2月14日。言わずと知れた“ふんどしの日”であり、“煮干しの日”でもある。また“血栓予防月間”の最中でもあるし、“建設産業の労働時間短縮推進キャンペーン”という非常に重要な取り組みを行っている最中でもある。
あと、ついでに付け足すならば“バレンタインデー”でもある。
「先生にとっては異教の風習かと思いますが、ぜひお受け取りください。先生には兄がいつもお世話になっておりますので」
そんな2月14日の早朝。達也と深雪の姿は、八雲の寺にあった。達也は日常的に行っている鍛錬のためであるが、深雪の場合は昨日の内に作ったチョコを八雲に渡すためである。
「いやいや、異教の風習であろうとも、良い物はどんどん取り入れていかなければ」
そして八雲は“にんまり”といった笑顔を浮かべながら、深雪からのチョコを受け取った。ちなみに深雪が彼にチョコを渡したのはこれで3回目であり、八雲がこの台詞を言ったのも同じく3回目である。
そしてそれに気づいたのは、深雪の隣で見ていた達也だけでなく、遠巻きにそれを眺めていた八雲の弟子達もだった。
「師匠、皆が見ていますよ」
「良いんじゃないかな? 修行の励みにもなるし」
「色欲は戒律に触れるのでは?」
「肉欲に結びつかなければ構わないんだよ」
口では飄々とした感じで受け答えているが、顔は相変わらずだらしなくにやけたままだった。処置無しだな、と達也が軽く肩を竦めるのを、八雲の弟子達が無言で同意した。
と、八雲がそのだらしない笑みを(注視しなければ分からないほどに若干)引き締めて、達也へと視線を向けた。
「そういえば達也くん、今日の放課後に“彼”を元気づけるためのパーティーを開くんだろう?」
「……はい、そうですが」
八雲にそれを報告した記憶は達也に無いが、いちいち「なぜそれを知っているのか」と質問するのも疲れるため、それに触れることなく端的な答えを返した。
「それによって“彼”が元気になってくれると良いね。一個人としても
「……しんのすけのメンタルが、それほどまでに影響があるということですね」
「そういうことさ。――とはいえ、それは大人の、それも“彼”とは無関係の者達の都合だ。君達はそんな余計なことを考えず、ただパーティーを楽しめば良いと思うよ」
はたしてその“大人”という言葉には、どこまでの立場の人間が関わってくるのか。
「はい、そうさせてもらいます」
ある種の開き直りとも取れる心持ちで、達也はそう返事をした。
* * *
時刻表に則って運行する多人数輸送型電車から、時間を気にせずに乗れる
なので最初の頃は駅で合流してから学校へ向かっていた達也たちも、今ではすっかり教室で顔を合わせるようになっていた。
「よっ、達也」
1年E組の教室に足を踏み入れて自分の席へと歩いていた達也は、その近くに見知った顔――しかしここ最近は学校で見なかった顔に気づいて、軽く顔を挙げながら彼に近づいていった。
「よう、レオ。昨日退院したばかりだっていうのに、随分と元気じゃないか」
「体自体はとっくに元通りだったからな。医者がなかなか退院させてくれなかっただけで」
レオはそう言ってあっけらかんと笑ってみせるが、当初の診断では少なくとも後1ヶ月は病院暮らしだったはずなのを考えると、むしろ彼の回復力が(担当医が懐疑的になるほどの)常識外れだと見るのが自然だろう。
しかし検査で異常は見られず、本人も退院を強く希望している以上はいつまでも病院に留め置くことはできないということで、今日から復帰と相成ったのである。
「おはよう、2人共。レオもすっかり元通りだね」
「おはよう。レオくんは今日から登校なんだね。元気になって良かったです」
久し振りに学校で顔を合わせる友人の姿に、揃って教室に入ってきた幹比古と美月に挨拶を返した。“揃って”という辺りで邪推する者もいるかもしれないが、達也はともかくレオも
そしてそんな野次馬根性の持ち主であるエリカも、本日の矛先はその2人ではなかったようで、
「あらレオ、随分と急いで退院したのね。そんなにチョコが欲しかったの?」
