央華封神・異界伝~はるけぎにあ~   作:ローレンシウ

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第十七話 公主封妖 去穏村

 

 瑠螺らが立ち去った後、アレキサンドルの姿をしたグールは、あばら屋の中で日々の雑事を淡々とこなしていた。

 

 もちろん、いかに自然に見えようとも、その姿は主の吸血鬼が偽装を止めさせればたちまちのうちに消えてなくなる、薄っぺらい絵のようなものである。

 その証拠に、本来なら最も気遣われるべき病身の母の方は、眠っているから気にかけるまでもないとろくに見ようともしなかった。

 そこから外れた動きをとらせるような感情の揺れがないゆえに、他人が見ていないときの彼の行動は判で押したような型どおりのものでしかない。

 

 もっとも、感情は動かずとも何も考えていないというわけではない。

 今の彼は、先ほど村人たちとメイジが押しかけてきたときのこと、特にその最後に起こった出来事について思案していた。

 

「…………」

 

 何かは知らないが、森にあんな化け物が棲み着いていたとは幸運だった。

 これで連中の注意は自分と主から逸れることだろう。

 

 とはいえ、さすがにタイミングがよすぎるのではないかと、少し疑念も持ってはいる。

 できることなら主に報告して指示を仰ぎたいところだったが、そうするわけにもいかなかった。

 最初の少女を襲うときに手を貸して以来、主であるエルザという少女、いや少女の姿をした吸血鬼からは、以降は疑いを招かぬよう普段の生活を続け、こちらからは接触を取らないようにしろと命じられているのだ。

 

 スケープゴートとするために同居している老婆に弱い毒を盛り、家から出さぬようにしろという命令も、その時に受けた。

 素体となったアレキサンドルという男の記憶は残っているものの、それによって何ら感情を動かされることのないグールは、ためらうことなくその命令に従った。

 その後の主は一人で獲物を狩っているらしいが、詳しいことは何も知らない……。

 

「……?」

 

 そこでグールは、ふと背後に何かの気配を感じた気がして振り返った。

 その、次の瞬間。

 

 

 

 ぐしゃり。

 

 

 

 体の中に嫌な音が響いて、グールの意識は途切れた。

 

 最後に彼が見たのは、今まさに自分の顔面を叩き潰さんとする無慈悲な氷の杭だった。

 もっとも、それがなんであるかを正確に理解する暇はなかったのだが。

 

 

 

 音もなく侵入してグールを始末したタバサは、眠っているマゼンダを起こさなかったのを確認すると、念のため彼女に『眠りの雲』の魔法をかけてさらに眠りを深くしておいた。

 事前に瑠螺からもらった『祈願 見鬼』の符を使っていた彼女には自身の体に引きずられているアレキサンドルの魂がはっきりと見えていたので、万が一相手がグールでなかったらなどという心配をすることもなく、音もなく忍び入っての奇襲攻撃であっさりと片を付けたのだった。

 

「こっち」

 

 それから、外に待たせておいた『新しい体』を招き入れる。

 

 瑠螺が作ったその体はアレキサンドルにそっくりだったが、意思の感じられない茫洋とした目でのろのろと手を引かれるままに歩いて、あばら屋の中に入ってきた。

 確かに生きてはいるが、今はまだ魂も知恵もない、空っぽの器だ。

 言い換えれば、行き場のないさまよえる魂が入り込むのには最適な肉体である。

 タバサは同じく瑠螺からもらった『祈願 話鬼』の符を使い、ようやく以前の肉体の束縛から解き放たれることができたアレキサンドルの魂に、直ちにその新たな肉体に入るようにと指示した。

 

 魂はしばし気味悪そうに躊躇していたが、そのままではじきにあの世に行くことになると言ってタバサが再度促すと、思い切った様子で体の中に飛び込んだ。

 

「――ぅ、う……?」

 

 途端に体がびくんと震えたかと思うと、虚ろだった目にみるみる意思の光が宿り、戸惑った様子で周囲を見回したり、手を握ったり開いたりする。

 やがて、本当に生き返ったのだという実感がわいてきたらしく、その顔がぱあっと喜びに輝いた。

 

「ぁ、あんた、神さまだ。そうだろ? ありがとうごぜぇやす!」

 

 感激のあまり這いつくばるようにして頭を下げるアレキサンドルに対して、タバサは静かに首を横に振った。

 

「ただの人間」

 

