しばらくの後、一行は賊どもから奪った馬車に乗って、王都トリスタニアへの道程をのんびりと進んでいた。
賊の女頭目が使用していた豪奢な大型馬車には娘らを乗せて瑠螺が御者を務め、娘らが先ほどまで詰め込まれていた少々焼け焦げた荷馬車には捕縛した賊たちを押し込んで、タバサが御者を務めている。
その荷馬車の中からは、何やらくぐもった悲鳴だの、聞き苦しい唸り声だのが響いてきているが……。
「読書の邪魔」
タバサは『サイレンス』の呪文をかけて、無視を決め込んだ。
先ほどから片手で馬の手綱を取りながらもう片方の手で本をめくっている、器用なものだ。
「まあ、トリスタニアとやらへ着くまでの辛抱じゃな。……互いにの」
瑠螺は、肩をすくめて苦笑した。
賊どもが、先だって無辜の娘らを押し込んだ粗末な荷馬車に今度は自分たちが押し込まれる破目になったのは、それすなわち己がしでかした悪行に対する報い、業罰というもの。
そしてその荷馬車の中で目を覚ました女頭目が、先ほど己が見捨てようとした部下どもからどのような目に遭わされようと、それもまた業罰というものである。
無償で人助けをしてまわる仙人といえども、己の罪業のために受けることになったそのような業罰からは普通、助けてやろうとはしないものだ。
どうせ部下たちも全員、どうあがいても逃げられない程度には厳重に縛り上げられているのだから、到着までの間に恐ろしい思いやおぞましい思いをすることはあっても、実際上の肉体的な被害はさして受けまいし。
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そんなこんなでトリスタニアへ到着すると、タバサは真っ直ぐに役所へ向かい、まずは人さらいと少女たちの身柄を引き渡すことにした。
「おお、なんと大きな都じゃ」
王都へ入ってからずっと、瑠螺は感心したように周囲の街並みを眺め続けていた。
それも無理からぬことであろう。
この王都トリスタニアには、央華でも最大規模の都に匹敵しようかというほど大勢の人々が暮らしているのだから。
瑠螺の故郷である央華において、人々が住む個々の集落……邑の人口は、せいぜい数千から、最大でも数万人といったところ。
社会構造にしても、ハルケギニアと比べれば未発達もいいところである。
国家はすべて城壁に守られた都市国家であり、大国と呼ばれるような集落であっても、直接支配している地域の広さはたかが知れているのだ。
「石造りの家が多いのう。店も、たくさん出ておるようじゃな」
「王都だから。この国で、一番栄えている」
タバサは、田舎から来たお上りさんみたいな瑠螺にそう教えてやった。
「……でも、ガリアの王都リュティスのほうが、もっと大きい」
ついでにそんな一言を付け足したのは、ほんの少し自分の故郷を誇りたい気持ちがあったからだろうか。
ちなみにシルフィードは、下手に同行させて衛視たちから『どこの娘か』などと尋ねられても困るので、トリスタニアに入ったあたりで適当な理由をこしらえて先に馬車から降ろしておいた。
今頃は街の外に出て竜の姿に戻り、用事を終えた主人らが戻ってくるのを待っていることであろう。
「なんと、これよりもまだ大きな都があるのか」
瑠螺は目を丸くして、ほうっと溜息を吐いた。
そう言えば星晶も、自分の故郷である『ニホン』という国には、央華のどんな邑よりもずっと大きな都があるのだとか言っていたが。
はたしてそのリュティスとやらとどちらがより大きいのだろうかと、見知らぬ異界の大都へ思いを馳せる。
実際には、ハルケギニアでは最大の都市とはいえ人口三十万人がせいぜいのリュティスと、人口一千万人を優に超える日本の東京とでは、面積はいざ知らずその賑わいという点ではまるで比較にならないのであるが。
そんなことはもちろん、瑠螺の知るところではない。
どちらにせよ現在の央華にあるどんな都よりも遥かに大きく、彼女にとっては未知の大都会であるという点では変わらないわけだし。