「何だとエリカ!」
「あらあら、そんなに慌てるなんて、もしかして図星?」
椅子を蹴る勢いで立ち上がって反論してきたレオの姿は、確かに意地の悪い見方をすれば図星なのを誤魔化しているように見えただろう。本人もそれを自覚したのか、レオは「ぐぬぬ……」と悔しそうに歯噛みしながら腰を下ろしてそれ以上の反論は止めた。
「今日は遅かったんだな、エリカ」
「“放課後”用のチョコを生徒会室の冷蔵庫に入れてきたの。――まぁ、ウチの男共の相手してたのもあるけど」
うんざりといった感じに溜息を吐いて席に着くエリカに、事情を知らないレオを除く面々が納得顔で頷いた。
「今までは既製品だったけど、今回はしんちゃんのついでで手作りしたのを渡したのよ。そしたら手作りのチョコは初めてだとか言って大騒ぎしちゃってさ」
「それでも喜んでくれたんだから、良かったんじゃないの?」
「喜び方が問題なのよ。何か『自分に気があるんじゃないか』とか言ってくる馬鹿も出てきたし。まぁ、そういう馬鹿は念入りに叩き潰してやったから良いけどね」
ニカッと眩しい笑顔で物騒なことを口にするエリカに、レオと幹比古と美月は若干引いたように苦笑いを浮かべ、達也は常の無表情で小さく頷いた。
そんな空気を変えるためかどうかは知らないが、レオがここで「そういや」と話題を変えた。
「今日の放課後にやるパーティーだけど、俺はまだ詳しく聞いてねぇんだよな。どういう手筈になってるんだ? というか、まさか生徒会室でやるのか?」
「いや、会場は風紀委員本部だ。七草先輩が色々と声を掛けたからか参加者が結構な人数になってな、チョコの保管場所とかも考えるとそこが一番妥当だったんだ」
「生徒会室と風紀委員本部って、専用の階段で繋がってるでしょ? だからチョコとか会場の飾りとかは生徒会室に隠しておいて、頃合いを見計らって階段から会場に運び込むって寸法よ」
達也の説明とエリカの補足に、レオも「成程な」と納得顔で頷いた。
「でもよ、他の風紀委員にしたら迷惑じゃないか?」
「それは大丈夫。今日の巡回当番は、達也くんとしんちゃんなのよ。元々先輩方に予定があったみたいで、1年生の2人に体よく押しつけられていたのを利用させてもらったってわけ」
「その辺も抜かりなしってわけか。――ん? でも今回のパーティーって、本人にはサプライズなんだろ? 本部に立ち寄ってから巡回当番に出るんだとしたら、会場の設営とかどうするんだ?」
レオがその質問をした瞬間、美月は申し訳なさそうな表情で、エリカは悪戯を企むような笑顔で、そして幹比古は運命を共にする戦友への同情的な表情で、それぞれレオを見つめた。
そしてその表情を保ったまま、エリカが問い掛ける。
「ねぇレオ、自分が少し前までいた部屋が戻ってきたときにパーティー会場になっていた、とか最高のサプライズにならない?」
「はっ? ……まさか?」
「しんちゃんが達也くんと一緒に本部を出て、学校を巡回して戻ってくるまでの間に、レオ達男性陣で生徒会からチョコとかを持ってきて会場の設営をしてほしいのよ」
「やっぱり、そういうことかよ……!」
「達也くんもできるだけ時間は稼いでくれるけど限界はあるから、とにかくスピード勝負よ! 特にレオは材料の買い出しとかしてないんだから、その分他の人達よりも頑張らないと!」
「仕方ねぇだろ! 俺、入院してたんだぞ!?」
「何だか2人の会話を聞いてると、やっと元の日常が戻ってきた感じがしますね」
「からかわれているレオからしたら、堪ったものじゃないだろうけどね」
美月と幹比古の遣り取りに、達也は両方の言葉に対して無言の肯定を返した。
* * *
朝から浮ついた空気に包まれていた本日の一高だが、それでも生徒達は自粛していたようで放課後になって一気にそれが爆発した。校内のあちこちで甘酸っぱい光景が繰り広げられ、祭りに乗れない者からしたら何とも居心地の悪い雰囲気となっている。