 そう言ってから少し首をかしげて、わたしは、と付け足した。

 瑠螺はもちろん、そうではないだろうから。

 

 まあ、今はそんなことよりも。

 

「あまり騒ぐと、あなたの母親が起きる」

 

 タバサはひとまずグールの屍に布切れをかぶせて隠し、この後どうするべきかといったことについて、アレキサンドルに指示を与えていった。

 早くこの場の処理を済ませて外の見張りをしてくれているシルフィードと合流し、瑠螺の元に行きたかった。

 

 その作業の途中で、タバサは見た。

 

 あばら屋の天井を突き抜けて、半ば透き通った姿の凜々しく美しい女性が、音もなくグールの屍、いやアレキサンドルの元の体の傍らに降り立ったのを。

 

「あ……」

 

 普段は無表情な彼女もわずかに目を見開いて、思わず小さな声を漏らす。

 それはまさに、本の挿絵や宗教画などで描かれる死者を運ぶ戦乙女、ワルキューレそのものだったからだ。

 

『なにやら、奇妙なことが起こったようだな……』

 

 ワルキューレは足下の屍と、それとよく似た姿で嬉々として眠っている母親の世話をするアレキサンドルの姿を、怪訝そうに見比べてそう呟いた。

 

 なお、実体のない彼女の姿は、既に霊体から生身の人間に戻ったアレキサンドルには見えていない。

 まだ『祈願 見鬼』の効果が残っているタバサには見えているのだが、生きた人間に自分の姿が見えるなどとは思ってもいないワルキューレは彼女の方には見向きもせず、そのことに気付いていないようだった。

 

『……まあよい。魂の束縛は既に消えているが、連れて行くのはまだ先だったようだ。この場に留まる理は、もうない』

 

 ワルキューレはさほどこだわった様子もなくそう結論すると、来たときとは逆の方向に天井を突き抜けて姿を消した。

 

 タバサは急いで家の外に駆けだして空を見上げてみたが、彼女の姿はもうどこにも見えなかった。

 おそらくは、聖なる山の高みにあるという天界、ヴァルハラに戻っていったのだろう。

 

「きゅう?」

「騎士さま、どうされたんで?」

 

「……。なんでもない」

 

 不覚にもぼうっとしてしまって、怪訝そうに自分を見つめる二人への返事もやや遅れる。

 いつも無感動そうに見えるタバサとて、感慨というものはあった。

 

 あばら屋の中へ戻って作業の続きをする間にも、彼女の脳裏をさまざまなとりとめのない思いがよぎっていた……。

 

 

 

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(うーん……)

 

 吸血鬼のエルザは、村長の家にある自室で昼間瑠螺に与えられた紙細工を弄びながら、物思いに耽っていた。

 

 先ほどからなにやら、村の様子がいつもと違う。

 小さな騒ぎもあったようだ。

 それで村長から事情を聞き出してみると、森の中にグールの姿が目撃されたので、みな騒然となって野外での作業を切り上げ、家に籠っているとのことだったのである。

 

 もちろん、彼女はグールが森になどいないことを知っている。

 

(……どういうことなんだろう)

 

 大勢が見たというのだからデマではあるまいが、何か別の妖魔とかが森にいて、それを見間違えたのだろうか。

 だとすれば疑惑の目が他所に向けられて好都合ではあるのだが、ちょっと偶然が過ぎるような気もする。

 

 もしかすると、吸血鬼を誘いだすつもりであのメイジが仕掛けた、何かの罠とかだろうか。

 

 いずれにせよ、確かアレキサンドルとかいう名前だったあのグールと、その母親をスケープゴートに使う計画は見直しが必要なようだ。

 注意が他所に向いているというのなら、わざわざ事態をややこしくする必要はないだろうし。

 

(もしも罠じゃなかったら、森の妖魔を退治しただけで勘違いして帰っちゃったりするかな?)

