そちらは彼女に任せてミカエラは説明を続けることにする。

 

「結果的には違いましたが、精神体の状態でこの世界にやって来た彼女達にパラサイトと似た性質があることは確かです。トッペマも、宿主として人間を求める自己保存本能が自分に芽生えていることを認めていました」

 

 情報次元からやって来た存在であるパラサイトにとって、人間に寄生するというのは物質次元であるこの世界に自分の存在を定義することも意味している。ミカエラが一時的に死亡したことでむりやり宿主から引き剥がされた今のトッペマは、この世界に対して不安定な存在になっている状態だと推測される。

 もしかしたらこの電撃魔法も、意思自体が不安定となり魔法の行使を止められない暴走状態の表れなのかもしれない。

 

「つまりこうして我々をこの場に留めているのは、自分を安定させるためにこの中の誰かに取り憑こうとしている本能が働いているため、ということか?」

「おぉっ! だったらオラが――」

「止めろ、しんのすけ! 今度も同じように宿主が自我を維持できる保証は無い!」

 

 今にも達也の傍を離れていきそうだったしんのすけを、達也が一喝して制止する。

 

「おそらくトッペマさんも、それと同じ懸念を抱いているのだと思います。パラサイトとしての本能に必死に抗いながら、私達が自分を見失わないようにこの場を動かずにいるのかもしれません」

「……まさかヤツは、俺達に自分を倒させようとしているのか?」

「待って、達也くん! トッペマはオラ達の仲間だゾ!」

 

 必死に縋りつくしんのすけに、口を閉ざして黙り込む達也。

 口を挟まず事の成り行きを見守っていたエリカや深雪が、そんな達也をジッと見つめていた。彼がどのような判断を下すのか、心配そうな表情で眉を寄せている。

 しかし達也としては、倒す倒さない以前の問題だった。

 確かに達也は、情報次元にてトッペマの姿を視認できている。しかし物質次元との座標が明確に定義されていないせいで、それが現実世界のどの座標に対応しているのかが分からない。そもそも相手はプシオン情報体であり、座標が分かったとしても構造が分からなければ攻撃の手段は無い。

 正直なところ、ジリ貧と言うほか無かった。

 

 

 

 

「まずいな……。せめてどこにいるのか分かれば、手の出しようもあるんだけど……」

 

 幹比古本人は認めないだろうが、彼は焦っていた。もう少し落ち着いていたら、美月が聞き耳を立てている中でこんな不用意な呟きは漏らさなかったはずだ。

 そしてそんな彼の独り言に、美月は或る決心を固めた。

 

「吉田くん、結界を解いてください」

「えっ? 柴田さん、何を……」

「私の眼があれば、居場所が分かるかもしれません」

 

 それを聞いて、幹比古はようやく自分の失態に気がついた。

 

「……駄目だ、刺激が強すぎる。妖気を抑えた状態であれだけ影響があったんだ、妖気を解放した状態でアレを直視したら、最悪失明の危険性だってあるんだよ」

「魔法師であることを選んだ以上、リスクは覚悟のうえです。皆が危ない今だからこそ、私の能力が存在している意味があるはずなんです」

 

 美月の家は術者の傍系ではあるものの、美月が先祖返り的な見鬼(けんき)の能力を持たなければそれすら気づかなかったほどに魔法とは無縁だった。自分を魔法の附属物と見なす考え方は魔法によって多くの見返りを得ている名家であれば時折見られるものだが、たまたま魔法の才能を持って生まれただけの“少女”が持つべきではない考えだ。

 

「……分かったよ」

 

 しかし、幹比古は最終的に首を縦に振った。自身が古式魔法の名門出身であるが故に、美月の考えが痛いほどよく分かってしまった。

 とはいえ、何の対策もせずにそんな暴挙を許すはずも無い。幹比古はブレザーのポケットから折り畳んだ布を取り出して美月に渡すと、それを広げて首に掛けるよう指示する。ショールのように薄いそれは、神道の宝具を参考にして作られた吉田家の魔法道具であり“比礼(ひれ)”と呼ばれている。

 

「危ないと思ったら、それで目を覆うんだ。――けっして無理はしないって、約束して。自分のために誰かが犠牲になるなんて、誰も望んではいないんだから」

「……うん、約束する」

 

 まっすぐ自分を見つめて話す幹比古に、美月は顔が近いことへの羞恥も忘れて真剣な面持ちで頷いた。

 行くよ、と呼び掛けられ、はい、と返事をする。たったそれだけの遣り取りに、美月は声が震えないよう気力を振り絞る必要があった。

 幹比古が、隣の美月にすら聞こえない音量で何かを呟く。

 

「――――!」

 