今日ばかりは一高生も“魔法師の卵”ではなく“高校生”として青春を謳歌しているのか、普段のように風紀委員が出張るような喧嘩は起こっていない。その点は達也にとって楽なのだが、本日の巡回は普段の業務とは別にミッションが課せられているためけっして気を抜くことはできない。
「この辺りは問題無いな、次は闘技場を見るとするか」
「……ほい」
達也の呼び掛けに、しんのすけは気の抜けた声で返事をした。そうして目的地に向かっているときも、一通り闘技場を見て回っているときも、普段ならば一面花畑にする勢いで雑談に花を咲かせるしんのすけが一切口を開かないため、2人の間には重苦しい沈黙が広がっている。
本来そういった沈黙を気にする
「達也くん、あれから吸血鬼ってどうなったの?」
「……はっきり言って、膠着状態といったところだな。マスコミにも情報が挙がってこない状況だ。とはいえ例年よりも行方不明者の数が多いと七草先輩が話してたから、事態が沈静化しているというよりは相手の動きが巧妙化していると解釈すべきだろう」
「……そう」
しんのすけは短くそう答えたきり、再び黙り込んでしまった。
と、ここで達也の携帯端末が小さく震えた。受信したメールにサッと目を通し、表情を一切変えずにしんのすけの背中へと呼び掛ける。
「しんのすけ、そろそろ戻ろう」
「……ほい」
そうして風紀委員本部に戻る間も、2人の間には一切会話が無い。とぼとぼ、という擬態語でも付きそうな足取りで歩くしんのすけに対し、達也はさりげなく歩幅を小さくするなどして彼の数歩後ろという位置をキープする。
そうして本部のドアの前に辿り着くと、2人の位置関係もあってか自然としんのすけがドアを開ける役目となった。生徒用のIDカードをドア横の機械にかざし、ガチャンとロックが外れる音が辺りに響く。
そうしてしんのすけがドアに手を掛け、それを開けた。
「ハッピーバレンタインっ!」
「うおっ! な、何だ!?」
男女混合のユニゾンで発せられた呼び掛けに、パンパンと小気味良い音を鳴らすクラッカー。まるで誰かの誕生日会のような光景に出くわしたしんのすけは、今日一番の大きなリアクションで驚きを露わにした。
つい1時間ほど前に2人が出て行った風紀委員本部は、その僅かな時間で“パーティー会場”と呼ぶに相応しい光景と化していた。部屋の大半を占領していた机や応接セットなどは壁際に追いやられ、代わりに簡易的な造りをした長テーブルが幾つも並べられていた。壁にはそれこそ小学生の誕生日会などで見るような、色鮮やかな薄い紙を折って作った花や、折り紙を細く切って鎖のように繋いだアーチ、そして壁に貼ってすぐ剥がせるステッカーなどが飾られている。
しかしそれ以上にしんのすけの目を惹くのは、何といってもテーブルの上に所狭しと並べられたチョコレートの数々だろう。定番のハート形チョコはもちろん、チョコチップクッキーやチョコのカップケーキ、大皿いっぱいに並べられたトリュフチョコや粒チョコといった一口サイズのお菓子から、見るからにチョコがふんだんに使われたザッハトルテ、粉砂糖が雪のように鮮やかなガトーショコラといった切り分けるタイプの物まで取り揃えられている。その豊富なラインナップは、まるで即席のチョコ専門店かのような装いだ。
「おぉっ! チョコがいっぱいだゾ!」
「フフフ。とりあえずはドッキリ大成功、といったところかしら?」
クラッカーを握り締めたまま悪戯が成功したかのように笑みを浮かべるのは、一高生からして見れば“
1年生からは、しんのすけとよく一緒に行動する深雪・ほのか・レオ・エリカ・幹比古・美月は当然として、同じクラスからはリーナ、違うクラスからは英美・スバル・
2年生からは、あずさ・五十里・花音・桐原・紗耶香の5人。いずれもしんのすけと深い関わりのある先輩であり、特に後者2人は彼に対して色々と恩義があるため今回の参加と相成った。
そして3年生からは、真由美・摩利・克人・鈴音という懐かしさすら感じる顔触れだ。間違いなく3年生の中心人物である4人がこの時期に揃い踏みになることも驚きだし、何より克人がこのような場に参加するということ自体が驚きである。
「そっかぁ。今日はバレンタインデーだったっけ。コッテリ忘れてたゾ」