(しかし、このあたりでは王がいる集落は、どうやら王都と呼ばれる大規模なものだけのようじゃな)
央華において人々が住む個々の集落……邑は、それぞれが独立した存在である。
そして、その大小に関わらず、邑の長はすべて王と呼ばれている。
王はその地の土地神である祖霊神をまつることで祟りを鎮める祭官でもあり、死後は自らも土地神の一人となって邑を見守り続けることになる、のだが……。
(確かに、ここらには土地神の類はおらぬようだし)
そうすると、それをまつる邑々の王もいらなくなるのが道理か。
それでもまだ王都とやらにはいるらしいが、あるいはそれも、央華における同名の存在とは大きく役割が異なっていたりするのかもしれない。
瑠螺がそんな風にあれこれと考えているうちに、馬車は目的地にたどり着いた。
タバサはさっそく馬車から降りて、役人に事の次第を伝える。
瑠螺も一緒に付いて行ったが、なにぶんこのあたりのことはまだよくわかっていないので、彼女が話すのを後ろから見ているだけであった。
もっとも、まだ弱冠十五歳な上に見た目が年齢以上に幼いタバサだけでは役人から疑いの目で見られるのを避け得なかったであろうところに、風変わりな装いながらも大人びて頼もしげな瑠螺が付き添ったことで、本人は何も言わずとも明らかに話が通りやすくなっていたが。
「なるほど、ガリア王室から『シュヴァリエ』の爵位を与えられた方でしたか」
タバサの提示した身分証を見て、衛視たちは感心した様子だった。
「いや、助かりました。こやつらは乱暴なことで知られる傭兵団で、当局も最近このあたりで頻発する盗難事件や暴行騒ぎは連中の仕業ではないかと疑っていたのですが。よもや、誘拐に人身売買までやらかしていたとは……」
「さすがは騎士どのだ、ご協力に感謝いたします!」
そう言って頭を下げる衛視たちに対して、タバサは首を横に振ると、後ろに控えている瑠螺の方を示した。
「わたしよりも、この人のおかげ」
それを受けて衛視たちは、瑠螺にも丁重に頭を下げる。
タバサ以上に頼もしげに見える彼女もまた、当然名のある貴族であろうと彼らからは見なされているようだった。
「なに、それほどでもないぞよ?」
瑠螺は目を細め、扇で口元を隠しながら上品に笑って、その礼を受け容れた。
清徳を積むべく常日頃から人助けをして回る仙人というのは、恭しい態度を取られたり感謝されたりすることには慣れているものだ。
特に彼女の場合は、それ以前にも偽の神になりすまして人々から崇め奉られていた経験もあるわけだし。
「いずれにせよ、後日お二方には正式に謝礼をお出しいたしますので。連絡先を教えていただけませんか」
「謝礼……というと?」
「指名手配犯というわけではありませんでしたが、金一封は出るでしょう」
それを聞いて、瑠螺は首を横に振った。
「ああ。わらわは別に、金などいらぬぞ」
飲食も睡眠もほとんどとる必要がない仙人は、そんなものを常日頃から持っていなくても生きていけるのだ。
「いえ、そう言われましても。上から出されたものを受け取っていただけないと、こちらもやり場に困るので……」
「あなたはまだ、このあたりのお金を持っていないはず。もらっておいた方がいい」
タバサが、横合いからそう口添えをした。
本当を言うと、彼女はあまり懐が温かいわけではなかったし、シルフィードが使い込んでしまった本代を補ってあまりあるであろう臨時収入が入ってくることは正直嬉しいのだった。
なのに瑠螺がいらないというのでは、自分だけ受け取るのも気が引ける。
「むう……」
瑠螺は困ったような顔をして、しばらく考え込んだ。
ややあって、衛視らに提案してみる。
「……ならば、わらわの取り分はおぬしらの方で、あのさらわれた娘たちに分かち与えてやってもらうというわけにはいくまいか。わずかなりと、此度の災難の慰めになろう」
そうすれば自分の方としても、いらないものを受け取らずに済むというものだ。
「なんと! あの子らを助けたばかりか、自分のものになるはずの富までも分け与えると言われるのか?」