 

 その場合、あくまでも始末しようとするべきか、それともそのまま帰らせるべきか。

 

 彼女の両親が、目の前でメイジによって殺されたというのは本当だった。

 そうした恨みのある嫌いな存在であるがゆえに、メイジを見かけたら真っ先に始末して美味しくいただくと決めている。

 とはいえ、それはもう三十年ほども昔のことで、決めているとはいっても実際のところは今さら大してこだわっているわけでもなかった。

 

 放っておいてこれで問題が解決したと思わせる方が、明らかに無難な選択だろう。

 

 メイジが得意満面で引き上げていくというなら、それを見送ってほとぼりが冷めてから、改めて獲物をとればよいのだ。

 どのみちこの村は獲物も減ってきてそろそろ去り時だと思っていたところだから、残っているめぼしい娘を一晩でまとめていただいてから姿を消してしまえば、自分も犠牲者の一人だとでも思われることだろう。

 その後は、間抜けな村人たちが恐怖のどん底に突き落とされて不毛な争いを始めようが、面目が丸潰れになった王宮が再三メイジを派遣してこようが、もう自分の知ったことではない。

 どこか別の村へ行き、またお人好しに拾ってもらって、頃合いを見て狩りを再開すればいいだけだ。

 

 けれど、それが賢明な選択であっても、エルザ自身はそうしたいとは思っていなかった。

 

(あの二人のほうが、この村の子なんかよりずっと美味しそうなんだもの)

 

 あのメイジと、その従者だという少女は、あきらめるにはあまりにも魅力的すぎる。

 野暮ったい田舎の村娘たちとは比べ物にならない整った容姿に、凛々しく涼しげな雰囲気。

 その血はきっと、何十年に一度味わえるかどうかの美酒であるに違いない。

 

 なんとしても、賞味してみたかった。

 

 彼女らのすました表情を恐怖に歪ませてやる瞬間を想像しただけで、ぞくぞくする。

 その恐怖をスパイスにして、極上の血を喉に通らせるときのことを思い浮かべたりした日には、陶然としてしまう。

 

(幸い、そんなに危険じゃなさそうだし)

 

 手の中で、戯れに紙細工の鳥の嘴を同じ紙細工の花に突っ込ませながら、エルザはくすりとほくそ笑んだ。

 

 向こうは、こちらのことをただの子供としか思っていない。

 この間始末してやった、威張りくさった男よりはましなようだが、所詮は大同小異であろう。

 

 二人きりで遊びたいとでも言って、隙をついて眠らせてから血を吸ってやろうか。

 それともあの小柄な従者の少女をグールに変えて、杖を隠させるなり、不意討ちをさせるなりしようか。

 いやグールを使うなら、毎晩一人ずつ、村人を牙にかけて……。

 

 まるで遊びの計画でも立てるかのように気安く、わくわくしながら、さまざまな思案を巡らせる。

 たとえ人目がなくとも外見相応の幼女らしい様子を保っていたエルザは、いつの間にやら、その見た目にはおよそ似つかわしくない表情を浮かべていた。

 

(うふふ、楽しみだなあ……)

 

 無邪気そうな笑みが、頬が上気してとろんと蕩けたような目をした、爛れた笑みに変わっていく。

 吸血鬼にとって上等な人の血を吸うことは、人間の感覚で例えるならば最高の美酒美食を嗜みながらこの上もなくみだらに愛を交わし合うかのごとき、至福の快楽なのだ。

 そこに狩りの愉しみ、獲物の恐怖を味わう悦びが加われば、その愉悦はもはや極上の麻薬にも等しいものとなる。

 

 エルザは他の数多の仲間たちと同じく、完全にその快感の中毒になっていた。

 

 

 

 こんこん。

 

 

 

 そこへノックの音が響いてきて、エルザの思考を中断させた。

 

「なに、おじいちゃん?」

 

 そう言ったエルザの顔も、声音も、既に元の稚い少女のそれに戻っている。

 しかし、扉の向こうから返ってきた返事は、村長の声ではなかった。

 

「おじいちゃんではないが……。入ってもよいかのう」

「……どうぞ」

 

 怯えたような表情と強ばった声を繕って、エルザはそう返事をした。

 扉から瑠螺が姿を現したときに、びくりと身をすくませて縮こまる演技も忘れない。

 

 瑠螺はそんなエルザの姿を見て、なにか憐れむような表情を浮かべながら首を横に振ると、手を大きく広げて見せた。

 

「メイジが怖いのであれば、心配はいらぬ。このとおり、わらわの手元には杖はない。タバサに預けてきたのでな」

 

 エルザはそれを聞いて、いくらか警戒を緩めた……ような、ふりをして見せた。

 実際には、心の中でほくそ笑んでいた。

 

(優しいねえ。わたしが恐がるからって、杖を置いてきてくれたんだねえ)

 