「コッテリじゃなくて、すっかりね」
「これだけ喜んでくれりゃ、必死になって用意した甲斐もあったってもんだぜ」
「そこの階段を何往復したかも憶えてないほどに走り回ったからな……」
おそらく特に動き回ったのであろうレオ・桐原・幹比古が、疲れを隠せない弱々しい笑みを浮かべてそう呟いた。
しかししんのすけの興味は彼らの表情ではなく、既にテーブルの上に並べられた数々のチョコに向けられていた。そしてその中で彼が真っ先に駆け寄ったのは、おそらく一番大きいからであろうザッハトルテとガトーショコラだった。
そしてそれを用意したのだろう3人の肩が、ピクリと跳ねた。
「それは僕達が用意したんだ。しんちゃんのお眼鏡に適ったようで何よりだよ」
「おぉっ、スバルちゃん。エイミィちゃんとサクラちゃんも」
「しんちゃんとは九校戦で一緒になったし、夏休みのときにも個人的にお世話になったからね。そのお礼も兼ねて、ってヤツだよ」
そう言ってニカッと笑った英美の表情には、特に恥じらった様子は無い。元々気後れしない性格であり、プラス男女関係に天真爛漫なところがあるためだろう。スバルと紅葉も、彼女の付き添いという側面が強いためか平然とした表情を保っている。
「ほうほう、これがエイミィちゃん達のってことは、この山盛りの粒チョコは花音ちゃんかな?」
「えっ!? なんで分かったの、しんちゃん!?」
「花音ちゃんって量で愛情表現するタイプっぽいし、五十里くんにも大きな箱に粒チョコとか詰めてプレゼントしてそうだなって思って」
「凄いねしんちゃん、まさにその通りだよ」
唖然とした表情で口をパクパクさせる花音に代わり、彼女のフィアンセである五十里が苦笑い混じりにしんのすけの予想を肯定した。
そしてそんな2人の脇を擦り抜けて、紗耶香が(若干緊張した面持ちで)しんのすけへと近づいていく。
「それじゃしんちゃん、アタシが作ったのはどれか分かる?」
「うーん、そうですなぁ……。紗耶香ちゃんが作ったのは……、このクッキーとか?」
「さすがしんちゃん、正解だよ。――しんちゃんには春のことも含めて色々とお世話になったし、少しでも感謝の気持ちを形にできたらな、って思って」
「ほうほう。――んで、桐原くんの本命チョコには何を作ったの?」
「へっ!?」
「お、おい野原! 今は俺関係ねぇだろ!」
分かりやすく顔を紅くして声を荒らげる桐原に、他のメンバー(特に女性陣)がほっこりとした笑顔を浮かべる。ちなみに2人に関しては、昼休みに二科生にとって敷居の高い一科生の教室に乗り込んで顔を背けながらリボンの掛かった赤い箱を差し出す紗耶香と、今にも小躍りしそうな雰囲気を醸しながらそれを受け取る桐原の姿が多くの生徒に目撃されていた。
その後も、しんのすけがテーブルの菓子を指差しては作った人物を挙げる流れが続いた。カップケーキはほのかと美月、トリュフチョコは深雪とエリカ。特に後者に関しては、一度に大量に作れるからエリカが門下生の分も纏めて作ったことまで言い当てられ、本人は気恥ずかしいやら何やらで複雑な表情を浮かべていたのが印象的だった。
そしてハート形チョコが摩利と鈴音のお手製であることも、しんのすけは見事に言い当てた。理由は『バレンタインといえばハートだろうという真由美と鈴音の言葉に、最初は抵抗していた摩利も最終的に言い包められたため』というものであり、摩利が「アタシ達以外誰もハートなんて無いじゃないか!」と2人に詰め寄る場面もあった。
と、テーブルの上に並ぶ菓子はこれで全部となった。
「あれっ? リーナちゃんと真由美ちゃんは、何も作ってこなかったの?」
「リーナは声を掛けるタイミングがギリギリになっちゃってさ、とりあえず参加しないかって呼び掛けただけなのよ」
「そうなの。リーナったら、ここ最近“お
「……何だかミユキの言い方に含みがあるけど、アタシだって手ぶらで来たわけじゃないのよ」
リーナはそう言うと、この部屋に来たときに壁際に追いやった自身の荷物へと駆け寄り、見慣れない肩提げバッグを手に戻ってきた。勝ち誇ったようなドヤ顔付きで。