瑠螺にとってはほんの思い付きだったのだが、衛視たちはいたく感動した様子だった。
「ただお強いだけではないその心配り。まことにあなたこそが、真の貴族というものでしょうな」
「わしは別に、貴族というようなものではない。ただ単に、いらぬものを受け取っても邪魔になるからというだけのことじゃ」
瑠螺は軽く首を振って、その賞賛の言葉を受け流した。
衛視たちはそれでも、貴族の名を失ってもその精神を失わないとは素晴らしいだのなんだのと、何やら勘違いをした様子でより一層彼女のことを褒め称えてくる。
「あ、いや……」
瑠螺は扇で口元を隠しながら、どうにも居心地が悪そうに軽く目を逸らした。
そもそも、央華ではまだ貨幣経済が浸透していない地域も多く、その貨幣も往々にして貴金属ではなく貝殻とかだったりして、別の土地ではろくに通用しない。
それに、仙人は一仕事終えてその地を離れたら次に訪れるのは数十年後、数百年後ということもざらにあるし、その頃には昔の貨幣などはもう使えなくなっているかもしれないのである。
したがって、さらわれた娘たちに対する気遣いの気持ちもないわけではないが、金銭などは受け取ってもせいぜい記念品くらいにしかならずかさばって邪魔なだけだというのは、彼女にとっては単に事実でしかなかった。
それなのにこう大袈裟に持ち上げられたのでは、かえってきまりが悪いというものである。
結局、その後は話もそこそこに、そそくさとその場を後にした。
役所を離れて少し歩き、人気のない場所に差し掛かったあたりで、タバサが瑠螺の袖をそっと引っ張った。
「半分」
「ん、なんじゃ?」
「わたしの取り分から、半分あなたに回す」
「……気遣いはありがたいがの。そのようなものは、本当に不要なのじゃ」
瑠螺は目を細めてタバサの手を押さえると、そっと自分の袖から離した。
「わしはルイズの元で世話になっておるゆえ、特に金銭は必要ない。タバサは逆に、シルフィードの世話をせねばならぬのじゃからな。先立つものが必要であろう、おぬしがとっておけばよい」
そう言ってみたが、タバサは頑として首を横に振る。
「そのシルフィードが助かったのも、あなたのおかげ。受け取ってくれないと、わたしの気が済まない」
自分の分もさらわれた娘たちに与えてやってくれ、とでも言えば格好いいのだろうが、そこまで余裕のある身分ではない。
かといって、大きな借りがあり、此度のことでも明らかに自分よりも功績のある彼女が何も受け取らないというのに、自分だけが謝礼をもらおうという気にはなれない。
せめて彼女と折半で、というのがタバサの気持ちだった。
「……のう、タバサや」
瑠螺は少し思案した後に、この際正直に事実を説明しておいた方がよかろうと結論した。
彼女は明らかに信頼できる人物であるし、別にどうしても隠し通さねばならないというようなことでもない。
明かしたところで、特に何か問題になるということはあるまい。
「わらわはおぬしのようなメイジではなく、ルイズの魔法と大道の導きによってこことは異なる世界からやって来た『仙人』というものなのじゃ」
「……異なる世界からきた、『センニン』?」
「さよう。同じように超常の術を用いる者であっても、おそらくおぬしらメイジとは、その在り方が大きく違っておるのであろう」
央華では、万物は五行と陰陽の気から成るものとして理解される。
陰の気は冥界に引かれ、陽の気は天界に引かれる。
五行から成る肉体が衰えて『気』を体内に留めておけなくなれば、生き物は死に、その魂は冥界か天界のいずれかに赴く。
しかし、純粋な陰でも陽でもなく双方の気がまじりあっているがゆえに、いつまでもそこに留まっていることはできず、やがてはまた地上に戻って輪廻転生を繰り返すことになるのだ。
「なれば、修練を積んで『気』の流れを整え、肉体の老化を止めた上で。清徳を積んで体内の陰気を排し、陽気を極めるか、もしくは濁業を重ねて陽気を排し、陰気を極めるかすれば。輪廻を脱して不死となり、いつまでも己の好きなところに留まっておれる道理じゃ」
