ここは央華の世界にあって、五遁の術を得手とする仙人たちが住まう南東海上は方丈島にある洞府のひとつ、双尾洞。
洞府の主である女仙・瑠螺(りゅうら)公主はいま、一番弟子の林悠季(りんゆうき)を自分の部屋に呼び出して、何事か言い含めていた。
「悠季や。わしはあと少ししたら、しばらくの間他所へ出かけることになるのでな。留守を頼むぞ」
「ああ。それで、どこへどのくらい出かけるのさ?」
「それは知らぬ。だが、ずいぶんと遠いところだそうでなあ。何か月か、あるいは何年か、ことによれば何十年か……。途中で戻ってくることができるかどうかもわからぬが、お前もそれなりに腕を磨いたゆえ、そのくらいの間なら留守を預けても大丈夫であろう?」
そんな師匠の言葉に、悠季と呼ばれた活発そうな赤髪の青年は、きょとんとして首を傾げた。
いかに師匠が不老長生の仙人だとはいえ、そんなにも長い間自分の洞府を留守にしてどこかへ出かけるなどというのはこれまでになかったことであるし、それに。
「お師匠さま。自分で出かけるのに、その行き先も知らないってのは、一体どういうことなんだい?」
瑠螺は、弟子のそのもっともな疑問に対して困ったように肩をすくめた。
「それは、風水卜占御一門……遙の哥上(あにうえ)の卦が示したことでな。卦によれば、わしはしばしの間大道の導きで地界、天界、冥界、仙界のいずれでもない異界へ招かれ、そこで清徳を積む運命にあるというのじゃ」
いかに経験豊かな仙人だとはいえ、そんなわけのわからぬ話を彼女がすんなりと受け容れ、異界へ赴くべしという己の運命に素直に従うことに決めたのは。
それはかつて、道士として修業をしていた時代に知り合った、『チキュウ』だか『ニホン』だかいう異界からやってきたというある少女のことを思い出したからだった。
(行く先は、おそらく星晶の故郷と同じではあるまいが)
そんな師の言葉に、さらに質問を重ねようとした悠季がまだ口を開かぬうちに、公主の前に光る鏡のようなものが姿を現す。
高さは六尺以上、幅は三尺以上はあるだろうか。
女性としてはかなりの長身な公主の体が、すっぽりと収まってしまうくらいの大きさだった。
「……ふむ。どうやらこれが、件の異界への道かの?」
そう呟いた瑠螺の頭頂から、尖った狐の耳が一瞬、ぴょこんと飛び出した。
道具を扱ったり『気』を巡らせたりするのに最適で何かと便利だから、人としてこの央華に生を享けたのではない者も、仙人の修行をする際には大抵は人間の姿をとる。
だが、感情が昂ると一時的に変化が解けてしまうことも多い。
瑠螺の本来の姿は、齢を経て尾の数を増やし、知恵を身に付けた狐……妖狐なのである。
とはいえ、彼女がいま本来の耳を曝け出してしまったのは、単に突然の出来事に驚いたからというわけではあるまい。
仙人にとっては、遥か彼方の別の洞府にいる友人が何もない空間から出し抜けに腕を突き出し、こっちの肩を叩いてくる程度のことは日常茶飯事なのだから。
彼女がそれだけ感情を昂らせたのは、これから待つ未知の世界に対する期待や不安からなのか、あるいは弟子や友人たちとこれでしばらくの間は会えなくなるのだということを思ったためか。
いずれにせよ、瑠螺は次の瞬間にはもう元通りに耳を引っ込めると、席から立ち上がっていた。
「では、行ってくる。達者でな。もし、わしの帰りが遅くなるようなら、十年ごとくらいに遙の哥上に安否を問い合わせるがよかろう」
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「む……」
召喚の門を通り抜けると、あたりの空間がぐにゃりと歪み、気が遠くなっていくような感覚があった。
瑠螺は静かに目を閉じて体内の『気』の流れを整え、意識を失うことを防ぐ。
――そうして、どのくらいの時間が経ったものか。