そうしてバッグから取り出したのは、
「はいシンちゃん、ロイヤル・プレジデント・チョコビよ。たくさん買ってきたから、好きなだけ貰ってちょうだい」
「おぉっ! やったぁ!」
片手で掴むのも苦労しそうな大きいパッケージに、しんのすけは目を大きく見開いて飛びつく勢いでそれを手に取った。
「その菓子って、しんのすけが好きなヤツだっけか」
「そう。その辺で普通に売ってるヤツだけど、高価だから普段なかなか食べないかなって思って」
「やっほーい! ありがとう、リーナちゃん!」
「ちょっとしんちゃん! アタシ達のときよりも随分リアクション大きくない!?」
エリカのツッコミを聞いているのかいないのか、しんのすけは実に嬉しそうな表情でチョコビに頬擦りしていた。何だか自分達が前座にされたような気がする、とエリカの鋭い視線がリーナへと向けられ、それを敏感に察したリーナがビクンと肩を跳ねさせる。
と、ここまで無言を貫いていた真由美が、満面の笑みと共に口を開いた。
「ふふふ……、本当ならパーティーの中盤辺りで出す予定だったけど、最初にチョコを見せる流れになったのなら仕方ないわね……」
「どうした真由美、気持ち悪い笑い声をあげて」
気の置けない仲であるが故の遠慮無い摩利の言葉を無視して、真由美は自身の鞄から綺麗にラッピングされた箱を取り出した。厚紙でできたそれは内側にビニール加工が施されており、チョコ自作派の間では“御用達”と呼べるほどに多用される代物だ。
全員の視線を集める中、真由美がその箱の蓋を開けた。
「……何だ? 普通のチョコか?」
「一見、溶かしてダイス状に固めただけに見えますが」
下級生の会話に割って入ってまで今回のパーティーへの参加を希望した彼女が満を持して用意したチョコ、にしては何とも味気ない外見をしたそれに、摩利も鈴音もガッカリしたのを隠せない落胆した表情でそう呟く。
しかし真由美は、むしろその言葉を待っていたかのようにニンマリとその笑みを深くした。
そして高らかに、こう宣言した。
「只今より! 『第1回! ロシアン・バレンタインチョコ・ルーレット』を開催します!」
「――――は?」
全員の気持ちを端的に代弁した摩利の声が、風紀委員本部に広がった。
「ここにあるのは一見普通の美味しいチョコ! だけどこの中の
「ほうほう、ちなみにどれくらい苦いの?」
「ベースのチョコはカカオ95%で糖類ゼロ、さらには駄目押しとしてエスプレッソパウダーをふんだんに盛り込んでるわ!」
「本当にどうした真由美、受験ノイローゼで頭がおかしくなったか?」
辛辣な言葉をぶつける摩利をとことん無視し、真由美は本日の主役であるしんのすけへとその箱を差し出した。どうやら早速運試しが行われるようで、彼がノリノリでチョコを手に取ったのを皮切りに、その場にいる全員が有無を言わさず参加する流れとなってしまった。ちなみに仕掛け人の真由美は、最後に残った1個を食べることになる。
ちなみに達也がチョコを手に取る際に半分本気で観察してみたが、どれも見た目に違いはなく、エスプレッソパウダーの苦い匂いが全てのチョコにこびりついているせいで嗅覚でも区別が付かなかった。指で摘まめるサイズにも拘わらずズッシリと重量を感じるほどに中身が詰まっているのも余計に恐怖心を煽らせ、ほのかや美月などは小刻みに肩を震わせるほどだった。
「ちなみに真由美、まさか全部苦いチョコでしたなんてオチじゃないよな?」
「そんな冷めるようなことしないわよ。苦いのは6個だけだから」
チョコは全部で参加者と同じ21個なので、苦いのが当たる確率は3割弱。生憎とこういった場に参加した経験の無い達也には、はたしてその確率が適切なものなのか判断が付かなかった。そもそもロシアンルーレット自体が不適切なのでは、と言われればそれまでなのだが。
「それじゃみんな、一斉に口の中に入れて! せーの!」
真由美の掛け声と共に、全員が一斉に口の中にチョコを放り込んだ。
そして、
「ぐえあぁっ!」
「ふぐぅっ!」