前者の陽気を極めんと志して修行する者、これを仙人という。
彼らにとっては、清徳を積む機会を与えてもらえることそれ自体が、何よりの報酬である。
だから、瑠螺は実際のところ、さらわれた娘たちを助け出したことに対する見返りはもうもらってしまっているのだ。
仙人にとって善行に対する何よりの報酬とは、それによって清徳を積むことができ、その結果として寿命が延びるということに他ならないのだから。
「まあ、ささやかな宴を開いて食事を振る舞ってくれるというくらいなら、相手方の心情もあろうしありがたく受け容れるがの。それ以上の金銭的な見返りだの世俗の身分だのといったものを受け取ることは、清徳を積むという観点からすれば、決して好ましいことではない」
中には修行の厳しさに仙人の道を半ばで諦め、それまでに習い覚えた仙術でもって面白可笑しく快適な生活を送る道を選ぶ者もいる。
仙術を駆使すれば裕福になることなどはたやすいし、飲食も大して必要なくなっているので、一生安楽に生活はできよう。
だが、そのような生活を続けていればたちまち徳を失い、寿命は延びず、百年かそこらの天命をまっとうした後にはまた転生して一からやり直さねばならなくなるのだ。
瑠螺は、そういったことをかいつまんで説明していった。
タバサは瑠螺の顔をじっと見つめたまま、静かにその話を聞いている。
「……気の流れに、不死……」
「おぬしらからすれば、にわかには信じがたい話かもしれんが」
「信じる」
それまでずっと口を開かずにいた彼女だったが、その返事は早くて迷いがなかった。
「あなたは、そんな嘘はつかないと思う」
それに、彼女の使う『センジュツ』は、メイジの系統魔法とはまるで違っていた。
おそらく先住魔法でもないし、これまでにさまざまな本を読んできた自分にとってもまったく未知の術であった。
別の世界の術なのだと言われても、十分納得できる。
「そうか」
瑠螺は、やや嬉しそうに目を細めて頷いた。
「では、信じてくれたついでに、ひとつ頼みたいことがあるのじゃが」
「何?」
「見たところ、おぬしはまだ若いのになかなか戦い慣れしておるようじゃ。それに、『シュヴァリエ』……であったか? 若くしてそのような武功の称号を祖国から受けておるのならば、荒事を任される機会も多いのであろう」
タバサは返事をしなかったが、瑠螺は話を続けた。
「先ほども言ったように、清徳を積む機会こそ仙人の求めるべきものじゃ。戦いの場には、その機会が多い。おぬしが駆り出されたときには、もしも同行して構わぬのであれば、わらわにも声をかけてくれぬか?」
もちろん、決して戦いだけがその機会というわけではないが。
多くの場合、仙人はその力をもって悪を懲らすことで清徳を積むものだ。
「……あなたは、ルイズの使い魔」
「まだ出会うて二日にもならぬが、ルイズがどのような娘かはそれなりにわかったつもりじゃ。道友が命がけで戦わねばならぬことになったからそれを手伝いに行くのだと言われて、あの子が駄目というはずがない」
ルイズの使い魔としての役目はもちろん果たすつもりでいるが、それだけでは清徳は積めない。
瑠螺としては、この世界で自分が何をするべきか、色々と手探りしていきたいのだ。
「むしろ、自分も付いて行くと言い出すかもしれん。もちろん、ルイズに来られては困るのであれば、なにか別の説明を考えるがな」
「ルイズには来てほしくない」
タバサは、きっぱりとそう言った。
別に、ルイズが人格的に信頼できないなどとは、彼女も思ってはいないのだが。
ただ、実力的には足手まといになるだろうと考えているのだ。
それに無用に多くの人間を、己の個人的な問題に巻き込みたくもない。
「では、わらわは行ってもよいということなのじゃな?」
「……場合による」
そう言って、少し顔を伏せる。
確かに、自分はわけあって祖国から頻繁に危険な任務を与えられ、それを拒むこともできない身。