 おかげで、今ここで何かあっても、魔法は使えないというわけだ。

 

 しかし、喜び勇んで即座に襲い掛かるほど、エルザは短慮ではなかった。

 同居人の村長や、杖を持っている従者が近くにいるのならば、この場で事を起こすのは危険であろう。

 

「何をしにきたの? おじいちゃんや、青い髪のおねえちゃんは、いっしょじゃないの?」

 

 怖がっているふりを続けながら、そう探りを入れる。

 

「この家は邑で一番大きいようじゃが、だからこそ目立つからというて、今宵の避難場所はよそに指定した。村長どのは既に、村を回ってみなをそこに集めておる。タバサにも、別の仕事を頼んである。わらわは最後におぬしを連れてゆかねばならぬが、その前に少し話を、と思うてな」

 

 それを聞いてエルザは、ますます心中の笑みを深めた。

 

 しかし、もう少しその話とやらを楽しんでからにしよう。

 今すぐに襲ったのではつまらない。

 

「話って……何?」

「いろいろとあるがな。まずは、これじゃ」

 

 瑠螺はそう言って、懐から帳面と小さな鋏とを取り出すと、帳面から紙を何枚か、丁寧に折って破り取った。

 

「紙細工をまた、折って進ぜる約束じゃ。この邑での仕事が済んだ後では、時間もとれまいからな」

 

 エルザは黙ってしげしげとその紙を眺めた後、小さくこくりと頷いた。

 けれども心の中では、くすくすと面白そうに笑っていた。

 

(お仕事も終わらないうちから紙遊びだなんて、のんきなおねえさんだねえ)

 

 でも、そんな約束を守ってくれるだなんて、本当に優しいんだね。

 それなら、付き合って少し遊んであげよう。

 

 それから甘えるふりでもして抱き着いて、叫び声を上げられないように喉を抑えつけながら、少しずつ首筋から血を吸ってあげよう。

 微笑ましげに自分を見下ろすその顔が、苦痛と恐怖と後悔とに引きつっていくさまを、じっくりと愉しみながら。

 

 

 瑠螺はいくつかの紙細工を折ったり切ったりして作ってやった後、エルザにも手ほどきをしてやった。

 彼女はなかなかの習得の早さで、不慣れゆえに少しばかり不格好ではあるものの、何種類かの紙細工を見事に作り上げてみせた。

 

「うむ、上達が早いのう。いい出来じゃ」

 

 そう言って褒めながらも、瑠螺の表情には最初に出会ったときのような柔らかい微笑みがない。

 

 しかし、もうすぐ獲物を手にかけられるという喜びと興奮に夢中になっているエルザは、それにほとんど不信感をもたなかった。

 吸血鬼やグールとの戦いを控えているせいだろうというくらいに思っていた。

 

「ありがとう、おねえさん」

 

 エルザはすっかり打ち解けて懐いたという様子で、にっこりと微笑みながらそう言った。

 

 実際、ただの食事前の戯れのつもりだったが、やってみるとなかなか楽しかった。

 だからといって、一瞬たりとも瑠螺を手にかけようという予定を変更したりはしなかったが。

 

「……では、おぬしの作ったものはわらわが預かろう。代わりに、わらわの作ったものは、おぬしがもっていくがよい」

 

 ひととおりの紙細工を作り終わると、瑠螺は小さく溜息を吐きながらそう言って、帳面や鋏と一緒にそれらの細工物も自分の懐にしまい込んだ。

 

「うん、うれしいなあ。それ、おみやげにするの?」

 

 そう言いながら、エルザはそろそろ作業も終わりのようだし、いよいよ首筋に牙を立ててご馳走を味わう頃合いだと考えていた。

 自分の作った紙細工は、あの世への土産物にでもしてもらおう。

 

 瑠螺は、静かに首を横に振った。

 

「いいや。これはおぬしの形見として、村長どのにお渡しするつもりじゃ」

 

「え?」

 

 エルザは一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 

(……!)