 その瞬間、目が痛いと感じる暇も無く全身に激痛が走った。自然と折れそうになる膝に精一杯の力を込めて、美月はその目を開いた。

 普段極力目を背け、閉ざしてきた混沌の世界が、容赦無く美月に襲い掛かる。

 その中で一際目立つ、異質な存在。

 美月は直感的に、それが“トッペマ・マペット”だと気づいた。

 

「エリカちゃんの頭上2メートル、右寄り1メートル、後ろ寄り50センチ! そこに異質な存在の接点があります!」

 

 指を差す美月に、幹比古は答える間も惜しんでCADに指を走らせた。扇形の専用デバイス、明王の纏う炎の術式が記された短冊を開き、サイオンを注ぎ込んで形成された起動式を回収する。

 対妖魔(アンチ・デーモン)術式・迦楼羅炎(かるらえん)

 情報体に外的なダメージを与えることを目的とした“炎”の独立情報体が、美月の指定した座標に向けて射出された。

 

 

 

 

 “燃焼”の概念を持ちながら、物理世界に“何かを燃やす現象”を具現化しない。現象と切り離された情報体として投射された魔法式が暴走状態のトッペマにダメージを与えるのを、達也の特殊な眼が確かに確認した。

 しかし達也をそれ以上に驚かせたのが、それまで曖昧にしか捉えられなかったトッペマの座標が、急にハッキリと見え始めたことだった。それはまるで、不確定だったパラメーターに突然具体的な数値が入ったかのような変化だった。

 “シュレディンガーの猫”という有名な思考実験があるが、この実験の本質は『観測者に観測されることで不確かだった事実が確定する』という点にある。魔物のような情報体の場合、観測者に観測されることによって、観測者以外の第三者にとっても同じことが起きるというのか。美月に観測されたことで、物質次元における存在が強まったというのか。

 

 だとすると、自らの属性情報に変更を加えるほどの視線を、トッペマが気づかないはずが無い。もちろんトッペマ自身に彼女を害する意図は無いだろうが、意識が曖昧になっていると思われる今の状態だと本能が勝る可能性の方が高い。

 達也が慌てて“眼”を凝らす。

 懸念していた通りの光景が、今まさに展開されようとしていた。

 

「――美月が危ない!」

「えっ!?」

 

 達也の叫びに、エリカ達が一斉に彼女が潜むトレーラーへと視線を向けた。

 当然、それにはしんのすけも含まれている。

 トッペマが自分に向かってくるのを、美月も気づいたのだろう。先程までは友人を助けなければという使命感で誤魔化せた恐怖心が一気に臨界点に達したのだろう、彼女は首に巻いた布で両目を覆ったまましゃがみ込んでしまった。彼女の隣にいる幹比古が迎撃しようとCADを構えるが、相手の正確な位置を知らないことには十全の対応は望めない。

 

 判断は、一瞬だった。

 

「――達也くん! トッペマを止めて!」

「――――!」

 

 しんのすけがそう叫んだ次の瞬間、達也は左手を美月の辺りに向けて“術式解体”を発動した。

 咄嗟のことでCADは持てなかったが、達也にとっては問題にならない。瞬間出力の最大限まで振り絞ったサイオンを左手に集め、美月に近づくにつれて座標情報の揺らぎが収束していくトッペマに向けてそれを解き放った。

 名前こそ“解体”となっているが、実際にはサイオン流の圧力で情報体を押し流す術式だ。対象が魔法式ならば情報体(エイドス)から魔法式を剥ぎ取るようにして無効化できるが、それ自体に情報体を破壊する効果は無い。

 つまり魔法式より強固な構造を持つ情報体ならば、“術式解体”を受けたところで情報構造が壊れずに押し流されるだけ、という結果に終わるのは充分に予想できることだった。

 

「柴田さん、大丈夫!?」

 

 動転するあまり声がひっくり返りそうになる幹比古に、懸命に頷くことでそれに応える美月。

 そんな2人を視界に捉えながら、エリカやリーナ・深雪といった面々は緊張した表情で周りを警戒する。先程までの電撃は無くなったが、トッペマの存在を知覚できない、つまりすぐ傍にいたとしても気づけないということで警戒心が消えることは無い。

 そして同じくプシオン情報体を認識できないしんのすけは、美月へと伸ばした左腕をゆっくりと下ろす達也をジッと見つめていた。

 普段の彼からは考えられない、不安と恐怖が綯い交ぜになった表情で。

 

「――逃げたか」

「はい」

 