普通なら、それに他人を巻き込むなどとんでもないことだ。
親友のキュルケにもいまだにその話はしていないし、もちろん彼女に同行して手伝ってもらおうなどと考えたこともない。
しかし、目の前にいる女性は、戦いに赴けるのは自分にとってはむしろありがたいことで、ぜひとも連れて行ってもらいたいのだという。
無理をしてそのようなことを言っているのであればきっぱりと断るところだが、おそらく本当のことなのだろう。
正直なところ、確かな腕前を持つ仲間がいてくれるというのはありがたいことだ。
自分には長い間そのような仲間がいなかったけれど、信頼できる人が共に戦ってくれる心強さは知っている。
初めての任務で出会い、自分に戦い方を教え、そして短い間共に戦った後に命を落としてしまったとある狩人の女性から、タバサはそのことを学んでいた。
任務の内容にもよるが、人助けをすることもよくあるし、彼女の求める『清徳』とやらを積むことも確かにできるのかもしれない。
けれど、いくら本人が望んでいるとはいっても。
恩人であり友人でもある相手を、自分の個人的な戦いに巻き込んでよいものか……。
「こちらへ来て早々、おぬしとシルフィードにこうして巡り会うたのも、おそらくは大道の導きというものであろう」
「大道?」
「そうか、こちらではそのような言い方はせぬか。まあ、『世界の意思』のようなものじゃな」
「そう……」
タバサはしばし考えた後、心を決めた。
「わかった。来てもらえそうな用事があったときは、あなたにも声をかける」
「おお、よいのか。かたじけない」
いい、と小さく首を振った後、タバサはそっと一本、指を立てた。
「その代わり、こちらにも条件がある」
「条件、とな?」
そうだと言って、タバサが頷く。
「今回の礼金が入ったら、あなたに何か贈り物をする。この街で買い物」
それを聞いて、瑠螺は苦笑した。
分け前を受け取らせることは、もう諦めたのかとばかり思っていたが。
「義理堅いのじゃなあ、おぬしは……」
「駄目?」
「いいや。わしも、このような賑やかなところで市場巡りをするのは嫌いではない。楽しみにしておくぞえ?」
実のところ、きれいな染め付けの服を試してみたり、うまい食事や酒をいただいたりするのは、瑠螺も大いに好きであった。
特別な祭事以外では酒も生臭も一切絶って、厳格に質素な生活を守るという仙人もいるが、五遁の洞統はあまり戒律が堅苦しい部類ではない。
己の感情に素直に生きて、たまに美酒美食を楽しむくらいであれば、修行の妨げにはならないとされている。
とはいえ普通は金で買うわけではなく、災いを解決した後に感謝した人々が催してくれた宴などで振る舞われるものを受け容れるだけだが。
今回の件の礼として奢ってくれるというのであれば、それもまた『感謝した人』からの差し入れには違いあるまい。
「期待していい」
タバサが、心なしか満足そうな顔をしてそう言った。
「うむ。……じゃが、今日のところはそろそろ戻らねばのう。シルフィードももう、待ちくたびれておることじゃろうし」
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魔法学園へと戻る空の上で、シルフィードは自分の背に乗せたタバサと瑠螺に、おずおずと話しかけた。
「お……、お二人とも、どうもありがとう。助かったのね。今日はご迷惑をかけて、申し訳なかったのね」
「いい」
「気にするでない、無事で何よりじゃ。おぬしこそ、災難であったのう」
タバサは本を開いたまま短く答え、瑠螺はその背中を労わるようにそっと撫でてやった。
シルフィードの態度は、いつになくしおらしい。
「災難は、自分のミスのせいなのね。あんな連中に付いて行くだなんて、わたしも見る目がなかったのね……」
その上、本を買うことにも失敗してもらったお金を無くしてしまったのだと、シルフィードはおそるおそる白状した。
もちろん、タバサはとうの昔に知っていることだったが。