 

 しかし、次の瞬間には事態を理解した。

 

 奇しくも、丁度その時にタバサの手によってグールと化したアレキサンドルの体も活動を止めたのである。

 主である吸血鬼には、そのことがはっきりと伝わっていた。

 

「……おねえさん、何のこと? かたみ、って?」

 

 それでもエルザは、言っている意味がわからないというような、無邪気そうに笑った顔をすぐさま装った。

 ほんの一瞬はっとしたような表情になった以外には、内心の動揺がまったく表にあらわれなかったのはさすがというべきであろう。

 残念ながら、既にほぼ完全な事情を把握している瑠螺には通じなかったが。

 

「もう、そのような芝居はよすことじゃ」

 

 首を横に振りながらそう言う瑠螺の声には、哀れむような響きがあった。

 

 それから瑠螺は、順々に語っていった。

 エルザが犠牲者の家に侵入した方法に、グールとなっていたのがアレキサンドルであること。

 さらには、エルザが彼を騙して誘い出してからグールに変えたときの手口までも、瑠螺は本人の霊から聞き出していた。

 

「おぬしの所業はすべてわかっておる。観念いたせ、さすれば、苦しまぬように終わらせて進ぜる」

「……おねえさん、すごいねえ。あなたが村に来る前にグールにされた人のことまで、どうしてわかったの?」

 

 本心からそう言いながらも、エルザは依然として、無邪気そうな笑みを浮かべ続けていた。

 

「うん。でもね、ひとつだけ、大切なことを見落としてない?」

「なんじゃ」

 

 その疑問に答えずに、エルザはいきなりくわっと口を開いて白く光る二本の牙を剥くと、野獣のごとき速さで瑠螺に飛び掛かった。

 

 エルザはつい今しがた、離れた場所にあるあばら家でグールが倒されたのを感じ取った。

 おそらくはこの場にいないタバサとかいう名の従者が、一人でか、村人たちの協力を得てかは知らないが、彼を始末したのであろう。

 言い換えると、彼女はいまこの付近にはいないということになる。

 そして、目の前の女は杖を持っていない。

 

 ならば、今すぐにこいつを始末して、この村から逃げ出してやるまでだ。

 この女がメイジなのか、それともタバサという少女の方が実はそうだったのかは知らないが、いずれにせよ杖がない以上は平民と変わらないのだから。

 真相を暴けば観念して大人しくするとでも思っていたのか、それともこちらが幼児に見えるから吸血鬼といってもとるに足らないとでも考えたのか、いずれにせよ根本的な部分で愚かだというしかない。

 

「たわけが!」

 

 瑠螺はしかし、不意を打たれてうろたえるでもなく、そんなエルザの動きよりもなお素早い雷光のような速さで、袖口から宝剣を引き抜いた。

 躍り掛かってくる小さな体をかわしながら、すれ違いざまにその腹に刃を突き立てる。

 

「が!? がふっ……!」

 

 エルザは苦痛と驚愕とに目を見開きながら、仰向けに床に転がった。

 

「……め、メイジが魔法を使わなくてもこんなに強いなんて……。聞いてない……」

 

 それに、袖口からまるで手品のように、そこに収まるはずのない長い剣が出てくるなんていうことも。

 もしかすると、杖も実はちゃんと持っていて同じように袖の中に隠していたりするのだろうかと、エルザは思った。

 

「おぬしは人間だメイジだと、ひとくくりにしておるようじゃがな。人それぞれというものであろう」

 

 もっとも、自分は人間でもメイジでもないわけだが。

 

 瑠螺は心の中でそう続けてから、怪訝そうに自分の左手の甲を見つめた。

 そこでは、ルイズとの契約で刻まれたルーンが、ほのかな白い光を放っている。

 剣を抜いた瞬間に体内を巡る『気』の流れが強まり、いつもよりも一層体が速く、力強く動いた感じがしたのである。

 

 まあ、今回の戦いに関していえば、別にそれがなくとも結果は何も変わらなかったであろうが……。

 

(使い魔とやらになった恩恵、かのう?)

 

 それはさておき、吸血鬼とやらは並みの人間よりもかなり強い生命力を持っているようだ。

 剣が完全に腹を貫いたほどの深手を負っても、まだ生きている。

 

「これ以上、無益なことをするでない。わらわは、早く終わらせてやりたい」

「っ……」

 

 瑠螺が自分の方に目を向けて剣を握り直すのを見ると、エルザは甘えたような声を出して、哀願を始めた。

 

「おねえさんお願い、殺さないで。わたしは悪くないよ、人間の血を吸わなきゃ生きていけないだけなんだ」

 

 目の前の女が容赦なく自分の腹に刃を突き立てたのは事実だが、その前に既に吸血鬼とわかっている自分とわざわざ時間を取って話をしていたのも事実。

 間違いなく、甘いところはあるはずだ。

 