「があああああ!」
真っ先に反応したのが、レオ・幹比古・桐原の男子3人だった。3人ともがその場に崩れ落ち、咄嗟にチョコを吐き出そうとして懸命に堪える、しかし飲み込むこともできずに背中を波打たせる勢いで
「アッハッハッ! レオ、見事に当てたじゃない!」
「幹比古くん、大丈夫ですか!?」
「桐原くん!? ほらっ、お水よ!」
どうやらセーフらしいエリカが悲惨なことになってるレオを指差して笑い、美月がただただ呆然と幹比古を見遣り、そして紗耶香がペットボトルの水を甲斐甲斐しく桐原に差し出す中、
「……どうやら俺のも、苦いヤツだったらしいな」
「よく食えるな十文字。アイツら、のた打ち回ってるぞ」
平然とした表情を崩さないまま口をモゴモゴと動かす克人に、摩利が信じられないものを見るかのような表情を彼へと向け、
「お兄様、先程から黙ったままですが、もしかして当たりましたか?」
「…………」
「お兄様? あの、大丈夫ですか?」
「…………」
「お兄様? おに、お兄様!?」
口を手で押さえたままやがて微動だにしなくなった達也に、深雪がまるで今生の別れかのような悲惨な声をあげ、
「おごえええあああぁぁぁ!」
ロシアンルーレットの主催者である真由美が、最後の最後に残った“それ”を見事に引き当て、見目麗しい女子とは思えない声をあげて膝から崩れ落ちた。
「ま、真由美さん!? 大丈夫ですか!?」
「自分で仕掛けた罠に自分で嵌っていたら世話無いですね」
「見ろ、しんちゃん。アレが“エルフィン・スナイパー”だの“妖精姫”だの呼ばれ、十師族の中でも特に名高い七草家のご令嬢の姿だ」
「真由美ちゃん、大学生になったら一気に開放的になって、サークル活動とか言って飲み会しまくるパリピ系とかになってそうだよね」
苦悶の表情で床に四つん這いになる真由美を本気で心配しているのはあずさだけで、鈴音と摩利は白けた目を彼女に向け、しんのすけはやけに具体的な未来予想を口にしながら携帯端末のカメラを彼女に向けていた。
「ちょ、ちょっと待ってしんちゃん! 何を撮ってるの!?」
「いやぁ、せっかくの楽しい思い出を形に残しておこうと思って」
「お願いしんちゃん、止めて! 私が悪かったから!」
今にも泣きそうな表情で追い掛ける真由美に、ヘラヘラと笑いながら後ろ向きで器用に逃げる(もちろん携帯端末はそのままだ)しんのすけ。
そんな彼女のはっちゃけた姿に、初めて見たのであろう紗耶香や英美ら下級生は唖然とした表情を浮かべ、逆に彼女の本性を知る克人や鈴音は呆れ果てた様子でそれを眺めている。
そんな中リーナが、チョコのダメージから回復した達也の傍へと歩み寄る。
「マユミ先輩って、とてもユーモアがある人なのね」
「……ユーモア、まぁ、オブラートに包んだ言い方をするとそうなるな」
「あら、結果的にシンちゃんが笑顔になったんだから良いじゃない」
「なぁ達也、そろそろ他のチョコを食べても良いか? 早いとこ、口の中の苦みを消し去りたいんだけど」
「アタシもサンセー! 特にこのザッハトルテとか美味しそうじゃない!」
正式なパーティーとは違って特に挨拶が行われることもなく、真由美としんのすけの追いかけっこが行われる中、他の参加者達はチョコの並んだテーブルに群がっていった。
或る意味こっちの方が“らしい”か、と達也も苦笑い混じりでテーブルへと向かっていった。
* * *
風紀委員本部から発せられる鮮烈な感情の波動が、敷地の片隅に建てられたガレージへと伝播する。もちろんそれは物理的な影響を及ぼすものではなく、この世界に住まう大部分の生物は感知のしようもない代物だ。
しかし、仮にそういった波動に敏感な存在がいるとしたらどうだろうか。
たとえば、心を持たぬ人形の中で微睡んでいた“それ”などは、鮮烈な感情の波動にどのような反応を示すだろうか。
* * *
パーティーで用意された菓子はしんのすけをメインに用意されたものだが、他の参加者に向けた義理チョコ・友チョコの側面もあった。故にパーティーが終わった後はそれぞれに余った菓子が配られ、大量のチョコを抱えながら帰路に就く姿が見受けられた。