「いい。買い物の仕方を知らないあなたに頼んだ、わたしにもミスがあった」
「落ち度があったのは、わしもじゃな。その場の思い付きで下手な三文芝居などをやらかして、それがためにおぬしが傷つくようなことになってしもうて」
申し訳なさそうにそう言う瑠螺を、シルフィードは不思議そうな目で見つめた。
「きゅい? そんな。あれは、外にいるのがリュウラさんだって気付かないで声を上げた、わたしのせいなのね。せっかくリュウラさんがあいつらをだましてやろうとしてたのに、台無しにして……」
「わしは、おぬしのことを見損なっておった。あの状況で自分の身の危険を顧みずに警告の声を上げるなど、並みの勇気と優しさでできることではない」
「そ、そんなことないのね。ただ、どうなるかなんて考えもしなかっただけで……」
「それこそが、非凡の証なのじゃ」
瑠螺はそう言って目を細めると、シルフィードの首筋のあたりに軽く唇を落とす。
考えなしだが勇敢で優しいところは、自分の一番弟子である悠季にも似ているな、と瑠螺は思った。
まあ、彼は人間の男で、シルフィードは竜族の雌であるが。
「きゅ、きゅいぃ。……そう、なのね?」
単純なもので、シルフィードは褒められてでれでれと舞い上がっている。
人間なら、頬がほんのりと染まっているところだろう。
タバサはそんな使い魔の様子を、本から目を離してほんの少し優しげな目で見守りながら、ややあってぽつりと呟いた。
「……シルフィード」
「え? タバサさま。それ、なんなのね?」
きょとんとしているシルフィードの姿を見て、瑠螺は、そういえばまだ伝えておらんかったな、とひとりごちた。
「あなたの名前。『風の妖精』という意味」
シルフィードはそれを聞いて、電流にでも打たれたかのように、なお一層の感激に打ち震えた。
このご主人様は、出会ってすぐにあれだけ失礼な態度をとり、今また言いつけられた用事をしくじった自分のことを助けに来てくれたばかりか、そんな素敵な名前まで考えておいてくれたというのか。
そしてもう一人、背に乗せているリュウラも、出会ったばかりの自分に親身にして主人との仲直りの機会を作ってくれたばかりか、こうして一緒に助けに来てくれて、昨夜から迷惑をかけどおしの自分のことを勇敢で優しいとまで言ってくれた。
「……嬉しいのね! なんだかとっても嬉しいのね!」
韻竜の娘はそう言って、陽気にはしゃぎ始めた。
「なまえ! 新しいなーまーえー、きゅいきゅいー♪」
「おほほ。本当に、楽しそうじゃな?」
そういう、自分の心に素直な態度も、瑠螺の目は好ましく映った。
彼女ら五遁の術者は、己のうちから湧き出た情を無暗に押し殺してはならぬと教える。
怒りも哀しみも、楽しみも、すべての感情は素直に活かしてやることで、己を弾ませるばねとなるからだ。
「もちろん楽しいのね!」
浮かれ騒ぐシルフィードは、ふと思いついたように言った。
「ねえねえ! タバサさま、リュウラさん! わたし、お二人のことをお姉さまって呼んでいいかしら? わたしのほうが大きいけど、なんだかそう呼ぶのが相応しいような気がするのね。ね?」
「それはまた、ずいぶんと唐突じゃのう……」
瑠螺は苦笑したが、好きにせい、と言ってやった。
彼女には既に妹弟子や妹分がいるので、姉と呼ばれることには慣れているし、家族が増えることは嬉しい。
タバサもまた、本を開いたままでこくりと頷いた。
が、ややあって、視線を上げると。
「1」
そう言って、瑠螺を指さし。
「2」
次に、自分を指さし。
「3」
最後に、シルフィードを指さした。
「あー……。それはつまり、姉妹の順か? おぬしが次女で、シルフィードが三女で……、と、いうことかや?」
瑠螺が少し考えてそう尋ねると、再び本に視線を戻していたタバサは、こくりと頷いた。
ただ、ほんの少し、頬に赤みが差している。
照れているのだろうか。
「わかった。これから、よろしく頼むぞよ」
そう言ってやると、赤みがさらに、もう少しだけ濃くなった……。