「ね? 人間だって、獣や家畜を殺して、肉を食べるでしょう?」

「わらわは、生きるのに必要な最低限の狩りを否定するものではない。それは、何ら恥じるところのない行為であろう」

 

 頷いてそう言ったものの、瑠螺は冷たい目でエルザを見下ろしながら言葉を続けた。

 

「じゃがのう。おぬしの狩りは、まことに必要な行為であろうか?」

「必要だよ。だって……」

「村長どのによれば、おぬしがこの村に来てから既に一年は過ぎておると聞く。しかるに犠牲者が出始めたのは、二月ほど前からだという」

 

 瑠螺の声は、あくまでも厳しかった。

 

 エルザの幼げな容姿も、甘えたような声も、彼女の心を動かすようなものではなかった。

 仙人にとっては、外見の老若などには何の意味もない。

 それでも人間出身の仙人であれば、多少は幼子めいた外見に心を動かされたかもしれないが、瑠螺は狐の生まれなのだ。

 

 目の前の妖魔が嘘と共に吐き出す息からは、腐った花のような、胸がむかつく匂いがする。

 それと比べれば、あの年老いたマゼンダという老婆の方が、ずっと愛らしく憐れに思えた。

 

「十月もの間、血を摂らずに過ごせたというのに。なぜ今になって、たびたび人を襲わねばならぬ?」

「……それは……」

「そんなに長い間なにも物を食わずにおれば、いくらなんでも周囲の者が怪しまぬはずはない。おぬしは、人間と同じ物を食しても生きていけるのであろう。仮にたまには血も必要としても、それは時折吸えばよいだけで、十日と開けずに吸ったのはあくまでも愉悦のため。そうではないのか?」

 

 彼女の静かな詰問に対して、エルザはしばし黙り込んだ。

 ややあって、覚悟を決めたようにぽつりと呟く。

 

「……そうだよ。血がなくても生きていけるよ、かなり長く」

 

 下手に言い訳をするよりも、ここは素直に認めてしまった方がよさそうだと考えたのであろう。

 

「でもね、ずっと飲まないでいると辛いんだよ。それに、狩りを愉しむなんて、人間もやってることじゃない」

 

 彼女も、生き延びるために必死だった。

 何とかして目の前の女の同情を引き出す以外に、自分が生き延びる道はないとわかっていた。

 

「貴族だって、狐狩りとかをするって聞いたよ。お金持ちがそんなことをするのは、生きるためじゃなくて、逃げる獲物を追い回すのが愉快だからでしょ。狩りを愉しんで何が悪いの、どこも違わないよ? そうでしょう?」

 

 だが、そのたとえは明らかに失敗だったようだ。

 瑠螺の表情が、みるみる不機嫌そうなものに変わっていく。

 

「そうであろうな。……で、わらわは、そういうことをする人間が昔から嫌いでのう」

「ぅ……」

 

 苦痛と恐怖とから、エルザはたらたらと脂汗をにじませた。

 しかし瑠螺は、その不機嫌そうな表情に反して心変わりしたのか、刀身についた血を払うと剣を袖に収める。

 

「あくまでも、自分は悪くないと主張するのじゃな?」

「そ、そうだよ……」

 

 瑠螺はかつて、不必要に獣を乱獲した人間のために、家族をすべて失った。

 知恵をつけて人間に変化するすべを覚えた瑠螺は復讐を企て、祖先の妖狐が遺した仙宝を使うことで近隣の邑を指導する宰相を病にして祟り殺してやろうとした。

 

 しかし、病になった宰相があまり哀れな様子でまだ死にたくないと泣いているのを見るといたたまれなくなって、結局は『むやみに野の獣を狩らない』という約束をさせただけで治してやってしまったのである。

 そもそもの性根が、大きな悪事を働くのには向いていなかったのだろう。

 もっとも、その宰相が『天人さまが自分の命を助けてくれた』などと心酔してやたらちやほやしてくれたのに味を占めて、例の『太上準天美麗貴公主』などという戯けた名を名乗って貢物を騙し取ったりもし始めたのだから、別に聖人君子だったわけでもない。

 まあ、良くも悪くも当時はまだ、純朴な子狐だったのだ。

 

 まだ未熟だったころのことにもせよ、そのときに人間を見逃してやっておきながら、その人間と同じようなことをしているだけだと主張する吸血鬼には機会を与えないというのもどうか、とは思わないでもない。