やがて空間の歪む感覚がなくなったので目を開けてみると、周囲の景色はすっかり一変していた。
瑠螺は今や、抜けるような青空の下に広がる、豊かな草原の只中に立っていた。
(本当に、別の世界に来たのじゃなあ)
生えている植物の種類も、風の匂いも、方丈島にある自分洞府の周辺はもとより、これまでに見てきた央華のどの場所とも違っている。
周囲には、少し遠巻きにこちらを見ている大勢の人間の姿があった。
そして、目の前には一人の少女がいて、こちらを見上げている。
状況からすると、この娘が自分をこの場に呼び出した、先程の術を使った者だろうか。
「あ、あなた……、誰?」
桃色がかったブロンドの髪に、透き通るような白い肌。
吊り上がり気味の目をしていて、鳶色の瞳がこちらを見上げている。
見慣れぬ奇妙な装束を身にまとったその体は、瑠螺よりもずいぶんと小さかった。
外見からすると、年齢は十代の半ばほどといったところだろうか。
無論、仙人や道士、あるいは妖怪の類であれば、外見など実年齢を推し量る上では何の役にも立たないのであるが。
しかし、身にまとう雰囲気からすれば、見た目通りの子供なのではないかと瑠螺には思えた。
「お初にお目にかかる。わたしは、瑠螺という者じゃ」
そう名乗ると、長い袖に包まれた左拳と右掌を合わせて、軽く頭を下げる。
「しかし、人に尋ねる前にまず自分から名乗るのが礼儀というものなのではないかの。そなたの名は?」
そう言われて、瑠螺の目の前の少女……ルイズは、むっとしたような顔になった。
名門ヴァリエール家の令嬢で誇り高い貴族である彼女としては、見知らぬ人物から礼儀作法について咎められるなど当然プライドに障る。
ましてや、なぜ人間がと困惑させられはするものの、おそらくは自分の使い魔として呼び出されたはずの相手からとなればなおさらのことだ。
しかし……、相手は明らかに、自分よりも年長者のようだ。
そのしわひとつない、少しきつめの顔立ちからは正確な年齢は推し量りにくかったが、自分よりは上であることは間違いないだろう。
衣服にしても、朱や金、紫といった色合いの、だらりと袖を垂らした衣を二重三重にまとっていた。
見慣れぬ装束ではあったが非常に豪奢で、明らかに高価な品である。
それがまた、非常によく似合っているのだ。
このハルケギニアにおいて貴族の証とされるマントこそ身に付けていないようだが、どこか遠方の高貴な家系の出なのではないかとルイズは思った。
杖も見当たらないが、懐か袖の中にでもしまっているのかも知れない。
ただの平民がそんな口を聞くのは許せないが、そうであるならば確かに、それなりの礼をもって接するべきなのだろう。
「これは失礼を、ミス。わたしは、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。ヴァリエール家の三女ですわ」
「みす? ぶぁりえーる? ……ふうむ……」
聞き慣れぬ言葉の数々に、瑠螺は眉根を寄せて考え込む。
そこへ、周囲の人々の中から野次が飛んだ。
「ルイズ! 『サモン・サーヴァント』で、人間を呼び出してどうするんだよ!」
その声に、他の人々も一斉にどっと笑う。
状況がわからない瑠螺はきょとんとするばかりだったが、ルイズはたちまちかあっと顔を赤くして、鈴のようによく通る声で抗議した。
「そ、そんなの、自分で選ぶわけじゃないんだから仕方ないでしょ!」
それから、ミスタ・コルベール! と、誰かの名前らしき言葉を叫ぶ。
それに応じて人垣が割れ、中年の男性が姿を現した。
周りの少年少女らよりも明らかに年長の外見と落ち着いた雰囲気からして、この人物はルイズらの師父か師兄であろうか、と瑠螺は推測した。
「ミスタ・コルベール、もう一度召喚させてください!」
人間を使い魔にするわけには、というルイズの訴えに、そのコルベールと呼ばれた男は困った様子で、彼女と瑠螺とを見比べた。