当然達也もそうだったのだが、家に到着して玄関で靴を脱ぐや否や、深雪がチョコの入った袋を奪い取ってそのまま冷蔵庫へとしまい込んだ。経緯が経緯なのでチョコを贈った相手に嫉妬したとは思えないが、それでも彼女の笑顔は自身の感情を読ませない仮面のように達也には思えた。
「お兄様、すぐに夕食の準備に取り掛かりますので、しばらく部屋でお待ちください」
そんな綺麗な笑顔のまま、深雪が達也にそう言い放った。意訳すれば『呼ばれるまで見に来るな』という彼女の言葉に、達也は去年までと違う展開に一抹の不安を覚えながらも大人しく自室に籠もっていた。
そうして1人になって思い出すのは、パーティーが終わって帰路に就くまでの間の出来事。
実はそのとき、達也はほのかに「少し時間を頂けませんか」と誘われ、そして可愛らしい包装紙に包まれたチョコレートを受け取っていた。如何にも甘酸っぱい青春の1ページであるが、それを思い返すにしては彼の表情は苦々しげに歪められている。
――俺は、ほのかの心を弄んでしまった。
ほのかからチョコを受け取った達也は、そのお返し(来月とは別口で)として、あらかじめ用意してあった純度の高い水晶をあしらった髪飾りを手渡した。愛しの人物からの思わぬプレゼントに、ほのかは喜び舞い上がっていたのをよく憶えている。
それこそ、達也の“思惑”通りに。
その髪飾りは、深雪が選んだものだった。それだけなら“嘘も方便”で通るが、そもそも達也が贈り物をした理由というのが、そうすれば彼女の意識がその事実で飽和されて“気持ち”を表す言葉が浮かぶ余地も無くなる、と予想したからだ。
妹に対する情愛以外の情動を廃された達也では、ほのかの“気持ち”に応えてあげられない。それを少しでも誤魔化すための姑息な計略に、あろう事か妹も巻き込んでしまった。達也の心中は先程から、それに対する自己嫌悪に充ち満ちていた。
と、深雪の呼び掛けによって、達也の思考は現実世界に帰還した。チラリと時計を見ると、家に着いてから1時間ほどが経過している。
そうしてダイニングに下りた達也は、
「……成程、こう来たか」
目の前に広がる光景に、達也は思わず呟いていた。
ダイニングに充満する甘い匂いは、先程までのパーティーでも充分すぎるほどに嗅いできたチョコレートのそれ。そしてその発生源である数々の“料理”を前に、深雪は満面の笑みで達也を出迎えた。
メインの肉料理は、牛フィレ肉のチョコレートソースがけ。
付け合わせは、ナッツぎっしりクッキーのチョコレートフォンデュ。
デザートはフルーツの、ブランデーを加えたホワイトチョコレートフォンデュ。
誇張抜きのチョコ尽くめな料理は、一緒に住んでいる深雪にしか用意できないバレンタインチョコレートと言えるだろう。
しかし達也の戸惑いはチョコ料理そのものよりも、それを用意した
「……深雪。その衣装はどこで手に入れたのかな?」
「衣装ですか? これは単なる給仕用ですが……。似合っておりませんか……?」
深雪の衣装はパフスリーブのブラウスに、胸元が編み上げになったジャンパースカート、フリルたっぷりのエプロンという、所謂チロリアンドレス・スタイルであり、ある種の趣味人が集うレストランでよく見られるものだった。
しかし“絶世の美少女”という呼称がまったく誇張にならない深雪がそれを着ると、まるで完成された芸術品であるかのような、それこそ二次元の存在がそのまま具現化したかのような錯覚すら引き起こすほどの完成度だった。
「いや、似合っているよ。とても可愛い」
ただでさえそんな彼女に対して、ましてや達也にとっては“特別な存在”である彼女に『似合ってない』などと言えるはずもなく(そもそも似合ってないなどと考えるはずもなく)、達也は戸惑いを彼方に追いやってそう答えた。
「本当ですか! ありがとうございます!」
そして心の底から嬉しさを表現するようにパァッと晴れやかな笑顔を浮かべる深雪に、妹が喜んでくれるなら良いか、と達也は満足げに頷いた。