 そうして克人の簡潔な問いに達也が答えることで、ようやくその場にいる全員の体から緊張が抜けた。

 皆が構えていた武器をしまっていく中、リーナが気になるのはやはりミカエラの容態だった。達也の魔法を受けて復活したように見える彼女だが、治癒魔法というのは何度も掛けて偽りの情報を世界に定着させることで初めて治療が完了となる。今は無事なように見える彼女も、いつまた症状が再発するか分からない。

 

「ねぇ、タツヤ……。さっきミアに掛けた治癒魔法のことだけど――」

 

 だからリーナにとって、それは至極当然の質問であった。

 そしてそれに対し、達也の答えは、

 

「……魔法? 何を言っているんだ?」

「はっ? いや、何を言ってるって、さっきミアにやってた――」

「俺はそんなことをした憶えは無いが、みんなはどうだ?」

「達也くんが魔法? アタシは特にそんな記憶は無いけど?」

「そうね。お兄様がそこの女性に魔法を使ったところなんて見てないわ」

「あぁ。俺も特に見た記憶は無い」

 

 真剣な表情ですっとぼける達也に、エリカと深雪だけでなく克人までもがそれに乗っかってしまった。ひょっとしてアレは幻覚だったのか、とリーナは思わずミカエラへと視線を向け、そしてミカエラがブンブンと勢いよく首を横に振る姿にハッと我に返る仕草を見せる。

 眉間に皺を寄せて達也を睨みつけるリーナに、それでも達也は平然とした表情を一切崩さない。しばらくその睨めっこを続けていた2人だったが、やがて折れたのはリーナだった。

 

「あぁもう、分かったわよ! 黙ってろってことでしょ? とはいえ、完全に誤魔化せるとは思わないでよ」

 

 溜息混じりにそう答えるリーナに、達也は「悪いな」と短く返事をした。リーナの主観であるが、全然悪いと思ってない表情に見えた。

 危機は去り、これで一件落着――とはいかない。これまでの遣り取りに一切参加しなかった1人の少年に、その場にいる全員が一斉に視線を向けた。

 その少年・野原しんのすけは、トッペマと思われるプシオンの塊が達也の魔法で押し流された地点、美月と幹比古が潜んでいたトレーラーの陰をジッと見つめていた。彼は達也や美月と違ってそれを確認する手段は無いため、先程も現在も同じような光景にしか見えてないはずだ。

 達也たちの位置からは、しんのすけの背中しか見えず表情は確認できない。黙り込んだままのため、どのような精神状態なのかも分からない。知らず、達也たちを取り巻く空気に緊張感が増していく。

 そしてその体勢のまま、しんのすけが声を発した。

 

「達也くん、オラ、先に戻ってるね」

「……あぁ」

 

 その声はひどく平坦で、感情の読み取れないものだった。達也が返事をすると、しんのすけはまっすぐ前へと足早に歩き、その場を去っていく。

 彼の表情は、最後まで確認することができなかった。

 

 

 *         *         *

 

 

 “それ”は元々、この世界に属する存在ではなかった。一刹那だけ揺らいだ壁を越えて、形の無い世界を介して形を記した世界へとやって来た影響か、狂喜・悲嘆・憎悪・願望・祈念といった様々な“渇望”の持つプシオン波動に引き寄せられるという性質を持つようになっていた。

 “それ”はこの世界に自分の存在を定義するために、プシオンを吸収し続ける必要があった。しかし“形ある世界”において“それ”は独力でプシオンを吸収することができず、プシオンを集められる“形あるもの”と一体化しなければならなかった。

 仕方なく偶然そこにいた1人の人間を緊急避難先としたが、宿主である人間の意識を乗っ取ることはしなかった。新たに芽生えた本能と戦いながらも、“それ”は宿主との交流を深めて自らの宿敵と対峙するための協力体制を敷くことに成功した。

 

 そうして日本にやって来た“それ”だったが、ようやく自身の目的を達成するためのキーマンに接触できた矢先に宿主を殺され、むりやり“形あるもの”から引き剥がされたことでこの世界での定義を揺らがされた。その影響で自身の意思も朦朧となり、魔法の暴走によってこの世界に来てから貯蔵していた大量のプシオンをも失う羽目になった。

 今の“それ”の力では、意思ある生物のバリアを破って体内に侵入することはできない。本能によって宿主の意識を乗っ取ることを良しとしない“それ”としてはむしろ好都合ではあったが、このままでは物質次元に干渉することができなくなる。

 とにかく今は、どこか休む場所が必要だった。

 

 例えば、意思を無くした生物に流れる血液の中、とか。

 例えば、人の形を与えられたことによってプシオンを集める意思無き人形の中、とか。

 

 ふらふらと虚空を漂っていた“それ”は、第一高校の敷地の端に建つ倉庫の中で、休むのに打って付けな“器”を見つけた。


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