 あの宰相とこの娘とでは性質の悪さがまるで違うとは思うが、あるいはそれも、自分の偏見によるものかもしれない。

 

「意志の弱さゆえに欲望に抗い切れず、むやみに他の生き物を傷つけてしまう以上に大きな罪は犯していないと言い張るのであれば……。あるいは、おぬしには殺してやるほどの価値もないのかもしれぬ」

 

 エルザの顔が、戻ってきた希望で少し輝いた。

 

「じゃあ、このまま放っておいて。わたし、別の村へ行くよ。ね? おねえさんに迷惑はかけないから」

「たわけ。そんな虫のいい話があるかやっ」

 

 瑠螺に睨み下ろされて、エルザはたちまちまたすくみ上がる。

 そんな哀れっぽい姿を尻目に、瑠螺は袖の奥の方から、小さな壺を取り出した。

 

「じゃが。それほどいうのならば、助かる機会をやろう。おぬしの裁きは、わしよりももっと相応しいものに任せることにする。……今からおぬしの名を呼ぶゆえ、返事をするように」

 

 エルザはわけのわからないながらも、必死に頷いた。

 

 言われた通りにすると、彼女の小さな体はたちまち、もっと小さなその壺の中に吸い込まれた。

 封印によって半ば分解された意識が、ぼんやりと闇の中を揺蕩い始める……。

 

 

「――……ぅ?」

 

 どのくらいの時間が経ったものか。

 気が付くとエルザは、『封妖壺』の中から出されて、どこか小さな暗い部屋の中に横たわっていた。

 

 周囲には、冷たい目で自分を見下ろす瑠螺とタバサ。

 それに……。

 

「……ひっ!?」

 

 最後の一人の姿を認めた途端、エルザは幽霊でも見たように真っ青になった。

 

 それは、確かに先ほど破壊されたはずの自分のグール、アレキサンドルだったのである。

 どうして生き返ったのかはわからないが、彼がもはや自分の支配下にないことは一目でわかった。

 憎々しげな目で自分を睨み、手には先ほど瑠螺が自分の腹を突き刺した剣を握っている。

 

「アレキサンドルどのは、おぬしにされたことをすべて覚えておる。おぬしへの裁きを決めるのには、わらわよりも相応しかろう」

 

 瑠螺はそう言うと、アレキサンドルに手を振って、好きなようにと指示を出した。

 

「いっ、嫌っ……!」

 

 エルザはがたがたと怯え、いまだ深手を負ったままの体で虫のように床を這って、必死に部屋の隅に逃げた。

 

 騙されて命を奪われ、傀儡として他の娘の命を奪う手伝いをさせられ、その上母親に毒を盛るよう指示された男が、自分をどのように扱うかなど考えたくもない。

 惨殺される。

 

「お願い、助けて! 悪かった、もう血は吸わない、人間も殺さないから。なんでもするから、殺さないで!」

 

 もはや駆け引きも何もなく、恥も外聞も理屈も考えてはいない。

 ただ助かりたい一心で、部屋の片隅に立って事の成り行きを見守っている瑠螺に対して命乞いをした。

 

 遠い昔に目の前で殺された、父や母の無残な姿が頭をよぎった。

 自分は、あんな姿になりたくない。

 死ぬのは怖い。

 

「わびる相手と頼む相手が、違うのではないかえ?」

 

 瑠螺は哀れむような目でエルザを見ながら、静かに首を振る。

 

「人間が草花を摘むのが罪でなく、おぬしが人間を食らうのが罪でないというのならば。そのように心得ておるおぬしとしては、此度は自分が討ち取られる番であっても文句を言うものではなかろう」

 

 そう言う彼女の姿が、何かによって遮られた。

 はっとして顔を上げると、目の前には血走った目でこちらを見下ろしながら剣を振り上げる大柄な男が……。

 

 エルザは、絶望の悲鳴を上げた。

 

 

 

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「どうするの?」

「む、何のことじゃ?」

「吸血鬼」

 

 帰り道で、タバサは瑠螺にそう尋ねた。

 