そう。たとえ先程散々チョコを味わい尽くし、これからしばらくはチョコを消費する日々が待ち受けている中、せめて今夜くらいはチョコと離れたかったと本心では思っていたとしても、最愛なる深雪が用意してくれたチョコを無碍にするなんて選択肢はハナから存在していないのである。
ダイニングの椅子に腰掛ける達也の心境は、それこそゲリラ兵に侵攻される横浜に出陣するときのそれと酷似していた。
* * *
しんのすけが1人暮らしをしている、単身者用アパートの一室。
その部屋の中心部に位置するリビングは現在、1辺が膝丈を超える立方体の段ボール箱が幾つも並び、それらに床の大部分を占領されていた。
『しん様! あいのプレゼント、受け取っていただけましたか!?』
「うん、さっそく1個食べてるゾ~」
しんのすけが電話の向こうにいる酢乙女あいにそう返事をしながらバリボリ食べているのは、彼が好物としているお菓子であるチョコビだった。リーナからは昼間に最高級品の“ロイヤル・プレジデント・チョコビ”を贈られたが、こちらはそれよりも幾分か値段の安い、それこそ普段彼が食べている通常のチョコビと大差無いグレードの商品である。
しかしそのチョコビは、まだ一般流通のされていない“試作品”だった。チョコビの製造元である製菓会社は酢乙女ホールディングスの傘下企業(元々グループ企業の1つとして創業されたのではなく、会社の名前を残したまま買収されたという経緯を持つ)であり、その立場を利用して毎年この時期に新作チョコビを山のように贈る、というのがあいの習慣となっていた。
サザエさん時空によって100回近くバレンタインデーを経験し、世界中のあらゆる高級チョコを試した結果それが最善だと結論づけたあいの作戦は覿面で、しんのすけは昼間に散々チョコを食べたことなど感じさせない勢いでチョコビを口の中に放り込んでいる。
『あぁ、しん様! 直接お渡しすることのできない不出来なあいをお許しくださいませ!』
「いいっていいって。お仕事で忙しいんでしょ?」
『さすがしん様、なんて寛大なお心をお持ちなんでしょう! 本当はサボろうかとも思ったのですが、
「仕事はちゃんとした方が良いと思うゾ、あいちゃん」
冗談の一言では片づけられない真剣な声色でそう話すあいに、しんのすけは思わずツッコミの言葉を口にしていた。普段はボケの役割が多いしんのすけだが、彼女との会話ではツッコミに回ることも少なくない。
あいちゃんは相変わらずマイペースですなぁ、と「おまえが言うな」の大合唱が聞こえてきそうなことを思いながら、しんのすけはまた1個チョコビを口の中に放り込んだ。
『申し訳ございません、しん様。もっとお話したいのですが、これから商談がありまして』
「ほいほーい。頑張ってね」
『あぁ! なんて有難いお言葉! しん様の声援を励みに、あい、頑張りますわ!』
自分の言葉1つで頬を紅潮させて満面の笑みを浮かべるあいに、しんのすけが抱いた感想は『テンション高いなぁ』だけだった。しかしあいはそんなことを知る由も無く、挨拶と彼への愛情を並列させた言葉を一頻り並べてから電話を切った。
その後もしばらくチョコビを食べ進めていたしんのすけだが、やがて1袋分食べ終えたところでソファーから立ち上がると、床に置かれた段ボール箱を避けながらキッチンへと歩いていき、ゴミ箱にそれを放り込んだ。
そしてリビングに戻ろうとしたとき、ふと視界の端に映り込んだ“それ”に目を向けた。
それは一見すると宅配便で届いた何の変哲も無い荷物のように見えるが、通常ならば添付されているはずの送り主や届け先が書かれた紙がどこにも見当たらなかった。しかしそれはしんのすけの部屋宛の宅配ボックスに入っていた物であり、つまりそれは誰かが業者を介さず直接そこまで持ってきたことを意味している。
普通ならばそんな荷物は怖くて部屋に入れないだろうが、しんのすけは特に疑問を覚えることなくそれをキッチンまで持ってきた。
彼にとってそれはこの時期恒例のことであり、その送り主もおおよその見当が付くからである。
「さてと、