それから、ひとまず待つようにとルイズを手で制して、瑠螺のほうに向き直る。
「失礼、ミス・リュウラ……でしたな。私はコルベール、このトリステイン魔法学院の教師をしている者です」
「丁重なご挨拶、痛み入る。私は瑠螺、方丈島双尾洞の洞主を務めておる者じゃ」
「ホウジョウトウ、ソウビドウ……ドウシュ? ですか? ……ううむ」
聞いたことのない言葉にコルベールが困惑している中、瑠螺の方も魔法学院、魔法か……と、心の中で呟いていた。
経験豊かな仙人である彼女は、この世には仙術のみならず、魔術魔法魔道霊術呪術巫術道術妖術幻術新術秘術……冥術に屍霊術、その他諸々の秘儀が存在するということは知っていた。
とはいえ、異なる体系の術である魔法について深い知識があるわけではなく、そのような術も存在することは一応知っている、という程度だが。
(一口に魔法といってもさまざまであるらしいが、さて……)
ここの術師たちは見た感じ特に普通の人間より経験が深いわけでもないらしいが、数はかなり多い。
はたして、どれだけのことができるものなのだろうか?
「……して、見たところ何やらお困りのようであるが。一体、何が問題になっておるのかの?」
瑠螺からそう問われて、コルベールははっと我に返った。
「ああ、そうでした。いえ、あなたがミス・ヴァリエールの『サモン・サーヴァント』のゲートを潜られたわけですが、なにぶん人間が現れるなど前例のない話でして。使い魔召喚の儀式は始祖の導きに従う絶対のものですが、はたしてこのまま契約をしていただいてよいものかと……」
とはいえコルベールも、もしもゲートから現れたのがそこいらにいるただの平民であったなら、そのまま契約をさせたかもしれない。
名門の貴族であるヴァリエール家の令嬢に使い魔として仕えるというのは決して悪い話ではないだろうし、家族の元へも後で場所を調べて報告に行かせればそれで済むだろうから。
普段ならもう少し慎重にするところだろうが、なにせルイズはここに至るまでに何度も失敗をして時間が押してきており、コルベールとしても早く片付けて次の仕事にうつらねばならない状況になってきているのだ。
だが、さすがに正体の知れない、おそらくは高位の貴族であるかもしれない女性が対象とあっては、儀式は絶対だからといって契約を強行させるわけにもいかなかった。
そんなことをしては、後でどんな問題が起こるかもしれない。
しかし、当の瑠螺公主は別に難色を示すでもなく、あっさりと頷いた。
「無論、構わぬ。そなたらの使い魔とやらがどのようなものかは知らぬが、わらわは初めから運命を受け容れるつもりで、大道の導きによってここに来たのじゃからな」
「い、いいの?」
ルイズが、嬉しさ半分、不安半分といったような顔で、そう尋ねた。
散々失敗して、もはやこのまま退学かと不安に思っていたところにどうにか使い魔が来てくれて、契約が成立しそうなのは嬉しい。
しかし、その相手が人間で、しかも同性で契約のためのキスをしなくてはならなくて。
その上……。
(使い魔がどんなものか知らないって、どんな田舎者よ?)
……貴族なのかどうかわからない、もしかしたらただの平民なのではないかというのでは、不安も残る。
貴族と平民とでは、正確に言えばメイジと平民とでは、オオカミと犬ほども差がある。
ただの平民が使い魔だとしたら、これほど惨めなことはない。
そりゃあネズミや猫よりは強いかもしれないし、見た目もいいが、そんな問題ではないのである。
そんなルイズの不安を見透かしたのかどうか、瑠螺公主はどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて彼女に顔を近づけると、耳元で囁いた。
「それにの、人間と契約してよいかなどということは、初めから問題外じゃ。わらわはそも、人間などではないからの――」