 あの後、アレキサンドルは一旦は振り上げた剣を、幼女めいた外見と憐れを誘うような姿に誑かされたのか、元々人が好いためか、結局は下ろしてしまった。

 度重なる恨みつらみがあってなお、自分には殺せない、どうか代わりにやってほしいと、彼は肩を落として二人に頼んだ。

 タバサはそうするつもりだったのだが、瑠螺はより恨みの深い彼が殺さないという以上は自分たちが殺すべきではないと言い、もう一度壺の中に封じ直して袖にしまい込んだのである。

 

「いずれわらわが央華に帰った折に、師となる者を探してやろう。仙人としての修行を積めば、どのような種族であれ飲食は不要となり、血を好む性も抑え込むことができるようになる。五遁の木行か巫蠱あたりが向いておると思うのじゃが……。まあ、見つからねば、わしが引き取ってもよい」

 

 とりあえずエルザに仙骨があることは確かめたので、仙道の修行を積むことはできるはずだ。

 その後のことは、本人の更生次第である。

 

 所詮は命惜しさに降伏しただけであり、身体的には血を求めなくなっても、獲物の恐怖を味わう残忍な性情を抑えきれぬ可能性は高い。

 そのときは、今度こそ討ち取られ、異界の大道に従って裁きを受けることとなろう。

 だが、最後の最後にアレキサンドルが自分を殺さなかったとき、呆然として少し不思議そうな顔をしていたから、学べば情けや善行を成す喜びについて知ることもあるかもしれない。

 もしもそうなってくれたならば、大変結構なことである。

 

「なんにしても、みんな丸く収まってよかったのね!」

 

 ようやく竜の姿に戻れたシルフィードが、上機嫌でそう言った。

 

 

 

 エルザの件が片付いた後、タバサが仕留めた顔の潰れたグールの体と、それに瑠螺が新しいアレキサンドルの体を作るのと同じ要領で作り出した偽の屍を、それぞれ吸血鬼とグールのものだということにして、二人は村に討伐完了の報告を出した。

 その際、ついでに『吸血鬼らの潜んでいる場所を突き止めるにあたって、連中でのせいで疑われたことに憤慨して世話になっている村のためにと自主的に協力を申し出てくれたアレキサンドルの助力が大いに役立った』と言い添えておいたので、彼は村長と村人たちから感謝されていた。

 これで、よそ者扱いされていた彼とその母親への扱いも、いくらかはよくなることだろう。

 もちろんアレキサンドルには、決して真相は他言しないようにと口止めしておいた。

 

 村長には、一時的に壺から出したエルザに口裏を合わせさせて、彼女を引き取る旨の報告をした。

 引き取らねばならない理由としては、『紙細工の手ほどきをした際に打ち解けたエルザが教えてくれたところによると、実は彼女は貴族の子であり、両親は果し合いで別のメイジに殺された。そのショックでメイジであることを捨て、家を飛び出していたらしいが、このままにしておくわけにはいかないから』ということにしておいた。

 彼は大切に育てていた少女と離れねばならないことをひどく悲しんだものの、元々貴族であるならばそうしたほうが本人のためになるだろうということで納得してくれた。

 

『エルザや、元気ですごすんじゃぞ。立派な貴族になったら、いつかまたこの村を訪ねておくれ。それまでは、わしも死なずに待っておるからな』

 

 村長は最後にエルザが折ったいくつかの紙細工を大切そうに受け取ると、涙ぐみながらそう言って彼女を抱きしめた。

 先に味わった恐怖のせいでいささか魂が抜けたようになっていたエルザは、これまでずっと世話になった人間には一言も残さずにただ姿を晦ますような別れ方しかしてこなかったためか、その温かい抱擁にやや困惑したような様子だった。

 

 いずれにせよ、それですべてが片付いて、後は王宮へ報告した後、学院へ戻るだけとなったわけだ。

 

 

 

「うむ。真偽はどうあれ、結果がよければそれに越したことはないからのう……」

 

 瑠螺はそう言って微笑むと、シルフィードの背に体を預け、久し振りに少し睡眠をとっておこうかと目を閉じた……。

 





封妖壺(ふうようこ):
 降伏した妖怪や邪仙、倒した怪物などを封じ込めておくことができる仙宝。
通常は、小さな壺の形をしている。
相手が同意しているか、完全に打ちのめされて抵抗力を失っているのでなければ封印はできない。
主に、倒すと復活する可能性のある敵を逃がさないために用いられる。
 なお、『西遊記』における金角・銀角のひょうたん(紫金紅葫蘆)のように、その意思がないものでも吸い込めるようなより強力な封妖壺も存在している。

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